京田辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2020年11月25日(水)11時半前、一休寺に到着。正式には酬恩庵(しゅうおんあん)と云う臨済宗大徳寺派の寺院。山号は霊瑞山で、ご本尊は釈迦如来。一休禅師が再興され、この寺で晩年を過ごされたことから通称一休寺と呼ばれる。<br /><br />元々この地には、鎌倉末期の正応年間(1288-93年)に臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場として妙勝寺が建てられたのだが、1331年に発生し鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱の兵火によって焼失し、荒廃した。<br /><br />室町時代の半ばの康正2年(1456年)になって、一休禅師がここに草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。禅師はここで後半の生涯を送り、80歳で京都紫野の大徳寺住職となった時もこの寺から通われた。遠~。その後、禅師は1481年に87歳で亡くなるまでここで過ごされ、遺骨は当所に葬られた。<br /><br />一休禅師(宗純)は1394年生まれ、室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧で、あの「一休さん」のモデル。北朝最後の天皇で、南北朝合一で第100代となった後小松天皇の落胤と伝えられる。幼名は千菊丸。6歳で京都の安国寺に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れていた。<br /><br />17歳で戒名を宗純と改める。22歳の時に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)より一休の道号を授かる。27歳で悟りを開くが、その後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送る。その生涯に様々な説話を残した事から江戸時代に説話、一休咄が作られ、頓知で有名となる。昭和の終り頃まで、絵本の童話の題材、紙芝居の題材として良く用いられた。特に、屏風の虎退治などの話は有名。<br /><br />一休咄は作者不詳で、世に出たのは一休の遷化から200年余り後の江戸時代前期。実在の一休が周建を名乗っていた幼少時代に時代が設定されている。民衆の願いを歴史上の人物に仮託した読み物で、一休の事績の他に、一休になぞらえた民間説話や登場人物を他の高僧から一休に置き換えた伝説が数多く挿入されており、史実からは遠い。<br /><br />実際の一休さんはかなりのかぶき者で、当時の僧には多かった男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいたそうだ。また、死因はマラリアだそうで、臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。あの可愛い一休さんなんですが・・・<br /><br />そんな一休さんの逸話①:墓前でお経を読んでくれと頼まれ、でっかい屁を1発こいて「これでヨシ」と。お経は死人に聞かせるものでなく、生きている人が聞くものと。<br /><br />逸話②:親友である本願寺第8世・蓮如の留守の部屋に上がり込み、阿弥陀如来像を枕に昼寝を。帰宅した蓮如は怒るどころか「俺の商売道具に何をする」と云い、二人で笑い合ったそうだ。<br /><br />逸話③:浄土真宗では、阿弥陀如来により無条件で救われるのに、禅宗の祖・達磨大師が9年間、手足が腐るまで座禅をしたのは無意味なことだと云ったそうで、晩年は浄土真宗に改宗した。<br /><br />逸話④:亡くなる直前に弟子達に「この先、どうしても困った時に開けるよう」にと1通の手紙。禅師の没後、お寺に大問題が起こった時に開封したら、「大丈夫、心配するな、何とかなる」とだけ・・・弟子達は笑うしかなかったそうだが、実際何とかなったそうだ。<br /><br />可愛い一休さんどころか人間味溢れる怪僧だったんだね~<br /><br />さて、酬恩庵はその後、1614年の大坂冬の陣の際には、前田利家の跡を継いだ前田利常が休息し、さらにその後の1650年に前田利常が伽藍を再興、江戸幕府から朱印状が与えられた。<br /><br /><br />境内に入るが、続く

京都 京田辺 一休寺概要(Ikkyuji Temple. Kyotanabe, Kyoto, JP)

4いいね!

2020/11/25 - 2020/11/25

185位(同エリア241件中)

旅行記グループ 一休寺

0

0

ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月25日(水)11時半前、一休寺に到着。正式には酬恩庵(しゅうおんあん)と云う臨済宗大徳寺派の寺院。山号は霊瑞山で、ご本尊は釈迦如来。一休禅師が再興され、この寺で晩年を過ごされたことから通称一休寺と呼ばれる。

元々この地には、鎌倉末期の正応年間(1288-93年)に臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場として妙勝寺が建てられたのだが、1331年に発生し鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱の兵火によって焼失し、荒廃した。

室町時代の半ばの康正2年(1456年)になって、一休禅師がここに草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。禅師はここで後半の生涯を送り、80歳で京都紫野の大徳寺住職となった時もこの寺から通われた。遠~。その後、禅師は1481年に87歳で亡くなるまでここで過ごされ、遺骨は当所に葬られた。

一休禅師(宗純)は1394年生まれ、室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧で、あの「一休さん」のモデル。北朝最後の天皇で、南北朝合一で第100代となった後小松天皇の落胤と伝えられる。幼名は千菊丸。6歳で京都の安国寺に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れていた。

17歳で戒名を宗純と改める。22歳の時に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)より一休の道号を授かる。27歳で悟りを開くが、その後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送る。その生涯に様々な説話を残した事から江戸時代に説話、一休咄が作られ、頓知で有名となる。昭和の終り頃まで、絵本の童話の題材、紙芝居の題材として良く用いられた。特に、屏風の虎退治などの話は有名。

一休咄は作者不詳で、世に出たのは一休の遷化から200年余り後の江戸時代前期。実在の一休が周建を名乗っていた幼少時代に時代が設定されている。民衆の願いを歴史上の人物に仮託した読み物で、一休の事績の他に、一休になぞらえた民間説話や登場人物を他の高僧から一休に置き換えた伝説が数多く挿入されており、史実からは遠い。

実際の一休さんはかなりのかぶき者で、当時の僧には多かった男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいたそうだ。また、死因はマラリアだそうで、臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。あの可愛い一休さんなんですが・・・

そんな一休さんの逸話①:墓前でお経を読んでくれと頼まれ、でっかい屁を1発こいて「これでヨシ」と。お経は死人に聞かせるものでなく、生きている人が聞くものと。

逸話②:親友である本願寺第8世・蓮如の留守の部屋に上がり込み、阿弥陀如来像を枕に昼寝を。帰宅した蓮如は怒るどころか「俺の商売道具に何をする」と云い、二人で笑い合ったそうだ。

逸話③:浄土真宗では、阿弥陀如来により無条件で救われるのに、禅宗の祖・達磨大師が9年間、手足が腐るまで座禅をしたのは無意味なことだと云ったそうで、晩年は浄土真宗に改宗した。

逸話④:亡くなる直前に弟子達に「この先、どうしても困った時に開けるよう」にと1通の手紙。禅師の没後、お寺に大問題が起こった時に開封したら、「大丈夫、心配するな、何とかなる」とだけ・・・弟子達は笑うしかなかったそうだが、実際何とかなったそうだ。

可愛い一休さんどころか人間味溢れる怪僧だったんだね~

さて、酬恩庵はその後、1614年の大坂冬の陣の際には、前田利家の跡を継いだ前田利常が休息し、さらにその後の1650年に前田利常が伽藍を再興、江戸幕府から朱印状が与えられた。


境内に入るが、続く

PR

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP