1989/06/05 - 1993/09/02
39位(同エリア208件中)
唐辛子婆さん
夏休みも終わりに近づき、はじめての新学期を前にして学校から
「あなたがPTAの役員にノミネートされている」と電話がかかってきました。
夏休み直前に入学手続きをしただけでまだ学校のことをな~んにも知らないこの私が?
思わず「ミセスが?ミスターが?」と聞き返しましたが
「ミスターはノミネートされてない。」
ほかの日本人家庭との連絡係が必要だとのこと。
当時子供のいる日本人家庭は3軒程度でした。
家族連れでの滞在者は少数でしたが単身赴任の日本人は結構いたので
日本領事館があり、敷地内には日本人学校補習校がありました。
日本人の子供たちは(親も)放課後インターナショナルスクールの宿題と
文部省からの通信教育(全科目)、週末は親たちが先生役の補習校での授業(主要科目)を受けてと平日は遊ぶ暇もないほど忙しく過ごしていました。
それはともかく、PTA役員はたったの5名。
なったとたんに知ったのは衝撃の事実でした!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 徒歩
PR
-
この学校はインドネシア政府にまだ認可されてない
無認可の学校だったのです!
それを知っていたら来るんじゃなかった!
荷物まとめてさっさと国に帰らう!
でもそれでは家族が離れ離れになってしまふ。それはヤダ。
もともとキリスト教普及のためにアメリカから送り込まれたミッションの子弟用に家庭教師が派遣されていました。しかし子供たちにとっても学校という環境があった方が良いのでキリスト教とは関係のない外国人子弟も全部受け入れた学校を作っていたのです。
キリスト教のミッションのほかは
プラン・インターナショナルとか国連系のNGOなど
オランダ、カナダ、フィリピン、アメリカ、タイ、ニュージーランド、
オーストラリアなどの子供がいました。
極東人は日本人だけでしたがのちに韓国人子弟も入ってきました。
インドネシア政府の認可がないので教師は不法就労となる。
時々移民局の役人が視察に訪れて生徒にいろいろ聞くのですがその度に
「この人は先生ではない。父兄です。」と嘘をつかせなければならない。
それは教育に悪いので認可をとりつけようという話になっていたのです。
エントランスにバスケットのある大きな2階建ての家を借りていた。 -
認可申請のためには学校を運営するためのすべての書類、校則や雇用形態や年間スケジュールなど様々な書類を整備しなければならずそれを今からPTAの5人でやるというのです。
その毎晩の会議は日常会話に毛が生えた程度の英語力の私には地獄のやうに難しく長くなが~く感じられました。start のことをinaugurateなどとカッコつけて、いや格調高く謳いあげるし。
今なら「学校法人の運営規約サンプル」か何かをネットから引っ張ってきて楽にできるんでしょうけどそんな便利なツールのない時代PTA会長も苦労したと思います。英文をインドネシア語に訳さなくちゃならないしね。
しかしとにもかくにも必要書類はすべて完了し
ジャカルタの文部省に提出して長い長い待ち時間を経てやうやく
PTAが経営母体の非営利インターナショナルスクールが誕生しました。
学校は5人のPTAボードだけでなく父兄の誰かしらがしょっちゅうやって来て何らかのおてつだいをしていました。月に一度の校庭の除草やどぶさらいはもとよりこんなバスケット付きの楽しい小屋を作ったり。 -
25名ぐらいだった児童生徒は私たちが帰国する前には45名ぐらいに。
やっとこの頃になって看板も出来上がりました。
看板は唐辛子爺と唐辛子婆が一緒に作りました。
はじめはウジュン・パンダン・インターナショナル・スクールという名称になる予定でした。でも略号が「UPIS(youが排尿する)じゃぁいくらなんでもヤだ!」という意見がでてウジュン・パンダンの古い呼称「マカッサル」を採用。のちに町の名前もマカッサルに改名されましたしね。 -
学芸会でインドネシア伝統の竹の楽器アンクルンを演奏する子供たち
-
秋の感謝祭でのPTA会長ご挨拶。
クリスチャンのミッションの中には言語学者もいてその人たちは山奥で樹上で暮らしている人たちの言語を集め辞書を作りその言葉で聖書を書き布教するという気の遠くなるような、一生をかけた仕事に取り組んでいました。
なんと子供連れの人もいましたよ。
普段は親が勉強を教え、たまに町に降りてきた時だけ学校に通わせ。
何事にも楽観的で無から有を生み出していく。
信仰を持っている人はなんと強いことかと感心させられたものです。 -
高学年の子のトラジャの踊り
-
PTA役員なのでハロウィンやクリスマスなどの行事の司会もしました。
娘と一緒に。 -
誰かがこんな青いウィッグつき帽子を貸してくれたので
調子に乗ってダークブラウンの口紅だけで
眉毛もまつ毛も鼻筋もチークも口紅も塗りたくって
PTA会長に「ぎゃ!か・かわいいよ!」とのけぞられました。 -
日本文化の紹介
七夕の時は日本人生徒が浴衣を着て紙芝居を披露しました。 -
笹に願い事を書いた短冊も飾って。
オランダから新しく男の先生Uもやってきて先生は8名になりました。
アメリカ人のB先生は大柄でとても陽気で周到な準備で
ひとクラス3学年の複式授業を混乱させることなくさばいていました。
ジャカルタからやってきたインド人のマヤ先生は
「田舎だから勉強が遅れてると言われることのないよう
ガンガンやりますからねっ!」と張り切っていました。 -
主要科目は専門の先生たちが担当しましたが
音楽、美術、体育などの先生はいないので父兄が担当しました。
校庭はあまり広くないので
体育の時間は近所の立派な競技場を借りていました。
年に一度のスポーツデーにはそこで運動会や体力測定もしました。 -
50mのとても清潔な市営プールがあったので
水泳の時間も多くとることができました。
子供たちはみな海で楽々素潜りができるまでに成長しました。
水泳の時間の最後のテストが
深いプールの水底に一気に潜って石をつかんで戻ってくる
というものでしたので。
海に潜ってヒトデをつかみママの顔の前ににゅっと突き出して
ぎゃ~っと驚かせるのが当時の娘の一番の楽しみになりました。
砲丸投げ -
右端が校長先生
お母さんたちが測定のお手伝いをしています。
走り幅跳び -
1991年6月~9月までの2か月半の長い夏休み。宿題は一切出ない。
サマースクールをしてくれる人が帰国してしまったので私が主催することにしました。
音楽はオーストラリア人の音楽学校の先生に来てもらい
水泳はインドネシア人のコーチを雇い
お絵描きは私が教えてという風に
いろんな人に助けてもらってスタートしました。
教師の確保や子供の出席の確認のために
私は結局毎日登校しなければなりませんでしたがそれは
マネジメント力を養う貴重な体験になったと思います。
後日私は日本で英語学校の分校のマネジメントを任されました。 -
そうこうしてるうち1992年9月から1年間
「ARTの先生をお願いできない?今までの先生はイギリスに帰るのよ。」
う~む。
絵画鑑賞は好きなんですけどね。
バンコクで教育大の先生に水彩画を5年間習ってはいたんですけどね。
教育大での講義(理論)や写生にも参加はしていたんですけどね。
最後になんとホテルでのグループ展までやっちゃったんですけどね。
でも素人ですよ。
「どのように教えてもいい。テストはやってもやらなくてもいい。」
わかりました。やってみましょう。
いずれ娘には教えてといわれれば教えたいと思っていたことなので。
体育はカナダ人父兄、音楽は私たちのプロジェクトで来ていたM夫人
(日本の学校での経験あり)が担当することになりました。
2~3学年一緒の複式授業(それだけでもパニックになりそう)の上
米国流のやり方もわからなかったので何度か授業参観をさせてもらい
わかったことは。
複式授業:1学年にドリルをやらせている間に他学年に作文書かせてもう一つの学年に黒板での講義。周到に準備していれば何の混乱も起こらない。準備さえしてればね。
米国式:何でもいいからまず良いところを見つけて褒めてそれから「ひとつだけ提案」して向上を促す。何もなさそうなところから素早くほめるところを見つける手際の良さにオドロキと感激!
そこからが大忙し。
1学期(半年間)を前に授業計画を父兄に(英語で)公表しなければならないのです。 -
小1から中2まで違うことを教えるのは私には不可能なので
同じ内容を完成度を違えて教えることにしました。
例えば何種類かの葉っぱのドローイング。
低学年は紙の上に置いて外周をなぞる。
中学年は自分で描く。高学年はデザインも考えて描かせたりしました。
ドローイングした葉っぱに絵の具を塗らせたら
案の定チューブから出した緑色をそのまま塗りたくりました。
(以前の先生が教えていたのは主にクラフトだったそうで)
それで
向こうが透けて見える黄緑色の葉っぱ、青みがかって葉脈が白く見える葉っぱ、茶色がかってごわごわした分厚い葉っぱなどを人数分用意して
よ~く観察してもらって気がついたことを言ってもらいました。
絵具の混ぜ方や混ぜる水の分量で葉っぱが分厚く見えたり透明感が出せたりることが子供たちもだんだんわかってきて自然に近い絵を描くようになってきました。
そしてみんな描く前にじっくり観察する癖をつけてくれました。 -
低学年はとにかく楽しくをモットーに
「私たちの住んでる町を作りましょう。あなたの家はどこかな?
プールのあるホテルのお隣だっけ?何階建?屋根の色は何色?
ジェームソン(スーパー)はどこ? 私たちの学校はどこ?」
発泡スチロールの大きな台の上に発泡スチロールや厚紙で家を作り
海には船を浮かべて。
子供たちがとても喜んだのは知ってましたけど
大人たちもだとは知りませんでした。
自分の家が完成しなかった子供は宿題として持って帰ったのですけど
出来上がり品は父兄が夢中になって作った精巧な木製の家!階段の手すりに爪楊枝を使ってそれはそれは丁寧な出来上がりでした^^。
学期の終わりの発表の日には父兄たちが大興奮で
しげしげと自分の町(や自分の家)に見入っていましたよ。 -
町の北側の港に観察遠足に連れて行って写生大会もやりました。
港には昔ながらの帆船がもやっていて -
ロッテルダム要塞も残っていました。
ここは日本統治時代は語学学校だったそうです。
今は博物館になっているとか。
もちろん文部省から送られてくる通信教育の図工の教科書を頼りに
お絵描きや粘土での動物や器作り、母の日のネックレス製作なども
やりました。 -
粘土についても面白いエピソードがありました。
文房具店に売ってるわけではないので校長先生に相談したら
地元の大学の教育学部の先生を紹介してくれました。
「ノープロブレム。週末に連れて行ってあげますよ。」
着いたのは郊外のセメント工場でした。
ここで袋入りの粘土をゲットできるんだとばかり思い込んでいたワタクシ。工場長に山の中に連れていかれて「さあ、どうぞ。いくらでもご自由に。」えっ?!目が点になるとはこのこと。
スコップもないので粘土の塊を手で拾って車のトランクいっぱいに詰め込み。盥(たらい)に水をはって塊を入れてブルーシートをかぶせ中学生の男の子たちに踏んでもらってようやく使える粘土ができました。
「水牛のオシッコがまじってるぞ~~」なんて言いながら男の子たちは
大はしゃぎでコネコネしてくれ、全校分の粘土を準備することができたのです。
空き瓶を土台にして粘土を利用したお人形作り。
マイケル・ジャクソンがいます。 -
その時に手伝ってくれたのがこの子たちです。
これは我が家でマジャの実の準備をしているところ。
ココナツの実みたいに見えますがジュースも内側の果肉もおいしいココナツと違ってマジャは水牛も嫌がるほどの苦さ!
現地の人は昔から中身を捨て固い皮に模様を彫りつけて
水筒や器として使っていたそうです。
中央の女性は私のあとに美術の先生を引き受けたアメリカ人のR。
美術教師の経験あり。
子供たちの会話を聞きながら私も自然な英語力をアップしていったと思います。
はじめてインターナショナルに来た子が最初に覚える文章は
挨拶でもなくThis is a pen. でもなくIt!s mine!でした。
「それは僕のだ。」ではなく「俺の物に触るな!」という意味で。
そして私はeitherや neitherの使い方が下手だったのですが
子供たちの喧嘩を聞いててようやく楽に使えるようになりました。
I don!t like you! I don!t like you either! -
マジャの実の外側の模様用に町の金物屋に彫刻刀を買いに行ったら
錆びたのが3セットしかなく。
店にたむろしていたおじいさんたちが「気をつけっ!ボークーゴー(防空壕)!」といって軍歌を歌い始めたのにビビる。日本軍のことを懐かしがってニコニコされたのでほっと胸をなでおろす。
敗戦後も当地に残りインドネシア独立戦を戦った日本人もいたそうですが
なんといっても日本軍のしたことで一番の功績は「インドネシア語の統一」だそうです。島嶼国で様々な民族と言語がある中で「マレー語系が比較的論理的で商業などのビジネスに最適と判断」したそうで。最多数言語だっただけかもしれませんけど・・・。
結局彫刻刀は入手をあきらめ一時帰国した時に
武蔵村山の教育用材料店で購入しました。 -
粘土は器、お人形、お面などの制作に大活躍してくれましたが
仕上げに焼き物の村タカラールへの遠足を計画しました。
そういう時には父兄が何台かのジープを提供してくれます。
その焼き物の村の轆轤は「足けり式」で窯はレンガを積み上げてトタン板を乗せただけの簡単なもの。植木鉢などは干して一か所に集めてマキや藁をかぶせて火をつけるやり方でした。でもシンプルな分、子供たちにはわかりやすかったかも。 -
イラストのビデオ教材は校長先生が用意してくれました。
人の顔は左右が対象ではないことを証明するために縦半分に切って
右は右、左は左を反転してつなぎ合わせたものを見せると
全く違った顔が出来上がったのにみんながびっくりしていました。
屋外での授業の予定が急な雨に見舞われたとか
不測の事態にビデオ教材は大いに役に立ちました。
オランダ人の先生Uが私の用意しておいた塗料の瓶を
お昼休みにサッカーボールを当てて壊してしまったことがありました。
「絞め殺したろか!」(絞め殺すには首の位置が高くて届かない大男)
「ごめんごめんごめんなさい」
その塗料はランチタイムにみんなが利用できるように
上級生が椅子とテーブルを作ってペイントするための塗料でした。
木工の知識とスキルは青年協力隊として当地に派遣されていた日本の方に
お願いして教えていただきました。 -
高学年には美術史とかも必要だろうと思って一時帰国するオーストラリア人の校長先生に頼んだら大人向けの詳しすぎるものを買ってきてくれたので頭をかかえてしまひました。頼む人を間違ったか?(彼女の専門は科学)。しかしもう一方の「モネのお庭を見に行く本」は印象派について教えるのに最適でした。
Rにも時々アドバイスをもらってました。
「作品を見せる時に所蔵館も告げれば?」とか「ゴッホとゴーギャンがアルルでの共同生活を始めたがすぐに喧嘩となってゴーギャンがパリに戻った。」などの人間臭いエピソードを話しては?とか。
理解度を知るために論文形式のテストも計画しました。講義中におしゃべりする子もいたので以下のことを言ったら全員がピタ!と集中するようになりました。
「テストが100点だけではAはあげない。①テスト20%、②宿題20%、③クラスパーティシペーション(参加度・貢献度)20%、④黒板やプリントに書かれたこと20%、⑤先生からの説明20%。⑤はどこにも書かないからよく聞いてね。」
その頃、初めて韓国人の男の子(5年生)が転入してきました。両親も子供も英語がほとんどわからないのでほとほと困った校長先生が「あなた同じ東洋人なんだから何とかしてよ。」そ・そんなあ!
漢字を書いてみましたが「なんじゃこりゃ?」という顔をしてプイっと教室を出て行っちゃうし。それで韓国では小学生にはハングルしか教えてないということが分かりました。
(のちにミセス・バンクスが英語を母国語としない親のための英会話レッスンをしてくれました。無料!)
しかしその子は1年後にアートのクラスで「A-」をとるまでに成長しました。それは決して私の手柄ではありませぬ。ちょうど同学年にたった一人アメリカ人の男の子がいて二人は遊び相手がいないどうしいつも子犬がじゃれあうように遊んでいました。それで彼は英語を習得していったのです。
テストでの彼の文章はスペルも文法も間違いだらけでしたけど、教えたことは全部把握していたのでA-をつけることにしました。校長先生もアートは英語の授業ではないのだから大目に見ましょうと言ってくれて。彼は「まさかAがもらえるなんて思ってもみなかった!」と飛びあがって喜びました。
この時ぜひとも訪れたいと願ったジベルニーのモネの家に
たどり着けたのは7年後でした。
https://4travel.jp/travelogue/10486258 -
小学校3年生だった娘もマカッサルを離れる時には中学1年生。
のんびりした小規模校で育ったので日本の受験戦争にはなじまないだろうと東久留米の小さいインターナショナルスクール校を目ざしましたが定員いっぱいで仕方なく調布のアメリカンスクールに転入学しました。
世界中のアメリカン・スクールの中でローマと1・2位を争う受験校!
「一人でも多くの子をハーバードへ!」という、飛び級も落第もフツーにあり高校の上学年生の多くがAP(大学1年生の授業。)を受けるすさまじい受験校だということを知らずに・・・。
もっといろいろと調べてゆったりした学校を選べばよかったと今でも思います。当時は帰国子女への配慮をした学校も少なく情報も不足していました。
今は娘も当時の私と同じぐらいの年齢になり2児の母。
モスクワの日本人学校に入った孫の勉強にPTA活動に右往左往?しています。なにしろ日本人学校での記憶がごくわずか。
コロナ渦につき個人の航空荷物がまだ届けられないので船便で送る日本食。梅干しまでもが腐らないかと心配になるほど時間がかかって。
今年は無理でも来年には孫たちに会いに行けるでせうか?
この旅行記を書いた時までは世の中はなんと平和だったことでしょう!
負傷したり殺されたりするニュースにとても心を痛めています。
どちらの国の人達も戦争なんて望んでないのに。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
Indonesia マカッサルの日々
この旅行記へのコメント (4)
-
- SHIMOさん 2022/06/14 00:25:15
- こんにちは
- ネットを見てましたら私の幼少期の写真(集合写真)が出てきて、大変驚いてます。本当に懐かしいです。ありがとうございます!
- 唐辛子婆さん からの返信 2022/06/14 00:58:44
- Re: こんにちは
- SHIMOさん
こんばんは。
どなたにもお断りなく集合写真を載せてしまってすみません。
私も70歳を過ぎて物忘れも激しく全部の方々のお名前を思い出せないかも知れませんがお差支えなかったらどちら様か教えてください。
フォートラベルには掲示板のほかに個人(だけ)あてにメールを送ることができる機能「メールを送る」がついていますので、そちらを利用してくださった方がいいかと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
唐辛子婆
-
- olive kenjiさん 2021/07/05 05:01:19
- 理想の学校はここにあり
- 蜜蜂ばあやさま この章もまた素晴らしいお話で感激しました。
へんぴな異国での学校運営はどうなのかなと心配しましたが、想像を絶する素晴らしい学校ではありませんか。
先生も父兄も協力し合って一生懸命教育に携わっている姿を目にしました。
受験対策学校としてはどうかと思いますが、子供たちの情操教育、知性、感性、体力、国際交流、向学心、モラルを育てるのには最高の学校ではなかったかと思います。
おそらく、彼らは社会人になっても優秀で立派な成人になっていると思います。
こんな学校を知っていれば、私の子供達、否私自身が通いたい学校でした。
韓国からの学生のお話もほんのりとしました。
テストが100点だけではAはあげない、20点分割方式。これはいい考え方です。
日本に於いても取り入れて頂きたい学習思考かと思いました。
蜜蜂ばあやさまは私にとって美術担当先生だけでなく総合教育先生です。
これからもいっぱい教えて下さい。
第3章も楽しみにしています。
- 唐辛子婆さん からの返信 2021/07/06 23:28:36
- Re: 理想の学校はここにあり
- olive kenjiさん
>先生も父兄も協力し合って一生懸命教育に携わっている
特にミッションの方々の無から有をつくるたくましさは素晴らしいものでした。そして誰にも親切で電話をかけるといつも
「Hello, what can I do for you?」とでてきてくれるんです。
>受験対策学校としてはどうかと思いますが、子供たちの情操教育、知性、感>性、体力、国際交流、向学心、モラルを育てるのには最高の学校ではなかっ>たかと思います。
そ・そんなに褒めてくださるほどのことはないんですけど
国際的視野とか応用力は身に着けたと思います。
唐辛子婆
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