2020/12/16 - 2020/12/16
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しにあの旅人さん
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旅をしていて、予想していなかった美しい神社に巡り会うことがあります。「よかった!」と思う瞬間です。
2020年11月に六国史の旅をしていて、宇陀山中で2社続いて出会いました。大和国寺社参りを書き起こしたのは、これを書くためでした。
引用した参考書は、「諸国寺社参り 大和国1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
阿紀神社。
奈良県宇陀市大字宇陀追間252
★日本書紀天武元年6月24日続き、
「その日に菟田の安騎(奈良県宇陀町)に着いた。大伴連馬来田(おおともの・むらじ・まぐた)・黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)は吉野宮から追ってかけつけた。このとき屯田司(みたの・つかさ)の舎人土師連馬手(はじの・むらじ・うまて)は天皇の従者の人々の食事をたてまつった」☆
壬申の乱勃発のきっかけとなった天武天皇の吉野脱出。一行は当初38人くらい。ここで3人が合流して、昼食をとりました。
「菟田の安騎」とは、現在の阿紀神社近くといわれております。宇陀の山中の静かな神社です by しにあの旅人さん阿紀神社 寺・神社・教会
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車載のナビは初めからお手上げ、「阿紀神社なんて知らないよ」
「あてにしてないよ」ということで、グーグルさんでやってきましたが、この方もいいかげん。
結局かぎろいの丘の麓の駐車場に車をとめ、地図を頼りに歩きました。
以下、By妻がお伝えします。 -
駐車場から歩き始めます。日本のどこにでもある裏山という感じの小高い雑木の中の小道は、凸凹上ったり下りたりしております。
斎王の化粧壺への道と似ているようで、なんとなーく、期待できない気がしています。
里山の中の小道。田舎の道です。平凡な道です。平凡な道の先には平凡な終点が待っているのが、いつものことです。思っていたというか、感じておりました。
と、突然目の前が、ぱーっと開いて明るくなりました。
えっ? -
道をゆるく下った先に阿紀神社の境内が広がっております。
-
こんな山の中に?などと大変失礼な言葉が、頭をかすめます。
それくらい立派な鳥居が堂々と立っていて、その前を、小さな清らかな小川がさざ波をたてています。 -
昔話で、深い山に分け入っていくと、突然目前に、立派な御殿があったというのがありますが、全く、その昔話そのままです。
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私たちは、昔話の主人公とは違って、飢えてもいなかったし渇いてもいなかったので、狂喜乱舞して走り下るということはなく、単に、おお!とかいうだけで、ゆっくり歩いて下ったのですが、今になって考えれば、何とつまらない人間だろうと思います。
あそこはやはり、喜んで、こけつまろびつして下るべきところでした。
なぜなら、その曲がり角は、別天地への入口だったのですから。
右端は能舞台。ここは17世紀初め織田藩領で、そのときに作られたそうです。 -
まったく無人でした、
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ちりひとつなし。
拝殿と本殿です。 -
本殿。伊勢神宮と同じ造りです。
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ここが手水舎です。これこそが本来の姿なのでしょう。
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こんなに美しい神社はありません。
うそでしょう?なんて言っちゃう浅薄さ。我ながらおろか。感動しているのに、まだ半信半疑。
小川は、きっとゴミがひっかかってるのよねー。
ひっかかってません。
石にべとべとがついてるのよね-。
ついていません。洗ったようにきれいです。
ゴミ一つなく、浅い流れが澄み切って、川底の石まで見せてさらさら流れております。
今は人の気配さえないのに、川端に、手ふきが真っ白に洗われて、かかっております。
何人もの人に使われた汚れたものでは、もちろんなく、雨風にさらされたやつれたものでもありません。
さらに、宣伝入りの、適当に持ってきました感ありありのものでもありません。
毎日、朝晩、心を砕いて掛けて下さっているのがわかる手ふきです。
もう、完璧!パーフェクト!
茫然自失の美しさでした。
映画のなかに紛れ込んだようでした。 -
大来皇女は泊瀬斎宮で潔斎をしたことになっています。
その禊ぎの場は、おそらくこのような小川だったことでしょう。 -
鳥居をくぐったそばに、背の高い木がありますが、すっかり葉を落とした細い枝に、丸い実が、いくつもいくつもついている様子は、まるで小正月の繭玉のようです。繭玉は、色とりどりですが、この木の実はクリーム色一色です。
こんな木見たこともない。
ますます俗世とは思えない。
あたりには、爽やかな香りが、ときおりふっと通ります。
後で調べれば、この木は、花梨だそうです。
木瓜の花とは親戚になる木らしく、春には木瓜のような可愛い花が咲き、この黄色の実は、咳止めになるそうですよ。
なにより、このかおり。
ある香りの専門家は、この実を枕元に置いて眠るとか。
そういう木が、神社の入口に植えてあります。
お名前も存じ上げませんが、どのような方が、管理されているのでしょうか。大変な美意識の持ち主です。 -
お参りして、帰り道、木下を通ると、うす黄色の実がころころおちています。拾ってみると、なかには両手で包み込む大きいものもありました。小さめのを二つもらってきました。
今が季節なのでしょう。道にはいくつも無造作に転がっていました。車の中が思いがけないさわやかな甘い香りに満ちました。
わが庭に植えたいのですが、実がなるまで7~8年かかるということで、「間に合わない」と主人に却下されちゃいました。でも植えてみようかしら、次の人達にはまにあうでしょう。
以上、By妻 -
神楽岡神社に歩いて向かいます。13分となっていますが、そんなものです。
途中かぎろいの丘に寄りました。 -
柿本人麻呂の歌で余りにも有名な、万葉の聖地です。
-
丘の周囲の木立がなければ、宇陀の山々が見渡せるでしょう。山の端から登ってくる旭も、山の向こうへ沈んでいく月もみえるはず。
-
「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ」(1-46)
「東方の野の果てに燭光がさしそめる。ふりかえると西の空に低く下弦の月が見える」(万葉集中西)
この歌は持統6年(692年)に詠まれた歌。天武一行が安騎を通過したのは672年ですからその20年前です。古くから朝廷の狩り場として使われていたようで、もしかするとドンピシャで、昼飯を食べたというのはここかもしれません。
駐車場からここへ上がって来るのがしんどかった。土師連馬手は40人分の昼飯をどうやって運びあげたのか、いらぬお節介です。
柿本人麻呂がこの歌を詠んだのは、軽皇子の薬狩りの時です。軽皇子当時9才。宇陀での薬狩りの記録はその前にもあります。記録に残る最初の薬猟は、
★推古19年(611年)夏5月5日、
大和の菟田野に薬猟(くすりがり、鹿の若角をとり薬用にする-現代語訳注)をした。夜明け前に藤原の池のほとりに集合し、曙に出発した。★
藤原の池が不明ですが、推古天皇の小墾田宮の近くでしょう。猟場が菟田のどこか書いてありません。かぎろいの丘と同じ場所である可能性は充分あります。
小墾田宮は現在の雷の丘近くですから、かぎろいの丘まで、現代の県道166号で14.5kmです。
★続き、
粟田細目臣(あわたの・ほそめの・おみ)を前の部領(ことり、指揮者)、額田部比羅夫連(ぬかたべの・ひらふの・むらじ)を後の部領とした。★
すごい、前衛、後衛部隊を編成している。朝廷の総力をあげた一大イベントという感じです。これだけの動員をかけているので、間違いなく、推古天皇自身が行幸している。
推古元年(593年)、推古天皇即位の時、珍しく国史たる日本書紀が天皇の容貌に言及しております。「(額田部皇女、推古天皇のこと)は容姿端正で立居ふるまいにもあやまちがなかった」
このとき女帝39才。
書紀原文は「姿色端麗、進止軌制」だって。「みかおきらきらしく、ふるまいおさおさし」と読むそうです。容姿端麗ならそのまま現代語だ。
その19年後、58才の推古天皇は、まだまだ美しかったでしょうね。高島礼子56才、沢口靖子55才、みたいな感じか。
★続き、
この日諸臣の服の色はみな冠位の色と同じにした。冠にはそれぞれ飾りをつけた。大徳・小徳はいずれも金を使い、大仁・小仁は豹の尾を用いた。大礼より下は鳥の尾を用いた。★
推古11年12月5日制定の、大徳・小徳など、冠位十二階のことです。この制度を作った厩戸皇子(聖徳太子)も同行して、満足しながら華麗な隊列の中心にいたはずです。
蘇我馬子も、不愉快そうな顔で、一緒でしょうね。
ちなみに厩戸皇子37才、馬子60才でした。
入鹿はこの年生まれ(月日不明)ですから、まだ生まれていないか赤ん坊で、参加していません。
山背大兄王皇子は生年不明ですが、子供ながら同行していたかもしれません。軽皇子だって、9才でした。
軽皇子の薬狩りより、私としてはこっちのほうが興味津々。
611年から692年まで、81年間の歴史のロマンいっぱいでした。 -
薬狩りというのは、大変なイベントだったらしいですね。
みんなでピクニック、バーベキュー、キャンプするのだから、楽しかったでしょう。それにプラスパレードの華々しさも加わって、若者たちにとっては、自尊心もくすぐられる檜舞台だったことでしょう。
天皇陛下のご成婚パレードに、屋台の食べ放題、そしてキャンプですよ。
これは、興奮しますよ。
この日のために、女性たちは衣装を新調しただろうし、男性たちだって、勇壮さを競って、きらびやかな武具をまとったのではないでしょうか。
山鳥の羽根を貼り付けた兜を、近つ飛鳥博物館で見ましたが、それはそれは精緻な細工の美麗なものでした。各々贅を凝らして、この日を迎えたのではないでしょうか。
初めは、鹿狩りとか、兎や狐狩りでしょう。
野原を縦横無尽に走り回る、若きますらおの奮闘を、老いも若きも男も女も手に汗して観戦し、身につけた武具で、あの兜は誰々、あれはだれだれと応援し、歓声を上げたのではないでしょうか。
そして、その興奮のさめやらぬままのBBQ、野外宴会ですからね。
BBQには、今でもビールがつきもの。あの頃だって、博物館によると、すでに清酒があったらしいから、酒盛りもあったでしょうね。
お酒を飲まなかったとしても、いつもと違う雰囲気に、アドレナリンは、ドバッ!でしょうから、もう、みんな、大人も子供も、酔っ払って、何言ったって、許されるって雰囲気。なんだってやっちゃうぞって感じ。
ついつい、昔の恋を歌にして、
茜さす 紫野ゆき 標野ゆき、、、
なんて言っちゃう人がでてきたりします。
聴いてる人々は、あらあら。いいのかしら?ほっほっほ。
と大盛り上がり。
そして夜が更けて、キャンプファイヤーの火も小さくなって。ロマンティックです。
飲んで騒ぐ声も遠くに小さく聞こえます。語って、歌って、いつのまにかうとうとして。
急に冷え込んで来て、夜明けが近いことがわかります。
夜明け前の清澄な空気に、昨夜の興奮のなごりと、祭りの後のむなしさとが混ざった心地で日の出に顔を向けると、かぎろひが、立っていたのです。
なんてね。
かぎろひの丘は、キャンプにもBBQにもぴったりの地形でした。
あの丘に寝っ転がって,星を見ながら眠るってのは、最高でしょう。
By妻 -
神楽岡神社は階段を上った丘の中腹にあります。
奈良県宇陀市大宇陀上新1093 -
もう少し。
-
鳥居をくぐると境内です。それほど広くありません。
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前殿をくぐり、
-
拝殿です。
-
本殿は拝見することができませんでした。
ご祭神は天照大神。
創建年代は不明です。 -
★書紀天武元年(672年)6月24日続き、
「甘羅村(かんらのむら、宇陀町神楽岡か)を過ぎると、猟師二十人余りを見いだした。大伴朴本連大国(おおともの・えのもとの・むらじ・おおくに)は猟師の首領であったので、ことごく召して一行の仲間に入れた。また美濃国の王(豪族)を召された。するとやってきてお供に加わった」☆
天武一行の吉野脱出ルート上にあります。
甘羅村は現神楽岡神社とされているそうですが、「かんら→かぐら」と音が似ているというのが理由で、比定地とするにはかなり根拠薄弱。 -
いつもどおり、私達以外参拝客はおりません。
とても静かなたたずまいと、見わたす宇陀の山並みが印象的でした。私達だけのありがたい神社でした。 -
人っこひとりいない大宇陀の古い町並みを見て、かぎろいの丘の駐車場に戻りました。
本当にいいところでした。だーれもいませんでした。また行きたいです。
チャリン、後ろむいてコインを投げました。トレビの泉のまね。
By妻
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旅行記グループ
諸国寺社参り 大和国編
この旅行記へのコメント (4)
-
- kummingさん 2021/05/21 17:22:08
- 間に合います♪
- しにあさん、by妻さん、こんにちは♪
「日本の神々は自ら私たちに語りかけることはされません。ただそこに鎮まっていらっしゃるだけです。『なにごとのおはしますか知らねどもかたじけなさに涙こぼるる』西行のこの歌が、私たちが神社をお参りする理由の全てです。なにかある尊いものとの出会いを求めて、神社を訪れます。」
宇陀、初めて耳にする地名(ーー;)
平凡な道の先には平凡な終点、との予想を裏切る、突然目の前に広がった「こけつまろびつして下りるべき別天地」とは、↑そのような心持ちで神社を訪れていらっしゃるお二人だからこその、感慨深い思いでしょうね。
信仰心、ということが、どうしても分からなくて、学生の頃からネックになっていると思います。それで、どうしても、知識偏重なアプローチをしてしまって、今に至る(笑)進歩していない(ーー;)無心に祈る、信じる、ゆだねる?
阿紀神社の手水舎が本来のあるべき姿なのかもしれませんね、小川のせせらぎが今にも聴こえてきそうです♪ 繭玉のようなクリーム色の木の実、ですが、7~8年かかるから間に合わない、って???いやいや、絶対間に合います!by妻さんは、by夫に内緒で木の実を持ち帰り、きっと種を植えられたにちがいない^o^ 次の人任せにしないで、ご自身お庭でご確認下さいませ~
そして、ここか、かぎろいの丘あたりで、吉野脱出一行が昼食をとった。万葉集、とか、柿本人麻呂、につきましては全くの門外漢ですので、コメント控えさせてm(_ _)m
「ひんがしの~」はきいたことある、レベル…。
薬猟、薬狩り、初耳でございますm(._.)mまあ何やら楽しげな、当代セレブの屋外大イベント♪ 豪華メンバー揃い踏み^ ^
『あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる』
額田王と大海人皇子のやりとりで有名な歌ですね。2人は結婚していたけど、今は額田王は天智天皇の恋人で、昔の関係を公の場で歌にした、みたいな?たぶんこれももはや文春ネタにもならない公然の秘密で、歌人として場を盛り上げる余興、当意即妙を競って“粋”をきどった、って話ですか?
これ以上引っ張ると、ボロが出そう(←もう出てる!)なので、この辺で。
それにしても、万葉の世界とか詳しい方々がいらっしゃるはずなのに、なんで私みたいなド シロウト がカキコするかな~!?
611年~692年、81年間の歴史ロマン、期待しちゃおう♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/22 05:51:01
- Re: 間に合います♪
- おはようございます。
古いブログを引用していただいて、ありがとうございます。
初心に返って、これからも神社参りを続けます。
ヨーロッパの神様はおっかないですからね、ああせい、こうせい、ちょっと間違えると「地獄だー!」でしょ。石造りのカテドラルは威圧的ですが、日本の木の神社は優しい。地獄だの天国だの言わないし。
私たちは、ブログのシナリオを考えて、邪心を持って神社に行くのですが、行くとそのシナリオが変わってしまいます。この阿紀神社なんて、消しゴムでゴシゴシと言う感じで、その場でやり直し。そんなのばかりです。
結果的に、無心と言うことになります。結局、相手が素晴らしすぎるということのようです。
By妻はカリンを持って返ってきました。どこ行ったかな。その辺に転がっていたのですが。あ、内緒で植えちゃったかもしれない。
宇陀とか吉野、すごい山の中。でも低くてなだらか。日本人って、昔からああいう低い山が好きなんだなあ、とつくづく思います。
狩りだって、大変だったはず。森は雑草の下草がはびこって、馬で突っ込んだら絶対転ぶ。ヨーロッパの森って、下草が少ないでしょう。馬が入れます。
僻地房総でも25日からワクチン接種の予約が始まります。どこでも最初は混雑しているみたいです。朝8時半、私はネット、By妻は電話で、レース開始、なんか、不謹慎にも、楽しみ。
-
- 前日光さん 2021/05/20 23:57:24
- かぎろひの丘
- こんばんは、しにあさん&by妻さん。
何度も標識だけ見て通過していた宇陀方面。
ここも長年の憧れの地です。
万葉集をひもといて、人麻呂に惹かれない者はいないと思います。
ましてや人麻呂は、岩見国と深い繋がりがあります。
益田の人麻呂神社にも行きました。
周辺の人麻呂にまつわる場所にも行ってみました。
人麻呂は、あまりに大きくて近寄りがたい存在で。。。
しにあさん、旅行記を拝見していると、行きたいところばかり増えて本当に困ります。
今度は阿紀神社ですか、神楽岡神社も。
特に阿紀神社の手水舎、澄んだ川の流れを実際に感じてみたいです。
花梨の美しい実と、かぐわしい香りも嗅いでみたい。
山道をホトホトと歩いて行くと、豁然と広がる桃花源の村に出くわすような体験をしてみたいです。
そんな夢みたいな気分を味わえる場所が、現代に存在しているとは!
推古19年(611年)夏5月5日、菟田野の薬猟での、まだまだ美貌の衰えない推古天皇の姿を妄想してしまいます。
そういえば「推古天皇陵」は、たいへん清々しい見晴らしのきく場所にありました。
阿紀神社も神楽岡神社も、コロナ禍でなくても人は少ないと思われます。
今のパンデミック騒ぎが収まった後でも、このマイナーさは続きそうですね。
次回の奈良旅は、やはり宇陀を中心に巡ってみたいです。
私の好奇心を刺激する所ばかりのご紹介、恨めしく且つありがたいです<(_ _)>
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/21 08:05:08
- Re: かぎろひの丘
- おはようございます。
前日光さんは夜方のようですが、私は完全な朝方です。
コメントありがとうございます。
益田の人麻呂神社は、萩から出雲に向かう国道に、案内が出ていたのを覚えています。先の予定が詰まっていたのでパスしました。「また来ようね」とBy妻に言った覚えがあります。気休めでしたね~ 余裕のある日程にして、気がついたら行っておくようにしないと、こういうのはダメですね。「こんど」と「また」はない。
阿紀神社は、神社には失礼ですが、掘り出し物でした。車のナビが知らないと言い張るのですから、誰も行かないのでしょう。かぎろひの丘は万葉の聖地で有名なのに、5分も歩かないこの神社が無名なのは、驚きです。
手水舎は、本当に、昔はこういうところで禊をしたのでしょう。ただ私は岸辺にしゃがんで手を川につけたら、腰が痛いので落っこちる。昔は、川にはいちゃったのではないかと、By妻が言っています。斎王宮のイメージビデオで、斎王が白無垢で水に入っているシーンをみました。それって、キリスト教の洗礼と一緒ですね。
大宇陀の街道も、もっと歩いてみたかった。これも予定に追われた失敗です。
推古天皇陵は何回も近くを通りました。これはまだ行く機会はある、はず。
推古さんは、わざわざ書紀が書いているくらいなので、本当に美人だったのでしょう。聖徳太子の時代には、相当漢文教育が進んだはずで、当時の記録があったはず。乙巳の変の時に蝦夷が燃しちゃったことになっていますが、正式文書は別として、メモくらいなら、かなりが日本書紀の編纂時くらいまでは残っていたと思うのですがね。
どこかの旧家の蔵から、その写本が出てこないかな。
東日流外三郡誌の作者の気分、わからないでもない。
「宇陀」って、最初聞いた時は「日本語かよ」と思いました。何か、古代ぽいというか、そのもう一つ昔の名残のような響きに聞こえるのですが。
宇陀の旅行記、期待しています。
私は次の旅から飛鳥より北、つまり続日本紀ワールドに重心を移そうと思っています。
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旅行記グループ 諸国寺社参り 大和国編
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