伏見旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2020年10月1日(木)の午後2時過ぎ、マイナーな伏見を観光中。近鉄桃山御陵前駅から伏見奉行所跡に建つ桃陵団地の横を通り、常盤御前就捕処の石標を過ぎたところで右折、西に向かう。近鉄の踏切を渡ると次の交差点の南西角に立派な古民家が建つ。日本酒の英勲で知られる伏見の蔵元、齋藤酒造の社長私邸だった家で、1868年の鳥羽伏見の戦いの直後に建てられた。<br /><br />現在は京町家でカジュアル京フレンチが楽しめる「水ノ雅 KYOTO FUSHIMI」と云うレストランになっている(下の写真1)。ここ、通った時には全然思い出さなかったのだが、3年半前に家族で来たことあったわ。その時はジビエ料理の店だった。なかなか良かったのに、閉店したんだ・・・<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1471688802901139&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />そんなことを思い出しもせずに西に進み、京阪の踏切を過ぎ、しばらく歩くと伏見夢百衆と云うカフェの前で道はL字に折れ、北に向かう。このカフェも以前行った。もう4年半前だが。大正8年(1919年)に建てられ、1993年まで酒造メーカー月桂冠の本社として使われた。石段で高くなっているのは、宇治川の氾濫による水害から建物を守るため。昔の宇治川は今よりはるかに水位が高かったんだ。<br /><br />本社移転の際に、地域の活用のために伏見の地酒を応援する店としてオープンし、伏見の酒蔵17蔵のお酒や日本酒スイーツ、仕込み水で淹れた珈琲などを提供している。冬季にはオススメ2種と新種の3銘柄のきき酒セットを提供しており、私はそれを飲んだ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1049517835118240&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />伏見夢百衆の1ブロック北に伏見土佐藩邸跡の碑が建つ。月桂冠情報センターの駐車場の一角に建っており、2009年に翌年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映前に伏見観光協会が設置したもの(下の写真2)。この南浜町の藩邸は藩主や正室・側室・腰元らの御殿ではなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられている。脱藩浪士であった龍馬は近くの船宿寺田屋を定宿としていたが、ここに立ち寄ることはなく、寺田屋事件で助けを求めたのも土佐藩でなく、薩摩藩だった。<br /><br />土佐藩の山内家は関ヶ原の戦いで徳川方に付き、その戦功で土佐国24万石を与えられた徳川家恩顧の大名であり、倒幕主流の薩長と同盟を結んでいたが、スタンスが違っていた。実際、鳥羽伏見の戦いが始まった時には、前藩主ながら実権を握っていた山内容堂は、これは薩摩・長州と会津・桑名の私闘であり、戦いに参加しないよう藩士たちに命じていた。しかし板垣退助を中心とした倒幕派は藩主の命令を無視して参戦、徳川軍が敗退したので、土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛をされ、後の明治政府では薩長土肥の3番手に座る。しかし、1、2番手と3番手の差はあまりにも大きかったのだ。<br /><br />それはさておき、伏見土佐藩邸跡から1本南の道に戻り、さらに西に進むと宇治川派流と云う運河と並ぶ。この運河は1594年の秀吉の伏見城築城に伴い、建築資材を運ぶために、宇治川の流路改修工事により造られたもので、伏見城の外堀であった濠川(ほりかわ)に繋がる。この宇治川派流と濠川、そして宇治川に囲まれている中州が京阪の特急停車駅の名前にもなっている中書島。<br /><br />宇治川派流は明治になるまでは宇治川上流から分流し、この先で濠川に合流し、濠川は南に向かって宇治川に流れ込んでいたが、現在は宇治川の水位が下がり、濠川から分流する逆の流れになり、平戸樋門で宇治川に流れ込んでいる。昭和になって狭められたが、かつての川幅は現在の倍ほどあり、この辺りは淀川を上って着く伏見港の中心地として蔵や旅籠が軒を連ね賑わっていた。<br /><br />蓬莱橋が架かるが、元の元禄期に建てられた太鼓橋は全長70mあったそうだ。蓬莱橋の北側の道は竜馬通り商店街になっている。1993年に南納屋町商店会が法人化を機に商店街の名称を変更したもの。<br /><br />橋の南詰には御大典記念埋立工事竣工記念碑。昭和3年(1923年)に当時の伏見町が、両岸の護岸は壊れ、塵芥が捨てられていた宇治川派流の整備を開始した。事業は翌年市制を敷いた伏見市に引き継がれ、市はその年11月の昭和天皇即位大典を記念して事業を完成させようと工事を急ぎ,翌年昭和5年(1925年)3月に竣工した。この碑は伏見町・伏見市による埋立工事竣工を記念するもの。<br /><br />なお、伏見市はその翌年に京都市と合併し、廃止された。伏見市が存在したのは2年足らずのわずか700日で、日本の市で最も短い期間に存在した市である(改称による市名の消滅は除く)。また、合併や編入によって日本で最初に消滅した市でもある。<br /><br />蓬莱橋の少し先に遊覧船三十石船の寺田屋浜乗船場があるが、その先に架かるのが京橋で、この辺りはかつての伏見港の中心だった(表紙の写真)。秀吉の時代に開かれた港は、江戸時代に入って京の市中とを結ぶ高瀬川が開削されて、ますます栄えた。この橋は大坂の京橋からの京街道の終点でもあり、伏見奉行の作事する公儀橋で、たもとには高札場もあったと云う。江戸時代には遊覧船でなく、大坂淀屋橋とを結ぶ本物の三十石船が1日2往復していた。鳥羽伏見の戦いの旧幕府軍の先鋒隊の会津藩士約200名が降り立ったのもこの港。<br /><br />京橋と蓬莱橋辺りには大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていた。しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が、民家に火を放ちながら淀方面に敗走したため、多くの家が焼かれた。伏見口の戦い激戦地跡の碑が建つ。<br /><br />京橋の少し南、西側の京都市伏見土木事務所の前に伏見長州藩邸跡の碑が建つ。これも伏見観光協会が2009年に設置したもの。江戸時代中期1699年の文書に長州藩に中書島の新地開発を許可したことが記されており、この時期以降にこの地に移転して来たものと考えられている。<br /><br />幕末の1864年7月、前年の八月十八日の政変によって京から追放されていた長州藩が巻き返しを図り禁門の変を起こす。長州藩家老の福原越後率いる約500名の兵はここから御所に進軍したが、会津藩や桑名藩、薩摩藩などと交戦し撤退、再び藩邸へと戻った。その後、京橋から彦根藩の砲撃を受けてこの藩邸は焼け落ちた。<br /><br />伏見長州藩邸跡とは京橋挟んで反対側、北100mほどのところに年代物の駿河屋本店の看板を掲げた店があるが、煉羊羹発祥の店とされる老舗の和歌山の和菓子店、総本家駿河屋の店舗(下の写真3)。<br /><br />総本家駿河屋はルーツが伏見で、室町時代中期の1461年創業。その後、江戸時代初期に徳川家康の十男、頼宣が初代藩主として紀州にお国入りした際に御用菓子司として共に移った。この店は現在は和歌山県外にあるの唯一の店舗で、江戸時代中期の1781年に諸大名の乗船待合所として分家開業したそうだ。伏見口の戦いでは焼けなかったのかしら?<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4681697165233604&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />まだまだマイナーな伏見が続く

京都 旧伏見港(Old Fushimi port, Fushimi, Kyoto, JP)

6いいね!

2020/10/01 - 2020/10/01

1257位(同エリア1764件中)

旅行記グループ 伏見

0

3

ちふゆ

ちふゆさん

2020年10月1日(木)の午後2時過ぎ、マイナーな伏見を観光中。近鉄桃山御陵前駅から伏見奉行所跡に建つ桃陵団地の横を通り、常盤御前就捕処の石標を過ぎたところで右折、西に向かう。近鉄の踏切を渡ると次の交差点の南西角に立派な古民家が建つ。日本酒の英勲で知られる伏見の蔵元、齋藤酒造の社長私邸だった家で、1868年の鳥羽伏見の戦いの直後に建てられた。

現在は京町家でカジュアル京フレンチが楽しめる「水ノ雅 KYOTO FUSHIMI」と云うレストランになっている(下の写真1)。ここ、通った時には全然思い出さなかったのだが、3年半前に家族で来たことあったわ。その時はジビエ料理の店だった。なかなか良かったのに、閉店したんだ・・・
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1471688802901139&type=1&l=223fe1adec

そんなことを思い出しもせずに西に進み、京阪の踏切を過ぎ、しばらく歩くと伏見夢百衆と云うカフェの前で道はL字に折れ、北に向かう。このカフェも以前行った。もう4年半前だが。大正8年(1919年)に建てられ、1993年まで酒造メーカー月桂冠の本社として使われた。石段で高くなっているのは、宇治川の氾濫による水害から建物を守るため。昔の宇治川は今よりはるかに水位が高かったんだ。

本社移転の際に、地域の活用のために伏見の地酒を応援する店としてオープンし、伏見の酒蔵17蔵のお酒や日本酒スイーツ、仕込み水で淹れた珈琲などを提供している。冬季にはオススメ2種と新種の3銘柄のきき酒セットを提供しており、私はそれを飲んだ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1049517835118240&type=1&l=223fe1adec

伏見夢百衆の1ブロック北に伏見土佐藩邸跡の碑が建つ。月桂冠情報センターの駐車場の一角に建っており、2009年に翌年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映前に伏見観光協会が設置したもの(下の写真2)。この南浜町の藩邸は藩主や正室・側室・腰元らの御殿ではなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられている。脱藩浪士であった龍馬は近くの船宿寺田屋を定宿としていたが、ここに立ち寄ることはなく、寺田屋事件で助けを求めたのも土佐藩でなく、薩摩藩だった。

土佐藩の山内家は関ヶ原の戦いで徳川方に付き、その戦功で土佐国24万石を与えられた徳川家恩顧の大名であり、倒幕主流の薩長と同盟を結んでいたが、スタンスが違っていた。実際、鳥羽伏見の戦いが始まった時には、前藩主ながら実権を握っていた山内容堂は、これは薩摩・長州と会津・桑名の私闘であり、戦いに参加しないよう藩士たちに命じていた。しかし板垣退助を中心とした倒幕派は藩主の命令を無視して参戦、徳川軍が敗退したので、土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛をされ、後の明治政府では薩長土肥の3番手に座る。しかし、1、2番手と3番手の差はあまりにも大きかったのだ。

それはさておき、伏見土佐藩邸跡から1本南の道に戻り、さらに西に進むと宇治川派流と云う運河と並ぶ。この運河は1594年の秀吉の伏見城築城に伴い、建築資材を運ぶために、宇治川の流路改修工事により造られたもので、伏見城の外堀であった濠川(ほりかわ)に繋がる。この宇治川派流と濠川、そして宇治川に囲まれている中州が京阪の特急停車駅の名前にもなっている中書島。

宇治川派流は明治になるまでは宇治川上流から分流し、この先で濠川に合流し、濠川は南に向かって宇治川に流れ込んでいたが、現在は宇治川の水位が下がり、濠川から分流する逆の流れになり、平戸樋門で宇治川に流れ込んでいる。昭和になって狭められたが、かつての川幅は現在の倍ほどあり、この辺りは淀川を上って着く伏見港の中心地として蔵や旅籠が軒を連ね賑わっていた。

蓬莱橋が架かるが、元の元禄期に建てられた太鼓橋は全長70mあったそうだ。蓬莱橋の北側の道は竜馬通り商店街になっている。1993年に南納屋町商店会が法人化を機に商店街の名称を変更したもの。

橋の南詰には御大典記念埋立工事竣工記念碑。昭和3年(1923年)に当時の伏見町が、両岸の護岸は壊れ、塵芥が捨てられていた宇治川派流の整備を開始した。事業は翌年市制を敷いた伏見市に引き継がれ、市はその年11月の昭和天皇即位大典を記念して事業を完成させようと工事を急ぎ,翌年昭和5年(1925年)3月に竣工した。この碑は伏見町・伏見市による埋立工事竣工を記念するもの。

なお、伏見市はその翌年に京都市と合併し、廃止された。伏見市が存在したのは2年足らずのわずか700日で、日本の市で最も短い期間に存在した市である(改称による市名の消滅は除く)。また、合併や編入によって日本で最初に消滅した市でもある。

蓬莱橋の少し先に遊覧船三十石船の寺田屋浜乗船場があるが、その先に架かるのが京橋で、この辺りはかつての伏見港の中心だった(表紙の写真)。秀吉の時代に開かれた港は、江戸時代に入って京の市中とを結ぶ高瀬川が開削されて、ますます栄えた。この橋は大坂の京橋からの京街道の終点でもあり、伏見奉行の作事する公儀橋で、たもとには高札場もあったと云う。江戸時代には遊覧船でなく、大坂淀屋橋とを結ぶ本物の三十石船が1日2往復していた。鳥羽伏見の戦いの旧幕府軍の先鋒隊の会津藩士約200名が降り立ったのもこの港。

京橋と蓬莱橋辺りには大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていた。しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が、民家に火を放ちながら淀方面に敗走したため、多くの家が焼かれた。伏見口の戦い激戦地跡の碑が建つ。

京橋の少し南、西側の京都市伏見土木事務所の前に伏見長州藩邸跡の碑が建つ。これも伏見観光協会が2009年に設置したもの。江戸時代中期1699年の文書に長州藩に中書島の新地開発を許可したことが記されており、この時期以降にこの地に移転して来たものと考えられている。

幕末の1864年7月、前年の八月十八日の政変によって京から追放されていた長州藩が巻き返しを図り禁門の変を起こす。長州藩家老の福原越後率いる約500名の兵はここから御所に進軍したが、会津藩や桑名藩、薩摩藩などと交戦し撤退、再び藩邸へと戻った。その後、京橋から彦根藩の砲撃を受けてこの藩邸は焼け落ちた。

伏見長州藩邸跡とは京橋挟んで反対側、北100mほどのところに年代物の駿河屋本店の看板を掲げた店があるが、煉羊羹発祥の店とされる老舗の和歌山の和菓子店、総本家駿河屋の店舗(下の写真3)。

総本家駿河屋はルーツが伏見で、室町時代中期の1461年創業。その後、江戸時代初期に徳川家康の十男、頼宣が初代藩主として紀州にお国入りした際に御用菓子司として共に移った。この店は現在は和歌山県外にあるの唯一の店舗で、江戸時代中期の1781年に諸大名の乗船待合所として分家開業したそうだ。伏見口の戦いでは焼けなかったのかしら?
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4681697165233604&type=1&l=223fe1adec


まだまだマイナーな伏見が続く

  • 写真1 齋藤家住宅

    写真1 齋藤家住宅

  • 写真2 伏見土佐藩邸跡の碑

    写真2 伏見土佐藩邸跡の碑

  • 写真3 駿河屋本店

    写真3 駿河屋本店

6いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP