2018/09/23 - 2021/02/05
957位(同エリア16398件中)
ばねおさん
パリの南14区のはずれ、市域の外周部に沿って広大な国際大学都市公園がある。
東西に延びた敷地面積は34ヘクタール、東京ドームに換算すると7個以上入る広さになるという。
敷地内には40棟の建物があり、多くは世界中からの留学生を受け入れる宿泊施設であり、12,000名が滞在している。
建物にはそれぞれの由来と歴史があり、又、国名を冠した館にはお国柄を表徴する「らしさ」の何かが見られる。
日本も「日本館」別名「薩摩館」を設置していて、建物は鉄筋コンクリート造だが日本の城郭を模したデザインを取り入れ、多くの建物の中でも極めて特徴的である。
建築の視点からは、コルビュジェのスイス館、ブラジル館がよく知られているけれど、自分がもっとも気に入っているのは、大学都市が創建された当初の建物群である。
英国のカレッジ風の建物が周囲を囲むその一帯には、独特な雰囲気が感じられ、他の区画とは別な空気が流れているかのようである。
これまでに国際大学都市公園を訪れたのは夜間のイベントを含め4回ほどあるのだが、ごく限られた範囲しか見ておらず、今回は事前に予習をしたうえであらためて全体を歩いてみた。
2021年2月現在は、コロナウイルスの制限下にあるので各館の見学入館はむつかしいが、制限が解かれたあかつきには外観だけでなく内部を見てみたい館がいくつもある。
(写真の一部は2018.9月、2019.2月に撮影したものを利用)
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パリ14区の南側、ジュルダン大通り Boulevard Jourdan に沿って国際大学都市公園はある。
通りの反対側はモンスーリ公園 Parc Montsouris。
ジュルダン大通りにはトラムのT3線が走っている。
最寄りの駅は「Cité Universitaire 大学都市」 -
RERのB線も「Cité Universitaire 」駅がモンスーリ公園内にあり、こちらを利用して出てくると向かい側に国際大学都市の正面出入り口がみえる。
RERのB線はシャルルドゴール空港に続いているので、世界各国からやってくる学生、研究者たちにとってはとても便利であるに違いない。
国際大学都市公園の出入り口はいくつもあって、どこからでも出入り自由だが、やはりこの正面のアーチをくぐってスタートしたい。
大学都市には40棟の建物があり、その内の18館は本部の直轄で残りは各国政府や財団基金の管掌で独自に運営されている。
国名を冠している館の利用も、すべてその国の出身者で占められている訳ではなく3割から4割くらいは他国の学生の受け入れをおこなっている。
通年滞在だけでなく、宿泊先が決まっていない留学生がここで短期滞在してアパルトマン探しをするような利用の仕方もあるようだ。 -
入り口の横の外柵には国際大学都市公園の利用規則が掲げられている。
「公園」としているのは、大学都市を構成する建物群だけでなく競技場やテニスコート、周辺部の緑地帯を入れてオープンスペースとしているゆえだろうと解釈できる。
規則の内容をざっとみてみると、開園は7-22時。
歩行者が優先。(大文字)
許可された車両以外の進入不可。構内速度は20km/h以下。
犬の散歩は舗装路か森の中のみで、リード厳守。
ハトなどのへの餌やり禁止
等々
「都市」だけど、許可車両以外の進入はできず、稀に出会う通行車両はしずしずと動いている、歩行者絶対優先の世界。 -
正面のアーチをくぐると広場があり、その向こうに宮殿のような大きな建物がみえる。
学食や図書館、銀行、プールや劇場などがある Maison International インターナショナル館で、大学都市全体の共用棟であり、中央管理棟である。
(2018.9 撮影) -
インターナショナル館から振り返った正面出入り口方面。
アーチ左右の建物はかっては大学都市診療所として用いられていたようだが、現在は宿泊棟として活用されている
この大学都市の創設を呼びかけたアンドレ・オノラ André Honnorat にちなんでアンドレ・オノラ館と名付けられている。 -
正面広場横にあるアンドレ・オノラ André Honnorat の胸像。
(後方に見えるのはアメリカ館)
文部大臣であったアンドレ・オノラは、2つの大戦の間で人道主義の理想を掲げ、平和のために世界中の学生、研究者、芸術家が関わりが持てる学校の創設を目指した。
国際大学都市にあるのは学校ではないけれど、今や世界140か国から学生や、研究者あるいは芸術家がやってきて12,000名がここに滞在し、活発な交流を深めている。
アンドレ・オノラの夢は十分に具現化されたといえる。 -
広くて明るいインターナショナル館の玄関ホール。
(2019.2 撮影) -
館内にある学食の出入り口付近。(2019.2 撮影)
中に入るとカフェテリア形式で、食事や飲み物が用意されている。
若さが充満しているような場所なので、ここで一息というのはちょっと落ち着かない。
ここ以外にも、各国棟の中にはスペイン館のように外部者も利用できるカフェテリアが設けられているところもある。
学生は3ユーロくらい、一般は倍額になるが、それでもパリ市内の半額程度だろう。
混みあっている時間帯には逐一証明書の提示を求めないので、若年あるいは若く見えるひとは学生料金でスルーということは大いにあり得る。
パリの学食利用も体験として面白いが、コロナ下ではだいぶ様相が変わってしまって、テイクアウト中心で、現金支払い不可となるなどのウイルス対策がとられている。
この学食内であったかどうか記憶が曖昧だが 、Cité Internationale Universitaire de Paris の文字入りTシャツとかマグカップが販売されていて、ここでしか入手できない珍しいお土産になるかも知れない。 -
トイレもこの館内で利用が可能である。
(2019.2 撮影) -
館内にある劇場
(2019.2 撮影) -
劇場の外部出入り口。
人気のあるプログラムの時には、ここに大行列ができる。 -
構内には、あちらこちらに建物配置図が設置されている。
建物にはそれぞれ数字あるいはアルファベットとの組み合わせの番号が振られている。
初めてやってくる留学生たちにとっては目指す建物を探す大きな手掛かりだが、場所によっては見つけ出すのはなかなかたいへんだと思う。
日本の団地のように建物に大きく数字などが表示されていれば見つけやすいのだろうが、実際には建物のごく真近にまで行かないと館名と番号は分からないことが多い。。 -
インターナショナル館 Maison Internationale の横を通り裏手へ回ってみる。
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まるで宮殿のような印象を受けるインターナショナル館だが、それもそのはずフォンテーヌブロー宮殿を見本に、フランスの古典的な建築様式「ネオルイ13世」スタイルを取り入れた建物であるという。
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裏手側からみたインターナショナル館 Maison Internationale
広々とした芝生が延々と続いている
暖かな季節になると
ここで憩う学生たちで一面が埋めつくされるそうだ。 -
芝地と交差して長く伸びた並木道
ところどころにベンチがあり、新緑の頃には
さぞかし爽快なひと時が過せるだろう。
あいにくこれまでに緑の季節に足を運んだことがないので、次にはぜひ実現したい -
インターナショナル館の裏手から日本館がある方へと向かってみる。
見えてきたのは 「Maison du Mexique メキシコ館 」
大きな壁画が目を引く -
この壁画は 『Les Fresques de Bonampak (ボナンパクのフレスコ画)』と呼ばれている。
Bonampakはメキシコにある古代マヤ遺跡の名称で、ここで発見された有名なフレスコ画がデフォルメされメキシコ館の表徴としてここに描かれているそうだ。 -
メキシコ館をぐるりと廻り、見上げると MEXICO の文字が
こうして館名を掲げてくれるのはありがたい。
館内には1790年に発見された「太陽の石」のレプリカがあるというのだが、今はいずれの館も内部の観覧がむつかしい。 -
メキシコ館から進んだ先にあるのが、「Collège Franco-Britannique(フランコ-ブリタニック)」
仏英 Franco-Britannique としたのは第一次大戦後の両国の友愛を表徴するためだとのこと。
通称は英国館である。 -
英国館のファサード
赤レンガ、 bow-windows、小塔、暖炉の煙突が英国風を特徴づけている。
横浜の港の見える丘公園に横浜市イギリス館があり、建築様式はまったく異なるが bow-windowsを特徴としている。
英国人とbow-windowsとはセットで考えてもよいのかもしれない。 -
次に「 Collège d’Espagne スペイン館」の横を通り(後で立ち寄るつもりが忘れてしまった)
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見えてきたのが日本館、またの名を薩摩館
日本の城郭をモチーフにしているという形状は、多くの建物の中でも特徴が際立っている。
(2018.9.23撮影) -
入り口横のささやかな前庭
池の中には金魚が群れていた -
限られた空間と予算で
和風の演出が精一杯工夫されているようだ -
館名 「 Maison du Japon 日本館」の下には設立者SATSUMAの名が記されてある。
日本館が建立されたのは1929年。
駐日大使であった作家のポール・クローデルが大学都市への参加を呼び掛けるも時の政府に金がなく、一民間人である薩摩治郎八が全資金を提供して出来上がったものだ。 -
この薩摩治郎八という人物の生き様が凄まじい。
実家は、祖父が裸一貫から木綿王と呼ばれるほどの財を一代で築いた。
その富豪ぶりは、ちょっと比例ががないほど
実家からの潤沢な仕送りで18歳でオックスフォード大学へ留学した治郎八だが、その後渡仏して、やがて夫人の千代とともにフランス社交界を席巻する存在となった。
並外れた豪遊ぶりからバロン薩摩と呼ばれたが、本人に爵位はない。
(夫人は長州出身の山田 顕義伯爵の孫娘にあたる)
夫人の千代も飛び抜けていて、モデルとしてフランス写真紙の表紙を飾ったり、カンヌのエレガンスコンクールで豪華絢爛な特注車に乗って欧州の女性たちを圧倒し、優勝をするなどの活躍ぶりである。
一説には約30年間のフランス滞在中に使い果たした金額は600億円とも言われている。この数字の根拠は不明だが、「東洋のロックフェラー」とも呼ばれたほどの生活からすれば、想像を超えた金額であったであろう。
この日本館設立の資金全額提供もそうだが、芸術家への経済的支援や援助を数多く行っている。
しょせんは自分で稼いだ金ではない、と言えばその通りだが、金の使い方には一応の流儀もあったようだ。
しかし世界金融恐慌などで実家が傾き、夫人も亡くし、1956年に帰国する時にはほとんど財産はなく、東京でアパート住まいとなり、かっての面影はなかったという。
パリ時代を見れば、最後はいかにも惨めであったような印象も受けるが、本人はいたってさばさばしていたようで、帰国後、『銀巴里』で出会った美輪明宏に「パリに全財産を寄付してきた」と言い放ったとか。
国際大学都市の提唱者であるアンドレ・オノラ を深く敬愛し、ジャンコクトーと親交を結び、フジタを援助するなど、その活動と言動を知ると、やはりひとかどの人物であったかと思える。
あるいは日本人には数の少ない奥深い国際人であったともいえる。
知れば知るほど興味の尽きない人物だ。
晩年は浅草の花形ストリッパーをしていた女性と再婚し、再婚相手の郷里である徳島で1976年に亡くなっている。
インターナショナル館には 「Salle de SATSUMA サツマの部屋」と名付けられた会議室があるようだが、治郎八との関係は未確認で、どなたかご存じであればぜひご教示いただきたい。 -
日本館には薩摩治郎八との縁によってフジタの大作が2点保存展示されている。
ひとつは玄関ホール奥の『馬の図』
2019年2月に在仏50年を記念する赤木曠児郎画伯の講演会があり、写真はその折に撮影したもの。(作品中央上部に天井の照明が映りこんでしまっている)
講演会と言っても形式ばったものではなく、渡仏以来の生活ぶりをざっくばらんに愉快に語っていただいた。 -
話はちょっと横にそれるが、赤木画伯の講演会に前後して訪れたパリ近郊のグレ村( Grez-Sur-Loing グレ・シュル・ロワン )ではじめて同画伯の作品に接した。
この作品の左上部に Rue Kuroda Seiki と書かれた街路標識が描き込まれているのがみえる。
グレー村には黒田清輝、浅井忠をはじめとする日本の近代洋画の草創期を形成した画家たちが滞在したことが知られているが、ここには黒田清輝の名がつけられた通りもあるのだ。
黒田はここで暮らして、村の姉妹をモデルに代表作の『読書』や『編物』を制作している。 -
ロワン川がゆったりと流れ、12世紀の城塞跡が残るグレ村は、黒田清輝や浅井忠が滞在していた頃とさほどの変わりはないのでは、と思えるほど静かで穏やかな土地だ。
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さてフジタのもう一つの作品は、大広間の舞台奥に展示されている『欧人日本へ渡来の図』(2018.9 撮影)
人物の描き方をみると、ああフジタだ、と一目で分かる。
この日は知人の演奏会があり、出席させていただいた折に撮影したもの。
かって森有正が日本館の館長であったことの印象が強いため、館長さんは文系の方だろうと勝手に思い込んでいたのだが、この時に挨拶に登場された館長さんは北大の理系の先生であった。 -
日本館の斜め向かいにあるのが 「Maison des étudiants suédois スウェーデン館」
こじんまりとしているが、マナーハウスを思わせる瀟洒な佇まいだ。
青い窓扉などの色遣いに「北欧風」を感じとることができる。
(2018.9 撮影) -
スウェーデン館から先に進んだところにあるのが
「Fondation danoise デンマーク館」
建物にあまりこれといった特徴は見つけられないのだが、きっとどこかに「らしさ」は潜んでいるのだろう。 -
それから「 Maison de Norvège ノルウェー館」
こちらもデンマーク館同様に近代的なフォルムで、その国らしさがどこかにあるのだろうが建物外観からはちょっと分からない。あるいは建築材料にあるのかもしれない。
この近辺は北欧諸国の棟が近接している。 -
そして、大学都市の建物中で最も有名ともいえるル・コルビュジエ設計の
「Fondation Suisse スイス館」 -
いろいろな角度から写真に収めてみる
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ル・コルビュジエ建築の特徴のひとつ、ピロティ。
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パリ市内にはル・コルビュジエが手掛けた建築が17点あるという。
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ル・コルビュジエの建築5原則のひとつ、屋上テラスも開放空間として見てとれる。
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左のレセプションホールには、ル・コルビュジエが描いた壁画が一面にあって、ガラス戸を通して見ることができるのだが、あいにくこの日はホールで集まりがあるようで近くからの撮影は遠慮せざるを得なかった。(ガラス戸の内側に少しだけ色彩が見てとれる)
もともと画家としてスタートしたル・コルビュジエだが、その絵画作品には強い魅力がある。
建築作品があまりにも有名になったゆえか、絵画作品に対する評価が少ないのが残念だ。
かなり前に東京の西洋美術館でまとまって展示されたのを観覧したことがある。
おそらく大成建設が所有する作品群だったと思うが、かって横浜には大成建設ギャラリーがあって常設展示さたこともあると聞いているので、ぜひ復活してほしいと願っている。 -
スイス館の先には 「Maison du Brésil ブラジル館」
東西に延びる国際大学都市公園のほぼ東端の位置にあたる。
もともとはブラジル人建築家のルシオ・コスタが設計を手掛けたものだが、ルシオ・コスタが敬っていたル・コルビュジエに協力を求めた結果、図面は大幅に変更され、結果としてはル・コルビュジエ作品のひとつとしてみなされるようになったという経緯がある。 -
ル・コルビュジエから多大な影響を受けていたルシオ・コスタは、ブラジル館の設計者の栄誉をル・コルビュジエに譲ったことに悔しがるどころか、大いに勉強ができて喜んだのではなかったろうか、そんな風に思えてくる。
あいにくとブラジル館は修復作業に入っていた。 -
ブラジル館から引き返すような形で、北側の道を進むと紫色の外壁の
「Maison de l’Inde インド館」 が見えてくる。 -
インド館1階のホール
学生が描いたらしい賑やかなガラス絵 -
インド館の中庭に胸像があった。
ガンジーでもなければ、ネルーでもない
いったい誰なのか?
名前は読み取れたので、帰宅してから調べてみた
Swami Vivekananda スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
イギリス植民地時代のインドのヒンドゥー教指導者で、民族の自覚を促し
やがてイギリスの支配を脱する独立運動につながる多大な影響を与えた人物。
そういえばこの胸像、英国館のほうに向いているように見える。 -
インド館の横を通り奥まったところにある 「Maison du Maroc モロッコ館」
同館の案内では、釉薬瓦の屋根が伝統的なモロッコ建築を想起させるということだがモロッコには行ったことがなく知識もないので、あまりピンとはこない。
モロッコという国にはとても魅力を感じるけれど、数年前にトルコのサウジアラビア領事館でジャーナリストが「消された」事件があったとき、モロッコの国王がパリのLipp前でトルコの政治家ベン・バルカを誘拐して消させた歴史的事件と思わず重ねてしまった。 -
次に出会うのは「Maison de l’Italie イタリア館」
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ほんのりとピンクの外壁
アーチ型のロッジア -
古典建築のいくつもの要素が建物に組み込まれていて、これぞまさしくイタリアン
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イタリア館の先
ちょいと曲がったところにそそり立つようにあるのは
「Fondation Biermans-Lapôtre ベルギー、ルクセンブルク館」 -
国際大学都市の中でも、最も古い建物のひとつで、民間人の実業家夫妻( JeanHubertとBertheBiermans-Lapôtre ) の資金提供によって完成したもの。
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堂々たる正面玄関
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小塔が印象的な正面上部。
建物を細かく見ると様々な細工が施されている様子が分かる。
内部の調度類もぜひ見てみたいものだ。 -
ベルギー、ルクセンブルク館と向かい合っているのは
「Maison Internationale AgroParisTech」農業工学館?と言えばよいのか
ベルギー、ルクセンブルク館が壮麗なだけに少し地味に見えるが、結構美しい建物だと思う。 -
Maison Internationale AgroParisTech の中庭
農事に従事する夫婦を象徴するものだろうか、荷車を押している傍らには乳飲み子を抱える女性の立像が置かれている。
誰かが気を利かせたらしく、顔にはマスクがあてがわれていた。 -
Maison Internationale AgroParisTech のある場所からインターナショナル館方向へ戻り、今度は正面広場を横切って反対方向へ進む。
すぐにあるのが 「Maison de l’Argentine アルゼンチン館」 -
アルゼンチン館のファサード
スペイン瓦の屋根を4本の柱で支える柱廊玄関形が、 アルゼンチン風であるそうな。 -
アルゼンチン館の手前にあるメダリオン
Paul APPELL ポール・アぺル
大学都市創始者のひとりである有名な科学者 -
次は「 Maison des étudiants canadiens カナダ館」
この色はたぶんカナダのナショナルカラー、なのかな? -
カナダ館の通路入り口には、何やら意味ありげな石積みがある。
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説明書きによれば 、積み上げられているのは INUKSUK イヌクシュクと呼ばれる
カナダ先住民の道標で人型のものは有名であるらしい。
なるほどカナダ館のランドマークとしてはいかにもふさわしい。 -
カナダ館を過ぎると 「Deutsch de la Meurthe Foundation ドゥイッチェ・ド・ラ・ムルト 財団」の建物 が見えてくる。
時計台のある中央棟の周りを6館で構成されている区画で、各建物にはそれぞれ偉大な功績を残した科学者などの名が付けられている。
正面に見えるのはピエール&マリー・キュリー館。 -
パスツール館と連結棟
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アンドレ・オノラ の呼びかけに応えて、実業家エミール・ドゥイッチェ・ド・ラ・ムルト Émile Deutsch de la Meurthe が巨額の資金を提供して実現した大学都市最初のプロジェクト。
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1923年に着工し、1925年に完成した。
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建築のイメージはオックスフォード大学に範をとっているという。
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奇しくもオックスフォード大学を後にしてパリにやって来た薩摩治郎八は、日本館の工事状況をみるために、こちらに滞在していたという。
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治郎八が窓から眺めたであろう中庭や、区画を構成している他の館の佇まいは当時とあまり変わっていないのではと思う。
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すでに古色を帯びて味わい十分な外壁。
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外観は古風でも、長い年月の時々に内部は手を入れて、機能性、快適性を向上させているという。
ただ仮に自分が大学都市内で住めるとしたら、やはりもうちょっと現代的な住居を望むだろう。
鑑賞する楽しさと、住んで暮らす心地よさとはなかなか一致しない。 -
Deutsch de la Meurthe Foundation の敷地から一旦ジュルダン通りに出て、大学都市の次の区画へ向かう。
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ジュルダン通り沿いに少し進むと、さらに大学都市の別の一画がある。
通りから入ってすぐのところにある「 Maison de la Tunisie チュニジア館」
壁面の文様らしきものが何を表しているのかは不明。 -
1956年にチュニジアが独立した時の初代大統領は、先ほどの 「Deutsch de la Meurthe Foundation ドゥイッチェ・ド・ラ・ムルト」にかって滞在していたという。
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チュニジア館と幅10Mほどの通路を挟んで向かい合う建物は 、「Fondation de Monaco モナコ館」
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人口の少ない国だけに、当初は単独で館を設立するのではなく他の国々との共同館を目指していたが、いずれの計画も成立せず、最後は寄付を募ってようやく単独館として出来上がったものであるという。
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モナコ館の先に現れる巨大な建物
「Maison des provinces de France フランス地方館」
そもそもは、普仏戦争でドイツに併合され、第一次大戦でフランスの手に戻ったアルザスの学生のために設立されたものだが、今ではフランス全土の学生のために提供しているという。 -
アルザスのためにという設立の理念を推し測ると、ついドーデの小説『最後の授業』を思い浮かべてしまう。
昔、学校で読んだ人も多いかと思うが、アルザス地方に住むフランツ少年の物語である。
ある朝、フランツ少年が学校に遅刻したところ、普段はとても厳しい先生が意外にも優しく迎え入れてくれて驚く。そして先生は生徒たちを前にフランス語の授業は今日が最後になること、明日からはドイツ語の授業になることを伝え、最後にフランスバンザイと黒板に書いて学校を去る、という話である。
今ではこの小説の読まれ方、政治的、歴史的背景が多々論じられていることは知っているが、やはり最初に読んだ時の感動はいつまでも残っている。 -
「地方館」の建物のファサードには、フランスの36の地方を象徴する盾形の紋章がそれぞれに置かれている。
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フランス地方館の隣にあるのは
「Maisons des étudiants arméniens アルメニア館」 -
アルメニアに関する自分の乏しい知識の中でも、長く歴史に翻弄され多くの辛苦を味わってきたこの国あるいは民族が独立した館を持ち、維持するのはなかなか大変なことだろうと思うと同時に矜持を感じる。
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アルメニア館と向かい合うのは
「FONDATION ABREU DE GRANCHER キューバ館」
こちらも寄付によって建立され、財団が運営している館のひとつだ。 -
ファサードに記されている財団の名称 「Rosa Abreu de Grancher Foundation 」は建設寄付を主導したキューバ人Rosa Abreuと夫のJacques-Joseph Grancher にちなんでいるという。
夫のJacques-Joseph Grancherは、パスツールとともに結核と狂犬病ワクチンの研究に携わっている。 -
キューバ館の先にあるのが
「Maison des Étudiants de l’Asie du Sud-est 東南アジア館(旧インドシナ館)」
アジアンテイストの屋根の形状をもった建物。
ここが国際大学都市の西端となる。 -
ここまでほぼ全体を歩いたつもりであったが、あとで写真をみたらいくつも抜け落ちていた。
立ち寄らずに過ぎてしまったのは、アメリカ、韓国、カンボジア、ドイツ(ハインリッヒ・ハイネ)、レバノン、ギリシャ、スペイン、オランダ、ポルトガル....
やはり、世界は広い
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