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2020年10月1日(木)昼過ぎの2時半頃、伏見奉行所跡から旧伏見港辺りを回って、竹田街道を北上する。竹田街道は京の七口の一つであった竹田口(当時の東洞院八条辺り)と伏見港を結ぶ街道で、江戸時代に整備された道。現在は京都駅の東端の南側、八条口のバスターミナル横の八条竹田街道から伏見京橋を過ぎ、宇治川沿いの京都外環状線との交差点までを呼ぶ。<br /><br />伏見京橋から350mほど北へ進むと大手筋通との交差点。この通りは1594年に秀吉が築いた伏見城の大手門から西へ伸びる東西軸で、城下町伏見はこの基軸を中心に碁盤の目に街路が整備された。かつては周辺には大名屋敷が立ち並び、徳川家康が最初に開いた銀座も置かれた。現在は、各鉄道駅から明治天皇の桃山御陵への参道となっている。京阪の伏見桃山駅から西400mは伏見大手筋商店街と云う人気のアーケード。<br /><br />大手筋通へ左折し、西に向かうと200mほどで大手橋があるが、この橋の東詰、南側におきな屋と云う店がある(下の写真1)。清酒「富翁(とみおう)」で知られる江戸時代初期1657年創業の伏見の酒造メーカー、北川本家が1996年にオープンした直営店。製造現場の乾蔵からタンクごと運んで来て瓶詰した量り売り原酒はここでしか買えない。今回は買ってないが、また今度買おうっと。ただし、期間限定なので事前チェックは必要。<br /><br />橋を渡ると北側に坂本龍馬避難の材木小屋跡の碑。これも2009年に伏見観光協会が設置したもの。幕末の1866年に起きたあの有名な寺田屋事件で、襲われた龍馬が身を潜めた材木小屋がこの橋の反対側、今のおきな屋の南にあったと伝えられている。ただし、ここから500mほど上流の土橋付近と云う説もあるので、確かではない。<br /><br />龍馬が約30人の伏見奉行配下の役人たちに寺田屋に踏み込まれたのは1866年の1月終わり(今の暦では3月初め)。なお、この時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失し、現在の建物はその東隣りに再建されたもの。武力で捕縛しようとする役人たちに護衛の長州藩の三吉(みよし)慎蔵が槍で応戦、龍馬もピストルで2人を撃ち殺し、両手に深い切り傷を負いながら、裏口から逃走。元々風邪で発熱していた龍馬は出血が重なり動けなくなり、慎蔵が連れ込んだのがその材木小屋。場所がこの大手橋のたもとなら寺田屋から500mほど、上流の土橋付近ならその倍の1㎞足らずあるので、状況を考えるとここのように私も思う。<br /><br />多くは100人とも云われる奉行所の役人や捕り方が探索に駆け回る中で、もはや助かる道はなしと覚悟した慎蔵が切腹を進言したが、龍馬は死ぬ覚悟があるなら薩摩藩邸に駆け込むように指示する。「切腹でも敵に討たれるのも死ぬのは同じ。ならば、動ける限り生きようとしろ」ってことで、江戸時代の武士らしくないのがいいよな。この時諦めてたら船中八策は生まれなかったし、大政奉還にも至らなかっただろう。<br /><br />龍馬の指示に従った慎蔵は濠川を約800m東北に上がったところにある薩摩藩邸に無事到着。すでにお龍(りょう)が寺田屋から駆け込み事件を知らせていたので、藩邸の留守居役がすぐ船を出し、龍馬を無事救出した。龍馬の傷は深く、翌日まで出血は止まらなかったそうだ。<br /><br />その濠川(ほりかわ)だが、ごうかわとも呼ばれるが、元々はその名前通り、伏見城の外濠として開削された。現在は近鉄伏見駅の東、国道24号線沿いの伏見郵便局の南で琵琶湖疎水鴨川運河(墨染インクライン)の水が暗渠から流れ出すところから始まっているが、当初はそこより少し南で東に進み、現在の伏見北堀公園の辺りまで続いていたようだ。明治に入り1894年に川端通の冷泉放水口からの約9㎞の鴨川運河が完成し濠川と繋がった。<br /><br />現在は大手橋の少し南で宇治川派流と分流し、濠川はそのまま南に流れ、伏見港公園の先で、三栖(みす)閘門(こうもん)と三栖洗堰に分かれ、宇治川に注ぎ込んでいる。下流部は宇治川派流の月桂冠大倉記念館の南から伏見十石舟遊覧船が、寺田屋の近くから伏見三十石舟遊覧船が三栖閘門折り返しで出ており、特に桜の季節は美しい。私らも2008年の4月に十石舟遊覧船に乗ったことがあるが、ホンマにきれいやった(下の写真2)。<br /><br />龍馬たちが逃げ込んだ薩摩島津伏見屋敷だが、この屋敷も鳥羽伏見の戦いで焼失した。戦いが始まったあと、薩摩軍は旧幕軍の拠点である伏見奉行所近くの御香宮神社に移動したが、その間に会津藩兵らの襲撃を受け炎上した。大手橋から上流4本目の下板橋の西詰、清酒「名君」を製造する月桂冠グループの松山酒造の前にこれも伏見観光協会が設置した伏見薩摩藩邸跡の碑だけがその存在を示す。<br /><br />薩摩藩だけでなく有力藩は京と伏見の両方に藩邸を置いており、寺田屋事件の時に西郷隆盛はここではなく、京の藩邸(現在の同志社大学今出川キャンパス)に滞在しており、翌朝になってこの知らせを受け、彼を知るまわりの者たちが生涯見たことがないほどの怒気を発したと云う。そして、引き渡しを断固拒否するため、薩摩藩自慢の英国式一個小隊を警護に送ったそうだ。<br /><br />ちなみに、なんとか救出された龍馬は、お龍とともにこの藩邸で数日過ごし、その後、隆盛の勧めで約1ヶ月後に鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に滞在した。これが日本で最初の新婚旅行と云われている。<br /><br />江戸時代、徳川将軍は3代家光以降は約230年間上洛せず、原則として諸大名の上洛も禁じていた。そのため、西国大名が参勤交代の往復で京都を通過する時にも京の都には入れなかった。薩摩藩の伏見藩邸は1670年までには建てられ、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地とされていた。<br /><br />1853年9月末、宮崎あおい主演でNHK大河ドラマになった13代将軍徳川家定の正妻となる島津斉彬の養女篤姫(天璋院)が、薩摩から江戸にむかう途中に滞在したのもこの藩邸。1週間滞在した彼女は、この間に洛中の近衛家や黄檗の萬福寺を訪れた。この時満16歳だった彼女は江戸に入って以降、二度と故郷に戻ることはなく、箱根より西に出掛けることもなかったので、これが最後の京となった(下の写真3)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4681697165233604&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />もう少し続く

京都 伏見 濠川(Horikawa, Fushimi, Kyoto, JP)

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2020/10/01 - 2020/10/01

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年10月1日(木)昼過ぎの2時半頃、伏見奉行所跡から旧伏見港辺りを回って、竹田街道を北上する。竹田街道は京の七口の一つであった竹田口(当時の東洞院八条辺り)と伏見港を結ぶ街道で、江戸時代に整備された道。現在は京都駅の東端の南側、八条口のバスターミナル横の八条竹田街道から伏見京橋を過ぎ、宇治川沿いの京都外環状線との交差点までを呼ぶ。

伏見京橋から350mほど北へ進むと大手筋通との交差点。この通りは1594年に秀吉が築いた伏見城の大手門から西へ伸びる東西軸で、城下町伏見はこの基軸を中心に碁盤の目に街路が整備された。かつては周辺には大名屋敷が立ち並び、徳川家康が最初に開いた銀座も置かれた。現在は、各鉄道駅から明治天皇の桃山御陵への参道となっている。京阪の伏見桃山駅から西400mは伏見大手筋商店街と云う人気のアーケード。

大手筋通へ左折し、西に向かうと200mほどで大手橋があるが、この橋の東詰、南側におきな屋と云う店がある(下の写真1)。清酒「富翁(とみおう)」で知られる江戸時代初期1657年創業の伏見の酒造メーカー、北川本家が1996年にオープンした直営店。製造現場の乾蔵からタンクごと運んで来て瓶詰した量り売り原酒はここでしか買えない。今回は買ってないが、また今度買おうっと。ただし、期間限定なので事前チェックは必要。

橋を渡ると北側に坂本龍馬避難の材木小屋跡の碑。これも2009年に伏見観光協会が設置したもの。幕末の1866年に起きたあの有名な寺田屋事件で、襲われた龍馬が身を潜めた材木小屋がこの橋の反対側、今のおきな屋の南にあったと伝えられている。ただし、ここから500mほど上流の土橋付近と云う説もあるので、確かではない。

龍馬が約30人の伏見奉行配下の役人たちに寺田屋に踏み込まれたのは1866年の1月終わり(今の暦では3月初め)。なお、この時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失し、現在の建物はその東隣りに再建されたもの。武力で捕縛しようとする役人たちに護衛の長州藩の三吉(みよし)慎蔵が槍で応戦、龍馬もピストルで2人を撃ち殺し、両手に深い切り傷を負いながら、裏口から逃走。元々風邪で発熱していた龍馬は出血が重なり動けなくなり、慎蔵が連れ込んだのがその材木小屋。場所がこの大手橋のたもとなら寺田屋から500mほど、上流の土橋付近ならその倍の1㎞足らずあるので、状況を考えるとここのように私も思う。

多くは100人とも云われる奉行所の役人や捕り方が探索に駆け回る中で、もはや助かる道はなしと覚悟した慎蔵が切腹を進言したが、龍馬は死ぬ覚悟があるなら薩摩藩邸に駆け込むように指示する。「切腹でも敵に討たれるのも死ぬのは同じ。ならば、動ける限り生きようとしろ」ってことで、江戸時代の武士らしくないのがいいよな。この時諦めてたら船中八策は生まれなかったし、大政奉還にも至らなかっただろう。

龍馬の指示に従った慎蔵は濠川を約800m東北に上がったところにある薩摩藩邸に無事到着。すでにお龍(りょう)が寺田屋から駆け込み事件を知らせていたので、藩邸の留守居役がすぐ船を出し、龍馬を無事救出した。龍馬の傷は深く、翌日まで出血は止まらなかったそうだ。

その濠川(ほりかわ)だが、ごうかわとも呼ばれるが、元々はその名前通り、伏見城の外濠として開削された。現在は近鉄伏見駅の東、国道24号線沿いの伏見郵便局の南で琵琶湖疎水鴨川運河(墨染インクライン)の水が暗渠から流れ出すところから始まっているが、当初はそこより少し南で東に進み、現在の伏見北堀公園の辺りまで続いていたようだ。明治に入り1894年に川端通の冷泉放水口からの約9㎞の鴨川運河が完成し濠川と繋がった。

現在は大手橋の少し南で宇治川派流と分流し、濠川はそのまま南に流れ、伏見港公園の先で、三栖(みす)閘門(こうもん)と三栖洗堰に分かれ、宇治川に注ぎ込んでいる。下流部は宇治川派流の月桂冠大倉記念館の南から伏見十石舟遊覧船が、寺田屋の近くから伏見三十石舟遊覧船が三栖閘門折り返しで出ており、特に桜の季節は美しい。私らも2008年の4月に十石舟遊覧船に乗ったことがあるが、ホンマにきれいやった(下の写真2)。

龍馬たちが逃げ込んだ薩摩島津伏見屋敷だが、この屋敷も鳥羽伏見の戦いで焼失した。戦いが始まったあと、薩摩軍は旧幕軍の拠点である伏見奉行所近くの御香宮神社に移動したが、その間に会津藩兵らの襲撃を受け炎上した。大手橋から上流4本目の下板橋の西詰、清酒「名君」を製造する月桂冠グループの松山酒造の前にこれも伏見観光協会が設置した伏見薩摩藩邸跡の碑だけがその存在を示す。

薩摩藩だけでなく有力藩は京と伏見の両方に藩邸を置いており、寺田屋事件の時に西郷隆盛はここではなく、京の藩邸(現在の同志社大学今出川キャンパス)に滞在しており、翌朝になってこの知らせを受け、彼を知るまわりの者たちが生涯見たことがないほどの怒気を発したと云う。そして、引き渡しを断固拒否するため、薩摩藩自慢の英国式一個小隊を警護に送ったそうだ。

ちなみに、なんとか救出された龍馬は、お龍とともにこの藩邸で数日過ごし、その後、隆盛の勧めで約1ヶ月後に鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に滞在した。これが日本で最初の新婚旅行と云われている。

江戸時代、徳川将軍は3代家光以降は約230年間上洛せず、原則として諸大名の上洛も禁じていた。そのため、西国大名が参勤交代の往復で京都を通過する時にも京の都には入れなかった。薩摩藩の伏見藩邸は1670年までには建てられ、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地とされていた。

1853年9月末、宮崎あおい主演でNHK大河ドラマになった13代将軍徳川家定の正妻となる島津斉彬の養女篤姫(天璋院)が、薩摩から江戸にむかう途中に滞在したのもこの藩邸。1週間滞在した彼女は、この間に洛中の近衛家や黄檗の萬福寺を訪れた。この時満16歳だった彼女は江戸に入って以降、二度と故郷に戻ることはなく、箱根より西に出掛けることもなかったので、これが最後の京となった(下の写真3)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4681697165233604&type=1&l=223fe1adec


もう少し続く

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  • 写真1 おきな屋

    写真1 おきな屋

  • 写真2 三栖閘門の桜と十石舟遊覧船

    写真2 三栖閘門の桜と十石舟遊覧船

  • 写真3 伏見薩摩藩邸跡の碑

    写真3 伏見薩摩藩邸跡の碑

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