2021/11/27 - 2021/11/27
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gianiさん
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2021/11/27
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砦のあるだけの片田舎「島原」を城下町に整備したのは、
島原の乱と深く関係がありました。
前編はこちら↓
https://4travel.jp/travelogue/11779419
- 旅行の満足度
- 5.0
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沖田畷古戦場
島原半島の日野江を本拠地とする有馬氏は、15世紀末に佐賀や大村まで勢力を拡大します。しかし佐賀の龍造寺氏が勢力を伸ばし、1577年に島原市にまで勢力下にします。1584年には、九州覇権を賭けて龍造寺隆信と島津義弘が沖田畷で激突。沖田畷の古戦場 名所・史跡
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隆信は戦死し、島津に加勢した有馬晴信は、再び島原半島全体を統治します。現地には、52歳で戦死した龍造寺隆信の供養塔がありました。
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沖田畷には隆信の遺臣が住み着き、神社を建てて弔いました。神社横の北門交差点には、島原七門の一つ、北門がありました。
二本木神社 寺・神社・教会
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実際に使用された北門(民具史料館で展示)。
北門と反対側の大手門、武家屋敷側の桜門の3か所は、門番が常時3名勤務し、昼間の12時間が開門されました。北門は諫早方面へ通じるので、諫早門と呼ばれました。 -
島原城
有馬氏の後釜となった松倉重政は、1618年に藩庁を日野江から島原に移すことにし、7年かけて城と城下町を建設。4.3万石には過ぎた5層5階建の天守閣を建設。島原城 名所・史跡
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濠も4.3万石には立派過ぎます。
天守閣は、博物館になっています。
地域史は、キリシタン信仰と切っても切り離せません。 -
キリスト教伝来の背景
大航海時代、スペインとポルトガルはアジアの香辛料および金銀を目当てにします。宗教改革で危機意識を抱いた僧職者、殊に修道会と利害が一致し、貿易船に宣教師も同行します。
写真のメルカトル図は、島嶼部のいい加減さが印象的。伝聞恐ろしや。 -
日本のキリスト教を伝えたのは、お馴染みのフランシスコ・ザビエル。イエズス会の創設メンバーで、死後聖人になっています。1549年に鹿児島上陸。以後良く広まるキリスト教。の語呂の通りです。
日本では、イエズス会のポルトガル人宣教師が布教に携わります。16世紀末にはスペインからドメニコ修道会とフランシスコ修道会の宣教師も加わります。
※誤解を防ぐために:イエズス会はパリで結成、本部はローマ。ザビエルはスペイン人です。 -
南蛮貿易と布教
肥前では龍造寺氏が勢力を拡大していましたが、松浦・大村・有馬氏はポルトガルとの貿易で対抗しようとしました。有馬義直の支配する島原半島でも、1567年に口之津港で南蛮貿易が始まります。貿易は、領内の布教と引き換えに行われました。
宣教師が象牙で彫ったマリア像は、イエズス会がインドのゴアを本拠地にアジア管区を布教したことを彷彿させます。 -
実利ゆえにキリスト教を受け入れた支配者の中には、敬虔にキリスト教を信仰するようになる者も現れました。1563年の大村忠純を筆頭に、1576年には忠純の実の兄である有馬義直、1580年には息子の有馬晴信、九州の有力大名では1578年に大友宗麟が洗礼を受けます。
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神学教育
1579年の口之津宗教会議に基づき、1580年に初等教育機関セミナリオを安土と有馬城下の日野江に開設。翌年には司祭養成機関コレジオや修道士養成機関も豊後に開設。敬虔かつ有力大名の大友宗麟の城下を中心に整備されました。 -
天正遣欧少年使節
キリシタン大名3名(大友宗麟・大村忠純・有馬晴信)が、ローマ教皇に送った外交使節。1582年に出発し、1590年に帰国。秀吉は1587年に禁令を出しているが、帰国メンバーは秀吉たっての望みで謁見。
87年の禁令でマカオで差止を食らっていた日本初のグーテンベルク印刷機を、使節は天草に持ち帰ります。 -
有馬晴信書簡(1591年)
ローマ教皇へ宛てた親書。使節が帰国した翌年に、使節への厚意に対する礼を述べている。花押の上に、天正19年8月 修理大夫晴信とある。 -
禁令
秀吉も家康も宣教師に布教を許していた。
有馬晴信は関ヶ原で東軍に与し初代藩主になるも、1612年の岡本大八事件の当事者として処刑される。
事件の当事者が双方ともキリシタンだったので、家康は方針を転換して明文化した禁令を出す(写真:東照権現様宗門御定1613年)。但し、対象は大名と幕臣と天領の住民に限られた。
※晴信の息子の直純は家康のお気に入りだったので、本人の希望を受け入れて日向延岡へ加増転封させている。 -
松倉重政
有馬直純の後に日野江藩を継ぎ、藩庁を島原へ移し、7年かけて城と城下町を整備する。出来上がった城は10万石級で、4万3000石の大名には過ぎたものだった。江戸城改築の際も、禄高を超える大仕事を志願して幕府に媚びた。上記の工事費用を捻出するために、領民へ重税を課した。 -
キリシタン弾圧と雲仙地獄(1627)
松倉重政は南蛮貿易のメリット故に弾圧に及び腰だったが、1625年に家光からその旨を指摘されると反転し、稀代の大弾圧を実行する。雲仙地獄の熱湯で拷問・処刑する様子は、宣教師を通してヨーロッパにも広く知られた(写真:1669年モンタヌス「日本誌」の挿絵)。幕府にマニラ征服を提案し、準備のために重税を課した。 -
松倉勝家
1630年に重政の跡を継ぎ、島原城を白塗りに改装する。領民に10万石相当の課税を行い、年貢を納められなかった農民を「蓑踊り」と称して処刑したことは有名。キリシタン弾圧も相変わらずだった。島原に残った有馬家の遺臣(浪人)と農民が結託し、1637年10月25日に武装蜂起する。 -
島原の乱
10月25日、日野江城跡の有馬村と城下島原で蜂起。島原の寺町に位置する善法寺の義海和尚は、長刀(写真)を持って反乱勢力と戦った。有馬村の反乱勢力は、日野江城跡の向かいにある原城跡に立て籠もる。
※1615年の一国一城令で、原城は廃城になっていた。 -
島原・天草の乱
島原半島の対岸天草でも改易に伴う加藤小西両家の遺臣と農民が共謀して富岡城を攻撃するも落とせず、彼らも原城へ合流します。若きリーダー益田四郎は、天草四郎と名乗って導くも、幕府軍とオランダ船の砲撃(写真)に耐えられず、反乱軍は処刑されます。松倉勝家も領内の責任を問われ、取り潰しかつ斬首刑になります。大名は切腹で最低限の名誉を守れましたが、大坂の陣以降で唯一処刑された大名という不名誉は、農民への残酷な仕打ちが原因でした。 -
島原天草の乱以降、領民は寺院の信徒になることが義務付けられました。役人による定期的な宗門改めの際には、寺請証文(写真)に基づいて名前が呼ばれ、本人確認が行われました。単なる信者名簿ではなく、戸籍として機能(出生・養子縁組・結婚・離縁・死去)しました。更にポルトガル船追放に始まる鎖国制度を完成します。
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島原藩には高力家が入りますが、1669年以降は深溝松平家が統治します。家康の代に分家した三河十八松平家の一つです。写真の甲冑は、家紋の扇が一つなので、三河時代のものだと分かります。
島原入りした松平忠房は文武両道を説き、松平文庫を創設しました。現在は市立図書館内に文庫があります。 -
島原大変(1792)
雲仙普賢岳の噴火とそれに伴う火山性地震。写真は、島原のビフォアアフター。大きな池ができたり、土石流で海が埋まり、沖合には新しい島ができている。城主も含め、全住民が避難する大災害だった。津波は対岸の肥後にもおよび、島原大変肥後大迷惑という言葉が誕生した。 -
災害復興と学問
七代藩主松平忠馮は藩校稽古館を開校、八代藩主松平忠候は医学校済衆館を開校。藩政改革も進んだ。九代藩主忠誠は、三大薬草園の一つ島原藩薬園を開設。1843年には人体解剖も行われた(写真)。 -
上の裸体から始まり、開腹して骨の構造や内臓と深化していきます。
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解剖は、処刑場で行われました。死体処理は忌むべき作業とされたため、画期的です。
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最後の藩主松平忠和は、水戸徳川家の養子。大政奉還を実現した慶喜の弟です。
尊王攘夷運動の核だった父徳川斉昭と、将軍になった兄を持ち、佐幕派として立ち振る舞うも、肝心の戊辰戦争では官軍に味方し、家臣を守りました。 -
本丸を脱出します。
二ノ丸は文化会館と駐車場などになっています。 -
城跡は役所や学校の敷地になりました。
三の丸にあった勘定所は、地域の名門県立島原高校。島原藩勘定所跡 庵 牡丹 グルメ・レストラン
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済衆館跡
藩の医学校で、シーボルト門下の賀来佐一郎を招聘して開校。1843年には人体解剖および解剖図を作成したり、1849年には庶民に種痘を接種させるなど、先進的教育機関でした。現在の住所表記は城内。 -
城門7つと城内を、現代の地図にプロット。
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一度本丸へ戻り、反対側へ。
家老松平勘解由屋敷跡は、島原図書館になっています。 -
開架の奥が松平文庫の展示室。史料の一部をピックアップして展示しています。
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江東寺
島原の乱で藩取り潰しと斬首に遭った松倉重政の墓碑(中央)が。松倉氏の菩提寺です。奥には、島原の乱で幕府軍の総司令官を務め、戦死した板倉重昌の墓碑も。どちらも破損しているのは、島原大変後に土石流の下から見つかったため。
江東寺には、原城から福岡藩主黒田光之が戦利品として持ち帰った蘇鉄の木も移植されています。江東寺 寺・神社・教会
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島原大変の溶岩流で湧き水が堰き止められて誕生した池。市民の憩いの場です。
島原大変の副産物として、地割れ箇所から多くの湧水が。毎日4万トンを超す白土湖の湧水で城下が水没するのを防ぐために、島原藩は排水路(現在の音無川)を建設します。白土湖 自然・景勝地
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池の向かいには、カトリックの教会が。
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城下町の外には、藩の処刑場が。
古くは、宣教師の処刑なども行われましたが、島原大変で埋没。今村刑場跡 名所・史跡
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現在の刑場は19世紀に再開されたもの。
ここで、済衆館の主宰する人体解剖が行われました。
以上、お城を飛び出した歴史スポット巡りでした。 -
島原のキリシタンコレクションは充実しているので、再度潜入します。
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石像マリア観音(天草)
名前を訊くと、禁教期の擬態を連想しますが、実は宣教師が彫ったもの。本人は聖母子にしたつもりでも、日本人には慈悲深い観音様にしか見えません。 -
クルス茶碗
ポルトガルのイエズス会士は、寺社を否定した一方で、日本文化を進んで受け入れることが布教に役立つと考えました。その結果、両者が融合した南蛮文化が花開きます。茶の湯にもクルス(十字架)が。斬新な柄です。 -
茶碗
円内の家紋から、豊後岡城主中川家(キリシタン。中川クルス紋)のものと分かります。花紋様をあしらった十字架が茶碗を覆います。LVを先取りした乙なモノグラムですね。 -
立花家御用箱
柳川藩主、名称立花宗茂もキリシタン大名だった。祇園クルス紋は、かなり洗練されたデザイン。
※秀吉は1587年にバテレン(宣教師)追放令を出すが、大名たちには一切手を出さなかった。1597年の長崎大殉教は、豊臣直轄領かつフランシスコ会への処置だった。 -
風露台丸板
茶の湯を沸かす器具にも、十字柄が。クルスはシンプルなモチーフだけに、デザインの応用が広いです。茶釜を受ける土台は、一流の大名茶人古田織部の作とされる。 -
花文様クルス入り丼
クルスというモチーフが様々な姿に展開。職人の知力を刺激した結果、 -
香炉
庶民による素朴な絵柄だが、南蛮寺(教会)とマントを着た宣教師が描かれる。
初期に寺社勢力の激しい迫害を経験したイエズス会士は、目立たない・同化することを重視した。教会建築ではなく、日本の職人に任せた建築。当時の日本人は服装で人を判断したので、宣教師は地味な着物の上に黒無地のマントを着用した。 -
キリシタン墓碑
かまぼこ型の墓碑で、断面に十字が切られている。
右の墓碑には、慶長8年12月22日の日付が。漢字表記とラテン文字(ポルトガル語の表記)がある。屋外の本丸に展示。 -
織部燈籠
古田織部考案。シルエットが十字架に見えることと、従来の燈籠と構造が全く違うことからキリシタン燈籠と呼ばれる。下部の模様は宣教師だとの憶測も。茶人として、斬新さを追い求めた人物で、キリシタンではない。 -
燭台
教会の祭壇で用いられた器具。宣教師をデザイン。
秀吉の天下統一後、フィリピン経由でスペインと交易が始まり、ドメニコ修道会・フランシスコ修道会の宣教師が来日したが、排他的な姿勢でトラブルを増やし、キリシタンは危険分子という側面が増長した。 -
キリシタン鍔
刀の鍔の装飾に用いられた。有馬直純の延岡移封に際し、キリスト教信仰を守って浪人の道を選んだ家臣も多かった。彼らは堂々とキリシタン鍔を装着した(写真右)。 -
禁教令
有馬晴信が関係した事件がきっかけで、1612年に天領、翌1613年には大名への禁教令が出る。1614年には宣教師追放令を出すが、密入国が絶えなかった。幕府は宣教師と彼らを匿った信徒を処刑した。1629年には踏絵が長崎で始まり、1633年にはキリシタン摘発に懸賞金制度が。写真は1682年の懸賞高札。 -
禁教下での代替信仰
・十字架や聖母子・祈祷句といった信仰の対象を生活品の中に隠す
・暗示や擬態
・シンボルを用いる
といった形で現れた。
写真は1620年頃のハサミ。閉じると柄の下に十字架が現れる。 -
織部燈籠
持ちあげると、台座の部分に十字架が現れる。
こうした行為は、簡単に見つかるのでより巧妙な形へ変化します。 -
マリア観音
幕府がキリシタンを弾圧すると、聖母子像は母子観音像(中央)に擬態して信仰を実践する。弾圧が進むにつれて母子像=キリシタンとなり、聖母のみになる(両端)。 -
納戸仏
いざという時のことを考えて、より小さく、且つ人目に付かない場所に隠すという方向へ。聖母マリアを仏像にカムフラージュしている。 -
錨を下げた柄のかんざし
舟は、聖母マリアのシンボル。 -
魚拓
魚もキリスト教のシンボル。 -
大日如来像
一見、普通に密教を信仰しているように思えるが、背面には十字架に架けられたキリストが彫られている。大日講として、江戸中期まで存続したサークル。 -
天草びな
ひな人形に聖母子を託した。 -
蓮華観音台座と慈母観音菩薩
極楽浄土の蓮の花をあしらった仏教の教えに則ったオーソドックスなスタイルの台座。よく目を凝らすと、十字の透かし彫りが。座上の観音も聖母子を暗示。 -
かぐや姫
竹取物語のワンシーン。中の大日如来の背面には刑柱にかけられたキリストが。 -
鬼子母神
仏教を守る女神で、安産子育の神でもある。
聖母子の姿を託した。 -
禁教は新政府でも。
写真は、太政官令。欧米の批判にさらされ、後に信教の自由が認められる。
民具史料館へ移動します。 -
櫨(はぜ)の木と蝋(ろう)
従来の山櫨や漆の木にとって代わった蝋の原料で、外来種。薩摩から江戸時代に日本各地へ栽培が広まった。4代藩主松平忠刻の時代に植樹が躍進し、全国七大蝋産地の一つとなった。農閑期に仕事が始まるので、農民にとって正月の餅を買うための良い副業だった。何よりも藩の財源として、島原大変からの領民復興に一役買った。特に1790年頃に発見された苗木の品種は後に「昭和福バゼ」と呼ばれ、日本一の品質を誇る。
明治以降も地域を潤す産業だったが、平成2年の不燃普賢岳噴火によって壊滅的な打撃を受け、現在の生産者は2戸のみに留まる。 -
蝋横木式搾り器
通称蝋船。松や樫の幹をくりぬいたもので、105×30×30cmの穴に蒸して下処理した櫨の実を入れます。台板で蓋をして槌で打ち込むと、下の穴から蝋液が搾られます(生蝋)。この時点でも卸せますが、更に精製して付加価値を高めます。
蝋晒し
生蝋を大鍋で加熱し、上記の搾りかすを焼却して出た灰を混ぜてアルカリ反応させる。冷却したものを2週間天日に晒し、漂白する。再び溶かして冷却・天日干しの作業を、色が完全に抜けるまで続ける。こうして見栄えも良い白蝋が完成する。 -
蝋は蝋燭や鬢付け油の原料として重宝されたが、明治以降は化学工業の原料として需要が増した。
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人力車ならぬ、輪タク。
戦後のガソリン不足で誕生。 -
写真は、昭和25年のもので、島原市街で撮影。
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戦後の混乱期の延長というイメージですが、
きちんと県から営業許可取っているみたいです。
今でいう、緑ナンバー。 -
城内には、地元出身の彫刻家北村西望のギャラリーも。
長崎の平和記念像で有名な作家です。
館内には、下描きとなるミニチュア模型が展示。こうした試作を経て完成しました。 -
笑う少女
個人的には、一番ツボにはまった作品。
こんな作品を世に出すなんて、すごいです。 -
絵画も遺しています。
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島原七万石武将隊
4名の島原藩主+天草四郎の5名で構成。活動領域は、週末の島原城内ですが、時々出張もするみたいです。
翌日NHKラジオ第一を聴いていたら、天草四郎が侍言葉で出演していました。福岡局のはっけんTVに生出演するという告知していました↓
https://twitter.com/shimabarabushou/status/1465142055324164097?s=20&t=YPCl0Vne7LQDPhVyXev2Ow -
港へ向かいます。
島原大変で、複雑な地形になりました。 -
大手門前に本店のある豆屋さん。
港の売店でも売っています。
近所の鮮魚平野のランチも評判です。藤田チェリー豆本店 中組店 グルメ・レストラン
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港が見えてきました。
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港にも足湯が。
乗船前に一服。一応、源泉です。島原温泉(泉源公園足湯) 温泉
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かもめ号に乗車。
帰りは、肥後方面の景色なので、大したことないです。
片道乗車なら、断然島原行をお勧めします。
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