2021/10/30 - 2021/10/31
125位(同エリア1107件中)
パッピーさん
この旅行記のスケジュール
2021/10/30
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電車での移動
ひかり501→名古屋乗り換え 9:19発ひかり633→米原乗り換え 9:59発東海道線
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徒歩での移動
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徒歩での移動
10:28→10:40
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徒歩での移動
10:53 →10:58
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徒歩での移動
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徒歩での移動
13:13 →13:19
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徒歩での移動
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徒歩での移動
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電車での移動
14:35 琵琶湖線網干行き→14:56
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近江八幡駅
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ABホテル近江八幡
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バスでの移動
15:15 近江鉄道バス 長命寺行き #6バス停→15:21
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大杉町バス停
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徒歩での移動
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その他での移動
八幡山ロープウェイ 15:30→15:35
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徒歩での移動
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八幡山城西の丸跡
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本山村雲御所 瑞龍寺門跡 16:07
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徒歩での移動
16:15→16:20
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その他での移動
八幡山ロープウェイ 16:21→16:26
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日牟禮八幡宮 16:29→16:40
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徒歩での移動
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白雲館
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八幡掘 16:54→ 17:00
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大杉町バス停
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バスでの移動
スイカ支払可
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近江八幡駅
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ABホテル近江八幡
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ごきげんえびす 17:46→ 18:16
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この旅行記スケジュールを元に
2021年秋、緊急事態宣言が開け、関西に城巡りに出かけました。 2020年の11月末の予定がノビノビになり5度目の正直!の旅でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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(写真) 7:51 新幹線より 富士山に見送られ関西のお城にいざ出陣!
★旅の出費
移動 16,740円
宿泊 5,400円
観光 2,000円
食事 3,503円
合計 27,973円
★出費内訳
☆移動費
10/30
東京~竹田 乗車券 ¥9,790
東京~米原 新幹線普通 ¥4,620
近江八幡~大杉町 バス代×2 ¥440
八幡山ロープウェイ往復 ¥890
10/31
近江八幡~長命寺 バス代×2¥1,000
☆宿泊費
10/30
ABホテル近江八幡 13㎡ バスタブなし ¥5,400
☆食事代
10/30
クルミごま豆乳つけ蕎麦 ¥1,100
ビール、オデン等 ¥2,403
☆観光費
10/30
埋木舎 ¥300
彦根城セット券 ¥1,200
10/31
長命寺本堂内陣特別公開 ¥500
☆その他
10/30
コインロッカー代 \300
お賽銭 \30
………………………………………………………………
☆The First Day ☆ 10月30日(土)
6:52 東京駅着。 竹田まで乗車券を買い途中下車をするので、地元駅でスイカをタッチしないように要注意!! 緊急事態宣言が開けたばかりの週末だったので早めに東京駅着。
地元の急行電車で早朝にも拘わらず座れなかったので、予定より早い新幹線ひかり501で空席があったので慌てて乗る。 名古屋で乗り換えてその後座れなかったらどうするの? と車内でチョット後悔。 米原に止まる新幹線の数は少ないので要注意。
名古屋に着いた次の新幹線(これは米原には止まりません)は混んでいたので、名古屋9:19発 ひかり633 座れるかな? 無事に座れました。 新幹線には30年近く乗った事がないので(通算して10回乗ったかな?) 飛行機に乗るより心配が尽きなかった。
彦根駅でYさんと待ち合わせなので、上手く乗り継げるよう車内で車掌さんに教えて貰う。 9:53 米原着 9:59 米原発 -
(上写真) 10:21 (下写真) 10:24 護国神社
10:04 彦根着 Yさんとは連絡は取り合うも8年以上会っていなかったが、一瞬にして学生時代にタイムスリップ(^^♪ コインロッカーに荷物を預け彦根城へ。¥300。
10:21 護国神社着。 -
(写真) 10:30 井伊直弼歌碑 「いろは松」のそば。
「あふみの海 磯うつ浪の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな」
直弼は、この二カ月後の三月三日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
を読んでこれはどうしても写しておかなければと思いました。
44歳(数え年46歳)の若さで暗殺されたとは。 -
(写真) 10:32 彦根城佐和口多門櫓 埋木舎の入口より
遠くに白鳥がいるのが見えますか? -
(写真) 10:41 彦根藩武術乗馬訓練の図 埋木舎
埋木舎は大河ドラマ「花の生涯」で主舞台となった。
入館料 \300
埋木舎について詳細は御当主の下記ホームページを参照ください。*https://www.umoreginoya.com/ -
(写真) 10:43 埋木舎座敷
☆埋木舎(うもれぎのや)
「井伊直弼は文化十二年 (1815), 11代藩主井伊直中の十四男として誕生。五才で母を、十七才で父を失ったので藩の掟に従い三百俵の捨扶持で彦根城佐和口御門前の公館で、三十二才までの15年間を暮らすこととなる。
世の中をよそに見つつも埋れ木の
埋もれておらむ心なき身は
直弼は和歌を詠じて、この館を「埋木舎」と号した。
・・・文武両道の修練を一日4時間眠るだけで足ると埋木舎で励んだ。・・・」
*埋木舎リーフレット -
(写真) 10:48 澍露軒
埋木舎当主の大久保先生が特別に茶室を見せて下さった。 別に頼んだ訳ではないのですが、歴女にはお見せしますですって(?_?) いつから歴女になったんだ! でもバックパック姿でモサイ髪型のオババを見たら勘違いしますよね。 ので慌てて美形歴女のYさんを呼ぶ。 -
(写真) 10:53 開国記念館。 佐和口多聞櫓を再現した。
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(写真) 11:03 開国記念館内
10:59 開国記念館着
無料。「開国記念館」は、昭和35年(1960年)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したもの。*https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/rekishi_machizukuri/8/2_1/3/4584.html -
馬屋 (重要文化財)
(上写真) 11:08 馬繋ぎの上に飾られた「猿耳」
(下写真) 11:07 馬屋に馬の像がおかれ構造が分かるよう、説明板に記されていた。
☆猿耳
「・・・馬屋に猿の彫刻がされているのは、猿が昔から馬を守る生き物で、馬屋の守り神とされてしんこうされてきたため・・・」 *説明板
☆馬屋の構造
「馬の居る馬立場は、前方の馬つなぎ柱2本と、後方の押柱2本で区画されています。前方の馬つなぎ柱には、手綱遠しの金具が上下2段に設けられており、ここに馬の手綱を縛りつけました。また、上部には桁を私、一対の猿耳を取り付けて馬の胴部に回す腹掛けを固定していました。
一方、床は板張りとなっていますが、その下を擂鉢状の漆喰製叩きとし、もっとも低くなる中央に甕を1つ配しています。馬の排泄物を処理し易くするための工夫です。」 *説明板
☆彦根城馬屋
「・・・城内の馬屋が今まで残っている例は、ほかでみられないめずらしいもの・・・」
*入口の重要文化財(建造物)彦根城馬屋で始まる、昭和43年9月教育委員会記の説明板 -
(写真) 11:36能舞台 (彦根城博物館)
彦根城(玄宮園を含む)と博物館のセット券 \1,200。
11:30 彦根城博物館着 -
(写真) 11:39復元された池泉庭園 (彦根城博物館)
博物館には能舞台と日本庭園があった事と、沢山のリーフレットを手に入れたこと位しか覚えていない。 -
彦根城
(写真) 12:00 廊下橋
非常時にはこの橋を落とし、敵の侵入を防いだ。*「るるぶ滋賀びわ湖'22 」p.63
天秤櫓の写真を撮ったつもりでしたが、廊下橋でした(>_<) 天秤櫓は写真の右側の建物のようです。説明板の近くの写真を撮ったのですが、よく分からずに写してしまいました。
次のホームページの写真をご覧下さい。 *http://hikone-410th.com/castle/tenbin
☆天秤櫓 重要文化財 (*説明板&リーフレット)
豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれるもので、天秤のような形をしているので天秤櫓と呼ばれる。この形式は我が国城郭のうち彦根城ただ一つといわれる。左(/東)側が江戸後期の改修による落とし積み、右(/西)側が築城当時(/慶長)の打ち込みハギ積み。
天守への山道の石段見かけは左程でもないのですが、チョット辛かったので何故かと思えば、「一段ごとに踏み幅や高さを変えており、登りづらい設計となっている。」そうです。「敵の歩調を乱すことで侵攻のスピードを鈍らせる」狙いでした。 *「名城の石垣図鑑」 大和田哲郎監修 p.97 -
彦根城
(写真) 12:01 天秤櫓 築城当時(/慶長)の打ち込みハギ積み
青空と白い雲をバックに草の生えるにまかせた石垣が美しく写真を撮りました。 -
彦根城
(写真) 12:17 彦根城天守から琵琶湖 -
(写真) 12:17 隠狭間
「天守内には82箇所もの鉄砲、矢狭間を備える。平時は外から見えないように漆喰壁で塗りこめられており、戦時は壁を突き破って使用する。」 *国宝彦根城天守リーフレット -
(写真) 12:26 急こう配の階段
天守内は滑り易いので、靴下脱いだ方が安全です。 -
(写真) 12:34 石垣
☆国宝 彦根城
「江戸時代初めに築かれた彦根城は、譜代大名井伊家を城主とし、日本を開国に導いた大老井伊直弼もここを居城とした。明治時代になり、多くの城が壊されたが、彦根城の天守は大隈重信の上奏があり、明治天皇の勅命により奇跡的に残った。彦根城は、昭和十九年に井伊家から彦根市に寄付され、昭和ニ十七年に天守 附櫓 及び 多門櫓が国宝となった。」*駅前お城通りの説明板 -
(写真) 12:35 彦根城天守 西の丸側
☆[国宝]彦根城天守
「関ケ原合戦合戦の前哨戦で耐え抜いた大津城から移築されたといわれ、慶長12年(1607)頃に完成。政治的象徴としての外観の美しさだけでなく、城本来の機能である軍事面でも優れている。昭和27年(1952)に国宝に指定。
彦根城以外の国宝天守は、姫路・松本・犬山・松江だけ。」
*国宝彦根城天守 特別史跡彦根城跡 リーフレット -
(写真) 12:37 西の丸水手御門虎口石垣
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(写真) 12:51 玄宮園 (/玄宮楽々園) 枯山水
12:48 楽々園着
☆ 楽々園
旧彦根藩主の下屋敷で槻御殿の名のほかに、黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ、往時には能舞台を備えた広大な建物であったが現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われます。また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。庭は枯山水で、布石の妙を極めている。
開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷に生まれた。
*楽々園 説明板 -
(写真) 13:01 玄宮園 (/玄宮楽々園)から彦根城
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(写真) 13:05 玄宮園
☆欅御殿
第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され、木材は槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。大老井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋(あずまや)よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとどめている。第12第藩主井伊直亮が文化年間(1804 年~1817年)に楽々之間を増築して依頼、槻御殿という正式の名よりはむしろ楽々園の名の方が有名になった。
楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。
*欅御殿 説明板 -
(写真) 13:36 クルミごま豆乳つけ蕎麦 \1,100 献上伊吹そば つる亀庵
白っぽい蕎麦なので 蕎麦の風味が薄いのではと思いましたが、風味良く、腰があり最高。最終日ならお土産に買ったのですが( ;∀;)
ですが クルミごま豆乳つけ蕎麦そのまま戴けば問題ないのですが、私はYさんと話すのに夢中で「先ずそのまま戴いてその後ラー油を入れて別味をお楽しみ下さい」とか言うメッセージを読まずに直ぐにラー油入れて食しました。即、咳がでてしまい、ヤバ!とマスクを。既にラー油の入ったクルミゴマダレですのでその後はつゆを余りつけずに蕎麦を戴くことになってしまいました。ラー油不得手ではないのですが、濃厚なそばつゆなので要注意です。しかも咳すればコロナと疑われる時だったので最悪でした。
http://ichien.jp/tsurukian/?fbclid=IwAR1N7Ws6rKHJ07lMgcbVlploZj7nEooBpCmhxvZDO5ah6p-PgxN9x0zZdIc -
(上写真) 14:14 大師寺
(下写真) 14:15 寝弘法 日本では珍しい。
彦根市佐和町7-19 Tel 0749-22-7304
拝観時間8:00~17:00
拝観料 無料
大師寺と言わずに(私は間違えて大師堂と聞いたので尚更ですが)「彦根駅前の弘法さん」と聞いた方が分かったのかもしれません。 お蕎麦屋さん、つる亀庵に道を教えて貰いましたが、近くまで行っても迷いました。
*http://www.daishiji.or.jp/sanpai/index.html
☆大師寺を開山された真浄法尼が横たわり、仮死状態になって弘法大師様のご託宣をお聞きになったという逸話から作られたのがこの寝弘法さんといわれています。・・・「南無大師遍照金剛…」とお唱えしながら、寝弘法さんの頭や体を撫でてお願い事をするとご利益があるといわれています。 *http://www.daishiji.or.jp/yuisyo/index.html
ですが私たちは良く読まずにお詣りしたので、寝弘法さんを撫でるなんてトンデモナイとお賽銭を入れてお祈りしただけ(>_<) -
(写真) 14:19 「彦根一箇所七福神」大師寺境内
手前より 布袋尊、寿老人、福禄寿、弁財天、毘沙門天、大黒天、恵比寿 (ホームページの写真とは逆です)
寿老人が左手に持っているのは桃で足元にいるのは、千五百歳越えた玄鹿(げんろく)だそうです。
ホームページをよく読んでから行くべきでした(>_<)
各七福神の説明、鮮明な写真は下記ホームページをご覧下さい。
*http://www.daishiji.or.jp/yuisyo/index.html -
(写真) 14:28 井伊直政公之像
駅前の井伊直政公之像を写し、コインロッカーの荷物を出し、琵琶湖線で近江八幡へ。 14:35 彦根発。 琵琶湖線網干行き。
☆井伊直政公像
「永禄四年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長五年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ヶ原の戦で功をあげ 石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、十八万国の大名となった。
その後、城を現在地の彦根山は移そうとしたが、同七年(1602年)四十一歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和八年(1622年)彦根城を完成させた。
こうして、彦根三十五万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。」 *説明石碑 -
(写真) 15:34 八幡山ロープウェイより
14:56 近江八幡駅着。 ABホテル近江八幡に 荷物を預けて八幡山に向かう。
15:15発 近江鉄道バス 長命寺行き(#6バス停)¥220に乗り、15:21大杉町バス停着。15:30発八幡山ロープウェロープウェイ往復切符¥890。 -
(写真) 15:35 八幡山ロープウェイより
近江八幡の街並みの向こうには山並みが見える。 5分で山頂駅着。 -
(左上写真) 15:38 お願い地蔵尊
(左下写真) 16:00 (右写真) 16:01みすがり観音 -
(写真) 15:43 八幡山城西の丸跡から琵琶湖が見えた。
☆八幡山城跡
「1568年(天正13年)、豊臣秀次によって築城。標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ二の丸、西の丸、北の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、瑞龍寺がたっています。」 *八幡山 山頂ガイド リーフレット -
(写真) 16:08 本山村雲御所 瑞龍寺門跡
瑞龍寺に行かずに山頂駅に戻ってしまう。西の丸跡から廻る道があったのかもしれませんが、係員に直ぐそばの山門の階段を登るように言われる。
八幡山城本丸跡の寺院。 豊臣秀次の菩提の為、その母瑞龍院日秀尼公が京都の村雲に創建した。1961年現在地に移転された。日蓮宗では唯一の門跡寺院。*https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/517/
境内を散策しただけで拝観せず。 -
(写真) 16:09 紅葉が奇麗 瑞興殿
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(写真) 16:10 金生稲荷大明神 金色の鳥居
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(写真) 16:13 村雲御所瑞龍寺山門
石垣を左右に控えた山門が、八幡山城の盛時を偲ばせる。
16:21 八幡山ロープウェイ山頂駅発
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(写真) 16:29 日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)楼門
☆楼門は左甚五郎作の彫刻が施されていたそうです。
安政2年 左義長(/火祭り)で焼失後、5年に再建。従来以上の彫刻が施され四方猿の御門とも呼ばれるそうです。
*https://himure.jp/knowledge/architecture/
そうとは知らず私の気付いたのは獅子だけ。 しかも獅子(左写真下部)よりアーティスティクな屋根の裏に感動。 -
(写真) 16:30 日牟禮八幡宮
☆「近江八幡」の名前の由来となったのがこの神社。
☆ 毎年3月の左義長祭と4月の八幡祭は、ともに勇壮・華麗な火祭り神事としてよく知られる。
☆日牟禮八幡宮由緒
第13代成務天王が131年高穴穂の宮に即位された時大嶋
大神を祀ったのが鎮座の始めと伝えられる。
691年 藤原不比等が参拝し詠んだ
天降(あめふ)りの 神の誕生(みあれ)の八幡かも
ひむれの杜(もり)に なびく白雲
の歌にちなみ、「日牟禮社」となる。
991年には八幡山山上に、1005年には山麓
と2箇所に社が建てられた。
1585年豊臣秀次が八幡山城を築城の折、上の八幡宮を下の社に号祀し、日杉山に祀る計画が、秀次の自害で実現せず、山麓(現在の日牟禮八幡宮)の一社となった。
*https://himure.jp/ 興味深い点のみ要約、抜粋 -
(写真) 16:34 日牟禮八幡宮
金ぴかの鳩を撮るくらいなら、楼門の猿でした( ;∀;)
奈良の自宅まで戻るYさんとはここでお別れ。 -
(写真) 16:43 白雲橋より八幡掘
☆八幡堀の歴史
「八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。」
*https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/hachimanbori/ -
(写真) 16:44 白雲館
☆登録有形文化財 白雲館(旧八幡東学校)
「白雲館(旧八幡東学校)は明治10(1877)年に建設された学校建築物です。八幡商人の熱意と区民の協力により、当時の金額で約6千円の費用をかけ 西洋建築の様式と、日本の伝統技術をとり入れ建築されたものです。近江八幡市では、先人の残したこの歴史的文化遺産を後世に受け継ぐため、地域づくり推進事業の一つとして、この建築物の保存修理を行いました。 近江八幡市」 *説明板
☆「白雲館と言う名称は、藤原不比等の和歌
『天降の 神の誕生の八幡かも 比牟礼の杜に なびく白雲』から名付けられた説や鎌倉時代の臨済宗の僧:白雲慧暁の徳を偲んだことによる説などがあります。」
*白雲館説明板 近江八幡観光物産協会 -
(写真) 16:48バス通りを挟んでメンターム資料館の斜め前の町屋。 屋根から突き出ているように見えた「見越しの松」。
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(写真) 16:48 近江兄弟社発祥の場所 メンタームの看板のある建物
☆「近江兄弟社発祥の場所『創めの家』
1905年(明治38年)2月2日に来日したW・M・ヴォーリズ(24歳)は滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)の英語教師に就きこの場所で日本の生活を始めました。
放課後には、自宅を開放して「バイブルクラス」を開き、多くの学生をキリストに導きました。ヴォーリズの親しみやすい人柄と純粋な心に魅せられて、彼の周りには多くの青年が集い“「神の国」の理想郷”づくりについて語り合い町づくりに邁進していったのです。
建築事業・結核療養所解説・製薬事業・教育事業や教会設立などの「夢」がこの場所から始まりました。
近江八幡観光物産協会」 *説明板 -
(写真) 16:50 ヴォーリズ像
☆名誉市民ウィリアム・メリル・ヴォーリズについてのとても長い説明の石碑があります。下記はその最後の部分です。
「『世界の中心は近江八幡にあり』と唱え、すべての人が幸せになれるまちづくりを目指した彼の足跡を、かけがえのない宝として近江八幡市民の名において永遠に顕彰するため、ここ『ヴォーリズ創めの家』ゆかりの地に記念の像を建立し、これからの郷土づくりの糧にしていきたい。」 -
(写真) 16:57 八幡掘遊歩道
明治橋横の階段を降り八幡掘遊歩道を白雲橋に向かい歩く。 -
(写真) 16:58白雲橋すぐそばの町屋。八幡掘遊歩道から。八幡掘の石垣と白壁、焦げ茶の出格子の町屋がマッチしていた。
17:03 大杉町バス停着。帰りはスイカで支払う。 ¥220
☆重要伝統的建造物群保存地区の町屋
「町屋は切妻造桟瓦葺き、平入りの中2階建てが基本で、正面の構えは格子、出格子、虫籠窓(むしこまど)、からなり、軒下の壁に貫を見せる形式が特徴となっている。また、道路に面する庭の「見越しの松」が周囲の景観の風格を高めている。
この一帯は、近江八幡独自の都市空間を形成し、文化庁から重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、市民の誇りとなっている。」
*ヴォーリス像そばの説明板
☆近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区
「選定地域は、新町筋、八幡堀周辺、永原町筋、日牟禮八幡宮境内地を加えた13.1ヘクタールになります」
*https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/machinami/ -
(写真) 17:44 ごきげんえびす
帰りのバスはABホテル近江八幡の真ん前で止まった。
17:26 ホテルの支払い完了。支払機を使い自分で払った。
フロントで美味しいビールの飲める店を教えて貰う。名前通りエビスビールの店。 駅前広場を挟んでABホテルの真正面。Emil近江八幡壱番館2F。 長命寺行きバス乗り場(#6)のすぐ後ろのビル。 -
(左上写真) 17:52 お通し ¥500
(右上写真) 17:52 エビス ザ・ブラック 中 ¥649
(左下写真) 17:55 おでんおまかせ4種盛 ¥759
(右下写真) 18:05 玉露入りお茶割 ¥495
ポストコロナ初めての居酒屋で緊張したが、完全個室ではないが、しっかりパーティションされている半個室に、テーブル一つと充分にコロナ対策がされていた。 -
「第3の男」が流れたのは玉露入りお茶割を飲んでいる時。 良い子は飲みすぎません。サッサと食べてお会計。税込み 計¥2,403 カード払い
*https://gokigenebisuoumihachiman.gorp.jp/
電話でYさんに美味しいビールを飲んだと報告。 彼女は美味しいケーキを食べたそうだ。
1日目 19,528歩 良く歩きました(^^)/ -
(写真) 6:39 ABホテル近江八幡朝食 好きな物を選んだら和洋折衷となりました。尤も嫌いな食べ物あったかな?
☆The Second Day☆ 10月31日(日)
朝食開始時間の6:30に食堂へ。 思っていた程混んでいなかったので客室に持ち込まず食堂で食べる。 黙食が守られていた。
お天気が悪ければ 長命寺には行かずそのまま京都のつもりだったのですが、大した雨でもないので長生きしたければ長命寺行くしかないでしょ。
フロントで「雨の長命寺止めた方がいいですか?」と聞きはしましたが、ビジネスホテルなのでしょうか? 長命寺の事余り知らないようでした。 自己判断で、朝一7:30発のバスで長命寺へ。
★ABホテル近江八幡
駅前で便利。 長命寺からのバスはホテル真ん前に止まります。 \5,400 朝付き。 大浴場(余り大きくはなかった)付き。 チョット困ったのはベッドの頭の当たる部分が木製になっていて枕で上手く保護できない。 枕がずれた状態で 横になり2度頭を強くぶつけた。 ベッドのヘッドにご注意!! -
(写真) 7:52 日吉神社
7:49 長命寺バス停着
☆日吉神社 由緒
「創祀された年代は不詳であるが、建長五年六月長命寺文書に「濱十禅師に五節供燈明等神役不可被懈怠云々」とあり、その以前より当神社が鎮座していたことを知ることが出来る。
承和三年野洲郡仁保郷 僧 頼智が長命寺を再興せし時より比叡山延暦寺西塔院領となりし事から延暦寺と坂本の日吉大社の如く長命寺と当神社とは古くより密接なるものがあったものと推察される。」
*日吉神社 説明板 -
(写真) 7:53 長命寺石柱
☆健康長寿の観音様
長命寺縁起
「長命寺は西国三十一番札所の霊場で、その歴史は古く人皇十二代景行天皇二十年長寿の大臣武内宿禰(たけのうちのすくね)当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えられたのであります。
その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」の文字と観世音菩薩の御影を拝され感嘆されていると、忽ち巌の影より白髪の老翁現れ、「この霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇敬する寺となるであろう」と告げ失せられました。早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、武内宿禰長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付給うたのであります。」
*長命寺リーフレット -
(写真) 7:53 本堂まで808段
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(写真) 7:53 長命寺参道入り口石段
7:54 本堂まで808段ある階段を登り始める。登るのは私1人。 -
(写真) 7:56
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(写真) 7:57 お地蔵さん。 左手、真静院門跡には「真静院の由来」の説明板が立っていた。
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(写真) 7:59 雨に濡れた石段にぬかるんだ足場。 登り始めたばかりなのに、既に滑らないかと心配。
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(写真) 7:59 階段も急勾配な上、手すりもなし。
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(写真) 8:06 不思議な形の鳥居を潜ると右手に祠がありその向こうに石碑(/お墓かな)が並ぶ。 写真の休憩場所で一息つきマイペースで登る。 お地蔵さん、野仏、お墓などが有りますので、退屈しませんが、薄暗い中を1人で歩くのは不安でした。
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(写真) 8:09この辺りで降りて来る人に会い、もう3分の2程来ましたと言われ、元気百倍。 帰りはこの道を滑らずに降りる自信がなかったので、石の階段でない道(半分ほど登った所で交わった山道)を使えるか尋ねると大丈夫と言われる。 土の道の方が安心なので帰りはそちらの道にしよう。
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(写真) 8:20 左の石碑には健康長寿の観音さん と刻まれています。
急に人が増えたと思えば左側に駐車場があった。徒歩で上るのは余程の物好きのようだ。 バス停そばに止まっていたタクシーで来たと言う人もいた。 -
(写真) 8:25 真ん中に聖徳太子礼拝石と彫られた高い(/細長い)石柱がある。 ここで太子が祈りを捧げた。
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(写真) 8:26 ここから先は車で来た人も歩かなくてはなりません。手すりがあるので心配なし。
トイレはパーキングに一カ所だけ。 -
(写真) 8:29 長寿を願うのはやっぱりシニア(^^♪
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(写真) 8:30 緑に赤い三重の塔が映えました。
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(写真) 8:30 雨が降り出すのではと心配していたが空が少し明るくなってきた。遠くに琵琶湖が見えた。これで満足しては行けなかった。太郎坊権現社まで登るとモット良いビューだったようです。ここまで登って来るだけでイッパイイッパイ。下山と午後からの京都観光の為に体力を温存する必要があった。
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(写真) 8:31 三重の塔
階段の上に建っているので、そばまで行きませんでした。ここまで辿り着いただけ。
☆(重要文化財)「慶長2年(1597年)の再建と判明する。こけら葺きで全面丹塗(にぬり)。初重の両脇間に連子窓を設けず板壁とすること、初重に和様には珍しく腰貫を用いる点が特色。胎蔵界大日如来像(安土桃山時代)と四天王像(鎌倉時代)を安置する。*Wikipediaより抜粋 -
(写真) 8:33 三仏堂(さんぶつどう)
滋賀県指定有形文化財
☆「三仏堂元暦元年(1184)佐々木秀義の菩提を弔うため、その子定綱が造立したと伝え、釈迦・弥陀・薬師の三尊を祀る。
この仏堂は永正13年(1516)の焼失後に再建されており、・・・永禄頃の建立とみられる。・・・」 *説明板 -
(写真) 8:35太郎坊大権現社 鳥居
太郎坊大権現社からの景観が最高とネットで調べてあったのに、無事に下山できるかの方が気になってスッカリ忘れていました(>_<) ので右の階段を登って行くのかは不明。 -
(写真) 8:37 鐘楼付近から境内。奥から三重塔、本堂、三仏堂、拝殿。
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(写真) 8:37 重要文化財 長命寺鐘楼 駒札
鐘楼は1608年に再建された。
しまった(>_<) 鐘楼の写真撮っていない。 -
(写真) 8:38 鐘楼内 階段を登り
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(写真) 8:39 鐘を叩くことができます。
梵鐘は鎌倉時代のもので 県指定有形文化財。 -
(写真) 8:40 修多羅岩(/すたらいわ)
300歳以上も長寿を保ち、6代の天皇に仕えた武内宿禰(たけのうちすくね)の御神体。
☆「修多羅とは仏教用語で天地開闢・天下太平・子孫繁栄を言う。
封じて当山開闢長寿大臣 武内宿禰大将軍の御神体とする。」
*説明板 -
(写真) 8:43 御詠歌
八千とせや柳に長き命寺
運ぶ歩みのかざしなるらん と彫られている。
本堂はこの御詠歌の後にあります。
☆重要文化財 長命寺本堂
明治三十七年二月十八日指定
本堂は永正十三年(1516)の焼失後、大永二年(1522)から大永四年(1524)にかけて再建されたことが勧進書に記されおり、寺内で現存する最古の建物である。昭和五年(1930)から昭和七年(1932)にかけて解体修理が行われた。
桁行七間、梁間六間(正面20.41メートル、側面20.50メートル)、一重、入母屋造、檜皮葺(/ひわだぶき)の大建築で、当初は、正面の全て、東面の正面から一間、西面の正面から三間を吹放しとし、扉や壁面を造っていなかった。外陣内部は柱が並び、荘厳である。奥の内陣には須弥壇(/しゅみだん)が築かれ、真中に再建当初からの厨子(重要文化財である本堂の附⦅/つけたり⦆)があり、千手観音立像を中心に左側に聖観音立像、右側に十一面観音立像(全て重要文化財)が安置されている。
本堂は、中世の和洋仏像の好典型としても貴重な遺構であり、無駄な装飾を用いない、格調の高い建築である。
平成二十年五月 姨綺耶山長命寺
*本堂入口の説明板
☆本尊千手観世音は本堂内柱にかかった木製説明板によれば聖徳太子御自作 -
(写真) 8:47 内陣特別拝観 本尊大観音尊像特別拝観
重要文化財の”木造毘沙門天像”長命寺参詣曼荼羅”と”熊野観心十界曼荼羅”
*https://www.city.omihachiman.lg.jp/soshiki/kanko/3/4/1519.html
本堂に長い列が出来ていた。 御朱印を貰うので並んでいるそうだ。 本堂の中に入るのも可能と言われた。 緑の上着を着た人に尋ね、中に入る。 内陣特別拝観の最終日だった。 後15分後には始まるので見ていかれればと誘われ、待つ事にした。 ところが彼女の勘違いで10:00開始。 1時間15分 待つのは厳しいので帰ろうとする。 -
(写真) 8:47 これより中は撮影禁止なので入口の像を写す。
と緑の制服の人が数名来て(彼らはボランティアのガイドだった!)女性の勘違いで後1時間後と判明。 帰ろうとすると先に私だけ特別に見せて下さる事に。 オープンには出来ないのでコッソリ。 1人で見て回ると思っていたら、男性ガイドが私だけに説明しながら回って下さった。 撮影不可なので荷物を預け中に入ろうとする。 詳細な説明があるとは知らず筆記用具は預け荷物の中。 30分プライベイト・レッスンだったのですが、ナーンニモ覚えていません。 遠慮せずペンをとりに行けば良かった(>_<)
厨子には3体の仏像(平安時代のものもあった)が収納され、今度開けられるのは25年後だそうです。
エッツ、厨子って「安寿と厨子王」ですよね。 厨子が仏像の入れ物とは目から鱗。 じゃ厨子王って押し入れの王子と言う意味なのでしょうか(?_?)
長命寺近辺に数々あった子院が潰れ、長命寺に託された数々の仏像が祀られていてまるで美術館のようだった。 長命寺参詣曼荼羅も見た。 鳥居のそばが港になっていて舟で参拝している絵なので不思議に思って尋ねると、長命寺は琵琶湖の島であったそうだ。 *https://www.omi8guide.com/2021/10/12/chomeiji-tokubetsu-open-2021/
内陣特別拝観料\500はお得です。 しかも長命寺参詣曼荼羅と護摩堂の絵葉書を記念に戴けました。
本堂を出るとお日様が照っていた(^^♪ -
戴いた絵葉書―1
重要文化財「長命寺」附 長命寺参詣曼荼羅 -
戴いた絵葉書―2
護摩堂(重文)
本尊不動明王、古来天下泰平宝祚延長
長寿開運諸願成就を護摩祈願する
道場である。方三間桧皮葺、朱塗 -
(写真) 9:51 ここからは石段でない道を降りるので安心の筈だったのですが。
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(写真) 9:55 土の道を降りて行くと途中に倒木。 でも立ち入り禁止とは書いてなかった。 木を跨いで降りると この辺り落石注意の看板(往路石段の道にもありましたが)。
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(写真) 9:56 その後は、より危険な苔むした階段ですが、もう降りるしかない。 両脇の僅かな土の道と石段と危険度を考えながら降りました。 誰もいないし、緊張の連続でしたが、長命寺まで往復歩いてお詣りしたのですから、長命のご利益は充分と信じてました(^_-)-☆
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(写真) 10:03 西国古道
10:03 無事下山。 帰りは27分で済んだ。 晴れた日、健脚なら徒歩20分は無理ではなさそうです。 もう一度は結構。
今更ですが、帰りは車道を降りれば良かった(>_<)
今回は城がメインだったのですが、近江八幡の一押しは長命寺のようなのでついでに行きました。 すでにお気づきのように完全にこちらがメインとなりました(^^)/。 -
(写真) 10:08 長明寺港
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(写真) 10:09 「琵琶湖周航の歌」の石碑
バス停に隣接した長命寺港公園に「琵琶湖周航の歌」大正7年小口太郎作詞 吉田千秋作曲の石碑があった。Wikipediaによれば元は三高(現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航中に小口太郎がこの歌詞を思いついたそうだ。 -
(写真) 10:10 近江バス 近江八幡行き。 (長命寺バス停)
予定通り10:20長命寺バス停発。 バス停の前がホテルなので預け荷物の受け取りが簡単!!
近江八幡10:57発の電車で京都へ。
TO BE CONTINUED
一年前の旅行記ここまでお付き合い下さり有難うございました。
2022.9.25 パッピー
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