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梅雨の5月城巡りのリベンジです。 今回も那覇に3泊し路線バスで周りまし<br />た。 雨は余り降らないシーズンを選んだ筈が、初日を除き全て雨予報と前日<br />知る。スケジュールをドタバタで変更し、三日目までは観光に差し障る程降ら<br />れず。 <br />最終日は朝から厚い雲をものともせず、具志川城跡のつもりがバスが<br />分からず。遠出は諦めて降り出さない内に首里金城町、寒川町をノンビリ散策。その後もお城には行かず、旧海軍司令部壕で平和の恩恵を確認。<br /> https://4travel.jp/travelogue/1180757 の続編です。<br />

II ☆GO TO お城s in 沖縄☆⑧ 旧海軍司令部壕

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2022/10/17 - 2022/10/17

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旅行記グループ II ☆GO TO お城s in 沖縄☆

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梅雨の5月城巡りのリベンジです。 今回も那覇に3泊し路線バスで周りまし
た。 雨は余り降らないシーズンを選んだ筈が、初日を除き全て雨予報と前日
知る。スケジュールをドタバタで変更し、三日目までは観光に差し障る程降ら
れず。 
最終日は朝から厚い雲をものともせず、具志川城跡のつもりがバスが
分からず。遠出は諦めて降り出さない内に首里金城町、寒川町をノンビリ散策。その後もお城には行かず、旧海軍司令部壕で平和の恩恵を確認。
https://4travel.jp/travelogue/1180757 の続編です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス タクシー ANAグループ 私鉄 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • (写真) 10:23 国際通りのれん街。   てんぶす隣。<br /><br />☆The Fourth Day☆ 10月17日 (月) ⑧<br /><br />那覇バス 寒川線 #15  三重城行きバス は てんぶす前   10:05 着 <br />てんぶすのツーリストインフォでクーポン券の使える店とこれからの観光のアドバイスを受けに行く。国際通りの何軒かの店、小禄のイーオン(こちらはお土産コーナーの一部のみ)、空港で使える所が多いそうだ。 雨が降っているので、旧海軍司令部壕に行きたいと言うと、「資料の展示と壕に入るだけですよ。」と薦めて来なかった。リーフレットを貰いゆいレールの奥武山公園駅からバスと、旭橋からとどちらがいいかたずねると、国際通りのHotel Collectiveの前にある松尾バス停から最寄りバス停、宇栄原団地前まで#98に乗ると一本と教えられる。

    (写真) 10:23 国際通りのれん街。 てんぶす隣。

    ☆The Fourth Day☆ 10月17日 (月) ⑧

    那覇バス 寒川線 #15 三重城行きバス は てんぶす前 10:05 着 
    てんぶすのツーリストインフォでクーポン券の使える店とこれからの観光のアドバイスを受けに行く。国際通りの何軒かの店、小禄のイーオン(こちらはお土産コーナーの一部のみ)、空港で使える所が多いそうだ。 雨が降っているので、旧海軍司令部壕に行きたいと言うと、「資料の展示と壕に入るだけですよ。」と薦めて来なかった。リーフレットを貰いゆいレールの奥武山公園駅からバスと、旭橋からとどちらがいいかたずねると、国際通りのHotel Collectiveの前にある松尾バス停から最寄りバス停、宇栄原団地前まで#98に乗ると一本と教えられる。

    国際通りのれん街 名所・史跡

  • (写真) 10:29 国際通り   <br />教えられた、おきなわ彩発見の地域クーポン券の使える店に行くが、気に入ったものを見つけられず。

    (写真) 10:29 国際通り
    教えられた、おきなわ彩発見の地域クーポン券の使える店に行くが、気に入ったものを見つけられず。

  • (写真) 10:36 松尾バス停

    (写真) 10:36 松尾バス停

  • 松尾バス停 時刻表  #98ありました(^^♪

    松尾バス停 時刻表 #98ありました(^^♪

  • Hotel Collective   松尾バス停はホテルの前です。

    Hotel Collective 松尾バス停はホテルの前です。

    ホテルコレクティブ 宿・ホテル

  • (写真) 10:46 #98バスでしょうか?

    (写真) 10:46 #98バスでしょうか?

  • 10:43発 #98 豊崎行き 3分遅れで来ました。

    10:43発 #98 豊崎行き 3分遅れで来ました。

  • (写真)10:47 那覇で初めて取った整理券。

    (写真)10:47 那覇で初めて取った整理券。

  • (写真) 11:01 #98豊崎行きバスより。<br />バスは明治橋を通ります

    (写真) 11:01 #98豊崎行きバスより。
    バスは明治橋を通ります

  • #98豊崎行きバスより。又渋滞?<br /><br />宇栄原団地前でバスを下り、ブエノチキン自販で買物をしようと車から下りて来た女性に旧海軍司令部壕はどちらか尋ねると、雨が降っているので車で送ってあげると言われた。 そばに住んでいるがまだ行った事がないそうだ。徒歩5分とは言え、強い雨が降っていたのでとても有難かった。<br />◎バス \240  松尾→宇栄原団地前

    #98豊崎行きバスより。又渋滞?

    宇栄原団地前でバスを下り、ブエノチキン自販で買物をしようと車から下りて来た女性に旧海軍司令部壕はどちらか尋ねると、雨が降っているので車で送ってあげると言われた。 そばに住んでいるがまだ行った事がないそうだ。徒歩5分とは言え、強い雨が降っていたのでとても有難かった。
    ◎バス \240 松尾→宇栄原団地前

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲  <br />▽資料館▽ <br />海洋画家 飯塚羚児作の  戦艦大和の絵がこの上にありました。<br /><br />11:24 ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />11:24 ビジターセンター着 参観料カード払い。<br />◎旧海軍司令部壕参観料 \600<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽
    海洋画家 飯塚羚児作の 戦艦大和の絵がこの上にありました。

    11:24 ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    11:24 ビジターセンター着 参観料カード払い。
    ◎旧海軍司令部壕参観料 \600

    旧海軍司令部壕 名所・史跡

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲  <br />▽資料館▽    <br /><br />銘 by 戦艦大和を沖縄に入港させる会同志一同<br />戦艦大和の模型より絵の方が大切だったようです。<br />戦艦大和の名こそ知れ、「沖縄救援急航途次」沈没したとは知りませんでした。<br />「献歌 梓弓共に死なめと打ち出でて<br />    征きて帰らぬ艦を問わずや <br />                        島人歌人 寿枝」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    銘 by 戦艦大和を沖縄に入港させる会同志一同
    戦艦大和の模型より絵の方が大切だったようです。
    戦艦大和の名こそ知れ、「沖縄救援急航途次」沈没したとは知りませんでした。
    「献歌 梓弓共に死なめと打ち出でて
        征きて帰らぬ艦を問わずや 
    島人歌人 寿枝」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽資料館▽<br /><br />戦艦大和模型  1/200  田端 三己夫寄贈<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    戦艦大和模型 1/200 田端 三己夫寄贈

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽資料館▽<br /><br />資料館入口には大田實司令官の写真、『沖縄県民はこのように戦いました』の電文、大田司令官の少将旗が展示されている。左端の再生装置で大田司令官電文のモールス信号再現できる。     *https://www.otv.co.jp/okitive/article/23029/<br />右の横書きの部分書き写します。<br /> 1945(昭和20)年6月、終末の時をむかえた沖縄海軍<br />部隊の司令官・大田実少将は沖縄戦の実態をくわしく<br />伝える電文を本土へ送ったあと、ここ豊見城村の海軍<br />司令部壕で自決しました。<br /> 沖縄県民に大きな感銘をあたえたこの電文は、どう<br />いう経緯で、どういう状況下で、どういう思いでつづ<br />られたのでしょう。この一通の電文を手がかりに、三<br />カ 月のあいだ「鉄の暴風」にさらされた人びとの戦場<br />体験を追い、沖縄戦の意味を考えてみました。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    資料館入口には大田實司令官の写真、『沖縄県民はこのように戦いました』の電文、大田司令官の少将旗が展示されている。左端の再生装置で大田司令官電文のモールス信号再現できる。 *https://www.otv.co.jp/okitive/article/23029/
    右の横書きの部分書き写します。
     1945(昭和20)年6月、終末の時をむかえた沖縄海軍
    部隊の司令官・大田実少将は沖縄戦の実態をくわしく
    伝える電文を本土へ送ったあと、ここ豊見城村の海軍
    司令部壕で自決しました。
     沖縄県民に大きな感銘をあたえたこの電文は、どう
    いう経緯で、どういう状況下で、どういう思いでつづ
    られたのでしょう。この一通の電文を手がかりに、三
    カ 月のあいだ「鉄の暴風」にさらされた人びとの戦場
    体験を追い、沖縄戦の意味を考えてみました。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽資料館▽<br /><br />『沖縄県民はこのように戦いました』<br />              大田司令官の電文<br />昭和二十年六月六日二十時十六分発 <br /> 次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取<br />り計らってください。<br /> 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告さ<br />れるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、<br />三十二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力が<br />ないと認められますので、私は県知事に頼まれたわ<br />けではありませんが、現状をそのまま見過ごすこと<br />ができないので、代わって緊急にお知らせいたします。<br />  沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛<br />のための戦闘に専念し、県民に関してはほとんどか<br />えりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っ<br />ている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛の<br />ためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、<br />相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一<br />つで軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕<br />に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさら<br />される貧しい生活に甘んじてきました。<br />  しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護<br />婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参<br />加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、<br />老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴<br />行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを<br />覚悟で娘を軍に預ける親もいます。<br />  看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵が<br />すでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助け<br />て共にさまよい歩いています。このような行動は一<br />時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、<br />軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れ<br />た住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は、<br />夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。<br />  これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて<br />以来、 県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の<br />節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に<br />抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この<br />戦闘の最期を迎えてしまいました。<br />  沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。<br />一本の木、一本の草さえすべてが 焼けてしまい、食べ<br />物も六月一杯を支えるだけということです。<br />沖縄県民はこのように戦いました。<br />県民に対して後世特別のご配慮をしてください<br />ますように。<br />(この電文は原文を現代文に直したものです。)<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    『沖縄県民はこのように戦いました』
                  大田司令官の電文
    昭和二十年六月六日二十時十六分発
     次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取
    り計らってください。
     沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告さ
    れるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、
    三十二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力が
    ないと認められますので、私は県知事に頼まれたわ
    けではありませんが、現状をそのまま見過ごすこと
    ができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
      沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛
    のための戦闘に専念し、県民に関してはほとんどか
    えりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っ
    ている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛の
    ためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、
    相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一
    つで軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕
    に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさら
    される貧しい生活に甘んじてきました。
      しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護
    婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参
    加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、
    老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴
    行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを
    覚悟で娘を軍に預ける親もいます。
    看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵が
    すでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助け
    て共にさまよい歩いています。このような行動は一
    時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、
    軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れ
    た住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は、
    夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
      これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて
    以来、 県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の
    節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に
    抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この
    戦闘の最期を迎えてしまいました。
      沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。
    一本の木、一本の草さえすべてが 焼けてしまい、食べ
    物も六月一杯を支えるだけということです。
    沖縄県民はこのように戦いました。
    県民に対して後世特別のご配慮をしてください
    ますように。
    (この電文は原文を現代文に直したものです。)

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />旭日旗は<br />大田司令官の少将旗<br /> この少将旗は1945年の沖縄戦終結後この壕内<br />で発見され、米海兵隊少佐が本国に持ち帰っていた<br />もので、2012年5月27日の海軍慰霊祭で67<br />年ぶりにご遺族のもとに返還されたものである。<br />*キャプションの書き写し

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    旭日旗は
    大田司令官の少将旗
     この少将旗は1945年の沖縄戦終結後この壕内
    で発見され、米海兵隊少佐が本国に持ち帰っていた
    もので、2012年5月27日の海軍慰霊祭で67
    年ぶりにご遺族のもとに返還されたものである。
    *キャプションの書き写し

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />日本本土進攻の航空基地<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    日本本土進攻の航空基地

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />沖縄戦ー軍人も住民も戦争被害者<br />「◇・・・特に沖縄戦では・・・日本軍史上初の14歳以上の現地少年兵・女学生とが戦場に動員された。<br />◇動員された鉄血勤皇隊約1800名の内、約900名(50%)が戦死した。最終的に住民を巻き込んだ地上戦が約3ヶ月も県内全域でくりひろげられた。・・・」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    沖縄戦ー軍人も住民も戦争被害者
    「◇・・・特に沖縄戦では・・・日本軍史上初の14歳以上の現地少年兵・女学生とが戦場に動員された。
    ◇動員された鉄血勤皇隊約1800名の内、約900名(50%)が戦死した。最終的に住民を巻き込んだ地上戦が約3ヶ月も県内全域でくりひろげられた。・・・」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />戦争に巻き込まれた沖縄<br />「・・・<br />日本軍は・・・米軍の沖縄上陸を想定し、本土防衛の最後の砦として、急遽沖縄に基地を建設しました。」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    戦争に巻き込まれた沖縄
    「・・・
    日本軍は・・・米軍の沖縄上陸を想定し、本土防衛の最後の砦として、急遽沖縄に基地を建設しました。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆特攻作戦と沖縄<br />「沖縄戦は陸・海・空にわたる全面的な特攻戦であった。特攻機による空からの奇襲(菊水作戦)と戦艦大和の特攻出撃のほかに、沖縄現地においては海上の震洋隊や蛟龍隊などの特攻艇の出撃、また陸上戦闘においては『一機一艦船、一艇一船、一人十殺一戦車』を合言葉に手製の爆雷を背負って敵戦車に肉弾攻撃をかけた。小禄地区の海軍部隊も手製の槍と手榴弾をもって敵戦車隊に夜襲をかけて抵抗をつづけた。」<br /><br />と活字で書かれた箇所は冷静に読めますが、左の手書きの軍事機密は余りにリアルで背筋が凍ります。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆特攻作戦と沖縄
    「沖縄戦は陸・海・空にわたる全面的な特攻戦であった。特攻機による空からの奇襲(菊水作戦)と戦艦大和の特攻出撃のほかに、沖縄現地においては海上の震洋隊や蛟龍隊などの特攻艇の出撃、また陸上戦闘においては『一機一艦船、一艇一船、一人十殺一戦車』を合言葉に手製の爆雷を背負って敵戦車に肉弾攻撃をかけた。小禄地区の海軍部隊も手製の槍と手榴弾をもって敵戦車隊に夜襲をかけて抵抗をつづけた。」

    と活字で書かれた箇所は冷静に読めますが、左の手書きの軍事機密は余りにリアルで背筋が凍ります。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />米軍上陸ー鉄の暴風の中で<br />「・・・<br />激しい攻撃のなかで、老人から幼いこどもまで、ことばに尽くせぬ苦労を強いられた。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    米軍上陸ー鉄の暴風の中で
    「・・・
    激しい攻撃のなかで、老人から幼いこどもまで、ことばに尽くせぬ苦労を強いられた。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆北部への疎開と海軍の協力<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆北部への疎開と海軍の協力

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />壕を取り巻く戦い<br />日本軍の銃器と手製の槍

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    壕を取り巻く戦い
    日本軍の銃器と手製の槍

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「戦争遂行のために<br />無線電信は作戦部隊の命綱であった。・・・電報は海軍用暗号で発信し、暗号所と暗号機で翻訳された。<br />・・・『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の電報もこの通信室から打電された。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「戦争遂行のために
    無線電信は作戦部隊の命綱であった。・・・電報は海軍用暗号で発信し、暗号所と暗号機で翻訳された。
    ・・・『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の電報もこの通信室から打電された。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆戦いの経緯<br /> 首里陥落と海軍の動き<br />「・・・沖縄守備軍はこの中部戦線で五月中旬までに六万四〇〇〇名を失い・・・軍の戦力はつきていた。海軍部隊も・・・ほぼ全滅・・・一九四五(昭和二〇)年五月二二日、沖縄守備軍は急に南部へ退くことを決定。海軍部隊にも喜屋武半島への移動を命じた。同地には十数万の避難民がひしめき部隊を収容できる壕はない。いったん移動した海軍部隊も、行き場がなく、元の小禄へ戻った。以後、海軍部隊は小禄~豊見城地区を死守して各部隊はほぼ壊滅した。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆戦いの経緯
     首里陥落と海軍の動き
    「・・・沖縄守備軍はこの中部戦線で五月中旬までに六万四〇〇〇名を失い・・・軍の戦力はつきていた。海軍部隊も・・・ほぼ全滅・・・一九四五(昭和二〇)年五月二二日、沖縄守備軍は急に南部へ退くことを決定。海軍部隊にも喜屋武半島への移動を命じた。同地には十数万の避難民がひしめき部隊を収容できる壕はない。いったん移動した海軍部隊も、行き場がなく、元の小禄へ戻った。以後、海軍部隊は小禄~豊見城地区を死守して各部隊はほぼ壊滅した。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆徴用された人びと<br />「海軍部隊約一万名のうち約四〇〇〇名は現地沖縄で徴集した防衛隊や義勇軍であった。・・・男女を問わず危険な任務を与えられ、最後には軍人とともに斬込みに参加して戦死した者も少なくなかった。」<br />◆防衛隊・義勇隊・学徒隊<br />「・・・沖縄戦の末期にはこれらの補助員たちも槍や爆雷をもって斬込みに参加し、防衛隊二万二〇〇〇名、学徒隊約二二〇〇名のうち半数以上が戦死した。義勇隊は正規軍人でないため兵籍名簿もなく戦没者数もいまなお不明である。」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆徴用された人びと
    「海軍部隊約一万名のうち約四〇〇〇名は現地沖縄で徴集した防衛隊や義勇軍であった。・・・男女を問わず危険な任務を与えられ、最後には軍人とともに斬込みに参加して戦死した者も少なくなかった。」
    ◆防衛隊・義勇隊・学徒隊
    「・・・沖縄戦の末期にはこれらの補助員たちも槍や爆雷をもって斬込みに参加し、防衛隊二万二〇〇〇名、学徒隊約二二〇〇名のうち半数以上が戦死した。義勇隊は正規軍人でないため兵籍名簿もなく戦没者数もいまなお不明である。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />夜の砲弾運び  上原 武夫 (小禄第二国民学校教師)<br />「・・・壕に入っていると、高射砲部隊の兵隊がやってきて、弾薬運搬を手伝ってくれと行ってきなので、私と弟が手伝うことになった。・・・若者たちはみんな駆り出され、夜間、列をなして二、三回運んだ。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    夜の砲弾運び  上原 武夫 (小禄第二国民学校教師)
    「・・・壕に入っていると、高射砲部隊の兵隊がやってきて、弾薬運搬を手伝ってくれと行ってきなので、私と弟が手伝うことになった。・・・若者たちはみんな駆り出され、夜間、列をなして二、三回運んだ。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「・・・出口なしの一本壕に人間がギッシリ詰まっているから、空気のまわりが悪く、じめじめしていて、年寄りにはたえられなかったようで、祖母が極端に弱ってしまい、無性に家(具志)に帰りたがった。<br />夜・・・弟と二人で交代しながら祖母をおぶって具志に帰ったが、その途中、祖母は息を引き取った。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「・・・出口なしの一本壕に人間がギッシリ詰まっているから、空気のまわりが悪く、じめじめしていて、年寄りにはたえられなかったようで、祖母が極端に弱ってしまい、無性に家(具志)に帰りたがった。
    夜・・・弟と二人で交代しながら祖母をおぶって具志に帰ったが、その途中、祖母は息を引き取った。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />山根部隊設営隊の医務室で  新里文子<br />「・・・壕生活で一番困ったのは、井戸が壕内になかったことであり、そのため危険をおかして外に水汲みに行った。井戸に行く時はそれこそ命がけであった。<br />・・・ガーゼを洗おうとバケツから取り出している最中に、突然、無数の砲弾が飛んできた。水を汲むためにちょうど腹ばいになっていたので逃げることもできず、うつ伏せのまま水の中に顏を突っ込んでいた。水面にはウジ虫がいっぱい浮かんでいたが、それを避ける事もできず、そのままウジ虫の中に顏を突っ込んでいた。<br />・・・」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    山根部隊設営隊の医務室で  新里文子
    「・・・壕生活で一番困ったのは、井戸が壕内になかったことであり、そのため危険をおかして外に水汲みに行った。井戸に行く時はそれこそ命がけであった。
    ・・・ガーゼを洗おうとバケツから取り出している最中に、突然、無数の砲弾が飛んできた。水を汲むためにちょうど腹ばいになっていたので逃げることもできず、うつ伏せのまま水の中に顏を突っ込んでいた。水面にはウジ虫がいっぱい浮かんでいたが、それを避ける事もできず、そのままウジ虫の中に顏を突っ込んでいた。
    ・・・」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「逃げおくれ路上で射殺された老女」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「逃げおくれ路上で射殺された老女」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「足を負傷した少年。<br />助けられ、ようやく収容所にたどりついた」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「足を負傷した少年。
    助けられ、ようやく収容所にたどりついた」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆海軍司令部壕の終焉<br /> 「一九四五(昭和二〇)年六月四日、米第六海兵師団・・・上陸・・・<br />六月六日、米軍は小禄から豊見城地区に馬乗り攻撃を開始。同夜、大田司令官は決別の電文と『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の特別な電文を発信。六月十一日、米軍は・・・最後の総攻撃。日本軍も総反撃、主力は壊滅した。六月十三日、海軍部隊の命運はつきた。同日午前一時ごろ大田司令官は棚町参謀らと司令部壕内で自決。<br /> 小禄海軍壕にはその後も残存兵がたてこもり、日本の無条件降伏も知らずに抵抗…沖縄の日米両軍が正式に降伏文書に調印したのは九月七日・・・」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆海軍司令部壕の終焉
     「一九四五(昭和二〇)年六月四日、米第六海兵師団・・・上陸・・・
    六月六日、米軍は小禄から豊見城地区に馬乗り攻撃を開始。同夜、大田司令官は決別の電文と『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の特別な電文を発信。六月十一日、米軍は・・・最後の総攻撃。日本軍も総反撃、主力は壊滅した。六月十三日、海軍部隊の命運はつきた。同日午前一時ごろ大田司令官は棚町参謀らと司令部壕内で自決。
     小禄海軍壕にはその後も残存兵がたてこもり、日本の無条件降伏も知らずに抵抗…沖縄の日米両軍が正式に降伏文書に調印したのは九月七日・・・」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />小禄での戦闘<br />  そして海軍壕の終焉<br />一九四五年六月四日~六月十五日<br />写真は「小禄飛行場を占拠して南下する米軍侵攻部隊」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    小禄での戦闘
      そして海軍壕の終焉
    一九四五年六月四日~六月十五日
    写真は「小禄飛行場を占拠して南下する米軍侵攻部隊」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />◆当時の新聞報道<br /> 一九四五年六月七・八日<br />「六月七日付ニューヨーク・タイムズは、『沖縄で最高の戦果、我等の手中に』と、米軍が小禄飛行場全域を制圧したことを報じ、東進、南下を続ける米軍の動きを図入りで紹介している。これに対し日本側は、翌六月八日付紙面でようやく米軍の小禄地区上陸を報じている。」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    ◆当時の新聞報道
     一九四五年六月七・八日
    「六月七日付ニューヨーク・タイムズは、『沖縄で最高の戦果、我等の手中に』と、米軍が小禄飛行場全域を制圧したことを報じ、東進、南下を続ける米軍の動きを図入りで紹介している。これに対し日本側は、翌六月八日付紙面でようやく米軍の小禄地区上陸を報じている。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />上写真 「6月4日午前5時、小禄攻略をめざす米第6海兵師団は小禄飛行場北方の鏡水海岸に上陸を開始した。」<br />下写真 「圧倒的な物量を誇る米軍は短期間のうちに比謝川に鉄橋を架設し補給路を確保した」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    上写真 「6月4日午前5時、小禄攻略をめざす米第6海兵師団は小禄飛行場北方の鏡水海岸に上陸を開始した。」
    下写真 「圧倒的な物量を誇る米軍は短期間のうちに比謝川に鉄橋を架設し補給路を確保した」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「日本兵の死体で埋まった小禄の丘を進む第6海兵師団の偵察隊」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「日本兵の死体で埋まった小禄の丘を進む第6海兵師団の偵察隊」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />日本兵の勲章。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    日本兵の勲章。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />戦いの終わり<br />「・・・沖縄には昔から『命どぅ宝』ということわざがある。かろうじて生き残った人びとは『命』というこの世で唯一の『宝』をだいて地上に生還してきたのだった。」

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    戦いの終わり
    「・・・沖縄には昔から『命どぅ宝』ということわざがある。かろうじて生き残った人びとは『命』というこの世で唯一の『宝』をだいて地上に生還してきたのだった。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「24時間におよぶ小禄総攻撃のあと、306人の日本兵が集団投降した。<br />米兵は捕虜認識票を取りつけるのに忙しい」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「24時間におよぶ小禄総攻撃のあと、306人の日本兵が集団投降した。
    米兵は捕虜認識票を取りつけるのに忙しい」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />6月20日に置ける状況 球部隊参謀長発 電文<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    6月20日に置ける状況 球部隊参謀長発 電文

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />壕内から発見された三十年式銃剣と思われる銃剣

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    壕内から発見された三十年式銃剣と思われる銃剣

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />「沖縄戦の戦死者数はまだ不明・・・<br />地上の文化財の九割以上が失われ、・・・<br />地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡はいつまでも消えることはない。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    「沖縄戦の戦死者数はまだ不明・・・
    地上の文化財の九割以上が失われ、・・・
    地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡はいつまでも消えることはない。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲  <br />▽資料館▽<br /><br />アメリカ軍の砲弾か?

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    アメリカ軍の砲弾か?

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲  <br />▽資料館▽<br /><br />アメリカ軍が使用した砲弾は当時の沖縄人1人に4.72発だそうです。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    アメリカ軍が使用した砲弾は当時の沖縄人1人に4.72発だそうです。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲  <br />▽資料館▽<br /><br />故大田実海軍司令官の孫にあたる大田聡氏が海軍戦没者追悼式で呼んだ悼辞全文

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    故大田実海軍司令官の孫にあたる大田聡氏が海軍戦没者追悼式で呼んだ悼辞全文

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />家族への思い、死の覚悟・・・<br />小山軍医長 戦地からの手紙<br />琉球新報記事

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    家族への思い、死の覚悟・・・
    小山軍医長 戦地からの手紙
    琉球新報記事

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />小山正信 海軍軍医少佐 軍歴

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    小山正信 海軍軍医少佐 軍歴

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月2日付の手紙

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月2日付の手紙

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />小山幸枝殿宛て封筒<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    小山幸枝殿宛て封筒

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月6日付の手紙前半原文   小山正信<br />「・・・・之の時は米鬼を思い切りやっつける時だ。勿論生還は期していない。<br />兎に角最後迄ニッコリ笑って死んで行ったと思って呉れ。<br />もう一度我が子の顔が見たいとおもったが之れもあきらめねばならない。<br />         ・・・・お前の買物の留守に小生の腕に抱かれて小生<br />の子守唄で静に眠って行ったあの無心な寝顔等々思出は次から次へと<br />?きない。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月6日付の手紙前半原文 小山正信
    「・・・・之の時は米鬼を思い切りやっつける時だ。勿論生還は期していない。
    兎に角最後迄ニッコリ笑って死んで行ったと思って呉れ。
    もう一度我が子の顔が見たいとおもったが之れもあきらめねばならない。
             ・・・・お前の買物の留守に小生の腕に抱かれて小生
    の子守唄で静に眠って行ったあの無心な寝顔等々思出は次から次へと
    ?きない。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月6日付の手紙後半原文    小山正信

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月6日付の手紙後半原文 小山正信

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月6日付の手紙

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月6日付の手紙

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月22日付の手紙原文

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月22日付の手紙原文

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br />▽資料館▽<br /><br />昭和20年2月22日付の手紙 米軍上陸を予期して出された決別の手紙<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽資料館▽

    昭和20年2月22日付の手紙 米軍上陸を予期して出された決別の手紙

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲   <br /><br />(写真) 11:57 壕入口 <br />初めに105段の階段があります。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲

    (写真) 11:57 壕入口 
    初めに105段の階段があります。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕内はすべて「くわ」や「つるはし」を使って掘られました。<br />*旧海軍司令部壕リーフレット

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕内はすべて「くわ」や「つるはし」を使って掘られました。
    *旧海軍司令部壕リーフレット

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />旧海軍司令部壕見取図

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    旧海軍司令部壕見取図

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />入口から階段へ 。両脇が沢山の千羽鶴で飾られていました。<br />ここでも手指消毒しました。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    入口から階段へ 。両脇が沢山の千羽鶴で飾られていました。
    ここでも手指消毒しました。

    旧海軍司令部壕 名所・史跡

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕入口階段。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕入口階段。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕入口階段。 <br />滑り易いので注意。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕入口階段。 
    滑り易いので注意。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />入口から125m地点。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    入口から125m地点。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />こちらは立入禁止。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    こちらは立入禁止。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕内の3分の1は公開されていません。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕内の3分の1は公開されていません。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕内見取図及び順路。<br />順路通り作戦室に向う。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕内見取図及び順路。
    順路通り作戦室に向う。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽作戦室▽<br />「壁はカマボコ型に掘られており、

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽作戦室▽
    「壁はカマボコ型に掘られており、

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽作戦室▽<br />防護のため漆喰で塗り固められています。」<br />*旧海軍司令部壕リーフレット<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽作戦室▽
    防護のため漆喰で塗り固められています。」
    *旧海軍司令部壕リーフレット

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽作戦室▽<br />作戦室に架けられた絵<br />「ここは作戦を練るための重要な場所で、コンクリートやしっくいで固めた当時のままの部屋です。」*絵のキャプション

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽作戦室▽
    作戦室に架けられた絵
    「ここは作戦を練るための重要な場所で、コンクリートやしっくいで固めた当時のままの部屋です。」*絵のキャプション

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />次は幕僚室。 足元に注意。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    次は幕僚室。 足元に注意。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />狭ーい薄暗い通路。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    狭ーい薄暗い通路。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />当時の配電用碍(がい)子。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    当時の配電用碍(がい)子。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br /><br />配電用碍子ってどれ? 英訳はELECTRIC WIREなので電線のことかなと写真を撮りました。違ったようです。結局どれだったのでしょうか? 電線の下の波打った黒いヒラヒラでしょうか?<br />4K・3Dパノラマ映像のバーチャルツアーで再確認しましたが・・・      *https://kaigungou.ocvb.or.jp/

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲

    配電用碍子ってどれ? 英訳はELECTRIC WIREなので電線のことかなと写真を撮りました。違ったようです。結局どれだったのでしょうか? 電線の下の波打った黒いヒラヒラでしょうか?
    4K・3Dパノラマ映像のバーチャルツアーで再確認しましたが・・・ *https://kaigungou.ocvb.or.jp/

  • 拝借画像<br />(上写真) それもその筈こちらの碍子は盗難にあい当時の取付金具(釘)のみしか残っていないそうです。<br />(下写真) 「下士官室」前にも当時の碍子がありこの形状は当時のままだそうです。<br />旧海軍司令部壕の関係者の方にご教示戴きました。画像の掲載の許可も戴きました。<br /><br />下士官室前の碍子見なかった(&gt;_&lt;) ですが、4K・3Dパノラマ映像で確認できます(^^♪

    拝借画像
    (上写真) それもその筈こちらの碍子は盗難にあい当時の取付金具(釘)のみしか残っていないそうです。
    (下写真) 「下士官室」前にも当時の碍子がありこの形状は当時のままだそうです。
    旧海軍司令部壕の関係者の方にご教示戴きました。画像の掲載の許可も戴きました。

    下士官室前の碍子見なかった(>_<) ですが、4K・3Dパノラマ映像で確認できます(^^♪

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽幕僚室▽

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽幕僚室▽

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽幕僚室▽<br />自決された時の手榴弾の弾痕

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽幕僚室▽
    自決された時の手榴弾の弾痕

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽幕僚室▽<br />自決した時の破片のあとが当時のままくっきり残っている。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽幕僚室▽
    自決した時の破片のあとが当時のままくっきり残っている。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽幕僚室▽<br />当時のままの部屋。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽幕僚室▽
    当時のままの部屋。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />英語を話す人々の見学者も多く見かけました。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽
    英語を話す人々の見学者も多く見かけました。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽暗号室▽<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽暗号室▽

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />矢印通り進んで行けばいいのですが、全てに説明がついている訳でないので分かり難い所も多々。バーチャルツアーがあるのを知ったのはこのブログを作成中でした(&gt;_&lt;) <br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    矢印通り進んで行けばいいのですが、全てに説明がついている訳でないので分かり難い所も多々。バーチャルツアーがあるのを知ったのはこのブログを作成中でした(>_<) 

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕堀り作業 絵<br />「掘り出された壕内の土は、次々とモッコなどによって外に運び出されました。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕堀り作業 絵
    「掘り出された壕内の土は、次々とモッコなどによって外に運び出されました。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽医療室▽<br />医療室と推定される部屋の説明。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽医療室▽
    医療室と推定される部屋の説明。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽医療室▽<br />医療室の絵。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽医療室▽
    医療室の絵。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />こちらにも「沖縄県民はこのように戦いました」の電文が展示されていました。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    こちらにも「沖縄県民はこのように戦いました」の電文が展示されていました。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />参考の為に英文も撮っておきました。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    参考の為に英文も撮っておきました。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />当時の発電機台。 どれを指すのか良く分かりませんでした。こちらの上に発電機がのっていたのでしょうか?<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    当時の発電機台。 どれを指すのか良く分かりませんでした。こちらの上に発電機がのっていたのでしょうか?

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />発電室。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    発電室。

  • 壕堀り作業の絵。<br />「この壕はすべて兵士たちの『つるはし』や『くわ』によって掘られた手づくりの壕です。」<br />

    壕堀り作業の絵。
    「この壕はすべて兵士たちの『つるはし』や『くわ』によって掘られた手づくりの壕です。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />当時のつるはし(恐らく)。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    当時のつるはし(恐らく)。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽下士官室▽<br />下士官室の絵。<br />「玉砕前この部屋には兵士たちがいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽下士官室▽
    下士官室の絵。
    「玉砕前この部屋には兵士たちがいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽下士官室▽<br />「玉砕の近い昭和20年6月頃にはこの部屋は立錘の余地もない程兵士が入りたったままで睡眠休息をとったといわれます。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽下士官室▽
    「玉砕の近い昭和20年6月頃にはこの部屋は立錘の余地もない程兵士が入りたったままで睡眠休息をとったといわれます。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽下士官室▽

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽下士官室▽

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />細い通路はぬかるんでいて滑りやすいのでしっかりした靴の方が安心です。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    細い通路はぬかるんでいて滑りやすいのでしっかりした靴の方が安心です。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽下士官室▽<br />下士官室復元図<br />「当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽下士官室▽
    下士官室復元図
    「当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽下士官室▽<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽下士官室▽

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />出撃の出口<br />出撃風景(出口付近)の絵<br />「兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    出撃の出口
    出撃風景(出口付近)の絵
    「兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />当時の炊事場への通路。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    当時の炊事場への通路。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />司令官室の絵<br />「大田司令官は県民の将来を憂い、『沖縄県民かく戦えり』の電文をこの部屋で書きました。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽
    司令官室の絵
    「大田司令官は県民の将来を憂い、『沖縄県民かく戦えり』の電文をこの部屋で書きました。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />正面壁に薄っすら残った墨書きは、「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と書かれているそうです。<br />  *沖縄文化・観光ポータルサイト 旧海軍司令部壕https://www.okinawan-pearls.go.jp/?act=detail&amp;si=1045<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽
    正面壁に薄っすら残った墨書きは、「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と書かれているそうです。
    *沖縄文化・観光ポータルサイト 旧海軍司令部壕https://www.okinawan-pearls.go.jp/?act=detail&si=1045

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />「大田実司令官他幕僚6名が最後を遂げた当時のままの部屋。」<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽
    「大田実司令官他幕僚6名が最後を遂げた当時のままの部屋。」

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />▽司令官室▽<br />隅に仏様が祀られ、台座に<br />「やすらかに<br /> 鎮まりませと<br />  ひたすらに<br />願ひをこめし<br />黄菊白菊」<br />と刻まれていた。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    ▽司令官室▽
    隅に仏様が祀られ、台座に
    「やすらかに
     鎮まりませと
      ひたすらに
    願ひをこめし
    黄菊白菊」
    と刻まれていた。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />小禄地区戦闘経過要図<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    小禄地区戦闘経過要図

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />QRコードを読み取ると通信電音聞こえますのでお試し下さい。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    QRコードを読み取ると通信電音聞こえますのでお試し下さい。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />米軍上陸全般図<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    米軍上陸全般図

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />出口に進みます。<br /><br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    出口に進みます。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />やっと外の空気が吸えます。

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    やっと外の空気が吸えます。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />(写真)12:15 壕出口 ここにもニチニチソウとオオバナアリアケカズラありました。<br />シェアーサイクル次回は試して見たい。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    (写真)12:15 壕出口 ここにもニチニチソウとオオバナアリアケカズラありました。
    シェアーサイクル次回は試して見たい。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />(写真)12:18壕出口<br />小禄に行くバス停を係員に聞くと、雨が酷いのでタクシーを勧められる。¥630あれば行けるそうだ。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    (写真)12:18壕出口
    小禄に行くバス停を係員に聞くと、雨が酷いのでタクシーを勧められる。¥630あれば行けるそうだ。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕出口。<br />係員が電話でタクシーを呼んでくれた。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕出口。
    係員が電話でタクシーを呼んでくれた。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕出口。<br />晴れていれば景色を楽しみながらノンビリ行けたのでしょうが。<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕出口。
    晴れていれば景色を楽しみながらノンビリ行けたのでしょうが。

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />壕出口。<br />海軍壕公園どころか、慰霊の塔にも行かず(&gt;_&lt;)<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    壕出口。
    海軍壕公園どころか、慰霊の塔にも行かず(>_<)

  • ▽▲旧海軍司令部壕▽▲<br />(写真)12:23日本交通タクシー 送迎代は取られない。聞いたより少し高かったのは雨が降っていたからでしょう。<br />◎タクシー代 \700  旧海軍司令部壕出口→イオン那覇店<br />

    ▽▲旧海軍司令部壕▽▲
    (写真)12:23日本交通タクシー 送迎代は取られない。聞いたより少し高かったのは雨が降っていたからでしょう。
    ◎タクシー代 \700 旧海軍司令部壕出口→イオン那覇店

  • (写真)12:31 イオン那覇店<br />テンブス那覇の観光案内所が確認してくれていた通り、食料品売り場のそばにあるお土産コーナーに少しだけお土産があり、そこでクーポンが使えたのみだった。<br />空港で使えないのも困るので、「雪塩ちんすこう」(¥1,080)と「沖縄の味 三点セット」(¥1,080) を求め、¥2,000沖縄彩発見クーポンと現金\160で払う。<br />

    (写真)12:31 イオン那覇店
    テンブス那覇の観光案内所が確認してくれていた通り、食料品売り場のそばにあるお土産コーナーに少しだけお土産があり、そこでクーポンが使えたのみだった。
    空港で使えないのも困るので、「雪塩ちんすこう」(¥1,080)と「沖縄の味 三点セット」(¥1,080) を求め、¥2,000沖縄彩発見クーポンと現金\160で払う。

  • (写真)12:50 ゆいレール小禄駅。 <br />

    (写真)12:50 ゆいレール小禄駅。

    小禄駅

  • (写真)12:53 小禄駅自由通路より赤嶺方向。右手に黄色のビルはチャビラホテル。<br />小禄駅からゆいレールで壷川へ。<br />◎ゆいレール 小禄→壷川 \230

    (写真)12:53 小禄駅自由通路より赤嶺方向。右手に黄色のビルはチャビラホテル。
    小禄駅からゆいレールで壷川へ。
    ◎ゆいレール 小禄→壷川 \230

  • (写真)13:04 壷川駅自由通路より国場川と奥武山公園。右端は明治橋。<br />

    (写真)13:04 壷川駅自由通路より国場川と奥武山公園。右端は明治橋。

  • 壷川駅自由通路より国場川と那覇大橋。

    壷川駅自由通路より国場川と那覇大橋。

  • (写真) 13:07 メルキュールホテルに戻って来ました。

    (写真) 13:07 メルキュールホテルに戻って来ました。

    メルキュールホテル沖縄那覇 宿・ホテル

  • (写真) 13:08 沖縄彩発見クーポン券を使ってランチを食べ、マッタリするつもりが、月曜日はランチをやっていなかった。特別予約した客のみが食事していた。

    (写真) 13:08 沖縄彩発見クーポン券を使ってランチを食べ、マッタリするつもりが、月曜日はランチをやっていなかった。特別予約した客のみが食事していた。

  • (写真)13:15 ホテルの入口近くの壁。<br />預け荷物を受取り、早い過ぎるが空港に向かう。少し早い便に変更して貰えるかもしれないので。

    (写真)13:15 ホテルの入口近くの壁。
    預け荷物を受取り、早い過ぎるが空港に向かう。少し早い便に変更して貰えるかもしれないので。

  • (写真)13:21 もう来ないかも知れないのでホテル入口のシーサーを撮る。玉に☆(ヒトデかな?)と巻貝?がついていたとは!

    (写真)13:21 もう来ないかも知れないのでホテル入口のシーサーを撮る。玉に☆(ヒトデかな?)と巻貝?がついていたとは!

  • (写真)13:38 ゆいレール那覇空港駅コンコース改札内ステンドグラス  「万国津梁の民」<br />◎ゆいレール 壷川→那覇空港 \270

    (写真)13:38 ゆいレール那覇空港駅コンコース改札内ステンドグラス 「万国津梁の民」
    ◎ゆいレール 壷川→那覇空港 \270

    那覇空港駅

  • 「万国津梁の民」原画・監修:儀間比呂志   <br />海賊と戦う進貢船。明るいステンドグラス。 進貢船の船尾に「順風相」と書かれている。

    「万国津梁の民」原画・監修:儀間比呂志
    海賊と戦う進貢船。明るいステンドグラス。 進貢船の船尾に「順風相」と書かれている。

  • (写真)13:40 ゆいレール那覇空港駅から空港へ。

    (写真)13:40 ゆいレール那覇空港駅から空港へ。

  • (写真)13:41 ターミナルビル2Fに向う。

    (写真)13:41 ターミナルビル2Fに向う。

  • おきなわ彩発見NEXT地域クーポン<br /><br />まずはおきなわ彩発見地域クーポンの使える店を捜す。<br />14:12 エアポートトレーディング グルクン売店(ターミナルビル2F)で<br />ちゅら海の防人カレー (\540×4=\2,160) <br />生 沖縄そば(ソーキ)2食袋  (\903)    ¥3,000彩発見NEXTクーポンと現金\63払う。   * 那覇空港 国内線旅客ターミナルビル 2F

    おきなわ彩発見NEXT地域クーポン

    まずはおきなわ彩発見地域クーポンの使える店を捜す。
    14:12 エアポートトレーディング グルクン売店(ターミナルビル2F)で
    ちゅら海の防人カレー (\540×4=\2,160) 
    生 沖縄そば(ソーキ)2食袋  (\903) ¥3,000彩発見NEXTクーポンと現金\63払う。 * 那覇空港 国内線旅客ターミナルビル 2F

  • (写真)14:49 那覇空港<br />ANAカウンターで早い便に変更できず。前日まででないと不可だそうだ。<br />バッグにお土産を詰めて宅空便で送る。<br />◎快速宅空便  \1,000

    (写真)14:49 那覇空港
    ANAカウンターで早い便に変更できず。前日まででないと不可だそうだ。
    バッグにお土産を詰めて宅空便で送る。
    ◎快速宅空便 \1,000

    那覇空港 空港

  • (写真)14:55▽▲スナックコートby風月▽▲ <br />ゴーヤちゃんぷるーセット<br />左程安いお値段ではありませんが、セルフサービスの店です。<br />お味は可もなく不可もなし。

    (写真)14:55▽▲スナックコートby風月▽▲
    ゴーヤちゃんぷるーセット
    左程安いお値段ではありませんが、セルフサービスの店です。
    お味は可もなく不可もなし。

    スナックコートbyフウゲツ グルメ・レストラン

  • ▽▲スナックコートby風月▽▲<br /> <br />◎ゴーヤちゃんぷるーセット    \1,440<br />オリオンビール     \640<br />

    ▽▲スナックコートby風月▽▲

    ◎ゴーヤちゃんぷるーセット \1,440
    オリオンビール \640

  • (写真)14:58 ▽▲スナックコートby風月▽▲<br />結構混んでました。<br />

    (写真)14:58 ▽▲スナックコートby風月▽▲
    結構混んでました。

  • (写真)15:03 ▽▲スナックコートby風月▽▲ スタイリッシュなお店。<br />

    (写真)15:03 ▽▲スナックコートby風月▽▲ スタイリッシュなお店。

  • (写真)15:25 ▽▲スナックコートby風月▽▲<br />

    (写真)15:25 ▽▲スナックコートby風月▽▲

  • (写真)15:26 ▽▲スナックコートby風月▽▲<br />素直にお薦めを戴きました。 お料理のラストオーダー19:00って早いですね。<br />

    (写真)15:26 ▽▲スナックコートby風月▽▲
    素直にお薦めを戴きました。 お料理のラストオーダー19:00って早いですね。

  • ▽▲スナックコートby風月▽▲<br />沖縄ですものやっぱオリオン。

    ▽▲スナックコートby風月▽▲
    沖縄ですものやっぱオリオン。

  • まだ15:30。 ANA 474は18:10発。

    まだ15:30。 ANA 474は18:10発。

  • (写真)15:30 ここにも胡蝶蘭。

    (写真)15:30 ここにも胡蝶蘭。

  • (写真)15:40 南国らしい素敵な空港。

    (写真)15:40 南国らしい素敵な空港。

  • (写真)15:47 ▽▲キリンビア & スナック▽▲    <br />*那覇空港 国内線旅客ターミナルビル 4F<br /><br />することがないので4階まで来ました。キリンビールの店発見(^^♪<br />一番搾り黒生を飲みました。缶入りの黒よりズーっと美味。<br />10年以上前の新製品、一番搾りStout缶入りでも美味しくてよく飲んでましたが、その後工場が変わると余り美味しくなくなりました。よりおいしくなってとリニューアルがでましたが、こちらもイマイチ。この黒生なら毎日飲みたい。<br />◎一番搾り黒生    \693<br />

    (写真)15:47 ▽▲キリンビア & スナック▽▲
    *那覇空港 国内線旅客ターミナルビル 4F

    することがないので4階まで来ました。キリンビールの店発見(^^♪
    一番搾り黒生を飲みました。缶入りの黒よりズーっと美味。
    10年以上前の新製品、一番搾りStout缶入りでも美味しくてよく飲んでましたが、その後工場が変わると余り美味しくなくなりました。よりおいしくなってとリニューアルがでましたが、こちらもイマイチ。この黒生なら毎日飲みたい。
    ◎一番搾り黒生 \693

  •  ▽▲キリンビア & スナック▽▲<br />明治40年頃キリンビール(株)麒麟山手工場。

    ▽▲キリンビア & スナック▽▲
    明治40年頃キリンビール(株)麒麟山手工場。

  • ▽▲キリンビア & スナック▽▲<br />ナカナカお洒落な店。<br />

    ▽▲キリンビア & スナック▽▲
    ナカナカお洒落な店。

    キリンビア&スナック グルメ・レストラン

  • (写真) 15:49   ▽▲キリンビア & スナック▽▲<br />メニューを見るとモット飲みたくなりますが、健康が心配なオトシゴロ(^^)/

    (写真) 15:49 ▽▲キリンビア & スナック▽▲
    メニューを見るとモット飲みたくなりますが、健康が心配なオトシゴロ(^^)/

  • (写真) 16:33  それにしても、良く降ります。

    (写真) 16:33 それにしても、良く降ります。

  • (写真) 16:55 ANA FESTA店。 ANA搭乗ゲートすぐそば。<br /><br />5月に軽いし安いので買って帰ったオキナワソバが思いの外美味しかったので求める。(227×6=\1,362)<br />

    (写真) 16:55 ANA FESTA店。 ANA搭乗ゲートすぐそば。

    5月に軽いし安いので買って帰ったオキナワソバが思いの外美味しかったので求める。(227×6=\1,362)

    ANAフェスタ 那覇ゲート店 グルメ・レストラン

  • (写真)18:03那覇空港 ピンボケ写真しかありません。<br />ANA 474。17:55には機内の席につけた。各自にモニターがなかったが3席独占(^^♪<br />18:03には搭乗終了。<br />

    (写真)18:03那覇空港 ピンボケ写真しかありません。
    ANA 474。17:55には機内の席につけた。各自にモニターがなかったが3席独占(^^♪
    18:03には搭乗終了。

  • (写真) 20:19 羽田空港<br />

    (写真) 20:19 羽田空港

    羽田空港 第2旅客ターミナル 空港

  • (写真) 20:23 羽田空港<br />20:30 到着予定時刻より少し早く着く。羽田も雨。<br />

    (写真) 20:23 羽田空港
    20:30 到着予定時刻より少し早く着く。羽田も雨。

  • お土産たち<br />ちゅら海の防人カレー こちらとても美味、次回はもっと買いたい。<br />沖縄そば(ソーキ)2食袋の写真撮るの忘れた(&gt;_&lt;)<br /><br />10/17 総歩数17,581歩。<br /><br />ここまでお付き合い下さり有難うございました。<br />10月沖縄グスク巡りやっとおしまい。<br /><br />2023.2.23 パッピー

    お土産たち
    ちゅら海の防人カレー こちらとても美味、次回はもっと買いたい。
    沖縄そば(ソーキ)2食袋の写真撮るの忘れた(>_<)

    10/17 総歩数17,581歩。

    ここまでお付き合い下さり有難うございました。
    10月沖縄グスク巡りやっとおしまい。

    2023.2.23 パッピー

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 快特さん 2023/02/24 14:13:27
    訪問したことが あります
    モノレ-ル駅から TAXIで行きました。
    沖縄の戦跡  悲惨なものが 多くて--
    「ひめゆりの塔」は、一度出かけて 二度目は いけませんでした。

    パッピー

    パッピーさん からの返信 2023/02/24 16:54:28
    Re: 訪問したことが あります
    快特さん
    アクセス、コメント有難うございます。
    沖縄戦禍 悲惨ですが、
    訪沖が叶えば 別の戦跡を訪れたいです。
    美しい碧い海で終わらせてはいけない気がするので。

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