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2020年11月25日(水)、16年振りに一休寺へ。この週、天気がイマイチの日が続いており、紅葉は快晴の時が一番きれいなので、晴れる日を待っていたのだが、終わってしまう時期になって来たので、曇り空の中出掛けた。<br /><br />一休寺は京田辺市の北部、市の中心部になる田辺地区と月読神社などがある大住地区の間の薪(たきぎ)地区にある。今も残る平安末期の石清水文書に「宮寺領 山城国…薪庄」とあり、この地は石清水八幡宮に燃料を供進する薪御園で、神楽の篝火(かがりび)として使用する薪を奉納する役目を負っており、それが地名の由来とされている。<br /><br />当時隣の大住庄は奈良の興福寺領で、薪庄との耕作用水争いが絶えなかった。鎌倉中期の1279年に朝廷はこの両荘を幕府直轄とするが、後に薪庄は石清水八幡宮に還付された。<br /><br />JR片町線(学研都市線)京田辺駅から300mほど西を南北に走る京都府道22号八幡木津線を北に向けて進み、天井川の天津神川を潜った先の信号機のある三差路から西に延びる道は一休とんちロードと名付けられている。府道から山手幹線を横切って一休寺までの約600mの間を指し、途中の15ヶ所の電柱に1993年に一休禅師生誕600年を記念して製作された一休かるたを使った22種類の案内板が取り付けられている。2018年に設置されたようなので、前に来た時はなかったんだ。見た覚えないし。<br /><br />かるたは有名な「屏風の虎退治」などのとんち話や一休さんにまつわる言い伝えなどを、和やかな絵と共に紹介している。府道から一休寺の方面へ、一休さんが誕生したときから、晩年を薪で過ごされる様子の順にかるたが並んでいる。1枚目は「い」で「一休さん 一と休みせず 米寿まで」(下の写真1)、最後は「ん」で「んがない 世を渡り行く 風狂子」(下の写真2)。詳細は下記の京田辺市観光協会のサイトを参照のこと。<br />https://kankou-kyotanabe.jp/modelcourse/ikyuu_tonchi_road/<br /><br />一休とんちロードが始まる交差点の少し南、道路の西側に自然石の大きな石碑が建つ。明治から大正に掛けて、甘南備山保存などに尽力をした薪の名士で区長だった村田藤兵衛の顕彰碑。<br /><br />明治に入り薪庄の西にある甘南備(かんなび)山は生活の糧となる燃料や用材の供給源として伐採が進み、山肌が露出し、水は枯れ、洪水が起きていた。1920年(大正9年)に乱伐を防ぐための制度を設けたのが薪区長だった村田藤兵衛。甘南備山を区内19班に分割し、林木の育成や区民の採取権の確保を図った。<br /><br />この碑は1925年に地元の皆さんがその功績を称えて建立したもの。表は篆書体、裏側の説明は旧字体で私には読めない文字ばかり。また、側面には黄檗山大本山万福寺の管長を勤めた甘南備寺大雄和尚の漢詩が刻まれている(下の写真3)。<br /><br />府道から一休とんちロードに左折するとすぐ先の北側に厳島社。明治時代の記録には厳嶋社と記されていたそうだ。由緒はまったく不明。石清水八幡宮の三女(さんみょう)神社と同じく、天照大神(あまてらす)と建速須佐之男命(すさのお)のうけい(占い)から生まれた3柱の女神、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)と多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神が祭神。玄界灘の沖津島・大島および玄海町に分かれて祀られる宗像大社の祭神で、航行安全・豊漁などを司る海の神。<br /><br />社殿には弁財天と宇賀神像が安置されており、弁財天の背面には元禄16年(1703年)片山村の片山源五郎尉の作である事が記されている。宇賀神像は弘法大師作と伝えられ、酬恩庵一休寺25世住職宗淵が寄付したもの。<br /><br />さらにその東、薪公民館の片隅に薪小学校跡の碑が建つ。ここには1879年(明治12年)に<br />小学校が創設された。薪小学校跡とあるが、実際には清規校だった。7年後の1886年に田辺小学校に合併統合された。現在の薪小学校とは別物。<br /><br />とんちロードの最後は一休寺の総門前になるが、総門の反対側、北に分かれる三差路の東角に薪能金春芝跡の碑が建つ。室町時代、応仁の乱の頃、この辺りには芝生が広がっており、そこで金春(こんぱく)禅竹が一休禅師のために猿楽の能を演じたと伝えられる。<br /><br />なお、薪能は主として夏場の夜間に、能楽堂もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲に篝火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽のことで、地名の薪とは直接の関係はない。<br /><br />金春禅竹は室町時代の猿楽師・能作者で、能楽の金春流、中興の祖。あの有名な観阿弥・世阿弥親子の世阿弥の方の娘婿となり、世阿弥の能を発展させた。晩年の一休禅師が酬恩庵に居を移した後、禅竹も近くの多福庵に移り、二人の間に交流があったとされる。多福庵がどこにあったかは不明。一休禅師も禅竹の影響で能に関心を示し、世阿弥作とされる謡曲の「山姥」や観阿弥作とも云われる「江口」は一休禅師の作と云う説もある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5819631268106849&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />この日のメインの一休寺へ続く

京都 京田辺 一休とんちロード(Ikkyu Tonchi(Wit) Road, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/11/25 - 2020/11/25

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旅行記グループ 一休寺

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月25日(水)、16年振りに一休寺へ。この週、天気がイマイチの日が続いており、紅葉は快晴の時が一番きれいなので、晴れる日を待っていたのだが、終わってしまう時期になって来たので、曇り空の中出掛けた。

一休寺は京田辺市の北部、市の中心部になる田辺地区と月読神社などがある大住地区の間の薪(たきぎ)地区にある。今も残る平安末期の石清水文書に「宮寺領 山城国…薪庄」とあり、この地は石清水八幡宮に燃料を供進する薪御園で、神楽の篝火(かがりび)として使用する薪を奉納する役目を負っており、それが地名の由来とされている。

当時隣の大住庄は奈良の興福寺領で、薪庄との耕作用水争いが絶えなかった。鎌倉中期の1279年に朝廷はこの両荘を幕府直轄とするが、後に薪庄は石清水八幡宮に還付された。

JR片町線(学研都市線)京田辺駅から300mほど西を南北に走る京都府道22号八幡木津線を北に向けて進み、天井川の天津神川を潜った先の信号機のある三差路から西に延びる道は一休とんちロードと名付けられている。府道から山手幹線を横切って一休寺までの約600mの間を指し、途中の15ヶ所の電柱に1993年に一休禅師生誕600年を記念して製作された一休かるたを使った22種類の案内板が取り付けられている。2018年に設置されたようなので、前に来た時はなかったんだ。見た覚えないし。

かるたは有名な「屏風の虎退治」などのとんち話や一休さんにまつわる言い伝えなどを、和やかな絵と共に紹介している。府道から一休寺の方面へ、一休さんが誕生したときから、晩年を薪で過ごされる様子の順にかるたが並んでいる。1枚目は「い」で「一休さん 一と休みせず 米寿まで」(下の写真1)、最後は「ん」で「んがない 世を渡り行く 風狂子」(下の写真2)。詳細は下記の京田辺市観光協会のサイトを参照のこと。
https://kankou-kyotanabe.jp/modelcourse/ikyuu_tonchi_road/

一休とんちロードが始まる交差点の少し南、道路の西側に自然石の大きな石碑が建つ。明治から大正に掛けて、甘南備山保存などに尽力をした薪の名士で区長だった村田藤兵衛の顕彰碑。

明治に入り薪庄の西にある甘南備(かんなび)山は生活の糧となる燃料や用材の供給源として伐採が進み、山肌が露出し、水は枯れ、洪水が起きていた。1920年(大正9年)に乱伐を防ぐための制度を設けたのが薪区長だった村田藤兵衛。甘南備山を区内19班に分割し、林木の育成や区民の採取権の確保を図った。

この碑は1925年に地元の皆さんがその功績を称えて建立したもの。表は篆書体、裏側の説明は旧字体で私には読めない文字ばかり。また、側面には黄檗山大本山万福寺の管長を勤めた甘南備寺大雄和尚の漢詩が刻まれている(下の写真3)。

府道から一休とんちロードに左折するとすぐ先の北側に厳島社。明治時代の記録には厳嶋社と記されていたそうだ。由緒はまったく不明。石清水八幡宮の三女(さんみょう)神社と同じく、天照大神(あまてらす)と建速須佐之男命(すさのお)のうけい(占い)から生まれた3柱の女神、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)と多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神が祭神。玄界灘の沖津島・大島および玄海町に分かれて祀られる宗像大社の祭神で、航行安全・豊漁などを司る海の神。

社殿には弁財天と宇賀神像が安置されており、弁財天の背面には元禄16年(1703年)片山村の片山源五郎尉の作である事が記されている。宇賀神像は弘法大師作と伝えられ、酬恩庵一休寺25世住職宗淵が寄付したもの。

さらにその東、薪公民館の片隅に薪小学校跡の碑が建つ。ここには1879年(明治12年)に
小学校が創設された。薪小学校跡とあるが、実際には清規校だった。7年後の1886年に田辺小学校に合併統合された。現在の薪小学校とは別物。

とんちロードの最後は一休寺の総門前になるが、総門の反対側、北に分かれる三差路の東角に薪能金春芝跡の碑が建つ。室町時代、応仁の乱の頃、この辺りには芝生が広がっており、そこで金春(こんぱく)禅竹が一休禅師のために猿楽の能を演じたと伝えられる。

なお、薪能は主として夏場の夜間に、能楽堂もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲に篝火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽のことで、地名の薪とは直接の関係はない。

金春禅竹は室町時代の猿楽師・能作者で、能楽の金春流、中興の祖。あの有名な観阿弥・世阿弥親子の世阿弥の方の娘婿となり、世阿弥の能を発展させた。晩年の一休禅師が酬恩庵に居を移した後、禅竹も近くの多福庵に移り、二人の間に交流があったとされる。多福庵がどこにあったかは不明。一休禅師も禅竹の影響で能に関心を示し、世阿弥作とされる謡曲の「山姥」や観阿弥作とも云われる「江口」は一休禅師の作と云う説もある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5819631268106849&type=1&l=223fe1adec


この日のメインの一休寺へ続く

  • 写真1 一休かるた「い」

    写真1 一休かるた「い」

  • 写真2 一休かるた「ん」

    写真2 一休かるた「ん」

  • 写真3 甘南備寺大雄和尚の漢詩

    写真3 甘南備寺大雄和尚の漢詩

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