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更新記録 22/6/20:誤字訂正<br /><br />養老4年(720年)の隼人の乱。大伴旅人は征隼人持節大将軍として、1万余の軍勢を率いて大隅に向かいました。武門の名門大伴氏の長として、旅人一生の大事件でした。旅人のような高位の貴族が平城京を離れて、西の辺境で3ヵ月も兵を率いる、他に例のない出来事です。<br />しかし、この激動の3ヵ月について、旅人は一首の歌も残していません。<br />どうしてかな?<br />史書に残るわずかな記録と、大隅での現地体験をもとに、その理由を探ってみました。<br />旅人この年55歳。<br /><br />「隼人の乱」というのは、平城京中央政府の言い分で、ここでは客観的に「隼人戦争」とよびます。<br /><br />参照、引用した資料は「旅人@九州1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきました。<br />

六国史の旅 旅人@九州2 隼人、験(しるし)なきこと・上

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2021/11/26 - 2021/11/26

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録 22/6/20:誤字訂正

養老4年(720年)の隼人の乱。大伴旅人は征隼人持節大将軍として、1万余の軍勢を率いて大隅に向かいました。武門の名門大伴氏の長として、旅人一生の大事件でした。旅人のような高位の貴族が平城京を離れて、西の辺境で3ヵ月も兵を率いる、他に例のない出来事です。
しかし、この激動の3ヵ月について、旅人は一首の歌も残していません。
どうしてかな?
史書に残るわずかな記録と、大隅での現地体験をもとに、その理由を探ってみました。
旅人この年55歳。

「隼人の乱」というのは、平城京中央政府の言い分で、ここでは客観的に「隼人戦争」とよびます。

参照、引用した資料は「旅人@九州1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきました。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • 隼人の首塚。<br /><br />元正天皇の治下、<br />続日本紀養老4年(720年)2月29日、<br />★太宰府が奉言した。隼人が反乱を起こして、大隅国守陽侯史麻呂を殺害しました。★<br /><br />3月4日、<br />★中納言・正四位下の大伴宿禰旅人を、征隼人持節大将軍に任命し、授刀助(たちはきのすけ)・従五位下の笠朝臣御室、民部少輔・従五位下の巨勢朝臣真人を副将軍に任命した。★<br /><br />6月17日、<br />★いま西の辺境の小賊が反乱を起こし、天皇の導きに逆らって、たびたび領民に危害を加えている。そこで持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の大伴宿禰旅人を派遣して、その罪を誅罰し隼人の拠点を一掃させた。旅人は武器を整え、兵を率いて凶徒を掃蕩したので、蛮人の首領は捕縛され下僚に命乞いをし、賊の一味は頭を地につけ、争って良い風俗に従うようになった。しかし将軍は原野に野営してすでに1カ月にもなった。時候は最も暑いときであり、どんなにか苦労したことであろう。よって使者を派遣して慰問させる。今後もよく忠勤を励むように。★<br /><br />3月4日の記事とあわせると、旅人は持節将軍に任命されたあと九州に急行、太宰府で軍備を整えたと思われます。旅人軍は1万を超える兵力だったそうです。<br />旅人軍は、九州西海岸を南下、薩摩国府があった現在の薩摩川内市を経由して、5月17日ごろ大隅に到着。その後6月10日ころまでに、約20日で隼人の拠点を攻略したことになります。<br />「旅人@九州1」で述べた、「八幡宇佐宮御託宣集」と「宮寺縁事抄」による「奴久良。神野。牛屎。幸原。志加牟。」5城の開城に相当します。<br />大隈から薩摩国府、太宰府を経て、平城宮に旅人の急報が届くまで最短で約7日かかります。つまり旅人は6月10日以前に、それまでの戦況報告書を発出したのです。<br />20日でこれだけの戦果をあげたのですから、天皇が喜んで慰問使を急遽送ったのはわかります。<br /><br />8月12日、<br />★隼人を征討する持節将軍の大伴宿禰旅人はしばらく入京させる。ただし副将軍以下の者は、隼人がまだ平定し終わっていないので、留まってそのまま駐屯せよ。★<br /><br />旅人は帰京命令を受けましたが、隼人はまだ抗戦していたのです。「託宣集」などの、「曾於乃石城」「比売乃城」の攻略は困難であったという記事に対応します。<br />5月17日に開戦、約3ヵ月経過しておりました。<br />続日本紀を読む限り、5城の開城は双方に多くの犠牲は出ていないようです。国史ですから朝廷軍を強そうに書くのは当然で、いろいろ格好はつけていますが、20日余りで5城を開城させるというのは、隼人の首領の名目的懲罰だけで、実質無血開城に近かったのではないか。首領を処刑したとは書いていない。<br />おそらく、旅人軍が国分平野に展開しただけで、5城は降伏した。<br />隼人も一致団結しているわけではなく、7城に分散して抵抗したということは、7つの部族の連合体だった。戦意に乏しい部族もあったでしょう。<br />隼人側の兵力は分かりませんが、戦争が終結したとき、隼人の損害は死者と捕虜合わせて1400人余りとされています。7部族合わせれば、開戦前の隼人の兵力も相当なものであった。7000人という説もあるようです。勇猛、剽悍といわれる隼人です。それでも地の利のある大隅に朝廷軍を引き込んで、野戦決戦を挑むということはしなかった。<br />

    隼人の首塚。

    元正天皇の治下、
    続日本紀養老4年(720年)2月29日、
    ★太宰府が奉言した。隼人が反乱を起こして、大隅国守陽侯史麻呂を殺害しました。★

    3月4日、
    ★中納言・正四位下の大伴宿禰旅人を、征隼人持節大将軍に任命し、授刀助(たちはきのすけ)・従五位下の笠朝臣御室、民部少輔・従五位下の巨勢朝臣真人を副将軍に任命した。★

    6月17日、
    ★いま西の辺境の小賊が反乱を起こし、天皇の導きに逆らって、たびたび領民に危害を加えている。そこで持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の大伴宿禰旅人を派遣して、その罪を誅罰し隼人の拠点を一掃させた。旅人は武器を整え、兵を率いて凶徒を掃蕩したので、蛮人の首領は捕縛され下僚に命乞いをし、賊の一味は頭を地につけ、争って良い風俗に従うようになった。しかし将軍は原野に野営してすでに1カ月にもなった。時候は最も暑いときであり、どんなにか苦労したことであろう。よって使者を派遣して慰問させる。今後もよく忠勤を励むように。★

    3月4日の記事とあわせると、旅人は持節将軍に任命されたあと九州に急行、太宰府で軍備を整えたと思われます。旅人軍は1万を超える兵力だったそうです。
    旅人軍は、九州西海岸を南下、薩摩国府があった現在の薩摩川内市を経由して、5月17日ごろ大隅に到着。その後6月10日ころまでに、約20日で隼人の拠点を攻略したことになります。
    「旅人@九州1」で述べた、「八幡宇佐宮御託宣集」と「宮寺縁事抄」による「奴久良。神野。牛屎。幸原。志加牟。」5城の開城に相当します。
    大隈から薩摩国府、太宰府を経て、平城宮に旅人の急報が届くまで最短で約7日かかります。つまり旅人は6月10日以前に、それまでの戦況報告書を発出したのです。
    20日でこれだけの戦果をあげたのですから、天皇が喜んで慰問使を急遽送ったのはわかります。

    8月12日、
    ★隼人を征討する持節将軍の大伴宿禰旅人はしばらく入京させる。ただし副将軍以下の者は、隼人がまだ平定し終わっていないので、留まってそのまま駐屯せよ。★

    旅人は帰京命令を受けましたが、隼人はまだ抗戦していたのです。「託宣集」などの、「曾於乃石城」「比売乃城」の攻略は困難であったという記事に対応します。
    5月17日に開戦、約3ヵ月経過しておりました。
    続日本紀を読む限り、5城の開城は双方に多くの犠牲は出ていないようです。国史ですから朝廷軍を強そうに書くのは当然で、いろいろ格好はつけていますが、20日余りで5城を開城させるというのは、隼人の首領の名目的懲罰だけで、実質無血開城に近かったのではないか。首領を処刑したとは書いていない。
    おそらく、旅人軍が国分平野に展開しただけで、5城は降伏した。
    隼人も一致団結しているわけではなく、7城に分散して抵抗したということは、7つの部族の連合体だった。戦意に乏しい部族もあったでしょう。
    隼人側の兵力は分かりませんが、戦争が終結したとき、隼人の損害は死者と捕虜合わせて1400人余りとされています。7部族合わせれば、開戦前の隼人の兵力も相当なものであった。7000人という説もあるようです。勇猛、剽悍といわれる隼人です。それでも地の利のある大隅に朝廷軍を引き込んで、野戦決戦を挑むということはしなかった。

  • 「八幡宇佐宮御託宣集」(以下託宣集、編述は神吽(じんうん))は、村田によれば、<br />★「託宣集」は、中世鎌倉時代末期頃の正和2年(1313年)、筑紫豊前国宇佐宮において成立した。そして、おそらくは成立の当初から、八幡神の聖なる言葉である託宣、顕現の神話である歴史、存在の様態や意義を説く神学を書き記したものとして、神聖視されるべき書物として扱われた。★<br /><br />以下は村田による漢文原文の一部意訳または要約です。<br />★豊前守将軍が八幡神を請い奉り、辛嶋勝波豆米(はつめ)が八幡神を先導する。これに彦山権現以下修験者が同行し、その際、八幡神は彼らと計略を成して、仏法によって悪心を蕩かし、海には龍頭を浮かべ、地には駒犬を走らせ、空には鷁首(げきす)を飛ばし、よって、これに隼斗等は大いに驚き恐れたとする。大隅・日向両国のうちの七所の城に、仏法僧三宝の太刀を施し、「二十八部之衆」を現出させて「細男舞(くわしおのまい、傀儡子の舞)を舞わせ、五所の隼斗等をおびき出して伐殺した。残りの二所(「曾於乃石城」「、比売乃城」)の凶徒は殺し難くあったが、八幡神の託宣があり、その教命にしたがって隼斗の蜂起は最終的にすべて鎮圧された。★<br />

    「八幡宇佐宮御託宣集」(以下託宣集、編述は神吽(じんうん))は、村田によれば、
    ★「託宣集」は、中世鎌倉時代末期頃の正和2年(1313年)、筑紫豊前国宇佐宮において成立した。そして、おそらくは成立の当初から、八幡神の聖なる言葉である託宣、顕現の神話である歴史、存在の様態や意義を説く神学を書き記したものとして、神聖視されるべき書物として扱われた。★

    以下は村田による漢文原文の一部意訳または要約です。
    ★豊前守将軍が八幡神を請い奉り、辛嶋勝波豆米(はつめ)が八幡神を先導する。これに彦山権現以下修験者が同行し、その際、八幡神は彼らと計略を成して、仏法によって悪心を蕩かし、海には龍頭を浮かべ、地には駒犬を走らせ、空には鷁首(げきす)を飛ばし、よって、これに隼斗等は大いに驚き恐れたとする。大隅・日向両国のうちの七所の城に、仏法僧三宝の太刀を施し、「二十八部之衆」を現出させて「細男舞(くわしおのまい、傀儡子の舞)を舞わせ、五所の隼斗等をおびき出して伐殺した。残りの二所(「曾於乃石城」「、比売乃城」)の凶徒は殺し難くあったが、八幡神の託宣があり、その教命にしたがって隼斗の蜂起は最終的にすべて鎮圧された。★

  • 宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう、以下縁事抄)は石清水八幡宮に伝わる文書や記録を整理したもの。1212年~1218年の成立で、この記録はこれ以前に石清水八幡宮に保管されていたことになります。<br />石清水八幡宮は、9世紀に宇佐から京都に勧請された八幡宮で、いわば宇佐八幡の京都市店。宇佐大神が都を訪れたとき、鎮座することになっています。宇佐神宮の古い文書が保管されていたと思われます。<br />託宣集より約100年古く、縁事抄を託宣集が参照したでありましょう。両者に違いがかなりあるので、もっと古い別の文献があったのかもしれませんし。辛嶋氏に伝わる「託宣日記」という書物があったそうですが、現存していません。<br /><br />★養老四年の時、大隅・日向両国に反乱が起こった。これを征討するべく将軍が八幡神に祈願し、禰宜辛嶋勝波豆米が八幡神の御杖を持ち御前に立って行幸し、大隅・日向両国の「奴良」「桑原」「神野」「牛屎」「志加牟」五カ所の城で隼人等を打ち殺した。ただし「曾於乃石城」「比売城」の隼人等は殺しがたくあったので、三年を年限として謀りによって殺そうとした。その時、八幡神に請うと波豆米に託宣があっていうのには「神である私が助力してこの城門を閉ざして荒び拒む輩を打ち殺させる」と。そして将軍は八幡神の教えに従い、その二つの城の隼人等を殺し終わった。また八幡神が波豆米に託いて宣するには「私がこの隼人等を多く殺した報いとして、年毎に二度の放生会を奉仕するように」と。すなわち、この八幡神の教えにより、その時から今に至るまで、放生会を奉仕するようになった。★<br /><br />これは漢文原文のほぼ忠実な現代語訳です。<br />文中「禰宜辛嶋勝波豆米」とあるのは、宇佐神宮で代々禰宜をつとめる辛嶋氏の波豆米です。女性です。八幡神の託宣を神がかりして取り次ぐのを職掌としています。つまり実質的に宇佐神宮あるいは、隼人戦争に介入した宇佐軍の指導者ということです。<br />「将軍」とあるのは、漢文原文では、<br />「豊前国守正六位□□□□□□将軍」となっています。□は欠字または判読不明字だと思います。宇努首男人(うぬの・おびと・おひと)とされています。実在の人物で、大伴旅人と共に詠んだ歌が万葉集にあります。しかしこの時期男人がこの時期国司であったか、はっきりしないそうです。<br />

    宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう、以下縁事抄)は石清水八幡宮に伝わる文書や記録を整理したもの。1212年~1218年の成立で、この記録はこれ以前に石清水八幡宮に保管されていたことになります。
    石清水八幡宮は、9世紀に宇佐から京都に勧請された八幡宮で、いわば宇佐八幡の京都市店。宇佐大神が都を訪れたとき、鎮座することになっています。宇佐神宮の古い文書が保管されていたと思われます。
    託宣集より約100年古く、縁事抄を託宣集が参照したでありましょう。両者に違いがかなりあるので、もっと古い別の文献があったのかもしれませんし。辛嶋氏に伝わる「託宣日記」という書物があったそうですが、現存していません。

    ★養老四年の時、大隅・日向両国に反乱が起こった。これを征討するべく将軍が八幡神に祈願し、禰宜辛嶋勝波豆米が八幡神の御杖を持ち御前に立って行幸し、大隅・日向両国の「奴良」「桑原」「神野」「牛屎」「志加牟」五カ所の城で隼人等を打ち殺した。ただし「曾於乃石城」「比売城」の隼人等は殺しがたくあったので、三年を年限として謀りによって殺そうとした。その時、八幡神に請うと波豆米に託宣があっていうのには「神である私が助力してこの城門を閉ざして荒び拒む輩を打ち殺させる」と。そして将軍は八幡神の教えに従い、その二つの城の隼人等を殺し終わった。また八幡神が波豆米に託いて宣するには「私がこの隼人等を多く殺した報いとして、年毎に二度の放生会を奉仕するように」と。すなわち、この八幡神の教えにより、その時から今に至るまで、放生会を奉仕するようになった。★

    これは漢文原文のほぼ忠実な現代語訳です。
    文中「禰宜辛嶋勝波豆米」とあるのは、宇佐神宮で代々禰宜をつとめる辛嶋氏の波豆米です。女性です。八幡神の託宣を神がかりして取り次ぐのを職掌としています。つまり実質的に宇佐神宮あるいは、隼人戦争に介入した宇佐軍の指導者ということです。
    「将軍」とあるのは、漢文原文では、
    「豊前国守正六位□□□□□□将軍」となっています。□は欠字または判読不明字だと思います。宇努首男人(うぬの・おびと・おひと)とされています。実在の人物で、大伴旅人と共に詠んだ歌が万葉集にあります。しかしこの時期男人がこの時期国司であったか、はっきりしないそうです。

  • 「三国名勝図会」<br />これは江戸時代後期に薩摩藩が、薩摩、大隅、日向の一部について調べ上げた百科事典のようなものです。島津斉彬の指示で編纂が始まり、1843年(天保14年)に完成しました。全60巻。<br />1905年(明治38年)に和装本20巻として出版されました。<br />これは日本国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。この文章での引用は、このコレクションからです。<br />なにより挿絵がすばらしい。百聞は一見にしかず、なるほど。<br />1905年の出版ですから活字印刷です。19世紀の日本語ですが、ほぼ現代語の知識で読むことができました。<br />

    「三国名勝図会」
    これは江戸時代後期に薩摩藩が、薩摩、大隅、日向の一部について調べ上げた百科事典のようなものです。島津斉彬の指示で編纂が始まり、1843年(天保14年)に完成しました。全60巻。
    1905年(明治38年)に和装本20巻として出版されました。
    これは日本国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。この文章での引用は、このコレクションからです。
    なにより挿絵がすばらしい。百聞は一見にしかず、なるほど。
    1905年の出版ですから活字印刷です。19世紀の日本語ですが、ほぼ現代語の知識で読むことができました。

  • 養老5年(721年)7月7日、<br />★征隼人副将軍・従五位下の笠朝臣御室・従五位下の巨勢朝臣真人らが、帰還した。斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余りであった。★<br /><br />7月7日に平城京に帰還とすると、戦いの終わりは5月、6月初めくらいでしょうか。「曾於乃石城」「比売乃城」の陥落を意味します。<br />旅人軍が大隅に布陣してから約13ヵ月、旅人が帰京してから約9ヵ月です。<br />「斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余り」というのは、最後の2城陥落後だと思います。<br />隼人でも頑強に抗戦したのはこの2城、それ以前の5城はほぼ無血開城だと私は推定しています。<br />

    養老5年(721年)7月7日、
    ★征隼人副将軍・従五位下の笠朝臣御室・従五位下の巨勢朝臣真人らが、帰還した。斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余りであった。★

    7月7日に平城京に帰還とすると、戦いの終わりは5月、6月初めくらいでしょうか。「曾於乃石城」「比売乃城」の陥落を意味します。
    旅人軍が大隅に布陣してから約13ヵ月、旅人が帰京してから約9ヵ月です。
    「斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余り」というのは、最後の2城陥落後だと思います。
    隼人でも頑強に抗戦したのはこの2城、それ以前の5城はほぼ無血開城だと私は推定しています。

  • 隼人戦争について、正史である続日本紀より宇佐神宮由来の文書の方が、はるかに詳しい。<br />これは宇佐神宮がある豊前国から大隅国に開拓団が入植しているからです。<br /><br />元明天皇の治下、<br />続日本紀和銅7年(714年)3月15日、<br />★隼人は道理に暗く荒々しく、法令にも従わない。よって豊前国の民200戸を移住させて、統治に服するように勧め導かせるようにした。★<br /><br />「隼人の古代史」によると、この時代の1戸は約25人であり、200戸は5000人になります。渡来系の秦氏に属する人々で、養蚕、鉱物資源の開発などの技術を持っていたそうです。<br />「勧め導かせる」というのは豊前国側の理屈。移住された大隅の隼人からみれば迷惑な話で、シラス台地で稲作に適さず、もともと肥沃ではない土地に5000人が入植してくれば、農地の奪い合いになり対立が生じるのは明らかです。<br />

    隼人戦争について、正史である続日本紀より宇佐神宮由来の文書の方が、はるかに詳しい。
    これは宇佐神宮がある豊前国から大隅国に開拓団が入植しているからです。

    元明天皇の治下、
    続日本紀和銅7年(714年)3月15日、
    ★隼人は道理に暗く荒々しく、法令にも従わない。よって豊前国の民200戸を移住させて、統治に服するように勧め導かせるようにした。★

    「隼人の古代史」によると、この時代の1戸は約25人であり、200戸は5000人になります。渡来系の秦氏に属する人々で、養蚕、鉱物資源の開発などの技術を持っていたそうです。
    「勧め導かせる」というのは豊前国側の理屈。移住された大隅の隼人からみれば迷惑な話で、シラス台地で稲作に適さず、もともと肥沃ではない土地に5000人が入植してくれば、農地の奪い合いになり対立が生じるのは明らかです。

  • 豊前国開拓団が入植したのは、現在の韓国宇豆峯(からくに・うずみね)神社周辺。<br />社伝によると、「豊前国宇佐郡菱形地の上小椋山に祭られていたのを、当地宇豆峯の山頂に遷座され、(中略)永正元年(1504年)に現在の地に奉遷した。」とあります。<br />

    豊前国開拓団が入植したのは、現在の韓国宇豆峯(からくに・うずみね)神社周辺。
    社伝によると、「豊前国宇佐郡菱形地の上小椋山に祭られていたのを、当地宇豆峯の山頂に遷座され、(中略)永正元年(1504年)に現在の地に奉遷した。」とあります。

  • 三国名勝図会によれば、<br /><br />★宇豆峯は、今の社頭より申ノ方五町許りにある野岡なり★<br /><br />もとの社は「さるのかた」ですから西南西、5町約550mの岡の上にありました。<br />図会の赤丸です。<br />小椋山というのは宇佐神宮の本殿があるところです。宇佐神宮の一部が移ってきたようなものです。豊前国というより、宇佐神宮派遣の開拓団ではないか。<br />

    三国名勝図会によれば、

    ★宇豆峯は、今の社頭より申ノ方五町許りにある野岡なり★

    もとの社は「さるのかた」ですから西南西、5町約550mの岡の上にありました。
    図会の赤丸です。
    小椋山というのは宇佐神宮の本殿があるところです。宇佐神宮の一部が移ってきたようなものです。豊前国というより、宇佐神宮派遣の開拓団ではないか。

  • 韓国宇豆峯神社は、隼人戦争のとき隼人の本拠地になる2城の近く、曾於乃石城とはわずか直線1.6kmです。元宮はもっと近い。三国絵図の神社の向きからすると、むしろ西、曾於乃石城の方向です。建立当初は神社というより、隼人の根拠地に向かい合う砦ではなかったのか。<br />隼人から見ると、いきなり自分たちの土地に開拓団が入ってきて、砦のようなものを築いた。<br />最も隼人と開拓団との軋轢が強かった地域でしょう。<br /><br />豊前国あるいは宇佐神宮からみると、自分たちが送り出した開拓団が先住民である隼人に圧迫されたのを救援に行ったことになります。<br />開拓団の出身地の住民からすると、親兄弟、親族、隣人を助けに行くわけですから、いわば志願兵。<br />もとより5000人の開拓民が武装していたのは当然です。1戸から数人の兵士を出せば、1000人くらいの精強部隊となります。直接自分たちに関わることですから、戦意は高い。<br />「隼人の古代史」によると、鉱物資源の開発などの技術を持っていたそうです。製鉄、冶金かな。高度な武具などを自製できたのかもしれません。<br />この戦争を主導したのは、宇佐派遣軍とこの武装開拓民ではなかったのか。<br /><br />一書に曰く、<br />豊前国から、大隅国に入植って、豊前国のほうが良い土地だろうに。<br />不思議です。<br />これ実は、山幸彦と海幸彦の話のことではないかと思うのですよ。<br /><br />海幸、山幸のイザコザのもとは、山幸彦が海幸彦の釣り針を亡紛失したことでした。<br />釣り針が大事。その釣り針がないと、仕事ができない。これは、一本釣り漁師ってことです。<br />対して山幸彦の味方の豊玉姫は、潜る方の漁師だったのですよ。潜ってアワビや牡蛎を取る方です。<br />海の底の宮殿とか、潮の干満をあやつる珠とか、潜水したら、目もあやな珊瑚の林をみることも、色とりどりの魚の群を見ることもあったでしょうし、干潮満潮には、敏感だったことでしょう。<br />海幸山幸の兄弟ケンカは、潜る漁師と一本釣り漁師との諍いだった。<br /><br />とすると、豊前国からの移植民は、北九州の潜り漁の海人族だったのではないか。<br />海の利権争いだったのではないですかね。<br />By妻<br />

    韓国宇豆峯神社は、隼人戦争のとき隼人の本拠地になる2城の近く、曾於乃石城とはわずか直線1.6kmです。元宮はもっと近い。三国絵図の神社の向きからすると、むしろ西、曾於乃石城の方向です。建立当初は神社というより、隼人の根拠地に向かい合う砦ではなかったのか。
    隼人から見ると、いきなり自分たちの土地に開拓団が入ってきて、砦のようなものを築いた。
    最も隼人と開拓団との軋轢が強かった地域でしょう。

    豊前国あるいは宇佐神宮からみると、自分たちが送り出した開拓団が先住民である隼人に圧迫されたのを救援に行ったことになります。
    開拓団の出身地の住民からすると、親兄弟、親族、隣人を助けに行くわけですから、いわば志願兵。
    もとより5000人の開拓民が武装していたのは当然です。1戸から数人の兵士を出せば、1000人くらいの精強部隊となります。直接自分たちに関わることですから、戦意は高い。
    「隼人の古代史」によると、鉱物資源の開発などの技術を持っていたそうです。製鉄、冶金かな。高度な武具などを自製できたのかもしれません。
    この戦争を主導したのは、宇佐派遣軍とこの武装開拓民ではなかったのか。

    一書に曰く、
    豊前国から、大隅国に入植って、豊前国のほうが良い土地だろうに。
    不思議です。
    これ実は、山幸彦と海幸彦の話のことではないかと思うのですよ。

    海幸、山幸のイザコザのもとは、山幸彦が海幸彦の釣り針を亡紛失したことでした。
    釣り針が大事。その釣り針がないと、仕事ができない。これは、一本釣り漁師ってことです。
    対して山幸彦の味方の豊玉姫は、潜る方の漁師だったのですよ。潜ってアワビや牡蛎を取る方です。
    海の底の宮殿とか、潮の干満をあやつる珠とか、潜水したら、目もあやな珊瑚の林をみることも、色とりどりの魚の群を見ることもあったでしょうし、干潮満潮には、敏感だったことでしょう。
    海幸山幸の兄弟ケンカは、潜る漁師と一本釣り漁師との諍いだった。

    とすると、豊前国からの移植民は、北九州の潜り漁の海人族だったのではないか。
    海の利権争いだったのではないですかね。
    By妻

  • 宇佐神宮 大尾神社。<br /><br />続日本紀を読むと、宇佐神宮というのは、古代では神社というより、平城京の中央政府に発言権をもった、政治団体あるいは半独立国みたいな感じです。<br /><br />孝謙天皇治下、<br />天平勝宝元年(749年)11月19日、<br />八幡大神は託宣して京に向かった。★<br /><br />ではじまる八幡大神の東大寺参拝記です。天平勝宝4年(752年)の大仏開眼に先立ちます。このあと1ヵ月にわたり大神を平城京に迎える大騒ぎが続きます。<br /><br />12月27日、<br />★八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女(分注。その輿は紫色で、天皇の乗り物と同じである)が東大寺に参拝した。天皇(孝謙)・太上天皇(聖武)・皇太后(光明子)も同じく行幸された。<br />この日、百官および諸氏の人たちすべてが寺(東大寺)に参集した。僧五千人を請じ、(中略)その上で大神に一品、比神に二品を奉った。<br />左大臣の橘宿禰諸兄は天皇の詔をうけたまわって、大神に次のように申した。★<br /><br />諸兄の言ったことはまとめると、「大神の協力で大仏ができあがった。ありがたいことなので、大神に冠位をお送りする」<br />宇佐大神が何をどう協力したのかよく分かりませんが、とにかくそう言っております。<br />その後の大仏開眼に匹敵する大イベントです。<br /><br />同じ日、<br />★尼杜女に従四位下を、主神司の大神朝臣田麻呂には外従五位下を授ける。★<br /><br />さらに不思議なのは、ここに登場した大神朝臣杜女と大神朝臣田麻呂は、この5年後の人を呪い殺す事件の主犯として処罰されています。<br />「諸国寺社旧跡めぐり 豊前国1 宇佐神宮、清麻呂推参!」<br />https://4travel.jp/travelogue/11738293<br />でも触れました。<br /><br />天平勝宝6年(754年)11月24日、<br />★薬師寺の僧行信と、八幡神宮(宇佐神宮)の主神(かんつかさ)・大神朝臣多麻呂(おおみわ・あそん・たまろ)らは、共同して人を呪い殺そうとする呪法を行った。(中略)11月27日、従四位下の大神朝臣杜女(もりめ)と外従五位下の大神朝臣多麻呂を、それぞれ官人の名簿から除名して、本姓大神に戻した。杜女は日向国に、多麻呂は多&#35129;嶋(種子島)に配流した。そのためあらためて別人をえらんで、神宮の禰宜、祝(はふり)を補任した。★<br /><br />天平勝宝元年(749年)の大仏参詣といい、この事件といい、とても単なる神社のお話とは思えない。非常に生臭い、政治的なにおいがします。<br />まだあります。<br /><br />同じ孝謙天皇治下、<br />天平勝宝2年(750年)冬10月1日、<br />★天皇は正五位上の藤原朝臣乙麻呂に従三位を授け、太宰師(だざいのそち)に任じた。宇佐八幡大神の教示によってである。★<br /><br />正五位上から四位を飛び越して特別昇進です。宇佐大神は朝廷の人事に口出ししております。もとより朝廷内部の勢力争いの結果でしょうが、その口実に宇佐神宮が使われている。いわばミニ道鏡事件。<br />神護景雲3年(769年)の道鏡事件を含め、全部孝謙天皇、重祚して称徳天皇治下の出来事です。<br /><br />宇佐神宮とは単なる神社ではない。<br />隼人戦争が勃発した720年には、まだ宇佐神宮は正史に登場しておりません。しかしその前身が、この戦争に深く関係していると考えていいでしょう。<br />

    宇佐神宮 大尾神社。

    続日本紀を読むと、宇佐神宮というのは、古代では神社というより、平城京の中央政府に発言権をもった、政治団体あるいは半独立国みたいな感じです。

    孝謙天皇治下、
    天平勝宝元年(749年)11月19日、
    八幡大神は託宣して京に向かった。★

    ではじまる八幡大神の東大寺参拝記です。天平勝宝4年(752年)の大仏開眼に先立ちます。このあと1ヵ月にわたり大神を平城京に迎える大騒ぎが続きます。

    12月27日、
    ★八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女(分注。その輿は紫色で、天皇の乗り物と同じである)が東大寺に参拝した。天皇(孝謙)・太上天皇(聖武)・皇太后(光明子)も同じく行幸された。
    この日、百官および諸氏の人たちすべてが寺(東大寺)に参集した。僧五千人を請じ、(中略)その上で大神に一品、比神に二品を奉った。
    左大臣の橘宿禰諸兄は天皇の詔をうけたまわって、大神に次のように申した。★

    諸兄の言ったことはまとめると、「大神の協力で大仏ができあがった。ありがたいことなので、大神に冠位をお送りする」
    宇佐大神が何をどう協力したのかよく分かりませんが、とにかくそう言っております。
    その後の大仏開眼に匹敵する大イベントです。

    同じ日、
    ★尼杜女に従四位下を、主神司の大神朝臣田麻呂には外従五位下を授ける。★

    さらに不思議なのは、ここに登場した大神朝臣杜女と大神朝臣田麻呂は、この5年後の人を呪い殺す事件の主犯として処罰されています。
    「諸国寺社旧跡めぐり 豊前国1 宇佐神宮、清麻呂推参!」
    https://4travel.jp/travelogue/11738293
    でも触れました。

    天平勝宝6年(754年)11月24日、
    ★薬師寺の僧行信と、八幡神宮(宇佐神宮)の主神(かんつかさ)・大神朝臣多麻呂(おおみわ・あそん・たまろ)らは、共同して人を呪い殺そうとする呪法を行った。(中略)11月27日、従四位下の大神朝臣杜女(もりめ)と外従五位下の大神朝臣多麻呂を、それぞれ官人の名簿から除名して、本姓大神に戻した。杜女は日向国に、多麻呂は多褹嶋(種子島)に配流した。そのためあらためて別人をえらんで、神宮の禰宜、祝(はふり)を補任した。★

    天平勝宝元年(749年)の大仏参詣といい、この事件といい、とても単なる神社のお話とは思えない。非常に生臭い、政治的なにおいがします。
    まだあります。

    同じ孝謙天皇治下、
    天平勝宝2年(750年)冬10月1日、
    ★天皇は正五位上の藤原朝臣乙麻呂に従三位を授け、太宰師(だざいのそち)に任じた。宇佐八幡大神の教示によってである。★

    正五位上から四位を飛び越して特別昇進です。宇佐大神は朝廷の人事に口出ししております。もとより朝廷内部の勢力争いの結果でしょうが、その口実に宇佐神宮が使われている。いわばミニ道鏡事件。
    神護景雲3年(769年)の道鏡事件を含め、全部孝謙天皇、重祚して称徳天皇治下の出来事です。

    宇佐神宮とは単なる神社ではない。
    隼人戦争が勃発した720年には、まだ宇佐神宮は正史に登場しておりません。しかしその前身が、この戦争に深く関係していると考えていいでしょう。

    宇佐神宮 大尾神社 寺・神社・教会

  • 宇佐神宮由来2文書の隼人戦争の記述は残虐です。<br /><br />宇佐神宮御託宣集、「五所の隼斗等をおびき出して伐殺した。」<br />宮寺緑事抄、「『神である私が助力してこの城門を閉ざして荒び拒む輩を打ち殺させる』と。そして将軍は八幡神の教えに従い、その二つの城の隼人等を殺し終わった。」<br /><br />一種の神話ですし、放生会の由来を説くための創作とも考えられます。<br />しかし、そうとも思えない隼人殺戮の痕跡、伝説が地元に残っているのです。<br />

    宇佐神宮由来2文書の隼人戦争の記述は残虐です。

    宇佐神宮御託宣集、「五所の隼斗等をおびき出して伐殺した。」
    宮寺緑事抄、「『神である私が助力してこの城門を閉ざして荒び拒む輩を打ち殺させる』と。そして将軍は八幡神の教えに従い、その二つの城の隼人等を殺し終わった。」

    一種の神話ですし、放生会の由来を説くための創作とも考えられます。
    しかし、そうとも思えない隼人殺戮の痕跡、伝説が地元に残っているのです。

  • 隼人塚史跡館の展示パネルより。<br />王の御幸について(『三国名勝図会』より)<br />★又當社(止上神社)に中古までは、王の御幸といへる祭式あり、毎年正月七日神輿を守り下り、同月に廿二日に至り、行廟にて、種々の神供を献じ、祭をなす、是往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故、当時御幸の式を設け、彼が霊祟を鎮めし大祭なりし、慶長の中比までは、毎歳執行して、絶ざりしが、その後廃せしとかや、<br />其行廟四ヶ所あり、重久村の内、樟の叢に二ヶ所あり、一は弓張木の叢といふ、一は木枯れて、今水田となる、一は清水邑弟子丸村にあり、小止上神社といふ、一は国分邑曾小川村新町にあり、幸田の叢といふ、比四ヶ所を行廟といひ伝えて、舊趾今猶存せり★<br />

    隼人塚史跡館の展示パネルより。
    王の御幸について(『三国名勝図会』より)
    ★又當社(止上神社)に中古までは、王の御幸といへる祭式あり、毎年正月七日神輿を守り下り、同月に廿二日に至り、行廟にて、種々の神供を献じ、祭をなす、是往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故、当時御幸の式を設け、彼が霊祟を鎮めし大祭なりし、慶長の中比までは、毎歳執行して、絶ざりしが、その後廃せしとかや、
    其行廟四ヶ所あり、重久村の内、樟の叢に二ヶ所あり、一は弓張木の叢といふ、一は木枯れて、今水田となる、一は清水邑弟子丸村にあり、小止上神社といふ、一は国分邑曾小川村新町にあり、幸田の叢といふ、比四ヶ所を行廟といひ伝えて、舊趾今猶存せり★

  • 止上(とがみ)神社は現存しています。<br />「重久村の内、樟の叢に二ヶ所あり、一は弓張木の叢といふ、一は木枯れて、今水田となる」とありますが、水田となった行廟には、現在隼人の首塚が建てられております。<br />「清水邑弟子丸村」は現在の清水1丁目付近と考えられ、その名を残す弟子丸公民館があります。<br />「国分邑曾小川村新町」は現在の新清水団地付近だそうです。<br />いずれも曾於乃石城と比売乃城を結ぶ線より止上神社よりの、袋状の平野の中です。長さ約4km、幅は広いところで1kmくらいです。<br /><br />王の御幸の始まりは定かではありませんが、「是往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故、当時御幸の式を設け」とあります。隼人戦争の直後でありましょう。<br />終わりは「慶長の中比」とあります。慶長は1596年~1615年ですから、17世紀初頭となります。<br />

    止上(とがみ)神社は現存しています。
    「重久村の内、樟の叢に二ヶ所あり、一は弓張木の叢といふ、一は木枯れて、今水田となる」とありますが、水田となった行廟には、現在隼人の首塚が建てられております。
    「清水邑弟子丸村」は現在の清水1丁目付近と考えられ、その名を残す弟子丸公民館があります。
    「国分邑曾小川村新町」は現在の新清水団地付近だそうです。
    いずれも曾於乃石城と比売乃城を結ぶ線より止上神社よりの、袋状の平野の中です。長さ約4km、幅は広いところで1kmくらいです。

    王の御幸の始まりは定かではありませんが、「是往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故、当時御幸の式を設け」とあります。隼人戦争の直後でありましょう。
    終わりは「慶長の中比」とあります。慶長は1596年~1615年ですから、17世紀初頭となります。

  • 霧島市国分郷土館説明パネルによれば、廃絶の理由は、社領を召し上げられたためとあります。三国名勝図会によれば、太閤検地により神領を没収されたそうです。お金があればもっと後世まで引き継がれたということです。

    霧島市国分郷土館説明パネルによれば、廃絶の理由は、社領を召し上げられたためとあります。三国名勝図会によれば、太閤検地により神領を没収されたそうです。お金があればもっと後世まで引き継がれたということです。

  • 平成3年(1991年)の国分市教育委員会の止上神社の説明板によれば、王の御幸は廃絶したが、<br /><br />★現在は、旧正月24日「べぶ(牛)祭り」が残っている。★<br /><br />現代までその痕跡が残っています。<br />よほどこの土地にしみこんだ伝説だったのです。<br />

    平成3年(1991年)の国分市教育委員会の止上神社の説明板によれば、王の御幸は廃絶したが、

    ★現在は、旧正月24日「べぶ(牛)祭り」が残っている。★

    現代までその痕跡が残っています。
    よほどこの土地にしみこんだ伝説だったのです。

  • 一書に曰く、<br />隼人の首塚は、本当に全くの田んぼの中にありました。<br />

    一書に曰く、
    隼人の首塚は、本当に全くの田んぼの中にありました。

  • これ以上ないギリギリまで田んぼにしてありました。<br />これをどう見るか。こうまでしても、この塚を残したかったのか。<br />本当は取っ払いたいけれど、昔からのものだし、なんか祟られそうだし、「仕方ない、残しておくか。」なのか。<br />東京なんかは、昔の刑場跡とかに家が建っています。<br />「だから なに?」って、へいき。<br />ということを考えると、この地域の人々にとっては、隼人の乱は、今も心に生きていることなのでしょうか。<br />By妻<br />

    これ以上ないギリギリまで田んぼにしてありました。
    これをどう見るか。こうまでしても、この塚を残したかったのか。
    本当は取っ払いたいけれど、昔からのものだし、なんか祟られそうだし、「仕方ない、残しておくか。」なのか。
    東京なんかは、昔の刑場跡とかに家が建っています。
    「だから なに?」って、へいき。
    ということを考えると、この地域の人々にとっては、隼人の乱は、今も心に生きていることなのでしょうか。
    By妻

  • 隼人塚史跡館の展示パネルより。<br />止上神社に伝わる古文書「止上神幸祭日記」は慶長16年(1611年)に書かれたものです。それによると、王の御幸は神王面をつけた6人の王を中心として、100人以上の人々、馬30疋が参加する大規模なものでした。<br />6面の神王面のうち3面が現存しております。<br />

    隼人塚史跡館の展示パネルより。
    止上神社に伝わる古文書「止上神幸祭日記」は慶長16年(1611年)に書かれたものです。それによると、王の御幸は神王面をつけた6人の王を中心として、100人以上の人々、馬30疋が参加する大規模なものでした。
    6面の神王面のうち3面が現存しております。

    霧島市立隼人塚史跡館 美術館・博物館

  • 国分郷土館の「三の王子の白色面」<br />下あご、鼻が欠損している。欠損はなにやら不気味、不吉な物語を連想させます。<br />

    国分郷土館の「三の王子の白色面」
    下あご、鼻が欠損している。欠損はなにやら不気味、不吉な物語を連想させます。

    国分郷土館 美術館・博物館

  • 隼人塚史跡館の「四の王子の赤色面」と「五の王子の黒色面」<br />国分郷土館の所蔵ですが、このときは隼人塚史跡館に貸し出し中でした。<br />

    隼人塚史跡館の「四の王子の赤色面」と「五の王子の黒色面」
    国分郷土館の所蔵ですが、このときは隼人塚史跡館に貸し出し中でした。

  • 「四の王子の赤色面」<br />ガラスが邪魔してよく見えません<br />

    「四の王子の赤色面」
    ガラスが邪魔してよく見えません

  • 「四の王子の赤色面」の国分郷土館の写真です。<br />こちらのほうが見やすい。<br />

    「四の王子の赤色面」の国分郷土館の写真です。
    こちらのほうが見やすい。

  • 隼人塚史跡館展示の「五の王子の黒色面」<br /><br />6人の神王とはなんでしょう。隼人の7城を連想します。6部族が7城に立て籠もったのでしょうか。6部族の首長を象徴するお面だったのかな。<br />

    隼人塚史跡館展示の「五の王子の黒色面」

    6人の神王とはなんでしょう。隼人の7城を連想します。6部族が7城に立て籠もったのでしょうか。6部族の首長を象徴するお面だったのかな。

  • 一書に曰く、<br />国分郷土館のお面のコレクションは、非常に興味深かったです。<br />51面とかの面が、ずらりと展示してありました。<br />私どもの友達に、仮面のコレクションをしている女性がいます。<br />私は、残念なのか幸運なのか、まだ見ていないのですが、他の友人が申すには、かなり「恐ろしい」そうです。<br />ここも、かなり怖かったです。<br />ひとつひとつのお面が、インパクトのある表情だし、古びて壊れかかっているのさえ、そのお面が経てきた事件?というのか、幸せ、不幸せをまとっていて、単なる面という物質以上のものに変化している感じでした。<br />

    一書に曰く、
    国分郷土館のお面のコレクションは、非常に興味深かったです。
    51面とかの面が、ずらりと展示してありました。
    私どもの友達に、仮面のコレクションをしている女性がいます。
    私は、残念なのか幸運なのか、まだ見ていないのですが、他の友人が申すには、かなり「恐ろしい」そうです。
    ここも、かなり怖かったです。
    ひとつひとつのお面が、インパクトのある表情だし、古びて壊れかかっているのさえ、そのお面が経てきた事件?というのか、幸せ、不幸せをまとっていて、単なる面という物質以上のものに変化している感じでした。

  • 神王面と言いつつ、面の説明には、三の王子と、王子面と書いてあります。<br />神王、王子、いったいどっちやねん。<br />残っている三面は、白、赤、黒です。<br />これで連想したのは、目黒、目白のお不動様。<br />今は残っていないけれど、実は、目赤、目黄、目青があったとか。陰陽五行思想だそうです。<br />とすると、神王面も、今は存在しない三面は、青と黄色?<br />残念ながら、全問正解とはいかず、赤、白、そして黄色だそうですよ。<br />黄色はありましたが青がありません。<br />赤二面、白二面、黒と黄色が一面ずつだったようです。<br />もとから六面だし、陰陽五行とは関係ないのでしょうか。それにしては、黄色があります。<br />お顔は、天狗さんそのものです。<br />鼻が高く、目玉ぎょろり。<br />天狗さんは、顔色は赤ですね。それで、欧米人を表現したのでは?とかいわれています。<br />その説でいけば、白も、興奮していない欧米人。うん、そうかもしれない。なら、黒は?黒人と言いたいのかしら?それなら、黄色は?<br />でも、これって、隼人の神ごとに使うお面ですよね。<br />隼人は、こんなに鼻が高かったの?<br />のっぺり、ぺっちゃんこタイプの日本人とは、違うみたいです。<br />そういえば、鹿児島出身の俳優さん、鼻が高くて、お目々ぱっちりのイケメンさん多いような。<br /><br />この郷土館。お勧めです。ぜひ!<br />By妻<br /><br />写真が多いと読みにくいので、分割して「験なきこと・下」に続きます。<br />

    神王面と言いつつ、面の説明には、三の王子と、王子面と書いてあります。
    神王、王子、いったいどっちやねん。
    残っている三面は、白、赤、黒です。
    これで連想したのは、目黒、目白のお不動様。
    今は残っていないけれど、実は、目赤、目黄、目青があったとか。陰陽五行思想だそうです。
    とすると、神王面も、今は存在しない三面は、青と黄色?
    残念ながら、全問正解とはいかず、赤、白、そして黄色だそうですよ。
    黄色はありましたが青がありません。
    赤二面、白二面、黒と黄色が一面ずつだったようです。
    もとから六面だし、陰陽五行とは関係ないのでしょうか。それにしては、黄色があります。
    お顔は、天狗さんそのものです。
    鼻が高く、目玉ぎょろり。
    天狗さんは、顔色は赤ですね。それで、欧米人を表現したのでは?とかいわれています。
    その説でいけば、白も、興奮していない欧米人。うん、そうかもしれない。なら、黒は?黒人と言いたいのかしら?それなら、黄色は?
    でも、これって、隼人の神ごとに使うお面ですよね。
    隼人は、こんなに鼻が高かったの?
    のっぺり、ぺっちゃんこタイプの日本人とは、違うみたいです。
    そういえば、鹿児島出身の俳優さん、鼻が高くて、お目々ぱっちりのイケメンさん多いような。

    この郷土館。お勧めです。ぜひ!
    By妻

    写真が多いと読みにくいので、分割して「験なきこと・下」に続きます。

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この旅行記へのコメント (8)

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  • 前日光さん 2022/04/02 00:13:40
    隼人の首塚
    こんばんは、しにあさん
    奈良から戻ってきましたが、ペットホテルに預けていた梵ちゃんが不調。
    食欲も元気も無し。
    今日動物病院で点滴と注射をしてきました。
    ストレス性だとしたら、旅の度にこうなっちゃうのでしょうかねぇ。
    生き物を飼うのは難しく悩ましいです。

    隼人の首塚は、田園のただ中に佇んでいますね。
    隼人退治の将軍として中央からやって来た旅人は、この件に関して一首も詠んでいない。。。そうでしたか。
    仕事はしたけれど、何も書きたくはないという心境だったのでしょうか?
    九州の夏は、さぞ暑かろうと想像出来ます。
    三ヶ月もその暑さの中で奮闘した旅人のことを思うと、気の毒でなりません。
    この手の文人が、戦に赴くということを思うと胸がざわついて。。。
    現実には旅人も、人の命を奪う戦の陣頭指揮をしたことになりますね。
    だから「験なき物(しても甲斐のない思い)」などしないで、一杯の濁り酒に逃げるのが良さそうだなんて、一見無責任な方向を向くしかなかったのでしょうかねぇ(-_-)
    彼の内部で拮抗する思いは、大伴という武門の家柄に生まれついた者の宿命で、息子の家持に至ってはそれが諦観となって、滅びの美学へと繋がっていくのでしょう。

    国分郷土館の「三の王子の白色面」は不気味ですね!
    欠損している部分が、より想像力を増幅させ、何があってこうなったのだろうと妄想を駆き立てられます。
    「四の王子の赤色面」や「五の王子の黒色面」も、日本人離れした伎楽面を思わせ、イスラム系とまではいかなくても、どこか異国的なものを感じます。
    鹿沼市の「古峰神社」には、天狗の面がたくさんありますが、ここも昼なお暗い畳の部屋でその面を見ると、ゾクゾクしてきます。

    宇佐八幡宮の、どこか胡散臭い存在と隼人族の怨念が伝わってくる旅行記でした。
    古代という時代、いやむしろ古代だからこその残忍な戦というものを素通りしてはいけませんね。


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/04/02 06:53:08
    Re: 隼人の首塚
    4日から我が家も旅行ですが、By妻が、世話している地域猫を心配しております。ご近所に餌やりを頼みました。最近は我が家にいついております。ノラは3軒餌場を持っているはずですが、どうもそういう逞しさはないみたいです。

    旅人には太宰府以前の歌はほとんどないそうです。隼人の歌もなし。例外は黒の瀬戸の歌ですが、これは旅人@九州4で行ってきました。名(迷)解釈をお披露目します。

    大隈の旅人の心境は「仕事はしたけれど、何も書きたくない」に尽きます。次回のテーマです。
    この時代では仕事のできる人だったらしく、何かあると引っ張り出されています。隼人戦争では、それで辛い思いをすることになったみたいです。

    夏の南九州は暑かったでしょうね。クーラーなしだもんね。元明(元正だったかな)天皇から、「暑くて大変ね、頑張ってね、旅人ちゃん素敵💌」という詔が出ているくらいです。わかっているなら、もっと若い元気なのを送ってやれよ、という感じ。
    旅人は55歳ですからね。今でいうと70すぎの爺さんでしょう。

    郷土館のお面は天狗ですよね。しかも色が文字通りいろいろ。南薩は中国南部や東南アジア、太平洋の島々から船で来やすいところです。大昔はいろんな人種が来ていたんじゃないですかね。
    西郷輝彦みたいなお目々ぱっちりは日本人としては少ないタイプなのに、鹿児島には多い。かつての混血の名残じゃないかと。
    隼人もそういう人たちじゃなかったのかな、と思いました。
    でもそうすると、鹿沼の天狗さんたちは何なのだろう。天狗の古い伝説のあるところですか。

    前日光

    前日光さん からの返信 2022/04/03 23:03:28
    RE: Re: 隼人の首塚
    しにあさん、こんばんは。
    本日は雨の中、東博にて「空也上人と六波羅蜜寺」展を見てきました。
    実は「ポンペイ」展も見たかったのですが(無料観覧券もあった)事前予約をしてなかったので入場できませんでした!(今日が最終日だった!)

    ところで、鹿沼市の古峰神社についてググッたら面白いことが書いてありました。
    紹介しますね。

    今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。
    その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、上人は古峯の大神の御神威によって、古峯ヶ原深山巴の宿において3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。
    この縁起にもとづき、日光全山26院80坊の僧坊達は、勝道上人の修行にあやかって、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれました。
    古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などに代表する諸人の敬虔な信仰を集め、久しきにわたってその御神威を保って参りました。明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、仏具一切を取り除き、純然たる古峯神社となり、現在にいたっております。

    ○ 天狗信仰

    当社は別名「天狗の社」とも呼ばれ、神社内参籠室や廊下には所せましと天狗の面、或いは、扁額・威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)が掲げられております。
    これは熱心な崇敬者から心願成就の暁に奉納されたものばかりです。
    天狗はご祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)偉大なる威力の持主として広く根深い民間信仰を集めております。
    顔が赤く鼻の長い天狗を「大天狗」、黒いくちばしのある天狗を「烏天狗」と申します。

    →「隼人」という名前がでてきたので、紹介しました。

    > 4日から我が家も旅行ですが、By妻が、世話している地域猫を心配しております。ご近所に餌やりを頼みました。最近は我が家にいついております。ノラは3軒餌場を持っているはずですが、どうもそういう逞しさはないみたいです。

    →明日はやはり雨で、最高気温は低いようです。
    体調に留意されて旅を楽しんで下さい。
    それから我が家の猫は、結局病院に連れて行き、点滴と注射で復活しました。
    食いしん坊ぶりが復活したので、ひと安心しております。
    今日一日留守にしたので、ショックだったようで、今やっと安心して爆睡しております。思ったよりも小心者の猫だったようです。

    > でもそうすると、鹿沼の天狗さんたちは何なのだろう。天狗の古い伝説のあるところですか。

    →この最後の質問への答えになっているのかどうか分かりませんが、古峰神社についての一部をコピーしました。

    では、お気を付けて。


    前日光
  • mistralさん 2022/03/29 09:30:11
    験なきこと、、、
    しにあの旅人さん

    おはようございます。
    験なきこと、、、なので?現地におもむかれたしにあさんご夫妻、
    旅のスタイルはいつもそんなふうにして、
    でしょうか?
    現地で味わえる空気感、地に染みこんでいた悲しみ、無念な想いなどなど
    伝わってくることがあります。
    田んぼのなかにポツンと佇む隼人の首塚、何やら語りたそうな感じが。
    国分郷土館でご覧になったお面のコレクションもかなりのインパクト大!

    鹿児島には何度も行っていますが、隼人戦争のことは初めて知ったことでした。
    しにあさんご夫妻、旅人さんの足跡を追いかけて一気に九州でもはずれの地に。
    ちなみにしにあの旅人さんのトラベラー名は、大伴旅人さんにも因んでいそう
    (でしたか?)
    今回の旅行記にはしにあさんの「力」を感じます。

    旅人さん、信任厚いのでしょうが、九州のそれも辺境の地に派遣され
    なにやらわけがわからないけどそこで悪事を働いている蛮族を滅ぼすように、
    なんて役目をおおせつかり、歌を残すまでの心境には至らなかったのでしょうか。
    いろいろ???を抱きつつ、次回作を楽しみにお待ちしてます。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/03/29 12:08:00
    Re: 験なきこと、、、
    はい、ペンネームの「旅人」は大伴さんにあやかりました。
    単なる酔っ払いではないと思っていましたが、今回調べて見ると、奥行きのある人物でした。その百文の一でも表現できたらいいなと思っています。

    私にとっての旅はやっぱり歴史の縦の旅です。背後に歴史のない旅は、「クレープのないコーヒー」、古いなあ、ご存じですか、このキャッチフレーズ。
    「1個の石で1000年の時を語る」というのはkummingさんの名文句。まさに縦の旅の醍醐味です。

    この旅行記は、最初はもっと軽ーいもので、隼人いわれの名所古蹟めぐりのつもりでしたが、止上神社や隼人の首塚に行ったら、本腰を入れて書こうという気になりました。
    隼人の首塚は変な天気でした。青空なのに雲が低くて、雲の影が流れるのです。何かこう、その地に残った空気みたいなものを感じましたね。
    歴史は現場に行かなくては、と思いました。
    mistralさんの石の建物と同じです。

    今までは主人公は隼人でしたが、次回はいよいよ旅人さん登場です。
    なぜ旅人には隼人の歌がないか、mistralさんをここまで引っ張れたので、目的はほぼ達成。
    結果は、な~んだ、とならないように、目下推敲中です。期待しないでお待ちください。

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/03/29 17:53:58
    Re: 験なきこと、、、
    しにあの旅人さん

    確かに引っ張られた感があります。
    一度拝見して、う~ん、何かありそうだけど、
    うまく言葉にならない。
    そして再度の訪問。
    首塚といい、お面といい
    漂う雰囲気が何かありそうでしたね。
    壮年期の旅人さんに、歌が残されていないことも
    引っかかったことでした。
    結末はいかに?!

    mistral
  • kummingさん 2022/03/27 16:31:37
    験なきこと
    験なき物を思わずは 一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし

    験なきこと→考えても仕方ないこと、自分の手に負えない、人知及ばないこと、って意味ですか?

    いつものように、私の乏しい情報を元にコメントさせて頂きますm(._.)m
    720年隼人の乱鎮圧の為、大伴旅人は軍勢を率いて大隅に向かった。この頃不比等は中央に従わず反抗する蝦夷、隼人の制圧に心を砕いていて、その平定を見る事なく亡くなります。旅人が凱旋将軍として都入りした時は、没した後で、隼人制圧軍を率いたのは太宰の卒に任じられる前の話だったのですね。

    714年豊前国→大隅国に開拓軍が入植
    隼人は道理に暗く法令に従わぬ、よって豊前国の民200戸を移住させ統治に服するよう勧め導く。肥沃ではない土地に5000人の入植、農地の奪い合いになり対立。そこへ宇佐神宮派遣の開拓団が砦を作る。

    元々平和に暮らしてた隼人にとっては迷惑千万な中央政権の押し付け政策では?それを、神託にあるように「神である私が助力して」将軍は八幡神の教えに従い隼人勢を殺し終えた。神様のお墨付きで正当化する手口。

    ここでちょっと、余計な寄り道(笑笑)宇佐神宮について、私が拾った「とんでも説」「なちゃって説」ですが…。宇佐神宮に祀られているのは神功皇后と応神天皇?
    聖武天皇は不比等の編纂した「日本書紀」から「日本の始祖王を生んだのは天照大神」と学んだ。実際には神功皇后と応神天皇のヤマトを恨む気持ちがヤマトの始祖王を誕生させた。2人の祟りに怯えきったヤマトが南部九州から応神(神武)を迎え入れたのがヤマト建国の真相で、宇佐八幡は藤原氏が最も恐れる「祟る神」だった。当時天然痘は九州からの疫神によってもたらされる、という信仰があり、藤原四兄弟はこの病で全滅。
    長屋王の変、四兄弟の死、藤原家の犯した罪の意識から仏教に帰依した光明子を介して、聖武天皇出産後、心の病で蟄居させられていた母宮子と母息子の対面を経て(この時、宮子が何を語ったか?)、聖武天皇は反藤原ののろしをあげる。その一つが東大寺大仏のは守護神としての宇佐八幡の勧請。という、とんでも説?書いてる自分にもよくわからない(ーー;)

    今ウクライナで起きている事、プー珍はもちろん許せない悪行をあり得ないプロパガンダで覆い隠そうとしていますが、そこまでプー珍を追い詰めた米や西側諸国のイラクやセルビアでの軍事介入、その失敗を見つつ、NATO の勢力拡大に危機感を覚えた、という経緯もあり、自分の正義や主義を他国、他民族に上から押し付けて、ましてや武力でもって?は古今東西無理難題、歴史は繰り返す?

    一種の神話、されど地元に残る隼人殺戮の痕跡、伝説として、「王の御幸」という隼人鎮魂為の祭りや隼人伝説の碑が今に伝わる。迷わず成仏してね!的な。

    母方の親戚にお面作りを趣味にしてた叔父さんがいて、そこんちにお泊まりすると、お座敷のお布団に寝かされて、昼間はある事すら忘れていた、壁一面に飾られたお面の数々が、夜になると急に迫って来る様な、おどろおどろしい雰囲気、今でも覚えています(-。-; お面に何かが宿っていた?

    最長編カキコ、更新しました?!

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/03/27 19:11:22
    Re: 験なきこと
    「験なき・・・」で万葉集をすぐ見抜かれる、流石にkummingさん。これには細工がありまして、次回あっと驚く結末が、でもないかな。

    宇佐神宮2文書やら、三国名勝図会などというオモチャを手にしまして、今回と次回は特別リキを入れております。
    日本書紀と違って、続日本紀の時代は、この時代を取り扱う古い書物があるので、その組み合わせでガラッと結果が変わります。おもしろーい。

    旅人さんは不比等が死んだ直後に都に呼び戻されました。仕事ができる有能な人だったらしく、何かあると「旅人を呼べ」になったようです。征隼人将軍はそのままですからね。
    塩野七生のマキアヴェッリを思い出します。彼も有能で、何かというと仕事させられていました。違うのはマキちゃんは中級官僚ですが、旅人さんは名門の大貴族。
    でも藤原さんちみたいな陰謀大好きとは違うみたい。だから使われたんでしょうね。
    「おいおい、また俺かよ」と言いながら、テキパキと仕事はしたようです。
    それで今回は辛いことになるのです。

    宇佐神宮トンデモ説は同感です。何たって、「選挙当選」がご利益ですからね。今だって、真っ赤なピカピカの社殿です。あのお金はどこからくるのだろう。
    何かありがたみがないのです、あの神社。

しにあの旅人さんのトラベラーページ

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