2022/11/28 - 2022/11/30
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gianiさん
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天草諸島を治めた5人衆の本拠地と、
江戸時代の宗教政策を基準に巡回しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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天草諸島に突入。
まずは大矢野島です。
これから地域を支配した「天草五人衆」の足跡を追います。
大矢野、上津浦、栖本、志岐、天草の五氏族です。 -
大矢野氏
大矢野島の大矢野城を本拠地としました。
最古の記録は、蒙古襲来絵詞の中に大矢野種保・種村兄弟が描かれているもの。
五人衆は、室町~桃山時代は肥後国守護に従い、領主として存続します。領域は、現在の上天草市と重なります。
秀吉の九州平定の際に、大矢野種基はキリシタン領主の天草久種に命を救われ、その際に洗礼を受けた。大矢野城跡 名所・史跡
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没落
1590年の天草国人一揆で、五人衆は小西行長に反抗して敗北し、領主としての地位を失います。彼らは小西行長、加藤清正、細川氏と、時の城主に一家臣として仕えました。
大矢野城址には、五輪塔(供養塔)が安置されます。 -
近所の天草四郎公園には、寛政年間の切支丹墓碑8体が移設されています。
天草島原の乱で大矢野島のキリシタンは絶滅したというのが通説でしたが、1967年の発見により覆されました。天草四郎公園 公園・植物園
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墓碑の地面に埋まっている部分に十字架が刻まれていました。
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園内には、天草四郎ミュージアムもあります。
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続いて天草上島へ移動。
旧有明町(現天草市)へ向かいます。
蛸が名産ですが、魚介類全般が本当に美味しいです。 -
上津浦氏
1532-66年まで上島の栖本氏と血みどろの抗争をする。
最期の領主は上津浦種直で、キリスト教を庇護するも洗礼は1590年です。
老岳登山口バス停横に上津浦城跡があります。上津浦城跡 名所・史跡
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道の両側がお城です。左が東が城、右が西が城です。
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田んぼと住宅になっています。
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五人衆の本拠地で、唯一の平城です。
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五輪塔
上津浦氏の供養塔で、13世紀のもの。体長1.7mで天草最大です。 -
南蛮寺(教会)跡
1590年に上津浦種直が建立。領民のうち3,500人超がキリシタンへ帰依した。江戸時代には弾圧のため破壊され、島原・天草の乱後に鈴木正三*の奉じる曹洞宗のお寺が建立。
*天領天草代官鈴木重成の実兄。出家して家督を弟に譲り、天草の宗教政策で弟を補佐した。正覚寺 (南蛮寺跡) 寺・神社・教会
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近年、境内でカマボコ型のキリシタン墓石が発見されました。
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余談
南蛮寺・上津浦城に接する島子地区は、天草島原の乱緒戦の地でもあります。
以上、旧有明町でした。殉教戦発端の跡 名所・史跡
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天草上島・下島は、写真のように、わずか数百メートルの海峡(瀬戸)で対峙します。
いよいよ下島へ。淡路島に次ぐ大きな島です。本渡瀬戸歩道橋 名所・史跡
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現在の天草諸島の中心の本渡には、
本戸城がありました。
城主の居館のあった本丸跡は高級品が発掘され、
現在は博物館になっています。
遅くとも14世紀には、機能していました。天草キリシタン館 美術館・博物館
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五人衆の志岐氏と天草氏の抗争を経て、最終的に天草氏の領域になります。
領主の弟で、ナンバー2の天草種本が城主でした。
五人衆で小西行長に反旗を翻した天草国人一揆(1589~)では、最大の激戦が繰り広げられます。本戸城跡 名所・史跡
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苦戦する小西行長に、熊本から加藤清正の軍勢が加勢。
宣教師らと籠城する天草種本は戦いに敗れて切腹・落城、天草五人衆時代は終焉を迎えます。
籠城側は1300名、清正側は2000名が命を落としました。
余談:ここは天草島原の乱でも原城に次ぐデッドヒートが。 -
延慶寺
当時の激戦を物語る史跡が、兜梅です。
天草勢には300名の婦人も含まれ、イエスの名を唱えながら武装して敵陣へ斬り込みました。
木山弾正の妻お京の方は騎兵として奮戦するも、兜の錣(しころ)が梅の枝に絡まって身動きが取れなくなり、討ち取られました。樹齢500年の古木なので、オリジナルの木です。延慶寺 寺・神社・教会
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本戸城の位置関係
三方が山の斜面、北方は堀で山体と一線を引く堅固な造りでした。
江戸時代には、郡代所も設置されました。
天草四ヶ寺の一つ東向寺は訪問できませんでした。
地図情報だけ残しておきます。東向寺 寺・神社・教会
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志岐氏
1205年に鎌倉幕府から地頭として赴任。最盛期は本戸まで勢力を伸ばします。
地域の名門で、志岐城を本拠地とします。志岐城跡 名所・史跡
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志岐麟泉
1566年に五人衆初のキリシタンとなり、ザビエルと共に来日したトルレス神父を厚遇。トルレスの死後に念願の南蛮貿易は叶わないことが判明すると、棄教、一転して迫害します(1571年)。天草国人一揆を主導し、敗戦と共に逃亡(1590年)。
志岐城本丸跡には、麟泉神社が建ちます。 -
志岐城の麓には、天草四ヶ本寺の一つ国照寺が開基。
天草天領支配の本拠地富岡城の近所とあって、気合が入っています。
本堂には一仏二十五菩薩が配置され、圧倒的な仏教世界が広がります。
庭園も見事でした。国照寺 寺・神社・教会
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河内浦城
五人衆で最大勢力だった天草氏の本拠地として、室町時代から機能。北部の本戸城、南部の久玉城を統括しました。
小西行長の統治下(1590-1600)では、天草のみならず日本のキリシタンおよび西洋文化の中心地として栄えました。
江戸時代には、郡代所としても機能。河内浦城跡公園 公園・植物園
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天草氏
鎌倉時代に地頭に任じられた名門で、志岐氏の2年後の1568年にキリスト教を受け入れ、領主の座を失うまで手厚く庇護しました。その結果、天草諸島の8割の住民がキリシタンに。当時日本一のキリシタン社会で、天草島原の乱の土壌を形成します。活版印刷機が存在し、大量の本が生産配布されて西洋文化が浸透しました。 -
崇円寺
キリスト教文化の根城には、天草四ヶ本寺の一つを配置します。崇円寺 寺・神社・教会
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もう一度上島へ戻り、旧栖本町を目指します。
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円性寺下バス停で降ります。
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とりあえずお寺を目指します。
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仁王像がお出迎え。
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坂道を延々と上ると、
栖本城跡が残ります。 -
栖本氏
13世紀以降、上島南部(沖合の御所浦島群を含む)を統治します。16世紀には、上津浦氏と30年以上抗争を繰り返し、その後は互いに姻戚関係を結びます。栖本城跡 名所・史跡
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栖本鎮通・親高親子は、肥後国人一揆の年に洗礼を受けます。以降、肥後の城主に一家臣として仕えます。
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麓の国道から本丸跡まで、ミニ八十八霊場が敷設されています。
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紅葉と椿の花のコラボが素敵です。
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地面もきれいにお化粧。
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天草島原の乱までは、唐津藩の郡代所として機能しました。
今は、長閑な城跡です。 -
竹藪を降りると、
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円性寺
天草・島原の乱の後、天草代官鈴木重成は、1645年に領内に四ヶ本寺を設置して領民のキリシタン取締役、戸籍調査、通行手形、福祉教育等の宗教・行政機関として機能しました。円性寺 寺・神社・教会
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壮麗なお寺です。
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諏訪神社
円性寺のそばには、天草代官鈴木重成が設置した2社の一つ、栖本諏訪神社があります。天草島原の乱後の宗教政策の一つです。 -
温暖なので、晩秋にもコスモスです。
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最後は、旧倉岳町。
えびす公園には日本最大のえびす像が。倉岳大えびす像公園 公園・植物園
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通称倉岳大えびす
詳細なスペックが。体重320tはインパクトあります。 -
水飲み場もかわいいです。
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沖には御所浦島群(旧御所浦町)が浮かびます。
御所浦島群 自然・景勝地
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旧倉岳町の中心部には、棚底城跡が。
1383年頃に上津浦氏が築城。1544-60年迄は栖本氏の手に墜ちる。1579年頃に廃城。棚底城跡 名所・史跡
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老夫婦の営む落ち着いた旅館。
お風呂は、離れにあります。
その日獲れた魚料理が自慢です。旅館有明荘 宿・ホテル
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食べきれないほどでもなく、腹10分強のボリュームも絶妙。
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倉岳町は、鯛が有名です。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11807669
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