八幡・城陽旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2020年11月19日(木)10時半過ぎ、山城大橋から走ってきた木津川サイクリングロードを離れて木津川堤防から八幡市内に降りて行く。この日のメインの目的地は男山の石清水八幡宮なのだが、その前に飛行神社と云う変わった名前の神社に拝観する。<br /><br />京阪電車の石清水八幡宮駅からだと、出口を出て左手、東に進みバス乗り場のロータリーを過ぎ、大谷川を渡り、府道22号八幡木津線の京阪の踏切の南約150m、徒歩4、5分ってとこにある。普通の住宅地の中なので見逃しやすい。<br /><br />創建は1915年(大正4年)と比較的新しい神社。日本で初めて飛行原理を研究した二宮忠八翁が、自宅内に造った。飛行機の神様の饒速日命と航空事故殉難者の御霊を祀り、航空業界の安全と発展を祈願している。<br /><br />二宮忠八は明治時代の航空機研究者。幕末の1866年に愛媛の八幡浜で生まれ、1887年(明治20年)に陸軍に入隊。入隊2年後、滑空しているカラスを見て、固定翼の着想を得、ゴム動力による模型飛行器(飛行器は彼の造語)を製作。1891年(明治24年)に日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。<br /><br />その2年後には有人飛行を前提にした玉虫型飛行器の翼幅2mの縮小模型を作成。ちなみに、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へこの玉虫型飛行器の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介した。<br /><br />話は戻り、模型の作成後に軍用としての有人玉虫型飛行器開発を設計書を添えて上申するが受け入れられず、自己資金での開発を行うために退役し、出身地に似た地名の京都の八幡に移り、製薬会社に就職し、資金を貯める。<br /><br />1906年(明治39年)に支社長に昇進し、資金の目途も立ち研究を再開、動力源のテストを行い、1908年にエンジン自作の構想を立てるが、そこで既に5年前の1903年末にライト兄弟が有人動力飛行に成功したことを知る。<br /><br />この遅れはライト兄弟の成功は秘密実験で行われたものだったことですぐにはアメリカでもニュースにならなかったことにから来てるのかもしれないが、1906年にはブラジル人のサントス・デュモン(Alberto Santos-Dumont)がフランスで固定翼動力機の公式飛行に成功しており、タイムラグが大き過ぎる。日本がいかに飛行機に興味がなかったかを示すものだな。<br /><br />世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしたと云う。以後、彼は飛行器の開発から離れて製薬の仕事に打ち込み、1909年(明治42年)には食塩製造業の会社を創業した。<br /><br />この20世紀初頭、飛行機技術は急速に発達。1914年7月に開戦した第一次世界大戦では、最初は偵察機としてのみ使用されたが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。それに伴って航空事故も多発するようになった。<br /><br />こうしたニュースを知った忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じてこの地に飛行神社を創建し、航空安全と航空事業の発展を祈願した。<br /><br />そして1919年(大正8年)、同じ愛媛県出身の白川義則陸軍中将(当時)が忠八の開発計画が却下されたことを知り、専門家に諮らせたところ技術的に正しい理論と判明、1922年(大正11年)に忠八は表彰される。さらに、1927年(昭和2年)には勲六等に叙せられた。1936年(昭和11年)に亡くなるが、翌年度からは国定教科書にも掲載された。いや、全然知らなかった。そんなすごい人がいたんだ。<br /><br />忠八の死後、神社は一時廃絶するも1955年に息子の顕次郎によって再興される。そして、1989年には忠八の飛行原理発見百周年を記念して境内の拡張、改装が行われた。現在も安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多い。<br /><br />正面から神社を見ると、古代ギリシャの神殿風の建物や金属製の鳥居が目を引くが、一番手前にガラスに覆われた建物に飾られてるものが気になる。なんとこれは航空自衛隊の主力戦闘機だったF-104J(栄光)戦闘機のエンジン。<br /><br />ロッキード社(Lockheed)が開発した超音速ジェット戦闘機で、日本では三菱重工業が1962年から178機をライセンス生産した。1986年に全機が退役。エンジンはGE社のライセンスを受けた石川島播磨重工業製。単発エンジンで故障も多く、1963年から1974年までに大事故を起こした機体は24機、うち墜落した機体は20機。慰霊されるに相応しいかな。<br /><br />その奥にある手水鉢には飛行機模様が彫られており可愛い。1989年の改装時に造られたもの。コロナ禍で水鉢には花が飾られている。<br /><br />航空機に使われることの多いジュラルミン製と間違えられることが多いが、実際にはステンレス製の、それでも変わった鳥居の奥の古代ギリシャの神殿風の建物は拝殿。その奥には流造の本殿がある。共に1989年の改装時に建て直されたもの。<br /><br />本殿の真ん中は主祭神の饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る。饒速日命は32柱の神様を従えて天磐船(あめのいわふね=飛行機と解釈される)に乗って地上に降臨されたことから、空の神・飛行機の神として結び付けられ、飛行神社の祭神に選ばれた。大阪府交野市の磐船神社より勧請したもの<br /><br />右側の祖霊社は航空業界に業績を残した方の霊と、世界中の全ての航空事故の犠牲者の霊を祀る。日本国内の航空事故犠牲者については表名合祀を行い、国外の犠牲者については無表名で合祀されている。<br /><br />左側の薬光神社は薬業界の偉人や忠八が共に働いた仲間を薬祖神として祀っている。また、この地には元々白い蛇がおり、その蛇がこの社殿創建と同時にいなくなった事から、ここに籠られたとして金運・開運の神様である白龍神としてお祀りしている。<br /><br />境内にはこの他末社の常盤稲荷神社が拝殿の右奥、忠八の友人でもあった白川義則大将の三男、白川元春氏によって建てられた石碑に並んである。ちなみに元春氏は1974年から76年に掛けて自衛隊トップの第8代統合幕僚会議議長(現在の統合幕僚長)を勤めた方(下の写真1)。<br /><br />その他、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機首部や1936年に運用開始された双発のプロペラ旅客機・輸送機のDC-3用とおぼしき3枚プロペラも境内にある。ゼロ戦の機首部は1983年10月に大阪湾で底引網に引っ掛かったもの。<br /><br />また、社務所が1階にある奥のビルには忠八や航空機に関する資料、奉納された航空機模型などを展示する飛行神社資料館もある。1989年の改装時に建てられたもので、入館料必要(下の写真2)。<br /><br />さらにで長くなるが、この飛行神社の南の交差点の北東角には後村上天皇八幡行宮跡の碑がある。カーブミラーに隠れて見難いこの碑は1940年(昭和15年)に建てられたもの。交差点から東の路地を50mほど入ったところにも同じような碑があるが、こちらは1928年(昭和3年)建立(下の写真3)。なぜ2ケ所にあるかは不明。<br /><br />太平記、南北朝の時代、南朝の第2代天皇であった後村上天皇が、1352年に都の奪還を目指して当時南朝の本拠地が置かれていた大和国賀名生(現在の奈良県五條市西吉野村)を出立し、都の奪還を目指して行宮(仮宮)を置いたのがここ。石清水八幡宮別当の田中定清の邸だった。<br /><br />しかし、後村上天皇がこの地を行宮としたのは3か月足らず。北朝方の巻き返しに遭い、激戦の末、結局、京の都の地を踏むことなく、賀名生に戻ることになった。世にいう「正平の役」もしくは「八幡の戦い」。<br /><br />さらに蛇足と思うが、後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子で第97代天皇。現在の皇室は北朝の子孫で続いているが、南北朝を分裂させた後醍醐天皇の後、北朝の光厳天皇から5代の天皇はカウントされず、南朝の後村上天皇と2人の息子がカウントされている。<br /><br />これは南北朝を終わらせた室町幕府3代将軍の足利義満が「南朝を正統と認める」と云う政治的な決着をしたから。第100代になった北朝第6代の後小松天皇以前の5人の天皇はカウントされず、敵対していた南朝の3代がカウントされた。ああ、ややこしい。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5662988230437821&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />いよいよ歴史の宝庫の石清水八幡宮へ向かうが、続く

京都 八幡 飛行神社(Hikou-jinja Shrine, Yawata, Kyoto, JP)

11いいね!

2020/11/19 - 2020/11/19

277位(同エリア805件中)

旅行記グループ 八幡

0

3

ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月19日(木)10時半過ぎ、山城大橋から走ってきた木津川サイクリングロードを離れて木津川堤防から八幡市内に降りて行く。この日のメインの目的地は男山の石清水八幡宮なのだが、その前に飛行神社と云う変わった名前の神社に拝観する。

京阪電車の石清水八幡宮駅からだと、出口を出て左手、東に進みバス乗り場のロータリーを過ぎ、大谷川を渡り、府道22号八幡木津線の京阪の踏切の南約150m、徒歩4、5分ってとこにある。普通の住宅地の中なので見逃しやすい。

創建は1915年(大正4年)と比較的新しい神社。日本で初めて飛行原理を研究した二宮忠八翁が、自宅内に造った。飛行機の神様の饒速日命と航空事故殉難者の御霊を祀り、航空業界の安全と発展を祈願している。

二宮忠八は明治時代の航空機研究者。幕末の1866年に愛媛の八幡浜で生まれ、1887年(明治20年)に陸軍に入隊。入隊2年後、滑空しているカラスを見て、固定翼の着想を得、ゴム動力による模型飛行器(飛行器は彼の造語)を製作。1891年(明治24年)に日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。

その2年後には有人飛行を前提にした玉虫型飛行器の翼幅2mの縮小模型を作成。ちなみに、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へこの玉虫型飛行器の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介した。

話は戻り、模型の作成後に軍用としての有人玉虫型飛行器開発を設計書を添えて上申するが受け入れられず、自己資金での開発を行うために退役し、出身地に似た地名の京都の八幡に移り、製薬会社に就職し、資金を貯める。

1906年(明治39年)に支社長に昇進し、資金の目途も立ち研究を再開、動力源のテストを行い、1908年にエンジン自作の構想を立てるが、そこで既に5年前の1903年末にライト兄弟が有人動力飛行に成功したことを知る。

この遅れはライト兄弟の成功は秘密実験で行われたものだったことですぐにはアメリカでもニュースにならなかったことにから来てるのかもしれないが、1906年にはブラジル人のサントス・デュモン(Alberto Santos-Dumont)がフランスで固定翼動力機の公式飛行に成功しており、タイムラグが大き過ぎる。日本がいかに飛行機に興味がなかったかを示すものだな。

世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしたと云う。以後、彼は飛行器の開発から離れて製薬の仕事に打ち込み、1909年(明治42年)には食塩製造業の会社を創業した。

この20世紀初頭、飛行機技術は急速に発達。1914年7月に開戦した第一次世界大戦では、最初は偵察機としてのみ使用されたが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。それに伴って航空事故も多発するようになった。

こうしたニュースを知った忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じてこの地に飛行神社を創建し、航空安全と航空事業の発展を祈願した。

そして1919年(大正8年)、同じ愛媛県出身の白川義則陸軍中将(当時)が忠八の開発計画が却下されたことを知り、専門家に諮らせたところ技術的に正しい理論と判明、1922年(大正11年)に忠八は表彰される。さらに、1927年(昭和2年)には勲六等に叙せられた。1936年(昭和11年)に亡くなるが、翌年度からは国定教科書にも掲載された。いや、全然知らなかった。そんなすごい人がいたんだ。

忠八の死後、神社は一時廃絶するも1955年に息子の顕次郎によって再興される。そして、1989年には忠八の飛行原理発見百周年を記念して境内の拡張、改装が行われた。現在も安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多い。

正面から神社を見ると、古代ギリシャの神殿風の建物や金属製の鳥居が目を引くが、一番手前にガラスに覆われた建物に飾られてるものが気になる。なんとこれは航空自衛隊の主力戦闘機だったF-104J(栄光)戦闘機のエンジン。

ロッキード社(Lockheed)が開発した超音速ジェット戦闘機で、日本では三菱重工業が1962年から178機をライセンス生産した。1986年に全機が退役。エンジンはGE社のライセンスを受けた石川島播磨重工業製。単発エンジンで故障も多く、1963年から1974年までに大事故を起こした機体は24機、うち墜落した機体は20機。慰霊されるに相応しいかな。

その奥にある手水鉢には飛行機模様が彫られており可愛い。1989年の改装時に造られたもの。コロナ禍で水鉢には花が飾られている。

航空機に使われることの多いジュラルミン製と間違えられることが多いが、実際にはステンレス製の、それでも変わった鳥居の奥の古代ギリシャの神殿風の建物は拝殿。その奥には流造の本殿がある。共に1989年の改装時に建て直されたもの。

本殿の真ん中は主祭神の饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る。饒速日命は32柱の神様を従えて天磐船(あめのいわふね=飛行機と解釈される)に乗って地上に降臨されたことから、空の神・飛行機の神として結び付けられ、飛行神社の祭神に選ばれた。大阪府交野市の磐船神社より勧請したもの

右側の祖霊社は航空業界に業績を残した方の霊と、世界中の全ての航空事故の犠牲者の霊を祀る。日本国内の航空事故犠牲者については表名合祀を行い、国外の犠牲者については無表名で合祀されている。

左側の薬光神社は薬業界の偉人や忠八が共に働いた仲間を薬祖神として祀っている。また、この地には元々白い蛇がおり、その蛇がこの社殿創建と同時にいなくなった事から、ここに籠られたとして金運・開運の神様である白龍神としてお祀りしている。

境内にはこの他末社の常盤稲荷神社が拝殿の右奥、忠八の友人でもあった白川義則大将の三男、白川元春氏によって建てられた石碑に並んである。ちなみに元春氏は1974年から76年に掛けて自衛隊トップの第8代統合幕僚会議議長(現在の統合幕僚長)を勤めた方(下の写真1)。

その他、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機首部や1936年に運用開始された双発のプロペラ旅客機・輸送機のDC-3用とおぼしき3枚プロペラも境内にある。ゼロ戦の機首部は1983年10月に大阪湾で底引網に引っ掛かったもの。

また、社務所が1階にある奥のビルには忠八や航空機に関する資料、奉納された航空機模型などを展示する飛行神社資料館もある。1989年の改装時に建てられたもので、入館料必要(下の写真2)。

さらにで長くなるが、この飛行神社の南の交差点の北東角には後村上天皇八幡行宮跡の碑がある。カーブミラーに隠れて見難いこの碑は1940年(昭和15年)に建てられたもの。交差点から東の路地を50mほど入ったところにも同じような碑があるが、こちらは1928年(昭和3年)建立(下の写真3)。なぜ2ケ所にあるかは不明。

太平記、南北朝の時代、南朝の第2代天皇であった後村上天皇が、1352年に都の奪還を目指して当時南朝の本拠地が置かれていた大和国賀名生(現在の奈良県五條市西吉野村)を出立し、都の奪還を目指して行宮(仮宮)を置いたのがここ。石清水八幡宮別当の田中定清の邸だった。

しかし、後村上天皇がこの地を行宮としたのは3か月足らず。北朝方の巻き返しに遭い、激戦の末、結局、京の都の地を踏むことなく、賀名生に戻ることになった。世にいう「正平の役」もしくは「八幡の戦い」。

さらに蛇足と思うが、後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子で第97代天皇。現在の皇室は北朝の子孫で続いているが、南北朝を分裂させた後醍醐天皇の後、北朝の光厳天皇から5代の天皇はカウントされず、南朝の後村上天皇と2人の息子がカウントされている。

これは南北朝を終わらせた室町幕府3代将軍の足利義満が「南朝を正統と認める」と云う政治的な決着をしたから。第100代になった北朝第6代の後小松天皇以前の5人の天皇はカウントされず、敵対していた南朝の3代がカウントされた。ああ、ややこしい。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5662988230437821&type=1&l=223fe1adec


いよいよ歴史の宝庫の石清水八幡宮へ向かうが、続く

PR

  • 写真1 常盤稲荷神社と石碑

    写真1 常盤稲荷神社と石碑

  • 写真2 奥の建物に飛行神社資料館

    写真2 奥の建物に飛行神社資料館

  • 写真3 後村上天皇八幡行宮跡の碑

    写真3 後村上天皇八幡行宮跡の碑

11いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

八幡・城陽の人気ホテルランキング

PAGE TOP