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原の辻遺跡での初老のボランティア案内人は心底この島を愛し、この島にやってきた観光客を心から歓迎する。元の職業を聞きそびれたが、以前は学校の先生か、教育関係にいたのかも知れない、歴史にも詳しい。この丘状の台地の中でも、一番高くなっている場所に宗教施設があったとは、そこに多数の祭器の破片が出土したからとのことであった。仏教伝来前のことだから、何らかの自然神を祀る施設と思われるが、それがこの様な立派な藁ぶきの建物に復元されている理由を聞くと、どちらかの偉い学者先生の意見に従って再現したとの説明であった。この遺跡が復元される以前の状態がどんなだったかは不明だが、確かにこの台地の上に立つと、周囲を大きな盆地に囲まれた、ほぼ真ん中辺りにあり、集落の中心だったとは予想される。<br /><br />かなり広い盆地で、人口数千人程度の口数は養える程の農地、田んぼの広さであった。丁度この頃稲作農法が大陸から移入され、それは人と共に移って来たのだが、この島でも徐々に人口も増えてきて、3世紀、魏国からの使者がここ一支国にやって来た頃には、使者を迎える建物も出来ていただろうし、倭国の中の一国としての体裁も備えていたのかも知れない。この台地の少し先、一支国博物館が建っているが、それは現在コロナで閉館中のようだが、その直ぐ近くで、初期の桟橋跡が発掘されたとのボランティアガイドからの説明もあった。版木のような厚板を重ねた船着き場で、それは盆地の外の外港から水路、運河を繋げてこの王都の桟橋まで物資の移送が行われていたのだ。丁度今の倉敷が瀬戸内に面する外港の児島からおそよ10キロの運河で結ばれ、物資の集積地として栄えた状況を彷彿させた。<br /><br />倭人伝のそんな昔の時代から、この島では規模の大小は不明だが、流通が行われていたのだ。小さな島で争いも無ければ、人々は平和な社会を続けられ、人も物も想像以上に活発に動いていたのかも知れない。青森郊外の高台にある三内丸山が縄文から弥生に掛けて5000年間も平和な集落が続いていた背景も分かるような気もした。三内丸山も又青森郊外の高台の地にあって、青森市の先に津軽海峡が光って見えていた。そこは海峡から遠く、水路も無く港もなかったが、或いはここや倉敷同様、水路のようなものはあったかも知れない。吉野ケ里はいまでこそ直ぐ脇を長崎本線が通るような神崎郡の内陸部にあるが、嘗ては有明海が深く内陸部まで入り込んでいて、ここ原の辻と同様に、海からの水路、湊も作られていたかも知れない。そう主張する考古学者もいる。時間があったらもう一度魏志倭人伝の「水行陸行」を読んでみたい。<br /><br />ガイドの案内で1時間ほど遺跡の丘を歩き、次は郷ノ浦港近くにある賽神社に向かった。途中、この島の出身者で、戦前の電力王とも言われた松永安左エ門の生家跡を通るが、時間が無くて立ち寄ることは出来なかった。この島が生んだ偉人の一人で、時間があれば寄って見たかった。今は生家跡に記念館が建っているが、もし個人で来ていれば行ってみたい場所の一つだった。生家跡の前の道路を通過する際、車内からシャッターを切ったが、写真は上手に取れていなかった。バスは20分程で港近くの古い神社、賽神社に到着した。ここは男性シンボルを祭神とする珍しい神社で、境内の入り口には巨大なシンボルが直立していた。この神社にお参りし、港傍の昼食レストランに向かった。

壱岐・対馬2島巡り(17)原の辻遺跡を見終え、賽神社へ。

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2022/04/15 - 2022/04/17

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ちゃお

ちゃおさん

原の辻遺跡での初老のボランティア案内人は心底この島を愛し、この島にやってきた観光客を心から歓迎する。元の職業を聞きそびれたが、以前は学校の先生か、教育関係にいたのかも知れない、歴史にも詳しい。この丘状の台地の中でも、一番高くなっている場所に宗教施設があったとは、そこに多数の祭器の破片が出土したからとのことであった。仏教伝来前のことだから、何らかの自然神を祀る施設と思われるが、それがこの様な立派な藁ぶきの建物に復元されている理由を聞くと、どちらかの偉い学者先生の意見に従って再現したとの説明であった。この遺跡が復元される以前の状態がどんなだったかは不明だが、確かにこの台地の上に立つと、周囲を大きな盆地に囲まれた、ほぼ真ん中辺りにあり、集落の中心だったとは予想される。

かなり広い盆地で、人口数千人程度の口数は養える程の農地、田んぼの広さであった。丁度この頃稲作農法が大陸から移入され、それは人と共に移って来たのだが、この島でも徐々に人口も増えてきて、3世紀、魏国からの使者がここ一支国にやって来た頃には、使者を迎える建物も出来ていただろうし、倭国の中の一国としての体裁も備えていたのかも知れない。この台地の少し先、一支国博物館が建っているが、それは現在コロナで閉館中のようだが、その直ぐ近くで、初期の桟橋跡が発掘されたとのボランティアガイドからの説明もあった。版木のような厚板を重ねた船着き場で、それは盆地の外の外港から水路、運河を繋げてこの王都の桟橋まで物資の移送が行われていたのだ。丁度今の倉敷が瀬戸内に面する外港の児島からおそよ10キロの運河で結ばれ、物資の集積地として栄えた状況を彷彿させた。

倭人伝のそんな昔の時代から、この島では規模の大小は不明だが、流通が行われていたのだ。小さな島で争いも無ければ、人々は平和な社会を続けられ、人も物も想像以上に活発に動いていたのかも知れない。青森郊外の高台にある三内丸山が縄文から弥生に掛けて5000年間も平和な集落が続いていた背景も分かるような気もした。三内丸山も又青森郊外の高台の地にあって、青森市の先に津軽海峡が光って見えていた。そこは海峡から遠く、水路も無く港もなかったが、或いはここや倉敷同様、水路のようなものはあったかも知れない。吉野ケ里はいまでこそ直ぐ脇を長崎本線が通るような神崎郡の内陸部にあるが、嘗ては有明海が深く内陸部まで入り込んでいて、ここ原の辻と同様に、海からの水路、湊も作られていたかも知れない。そう主張する考古学者もいる。時間があったらもう一度魏志倭人伝の「水行陸行」を読んでみたい。

ガイドの案内で1時間ほど遺跡の丘を歩き、次は郷ノ浦港近くにある賽神社に向かった。途中、この島の出身者で、戦前の電力王とも言われた松永安左エ門の生家跡を通るが、時間が無くて立ち寄ることは出来なかった。この島が生んだ偉人の一人で、時間があれば寄って見たかった。今は生家跡に記念館が建っているが、もし個人で来ていれば行ってみたい場所の一つだった。生家跡の前の道路を通過する際、車内からシャッターを切ったが、写真は上手に取れていなかった。バスは20分程で港近くの古い神社、賽神社に到着した。ここは男性シンボルを祭神とする珍しい神社で、境内の入り口には巨大なシンボルが直立していた。この神社にお参りし、港傍の昼食レストランに向かった。

旅行の満足度
5.0
  • 親切なボランティアガイドが、遺跡の詳しい説明をしてくれる。

    親切なボランティアガイドが、遺跡の詳しい説明をしてくれる。

  • 写真パネルまで見せて、案内する。これは船着き場の遺跡だ。

    写真パネルまで見せて、案内する。これは船着き場の遺跡だ。

  • 遺跡の俯瞰図。

    遺跡の俯瞰図。

  • 広い台地になっている。この先に水路が外の海まで繋がっている。

    広い台地になっている。この先に水路が外の海まで繋がっている。

  • 2000年前も今も水田は変わらない。

    2000年前も今も水田は変わらない。

  • 次にやってきたのは、港近くの賽神社。<br />

    次にやってきたのは、港近くの賽神社。

  • 巨大な男根が祭神だ。

    巨大な男根が祭神だ。

  • 参拝するツアー参加者の一人。

    参拝するツアー参加者の一人。

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