2021/11/26 - 2021/11/26
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しにあの旅人さん
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更新記録 22/06/22 誤字訂正
もう一つの隼人塚、隼人の首塚から比売乃城が見えます。
養老5年(721年)5月または6月、比売乃城、曾於乃石城から誘い出された隼人は、この地まで追い詰められ、殺戮されました。
大隅に滞陣していた征隼人持節大将軍大伴旅人は、前年8月、藤原不比等の死で急遽平城京へ呼び戻されました。
いかなる思いで隼人の悲報を聞いたのでしょうか。
旅人は隼人戦争について一首の歌も残していません。
どうしてかな?
史書に残るわずかな記録と、大隅でのフィールドワークをもとに、その理由を探ってみました。
旅人この年56歳。
「隼人の乱」というのは、平城京中央政府の言い分で、ここでは客観的に「隼人戦争」とよびます。
参照、引用した資料は「旅人@九州1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
止上神社がいつ、だれが創建したかは分かっていません。しかし王の御幸が伝わっているので、隼人戦争の時代にルーツをもつことは間違いない。
-
三国名勝図会の時代(19世紀前半)では止上大権現または止上六所大権現と呼ばれておりました。
鳥居の位置から推定すると現在よりかなり広い神域を持っていたようです。
★得沸公(島津忠久、鎌倉幕府御家人、島津氏の祖、生年不詳-1227年)の時、本藩(薩摩藩)に七社と称するありて、當社はその第三の神社なり、第一は頴娃開聞神社、第二水引新田宮、第三止上社、第四国分鹿児島神社、第五霧島社。第六洲佐土原妻萬社、第七都城庄内稲荷神社なり。此七社は、得佛公毎年参詣し玉へりといふ。(中略)往古は神領拾三町ありしに、豊太閤寺社領毀破の時収入す。★(33-36、 35/130)
とあります。新田神社、開聞(ひらきき)神社、霧島神宮、鹿児島神宮などは現在でも全国的に名が知られる大きな神社です。13世紀では、止上神社はこれと同格の格式のある神社だったのです。
太閤検地の時神領を没収され没落したようです。 -
神社東、三角形の尾群山(おむれやま)がかつてのご神体だったとされています。
王の御幸はここから出発し、ここに戻ってきたことになります。 -
不気味な手水の流れ口。
-
一書に曰く、
隼人塚は、広いお盆の真ん中にぽつんとあります。
コンパスの支点みたいです。
止上神社は、端っこの木々が茂っているところ。
私達が、先に隼人塚に行ったから、そんな思いを持ったのかなあ。
神社の名前は、「正」の字の一部欠如みたいな名前ですね。
何が欠けているのか、「一」です。
だからなんなのよ?
だから、、、わからない。
ただの地名かもしれませんが、なにかありそう。
こういう名前にも、分かる人には分かるようなヒミツが隠されているのかもしれない。
「隠された止上神社の謎」!とか。
なにかありそうな神社なのです。
現在の神社は、普通っていうのでしょうね。怪しげな様子はありません。
ただ、お社の後はすぐに森というか山なので、どん詰まりという感じはあります。
そうかあ、ここまで追い込まれたら、戦いは厳しいよなあ。
By妻 -
「隼人塚伝説の碑」
王の御幸は止上神社を出て、まず隼人塚を行廟としました。
三国名勝図会では「重久村の内、樟の叢に二ヶ所あり、一は弓張木の叢といふ、一は木枯れて、今水田となる」となっています。
国分市重久地区、かつての重久村です。 -
刈り取られた田んぼのなかに隼人塚はありました。
-
東の里山で500mくらい。西は400m。
止上神社を行き止まりとする袋状の谷です。
碑の彼方の山の裾野に止上神社があります。600mくらい。 -
案内板がありました。
★隼人塚(隼人の首塚)
(図会引用部分後述)この塚は養老四年(720)隼人の反乱で殺されたハヤトの霊を鎮めるために造られたといわれています。隼人塚の周辺を真板田(まないただ)、猪切藪(ししきりやぶ)ともいわれています。以前は旧暦正月14日の初猟の日に獲った猪の肉を33本の竹串に刺し、それを塚前に立てて祭事を行っていました。
霧島市教育委員会★
上記案内板前半の図会の該当部分を全文引用します。
★本社(止上神社)の南西、三百十六間にあり、水田のなかに、小(こまか)き林叢森然たり、これを隼人塚と号す、隼人が首塚なりといふ。また此水田を真板田と呼ふ。贄祭とて、今に伝われり。毎年正月十四日を初猟の日とす。邑人此夜初猟に獲りし、野猪の肉を切り、此所の林叢に生せる竹にて、三十三本の串を作り、彼切りたる野猪の肉を貫き、地に立て祭る。往古隼人を誅戮せし遺事を以て、行なへる神事にて、隼人が霊祟を鎮むる為なりとかや。是上古よりの祭礼なりとす。★
国分郷土館の説明板によると、この旧暦正月14日の祭は「贄(にえ)祭」といいます。
「東襲山村史」の「隼人塚」の項にこうあったそうです。
「本村の各家庭に於いて冬季に『芋を串につなぎ』たるものを食べつつ凶事ありし日を記念すべく御目(日)侍があるのは此の霊祟祭と関係あるものではありますまいか」
昭和初期まで民間の風習に贄祭は形を残していたのです。
前述の止上神社案内板にあった、「王の御幸」の面影として現代まで残る旧正月24日の「べふ(牛)祭り」といい、隼人戦争はこの地に深い記憶を残しているようです。
その記憶が、負けた隼人族の記憶か、勝った豊前開拓団の記憶か、さあ、どちらでしょう。
一書に曰く、
猪の肉を隼人塚に供えるって、これ諏訪神社と同じです。
守矢資料館に猪の頭だのウサギだのが展示してありました。
なるほど、隼人も狩猟民族だったのですね。
現代の、わが田舎町でも、ときどき猪が出て畑を荒らします。
それで、町役場に行けば、罠を貸してくれます。
我が家でも、畑の様子が変だったので、仕掛けてもらいました。
結果はタヌキでした。
仕掛けたらその晩すぐ檻にかかり、その廻りを足跡がいっぱいついていたので、もう一度仕掛けたら、またかかりました。
我が家は、特別にグルメでもないし、雑食ではあるけれど、肉食にこだわりはないので、そのまま町の職員の方に持って行ってもらいました。
隼人なら食べたかもしれませんね。
余計なことですが、タヌキさんは、キャラメルコーンがお好きなようですよ。
以前は、ジャングルのツリーハウスの宴会のご馳走にちなんで、ドンドコドンと呼んでいましたが、以来このお菓子は、「タヌキのえさ」と名前が変化いたしました。
By妻 -
図会より。
右が隼人塚。
左が弓張木。 -
城山公園のなかにある霧島市国分郷土館説明パネルより。
★二つの隼人塚
「三国名勝図会」の「隼人塚」には大木が描かれています。現在は水田の中に石碑が建っているだけですが、開発で土が削り取られる前は小高い丘状になっていたそうです。
絵図にある「弓張木」の場所は、今も周囲より少し高くなっています。地元の人は「ゆんがおか(弓が丘?)」と呼んでいるそうです。★ -
方向からすると「弓張木」はこの木のあたりですが、周囲より高くなっていない。確認できませんでした。
https://youtu.be/ueZCwpE2j3w -
隼人塚から比売乃城を見ることができます。
-
この日はへんな天気でした。青空なのに低い雲が流れて、近くの山だけが雲の影に入ります。
-
この里山の向こうが曾於乃石城です。
-
山が陰り、田んぼに陽が当たるかと思うと、
-
一瞬で影がやって来ます。
養老5年(721年)のその日も、こんな感じだったのかな、などと思いました。
託宣集によれば、宇佐大神は、
★海には龍頭を浮かべ、地には駒犬を走らせ、空には鷁首(げきす)を飛ばし、よって、これに隼斗等は大いに驚き恐れたとする。大隅・日向両国のうちの七所の城に、仏法僧三宝の太刀を施し、「二十八部之衆」を現出させて「細男舞(くわしおのまい、傀儡子の舞)を舞わせ、五所の隼斗等をおびき出して伐殺した。★
縁事抄によれば、
★ただし「曾於乃石城」「比売城」の隼人等は殺しがたくあったので、三年を年限として謀りによって殺そうとした。その時、八幡神に請うと波豆米に託宣があっていうのには「神である私が助力してこの城門を閉ざして荒び拒む輩を打ち殺させる」と。そして将軍は八幡神の教えに従い、その二つの城の隼人等を殺し終わった。★
2文献に共通しているのは、宇佐軍は2城を力攻めで落としたのではなく、何らかのはかりごとによって隼人を城からおびき出し、殺戮したことになります。
図会によれば、景行天皇の征西の時の地元伝承として、(31-33 4/117)
★(隼人が反乱した。天皇自ら、日本武尊を副将として攻めたがうまくいかず)此河原にて神楽(かぐら)を奉じたまふ。其拍子妙絶にして、隼人悦楽に耐えず、居城を出て来りしを、日本武尊終に是を誅したまふ。★
図会は、「隼人は三度反ひて逆乱せしを誤りて一度の事となすと見たり」と、景行天皇の征西などと養老4年の乱を混同した結果だとしています。
隼人塚資料館の館長さんのお話では、地元では「朝廷軍は隼人に酒を飲ませ、酔っ払ったところを殺した」という伝承があるそうです。
同じ事を言っているのであります。
宇佐軍は和平をもちかけて、城から出た隼人を酒や歌、踊りでもてなし、油断したところを伏兵で襲った、ということではないか。宇佐神宮2文献、図会、伝承の現実的解釈です。
その殺戮の場所が、王の御幸で祭列が行廟する4カ所なのでしょう。
一書に曰く、
宇佐神宮と傀儡の関係について、考えておりました。
原住民である隼人の人達は、豊のくにからの移住者によって、追い払われてしまいました。
侵略者に負けてしまったわけです。
戦争の最中の和平交渉中、または停戦中に敵が送ってきた傀儡芸に、口を開けて見ほれてしまった人々は、その場で殺されてしまいます。
似たようなエピソードは、ヤマトタケルの話にも、景行天皇の話にも、大同小異書かれております。
隼人って、どんだけ快楽主義なんだ!どんだけアホなんだ!?
でも、これだけ何度も出て来るからには、本当に、隼人は芸能にヨワイ。我を忘れるのですね。
きったねーぞ。大和朝廷!卑怯者!
と、現代日本人の私は、思わず叫びますが、勝てば官軍なのでしょうね。
歴史では、隼人は、野蛮人扱いです。
負けた隼人の人々は、全滅とは記録していませんから、生き残った隼人もいたのです。間違いなく。
その人達は、どうなったのでしょうか。
自分の土地がなくなったら、どうしますか。まだ所有されていない土地を開拓するか、または流浪するしかないでしょうね。
そこで、なかには、自分たちを騙した傀儡一座に入って、全国を流れ歩いた人もいたかもしれません。
隼人には、隼人舞という特技があります。芸達者なのです。
一座も、結構喜んで入れたかも。
だから!
移民側の神社である宇佐神宮の傍らに、隼人を祀る百体神社があるのだ!
どうだ!辻褄があうでしょうが。
と威張ってみましたが、相変わらずの妄想でスミマセン。
傀儡一座が、心ならずもだまし討ちに手を貸したことを、悔やんだだけかもしれませんね。
龍頭を浮かべ、狛犬を走らせ、鷁首を飛ばす。
龍、狛犬はわかります。鷁ってなんだろう?
飛ばすとあるから、鳥だと分かりますが、どんな?調べてみました。想像上の水鳥だそうです。船の舳先に飾られている金色の鳥頭です。
ということで、出て来るもの全部、実在しない物ばかり。
それが動いたってことは、人形遣いの本領発揮。
傀儡のしわざだということですね。
野外大スペクタクル!
たいした腕前でしたね。宇佐の傀儡は。
By妻 -
行廟の4カ所です。隼人塚と弓張木は同じ場所としました。
弟子丸公民館のあたりで袋状の平野の出口を塞ぎ、止上神社で手篭川が流れる谷筋を押さえれば、隼人は逃げ場がありません。
追い詰められた隼人が最後に戦ったのが止上神社、隼人塚あたりとすると、この地域に真板田(まないただ)、猪切藪(ししきりやぶ)といわれる、不気味で不吉な地名が残る理由となります。また殺された隼人の霊を鎮める目的の隼人塚が、ここに建てられたのも理解できます。
王の御幸の出発、到着地が止上神社であるのも当然。
止上神社は、間違いなく隼人鎮魂の神社でありましょう。
霧島市教育委員会が建てた隼人塚案内板に、「以前は旧暦正月14日の初猟の日に獲った猪の肉を33本の竹串に刺し、それを塚前に立てて祭事を行っていました。」とあります。
図会では「往古隼人を誅戮せし遺事を以て、行なへる神事にて、隼人が霊祟を鎮むる為なりとかや。是上古よりの祭礼なりとす。」
19世紀初めで、「上古」といわれる、古くよりこの地に伝わった伝承であります。
最後まで戦った隼人の勇士が33人であったということでしょうか。 -
10年前のことです。
元明天皇治下、
続日本紀和銅3年(710年)春正月1日、
★天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けられた。薩摩の隼人と蝦夷らも参列した。左将軍・従五位下上の大伴宿禰旅人(中略)らが、皇城門(朱雀門)の外の朱雀大路に東西に分かれて、各々騎兵が先頭に立ち、隼人や蝦夷を率いて進んだ。★
朝賀の儀式が、ここまで盛大に行われた記録はありません。
朱雀門基壇上には姫帝(きてい)元明天皇が立ち、旅人は左将軍、このパレードの総指揮官として、隼人、蝦夷を率い、朱雀大路を進んだのであります。
旅人このとき45才。
延喜式(927年)によれば、元日の儀式に参列する隼人は172人でありました。天武朝いらい一部の隼人は畿内に移住し、宮中の警備に当たっておりました。
左将軍として、旅人は隼人の族長と懇意にしていたのではないか。
旅人は身分の上下にこだわりませんでした。
後年、太宰府で有名な梅花の宴が行われました。これに大典(だいてん)史氏大原(しのの・おおはら)という人物が参加しております。大典というのは太宰府四等官の一番下、位は従七位上にすぎません。平城京中央政府のうえから数えて何番目の正三位、太宰師の旅人からすると微官もいいところです。でも旅人は宴に招いている。人を見る目が普通とは違っていた。
畿内隼人か、あるいは上番で都に来ていた隼人の族長と懇意になり、大好きな酒を飲みながら、見たこともない南九州の風物の話に熱心に聞き惚れていた、というのもそれほど無理のない想像であります。 -
旅人は和銅3年(710年)正月1日の朝賀のとき以来隼人人脈をもっておりました。
和銅7年(714年)には再び左将軍として、来朝した新羅使節の応対に当たっております。歓迎の儀式には、渦巻き模様の盾を構えた隼人の儀仗兵を率いて、朱雀門前に整列したでありましょう。
旅人は豊富な隼人人脈を使って、武力によらない隼人戦争終結工作をすすめたというのが、私の推定です。
またそれを期待して、政府首脳は旅人を時節将軍としたのでありましょう。
旅人は、都で知己の隼人の族長をただちに密使として大隅に送り、蜂起した部族の説得に当たらせた。
旅人が大隅に布陣したときは、その確認にすぎなかった。
旅人率いる朝廷軍は、蜂起した隼人を、2城を残して平定するのに1ヵ月かかっておりません。
事前の和平工作があれば、20余日での5城の無血開城は可能であります。20日では、そもそも戦争している時間がありません。またそのくらいのことがないと、勇猛な隼人が簡単に開城に応じるはずがない。
ただし、比売乃城と曾於乃石城は旅人の和平工作に応じなかった。
滞陣3ヵ月で帰京命令に応じたのは、この戦争のメドがついたと旅人は思った。
徹底抗戦の2城を包囲して、降伏を待つ。
「孤城は落ちる」と申します。周囲の隼人から切り離された2城はいずれ開城する。武門の名門大伴氏の長である旅人が、この軍事常識を知らないはずがない。
朝廷軍兵士も、隼人も、もともとは農民。この時代の唯一の産業である農業の担い手を戦争で消耗させるなど愚の骨頂と、いくさのプロであると同時に、政府高官として政治のプロでもある旅人は十分理解していた。
旅人の本営はどこであったか分かりませんが、おそらく大隅国国府があった現在の砥上神社周辺でありましょう。そこで、旅人、朝廷軍副将軍の2人、宇佐神宮派遣軍の実質的指導者である女祢宜・辛嶋勝波豆米(からしまの・かつ・はつめ)、豊前国守・宇努首男人(うぬの・おびと・おひと)の5人が集まり、旅人は自分の方針を確認させ、大隅を離れた、と想像しました。
養老4年(720年)8月のことでありました。 -
不思議なのは、隼人戦争について、正史である続日本紀に、宇佐神宮派遣軍の記述が一切ないこと。隼人戦争を終わらせたのは宇佐軍だ。じゃ、朝廷軍は何をしていたということになる。だから書かない。
同じように、宇佐神宮2文献に旅人の朝廷軍の話は出てきません。豊前国国司の宇努首男人(うぬの・おびと・おひと)がちょっと出てくるだけです。その国司も宇佐大神の命令で戦ったことになっています。
宇佐派遣軍の実質的な大将、女祢宜・辛嶋勝波豆米(からしまの・かつ・はつめ)に言わせれば「戦争は私たちがしたんだわ。旅人軍なんて遠巻きに見ていただけじゃないか」だから朝廷軍を無視した。
宇佐神宮に伝わる放生会の起源、百体神社に伝わる隼人伝説、豊前国出身の開拓団5000人が大隅に入植していたことなど、宇佐神宮または豊前国が隼人戦争に出兵したことは、確実です。
なによりも、現代まで伝わる地元の伝説、遺跡は、宇佐神宮2文書の内容に近いのです。
旅人の離任後、養老5年(721年)5月または6月に大隅でおこったことは、宇佐神宮2文書の通りでありました。
続日本紀の記述でも「斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余りであった」とあります。
犠牲はでてしまいました。 -
少し横道にそれます。
そもそも旅人が大隅から呼び戻されたのは、養老4年(720年)8月3日の藤原不比等の死がきっかけでした。12日には旅人呼び戻しが発令されています。
この時の政府首脳は長屋王や藤原前房でした。長屋王は皇親政治家でお坊ちゃま育ち、藤原四兄弟は陰謀は大好きですが、現場のドサ仕事は仕切れない。人材がいなかったのです。
大隅の事件はメドがついたらしい、旅人を呼び戻せ! となりました。
征隼人時節大将軍はどうする? 兼任でいい、他に人がおらん。 -
元正天皇陵。
旅人は仕事ができる人物だったようです。征隼人時節大将軍の前後の仕事ぶり。
和銅3年(710年)春正月1日の天覧大パレードの総指揮官。
和銅7年(714年)再び左将軍、来朝した新羅使節の警備責任者。
和銅8年(715年)中務卿。このあたりから閣僚級。
養老2年(718年)中納言。
養老3年(719年)山城国の摂官。国司の監督官みたいなもの。
養老4年(720年)10月23日不比等の葬儀に出向き天皇の詔をつたえる。大隅から帰京したばかりです。
養老5年(721年)12月7日元正太上天皇崩御の後、普通4,5人かかりでやる御陵造営司を1人でこなしました。
続日本紀養老5年(721年)12月8日、
★従三位の大伴宿禰旅人が、御陵造営の役に従うことになった。★
12月13日、
★太上天皇を大和国添上郡椎山(ならやま)の陵に葬った。葬儀を行わず、遺詔にしたがったのである。★元明天皇陵・元正天皇陵 名所・史跡
-
椎山の陵、現在の奈保山西陵は、旅人が1人で差配して作りあげました。
太上天皇の「自分の葬儀は簡素にせよ」という遺詔がありましたが、御陵造営から埋葬まで1人で運営しました。
「なんで、おれが1人で、全部やんなきゃいけないんだよ」とぐちりながら仕事はこなした、のではないか。
旅人は、ただの酔っ払いではなかったのであります。 -
旅人は、帰京はしましたが、征隼人時節将軍ではありました。戦況の報告は逐次受けていた。比売乃城、曾於乃石城の包囲戦は旅人が思った以上に長引いたのかもしれません。
養老4年(720年)9月28日、陸奥国で蝦夷の反乱が勃発し、鎮圧部隊を派遣することになりました。なによりもこれが誤算でした。
平城京の中央政府でも、二正面作戦は避けたいという意見が大勢を占めた。
旅人は政府高官として、自分の方針を変更せざるをえなかったでありましょう。
宇佐派遣軍の作戦を取り入れて、謀略による隼人戦争の早期終結を認めた。
旅人苦渋の決断であったと思います。
ここまでは、現存する歴史文献と大隅にのこる伝承から、十分ありえるシナリオです。 -
旅人が隼人戦争について何も語らないのは、語りたくないから。
感受性の強い人物でありました。
自分の決断で、隼人に犠牲を出させたことは、彼の負の記憶として一生残った。
以下は全く物語的空想であります。
最後まで勇戦した33人の隼人の勇士のなかに、彼が密使として送り出した隼人の族長がいたのではないか。使命果たせず、部族への忠誠の証しとして城に残り、そのまま戦いを最後まで率いることになった。
旅人が何も語らないのは、このくらいのインパクトの強い何かがあったと、私は考えるのです。 -
万葉集の、旅人の代表作のひとつであります。3-338
★験なき物を思わずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし★
△考えても仕方ない物思いをしないで、一杯の濁り酒を飲むのがよいらしい。△
中西訳では「験(しるし)なき物を思わずは」は「役にもたたないことあれこれ思い悩むよりは」
折口訳では「しるしなく物思わずは」として「役にもたたないのに、色々考え込んでゐるよりは」
「役にもたたないこと」とはなんでしょうか。
大隅で隼人に犠牲を出してしまったことを後悔する、としたらどうでしょう。
「ああすれば蝦夷の反乱の前に開城させられたかもしれない」
「こうすればもっと早く説得できたかもしれない」
「すんでしまったことをあれこれ考えるのは、役にもたたない。それよりも酒でも飲んだ方がよい」
そう思って読むと、「太宰師大伴卿の酒を讃むるの歌十三首」は、まったく違った背景をもつことになります。
以下現代語訳は万葉集中西です。
★賢しみと物いふよりは酒飲みて酔泣(えいなき)するしまさりたるらし★ 341
△りこうぶって、何かと物をいうよりは、酒を飲んで酔っぱらって泣く方がまさっているらしい。△
★なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染みなむ★ 343
△中途はんぱに人間であるよりは、酒壺になりたかったものを。そうなって酒に染みていよう△
★世のなかの遊びの道にすすしくは酔泣きするにあるべくあるらし★ 347
△世間でもてはやす風流の道になまじ励むよりは、酔泣きすることがよいらしい。△
★默然(もだ)おりて賢(さか)しらするは酒飲みて酔泣するになほ若かずけり★ 350
△余分なことをいわずにりこうぶった振舞いをするのは、酒を飲んで酔っぱらって泣きごとをいうのに、やっぱりおよばないのだなあ。△
などなど。
何度も泣いております。
老荘思想が何ちゃらというものではなく、旅人の苦い思い出なのです。 -
一書に曰く、
酒壺になりたいくらい酒に酔いたい。醒めたくない。
アル中ですか?
だったかもしれませんね。
しれませんが、隼人の乱を知ると、旅人の酒は、哀しい酒なのではないかと思えるのです。
ほら、今でも、忘れてしまいたいことや~とかいう歌があるではないですか。
武人であり、また詩人でもある旅人は、精悍で、ナイーブな隼人を愛したのではないでしょうか。
その隼人を、心ならずも、結果として裏切ることになってしまった。
蝦夷は何度も反乱を起こしています。最後の大反乱が延暦8年(789年)。
坂上の田村麻呂は、蝦夷の首長、阿弖流為と母礼を降伏させ、都に連れ帰ります。
田村麻呂は、ふたりを帰国させるつもりでしたが、朝廷は、ふたりを斬り殺してしまうのです。延暦21年(802年)のことです。
同じことが、旅人にも起こったのです。
純粋な旅人が、苦しまなかったはずはありません。
苦しんで、苦しんで、その苦しみから逃れる為の酒なら、酒壺にだってなりたかったでしょうよ。
しかも、朝廷に刃向かった者を裏切ったという苦しみなんぞ、どうして言葉にできましょう。ただ心を隠して、飲むだけだったのです。
酔いつぶれて、忘れたかった。
そういう父親を見ていた家持もまた、朝廷のやりかたに、良い思いは持てなかったことでしょう。
家持は死後、反逆罪に問われます。
表だって、事は起こさなかったけれど、大伴一族が、不満を抱いていたことは間違いないようです。
By妻 -
By妻の数式です。
「とかみ」は平家物語長門本、俊寛たち鬼界ヶ島流罪の途中、大隅を通るときに出て来る地名だそうです。近くには砥上(とがみ)という神社もあります。とかみ、とがみはもともとこの地の地名でしょう。
「止上」という漢字はあて字。遅くても13世紀にはこの字で書かれていた。
おそらく隼人戦争のそう遠くない後、生き残りの隼人の誰かが、騙されて裏切られた怨みをこめて、この字を当てたのではないか。
「正しい」から一番大事な物を除くと、「止」になります。
考えすぎでしょうかね。
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この旅行記へのコメント (7)
-
- 前日光さん 2022/04/06 23:52:00
- しにあ説に一票!
- こんばんは、しにあさん&by妻さん。
もちろん旅人の、なんとか血を流さず、隼人の乱を終結させる方向に持って行きたかったという説に一票を投じます。
旅人だからこそ、武力に寄らない解決策を講じたかったはず。
そしてそれはうまくいくと思われたのに、事態は彼の望まぬ方向へと向かい。。。
そのことに関しては一首も詠みたくないという苦渋の思いを、旅人に抱かせました。
蝦夷の反乱等、予期せぬ事態は彼を「一杯の濁れる酒」を飲むより他に術のない状況に追い込んだのですねぇ。
有能な人材が他にいたなら、あるいは不比等がもう少し長く生きていたならば。。。たらればは言っても詮ないことですが、巡り合わせの不運が文人肌の旅人の「験なき」思いを増幅させたのですね。
旅人・家持と、この親子は実によく似ていると思います。
それでも家持はまだ「万葉集」に、その思いを託すことができましたが。
壮大な仕掛けを後の世に伝えむという意志で、編集されたのが万葉集ですからね(^_-)
しにあさんご夫妻や私が秘かに信じている家持の陰謀は、伝わる人には伝わっているということです。
それにしても「止上神社」の「止」は、「正」の字から「一」を引くと考えられたby妻さんの慧眼には脱帽!です。
あて字ですか。
大いにあり得るあて字で、ここにも隼人族の怨念が込められているように思いました。
それから止上神社の「手水の流れ口」の不気味なこと(*_*)
こんなのは初めて見ました。
隼人の怨みが、ここにも込められているようですね!
もっともこれが造られたのは、ずっと後の時代のことなのでしょうが。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/04/07 19:36:41
- Re: しにあ説に一票!
- 高崎です。神社と古墳の階段で半死半生。委細後日。
- 前日光さん からの返信 2022/04/07 22:52:57
- RE: Re: しにあ説に一票!
- お忙しいところ、近況報告ありがとうございます<(_ _)>
とにかく御身大切に。
運転にはくれぐれも気を付けて、旅を満喫されてください(^^;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/04/11 10:00:15
- Re: しにあ説に一票!
- 昨日帰ってきました。1800枚の写真と40冊の本とパンフレットを仕入れてきました。当面写真の整理と資料の読み込みです。古代関東縦の旅行記は、いつになることか。
旅人の心境、伝わったようで、作者としては、うれしい。
宇佐神宮2文書と続日本紀、旅人の酒を誉める13首を整合させると、ありえる解釈の一つだと思います。
大隈の田んぼの中のポツンとした隼人塚に行って思いました。きっとこのあたりにも旅人はきて、2城の包囲網の布陣を考えたのではないかと。
変な天気で、風が冷たかったです。
不比等がもう少し長く生きていたらというのは同感です。若い頃の彼は、持統天皇の下っ端役人からたたきあげた苦労人ですから、実務、現場がわかっていたはず。長屋王や息子の四兄弟を見て、「こいつら、仕事わかってねーな。前房はもうちょっと苦労させた方がよかったかな」と思っていた。「何かあったら旅人に頼みな」くらい言ってあったかも。
私の不比等の若い頃のイメージは、飛鳥大原の屋敷で、糟糠の妻まさこが家計の足しに育てる大根を齧りながら、律儀に持統天皇の雑用をこなしていたというのです。
最初は、13首には流麗な漢文の詞書があって、隼人戦争の詳しい経緯が書いてあった。しかしそれだと続日本紀と矛盾してしまうので、真道が反対した。家持はやむを得ず詞書を引っ込めた、というのを書こうと思ったのです。それだと、根も葉も、実もなんにもない話になるので、取りやめ。
でも、あの二人は絶対に談合していると、ますます思っています。
「正」と「止」、いいアイデアです。こういうとんでもないことを思いつくのはえらい。
わが妻ながら、見直しました。
-
- kummingさん 2022/04/02 17:31:56
- 何故旅人は歌を詠まなかったのか?
- 今回も、しにあさんby妻さんは、現地ルポ、フィールドワークで、正史と宇佐神宮2文書の「隼人の乱」記述、どちらが正しいか、地元に残る伝説、遺跡をなぞる事で実証された♪ たぶんそうだったのです。不都合な真実を書かないのが正史(笑)
宇佐神宮の近くにあった隼人の首塚は、隼人を殺戮した側、宇佐神宮派遣軍側の罪滅ぼし的な、懺悔の現れだったのですか?そして、ココにある隼人の塚もまた、滅ぼした側、加害者が、祟りを恐れて祀った?
真板田、獅切藪、おどろおどろしい名前ですね。猪の肉を33本の串に刺し、塚前に立てて祭事を行う「贄祭」が、芋を串につなぎたるを食べつつありし日を記念する、民間の風習として今に残る、隼人の霊崇を鎮める為の上古よりの祭礼。
宇佐軍は2城を武力で制圧したのではなく、何らかの「はかりごと」で隼人を城から誘き出し、殺戮した。託宣集、縁事抄のどちらの記述でも、託宣によった、との事。古代豪族間や皇族の権力闘争によく呪術、神がかりで敵を倒す、みたいな場面があるようですが、私は「一天俄かに掻き曇り雷鳴轟き突風吹きあれ敵は右往左往…みたいな光景が頭に浮かんでいたのですが、今回のby妻さん説に納得♪
芸能に弱い隼人、お酒で酔わされ傀儡芸に惑わされ。出てくるモノ全て実在しない→人形使い傀儡の仕業に違いない、との解釈、さすがです♪ 隼人って、宇佐でもコレでやられてましたよね?(あれとコレは同じ戦い?)
旅人には畿内在住の隼人族か族長との人脈があり、武力によらない「隼人戦争終結工作」を政策立案したのでしょう。まるでFDIIのエルサレム無血開城のよう^o^ この時代唯一の産業を担う農民=兵士を無駄に失うのは愚の骨頂。
正-一=止説、正しいから1番大事なものを除くと?奥が深いです。
藤原氏が一党独裁を目指し、逆らう者たちは血の粛清によって倒れ、古代史を彩った旧豪族で唯一生き残った大伴氏。藤原氏全盛期に生き、孤立し辛酸を舐めた旅人も、大伴氏存続の為に思いを胸に秘め、現世でのやるせなさ、憤りをせめて歌に込めたのでしょうか。
出来る男旅人さま、感受性も知性も超一流のおのこではありゃしゃいませんか♪
中途半端になりますが、長くなってのでこの辺でm(._.)m
えっ、もう一本新作upされてます??(°_°)
- kummingさん からの返信 2022/04/02 19:47:46
- Re: 何故旅人は歌を詠まなかったのか?
- ↑の問いへの答え、忘れてました(ーー;)
なので↓を
下から3行目の上に挿入して下さい。
そんな旅人さまも、蝦夷討伐とのニ正面対決を避ける上の方針に逆らえず、心ならずも裏切る事になり、マブだち隼人を死に追いやってしまったと、心痛め、その悔恨の思いを歌にすることさえ出来なかった。自分の不遇を詠う事は出来るのに(;_;)
心正しく、清く優しい旅人さまでした。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/04/03 05:44:10
- Re: 何故旅人は歌を詠まなかったのか?
- 一番乗りありがとうございます。
いえいえ、そんなに連続してUPできません。
旅人@九州シリーズは北関東から帰ってきてもう1本軽ーくおまけをUPして、しばらくお休みします。大隈の神社とか、賞味期限迫りつつある奈良の残りとか、先に片付けます。
「正」ー「一」=「止」わが妻ながらいい発想です。「正」ー「丁」=「上」というのも言い出しましたが、ちょっと格好が違うし、しつこいので却下。入れた方がよかったかな。
鍋つつきながら編集会議です。
宇佐のコレとアレは同じ話です。調べるまで隼人の乱にこんな裏があるなんて、全然知りませんでした。
それにしても宇佐神宮って、何やらうさんくさい。うさん神宮、なんちゃって。
はるばる薩南から読むと、続日本紀もまた面白かった。政界の大立者、不比等さんを失って、元正天皇なんか、「わー、どうしよう」右往左往する長屋王さんとか、藤原四兄弟。わ~大変だ~、という感じだったでしょう。
諸兄くんはまだ30代半ばで、青二才。
不比等さんは実務家でもありましたから、口先ばっかりの連中が泡くって、誰かできるやついねーか、あっ、旅人だ!
じゃ、ないかと。
そーでもないと、大事なお役目中の旅人さんをはるばる大隈から呼び返したリしません。
この辺り、どなたか、新しいコミックで描いたらどうですかね。
売れないでしょうね。
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