1989/06/05 - 1993/09/02
32位(同エリア208件中)
唐辛子婆さん
これは30年ほど前のお話です。
スラウェシ島はインドネシア東部の大きな島で
南州都のマカッサルは首都ジャカルタから航空機で東へ2時間半。
もっと東へ飛ぶとパプア・ニューギニア、北に飛ぶとフィリピン
南に飛ぶと1時間ちょっとでバリです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
観光地は車で8時間のタナトラジャや最北端のメナド。
メナドは世界屈指の透明な海で大サンゴ礁が見られる憧れの
ダイビングスポットだそうです。
当時はウジュン・パンダンと呼ばれていたマカッサルに
私たちは4年ほど滞在しました。
外国人向けスーパーは1軒だけ、帆船や要塞の残る港、郊外のゴルフ場、
釘を一本も使わないで作るボートの村、焼き物の村、蝶のいっぱい集まる
バンティムルン渓谷などが思い出されます。 -
ここで
普段使いのバティック(更紗)の美しさに目覚める。
ろうけつ染の布は腰巻だけでなく様々な用途に使われていました。
着古して色あせて肌になじんだやわらかな布。
巻きつけた時にできる皺までもをまるで計算しつくしたやうな
美しいデザイン。
何百という島から構成されるインドネシアでは
数えきれない民族があり言語があり
コミュニケート手段として発達したデザインがあり。
王族限定のゆかしいデザインも。
そしてこの少年たちのマッチョなこと!
海に潜り田畑を耕し椰子の木に登り炎天下をどこまでも歩く
鍛えられた裸足の少年たちの美しさ。
この子たちの祖先はオランダや英国がこの地にくる以前から
木製のボートを操り遠くはマダガスカルまで航海していました。
もちろんミクロネシアやフィリピンや極東方面にも。
・・・これってすんごくない?! -
市場で売られている腰巻用の更紗布で様々なスタイルのエプロンを
仕立てバザーで販売し売り上げを寄付していたアメリカ人の
おばちゃんがいました。
マカッサルからの記念になるようなものはこれだけですけど
このエプロンを私は一生使うつもりでいます。
色あせてもね。 -
コーヒーでも有名なタナトラジャには
マカッサルに4年もいたのに行かずじまいでした。
「お葬式に牛を殺して捧げる」のに怖気づいたし
マカッサルでの生活がそれなりに忙しかったこともあり。
やっぱり車で8時間かかるのがネックだったかも。
バリの方がよっぽど(時間的には)近いんだもの。
絶壁の窪みが遺体の埋葬場になっていて洞窟では「タオタオ」と呼ばれる木彫りのお人形が死者を見守るという土地。当時もし私が4トラのメンバーだったらきっと訪れていたでしょうね。
まだ家庭にパソコンのない時代。
日本人会の会誌もワープロで打っていた時代でした。 -
トラジャの更紗のパターン
右上の「森と動物」が気に入っています。
さて30年前の遠い記憶をたどって
マカッサルに来ることになったいきさつを書いてみませう。
7年間のバンコク滞在を終え、引っ越し荷物をまとめていた私の元に
先に東京に戻っていた夫から連絡(国際電話)が入りました。
「東京に戻るかインドネシアのウジュン・パンダンに赴任するか
どっちがいい?」
「ウジュン・パンダンってどこ?!」
私にもたらされた情報はたったの4つ。
① インドネシアのスラウェシ島の人口100万人の州都。
② ケンタッキー・フライドチキンの店がある。
③ 2階バスが走っている。
④ インターナショナルスクールがある。
それならば大丈夫そう。
夫は海外部所属だし、仕事柄行く先は開発途上国と決まっている。
東京に戻ったところで
どのみちどっか知らない国に出発することになるのだ。
1年滞在したことがあるのでインドネシア語はわかる。
いずれ国際的な環境に置かれることもあるだろうと娘には
日本人学校に入るまで4年ほど英語の幼稚園に通わせていたので
英語の本は読める。
「ウジュン・パンダンにいく。」 -
その先の目まぐるしい展開といったら!
なにしろ情報が少なすぎる。どんなお店があるのかも皆目わからない。
で、処分しようと思っていたピアノから何から何まで全部梱包して
船便に乗せました。
ヤマハ楽器店がありジャカルタから巡回調律師が各家庭のピアノの状態を
調べに来てくれ国立ハサヌディン大学の先生の奥様が娘にピアノを
教えてくださることになるなんてこの時点で知る由もなく・・・。
人口100万といっても郊外の広大な地域を含んでの100万で
ウジュン・パンダンの町はわりと小さく
外国人の暮らしていた地域はさらにとても小さく
徒歩でまわれる程度の大きさでした。
(くそ暑いので徒歩でまわる人は私ぐらいでしたが。) -
バンコク日本人小学校の3年生になっていた娘と3人で
インドネシアに渡ったのは5月に入ってから。
ジャカルタでの手続きが2週間くらいかかるのでその間
娘を日本人学校に入れてもらいました。
ホテル住まいでお弁当も作れずレストランで買ったランチを持たせて。
先生もクラスメートもとても親切で
ボゴール植物園への遠足にも連れて行っていただきました。
このジャカルタ日本人学校の文集「みなみ十字」に
担任の先生が娘のことを -
「11日間のクラスメート」として書いてくださってました。
次の年のインターナショナルスクールの夏休みにも
ジャカルタの日本人学校を訪れました。
1年間、児童生徒あわせて25名の小さなインターナショナルスクールに
すっかりなじんだ娘は大規模な日本人学校を前にカチカチになっていましたけど荒井先生の「よく来たね~!」でほ~っと緊張が一度にゆるんで。
クラスメートからも「N子ちゃん大きくなったわねえ!」と言われて
にっこにこと溶け込んでいきました。
そして次の夏休みには先生達が理科の実験道具を抱えてマカッサルの日本語補習校に来てくださいました。 -
さて
海に面した「そよ風の町ウジュン・パンダン」に到着して
「ようこそ!お待ちしてましたよ!」と校長先生やPTA会長に
笑顔で迎え入れられ手続きを済ませた後インターナショナルスクールは
すぐに2か月半の長い長い夏休みに入ってしまいました。
夫は海の近くの通りにオフィスを構え
「これから1か月(仕事の手続きのため)ジャカルタに行ってくるから
その間に家を探して借りといてくれ。」
え~~~~~っ!
インドネシアでの賃貸契約は2年(以上)一括前払いが原則。
支払ったが最後不具合が生じても大家さんは一切何もしてくれない!
日本と違って、いやバンコクとも違って生活インフラのすべて(ガス・水道・電気、エアコン、冷蔵庫、バス・トイレの排水など)雨漏りの有無まで家が家として機能するかいちいちチェックしていかねばなりません。
そのうえ不動産を斡旋すると10%が手数料として転がり込み
銀行の預金金利が25%!2.5%ではありませんよ!
(いかにインドネシア・ルピアが弱かったかということですけど)
誰もかれもが不動産屋になりたがる。斡旋したがる。
PTA会長(カナダ人)も「ここでは誰も信じちゃだめよ。」
「あなたも含めて?」と突っ込みを入れたくなるやうな助言ではないか?
じゃあじゃあどうすればいいってのよ~~~?! -
こんな大変な時に私たちは素晴らしい人と知りあいました。
その人の名前も出身国も聞いたはずなのに覚えてない。
どうして覚えてないんだらう?
多分そんなことさえも「本当に重要なこと」ではなかったんでせう。
彼女も私も目の前の「すべきこと」にまっしぐらでしたから。
普段はどっかの離島に住んでいるその人は
「(現地の)学校の夏休みに息子の教育のためにサマースクールをやりたい」という広告を英字紙に投稿したのです。PTAはそれに飛びつきました。夏休みの2か月半をどう過ごすかが最大の悩みの種ですからね。
「一時帰国する人の家が空いているからそこに住んでね。
学校の備品は何使ってもいいから。」
息子が金髪だったから夫は西洋人だったのでせう。
彼女自身はアジア系でした。
「島には娯楽が少なくてね。海には危険なクラゲがいるから泳げないし
テニスコートもないのよ。花を育てるにも肥料がないから水牛の糞を利用して。」
サマースクールが引けた午後、彼女はよく娘を預かってくれました。
「大丈夫よ、息子も一緒に遊んだり勉強したりできるから。
はやく家を探しにいらっしゃい。」
明日の授業の準備もあったでしょうに、私には大助かりでした。
誰も知る人のいない土地でサマースクールを開催する勇気とこの親切! -
結局、家探しは私たちの泊まっているホテルをしばしば訪れていた
メイ・トーフィックというおばさんに紹介してもらうことになりました。
英語が通じたしほかの外国人とも知り合いで穏やかな性格で
全然阿漕な印象ではありませんでしたし。
フィリピンに近いテルナテという島の出身で、香辛料貿易で栄えたその島は豊かで清潔で馬車がのんびり走ってていいところだとのことでした。
家の契約が済んでからも彼女には様々なことを教えてもらいました。
ウジュンパンダン婦人会のメンバーも紹介してくれてのちに -
その婦人会からペン画カード作成の依頼を受けました。
Indonesia インドネシアに残る”ど下手ペン画カード”
https://4travel.jp/travelogue/10049523
婦人会のメンバーはウジュン・パンダンの名家のマダムたちで
お年寄りは英語のほかにオランダ語も話せました。
アラビア系のものすんごい美女もいました。
当時はヒジャブなどの被り物をしている人はあまりいなくて
モスレムの人が多いわりにコーランなども
「読んだことがないわ。
そういうのを読むのはイスラム学校の学生たちだけよ。」 -
さて話を戻して
借家の候補を2軒に絞ってジャカルタの夫に電話したら
「あんたの判断で決断していい。
あとでどんなことが起きても絶対文句は言わない。」
その夜、候補の家が洪水で水没する夢を見ましただ。
地元のドクター所有の、ぐるりに白いポーチのある家の契約が済んだ後
私はせめてもの恩返しにサマースクールを手伝ったりしました。
ドイツ系の女性が経営する蘭園に遠足に行ったりして
楽しい思い出となりました。 -
家の周りのポーチは多分大理石だったかと思います。
カナダ人のPTA会長のお嬢さんと娘は
ポーチに水をまいてお腹でツル~~ンと滑って遊んでました。 -
インドネシアはほとんどがモスレムで
ウジュン・パンダンにもいたるところにモスクからのアザーン(お祈り)
を流すスピーカーが設置されていましたが
スラウェシ島はクリスチャンもたくさんいて -
コキ(料理人)のアグスもチュチ(洗濯人)のティナもクリスチャンでした。おかげで豚肉も食べることができました。運転手はモスレムでしたが1日に5回もお祈りするほどではありませんでした。ってかお祈りする姿を一度もみたことはない。
バンコク滞在中の7年間一度もインドネシア語を使わず思い出せるか心配しましたが飛行機がランディングしたとたんに「スダ・ダタン(さあ着いた)」という言葉が浮かんできたのが不思議です。
娘にとってははじめての言語なので
メイドや運転手たちとのやり取りのひとつひとつに
「今なんて言ったの?」と質問してくる。
設営時の忙しい時にそれをいちいち通訳するのはとても大変でしたけど、ここでめんどくさそうな顔をしたら娘は疎外感を持ち学習意欲をなくすだろうと思ってすべての質問に答えようと自分に言い聞かせました。
そのおかげで4年後には私よりもはるかにインドネシア語ができるようになりバカにされることになろうとは・・・。
いったいぜんたい誰が教えたとおもてんねん! -
船荷はまだ到着しないので
インターナショナルスクールの新学期が始まる前に娘と二人で一時帰国し
保存日本食を山ほど買いあさり(和食屋さんなんてなかったからね)
大きなスーツケース4個をかかえてジャカルタに向かったときのこと。
JALの出発が大幅に遅れてジャカルタ到着が深夜になりました。
空港を出るとワラワラ寄ってきたタクシーの運転手たちが
「ブルーバードはもういないよ。」というではありませんか!
その時の恐怖ときたら!
当時信用できるタクシーはブルーバードだけだったのです。
当時は空港にホテルはないし
スマホもないのでホテルに迎えの車を頼むこともできないし。
でも小3の娘と一緒に空港で夜明かしするわけにもいかず1台に乗り込みました。
空港から町までは真っ暗な沼地。
運転手が強盗に変身したらどうしやう。
いざという時娘が眠り込んでいたら戦えないので絶え間なく娘に話しかけ
カーディガンをそっと脱いで。
もしもの時は先手を打ってカーディガンで運転手の首を絞めやう!
今考えてもそれがマンガみたいに
有効性に乏しい戦略だということはわかっていますとも!
でも152㎝の小さなおばさんが
それ以外にどうやって立ち向かえるというの?
永遠に続くかと思われた真っ暗な沼地を抜けて町の灯が見えた時には本当にほっとしました。ホテルにたどり着いたときは涙が出るほどほっとしました。疑って悪かったなあと思ったのはずっと後になってから・・・。
この果物は竜眼です。
ライチーよりも可食部が少ないけど甘くておいしい。 -
船便が届いたときのこともオドロキの連続でした。
引っ越し業者がくぎ抜きというものを持っていなくて
ピアノの木枠を金づちでたたき割ろうとしたのです。
「やめて~~~!ピアノが壊れる~~~!」
航海の途中も乱暴に扱われたらしく
半年後くらいにジャカルタから巡回してきた調律師の人に
「いつ崩れ落ちても不思議ではない!」と言われました。
どうしたらいいのだ?
どこをどう直せばいいのか書いてくれたものを頼りに
修理してくれたのは地元の大工さんでした。
まるで映画「ピアノレッスン」の世界でしょ?
このパンの中身は
ココナツミルクとパンダン(匂いアダン)の葉(の粉末?)を
クリーム状にしたもの。パンダンの香りがいいのよ。 -
ずっと後になってから知ったことですが
ウジュン・パンダンにはハサヌディン大学のほかに
イスラム系やクリスチャン系を含め10校程度の大学があり
1980年代からは京大のマカッサル・フィールドステーションが
ハサヌディン大学に置かれていたそうです。
そのハサヌディン大学は
インドネシア全国でも有数の国立総合大学でしたが
私たちが到着する何年か前に学生中心の暴動が起きたそうです。
警察からバイクに乗るときのヘルメット着用義務を言い渡された学生が怒って。中国人の店が焼き討ちにあったりしました。
私たちが赴任したころにはすでにみなヘルメットを着用していましたが。
中国人たちは何かにつけて攻撃の対象となるので店舗も建物も外見は非常に質素というか古ぼけたままの作りでした。しかし2階の窓からたまに見えるお部屋の天井に豪華なシャンデリアが輝いていたりして中はとても立派だというウワサでした。
家を斡旋してくれたメイ・トーフィクも中国系でとても働き者でした。
ある時娘がポニーテールにしていたシュシュを見て
「ウジュンパンダンにはないから売れるかも!」
そこでなんと娘にミシンの使い方を教えて一緒に作りました。
お裁縫なんてぶきっちょなママ(私のこと)は教えてくれないから
娘は面白がって次から次へとどんどん作りました。
そしてそれはスーパーでいっぱい売れました。
娘はお昼ご飯と製品を7個もらって上機嫌で帰ってきました。
ははは、すんごい低賃金児童労働^^!
メイはテルナテ島在住の母上が亡くなった時にはとても長い間落ち込んで
もう大丈夫かなと訪れた時も玄関に誰も出てこないので2階に上がっていくとひとり涙をこぼしていました。
「娘にそんなに慕われてお母様は天国でも幸せに暮らしていらっしゃるわよ。本当よ。」と何度慰めたことか。
ホテルでのブブル・アヤム(鶏肉入りのおかゆ) -
オフィスの大家さんも中国系でした。
このマダムほどの働き者を後にも先にもみたことはありませぬ。
経営しているレストランの仕込みのため早朝に市場で買い物。
午前中に従業員と一緒にレストランの準備。
午後フツーの人のお昼寝タイムに
レストランの階下の文房具・事務用品店の会計をチェック。
夕方から夜にかけてレストランで常連客の接待。
3人の子供たちは現地校に通学していたので
娘と遊ぶ機会はあまりありませんでしたが
長女のIrmaが娘と同学年で年に何回かは我が家で遊びました。
娘のおもちゃの取説(ひらがな交じりの日本語)の漢字だけを拾って
いとも簡単に使えるようになるなど、とても利発な子でした。
「長男が生まれた日がちょうどレストランの開店日だったので
赤ちゃんの名前を相談しようにも夫がそばにいなかった。
それで自分だけで考えた。
長男の名前はAmri。Irmaの逆よ。次女の名前はMiraなの、ふふふ。」
Irmaが中学を卒業するころ3人の子供たちをシンガポールの親戚に預けて
インターナショナル校の教育を受けさせ
マダムはレストランのそばにブティック・ホテルを開業しました。
中国系以外の人でも働き者はたくさんいました。
運転手の奥さんとお母さんは
朝2時(真夜中!)に起きてお菓子を作り5時には市場にでて売りさばき
一日で一番暑い午後は昼寝して夕食後は明日の準備の毎日。
いろんなところで愛すべき人、尊敬できる人にめぐり会えたのは
とても幸せなことでした。 -
この家での思い出はいっぱい!はいて捨てるほどいっぱ~い!
思い返せば父も夫も転勤族で住まいはいつもアパート。
お庭のある戸建ての暮らしはジャカルタでの1年間とここだけで
私にとっては新鮮なオドロキの連続でした。
勝手にバナナやパイナップルを植える人がいたり。
夜中に下の窓を破って泥棒が入ろうとしたり。
さっそくアラームを取り付けたのに夜に自分が引っかかったりのドジな私。
ある夕方、娘の部屋の外側に見知らぬ男がいたので「覗き」をしているのだと思って大声を出して追い払ったら娘が「ママ、お祈りに来ただけなのにどうして追い払ったりしたの?」えっ?そりゃ悪かったわねえ。でもお祈りなら自分ちでやればいいんじゃないの?!
フェンスがそれほど高くないので簡単に乗り越えられるし
そもそも裏の車寄せの門が開けっ放し。
閉めればいいって?
閉めて解決するんならとっくに閉めてますよ。
その理由はパキスタン編に書いたことがありますので
興味のある方はご覧くださいまし。(真ん中へんに記載)
https://4travel.jp/travelogue/10100957
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旅行記グループ
Indonesia マカッサルの日々
この旅行記へのコメント (6)
-
- tabinakanotaekoさん 2021/08/11 20:46:04
- 唐辛子さん、惹き込まれました
- 唐辛子さん、
1冊の本を一字一句読んだような気持ちです。このコメントはスマホで書いているので言葉少なですが、ワクワクしました。ご主人が家選びをアナタに丸投げされた為に、その晩、洪水で流される夢をみたというところが1番、共感出来ました。いろんな経験が宝物ですね。
taeko
- 唐辛子婆さん からの返信 2021/08/12 16:59:30
- Re: 唐辛子さん、惹き込まれました
- taekoさん
こんな旅行記でもない忘備録を読んでくださってありがとうございました。
「洪水で流される夢」のところ今でもぞっとします。
もし本当にそれが起きたら夫はどんな顔しただろうかと思うと笑えちゃいますが。今だから笑えるんですよね。
唐辛子婆
-
- olive kenjiさん 2021/07/05 04:27:44
- 十一日間のクラスメート
- 蜜蜂ばあやさん ご無沙汰しております。
凄くいい旅行記というか、胸に響く回想記でした。
そもそもスラウェシ島自体がどこにあるのか分からず調べました。
インドネシアって島が点在していますもんね。よーやく発見しました。
マカッサルという100万都市がジャカルタ以外にあるとも知りませんでした。
表紙の地図に沢山の丸印と地名が書かれていますが、これが不思議なんだな~
当たり前なんだけど、そこに人間が住み集落があるということなんですよね。
南国のジャングルばかりの島かと想像していた思い違いを恥じています。
全てのお話が興味深く、それぞれにコメントしたくなるのですが、一つだけにしましょう。11日間のクラスメートのお話・・とっても感動しました。
短い期間でしたが、美しい思い出深いお話でした。
担任の荒井先生が立派で、見識が有ると思いました。この様な先生がいると頼もしくなります。遠く異国の地でも頑張っている先生がいるのだと思った次第です。
夕焼けに染まる写真とも絵画とも見える海の風景が素敵でした。
これも、額縁に入れて飾りたい。
- 唐辛子婆さん からの返信 2021/07/06 23:13:35
- Re: 十一日間のクラスメート
- olive kenjiさん
いらっしゃいまし~~♪
こんな古い話を読んでくださってありがとうございます。
娘からようやく写真掲載のお許しが出ましたので忘備録を書きました。
日本人学校の先生は夏休みにマカッサルまで
理科の実験道具を抱えて授業に来てくださいましたよ。
唐辛子婆
-
- TOKOMASさん 2021/07/04 15:13:02
- スラウェシ島の旅
- Tokomas です。
スラウェシ島の30年前の様子が理解できました。
私もスラウェシ島には仕事の関係で、1990年代の初めに3回行きました。
ウジュンパンダン(マカッサル)、トラジャ、マナド、ケンダリ、パルー、ゴロンタロなどです。
記憶に強く残っているのは、マナド周辺のブナケン島の海の綺麗さ、マナド北部のタンココ自然保護区に棲息している手のひらサイズの眼鏡ザルです。
これからも宜しくお願いします。
- 唐辛子婆さん からの返信 2021/07/06 23:05:03
- Re: スラウェシ島の旅
- TOKOMASさん
書き込みと投票ありがとうございました。
トラジャ、マナドはともかくケンダリ、パルー、ゴロンタロなど
名前も知りませんでした。海がとてもきれいなところですね。
シュノーケリングにいけたらどんなに楽しいでせう!
唐辛子婆
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