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2020年11月25日(水)11時半過ぎ、一休寺の本堂に向かう参道の途中にある中門を潜る。正面の石段を下った先が庫裏(台所)。その前に植えられているのは樹齢約400年のしだれ松。その左側にあるこじんまりした建物は東司(とうす)。御手洗いのことで、昔の状態そのままに残っている御手洗いは大変珍しい。反対側、右手は方丈へ通じる玄関の唐門。<br /><br />庫裏は1650年の方丈再建の時に改築されたもので、東司と唐門はその時に新築されたもので、いずれも国の重文。庫裏の中に入ると正面に囲炉裏。ひっそりとした庫裏の中は、黒々と拭きこまれ、夏でも涼しく感じる(下の写真1)。<br /><br />庫裏に入って右手に進むと方丈に通じる。住職の接客や仏事に使う建物でいわゆる居間。前田利常により1650年に再建されたもので、国の重文。間口18.01m、奥行11.85mで、背面中央部に3.52m四方の張出部分がある。東西に3間、南北に2間の6部屋構成で、回廊と外縁が廻っており、中央部の奥が仏間。<br /><br />酬恩庵と記された扁額が掲げてある方丈中央の内陣を昭堂と称し一休禅師の木像を安置してある(写真撮影禁止)。この木像は一休禅師が逝去する前の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。この像も国の重文。<br /><br />手前の部屋にある輿は禅師が81才で大徳寺の住職になった際、ここから紫野まで乗って通ったというもの(下の写真2)。また、方丈の襖絵は全て江戸時代初期の画家狩野探幽斎守信の筆によるもの。探幽49歳の時のもので、中国の洞庭湖周辺の瀟湘(しょうしょう)八景や北宋時代の詩人の林和靖、六朝時代の詩人の陶淵明が描かれている。ただし今あるのは複製で本物は宝物殿にある(下の写真3)。<br /><br />方丈を囲む庭園は、江戸初期の造庭で、文人の松花堂昭乗、詩仙堂を建てた石川丈山、淀藩家老で文人の佐川田喜六の合作と伝えられる。江戸時代初期の代表的な庭として国の名勝に指定されており、南庭、北庭、東庭はそれぞれがちがった風情をかもし出していて、組み合わせの妙を感じさせる。<br /><br />南庭は宗純王廟と虎丘庵を背景として、これらの建物の北部斜面を利用して皐月の刈込があり、左手に山茶花、右手に蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められておりさっぱりとした中に落ち着いた雅味をあたえている。白砂がきれいで見てて飽きないお庭。<br /><br />庭の向かい右手奥に見える檜皮葺きの屋根が虎丘庵。虎丘の名は南宋の禅僧虎丘紹隆に由来している。1467年、応仁の乱の戦禍が波及してきたため禅師が74歳の時に京都の東山から移築されたもので、江戸時代初期に修復されている。京都府の指定有形文化財。茶祖珠光をはじめ柴屋軒宗長、金春禅竹等の文化人がこの庵を訪ねて当時の文化サロン的役割を担った。見えないが、庵の周囲にある室町時代の禅院枯山水庭園の虎丘庭園は国の名勝ので作者は珠光と伝えられている。<br /><br />東庭は多くの庭石と刈り込みをふんだんに使い、十六羅漢の遊行する様を表わしている。羅漢とはお釈迦様の弟子のことで、お釈迦様からこの世の中の命あるすべてのものを救うように告げられた16人の羅漢が遊んでいる様子。<br /><br />北庭は石塔や石灯籠、手水鉢などを配し、蓬莱山の滝から水が流れ落ち海へ流れる様を水を使わずに石組みで表現した禅院枯山水の蓬莱庭園。東北隅に約2mの巨石を配し、いわゆる観音石として用いている。その昔、正面には木津川を上下する白帆を眺めることが出来また晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと云われる。この日は曇ってたので、景色イマイチだったが、何十年前だろう、結婚前に両親達と初めてここに来た時には素晴らしい借景に感激したのを覚えている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5855467931189849&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />本堂に向かうが、続く

京都 京田辺 一休寺庫裏・方丈(Ikkyuji Temple Kitchen & Living, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/11/25 - 2020/11/25

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月25日(水)11時半過ぎ、一休寺の本堂に向かう参道の途中にある中門を潜る。正面の石段を下った先が庫裏(台所)。その前に植えられているのは樹齢約400年のしだれ松。その左側にあるこじんまりした建物は東司(とうす)。御手洗いのことで、昔の状態そのままに残っている御手洗いは大変珍しい。反対側、右手は方丈へ通じる玄関の唐門。

庫裏は1650年の方丈再建の時に改築されたもので、東司と唐門はその時に新築されたもので、いずれも国の重文。庫裏の中に入ると正面に囲炉裏。ひっそりとした庫裏の中は、黒々と拭きこまれ、夏でも涼しく感じる(下の写真1)。

庫裏に入って右手に進むと方丈に通じる。住職の接客や仏事に使う建物でいわゆる居間。前田利常により1650年に再建されたもので、国の重文。間口18.01m、奥行11.85mで、背面中央部に3.52m四方の張出部分がある。東西に3間、南北に2間の6部屋構成で、回廊と外縁が廻っており、中央部の奥が仏間。

酬恩庵と記された扁額が掲げてある方丈中央の内陣を昭堂と称し一休禅師の木像を安置してある(写真撮影禁止)。この木像は一休禅師が逝去する前の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。この像も国の重文。

手前の部屋にある輿は禅師が81才で大徳寺の住職になった際、ここから紫野まで乗って通ったというもの(下の写真2)。また、方丈の襖絵は全て江戸時代初期の画家狩野探幽斎守信の筆によるもの。探幽49歳の時のもので、中国の洞庭湖周辺の瀟湘(しょうしょう)八景や北宋時代の詩人の林和靖、六朝時代の詩人の陶淵明が描かれている。ただし今あるのは複製で本物は宝物殿にある(下の写真3)。

方丈を囲む庭園は、江戸初期の造庭で、文人の松花堂昭乗、詩仙堂を建てた石川丈山、淀藩家老で文人の佐川田喜六の合作と伝えられる。江戸時代初期の代表的な庭として国の名勝に指定されており、南庭、北庭、東庭はそれぞれがちがった風情をかもし出していて、組み合わせの妙を感じさせる。

南庭は宗純王廟と虎丘庵を背景として、これらの建物の北部斜面を利用して皐月の刈込があり、左手に山茶花、右手に蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められておりさっぱりとした中に落ち着いた雅味をあたえている。白砂がきれいで見てて飽きないお庭。

庭の向かい右手奥に見える檜皮葺きの屋根が虎丘庵。虎丘の名は南宋の禅僧虎丘紹隆に由来している。1467年、応仁の乱の戦禍が波及してきたため禅師が74歳の時に京都の東山から移築されたもので、江戸時代初期に修復されている。京都府の指定有形文化財。茶祖珠光をはじめ柴屋軒宗長、金春禅竹等の文化人がこの庵を訪ねて当時の文化サロン的役割を担った。見えないが、庵の周囲にある室町時代の禅院枯山水庭園の虎丘庭園は国の名勝ので作者は珠光と伝えられている。

東庭は多くの庭石と刈り込みをふんだんに使い、十六羅漢の遊行する様を表わしている。羅漢とはお釈迦様の弟子のことで、お釈迦様からこの世の中の命あるすべてのものを救うように告げられた16人の羅漢が遊んでいる様子。

北庭は石塔や石灯籠、手水鉢などを配し、蓬莱山の滝から水が流れ落ち海へ流れる様を水を使わずに石組みで表現した禅院枯山水の蓬莱庭園。東北隅に約2mの巨石を配し、いわゆる観音石として用いている。その昔、正面には木津川を上下する白帆を眺めることが出来また晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと云われる。この日は曇ってたので、景色イマイチだったが、何十年前だろう、結婚前に両親達と初めてここに来た時には素晴らしい借景に感激したのを覚えている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5855467931189849&type=1&l=223fe1adec


本堂に向かうが、続く

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  • 写真1 庫裏の囲炉裏

    写真1 庫裏の囲炉裏

  • 写真2 一休禅師御使用の輿

    写真2 一休禅師御使用の輿

  • 写真3 狩野探幽の襖絵

    写真3 狩野探幽の襖絵

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