2021/10/30 - 2021/10/30
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この旅行記のスケジュール
2021/10/30
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この旅行記スケジュールを元に
2021年秋、緊急事態宣言が開け、関西に城巡りに出かけました。 2020年の11月末の予定がノビノビになり5度目の正直!の旅でした。
https://4travel.jp/travelogue/11780338 の続編です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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(写真) 10:47 近江八幡、琵琶湖線#2,3 プラットホーム
☆The Second Day ☆ 10月31日(日)近江八幡駅 駅
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(写真) 10:58近江八幡発の琵琶湖線快速・加古川行き車内。
10:57近江八幡発の琵琶湖線快速・加古川行きは日曜日のお出かけタイムにも関わらず空いていて、2から3分の1の乗車率だった。が石山ではいつの間にか9割の席が埋まっていた。コロナ禍の為か空席に座らず立ったままの人もいた。 -
(写真)11:55 京都駅前バスのりばB1 #9 二条城・西賀茂車庫 行き
11:37 京都駅着
京都駅バスチケットセンター バス総合案内所
日曜日の正午近くなのでバス車内でのバス1日乗車券は売り切れているかもしれないと思い 烏丸口のチケットセンターで1日券購入。¥700。
法華クラブに荷物を預け、
京都駅前バスのりばB1 #9 堀川通 二条城・西賀茂車庫 行き 12:03 - 12:20
◎バス1日乗車券 ¥700。京都駅 駅
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(写真) 12:25 ▽▲二条城▽▲ 大手門
12:24 入城券+二の丸御殿観覧券 \1,030 cc払い
◎ 入城券+二の丸御殿観覧券 \1,030元離宮二条城 名所・史跡
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(写真)12:27 ▽▲二条城▽▲ 番所 説明板
「全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物」 -
(写真) 12:29 ▽▲二条城▽▲ 東南隅櫓[重要文化財]
☆二条城の外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建てられ、普段は武器庫として使われていました。1788年(天明8年)の大火で多くの櫓が焼失してしまい、今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみです。
*二条城パンフレット 城内マップ② -
(写真)12:32 ▽▲二条城▽▲ 唐門[重要文化財]
☆二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、桧皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が付きます。門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾ります。2013年(平成25年)の修復工事によって、往時の姿によみがえりました。*二条城パンフレット 城内マップ③ -
(写真)12:34 ▽▲二条城▽▲ 二の丸御殿[国宝]
☆東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿です。部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されています。*二条城パンフレット 城内マップ④
御殿内は撮影禁止の為内部の写真はありません。 -
(写真)12:35 ▽▲二条城▽▲
国宝 二の丸御殿説明板 -
(写真)13:06 ▽▲二条城▽▲ 二の丸御殿
車寄せの欄間の装飾
彫刻は5羽の鳳凰と菊に牡丹でしょうか? -
(写真)12:34 ▽▲二条城▽▲ 釣鐘
☆緊急事態を知らせるために使われた釣鐘
鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる。 *釣鐘の説明板 -
イチオシ
(写真)13:14 ▽▲二条城▽▲ 二の丸庭園[特別名勝]
☆二の丸庭園[特別名勝]
池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園です。1626年(寛永3年)の後水尾天皇行幸のために行事奉行・小堀遠州のもとで改修されました。二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿(★)の3方向から鑑賞できるように工夫されています。*二条城パンフレット 城内マップ⑤
★行幸御殿は移築さた。*https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/history/ -
(写真)13:14 ▽▲二条城▽▲
二の丸御殿の鬼瓦は丸に三つ葉葵紋、徳川家家紋。
瓦の部首の呼び名は下記サイトの写真を参照下さい。 https://www.isan-no-sekai.jp/column/1222 -
(写真) 13:19 ▽▲二条城▽▲ 本丸櫓門
☆重要文化財 本丸櫓門
寛永3年(1626)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに
本丸を防御する重要な門である。戦時には木橋を落として敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。本丸には井戸や米蔵もあるので、籠城戦の備えもできている。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えである。また、寛永行幸の際には天皇は2回天守に登られたが、その時の木橋
は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれた。天守へ登
られた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。その2階橋の一部は、昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。 *重要文化財 本丸櫓門 説明板 -
(写真) 13:29 ▽▲二条城▽▲ 天守台より東方向
内堀の右奥の入母屋造りの白い建物は桃山門。その向こうは二の丸御殿。その向こうの横長の白いビルはANA・クラウン・プラザ。
☆天守閣跡
二条城の天守閣は、寛永3年(1626)、伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427㎡である。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。 *天守閣跡説明板 -
(写真)13:39 ▽▲二条城▽▲
切り込み接ぎ布積みの美しい石垣。本丸西橋そば。
◎缶ポタージュ \130 -
(写真)13:46 ▽▲二条城▽▲
移築された旧二条城の石垣 -
(写真)13:45 ▽▲二条城▽▲
旧二条城の推定図
(移築された旧二条城の石垣説明板の下部より)
☆移築された旧二条城の石垣
永禄12年(1569)、織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を守るために築いた城の石垣である。元亀4年(1573)、織田信長と対立した足利義昭は追放され、城は解体されて一
部は安土城の建設に使われるなどした。解体された城は一般的に旧二条城と呼ばれるが学術的な確証はない。京都市
営地下鉄烏丸線建築事前発掘調査で、京都御所の西から遺跡が発見され、調査後★下図B(烏丸下立売付近)のものが二条城と京都御苑に移築保存された。築城当時、日本で活動していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスの記録『日本史』には“石材が不足していたので代わりに石仏などを粉砕したものが利用された”と記されているが、それは実際にこの石垣で確認されている。 *移築された旧二条城
の石垣説明板
★下図Bは旧二条城の推定図写真を確認下さい。 -
(写真)13:57 ▽▲二条城▽▲ 土蔵(/米蔵)
☆重要文化財 土蔵(北)(米蔵)
本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内部の鉄格子には銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条
城では他にない。窓は南(★)・東・西の3方に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない。*説明板
南(★)は消されていましたが、3方が2方になっていません(?_?) -
(写真) 14:00 ▽▲二条城▽▲ 北中仕切門
☆重要文化財 北中仕切門
内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門」と呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。*説明板 -
(写真)14:01 ▽▲二条城▽▲ 清流園
加茂七石 -
(写真) 14:05 ▽▲二条城▽▲ 清流園銘石。
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(写真) 14:06 ▽▲二条城▽▲ 清流園 説明板。
-
(写真) 14:15 二条城前バス停。
御所まで歩いても良いが、歩き疲れているので一駅だけバスに乗る。 -
(写真) 14:24 堀川丸太町バス停。
御所方向のバス乗り場は市道187号沿いにあります。 -
(写真) 14:34 ▽▲京都御苑▽▲ 案内図
烏丸丸太町バス停でバスを降り、14:33 京都御苑に着きました。案内図で御所の場所は分かったので、少し寄り道。京都御苑 公園・植物園
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(写真) 14:36 ▽▲京都御苑▽▲ 京都御苑総合案内所
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▽▲京都御苑▽▲ 立派な四脚門を潜る。
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(写真) 14:38 ▽▲京都御苑▽▲
宗像(むなかた)神社 駒札
☆宗像(むなかた)神社
本社は、宗像三女神、即ち多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、市岐嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)を主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴(みちぬしのむち)」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神(交通・運送の神)、また海の神(出産、生産、産業・文化の神)として信仰されている。
この地はもと小一条殿(こいちじょうでん)(文徳天皇皇后明子(あきらけいこ)の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。
社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦十四年(七九五)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されたと伝えられる。その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。
明治維新までは花山院家(かざんいんけ)の邸地となり、本社もその邸内にあったが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残った。境内には樹齢六百年といわれる京都御苑内最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿(ししんでん)の左近の桜を拝領したものである。また「葉書」の語源となったとも言われる「多羅葉(たらよう)」の樹が社殿正面にある。境内社として花山稲荷社、京都観光神社、少将井社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮がある。 京都市 -
(写真) 14:39 ▽▲京都御苑▽▲ 花山院邸跡石碑。
邸内社は江戸期より公開。
旧邸内社 火山稲荷 大火にて当邸宅は焼けず高い火災除けの御神徳。 -
▽▲京都御苑▽▲ 宗像神社石碑。
宗像神社 (京都御苑内) 寺・神社・教会
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▽▲京都御苑▽▲
正一位花山稲荷大明神 花山院家 邸内社 駒札。 -
▽▲京都御苑▽▲ 花山稲荷大明神。
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(写真) 14:40 ▽▲京都御苑▽▲
元紫宸殿 左近之桜 駒札
朧夜に散るや左近の桜花
宮居の夢を枝にのこして
詠人は 青隴 ? -
(写真) 14:41 ▽▲京都御苑▽▲ 宗像神社
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(写真)14:41▽▲京都御苑▽▲ 豊栄の庭。
竣工:2016年9月11日 作庭:井上修造園 -
(写真)14:42 ▽▲京都御苑▽▲ 花山院家由緒。
上部に菖蒲菱(あやめびし)の家紋が掘られている。 -
(写真)14:44 ▽▲京都御苑▽▲ 厳島神社 由来 駒札。
厳島神社 (京都御苑内) 寺・神社・教会
-
(写真)14:45▽▲京都御苑▽▲ コムラサキ。
-
(写真)14:45 ▽▲京都御苑▽▲
平 清盛建立。 唐破風鳥居。 重要美術品。 -
(写真)14:48 ▽▲京都御苑▽▲
破風形の鳥居の由緒書き。 -
(写真)14:49 ▽▲京都御苑▽▲
鷺でしょうか? -
(写真)14:51▽▲京都御苑▽▲ 九条邸跡 駒札。
「九条家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が・・・摂政や関白につきました。・・・広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の 拾翠亭と、九条邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。」 -
(写真)14:51 ▽▲京都御苑▽▲
拾翠亭は工事中。 -
(写真)14:53 ▽▲京都御苑▽▲
京都御苑の案内板、歴史の部分を切り取る。 -
(写真)15:00 ▽▲京都御苑▽▲ 凝華洞跡 駒札。
「・・・丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。」 -
(写真)15:01 ▽▲京都御苑▽▲
漸く御所の入口発見とおもったのですが、 -
(写真)15:03 ▽▲京都御苑▽▲
どこから入るのでしょうか? 写真のご夫婦には御所には入れないと言われるし。他の人も御所には入れないと言う。 -
(写真)15:05 ▽▲京都御所▽▲ 建礼門
でも自分を信じて、息子さんに門(建礼門だったのですね)の説明をしていた歴史通のパパに聞いてみる。
☆建礼門
京都御所の南向きにある正門である。かつては即位の礼など紫宸殿で行われる重要な儀式のときに開かれた。現在は、天皇陛下及び国賓が来られた際にのみ使用される格式高い門である。*京都御所リーフレット -
(写真)15:07▽▲京都御所▽▲ 南面の築地塀
この塀に沿ってズット進み右に曲がった所が入口の清所門だそうだ。力を振り絞りメイッパイ速足で清所門へ。
前のブログを読んで下さった方には重複になりますが、この日は早朝から近江八幡の長命寺の急勾配な808段石段を雨にも負けず徒歩で往復しているのです。そして二条城。御所に行くのがこんなに大変とは予想だにしていない( ;∀;) -
(写真) 15:16 ▽▲京都御所▽▲ 新御車寄
菊の御紋が目立ちます
15:20までが入場可の時間。危ない所でした。警備の人に4時には外に出なくてはならないと言われた。
☆新御車寄
大正4(1915)年、大正天皇の即位礼が紫宸殿で行われるに際し、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものである。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏
まえて南向きに建てられている。*説明板/京都御所リーフ
レット -
(写真) 15:20 ▽▲京都御所▽▲ 紫宸殿
☆紫宸殿
京都御所において尤も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式がここで行われた。平安時代の紫宸殿は寝殿造の原型として多くの貴族住宅に影響を与えた。この建物は安政2(1855)年の造営であるが、伝統的な儀式が行えるように平安時代の復古様式で建てられている。慶応4(1868)年には「五箇条の御誓文」の舞台ともなった。明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼はこの建物内で行われた。回廊に囲まれた南庭(だんてい)は儀式の場として重要な役割をもっており、紫宸殿上から見て左側の「左近の桜」、右側に 「右近の橘」が配されている。*説明板/京都御所リーフレット京都御所 名所・史跡
-
(写真) 15:25 ▽▲京都御所▽▲ 日華門
向かいの門は月華門、左側に承明門(建礼門に続く)。紫宸殿は日華門を潜って右側。南庭(だんてい)、広大でした。 -
(写真) 15:25 ▽▲京都御所▽▲ 小御所
☆小御所(こごしょ)
鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は武家との対面や儀式の場として使用された。明治維新の際には、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名である。上段・中段・下段の3室のまわりに広い板敷(廂)が付き、様々な儀式に対応できる実用的な建物であった。
昭和29(1954)年に焼失し、昭和33(1958)年に復元された。*説明板 -
(写真) 15:26 ▽▲京都御所▽▲ 蹴鞠の庭
☆蹴鞠の庭
蹴鞠とは、革製の毬を地面に落とすことなく、蹴り続ける伝統的な球技です。
その歴史は古く、古代以来、主として公家社会で伝えられ、武士や庶民などにも広がりました。
蹴鞠は、勝敗を争うものではなく、いかに蹴りやすい毬を相手に渡すかという精神のもと行われるものです。
この場所で行われた蹴鞠の催しを御学問所から天皇が御覧になったという記録があります。 *説明板 -
イチオシ
(写真) 15:29▽▲京都御所▽▲ 御内庭
☆御内庭
曲折した遣り水を流して、所々に土橋や石橋を架け、灯篭や庭石を配した風雅な御庭である。*京都御所リーフレット -
(写真) 15:32▽▲京都御所▽▲
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(写真) 15:32▽▲京都御所▽▲
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(写真) 15:34 ▽▲京都御所▽▲
30分程で全部眺めて来ました(^^)/ 警備のオジサンに「速かったですね。」と言われドヤ顔。 -
(写真) 15:52 烏丸丸太町バス停着。
帰りは迷わずバス停に。ここから清水寺に行くのも可能でしたが、疲れているので無理かなと諦める。又この後3か所のスポットを余り歩かずに回るにはバスの乗り放題券が便利なので清水寺は翌朝とする。
16:06 #10 四条河原町行き烏丸丸太町発。 -
(写真) 16:17 河原町御池。
16:16 4駅で河原町御池バス停着。 -
(写真)16:19 ▽▲本能寺▽▲ 河原町通りから本能寺の入口は裏門でとても狭いが、贈正一位織田信長公御廟所の石碑の上に白字に黒でハッキリ法華宗大本山本?寺の看板が建っているので分かり易い。
*▽▲本能寺▽▲ 能の作りを全て去にしたいのですが、?に化けてしまう箇所がでます。?となった場合は能で書き直しました。 -
(写真)16:19 ▽▲本能寺▽▲
路地の向こうに 「火伏せのイチョウ」が見える。
16:19 本能寺着。 -
(写真) 16:20 ▽▲本能寺▽▲ 信長公三百五十年記念碑。
-
(写真) 16:20 ▽▲本能寺▽▲ 信長公廟駒札。
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(写真) 16:20 ▽▲本能寺▽▲ 信長公廟
路地を進んで右手に信長公廟があった。
「この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている」*信長公廟駒札 -
(写真) 16:20 ▽▲本能寺▽▲
信長公供養塔と本能寺の変戦没者合祀墓(右手)。
合祀墓の前に「天正事変戦死陣没者(信長公と共に戦った方々 森蘭丸など)の塔婆供養をあなたの名前でしてみませんか?」とコマーシャル。 塔婆 1枚500円です。 -
(写真) 16:25 ▽▲本能寺▽▲ 本堂の軒丸瓦。本能寺家紋の結び雁金でしょうか?
-
(写真) 16:36 ▽▲本能寺▽▲ 本堂
向かって右の提灯には結び雁金の寺紋、左
の提灯には 鶴の丸の寺紋が描かれている。本能寺 寺・神社・教会
-
(写真) 16:31 ▽▲本能寺▽▲ 火伏せのイチョウ。
-
(写真) 16:31 ▽▲本䏻寺▽▲ イチョウ説明板
☆京都市指定保存樹 イチョウ
平成16年3月指定
信長廟のそばに育つこのイチョウは、本能寺の変の後、この場所に移植したものと伝えられたいます。「天明の大火(1788年)」で市中が猛火に襲われたとき、イチョウから水が噴き出し、木の下に実を寄せていた人びとを救ったという言い伝えから、「火伏せのイチョウ」として大切に守られています。 -
(写真) 16:31 ▽▲本䏻寺▽▲ 浦上玉堂、浦上春琴説明板。
墓石を撮るのを忘れた(>_<) 火伏せのイチョウより裏門寄りにある。 -
(写真) 16:37 ▽▲本䏻寺▽▲ 表札
現在本能寺の「能」は「䏻に替えて使用している
度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い為䏻
ものです。」 *https://www.kyoto-honnouji.jp/ -
(写真) 16:38 ▽▲本䏻寺▽▲ 山門。
-
(写真) 16:39 ▽▲本䏻寺▽▲ 信長公廟石碑。
-
(写真) 16:39 ▽▲本䏻寺▽▲ 日蓮聖人像。
-
▽▲本䏻寺▽▲ 大本山本䏻寺石碑。
-
(写真) 16:40 ▽▲本䏻寺▽▲ 本能寺駒札
法華宗本門流の大本山で、応永二十二年(一四
一五)、日上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享五年(一四
三三)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改
め、更に天文十四年(一五四五)、油小路蛸薬師
一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正十年(一五八二)、織田信長が明
智光秀によって襲撃され(本能寺の変)、自刃し
たところとして世に名高いが、その折、三十余り
の宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、
豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(一五八
九)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期
に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、
現在の本堂は昭和三年(一九二八)に再建された
ものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻
等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及び
その側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画
家浦上玉堂父子の墓などがある。
京都市 -
(写真) 16:40 ▽▲本䏻寺▽▲ 本能寺駒札
朝鮮通信使ゆかりの地
16:40 本能寺発 -
(写真) 16:42 ▽▲寺町通り▽▲ 寺町アーケード
歴女のYさんに現在地の本能寺に行っても歴史的なものは感じられないが、そこから寺町通り、裏寺町通りそして先斗町を散歩するのがお薦めと言われる。先斗町まで行く時間はないが、秀吉が防御のためにお寺を一カ所に集めた通りと教えられては行くしかない。 -
(写真) 16:43 ▽▲寺町通り▽▲
浄土宗 天性寺 山門
門の両脇に大きなバイクが止まっていました。 -
(写真) 16:44 ▽▲寺町通り▽▲
浄土宗 天性寺 石畳の参道。
写真奥に小さく写る鳥居を潜ると大和天河弁財天。チラッと見たような(>_<) -
(写真) 16:44 ▽▲寺町通り▽▲
浄土宗 天性寺。
境内が余りに普段ポク、由緒あるお寺とは思いもせず。室町時代(1521-1527)に建立されたそうです。下記参照下さい。 *https://www.kyotofukoh.jp/report1180.htm -
(写真) 16:45 ▽▲寺町通り▽▲
浄土宗 天性寺 鐘楼。
商店街にあることを忘れてしまう程ヒッソリしていた。 -
(写真) 16:47 ▽▲寺町通り▽▲
矢田地蔵尊。 隣は三条寺町交番。
沢山の提灯が灯っていてまるでお祭りのようでした。
☆寺町通
豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。*Wikipedia
様々な宗派の寺が立ち並んでいた。 -
(写真) 16:57 山脇東洋解剖碑所在墓地
ストリートビューで予習した時、 山脇東洋解剖碑所在墓地の石碑が気になりこちらから裏寺町通りへ。裏寺町通は六角通の北からとあるので、こちらも裏寺町通りにあたるのか? ルート検索を使うと六角通北の裏寺町通りに続くこの道は不明な道となる。
本能寺から本能寺跡の石碑を見に行くには裏寺町通りに来ると遠回りとなります。私は一日バス券があるので券をフル活用でした。 -
山脇東洋解剖碑所在墓地の石碑を見ただけで満足したのですが、こちらは誓願寺墓地の入口で墓地には山脇東洋夫妻の墓と解剖供養碑があるそうです。この石碑が墓地の入口とは!中に入るには誓願寺で許可書を貰う必要があるそうです。*https://www.station-dc.com/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/1529.html
★山脇 東洋(1706ー1762)。江戸時代の医学者。長らく禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行い、その記録を公表した「親試実験」主義の先駆者の一人。*Wikipedia -
(写真) 16:58
お寺ばかりですが、印象は住宅街。 -
(写真) 16:59▽▲裏寺町通り▽▲ 長仙院
☆裏寺町通
は京都市の南北の通りの一つ。六角通の北から四条通までの比較的短い通りである。 *Wikipedia -
(写真) 17:00 ▽▲寺町通り▽▲
誓願寺(大きな仏像で有名だそうです)。裏寺町通りから見たのみ。 -
▽▲裏寺町通り▽▲頂源院。
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(写真) 17:01 ▽▲裏寺町通り▽▲ 大善寺。
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(写真) 17:02 ▽▲裏寺町通り▽▲ 光明寺。
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(写真) 17:02 ▽▲裏寺町通り▽▲ 宝蔵寺。
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(写真) 17:03 ▽▲裏寺町通り▽▲ 宝蔵寺駒札
☆宝蔵寺
宝蔵寺は、浄土宗西山深草派本山誓願寺に属する。
本尊の阿弥陀如来立像は、元禄十三年(一七〇〇)の作。
弘法大師空海の創立と伝えられ、文永六年(一二六九)、
如輪上人により元西壬生郷に開基された。天正九年(一
五八一)に玉阿律師によって中興再建された後、天正十九
年(一五九一)に豊臣秀吉の寺町整備により、現在の裏
寺町に移転した。天明八年(一七八八)「天明の大火」
と元治元年(一八六四)「禁門の変」の際の火災により
全焼。現在の堂宇は昭和七年(一九三二)に建立された。
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)
の菩提寺で、若冲が建立した父母の墓石、末弟・宗寂の
墓碑が残り、次弟・白歳の墓碑も建てられている。若冲
は、当時の京都画壇を代表する画家であり、また生家の
あった錦市場が営業停止になったとき、弟の白歳とともに、
再開に向け力を尽くした人物。代表作に「動植綵絵三十
幅」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)がある。
若冲の誕生日に当たる二月八日には、毎年生誕会を
催し、併せて宝蔵寺所蔵の若冲四十代前半頃に描かれ
た初期作品「竹に雄鶏図」や白歳筆「羅漢図」などを
一般公開している。 -
▽▲裏寺町通り▽▲ 宝蔵寺石碑。
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(写真) 17:04 ▽▲裏寺町通り▽▲ 法界寺。
安土桃山時代中頃創立。天正19年(1591)善空道阿により開山。天明8年(1788)の火災、元治元年(1864)の兵火で全焼。明治12年(1879)復興。昭和11年(1963)庫裏を新築、本堂改修。 *http://www.houkaiji.net/p002.html -
▽▲裏寺町通り▽▲ 法界寺。
亀の飾り瓦左側は「吽の口」。 -
▽▲裏寺町通り▽▲ 法界寺。
亀の飾り瓦右側は「阿の口」。 -
(写真) 17:05 ▽▲裏寺町通り▽▲ 極楽寺。
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(写真) 17:06 ▽▲裏寺町通り▽▲ 妙心寺。
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(写真) 17:06 ▽▲裏寺町通り▽▲ 妙心寺。
山門の右側に醒井地蔵尊の石碑が建っていた。 -
(写真) 17:07 蛸薬師通り。
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蛸薬師通り。
賑やかな蛸薬師通りを渡ると -
(写真) 17:09▽ ▲裏寺町通り▽▲ 赤門正覚寺。
左角に赤門正覚寺のビルがあった。ビルの右角、裏寺町通りを少し入った所に赤い山門があった。山門の鎧瓦は「左の縦の線のない正」と三つ葉。屋根の飾り、何の動物かな?と調べてみましたが、浪の飾り瓦らしいです。*https://4travel.jp/travelogue/10476685 *https://4travel.jp/travelogue/10396619 -
(写真) 17:10▽▲裏寺町通り▽▲
山門の奥には 白蛇弁財天の提灯がかかっていた。 -
(写真) 17:09 ▽▲裏寺町通り▽▲
鬼瓦と桃の実の飾り瓦。正覚寺前の常楽寺。 -
(写真) 17:10 ▽▲裏寺町通り▽▲
梅の花の鬼瓦。正覚寺隣の名前不明のお寺(or民家)。 -
(写真) 17:11 ▽▲裏寺町通り▽▲
西導寺。 -
(写真) 17:11 ▽▲裏寺町通り▽▲
西導寺の鬼瓦と獅子の飾り瓦。 -
(写真) 17:13 ▽▲裏寺町通り▽▲
浄心寺。鬼瓦と獅子の飾り瓦。 薄暗くなっていたのでピントが合わず苦労しました。 -
▽▲裏寺町通り▽▲ 浄心寺。
右側の鬼は「阿の口」。 -
▽▲裏寺町通り▽▲ 浄心寺。
左側の鬼は「吽の口」となっていた。 -
(写真) 17:18 四条河原町バス停。
17:18 四条河原町バス停着。 -
(写真) 17:19 四条河原町通り。
河原町通りはとても混んでいた。
四条河原町から四条堀川までバスに乗り本能寺跡石碑へ向かう。 四条河原町から市営#3,11,46,201乙,207甲 の何れかで4駅。 -
(写真) 17:34 四条堀川バス停B乗り場。
四条堀川バス停着。 -
(写真) 17:38 手前は四条通り。写真正面たこ壱の右横の道が油小路通り。
四条通りを渡り油小路通りを進む。 -
(写真) 17:44 本䏻寺跡説明石碑
油小路通りを進むと右手に堀川校本能学舎。その隣が本䏻寺跡の石碑ストリートビューで予習済みだったので迷わずいけました(^^♪ が、暗くて説明板の文字が鮮明に写せず。
☆本䏻寺跡記
応永二十二年(一四一五)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(一四二九)小袖屋宗句の外護により、町端に再建、次いで永享五年(一四三三)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移轉 再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文五年(一五三六)天文法乱によって焼失、天文十四年(一五四五)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移轉、壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正十年(一五八二)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正十七年(一五八九)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移轉を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙すと。因みに「本能寺」は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「䏻」と書くのが慣わしである。
大本山 本䏻寺本能寺跡 名所・史跡
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(写真) 17:46 此附近 本能寺跡 石碑
「此附近 本能寺跡」の石碑は油小路通りをもう少し進みポストを右折して蛸薬師通りを進む。小川通りと蛸薬師通りの角にあります。
降りたバス停でなく、堀川蛸薬師からバスで堀川下立売へ。
蛸薬師通りをポストを背にして真っすぐ 西に進む。堀川通り横断歩道を渡り左手の堀川蛸薬師バス停17:53着。17:56発バスに乗る。#9か#50のどちらに乗ったかは失念。 -
(写真) 18:05 堀川下立売(しもたちうり)
5つ目の堀川下立売バス停で下車し、堀川通りを渡る。 -
(写真) 18:06 下立売橋を渡ります。
下立売り通りは大通りですが暗くて不安でした。 -
(写真) 18:17 旧二條城跡 平安女学院
下立売り通りを御所に向かって進む。徒歩8分とあったが10分かかった。右側の平安女学院の右手レンガ色の建物の前に旧二条城跡の石碑と説明板があります。御所の直ぐそばなので、御所の帰りに寄った方がよいのですが閉門時間がない石碑は最後に。こちらもストリートビューで予習済みで迷うこと無し。ライトが点いていたので写真も難なく写せた。旧二条城跡 名所・史跡
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旧二条城説明板
☆旧二条城
永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・
足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水
・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より)その
後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に
旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再
利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
所在地:京都市上京区烏丸下立売
築城者:織田信長
形式:平城
築城年:1569年(永禄12年)
学校法人 平安女学院 -
(写真) 18:26 堀川下立売横断歩道。
旧二條城跡 より京都駅へは丸太町から烏丸線の方が早いがバス1日乗車券があるので。 -
(写真) 18:27 堀川下立売バス停着。A乗り場。
早朝の長命寺からの強攻スケジュールを全てクリアーでき満足(^^♪ -
(写真) 18:36 京都行バスが堀川下立売バス停に来る。
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(写真) 19:05 サケイクラ茶ズケセット レストランだし茶漬け えん 京都ポルタ店
昼ご飯をパスしたので、もう我慢できず京都駅中のレストランだし茶漬け えん 京都ポルタ店でだし茶漬けを食べる。食券を買う必要があった。ビールがないなら入らないつもりだったのですが、ありました。エビスビールが。疲労困憊で沢山飲むのは心配なので小を一杯だけ。味どちらも普通かな。混んでました。
◎サケイクラ茶ズケセット+えびす小ビール=\1,340 -
(写真) 19:31法華クラブシングル客室。
法華クラブにチェックイン後 近くのFamily Mart 京都タワー前店でビール、朝食を買い、20:00頃ホテルへ戻る。
ナガーイ1日の終了。2日目 23,614歩
◎ホテル法華クラブ素泊まり \3,900
ビール、ジュース、パン \508
まとまりのない古い旅行記にお付き合い下さり、有難うございました。
3日目早朝、清水寺観光に続きます。
2023.2.28 パッピーホテル法華クラブ京都 宿・ホテル
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