2022/11/28 - 2022/11/28
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
合併前の旧天草町域を巡ります。
外海・天草灘に面し、
穏やかな有明海に面する天草諸島の中では、
勇壮かつ奇岩アリの景観が楽しめます。
西側が海なので、障害物の無いワイルドな夕陽が観られます。
高浜では、真田の落ち武者の家系に遭遇。
刀を捨て、代々庄屋として村人の生活を守るべく公儀と連携。
天草崩れという、5205人ものキリシタン信者が発覚したスポットです。
明治のキリシタン禁教令撤廃後の天草の布教拠点大江も訪れます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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苓北町から旧天草町へ入ると、天草最古の下田温泉があります。
温泉の分かれ道にある展望台。 -
温泉街への分岐点にある展望台。
(フォトスポットパーキングとるぱ)
天草夕陽八景の一つ下田の夕陽が拝めます。
一番右の烏帽子岩がポイント。 -
分かりにくいので拡大。右の岩です。
烏帽子が2本立っているみたい。 -
北側(下田漁港)にある岩。
存在感があります。 -
とるぱは、五足の靴文学遊歩道の駐車場も兼ねます。
五足の靴文学遊歩道 自然・景勝地
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妙見浦展望台より妙見岩を望む。
あまり大したことないです。妙見浦 自然・景勝地
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十三仏展望台は、天草夕陽八景の一つだけでなく、
日本の夕日100選の一つでもあります。十三仏公園展望所 公園・植物園
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約100mの断崖絶壁から眺める西日。
夕陽なら、なおさらかと思います。
国道389号線沿いではなく、側道を1kmほど行ったところにあります。 -
展望台からは妙見岩も見えます。
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展望台から国道へ向かって数分歩くと、ずいぶんと大きく見えます。
右の大きな岩は「象岩」ともいわれる穴の口岩、
左の沖に浮かぶ岩は、妙見岩と呼ばれます。
国の名勝、天然記念物に指定されています。 -
十三仏台展望台から側道を数キロ南下すると、浜に面した高浜集落へ到着。
素敵な古民家と資料館があります。
ちょっと迷いましたが、横の窯元のレジで入場料を払います。高浜焼 寿芳窯 名所・史跡
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いざ入門。
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水面まで階段のある石垣で囲まれた池。
落ち着いた美しさがあります。 -
池沿いの離れ(奥座敷)は1888年築。1932年に与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪問した際は、この部屋に滞在しました。
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窯元らしく、白磁に説明が書かれています。
信州上田・真田家の家臣滋野氏は、大坂の陣で高浜に落ち延び、故郷の上田を姓としました。
第2代勘右衛門は、天草代官鈴木重辰から村の庄屋(世襲制)に任命されます。 -
庭は、落ち着いた美しさです。
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花が良いアクセントです。
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入母屋造りの主屋。
杉檜等を使用せず、雑木を使用。 -
90度回転。
部屋は離れを含めて、全部で20室。 -
1815年築で、海風や台風を200年以上凌いできました。
年数とリノベしていない原状維持が評価され、上田家屋敷は国の文化財に登録されています。 -
一周しました。
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画になる邸宅です。
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蔵を改装した高浜焼の資料館
磁器の歴史
土器・陶器・磁器に大別され、磁器は1世紀の中国で誕生した青磁まで遡ります。
6世紀の北斉には白磁、14世紀の元では染付(⇔無地)の技法が完成します。
日本へは、朝鮮出兵時に鍋島直茂らが陶工を連れ帰ったのがきっかけで、有田などで始まりました。上田資料館 美術館・博物館
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天草の磁器
天草では、1650年頃に地元で陶石が発見されたのがきっかけです。当時の中国は、明が外来の清に征服される動乱の時代で、東南アジア向けの磁器を代わりに日本が生産していました。肥前だけでは需要を賄いきれず、各地で磁器生産が始まりました。しかし1680年頃には中国も社会が安定し、天草も輸出需要が消滅しました。
輸出向けの染付(絵柄)は、鳳凰、雲竜、鯉といったものです。 -
古高浜焼
1763年、高浜村庄屋第6代の上田伝五右衛門が、肥前長与の陶工を雇い入れたのが始まりです。長崎商人が長与の陶工を随行して、陶石の供給地を物色しに高浜を訪れたのがきっかけです。(長崎周辺では1680年代以降も、オランダ東インド会社向けの磁器を生産しており、高値で買い取られました。)
高浜村での陶石採掘は、集落から6km離れた険しい山中。重い陶石を山奥から港まで運び出すだけでも一苦労です。(今も現地を訪れると、高浜が天草の中でも僻地であることを痛感します。) -
そこで、伝五右衛門が考えたのが、採掘現場に焼窯を建設することです。
原料供給地から、付加価値の高い加工製品の供給へシフトすることを意味します。
貧しい村に、思わぬ現金収入!今でいう地域振興・産業振興です。
村内で協議の上、大庄屋の同意、天草代官の認可を得て、プロジェクト始動です。 -
困難と挫折
開窯から4年目の1766年には、呉須(藍色の鉱物顔料で磁器の絵付に用いる。中国からの輸入品)の入手を都合と引き換えに輸出製品の開発を始めます。染手付(赤・緑も使用)を製品化するために、長崎奉行の口利きを添えて、研究開発及び設備投資の資金830両を申請しますが、代官所は却下。自費運営を迫られます。
試行錯誤で誕生したのが、色絵椿文皿(写真)です。天草の花椿をモチーフに、金・紫・黒を加えた6色です。
1771年に訪れた平賀源内は、高浜産の陶石を「天下無双の石」と絶賛しています。
顔料:赤…鉄、緑…銅、紫…マンガン -
オランダ渡(輸出向け磁器)
1777年に長崎奉行の計らいで輸出向け磁器のサンプルを手に入れ、試しに制作した磁器は出来も良く、オランダ人が購入を決めました。翌年には長崎出島店売御免*を公布され、オランダへの販売権を取得。ところが経費が嵩み赤字続きになり、3年後に撤退します。
*オランダ人の前で商品を並べ、客が気に入ったものを購入するというスタイルでした。
※絵柄が当時の日本人の好みに合わず、国内では全然売れなかったそうです。 -
輸出用の製品です。
右:染付梅牡丹文輪花長皿
左:色絵三ツ割草花唐草文六稜大皿(県文化財) 色合いが無上です。
事業は赤字続きで、私財を投入して継続する状態。何度も事業整理を考えましたが。定着すれば貧しい村人の生計の助けになるという「公益」の信念のもとに続けました。 -
上田宜珍(よしうす)1789-1818
1789年に、第7代上田宜珍が庄屋を継ぎます。一言で言えば、前途多難の時代です。中国社会が安定して輸出需要が激減する一方で、特需期に各地で窯元が勃興したことが仇となり、国内市場も過剰供給に陥りました。品質向上のために腕の良い技術者を雇う資金も不足します。例えば、ある高浜焼のお抱え技術者は、熊本細川藩の支援する織田焼へ引き抜かれました。 -
写真:染付唐子文小椀
まずは、国内市場で受ける絵柄を研究しました。
宜珍は肥前三川内へ伝習に赴き、陶工も連れ帰ります。三川内焼のエッセンスを吸収し、高浜焼は飛躍します。
※唐子(頭でっかちの中国の童)文様や口縁の雷文(一般にラーメンどんぶりの模様と認識)といった、三川内焼の特徴が反映されています。 -
1807年には、肥前で修業した瀬戸焼陶工の加藤民吉に上絵の技法を伝授します。衰退した瀬戸焼に磁器を伝来し、磁器の別称を瀬戸物と呼ばれるまでに復興発展させた人物です。瀬戸では、磁祖と呼ばれます。
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陶山永続方定書(1810年)
陶芸従事者に必要な心得をまとめたもの。 -
第十代上田源太夫定行(1823-61)
肥前亀山より陶工を招いた。精巧な染付という亀山焼のエッセンスを吸収し、最盛期を迎える。
写真:色絵奏楽婦人詩句文水指
杜甫の漢詩「花卿に贈る」を絵画化したした作品。 -
色絵人物詩句文建水
こちらも杜甫の詩が書かれている。
建水は茶道具の一つで、茶碗を温めたり清めたりするために使った湯水を捨てるための容器。
明治になると安価な製品にシフトし、呉須の代わりに酸化コバルトを使用。明治32年に高浜焼の火は消えるが、昭和27年に再興、現在に至る。 -
1810年には、国策で日本地図を作成するために伊能忠敬が出没。(庄屋としての)公務の一環として、53日間伊能隊に同行します。写真は、伊能が上田へ宛てた礼状。宜珍の凄いところは、ただの案内役に留まらず、測量のノウハウを学んで身に着けたことです。
1814年には高浜村の大火で、上田家を含む113戸が焼失。再建にあたり、忠敬から学んだ測量術を活用して整然とした災害に強い町を造ります。 -
こうして1815年に再建されたのが、現在の上田家住宅。
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天草崩れ(1805年)
日本史に残る前代未聞の事件が、発覚します。高浜・大江・今富・?津の4村で、5200人もの潜伏キリシタンが検挙されます。「崩れ」の中でも突出するスケールで、天草島原の乱を経験した世代が死に絶えて久しいという意味でも深刻な事件でした。
検挙に先立って役人は、宜珍に捜査を命じました。宜珍は今富村の庄屋を兼任した時期です。一揆に発展しないよう、細心の捜査を行い、公儀に伺いを立てたうえで検挙に踏み切ります。幕府の意向もあって、彼らはキリシタンではなく、
仏教徒が教えに外れる行動を知らずに行っていた「心得違い」であると処理され、御咎めなしの結末に。穏便解決への貢献が評価され、宜珍は一代限りの大庄屋格が授与されます。
寛大な措置のおかげで、明治になって大勢の信者がカトリックへ復帰することへ繋がります。
写真は、高浜村の土地利用図。川沿いに僅かな田んぼがあるだけの貧しい山間部だと分かります。 -
天草崩れの5年後に作成された
先述の「陶山永続方定書」の内容を見ると、
公儀に従う事や神仏を敬い祈願するといった内容が多いです。
数年前に高浜村で起きた「天草崩れ」を強く意識していると感じます。 -
天草崩れの起きた旧大江村へ移動。
国道沿いの駐車場から、500mくらい山道を歩きます。
1872年の禁教令撤廃後、
カトリックへ復帰した潜伏キリシタンの歴史に触れます。大江教会 寺・神社・教会
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1882年にフェリエ神父が来日し、天草で布教。
翌1883年に天草初の大江教会を設立。
1892年の鹿児島異動に伴い、ガルニエ神父が長崎から赴任します。 -
1941年に82歳で没するまで、天草に留まりました。
現在の建物は1933年築で、現存する天草最古の教会です。
ガルニエが私財を投じて建設しました。 -
国道沿いの博物館。
名前からして教会附属かと思いきや、天草市営でした。
天草の布教史と、潜伏キリシタンの遺物が展示されます。天草ロザリオ館 美術館・博物館
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マリヤ観音
幕府の迫害が強くなると、潜伏キリシタンは自分たちの信仰の対象を観音・鬼子母神・地蔵・神棚等に巧みにカムフラージュしました。 -
最初に訪れた「フォトスポットパーキングとるぱ」まで戻ります。
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天草夕陽八景の一つ下田の夕陽が拝めます。
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一番右の烏帽子岩がポイント。
次の旅行記↓
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