2019/12/08 - 2019/12/08
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alchemistさん
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鎖国の時代、世界に向けた唯一の窓口といわれる長崎出島。
周囲は埋め立てられすっかり陸の一部になっているが、さまざまな展示により、博物館のような充実した展示がなされていた。
出島のスタッフは江戸時代の出島町人のいでたち、カメラのシャッターを押してくれたり、モデルを務めてくれたり。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝、新地中華街を抜けて出島をめざす。
新地橋 名所・史跡
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朝の中華街は人影もまばら、
長崎新地中華街 名所・史跡
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開いてる店ではちゃんぽんや皿うどんの食材を並べていた。
中華門 名所・史跡
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新地中華街を抜け、南門の隣にある「つりがね堂薬局」。
江戸時代はつりがねを目印に、屋台を流して薬を商っていたらしい。
鐘の銘文を見ると虫下しの薬がイチ押しらしい。長崎新地中華街 名所・史跡
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出島は中島川をはさんで長崎港に突き出していた。
北側の表門は出島橋を通じて街につながっている。出島橋 名所・史跡
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出島の西側の門は水門と呼ばれる。
かつては海に面していた。出島 名所・史跡
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水門は2つの通り道があり、左に見える南側の通路は輸入、右は輸出用の通路だ。
出島 名所・史跡
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プロテスタントであるオランダ商人の関心事は、布教ではなく公正な商取引。
そこでオランダの交易市場には必ず計量所があり秤が備えられている。
出島のオランダ商館もその例に漏れず、方々に秤がある。出島 名所・史跡
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出島の商館はだいたい1階が倉庫、2階が居住空間になっている。
一番船船頭部屋ではオランダ船の船長や船員が寝起きした。出島 名所・史跡
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オランダ商館長はカピタンと呼ばれ、駐日オランダ大使や、東インド会社長崎支店長の役割を果たした。
出島 名所・史跡
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三番蔵に積まれているのは砂糖だろうか。
出島 名所・史跡
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砂糖は出島で取り扱った重要な輸入品だ。
はじめは台湾、やがてバタビアを通じてインドネシアの砂糖が輸入された。
現代の金額で年間約24億円もの膨大な量が輸入されるようになったという。出島 名所・史跡
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出島には、砂糖とともに西洋の菓子づくりの技法も伝えられ、カステラや丸ぼうろ、金平糖、羊羹なども作られるようになる。
やがて砂糖は長崎街道を通じ九州各地にお菓子文化を根付かせていった。
いわゆる「シュガーロード」である。出島 名所・史跡
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シーボルトの畢生の大作「NIPPON」。
その副題には「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とある。出島 名所・史跡
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ドイツのヴュルツブルクに生まれ、オランダの陸軍外科少佐として来日したシーボルトは、6年間を長崎で過ごし、鳴滝塾で日本に西洋医学の種をまき、おたきさんとの間に日本初の女医となる楠本イネを生した。
出島 名所・史跡
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ナポレオンがオランダを征服したことで、世界中でオランダ国旗が掲げられていたのが唯一出島だけになった。その時カピタンとして出島に滞在していたのが、ヘンドリック・ドゥーフである。
ナポレオン戦争により帰国の叶わなくなったドゥーフは1803年-1817年の出島滞在中に「ヅーフ・ハルマ」と呼ばれる蘭日辞典を編纂し、蘭学に大きな足跡を記した。福沢諭吉も、適塾においてこの辞書を手掛かりに蘭学を学んだ。出島 名所・史跡
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明治36年、グラバーの息子倉場富三郎の尽力により作られた社交クラブ。
長崎内外倶楽部 グルメ・レストラン
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出島の中で食事のできるレストランになっている。
長崎内外倶楽部 グルメ・レストラン
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ビリヤード台があるのがいかにも社交クラブらしい。
長崎内外倶楽部 グルメ・レストラン
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出島の東側に設けられたミニ出島。
出島 名所・史跡
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ミニチュアの箱庭である。
出島 名所・史跡
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出島橋から見た表門。
出島 名所・史跡
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シーボルトの里帰り植物園。
シーボルトはヨーロッパでの博物学への関心の高まりを受けて、
驚くほど多量の動物、植物の標本をオランダに持ち帰っている。出島 名所・史跡
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銅蔵。
日本からの輸出品として銅は重要な産品だった。出島 名所・史跡
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住友が別子銅山で精錬した銅。竿銅と呼ばれる。
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当然、銅蔵にも計量秤がある。
出島 陶製の門柱 名所・史跡
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狭い出島に押し込められたオランダ人にとって食べ物は重要である。たまたま出島で西洋料理についての企画展をやっていた。
出島 名所・史跡
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出島の西洋料理は、日本の食材にとどまらず、バタビアから取り寄せたり、本国から運んだり、涙ぐましい努力が重ねられている。
出島出土の牛骨からみると小柄の和牛と大型のセブ牛(インド)の2種類がいたようだ。
牛肉は、屠殺、血抜きの技術が低かったはずだから、さぞかし匂いが強かっただろう。出島 名所・史跡
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特にクリスマスは和蘭陀冬至、正月は和蘭陀正月と呼ばれ、日本人を含め、盛大に客を招きもてなした。
出島 名所・史跡
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阿蘭陀正月のメニューは、左に見える牛もも肉のローストとか、右は鯛の潮煮。
日本人は大いに楽しみにしていたようだ。出島 名所・史跡
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こちらは阿蘭陀冬至、つまりクリスマスの料理。
出島の商館員はカピタン部屋の大広間に集まってみんなで食事をとる習慣があった。出島 名所・史跡
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その料理を作るのが別棟の料理部屋。
出島 名所・史跡
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これが出島のキッチンルーム。
出島 名所・史跡
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幕府は出島町人と呼ばれる25人の長崎の有力商人に命じて出島を埋め立てさせた。
出島の商館は毎年億単位の土地使用料を出島町人に支払っており、出島の所有権は彼ら出島町人にあった。出島 名所・史跡
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幕府は出島の管理や貿易事務にも彼らの力を借りている。
出島乙名と呼ばれる責任者の下おおよそ200名程度の日本人が出島で働いていたらしい。
出島乙名の詰所がここ。出島 名所・史跡
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世界史の中での出島と、出島が日本に与えた影響をコンパクトに教えてくれる。
出島 名所・史跡
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大砲の砲身には東インド会社の紋章があった。
出島 名所・史跡
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商館の事務員の執務室。
出島 名所・史跡
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出島滞在約2時間。
まだまだ楽しめそうだった。出島 名所・史跡
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