2022/03/28 - 2022/03/28
200位(同エリア985件中)
パッピーさん
この旅行記のスケジュール
2022/03/28
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バスでの移動
12:17-12:33 ⓬乗り場 岐阜バス ¥220 スイカ不可
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岐阜公園歴史博物館前/岐阜バス停
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徒歩での移動
12:55-13:15
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徒歩での移動
14:06-14:18
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徒歩での移動
14:54-
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この旅行記スケジュールを元に
青春18切符を使い、2泊3日で東海の城巡り。桜色の駿府城、掛川城、犬山城、岐阜城、吉田城、浜松城を巡る お得な1人旅。2日目 岐阜城になります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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https://4travel.jp/travelogue/11750482 犬山城編の続きです。
☆The Second Day☆ 3月28日 ④
11:42 JR鵜沼発 12:02 JR岐阜着
(写真)12:05 岐阜駅
岐阜駅 エスカレーター降りるとすぐに観光事務所ありました。そこで岐阜公園に行くバスのメモを貰いました。 -
(写真)12:05 金ぴかの信長像です。遊園地に来たみたい。(信長ゆめ広場)
信長ゆめ広場 名所・史跡
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(写真) 12:12 丸窓電車 モ513 (信長ゆめ広場)
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(写真) 12:12 丸窓電車 モ513の由来 説明板 (信長ゆめ広場)
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(写真) 12:15 12 番で岐阜公園方面行きのバスを待ちます。
12:17 岐阜発 岐阜バス 片道\220 スイカ不可 -
(写真) 12:34 岐阜城見えます(^^♪
12:33 岐阜公園歴史博物館前着 -
(写真) 12:35
ロープウェー乗り場が分からず写真の道を直進してしまった。 -
(写真) 12:35 岐阜公園 石銘板
岐阜公園 公園・植物園
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(写真) 12:39 女神の噴水 岐阜公園
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(写真) 12:39水が吹き上げてきました。
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(写真) 12:40 板垣退助像
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(写真) 12:41 板垣退助遭難の地 説明板
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(写真) 12:43 山内一豊・千代婚礼の地モニュメント
迂回する長良川が描かれた婚礼の屏風のような黒御影石の前に千代の鏡箱のオブジェがあった。 -
(写真) 12:43「千代の鏡と一豊の出世」駒板
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(写真)12:44 千代と長良川 の話の碑
郡上八幡もいつか行きたいな。 -
(写真) 12:44この道を進むとロープウェー乗り場。
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(写真) 12:46ロープウェー乗り場。往復乗車券 \1,100
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(写真) 12:49 ロープウェーに乗る前に一枚。
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(写真) 12:51 ロープウェーから長良川が良く見えます。
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(写真)12:52 ロープウェーが下りて来ました(^^♪
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(写真) 12:54 ロープウェー山上駅
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(写真) 12:56 金華山のチャート説明板
金華山の大部分はチャートからできています。 -
(写真) 12:57 一ノ門
改修は岐阜城ライオンズクラブ50周年記念寄贈。 -
(写真) 12:58 伝 一ノ門跡 説明板
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(写真) 12:58 岐阜城歴代城主説明板
1代 二階堂行政~ 6代 織田信長 -
(写真) 12:59岐阜城歴代城主説明板
7代 織田信忠~ 12代 織田秀信 -
(写真) 12:59岐阜城略年表
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(写真) 13:02 伝馬場跡説明板
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(写真) 13:03 堀切(切通)説明板
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(写真) 13:03 堀切ってこれでしょうか?
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(写真) 13:05二ノ門の向こうに見えるのは金華山閻魔堂。御本尊は木造閻魔王坐像。
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(写真) 13:05伝 二ノ門・下台所跡 説明板
土塀にかかっています。 -
(写真) 13:06 岐阜城題目塚の由来 説明板
岐阜城は齊藤道三以来多数の戦没者を出した。これらの霊を慰めるため無名の信者により南無妙法蓮華経のお題目碑が建てられた。 -
(写真) 13:07 天守閣がはっきり見えてきました。
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(写真) 13:07 伝 下台所跡 説明板
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(写真) 13:07 稲葉城址之図
随所に砦跡が描かれている。現在の国有林の範囲とほぼ同一の城域。絵図は17世紀後半から18世紀前半に描かれた。 -
(写真) 13:09 戦国時代の井戸跡は20m先
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(写真) 13:10戦国時代の井戸跡。網がかかっているので有難み無し。
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(写真) 13:10 井戸跡 説明板
岩盤を四角形に刳り抜き非常時に貯水施設として利用された。 -
(写真) 13:11 いよいよ天守閣(^^♪
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(写真) 13:15 長良川と長良橋(国道#256)が見えた。川向うの小山は鶴山砦(岩崎城)か?
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(写真) 13:16 天守閣に続く石段に織田木瓜のついた黄色の旗が並んでいる。
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(写真) 13:18 野面積み・乱積みの天守台の隅は算木積み。
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(写真) 13:19お城時計説明板
西洋の機械時計が日本に入ったのは、フランシスコ・ザビエルが周防国に献上したのが最初。 -
(写真) 13:19 お城時計 数字と12支を目盛りとしている。
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前の写真の切り取り
震度6強から7の耐震性能が不足している階層があるそうです。
早く改修完了するといいですね。 -
(写真) 13:19 天守入口横の外壁に架けられた岐阜城の由来の説明板
入場料は資料館と共通で大人¥200 リーフレット貰わなかったので下記で確認。今更ですが70歳以上は無料でした。(>_<) 内覧は靴のままでOKです。
岐阜城リーフレット
*https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/098/gifu_castle_panph2021.pdf -
(写真) 13:23
岐阜と信長公
その治世
永禄10年(1567)、織田信長公は斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。
信長公は、本拠地をここに移し、町の名をそれまでの「井口」から、
「岐阜」に改めました。
その様子は「信長公記」には次のようにあります。
「八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長島へ龍興退散。
さて美濃国一篇仰せ付けられ、尾張国小真木山(小牧山)より濃州稲葉山へ御越しなり。
井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。」
信長公は、この岐阜城を拠点に天下統一に乗り出します。
「岐阜」命名の由来
「岐阜」の命名については、信長公自らが命名したとする説や、
信長公の命により、尾張の政秀寺(現在の名古屋市中区)の
僧侶・沢彦宋恩が提案したとする説、岐阜市長良、
崇福寺住職・柏堂景森が進言したとする説など、諸説があります。
中国の故事
「周の文王が岐山から起こり、
天下を定める」に倣ったもの。@ -
(写真) 13:24
@岐阜
孔子の生誕地「曲阜」から、
太平と学問の地になるよう
願いを込めて。
岐阜城の造営と
城下町の形成
岐阜城は山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心とした城であり、
その間を結ぶ登城路や山中の要所に配された砦、
そして何より山そのものが天然の要害として機能していました。
信長公は城を整備するにあたり、周囲の岩盤など
自然地形を巧みに利用して、それまで単なる軍事施設であった
「城」に「魅せる」という独創性を加え、
城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげました。
また、城下に課税を免除した「楽市楽座」を設けます。
「楽市楽座」のおかげで、全国からヒトやものが集まり、
大いに賑わった当時の町数は44町を数え、
今も大工町、材木町、米屋町、竹屋町などの町名が残っています。 -
(写真) 13:24
信長公の先進的な政策
◎楽市楽座
信長公は戦いで荒廃した地域の復興と城下町経営につとめ、その施策として
楽市・楽座の制札を発給しました。現在まで、市内の円徳寺に、
信長公が発給した2枚の制札を含め、4枚の楽市楽座に関する制札が伝存しています。
◎信長公の撰銭令
旗印に「永楽通宝」を用いた信長公は、永禄12年(一五六九)、撰銭令を発布します。
その制作は良貨を保護しつつ、悪貨には、流通している貨幣の種類に応じて
固定のレートを定めるなど、「貨幣流通量の増加」と「悪貨の流入防止」を
同時に達成しようとする革新的なものでした。「悪貨」とされる銭にも価値を認め、
銭の流通量を積極的に増やす一方、レートに応じて価値に差をつけることで、
悪貨が過剰に流入するのを防ぐ、これまでにない先進的な政策だったと考えられています。
◎関所の撤廃による流通革命
「楽市楽座」で自由な市場による経済の活性化を計った信長公は、
併せて不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、城下の振興と経済の発展を図りました。
これは他の戦国大名の行ったことのない革命的な政策とされています。
また、関所撤廃とあわせ、天正2年(一五七四)末から、道路整備を行います。
この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施されました。
この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となり、
大量の物資が流通するのみならず、多国間の交流を発達し、
日本が中世から近世へと大きな変化を遂げる重要な布石となったのです。 -
(写真) 13:24 岐阜駅で会った金ぴかの信長さんの説明がここにありました。
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(写真) 13:25 岐阜城郭図
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(写真) 13:25 天目茶碗
説明板あったのかな? 岐阜市役所に問い合わせたところ説明板はなかったそうです。山麓で出土されたが、信長が使ったかは不明。出土品を修復したかも不明だそうです。 何なんだ!! でもメール問い合わせにご丁寧に電話回答下さいました。ありがとうございます。 -
(写真) 13:25 北加納宛 織田信長掟書(複製) 岐阜市神田町 円徳寺所蔵
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(写真) 13:25 永禄十一年九月加納宛織田信長掟書(制札)を楷書に書き直したもの
永禄十年の掟書とよく似た内容だが第二条に「楽市楽座」の文言がある。 -
(写真) 13:29 史跡岐阜城跡(織田信長居館跡)出土金箔飾り瓦 説明
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(写真) 13:29 史跡岐阜城跡(織田信長居館跡)出土金箔飾り瓦復元 菊文、牡丹文
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(写真) 13:31 第三章 岐阜城
将軍の様式を意識した
天下獲り開始の居城
小牧山城築城からわずか4年後の永禄10年(一五六七)、
信長公は斎藤龍興の稲葉城を攻略して、美濃を平定。
稲葉城を岐阜城とあらため、新たな本拠地とすべく大規模な改修が行われました。
山頂部には後の天主の前身となる高層の楼閣が建造され、
金華山の尾根筋にあたる重要地点には砦が築かれるなど、
山全体が堅固な軍事要塞として整備されました。
信長公が整備した岐阜城において特筆すべきは山麓に築かれた居館です。
近年の調査や研究により、ルイス・フロイスが絶賛した山麓の居館の全貌が
明らかになってきました。入口には来訪者を圧倒する巨石で石垣が築かれ、
視野が開けると将軍の居城の様子を意識した華麗な建造物が随所に配置されていました。
また、自然の景観を巧みに活かした広大で美しい庭園が整備されるなど、
天下人の居城に相応しい威容が信長公の手によって整えられました。
信長公の天下獲りは、ここ岐阜城から始まります。 -
(写真) 13:32 木造織田信長坐像(複製)
この木造は、本能寺の変で斃れた信長公の菩提を伴う位牌所として、
大徳寺山内に建立された総見院の本堂に安置された
肖像彫刻の複製で、束帯に威儀を正した等身大の像です。
総見院の坐像はヒノキ材が用いられ、頭体を別材から造り、
頭部は前後二材、躰部は正・背面各三材を中心に
数材を寄せて箱状に組まれています。玉眼嵌入の彩色像で、
袍は黒、表袴には白と黒で石畳文の地に五葉の木瓜文が
描かれています。 像底の朱書銘には、本像が天正十一年(一五八三)五月吉日、
七条大仏師宮内卿法印康清によって製作されたことが
記されています。天正10年(一五八二)6月2日、
本能寺で自刃した信長公一周忌の法要は、
翌天正11年(一五八三)6月2日に大徳寺で行われており、
この本像は信長公の一周忌のために製作されたものとみられています。 -
(写真) 13:32 木造織田信長坐像(複製)
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(写真) 13:33 世界に目を向けた
信長公 -
(写真) 13:33 地球儀 江戸時代末
阿蘭陀国渡来ガラス望遠目鏡レンズ 江戸時代 眼鏡 江戸時代 -
(写真) 13:34 遠眼鏡 江戸時代
ルイス・フロイスの岐阜城訪問記 -
(写真) 13:34 ルイス・フロイスの岐阜城訪問日程
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(写真) 13:34 京都南蛮礼拝堂の織田信長像 昭和時代
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(写真) 13:35 火縄銃
現在の銃とは異なり、薬莢を用いず直接弾丸を混める「前込み式」で、
銃口から火薬を入れてから弾丸を詰め、引き金を引くと火縄の火が火薬に
引火し、爆発のガス圧で弾丸が押し出るもの。 -
(写真) 13:35 織田信長公 銀箔押南蛮具足 キャプション
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(写真) 13:35 織田信長公 銀箔押南蛮具足 熱田伸道 制作
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(写真) 13:36 岐阜城より
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(写真) 13:41 岐阜城より長良川
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13:41 岐阜城より
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(写真) 13:42 岐阜城より
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(写真) 13:43 岐阜城より
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イチオシ
(写真) 13:43 岐阜城より
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(写真) 13:43 岐阜城より
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(写真) 13:47 水手道下り口 説明板
帰りは史跡を見ながら徒歩もいいのですが、ロープウェー往復で買ってしまったので。 -
(写真) 13:47 金華山御嶽神社
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(写真) 13:49 手前の建物はWC、奥は 岐阜城資料館
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(写真) 13:51 織田信長像 岐阜城資料館
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(写真) 13:52 岐阜城資料館説明板
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(写真) 13:54岐阜城天守
名残りおしいので再度天守に向う。 -
(写真) 13:56 岐阜城天守
天守ラストショットの筈が。 -
(写真) 14:01石垣・井戸跡説明板
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(写真) 14:01本丸井戸
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(写真) 14:01 野面積み石垣
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(写真) 14:05 表紙の写真を撮って
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(写真) 14:05 道標もしっかり写して。 Goodbye, Gifu Castle!
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(写真) 14:07 二ノ門周辺の石垣 説明板
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(写真) 14:07 二ノ門周辺の石垣 説明板
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(写真) 14:08 二ノ門手前の石垣(後斎藤期)
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(写真) 14:10 松風橋手前の巨石
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(写真) 14:11 松風橋を渡る。
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(写真) 14:12 伝 太鼓櫓跡 説明板
現在のレストラン周辺 -
(写真) 14:13 小山が浮かんでいるよう.
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(写真) 14:19 ロープウェーより
まだ早いけど降ります。 -
(写真) 14:20 ロープウェーより
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(写真) 14:22 ロープウェーより。 岐阜公園の桜はまだ早かった
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(写真) 14:27岐阜城の井戸
平成11年の発掘調査でみつかったのを復元。 -
(写真) 14:28 信長の庭
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(写真) 14:29 信長の庭
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(写真) 14:30 「信長と天下布武」説明板
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(写真) 14:30 天下布武の朱印と信長の署名
天下布武の朱印の上に信長の署名があると知ったのは旅行記作成にあたり「信長と天下布武」説明板を熟読した後。この写真を撮っていた時は右上の黒い印が信長の署名とは知らず、横向きに写してしまった。天下布武と記されているとも気付かず(>_<) -
(写真) 14:34 信長公居館の発掘図
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(写真) 14:34 発掘から推定される信長公居館の地形
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(写真) 14:36 「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜
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(写真) 14:36 山上の城郭 説明板
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(写真) 14:40 三重塔
ロープウェー乗り場の向こうの三重塔へ。 -
(写真) 14:42 三重塔
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(写真) 14:44 水路と石垣 説明パネル
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三重の塔の写真を撮り、発掘調査中の織田信長居館跡へ。
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(写真) 14:46 信長公居館・奥座敷 説明板
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(写真) 14:46 織田信長居館跡
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(写真) 14:47 信長公居館の中枢(千畳敷)説明板
フロイスは「地上の楽園」と讃え、美濃の人々は「信長の極楽」と呼んだそうだ。
織田信長居館跡は発掘中で説明板はあるもののブルーシートのかかった所も多く、私には豚に真珠だった。 -
(写真) 14:48織田信長公居館発掘調査 平成28年度調査の成果
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(写真) 14:53女神の噴水に戻って来ました。
齊藤道三の菩提寺とロープウェーガイドに紹介された常在寺に向う。
ここまでお付き合い下さり有難う御座います。⑤正法寺、妙照寺、常在寺etc.に続きます。
2022.7.31 パッピー
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