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山形旅行記NO2は2泊3日の2日目、致道博物館のご紹介。ここは想像以上に見どころがあり、写真を撮りまくったところ膨大な枚数になってしまった。それをどうまとめるか、非常に苦慮した。従って表紙画像もどれにしたらよいか迷ったが、やはりこれだろうということで、1881(明治14)年創建の旧西田川郡役所にした。ただしこれは地上からの撮影ではなく、向かいの旧鶴岡警察署庁舎二階バルコニーからのもの。<br />また藩校致道館も見どころ満載だったので、できれば1本の旅行記にまとめたかったが、気力が持つかどうか? 結果的に、やはり致道博物館だけでもかなりの画像枚数となり力尽きてしまった。

山形旅行記NO2:致道博物館

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2020/11/07 - 2020/11/07

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sio爺

sio爺さん

山形旅行記NO2は2泊3日の2日目、致道博物館のご紹介。ここは想像以上に見どころがあり、写真を撮りまくったところ膨大な枚数になってしまった。それをどうまとめるか、非常に苦慮した。従って表紙画像もどれにしたらよいか迷ったが、やはりこれだろうということで、1881(明治14)年創建の旧西田川郡役所にした。ただしこれは地上からの撮影ではなく、向かいの旧鶴岡警察署庁舎二階バルコニーからのもの。
また藩校致道館も見どころ満載だったので、できれば1本の旅行記にまとめたかったが、気力が持つかどうか? 結果的に、やはり致道博物館だけでもかなりの画像枚数となり力尽きてしまった。

旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
レンタカー JALグループ

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  • 旧西田川郡役所:外観<br />初代県令・三島通庸(みちつね)の命により建てられた明治初期の擬洋風建築で、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎。

    旧西田川郡役所:外観
    初代県令・三島通庸(みちつね)の命により建てられた明治初期の擬洋風建築で、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎。

  • 明治天皇の東北御巡幸で鶴岡の行在所(あんざいしょ:御宿舎)となった由緒もあり、明治時代を象徴する建築物として保存するため移築した。<br /><br />

    明治天皇の東北御巡幸で鶴岡の行在所(あんざいしょ:御宿舎)となった由緒もあり、明治時代を象徴する建築物として保存するため移築した。

  • バルコニーと塔や屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊り階段など、要所にルネサンス様式の模倣が見られるとのこと。

    バルコニーと塔や屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊り階段など、要所にルネサンス様式の模倣が見られるとのこと。

  • 正面玄関から一歩中に入ったところ。<br />1階「庄内地方の考古学資料展示室」<br />  「戊辰戦争・西郷隆盛関連資料展示室」<br />2階「明治文化資料(近代の暮らしの資料室)」

    正面玄関から一歩中に入ったところ。
    1階「庄内地方の考古学資料展示室」
      「戊辰戦争・西郷隆盛関連資料展示室」
    2階「明治文化資料(近代の暮らしの資料室)」

  • 致道博物館で最初に入ったのは、旧西田川郡役所だが、ここで素晴らしかったのは説明文だ。画像では上部に少し写っているだけだが、

    致道博物館で最初に入ったのは、旧西田川郡役所だが、ここで素晴らしかったのは説明文だ。画像では上部に少し写っているだけだが、

  • ピックアップすると、こんな感じ。これをガラスケースの外側から見るわけだから、決して見やすくはない。しかし内容は素晴らしく、幕末から明治初期の庄内のことがわかりやすく書かれている。この説明文は「戊辰戦争のはじまり」「庄内の戊辰戦争」について記載されている。

    ピックアップすると、こんな感じ。これをガラスケースの外側から見るわけだから、決して見やすくはない。しかし内容は素晴らしく、幕末から明治初期の庄内のことがわかりやすく書かれている。この説明文は「戊辰戦争のはじまり」「庄内の戊辰戦争」について記載されている。

  • <庄内の戊辰戦争>説明文<br />慶応4年(1868)正月三日に始まる鳥羽・伏見の戦いは新政府軍優位のまま戦局が推移し、旧幕府方総大将の徳川慶喜は正月六日に大坂城を脱出して、二月二日には庄内へも旧幕府方を追討すべき旨を伝える勅書が届く。<br /><br />

    <庄内の戊辰戦争>説明文
    慶応4年(1868)正月三日に始まる鳥羽・伏見の戦いは新政府軍優位のまま戦局が推移し、旧幕府方総大将の徳川慶喜は正月六日に大坂城を脱出して、二月二日には庄内へも旧幕府方を追討すべき旨を伝える勅書が届く。

  • 庄内藩は累代の主家と戦うことはできないと嘆願するが認められなかった。藩主・忠篤(ただずみ)をはじめ庄内藩士らは江戸藩邸を引き払い、庄内へ帰藩した。

    庄内藩は累代の主家と戦うことはできないと嘆願するが認められなかった。藩主・忠篤(ただずみ)をはじめ庄内藩士らは江戸藩邸を引き払い、庄内へ帰藩した。

  • 庄内藩は新政府軍と戦わず済むように平和の道を探ったが叶わず、新政府軍は庄内征討に進発し、4月24日ついに庄内戊辰戦争が始まった。

    庄内藩は新政府軍と戦わず済むように平和の道を探ったが叶わず、新政府軍は庄内征討に進発し、4月24日ついに庄内戊辰戦争が始まった。

  • <戊辰戦争略図>と<庄内藩の降伏><br />7月後半に長岡城が陥落して以降、8月から9月にかけて、同盟軍として庄内藩とともに戦ってきた米沢、仙台、山形、上山などが降伏し、既に全国的な趨勢は決していた。9月14日には会津若松城の総攻撃が始まり、22日には会津藩も降伏している。

    <戊辰戦争略図>と<庄内藩の降伏>
    7月後半に長岡城が陥落して以降、8月から9月にかけて、同盟軍として庄内藩とともに戦ってきた米沢、仙台、山形、上山などが降伏し、既に全国的な趨勢は決していた。9月14日には会津若松城の総攻撃が始まり、22日には会津藩も降伏している。

  • <庄内藩の降伏><br /> そうした中、庄内藩では9月16日に隠居の酒井忠発(ただあき)が降伏の決断をする。庄内藩の使者が政府軍参謀・黒田清隆の元へ謝罪降伏を嘆願し、三日後には黒田が庄内に入り、藩校致道館で庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)と面会し謝罪が認められた。<br /><br /><br />

    <庄内藩の降伏>
     そうした中、庄内藩では9月16日に隠居の酒井忠発(ただあき)が降伏の決断をする。庄内藩の使者が政府軍参謀・黒田清隆の元へ謝罪降伏を嘆願し、三日後には黒田が庄内に入り、藩校致道館で庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)と面会し謝罪が認められた。


  • ここで登場するのが西郷さんだ。<br />黒田から提示された謝罪条件は、①鶴ヶ岡城開城と藩主父子の謹慎、②武器・弾薬などの没収、③藩境にいる兵の引き上げ、というもの。

    ここで登場するのが西郷さんだ。
    黒田から提示された謝罪条件は、①鶴ヶ岡城開城と藩主父子の謹慎、②武器・弾薬などの没収、③藩境にいる兵の引き上げ、というもの。

  • 東北諸藩の中でも最後まで抵抗し続けた庄内藩にとっては、思いがけず寛大な戦後処理だったといえる。のちに、それが西郷隆盛の指示によるものと知り、新たな時代の扉が開かれる。<br />

    東北諸藩の中でも最後まで抵抗し続けた庄内藩にとっては、思いがけず寛大な戦後処理だったといえる。のちに、それが西郷隆盛の指示によるものと知り、新たな時代の扉が開かれる。

  • <西郷隆盛と庄内><br />戊辰戦争で最後まで抵抗し続けた庄内藩にとって、戦後処理は寛大だった。明治2年(1869)、庄内藩中老の菅実秀(すげさねひで)が、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えると、黒田は、その指示は西郷隆盛によるものだと言う。<br />

    <西郷隆盛と庄内>
    戊辰戦争で最後まで抵抗し続けた庄内藩にとって、戦後処理は寛大だった。明治2年(1869)、庄内藩中老の菅実秀(すげさねひで)が、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えると、黒田は、その指示は西郷隆盛によるものだと言う。

  • 黒田も含め、新政府軍の中では、庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、西郷は一貫して寛大な措置を指示したという。

    黒田も含め、新政府軍の中では、庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、西郷は一貫して寛大な措置を指示したという。

  • この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けた。菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶ったということだ。

    この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けた。菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶ったということだ。

  • 庄内藩の歴史以外の展示についても、少しご紹介したい。

    庄内藩の歴史以外の展示についても、少しご紹介したい。

  • 階段もなかなか趣きがある。

    階段もなかなか趣きがある。

  • 箱ぞり:昭和30年代頃までは、自動車もあまり普及せず、除雪も今ほど行き届いていないので、物を運ぶ手段として、大きいものは馬そり、小さいものは箱ぞりを利用したそうだ。

    箱ぞり:昭和30年代頃までは、自動車もあまり普及せず、除雪も今ほど行き届いていないので、物を運ぶ手段として、大きいものは馬そり、小さいものは箱ぞりを利用したそうだ。

  • 龍吐水(りゅうとすい):消火用具

    龍吐水(りゅうとすい):消火用具

  • このペースでいくとなかなか進まないので、そろそろ退出して次の展示に向かう。

    このペースでいくとなかなか進まないので、そろそろ退出して次の展示に向かう。

  • ここは見学場所表示1で、旧庄内藩主の御隠殿<br />幕末に11代藩主忠発(ただあき)が建てた隠居所で、現存するのはその一部とのこと。<br /><br /><br /><br />

    ここは見学場所表示1で、旧庄内藩主の御隠殿
    幕末に11代藩主忠発(ただあき)が建てた隠居所で、現存するのはその一部とのこと。



  • 明治時代の鶴ヶ岡城廃城後は、旧藩主の住居「酒井伯爵邸」となり、藩校致道館の祭器や典籍と教育の機能なども引き継がれたそうだ。

    明治時代の鶴ヶ岡城廃城後は、旧藩主の住居「酒井伯爵邸」となり、藩校致道館の祭器や典籍と教育の機能なども引き継がれたそうだ。

  • 江戸の中屋敷の一部を北前船で運んで移築、庄内領内の材木も大量に使用したという記録が残っているそうだ。

    江戸の中屋敷の一部を北前船で運んで移築、庄内領内の材木も大量に使用したという記録が残っているそうだ。

  • 現在、江戸時代の庄内史、酒井家に伝来した文化財、歴代藩主の書画等を展観できる。

    現在、江戸時代の庄内史、酒井家に伝来した文化財、歴代藩主の書画等を展観できる。

  • 酒井忠篤(ただずみ)筆:酒井家第13・15代当主 <br />唐詩・杜牧「山行」

    酒井忠篤(ただずみ)筆:酒井家第13・15代当主 
    唐詩・杜牧「山行」

  • 酒井忠宝(ただみち)筆:酒井家第14代当主<br />「鳥羽絵 花下酒宴図」 

    酒井忠宝(ただみち)筆:酒井家第14代当主
    「鳥羽絵 花下酒宴図」 

  • 最古の魚拓・錦糸堀の大鮒(ふな)

    最古の魚拓・錦糸堀の大鮒(ふな)

  • 釣りを奨励し愛好する風習からか、庄内地方には江戸時代末期の古い魚拓が残っているそうだ。

    釣りを奨励し愛好する風習からか、庄内地方には江戸時代末期の古い魚拓が残っているそうだ。

  • 副島種臣筆「関雎堂(かんしょどう)」の篇額

    副島種臣筆「関雎堂(かんしょどう)」の篇額

  • 庭園も素晴らしい

    庭園も素晴らしい

  • 旧酒井家江戸屋敷 赤門<br />見学場所番号は、まだ「1附属」だ。<br />

    旧酒井家江戸屋敷 赤門
    見学場所番号は、まだ「1附属」だ。

  • <旧酒井家江戸屋敷 赤門><br />田安徳川家の姫君が酒井家に輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、<br />御隠殿の門にしたと伝わっている。1892(明治25)年、台風で破損したために修復したが、2004(平成16)年8月の台風で破損、古材をできる限り用いて当初の姿に再現したということだ。<br />江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際、江戸屋敷内に姫君のための特別な住居を構えて朱塗りの門が建てられ、これを表門の黒門に対して赤門というそうだ。<br />

    <旧酒井家江戸屋敷 赤門>
    田安徳川家の姫君が酒井家に輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、
    御隠殿の門にしたと伝わっている。1892(明治25)年、台風で破損したために修復したが、2004(平成16)年8月の台風で破損、古材をできる限り用いて当初の姿に再現したということだ。
    江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際、江戸屋敷内に姫君のための特別な住居を構えて朱塗りの門が建てられ、これを表門の黒門に対して赤門というそうだ。

  • 見学場所3、旧鶴岡警察署庁舎<br />ここはまず外観が素晴らしく、

    見学場所3、旧鶴岡警察署庁舎
    ここはまず外観が素晴らしく、

  • いろいろな角度から良いショットが撮れる。

    いろいろな角度から良いショットが撮れる。

  • 明治新政府の威信を示すために建設したとされ、旧西田川郡役所と同様に初代県令・三島通庸(みちつね)が命じ、高橋兼吉が設計した。

    明治新政府の威信を示すために建設したとされ、旧西田川郡役所と同様に初代県令・三島通庸(みちつね)が命じ、高橋兼吉が設計した。

  • 擬洋風建築における一つの到達点を示すものとして評価されている。外部窓廻りなどにルネサンス様式を模しているが、宝形造(ほうぎょうづくり)の堂々たる外観で、屋根の大棟(おおむね)や破風妻飾りなどは在来様式を巧みに取り入れている。

    擬洋風建築における一つの到達点を示すものとして評価されている。外部窓廻りなどにルネサンス様式を模しているが、宝形造(ほうぎょうづくり)の堂々たる外観で、屋根の大棟(おおむね)や破風妻飾りなどは在来様式を巧みに取り入れている。

  • 5年に及ぶ保存修理工事と調査を経て、水色の外壁や3段構造の取調室などが復元された。<br />

    5年に及ぶ保存修理工事と調査を経て、水色の外壁や3段構造の取調室などが復元された。

  • ドールハウスが展示されていた。

    ドールハウスが展示されていた。

  • 家具店

    家具店

  • 菓子店

    菓子店

  • 取調室(これはドールハウスではない)

    取調室(これはドールハウスではない)

  • バルコニーからの景観

    バルコニーからの景観

  • 旧西田川郡役所も、この通り

    旧西田川郡役所も、この通り

  • 見学場所番号4 美術展覧会場<br />

    見学場所番号4 美術展覧会場

  • 長期間の展示ができない文化財(旧庄内藩主酒井家伝来品や博物館収蔵品)などを特別展示するほか、

    長期間の展示ができない文化財(旧庄内藩主酒井家伝来品や博物館収蔵品)などを特別展示するほか、

  • 多様な分野の企画展を行っている。

    多様な分野の企画展を行っている。

  • このときは、刀剣の展示をしていたと思う。

    このときは、刀剣の展示をしていたと思う。

  • 見学場所番号6 旧渋谷家住宅(豪雪地帯の多層民家)<br />ここは、県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家。<br />

    見学場所番号6 旧渋谷家住宅(豪雪地帯の多層民家)
    ここは、県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家。

  • 山峡の雪深い地域に適応した4層構造になっている。<br /><br /><br />ここは、県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家。山峡の雪深い地域に適応した4層構造になっている。江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力(ごうりき:登山者の荷物を背負い、道案内をする人)を生業(なりわい)としていた。明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場とした。「兜(かぶと)造り」と呼ばれる均整のとれた美しい茅葺き屋根が特徴。<br /><br />

    山峡の雪深い地域に適応した4層構造になっている。


    ここは、県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家。山峡の雪深い地域に適応した4層構造になっている。江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力(ごうりき:登山者の荷物を背負い、道案内をする人)を生業(なりわい)としていた。明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場とした。「兜(かぶと)造り」と呼ばれる均整のとれた美しい茅葺き屋根が特徴。

  • 江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力(ごうりき:登山者の荷物を背負い、道案内をする人)を生業(なりわい)としていた。明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場とした。「兜(かぶと)造り」と呼ばれる均整のとれた美しい茅葺き屋根が特徴。

    江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力(ごうりき:登山者の荷物を背負い、道案内をする人)を生業(なりわい)としていた。明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場とした。「兜(かぶと)造り」と呼ばれる均整のとれた美しい茅葺き屋根が特徴。

  • 内部は、こんな感じで

    内部は、こんな感じで

  • 民具、家具調度、農具など

    民具、家具調度、農具など

  • いろいろな物が多数展示されていた。

    いろいろな物が多数展示されていた。

  • 階段は、城郭並みに急だった。

    階段は、城郭並みに急だった。

  • 足踏脱穀機

    足踏脱穀機

  • 米じょうご

    米じょうご

  • 苗舟(なえぶね)<br />堆肥の運搬や、田植えの時の苗の運搬に、田面を滑らせて運ぶもの

    苗舟(なえぶね)
    堆肥の運搬や、田植えの時の苗の運搬に、田面を滑らせて運ぶもの

  • 見学場所番号8 民具の蔵(旧御隠殿土蔵)<br />この土蔵は江戸時代末期に御隠殿に付属して建てられた。<br /><br />

    見学場所番号8 民具の蔵(旧御隠殿土蔵)
    この土蔵は江戸時代末期に御隠殿に付属して建てられた。

  • 明治時代以降は、旧藩主・酒井家伝来の武具や調度品類を収納していた。敷地内にはいくつも土蔵があったが、現存するのはこの一棟のみとのこと。<br />

    明治時代以降は、旧藩主・酒井家伝来の武具や調度品類を収納していた。敷地内にはいくつも土蔵があったが、現存するのはこの一棟のみとのこと。

  • ここも展示物がすごかった。<br />これは「飲料水用送水木」<br />

    ここも展示物がすごかった。
    これは「飲料水用送水木」

  • 明治40年代に鶴岡市矢馳(やばせ)の木村久兵衛翁が私財を投じて、4mぐらいの杉丸太・約1000本をくり抜いて木管とし、これを連結して約4kmに渡って土中に埋設して、送水に成功したそうだ。

    明治40年代に鶴岡市矢馳(やばせ)の木村久兵衛翁が私財を投じて、4mぐらいの杉丸太・約1000本をくり抜いて木管とし、これを連結して約4kmに渡って土中に埋設して、送水に成功したそうだ。

  • 製&#34847;(せいろう)用具

    製蠟(せいろう)用具

  • 乗合い箱ぞり

    乗合い箱ぞり

  • 石屋道具

    石屋道具

  • 石屋道具の展示

    石屋道具の展示

  • 下駄作り

    下駄作り

  • おけ作り

    おけ作り

  • 階段周辺

    階段周辺

  • <北前船><br />江戸中期から明治中期にかけて、西廻り航路で就航した廻船のことを「北前船」と呼んでいる。北前船には「弁財船」と呼ばれる貨物船が使われた。櫂(かい)や櫓(ろ)を使わずに一枚の巨大な帆を利用して帆走する和船で、中世末に瀬戸内海地方で発達した。<br /><br /><br />

    <北前船>
    江戸中期から明治中期にかけて、西廻り航路で就航した廻船のことを「北前船」と呼んでいる。北前船には「弁財船」と呼ばれる貨物船が使われた。櫂(かい)や櫓(ろ)を使わずに一枚の巨大な帆を利用して帆走する和船で、中世末に瀬戸内海地方で発達した。


  • 北前船は生産地から消費地の米の輸送とともに、西国で木綿や陶磁器・石材を仕入れて北国で売り、北国からは昆布や鰊(にしん)、魚肥などを買い入れて西国で売ることが多くなった。北前船は大きな利益を得ることができたが、明治中期になると鉄道の普及で急速に衰退し、北前船の渡航はみられなくなった。<br /><br /><br />

    北前船は生産地から消費地の米の輸送とともに、西国で木綿や陶磁器・石材を仕入れて北国で売り、北国からは昆布や鰊(にしん)、魚肥などを買い入れて西国で売ることが多くなった。北前船は大きな利益を得ることができたが、明治中期になると鉄道の普及で急速に衰退し、北前船の渡航はみられなくなった。


  • 重要有形民俗文化財収蔵庫

    重要有形民俗文化財収蔵庫

  • 最上川水系の漁法

    最上川水系の漁法

  • 「庄内浜及び飛島の漁撈用具」や「最上川水系の漁撈用具」など、<br />

    「庄内浜及び飛島の漁撈用具」や「最上川水系の漁撈用具」など、

  • 漁船も含めて多数展示していた。

    漁船も含めて多数展示していた。

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