2022/11/28 - 2022/11/28
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gianiさん
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2022/11/28
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天草諸島で平成の大合併に唯一加わらなかったのが苓北町。
三方を海、陸を天草市に接する地勢は、
天草四郎一揆軍に攻められて、袋のネズミとなった400年前と奇しくも同じシチュエーション。
独立を守り抜く、そんな苓北町の魅力に迫ります。
※天草は、甘草を意味する漢字を当てて「苓州」と呼ばれました。
まずは歴史編です。
鎌倉~桃山時代までは、後に天草五人衆を構成する志岐氏が統治、
いち早く西洋への扉を開きました。
天草島原の乱で多数の住民が処刑されて深刻な人口減少に直面すると、
人口を回復するために九州各藩へ移民を割り当てました。
地元で今も「鈴木様」と慕われ崇められる役人も登場します。
時代順に組まれた地図情報も参考にしてください。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
まずは、志岐城へ。
1205~1589年に統治した志岐氏の本拠地です。志岐城跡 名所・史跡
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1205年に藤原光弘が、肥後国・志岐六ヶ浦(現在の苓北町周辺)の地頭に任命される。職に因んで志岐氏と称します。
室町時代の肥後国守護は一色氏、菊池氏、大友宗麟と変わり、天草は守護の影響下で志岐氏を含む五人衆が統治します。
下島のメインは天草氏、北西部を志岐氏という構図になります。
※苓北町の解説は一貫して、島の北半分を支配と記述していますが、実際は苓北町と旧五和町の領域のみで、1/4にも達していません。現地の説明は、かなり盛っていますので要注意。 -
本丸跡には、志岐麟泉(鎮経の法名)社が建ちます。
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二の丸跡。
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二ノ丸は一時避難所にも指定。
海抜82mという天然の要害です。
※本丸広場は海抜88mで、麓との比高差は72mです。 -
西側の景観。
高さ以外にも、海や岩壁、谷や堀などで囲まれ、難攻不落と言われました。
天草での大事件は、1560年。
平戸の戦国大名松浦隆信が派遣した鉄砲隊が上島の棚底に上陸したことです。
松浦氏は1550年に真っ先にキリスト教を受容し、対価として南蛮貿易で鉄砲を手に入れていました。 -
写真:志岐城の模型。奥が西(海側)
上記の戦闘で天草五人衆は、キリスト教を通して西洋文化を取り入れる重要性を痛感します。
1566年に志岐鎮経がアルメイダ修道士を招聘したのを皮切りに、五人衆は相次いで改宗。天草諸島の領民の8割がキリシタンになります。 -
1568年と70年には、志岐で宗教会議も開かれました。
布教長トーレス神父を座長に、布教方針を決定した会議。
志岐麟泉が熱心に誘致した。
トーレスは1570年に志岐で没している。
※ザビエルが日本にいたのは僅か1年。インドへ戻る際に、日本での布教をトーレスに託した(1550年)。トルレス神父の記念広場 公園・植物園
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キリスト教を熱心に誘致した志岐麟泉だったが、志岐港に大型の南蛮船が立ち寄れないことが判明すると態度を一変する。
1571年に棄教し、キリシタンを迫害した。
豊臣政権下で麟泉を発起人として天草五人衆は、肥後大名の小西行長に逆らう(天草国人一揆)も敗れる。志岐麟泉は逃亡、キリシタン4氏は領地を取り上げられる。
写真:苓北町歴史資料館 -
小西行長は超敬虔なキリシタン大名だったので、
天草のキリシタンは行長の庇護を受けた。
国策でキリシタンへの締め付けが進む中、宣教師やキリスト教機関は安全な天草へ避難し、日本の中心として機能する。
行長は関ヶ原の合戦で西軍に組みし、斬首。
写真:富岡ビジターセンター -
徳川政権下では、唐津藩(佐賀県)の飛び地となる。
初代藩主寺沢広高は、
志岐城の出城に過ぎなかった富岡城を本拠地に選定・整備。
※元々は熊本藩主加藤清正に割り当てられたが、熱心に日蓮宗を信仰した清正はキリシタン領民と稲栽培が難しい土地を嫌い、豊後(大分)の臨海部と交換を希望し受け入れられた経緯がある。↓
https://4travel.jp/travelogue/11779147 -
富岡城のロケーション
ほぼ島状の山間部の『 マークの部分です。
広大な領内には、栖本・本戸・河内浦に郡代所を配置しました。富岡城(富岡ビジターセンター) 名所・史跡
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寺沢広高は長崎奉行時代にキリシタンを弾圧するが、南蛮船ボイコットの危機に直面し、政策を転換して自らも洗礼を受ける。
秀吉の意向を汲んで直ぐに棄教するが、天草でも信仰には寛大な政策を展開した。 -
アダム荒川…江戸時代初の殉教者
大御所家康によるキリシタン禁教令に呼応し、志岐教会のガルセス神父が国外追放される。助司祭アダム荒川は捕らえられ、1614年に殉教する。富岡城裏山の刑場での出来事、元和の大殉教より8年前の出来事だった。アダム荒川殉教の地 名所・史跡
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寺沢広高は唐津で統治し、富岡城代の川村四郎左衛門が実務を行った。
アダム荒川は島原半島出身で、過ちの責めを負って斬首になるところを神父の執り成しで延命。入信し生涯を信仰に捧げ、志岐教会で24年間奉仕していた。 -
富岡城二の丸跡に建つ苓北歴史資料館に語ってもらいます。
天草島原の乱(1637~38)
島原藩の圧政(重税と常軌を逸した宗教弾圧)に耐えかねた領民と旧領主の遺臣が結託して、10/25(旧暦)に島原の乱が勃発。数日後、天草も呼応します。
寺沢広高は、天草を4万2千石と評価(実態の2倍以上の数値)し、領民は通常の倍以上の重税が肩にのしかかります。広高・堅高親子による宗教弾圧も厳しいもので、改易された肥後国加藤清正小西行長の遺臣と結託して武装蜂起します。
※島原と同じシチュエーションなのが興味深いです。苓北町歴史資料館 美術館・博物館
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天草四郎
小西行長の遺臣益田好次の息子。一揆の際にリーダーに祭り上げられ、天草四郎を名乗る。史料の記述をもとにいでたちを再現すると、十字の下にひょうたんをぶら下げた和風の姿が浮かび上がる。
11/13に島原勢を引き連れて天草に上陸し、翌日島子、本戸の戦いで富岡城代三宅藤兵衛を討ち、破竹の勢いで敵の本拠地富岡城を目指す。 -
森宗意軒が使用した薙刀
森は小西行長の遺臣。大坂の陣では真田隊として、天草島原一揆にも参加した絵に描いたような反体制分子。江戸時代最後の内戦は、豊臣方の残党狩りを完遂させるイベントでもあった。 -
城代を失った富岡城の兵は11/19-25の猛攻に持ちこたえ、一揆勢は攻略をあきらめる。
写真:損傷と修復を繰り返した富岡城二ノ丸の石垣 -
天草四郎はひそかに対岸の原城へ移動する。
翌年2/28に原城は攻略される。
一揆の責任を取って、寺沢堅高は天草領を没収される。江戸城への出仕も禁止され、気を病んで1647年に自害、無嗣断絶におわる。天草四郎乗船の地 名所・史跡
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富岡藩時代(1638-41)
築城の名手山崎家治が大名として入り、富岡藩時代になる。幕府の補助金で富岡城を改修補強し終えたところで、加増栄転となる。異国船の襲撃も想定した国防の最前線と位置付けられた。 -
山の上の富岡城の前の漆喰の壁。実は堰(ダム)です。
百間土手(実際は172m)と呼ばれ、高さ7.2mの石垣です。
現在も、家治の堤は車道として活用。
土手の手前は海水を引いた堀がありましたが、現在は埋め立てられています。 -
湧き水を堰き止めて袋池が誕生。
寺沢時代の武家町が水没しています。 -
堤を渡りきると大手門が。
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現在も石垣が残ります。内側は三の丸です。
現在の袋井家に位置した武家町は外敵に対して無防備でしたが、
家治は石垣に囲まれた三の丸に移転させました。 -
平成に復元された本丸跡。
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本丸から袋池等を望む。
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山崎家治に次いで、天草は天領に。
代官所が設置され、幕府から派遣された代官が統治(役方)しました(役方)。
軍事面は熊本藩が担当し、藩士千名と軍船20艘で警備しました(番方)。
初代代官は、文武両道に秀でた鈴木重成。
旗本次男坊でしたが、兄の出家に伴い家督を継ぎます。
上方代官として辣腕を発揮し、島原の乱では鉄砲奉行として従軍した前歴が。 -
代官としての初仕事は植民。
領民のほとんどがキリシタンだったため、地域の人口は激減。50年計画で、九州諸藩から移民を募り、一定期間年貢を免除しました。鎖国時代の農村部で、領外から人が集まるのは異例です。
寺社を公金で復興し、精神面での安定と公共事業による景気振興を図りました。 -
島原の乱から10年を記念した慰霊碑を建立。
当時のものが残っているゆえに、国の指定文化財です。
千人塚と呼ばれていますが、実際には3300人以上の犠牲者が葬られています。富岡吉利支丹供養碑 名所・史跡
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志岐城の麓には、見事なお寺が。
石橋を渡り、山門を目指します。 -
重成の兄の正三は、僧侶として弟を補佐。
キリシタン取締と行政的機能を果たす4ヶ本寺の設立を進言します。1645に正三が開基した国照寺も、その一つです。国照寺 寺・神社・教会
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本堂と付属幼稚園
寺領として45石が知行されました。 -
裏には、見事な禅庭園が。
国照寺庭園 寺・神社・教会
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谷間の奥行きを活かしています。
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柿の木と照葉樹、
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亜熱帯樹の組み合わせが素敵です。
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総仕上げは、年貢の半減。詳細な検地を実施し、天草の石高を実態に見合った2万1千石に訂正するよう老中に直訴。幕府の収入減に直結する内容でもあり、自らの死を以て訴えました。
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甥の鈴木重辰(正三の息子)が代官職を引き継ぎ、5年に及ぶ嘆願の末に石高半減は認められました。
領民は重成、正三、重辰の3名を「鈴木様」と呼んで天草各地の鈴木神社に祀り、現在も豊穣を願っています。
天草には潜伏キリシタン、鈴木神社の様な固有の信仰、九州各地からの移民が持ち込んだ土着信仰の3つがミックスした類まれな土地です。 -
富岡藩時代(1664-71)
鈴木重辰は京都代官に栄転し、天草は戸田忠治が入府。再び藩政を取ります。国防を意識した富岡城の維持管理は、2万石の規模では大きな負担になっていました。忠治は内外の情勢を鑑みて、経費削減のために富岡廃城と天草を天領に戻すという献言が受け入れられます。「戸田の破城」と呼ばれ、三の丸だけが代官所として残されました。
忠治も名君とされ、名を忠昌に改めて寺社奉行、京都所司代を歴任して老中に就任します。 -
富岡城について分かりやすい記述がありました。
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おまけ
幕末には若き日の勝海舟が富岡城麓の鎮道寺に逗留し、本堂の柱に刻んだ落書きが今も残っています。榎本武揚や五代友厚も一緒でした。
1714年以降は、日田代官/郡代・島原藩・長崎代官の預地になります(明治維新まで10回も変更)。警備(軍事)は大方島原藩が担います。島原藩は松平家なので、幕府も安心です。
続いて自然・文化篇↓
https://4travel.jp/travelogue/11785301鎮道寺 寺・神社・教会
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