2023/04/27 - 2023/04/27
6位(同エリア294件中)
たびたびさん
- たびたびさんTOP
- 旅行記736冊
- クチコミ35333件
- Q&A回答420件
- 5,371,926アクセス
- フォロワー667人
今日からの後半戦は長崎県。小倉から長崎市まで一気に行くという選択もあったのですが、久しぶりに諫早の眼鏡橋が見たくなって、長崎の初日は諫早にしてみました。ただ、諫早に立ち寄ることになるとやっぱり島原まで足を延ばしたくなるのも自然な流れ。ちなみに、島原はこれで3回目になるんですが、初回は2009年で原城がメイン、2回目は雲仙から小浜温泉に抜けたこともあって、島原の市街は気忙しい感じになっていましたからね。また、島原駅の観光案内所でレンタサイクルをやっていることを知って、これなら回れる範囲がぐっと広がります。
ということで、結果としてはメイン島原+ほどほど諫早のバランスとなりましたが、これまで気になっていたいくつかの課題をほぼ解消。それだけでなく、新たな気づきもあって、期待以上の収穫があったように思います。それにしても、コロナ禍明けから恐る恐る九州の旅を再開しましたが、こうして長崎が加わると私としてはやっと本当の正常に戻ったような感じ。やっぱり、長崎は九州では歴史・文化の厚みが断トツ。キリシタンや南蛮文化の名残りや遣唐使の時代も含めた中国文化との関り。明治維新も長崎がなければ実現していなかったかもしれませんからね。ホームグラウンドの関西から福岡に転勤となって寂しくなった気持ちの空白を当時長崎がどれほど埋めてくれたことか。福岡を出てからでもなにか縁があるようで、以降も何度となく訪れていますしね。まあ、その辺りは、次に譲りますが。。
さて、改めて。島原、諫早で今回解消した課題と新たな気づきは、以下の通り。徳川幕府に与えた影響とかも凄まじい島原の乱ほどの大きなテーマではないですが、もう少し肥前や長崎県のレベルに目線を落とすとまた別の小さな歴史や文化も見えてくる。またほどよく楽しい一日になったかなと思います。
①沖田畷の古戦場
龍造寺隆信率いる龍造寺軍とキリシタン大名としても知られる有馬晴信・島津連合軍の戦い。耳川の戦いで大敗し、勢いが弱った大友宗麟を押しのけて、九州北部で日の出の勢いだった龍造寺隆信ですが、この戦いで不覚の討ち死。龍造寺政家の代になると、九州を平定した秀吉、関ケ原の戦い後の家康に本領を安堵されても鳴かず飛ばず。鍋島氏への権力移行が進んで、本家の血筋は断絶。つまり、結局は龍造寺隆信あっての龍造寺家。あまりにも痛い最期だったと思います。
②島原藩松平家
島原の乱の後、幕末まで続いた島原藩松平家。松平文庫が受け継がれていたり、菩提寺である本光寺には松平氏の資料館も。徳川氏の庶流ですが、その学者肌の家風は権勢欲が強くて乱を招いた松倉重政の対極。天草では乱後の人心荒廃に苦慮した鈴木重成の存在がありましたが、島原藩松平家も別のカラーで理に適った政策があったような気がします。
③しまばら水屋敷と銀水
四明荘としまばら水屋敷。ちょっと混同していましたが、今回、はっきり区別がつきました。そして、銀水のかんざらし。これで、湧水の街、島原の見どころがはっきりしたと思います。
④諫早家の鍋島藩諫早領
鍋島藩諫早領の諫早鍋島家は、龍造寺家の庶流、龍造寺家晴が初代。龍造寺本家は断絶しますが、鍋島家の重臣として生き延びます。ほか、佐賀藩内では須古鍋島家、多久鍋島家、武雄鍋島家と併せて龍造寺四家。龍造寺の庶流が平和裏に鍋島家に組み込まれたことがポイントです。
⑤宮崎康平・和子と「まぼろしの邪馬台国」
邪馬台国が島原にあったという突飛な説なのですが、これが邪馬台国ブームに火をつけたというのはちょっと驚き。失明した夫、康平を支えた和子の夫唱婦随が映画にまでなったことも、なにか島原の歴史が土台となっているような。私としては、また長崎の懐の深さの一端に触れたような気がしました。
ちょっとイントロとしてはあれこれ長くなり過ぎましたが、まあ、この辺で。
PR
-
小倉から一路、諫早を目指します。最後は西九州新幹線。今回が初めてですけど、まだ新品ほやほやといった感じの車内。例のJR九州らしい木のぬくもりもあるし、乗り心地は快適です。ただ、乗車時間は本当に短い。博多からリレーつばめと乗り継ぎましたが、駅弁を食べるならリレーつばめの方。新幹線の方ではとてもそんな時間の余裕はありません。
-
諫早駅に到着。
Iisaは、西九州新幹線開業にあわせて整備された駅ビル。諫早駅も新幹線が停まる駅になりましたからね。
夜のビルはブルーを基調にした明りがとってもおしゃれ。商業施設としての賑わいはイマイチかもしれませんが、このビルの存在自体が街の華やぎになっているような気がします。iisa ショッピングモール
-
宿は、諫早駅前すぐの諫早ターミナルホテル。とても分かりやすいし、老舗ホテルらしい落ち着きがありますが、その分、建物とか部屋は少し古びている感もなくはないですけどね。
朝早く出発したので、駅に近いのは助かりましたし、無料の簡単な朝食が付いているのもよかったです。 -
翌朝
島原鉄道で島原に向かって出発です。
有明海が朝日に光って、今日はいい天気になりそうですね。 -
島原鉄道線は、島原の島原港が終点。かつては口之津まで行っていたんですが、廃線廃線で短くなってしまいました。今は島原バスでカバーすることになります。
島原駅に到着。通勤の学生がたくさん利用してますね。島原鉄道 島原鉄道線 乗り物
-
ところで、島原鉄道には一日乗車券があって、それは島鉄バスも含んでいます。諫早から島原までの往復でも元が取れるのですが、島鉄バスを利用すると、例えば、諫早→島原(島原鉄道)、島原→雲仙(島原バス)、雲仙→諫早(島原バス)といったコースが可能になります。めちゃめちゃお得。参考まで。
駅前の像は、おどみゃ島原のおどみゃ島原の~の島原の子守歌です。 -
島原駅から島原城へ。
さほど距離はありません。 -
駅から歩くと突き当りが島原城。
島原城 名所・史跡
-
イチオシ
現在の天守閣とかは復元されたものですが、それにしてもこんなに美しい島原城。
-
知行たかだか4万石の板倉氏が分不相応にりっぱなこの城を建てたことは島原の農民を苦しめた原因のひとつともなりました。
-
入り口は反対側の一か所です。
-
奥の方から入り口を振り返ったアングル。天守閣と右手は島原城売店。
背景には雲仙岳も見えています。 -
イチオシ
天守閣はまだ開いていないので、周辺をぶらぶら。
文化勲章を受けた巨匠北村西望の作品は野外展示もいくつかありまして。
ド迫力の「日蓮」や -
鬼をモチーフにした「人類の危機」
-
こちらは記念館。
-
ここははっきり記憶にありますよ~
-
北村西望の代表作、長崎の平和祈念像。
-
ボクサー
-
加藤清正像は熊本の本妙寺にあったのと同じ
-
この作品なんかもそうだったと思いますが
北村西望の作品は気が付くとあちらこちらの公園にあったりして、意外に目にする機会は多いですよね。 -
続いて、民具資料館の方も行ってみます。
-
ちょっとほこりをかぶっていますが、
-
まあまあ、感じは伝わってきますね。
-
そして、こちらは観光復興記念館。
名前からすると雲仙普賢岳の噴火の被害などを伝える内容が主目的だと思いますが、特別展「和子と宮?康平」を拝見。島原城キリシタン史料館 西望記念館 観光復興記念館 美術館・博物館
-
地元出身で、島原鉄道の常務も務めた宮崎康平が古代史研究家、作家として著した「まぼろしの邪馬台国」。
-
邪馬台国は島原にあったとする突飛な説ですが、これが邪馬台国ブームを引き起こし、
-
また、失明した宮崎康平の活動を支えた和子との二人三脚は映画にもなったよう。
さだまさしが言葉を寄せていて、改めてさだまさしの長崎を巡る見識の広さは素晴らしい。それも含めてやっぱり長崎はいいなあという思いになりました。 -
では、島原城の天守閣に入って、島原城キリシタン史料館を拝見しましょう。
-
ここも三度目なんだと思いますが、こういうものは見るたびに何か新しい発見があるものですからね。
-
展示室には島原の乱やキリシタンの弾圧を含めてかなりの数のキリシタン関係の展示があって、けっこう見ごたえがあります。
-
島原城の全景や
-
こちらは、島原半島の全体。
ちらりと有馬の文字が見えますが、龍造寺隆信を討った有馬晴信は島原を根拠地としていました。当時は島原藩ではなく、肥前国日野江藩と言っていた時代。龍造寺家の圧迫を受けて、肥前の地から追われていた側面もあるようですが、いずれにしても熱心なキリシタン大名であった有馬晴信のもとでキリシタンの布教が活発化。島原の乱を引き起こすエネルギーの一端となったことは容易に想像できると思います。
しかし、慶長17年(1612年)、徳川幕府から禁教令が出されると家康の養女を娶っていた息子、直純は嫌気がさして、延岡藩に転封。その後、有馬家は糸魚川藩、丸岡藩と移り幕末まで。丸岡藩の時代に譜代に格上げされ、老中を出すまでになるという穏やかな経過をたどっています。 -
南蛮船との貿易もキリシタン大名にとっては、大きな魅力の一つ。
龍造寺氏と戦った当時の有馬晴信も意外に豊かな経済力を持っていたと言われます。 -
禁教令のもとでの隠れキリシタン。
-
雲仙地獄の殉教図とか内容は悲惨なものですが、
-
一方で展示品には別の意味での美しさもあるので、
-
イチオシ
そこまで暗澹たる気分にはならないかな。
-
あくまで歴史の事実として、フラットに鑑賞できるものだと思います。
-
島原の乱、原城の布陣図。
37千の一揆軍を12万の幕府軍が囲み、苦戦の末ではありますが、最終的には一揆軍を殲滅。原城のほねかみ地蔵でその衝撃の事実を知ったのもまだ強く記憶に残るところです。
島原では乱によって領民がいなくなり、移民によって耕作地が確保されるという非常事態。地元の人はその末裔が多いかもしれませんね。 -
二階は郷土資料展。
-
島原藩主家の秘蔵品といったところでしょうか。
御所人形や -
貝合わせ
-
百人一首のかるたにも
そこはかと大名家に相応しい格調を感じます。 -
展望室からは
-
雲仙方面に
-
有明海も
-
海と山に囲まれて
平野が少ないことは一目瞭然ですね。
では、これで島原城はおしまい。 -
島原城から今度は島原城のお堀の脇にある島原図書館へ。
松平文庫は、旧島原藩主松平家が歴代にわたり収集・所蔵していた古典籍類約1万点のコレクションこと。松平文庫 美術館・博物館
-
ここ島原図書館が管理をしていて、その一端を拝見しました。文学・歴史・兵法・絵図。いろんなジャンルに興味を持って収集が続けられたよう。島原の乱の後の殺伐とした空気の中で、少しは癒しにもなったかもしれません。
-
ついでに、近くの速魚川の湧水へも。
こちらは、猪原金物店が設置した自噴井戸。ひしゃくも付いた水飲み場です。 -
イチオシ
毎分150?の勢いがあるようですが、けっこうな迫力。周囲にはあれこれと配された水生植物の緑も鮮やかで、水の豊かな島原らしい一角です。
-
島原駅に戻ってきて、これは島原駅の構内にある観光案内所。
ここからはレンタサイクルを利用します。沖田畷の古戦場、旧島原藩薬園跡や島原港の方まで回れるので、かなり重宝。島原は坂も多いと思いましたが、まあまあいけますので、ご安心を! -
まずは、島原鉄道に沿うように北に向かって、二本木神社。
龍造寺隆信が島津・有馬連合軍と激突した沖田畷の戦いの古戦場の近くという場所。 -
戦いで亡くなった隆信の霊を慰めるために家臣が建てた祠を起源とするようですが、けっこう古びた石造りの鳥居とその奥にはちょっと壊れそうな社殿。境内も少し荒れていて、痛々しい感じです。
-
そこから沖田畷の古戦場へ。碑は個人の所有地の中。少し遠慮しながら入って行きました。
天正12年(1584年)、龍造寺隆信軍25000と有馬晴信・島津義久軍8000が沖田畷で激突。細い一本の道しかない湿地帯だったことや大軍で油断もあったことから大将である隆信が討ち取られることで戦いは決着。龍造寺氏の九州制覇の夢は潰えます。
限られた一角ですが、龍造寺隆信の供養塔が建ち、傍らには沖田畷の戦いに至った経緯が詳しく解説されています。
ちなみに、龍造寺氏、大友氏、島津氏の戦いで重要な戦いは以下の通り。その後は、島津氏が九州を制覇する寸前で秀吉の九州平定の前に屈服するという流れです。
元亀元年(1570年) 今山の戦い 大友氏対龍造寺氏
→龍造寺氏が大友氏の大軍を撃退
天正6年(1578年) 耳川の戦い 大友氏対島津氏
→大友氏が大敗
天正12年(1584年) 沖田畷の戦い 龍造寺氏対有馬・島津氏沖田畷の古戦場 名所・史跡
-
続いての本光寺は、島原藩主、松平氏の菩提寺。赤い山門は島原の乱の後、島原に入封した島原藩主松平家の初代、松井文庫の創始者でもある松平忠房が元禄3年(1690年)、母の菩提を弔うために建てたものです。
-
山門から入って
-
本堂の手前には見事な枝垂れ桜。
-
そして、本堂の続きには島原城から移築された常盤御殿。常盤歴史資料館があって、松平文庫にもつながる島原松平家の家風を垣間見るような展示物の数々があって、なかなかの見応え。ちなみに、松平氏の庶流である五井松平家からさらに分かれた深溝松平家が島原の松平家。そうした細かな資料も含まれていて、徳川氏につながる家系であることに強いプライドがあったようにも感じました。
-
少し移動して、これは旧島原藩薬園跡。日本三大薬園の一つで国の史跡ともなっている薬草園。
-
園内に入ると雲仙岳をバックにして石垣をしっかりと築いた段々畑のような景色。
-
イチオシ
何人かの人が作業をしていらっしゃいましたが、よく手入れが行き届いて管理状態は良好ですね。
-
マニアックな施設かと思っていましたが、植物園みたいに素直に楽しめる。けっこうお勧めです。
-
市街に戻ってきて、早めの昼飯。島原で昼飯なら、姫松屋。島原名物、具雑煮の老舗です。
島原城の隣りにあって。超人気店というか、この店の他に、具雑煮で有名な店がないので、みなさんここに集まってくるのだと思います。 -
イチオシ
今回は、大盛りを注文。それにしても、ここの具雑煮は、なんだかんだと入っているものが豪華。確かに、島原半島地域では、正月に食べるおめでたい雑煮。いつでも食べるものではないようです。また、由来は、島原の乱。天草四郎が37千人の信徒達と原城に籠城した際、山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊いて3か月も戦ったというのです。まあ、似て非なるものだったとは思いますが、島原ならではの由来話ですね。
-
では、また。武家屋敷辺りから。
時鐘楼も松平忠房ゆかりの遺構。「民に時刻を知らしめ、これを励行せしめることは政治の要道である」として豊後高田の治工に命じて鐘を鋳造させたということ。その鐘は太平洋戦争の供出にあってしまったようですが、今はこうして復元されています。 -
イチオシ
これが武家屋敷の中心通り。真ん中に水路が流れているのが特徴的ですよね。
ここで公開されている屋敷は山本邸 篠塚邸 鳥田邸の三つです。 -
最初の山本家は17石二人扶持。
-
一刀流の免許、萩野流鉄砲術師範。
-
大銃術の免許皆伝を得て重職。
-
質素ですが、邸内はそれなりの格式を感じます。
-
また、門構えは藩主より特別の許可があったという長屋門です。
-
二つ目の篠塚邸は修復工事中。
-
山本邸の並び篠塚邸の向かい側に武家屋敷無料休憩所というのがありました。武家屋敷の邸内は中に上がることが出来ないのでその代わりということでしょうか。敷地の一角には池のある日本庭園が整備されていて、水車までありました。ご丁寧にという感じです。
-
そして、三つ目の鳥田家もは材木奉行、宗門方加役、船津往来番などの重職についていた家柄。
-
質実剛健で凛とした雰囲気が今でも感じられる邸内です。
-
それぞれ自由に見学できるのがいいですね。
-
武家屋敷のエリアでもう一つ見逃せないのは、このさかきばら郷土史料館でしょう。個人がやっている資料館です。
-
今回は二回目。前回来た時にご主人が島原の乱の一揆軍を賊軍と呼んでいて、それが特に印象に残っていたのですが、まあ深い意味はないと思います。
-
改めて展示品を拝見すると。。島原の乱の関係や
-
島原の城下町の古地図や民芸品の凧、江戸時代の提灯や蝋燭立といった生活道具。
-
丁寧にコレクションされていて。
-
そして、ここにも「まぼろしの邪馬台国」宮崎康平の関連。
-
映画のポスターなんかもありまして、やっぱりこれは島原を理解する上では欠かせないものの一つ。さすが地元の方という確かな目線を感じる内容です。
-
武家屋敷に続いては、島原市街の至る所にある湧水関係です。
このしんわの泉もその一つ。ただ、しんわの泉が変わっているのは、普通の湧水と島原温泉の温泉水の両方が飲めること。これは普通の湧水の方ですが、どちらもひしゃくが掛かっていて、飲めるということが分かります。 -
しんわの泉のほど近く。ゆとろぎ足湯は、島原一番街商店街の裏手の方。ちょっとした広場のような空き地の隅っこにしっかりと整備された足湯です。この日も何人かが利用していて、足湯を楽しんでいましたが、使い勝手もよさそう。少し大人数でも大丈夫です。
-
で、これが島原一番街。島原市街の中心部にあるアーケード商店街だけにそれなりに活気もあるし、昔ながらの商店街としての落ち着きもあるような気がします。お菓子屋さんや共同温泉、湧水も近くにあるし、この辺りをぶらぶらするだけでもちゃんと島原観光になっているのもすごいですよね。
-
島原一番街を抜けると
-
鯉の泳ぐまちのエリアに入ります。
-
これは、鯉の泳ぐまちの観光交流センターとして整備された清流亭。
-
無造作な感じで開けた敷地には、意外にけっこう大きな湧水の池と傍らには傘の付いたテーブル席も。建物の方はちょっとおしゃれなお土産物屋さん。厳選した商品が並びます。
-
その先のしまばら湧水館は、観光スポットと言うよりも古民家を活用したカフェ。
-
建物に入る前に
-
お庭を拝見すると
庭の池は湧水なのかもしれませんが、静かな普通の池といった感じで、”湧水”の気配はないような気がします。 -
まあ、それはそれとして、
-
畳敷きにテーブル席が並ぶしゃれた店内。
-
ここでやっと初めて名物のかんざらしをいただいて一息入れました。
ほんのりした甘さには疲れが癒されます。 -
さらに進んで、湧水庭園「四明荘」。お茶屋風の入り口を入ると
-
イチオシ
全面をあけっぴろげにした涼し気な数寄屋風の建物と
-
その周囲には緑に囲まれて
-
錦鯉も泳ぐ浅い湧水の池が広がるというちょっと浮世離れした清らかな光景が現れます。建物へ至る小路の方から眺めるもよし、また建物の縁に座ってそこから池とお庭を眺めるもよしですね。
-
建物の別の側には、
-
池に浮かぶ小島にあやめが植わっているというのもありまして、これもなかなか。
-
座敷では冷たい日本茶をいただいて、
-
まさに日ごろの心の疲れも癒されるような気持ちですね。
-
島原の市街には湧水を活かした施設がいくつかありますが、
-
気持ちの良さという意味ではここが断トツのナンバーワンかと思います。
-
ただ、前回はここがしまばら水屋敷だと勘違いしていて、しまばら水屋敷の方は訪ねずに終わっています。これからまたそちらの方には回らないといけませんね。
-
商店街の方に戻って。これがしまばら水屋敷。
旧日本興業銀行の有名な頭取で財界の鞍馬天狗と呼ばれた中山素平の生家跡です。 -
門を入ってから奥が長くて、その先に立派な木造の母屋。旧家の匂いがプンプンといった感じですが、名所旧跡というよりも全体としては古民家甘味処かな。玄関先ですぐに注文を受け付けてから中に入るという具合。ちょっと覗いてみるといったことはできません。
-
イチオシ
では、座敷の方へ。
-
縁側から
-
湧水の池は下の方。
-
覗き込んで見るような形になりますが、
確かにしまばら水屋敷。立派なお屋敷は日本中にたくさんありますけど、こんな風情のあるお屋敷はほかで出会えるものではないですね。 -
かんざらしをいただいて、改めて一服。
家屋の方には少し傷みはありますがやはりちょっとした勿体があるし。なるほど旧家の心地よさもあると思います。 -
さて、再び自転車で出発。島原市街から南、島原港の方に向かいます。
水頭の井戸は、水頭ポケットパークと書かれた一角。瓦屋根の小さな建物の方から自噴した湧水が二段の水受けに流れ落ちていて、爽やかな印象がありますね。昭和16年、近隣の人が協力して井戸を掘ったところ、この地下水に当たったのだとか。また、かつては波止場水頭と呼ばれ、船番所があったところだという説明もありました。 -
少し移動して、
島原カトリック教会は、白土湖の向かい側。島原は禁教令以降、長崎でも最もキリシタンへの弾圧が激しかった地域。 -
その歴史を記憶にとどめるべく教会内には島原半島殉教者名簿も含む「島原半島殉教時代の教会」の説明パネル。
-
そして、ステンドグラスには殉教のありさまを描いたものがいくつもあって、これは必見ですね。
-
ただ、
-
おどろおどろしいものではないので、
-
静かな気持ちで眺められるのが救いかな。
-
全ては大河の一滴です。
-
さらに進んで。
理性院大師堂は、明治の終わり頃、かつては島であった弁天山に開かれた弘法大師の教えを広めるための大師堂。 -
見どころは奥の方に建つ天如塔。木造の灯台のような建築物ですが、大理石の釈迦如来像を安置する建物。住職は明治から昭和の初期までの時代、海外に売られた娘たち、からゆきさんの供養を南方の巡礼先で行っていて、これを建てる際には生き延びた彼女たちの寄進もあったということです。
-
そして、浜の川湧水まで来ると島原の市街の南端といった感じかな。
-
市街の開けた一角に足洗い場のような浅い囲いの湧水池がありました。青い石材で作られているので、さらさらと流れる湧水は見ているだけで涼し気な感じが伝わってきますね。
-
これに隣接するのが、かんざらしの人気店、銀水です。
かんざらしのお店は島原市内でもあちこちあるんですが、アクセスが不便なこの店を目指してくるお客さんはとても多いようですね。 -
この日も店内はほぼ満席。
-
イチオシ
値段もほんの気持ちだけ高め設定ですが、なるほど甘さといい爽やかさといい確かにちょっと違うような気がします。座敷からだと浜の川湧水は目の前だし、島原に来たらぜひお勧めしたいお店です。
-
さらに南へ。
霊丘公園は、島原藩主、松平氏等を祀る霊丘神社の周辺、境内と一緒になったような公園です。C12の蒸気機関車があったり、芝生の広場にはちょっとした子供の遊具があったり。また、シーズンになるとお花見スポットでもあるようです。 -
で、これが霊丘神社。
島原の乱で改易となった松倉勝家の後を受けて島原藩主となった高力氏が東照宮を勧請したのが始まり。 -
その後、明治になってから島原藩主、松平氏七代の霊等を合祀して現在に至るよう。神社に藩主を祀るというのは明治になってからの流行でもあるので、特別なものということでもないのかな。穏やかな佇まいです。
-
とうとう島原港に到着。
泉源公園足湯は、島原港フェリーターミナルに続くロータリーの脇といった場所。あんまり目立ってはいないのですが、知る人ぞ知るということなんでしょうか。船の待ち合わせとかの時間を使ってかな。ちゃんと地元の人が足湯を楽しんでいました。使い勝手のいい低い高さの腰掛もぐあいがいいと思います。 -
これが島原港フェリーターミナル。島原港は、島原鉄道の終点、島原港駅から歩いて5分くらい。島原港からは熊本港までフェリーが出ていますが、熊本から陸伝いでここに来ようとするととんでもなく時間がかかるのでこのフェリーは価値がありますね。
-
フェリーターミナルの中は広々していて、お土産物売り場とかもかなり充実しています。ただ、人がいないと閑散感がまた半端ないのも仕方ないですね。
-
フェリーターミナルの中には、島原港観光案内所も。島原のほか、雲仙の情報もちゃんとあって。島原から雲仙への路線バスは島原港を経由するので、島原港から雲仙への観光客もそれなりにいるんでしょうね。ちなみに、前述したとおり、島原から雲仙に入った後は雲仙から直接諫早に戻るバスもあるのですが、そんな情報もここで仕入れることが出来ました。
さて、以上で島原はおしまいです。 -
島原鉄道で諫早に戻りますが、その途中。
大三東駅は、有明海が駅のすぐ際まで迫っていて、その長閑な景色が間近に見られるのがウリだったのですが、そこにもうひとつ、幸せの黄色いハンカチという見どころが加わりました。ホームに沿って海側にはためく黄色いハンカチ。黄色いハンカチは高倉健の映画「幸福の黄色いハンカチ」では北海道夕張が舞台ですが、ここでもだんだん馴染んでいくといいなと思います。 -
諫早に戻ってきて、改めてもう少し市内の散策です。
西楽寺は、諫早市街の中にある浄土真宗本願寺派のお寺。すぐそばに円立寺という同じ系統のお寺もあったりして、どちらがどうという感じでもないですね。 -
外観からすると穏やかな普通のお寺という印象でしょうか。しかし、調べても観光の要素はあまりないと思います。
-
いさはや市場は、アエルイーストというきれいなビルの一階。野菜とかの産直がウリのお店。
-
確かにスーパーとは違う店構えですが、ただ、品数は少ない感じだし、パワフルな雰囲気はあんまりないですね。もうちょっとパンチがないと寂しいような気がします。
-
この辺りで賑やかなのはいさはやアエル中央商店街。一つではなくて、栄町通りやほんまち通りといった複数の商店街の集まりです。
諫早市街の中心部にあってアーケードもしっかり。シャッターの閉まっているお店もなくはないですが、それでもこれならまあまあかなと思います。 -
御書院は、長崎県立諫早高等学校・附属中学校の敷地の中。ちょっと遠慮がありましたが、ナビに従って入って行きました。
-
本格的な桃山様式の大名庭園というのですが、確かにこの一角は純粋な日本庭園で学校の敷地とは思えない特別な雰囲気ですね。初代諫早領主、龍造寺家晴はここに壮大な屋敷を造ったということです。
-
この辺りからは、諫早の観光スポットが集まるエリアです。
諫早市美術 歴史館も -
なかなか立派な建物です。
-
まずは諫早の歴史として、諫早の統一を果たした西郷氏の時代から秀吉の九州平定を機に龍造寺氏の所領へ。その際、直接諫早を治めたのは筑後から移った龍造寺家晴。龍造寺の庶流、龍造寺四家の一つで、これが江戸時代になってからも続く佐賀藩諫早領、諫早家(諫早鍋島家)の初代です。諫早家は佐賀藩の家老家であり、諫早が特別な地であったことを窺わせます。
-
そして、見どころのもう一つは現川焼き。
-
土で焼かれる陶器なのですが、磁器と同じくらい薄手で軽いのが特徴。
-
元禄年間から60年くらいの歴史しかない幻の焼きものなのですが、
-
チョコレート色の地色に白い釉薬を刷毛目や
-
スポンジで叩いたような文様が美しいです。
-
今は臥牛窯という窯で復刻されているのですが、いずれにしてもこちらのコレクションは当時のものかな。とても貴重なものだと思います。
実は、私も有田の陶器市で臥牛窯の皿と小鉢を買いました。まだ一度も使ったことがなくて、いつか使ってみたいんですけどね。 -
これもすぐそば。高城神社は、諫早家の初代、龍造寺家晴を祀る神社。
-
明治15年に高城神社として創建されたもので、歴史はさほどありませんが、諫早の今につながる歴史を考えた時、龍造寺家晴のアイデンティティは小さくないものがあるでしょう。
-
高城公園は、諫早公園の東側。通りを挟んだ向かい側にあって、諫早公園の続きという感じ。ほとんど一体感があると思います。あえて言えば、めがね橋のミニチュア版や諫早大水害復興記念碑がある一角が見どころかなと思います。
-
その諫早大水害復興記念碑の傍らに建つのが大悲観世音像。諫早大水害は昭和32年、500名以上の犠牲者が出るという大惨事となったもの。大水害の記憶を留め、かつ犠牲者の霊を慰めるための像は、少し横を向いた穏やかな表情が印象的です。
-
で、これが今回久しぶりに見たかった諫早の眼鏡橋。
眼鏡橋と言えば、長崎市の眼鏡橋が有名ですが、諫早市の眼鏡橋もその堂々とした姿はインパクトが十分。長さ22m、高さ5.46m、幅3.65mの長崎の眼鏡橋に対して、こちらは長さ49.25m、高さ7m、幅5.5m。長さでいうと2倍あって、 -
中央部の広々としたスペースはちょっと小躍りでもしたくなるくらいの痛快さ。
-
越後長岡藩家老の河井継之助も「成程日本一ならん」と書き残しているほど。間違いなく諫早の自慢の一つだと思います。
日が傾いて、橋は日陰になってしまって。こんな写真しか撮れなかったのはちょっと残念でした。 -
慶巌寺は、川を挟んで諫早公園の向かい側。小高い山の上に境内があって、遠くからでも山門の雄姿が目立っています。
-
筑紫琴六段の曲発祥の地であり、龍造寺家晴が朝鮮出兵に着用した名珍作うこん威甲冑を所有していることでも知られます。
-
本明川 飛び石は、いくつかあるようですが、これは諫早公園から向かいの慶巌寺に向かう飛び石。さらさらと流れる川の中に歩いて渡るにはちょうどよい加減で石が並ぶ。少し蛇行しているのは川の流れに抗するのを計算しているような気もします。
-
では、山手の方に向かって
天祐寺は、諫早家の菩提寺。諫早家墓所には、初代龍造寺家晴公から十八代家興までの墓があって、赤い門の向こう側。墓地には、天祐寺の六地蔵という、大永6年頃(1526~1528)に造られた諫早市内最古の六地蔵石幢。石灯籠のような傘の下に六地蔵が彫られているようです。 -
ただ、その手前。赤い仁王像が据えられた仁王門や
-
本堂の前庭を囲む回廊とか。
-
至る所に威厳を感じる雰囲気があって、実質的に藩主の菩提寺といった雰囲気。さすがだなという構えです。
-
そして、最後は諫早神社。意味合いはよく分かりませんが、調べると九州総守護の四面宮。神亀5年(728年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が石祠を建てたのが始まりと伝わります。
-
目の前は本明川なので、市街と同じく低地なのですが、境内には「諫早神社のクス群」という大楠があって深い緑に覆われています。
以上でほぼ予定通り、島原・諫早は完了。これから長崎市に入ります。明日からは長崎市内で二日間。天気が気になりますが、もう少し頑張りたいと思います。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
たびたびさんの関連旅行記
この旅行で行ったホテル
-
島原温泉 島原観光ホテル小涌園
3.22
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
もっと見る
島原(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
170