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≪ホテルの部屋の鍵を壊し出られない。明日の列車出発に間に合うのか!≫<br /><br /><酔っぱらって、力任せにホテルの部屋の鍵を壊した><br /><br />この夜、明日は私がプリーンのゲーテ語学校に入校する為、日本人同僚の送別会があった。<br />わいわいと気分軽く、皆さんからの御酌を受けて、しっかり飲んだ。<br />夜半にホテルに帰って、いつものようにドアを閉めたのだが、酔った所為か?閉める際にツイ、無理な力が入ったのだろう。ドイツのがっちりした鍵が、なんと差し込んだままの鍵が途中から折れてしまった。<br /><br />さて、たいへん!困った!酔いも冷めてしまった。<br />慌てて、レセプションに電話をしたが、真夜中の小さなホテルは遅いから反応がない。誰も出てくれない。<br />会社近くの“ホテル”は中国料理のレストラン(ここの中華料理は美味しくて、よく食べた)を併設したホテルだった。太ったドイツ人の奥さんと中国人の夫で経営していた小規模のホテルでした。<br /><br />明日、ホテルの連中が早く起きてくれれば、対処が可能かもしれない。<br />だが、折れた鍵をどうするのか?鍵屋の手配がすぐできるのか?<br />様々に思っても相手無しでは困った、困ったで夜が明ける。<br /><br />このままだと明日の出発に間に合わない。プリーン行きの列車の切符は会社のデスクの中に置いてきたし、諸々の書類も残したままだ。<br />何としてもホテルを出て、会社には行かなければならない。考えているうちに、冷や汗が出てきた。絶体絶命かなと、悪く考えるばかり。<br />ともかく、ホテルをチェックアウトする準備だけは整え、酔いも飛んだ頭で考える。窓を開けて、飛び降りる事も考えたが、ちょっと高すぎるし、トランク2つ重さもあるから難しい。<br /><br />結局、まんじりともせずに朝を迎えた。それでも、ドイツ語で助けを呼ぶ、事情を説明する単語を調べ、文章を作った。<br /><br />2月2日の朝が明けた。<br />まだ冬の季節だがドイツ人の朝は早い。幸いなことに窓の外にドイツ人男性が出勤していくのが見えた。<br />これぞチャンスと、窓から身を乗り出し、大声を出して、彼を呼び止めた。事情を拙いドイツ語で説明する。分かったと彼が答えたのが聞こえて、急にホッとした。<br /><br />彼はすぐホテルの玄関側に回って、ホテルに知らせてくれたようで、何人かが近づく足音が聞こえ、私の部屋の戸が外から開いた。<br />興奮状態だった私、お礼を言うべき彼はもう会社に向かった後で、言葉を交わすこともなかった。危機を救って頂いた彼の顔も忘れてしまった。<br /><br />折れた鍵が入ったままのドアをどうやって外から開けたのか、覚えがない。この時は何やらバタバタといろんなことを一度にやった気分だった。トランクなど忘れ物が無いかもう一度チェックし、こちらはともかくほっとして、ホテルののチェックアウトをしたわけだが、太ったオーナー夫人は普段以上のぶっちょう面でホテル代を精算してくれた。<br /><br />それでも壊した鍵代までは請求されなかった!から、不思議だ。<br /><br />無事に出社し、事の顛末を前任者に申告した。<br />そして、前任者の車でDuesseldorfデュッセルドルフ駅に向かった。<br />心配顔の前任者の見送りを受けて、プリーン行きの列車は定刻に出発した。<br /><br />「今日はこの話で社内は盛り上がるだろうな」と、列車の席に座って、しょうもない事を思った。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑤授業中のクラスメートたち

daruma外伝・恥ずかしながら:ホテルの部屋の鍵を壊し出られない。明日の列車出発に間に合うのか!

51いいね!

1974/02/02 - 1974/03/29

4位(同エリア55件中)

jijidaruma

jijidarumaさん

≪ホテルの部屋の鍵を壊し出られない。明日の列車出発に間に合うのか!≫

<酔っぱらって、力任せにホテルの部屋の鍵を壊した>

この夜、明日は私がプリーンのゲーテ語学校に入校する為、日本人同僚の送別会があった。
わいわいと気分軽く、皆さんからの御酌を受けて、しっかり飲んだ。
夜半にホテルに帰って、いつものようにドアを閉めたのだが、酔った所為か?閉める際にツイ、無理な力が入ったのだろう。ドイツのがっちりした鍵が、なんと差し込んだままの鍵が途中から折れてしまった。

さて、たいへん!困った!酔いも冷めてしまった。
慌てて、レセプションに電話をしたが、真夜中の小さなホテルは遅いから反応がない。誰も出てくれない。
会社近くの“ホテル”は中国料理のレストラン(ここの中華料理は美味しくて、よく食べた)を併設したホテルだった。太ったドイツ人の奥さんと中国人の夫で経営していた小規模のホテルでした。

明日、ホテルの連中が早く起きてくれれば、対処が可能かもしれない。
だが、折れた鍵をどうするのか?鍵屋の手配がすぐできるのか?
様々に思っても相手無しでは困った、困ったで夜が明ける。

このままだと明日の出発に間に合わない。プリーン行きの列車の切符は会社のデスクの中に置いてきたし、諸々の書類も残したままだ。
何としてもホテルを出て、会社には行かなければならない。考えているうちに、冷や汗が出てきた。絶体絶命かなと、悪く考えるばかり。
ともかく、ホテルをチェックアウトする準備だけは整え、酔いも飛んだ頭で考える。窓を開けて、飛び降りる事も考えたが、ちょっと高すぎるし、トランク2つ重さもあるから難しい。

結局、まんじりともせずに朝を迎えた。それでも、ドイツ語で助けを呼ぶ、事情を説明する単語を調べ、文章を作った。

2月2日の朝が明けた。
まだ冬の季節だがドイツ人の朝は早い。幸いなことに窓の外にドイツ人男性が出勤していくのが見えた。
これぞチャンスと、窓から身を乗り出し、大声を出して、彼を呼び止めた。事情を拙いドイツ語で説明する。分かったと彼が答えたのが聞こえて、急にホッとした。

彼はすぐホテルの玄関側に回って、ホテルに知らせてくれたようで、何人かが近づく足音が聞こえ、私の部屋の戸が外から開いた。
興奮状態だった私、お礼を言うべき彼はもう会社に向かった後で、言葉を交わすこともなかった。危機を救って頂いた彼の顔も忘れてしまった。

折れた鍵が入ったままのドアをどうやって外から開けたのか、覚えがない。この時は何やらバタバタといろんなことを一度にやった気分だった。トランクなど忘れ物が無いかもう一度チェックし、こちらはともかくほっとして、ホテルののチェックアウトをしたわけだが、太ったオーナー夫人は普段以上のぶっちょう面でホテル代を精算してくれた。

それでも壊した鍵代までは請求されなかった!から、不思議だ。

無事に出社し、事の顛末を前任者に申告した。
そして、前任者の車でDuesseldorfデュッセルドルフ駅に向かった。
心配顔の前任者の見送りを受けて、プリーン行きの列車は定刻に出発した。

「今日はこの話で社内は盛り上がるだろうな」と、列車の席に座って、しょうもない事を思った。

写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑤授業中のクラスメートたち

旅行の満足度
5.0
交通手段
鉄道
  • 当時の駐在員は必ず、ドイツ勤務に先立ち、4~6ヶ月の期間、業務を離れてドイツ語学校に通った。<br /><br />私もドイツ語を学習する為(大学の教養課程で習ったささやかなドイツ語体験、それも成績は可・可で辛うじて単位取得である)、1974年の2月2日の朝早く会社に出てから、前任者の車でDuesseldorfデュッセルドルフ駅に向かった。<br /><br />心配顔の前任者の見送りを受けて、デュッセルドルフ駅から、IC列車(当時の特急)に長時間乗って、漸く着いたのはプリーン駅でした。<br />そこはもう日暮れて、真っ暗な、雪のPrienプリーンでした。乗り過ごさぬように一駅一駅を確認しながら着いたプリーンの駅で、列車から降り立ち、持参した二つのトランクの重さに苦労しながら、心細く、且つ、緊張しながら、予約していたホテル ワーグナーを目指したことなどが、今も懐かしく思い出される。<br /><br />私の場合は2ヶ月間の一番短い(例外扱い)ものでした。それは色々と背景があって、“早く業務引継ぎを行い、前任者をできるだけ早く返せ!”という当時の本社命令があった為で、いささか私としては、とばっちりを受けた思いがありました。<br /><br />・・・・・<br /><br />昨夜のチョンボを引きずっていた私はとても眠る余裕もなく、2つの大きなトランクを抱え、緊張のまゝ、列車に乗っていた。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:①Prien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)にむかうIC内とライン川の古城群を眠気覚ましに撮っていた。

    当時の駐在員は必ず、ドイツ勤務に先立ち、4~6ヶ月の期間、業務を離れてドイツ語学校に通った。

    私もドイツ語を学習する為(大学の教養課程で習ったささやかなドイツ語体験、それも成績は可・可で辛うじて単位取得である)、1974年の2月2日の朝早く会社に出てから、前任者の車でDuesseldorfデュッセルドルフ駅に向かった。

    心配顔の前任者の見送りを受けて、デュッセルドルフ駅から、IC列車(当時の特急)に長時間乗って、漸く着いたのはプリーン駅でした。
    そこはもう日暮れて、真っ暗な、雪のPrienプリーンでした。乗り過ごさぬように一駅一駅を確認しながら着いたプリーンの駅で、列車から降り立ち、持参した二つのトランクの重さに苦労しながら、心細く、且つ、緊張しながら、予約していたホテル ワーグナーを目指したことなどが、今も懐かしく思い出される。

    私の場合は2ヶ月間の一番短い(例外扱い)ものでした。それは色々と背景があって、“早く業務引継ぎを行い、前任者をできるだけ早く返せ!”という当時の本社命令があった為で、いささか私としては、とばっちりを受けた思いがありました。

    ・・・・・

    昨夜のチョンボを引きずっていた私はとても眠る余裕もなく、2つの大きなトランクを抱え、緊張のまゝ、列車に乗っていた。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:①Prien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)にむかうIC内とライン川の古城群を眠気覚ましに撮っていた。

  • 【Prienプリーンの思い出 ; 1974.2.2.~3.29.】<br />プリーンは観光地である。<br />世に名高いバイエルン王ルードヴィヒ二世の建てた新宮殿(第三番目の宮殿)Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城があるHerreninselヘレンインゼル(男島)への観光船が発着する所だ。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:Prien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)の周辺図・・・右手がミュンヘン方面、左手はオーストリアのザルツブルクになる。いずれも普通列車で1時間の距離だ。

    【Prienプリーンの思い出 ; 1974.2.2.~3.29.】
    プリーンは観光地である。
    世に名高いバイエルン王ルードヴィヒ二世の建てた新宮殿(第三番目の宮殿)Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城があるHerreninselヘレンインゼル(男島)への観光船が発着する所だ。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:Prien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)の周辺図・・・右手がミュンヘン方面、左手はオーストリアのザルツブルクになる。いずれも普通列車で1時間の距離だ。

  • ≪南ドイツ・バイエルン州プリーン・アム・キームゼーのゲーテ学校に学ぶ≫<br /><br />1974.02.02.~03.29.の2ヶ月間、Prienプリーン・Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥート語学校で学んだ。<br /><br />2月4日(月)ゲーテ・インスティトゥート語学校に入校。<br />2月5日(火)早速、下宿と語学校の中間にあったFahrschuleファーシューレ自動車学校に申し込み。毎週火曜日に法規の講座受講、本日が第1回、午後6時半から2時間。14日(木)語学校の放課後14時に第1回目の自動車運転開始(先生が横に座り教えながら、私が運転し市内に乗り出す。これは怖い)。<br />2月7日(木)ドイツ銀行プリーン支店に給与口座を開設。<br />こうしてプリーン・ゲーテ語学校時代が始まった。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:②左から時計回りに:プリーン駅と下宿の私、プリーン駅の通り、下宿の前後(下左右・・・左の2階中央の部屋が私の下宿部屋)<br /><br />

    ≪南ドイツ・バイエルン州プリーン・アム・キームゼーのゲーテ学校に学ぶ≫

    1974.02.02.~03.29.の2ヶ月間、Prienプリーン・Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥート語学校で学んだ。

    2月4日(月)ゲーテ・インスティトゥート語学校に入校。
    2月5日(火)早速、下宿と語学校の中間にあったFahrschuleファーシューレ自動車学校に申し込み。毎週火曜日に法規の講座受講、本日が第1回、午後6時半から2時間。14日(木)語学校の放課後14時に第1回目の自動車運転開始(先生が横に座り教えながら、私が運転し市内に乗り出す。これは怖い)。
    2月7日(木)ドイツ銀行プリーン支店に給与口座を開設。
    こうしてプリーン・ゲーテ語学校時代が始まった。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:②左から時計回りに:プリーン駅と下宿の私、プリーン駅の通り、下宿の前後(下左右・・・左の2階中央の部屋が私の下宿部屋)

  • このPrien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)が、私(家族も含めた)のドイツ生活の原点(ドイツ語学校)ですし、サラリーマン生活での起点になったようです。<br /><br />また、ドイツが好きになれたことが一番であったと思います。英語圏での最初の勤務も可能性としてありえましたが、結果的にドイツでハッピーでした。<br />と言っても、最初の年は半年の間(家族呼び寄せまで当時は6カ月が試用期間でした)、緊張のまま過ぎて行きました。<br /><br />ドイツ最初の思い出の地はプリーンと言って良いでしょう。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:下宿の家(左右・・・下の2階中央の部屋が私の下宿部屋)<br />

    このPrien am Chiemsee プリーン・アム・キームゼー(キーム湖畔のプリーン)が、私(家族も含めた)のドイツ生活の原点(ドイツ語学校)ですし、サラリーマン生活での起点になったようです。

    また、ドイツが好きになれたことが一番であったと思います。英語圏での最初の勤務も可能性としてありえましたが、結果的にドイツでハッピーでした。
    と言っても、最初の年は半年の間(家族呼び寄せまで当時は6カ月が試用期間でした)、緊張のまま過ぎて行きました。

    ドイツ最初の思い出の地はプリーンと言って良いでしょう。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:下宿の家(左右・・・下の2階中央の部屋が私の下宿部屋)

  • Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートはドイツ政府の文化・外交政策上の一拠点になっていて、ドイツ語学習の為の学校を世界各地に設けている。<br />現在は、ドイツ国内に13の都市に置かれているだけだが、昔はずっと多かった。また、昔は風光明媚で歴史旧跡のある小さな町々に拠点があったが、今は大都市中心に変わってしまったようだ。<br /><br />今、このプリーンにはゲーテ語学校はない。<br />こうした観光地に学校を冬場でも設けておくのはメリットもあると思うのだが。学ぶ生徒が減少してきているのだろうか?<br /><br />東京は http://www.goethe.de/ins/jp/tok/jaindex.htm<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:③プリーンの郊外と散歩道

    Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートはドイツ政府の文化・外交政策上の一拠点になっていて、ドイツ語学習の為の学校を世界各地に設けている。
    現在は、ドイツ国内に13の都市に置かれているだけだが、昔はずっと多かった。また、昔は風光明媚で歴史旧跡のある小さな町々に拠点があったが、今は大都市中心に変わってしまったようだ。

    今、このプリーンにはゲーテ語学校はない。
    こうした観光地に学校を冬場でも設けておくのはメリットもあると思うのだが。学ぶ生徒が減少してきているのだろうか?

    東京は http://www.goethe.de/ins/jp/tok/jaindex.htm

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:③プリーンの郊外と散歩道

  • もう40年以上前のことになる。2月5日から始まったドイツ語学習は一番下のクラスであったが、けっこうたいへんでした。<br />通常は試験を受けて、レベルに合ったクラスに入るのだが、私は最初から決めていた。やはり予想通り、まったく耳が聞けない・言われていることが分からないのは辛いものでした。<br />入校した皆は様々な思いを持って学んでいたわけですが、彼等の物おじしないところには驚いたものです。<br /><br />会社が期待していた?ほどには、私はドイツ語が上達しない、いささか不真面目な学生でした。<br />金曜日は午後から授業はないので、日曜日の夜までフルに使って、よく遠出をしたものです。プリーンはザルツブルグ、ミュンヘンの中間でしたので、どちらにも列車で一時間の距離でしたから。<br />(一応、前任者には絵葉書の短信で事後了解を取ったか格好だったが、絵葉書を見て前任者が肯定的に見ていたのか、あるいは否定的に心配していたのか・・・プリーンに向かう出発の際のバタバタを知っていたから、後者の方だったろう。<br />ただ、駐在期間を終えて、本社に戻った時も親しく、面倒を見て頂いたから、運動部出身どうし(彼はゴルフ部、私は格闘技の部)の面白味を感じていたのかもしれない)<br />これもドイツ生活に慣れる為に大事なことと、自分勝手の理屈で暇さえあれば、旅行に出ていたものでした。<br /><br />在校生の日本人も10人ほど、おりましたが、皆さん誠にまじめで、かつ優秀でもあり、ドイツの大学への留学を希望した人たちは皆、レベルが高いクラスを受講していました。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:5授業中のクラスメートたち…<br />左から時計回りに左上はイラン人、右上に私、旧ユーゴスラビアのDr.イートネンお医者さん(医科大学に留学希望)、インドネシア人イスモヨはホテルマン(コック)志望の3人、右下に休憩時間でしたが、自信なさげに寝ている私と左にイラン人エマニアン嬢及び留学希望の学生N氏の奥方(学生結婚していた)、左下に観光に来たというイギリス人、どんな志望だったか不明なタイ人、インド人、中国人、そして10人ほどいた留学志望の日本人や企業派遣のビジネスマンなど様々でした

    イチオシ

    もう40年以上前のことになる。2月5日から始まったドイツ語学習は一番下のクラスであったが、けっこうたいへんでした。
    通常は試験を受けて、レベルに合ったクラスに入るのだが、私は最初から決めていた。やはり予想通り、まったく耳が聞けない・言われていることが分からないのは辛いものでした。
    入校した皆は様々な思いを持って学んでいたわけですが、彼等の物おじしないところには驚いたものです。

    会社が期待していた?ほどには、私はドイツ語が上達しない、いささか不真面目な学生でした。
    金曜日は午後から授業はないので、日曜日の夜までフルに使って、よく遠出をしたものです。プリーンはザルツブルグ、ミュンヘンの中間でしたので、どちらにも列車で一時間の距離でしたから。
    (一応、前任者には絵葉書の短信で事後了解を取ったか格好だったが、絵葉書を見て前任者が肯定的に見ていたのか、あるいは否定的に心配していたのか・・・プリーンに向かう出発の際のバタバタを知っていたから、後者の方だったろう。
    ただ、駐在期間を終えて、本社に戻った時も親しく、面倒を見て頂いたから、運動部出身どうし(彼はゴルフ部、私は格闘技の部)の面白味を感じていたのかもしれない)
    これもドイツ生活に慣れる為に大事なことと、自分勝手の理屈で暇さえあれば、旅行に出ていたものでした。

    在校生の日本人も10人ほど、おりましたが、皆さん誠にまじめで、かつ優秀でもあり、ドイツの大学への留学を希望した人たちは皆、レベルが高いクラスを受講していました。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:5授業中のクラスメートたち…
    左から時計回りに左上はイラン人、右上に私、旧ユーゴスラビアのDr.イートネンお医者さん(医科大学に留学希望)、インドネシア人イスモヨはホテルマン(コック)志望の3人、右下に休憩時間でしたが、自信なさげに寝ている私と左にイラン人エマニアン嬢及び留学希望の学生N氏の奥方(学生結婚していた)、左下に観光に来たというイギリス人、どんな志望だったか不明なタイ人、インド人、中国人、そして10人ほどいた留学志望の日本人や企業派遣のビジネスマンなど様々でした

  • 留学志望の日本人や企業派遣のビジネスマンは、私をのぞくと皆さん基礎が出来ていたようで優秀でしたから、上級クラスにいました。<br />私と留学希望の学生の奥方(学生結婚して、そのまま留学したらしい)が一番下のクラスでした。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑥上左右にクラスメートと、下左右に歩いて15分のキームゼー湖畔の冬景色

    留学志望の日本人や企業派遣のビジネスマンは、私をのぞくと皆さん基礎が出来ていたようで優秀でしたから、上級クラスにいました。
    私と留学希望の学生の奥方(学生結婚して、そのまま留学したらしい)が一番下のクラスでした。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑥上左右にクラスメートと、下左右に歩いて15分のキームゼー湖畔の冬景色

  • <Fahrschuleファーシューレ・自動車学校><br /><br />当時の社長は万年赤字の会社再建もあって、「部長級のドイツの経験者を強く本社側に働きかけていた」と後で聞いただけに、30歳の若造には厳しかった。<br /><br />社長に強く言われていた自動車免許取得の事もあり、<br />(社長曰く;商社マンは業務知識、語学、そして三つ目に自動車免許だ;と赴任早々、机の上に長い足を靴ごと乗せて、パイプを吸いながら言われました。<br />社長はあとから知ったのですが、アメリカのニューヨーク駐在(機械出身)経験もある方で、社内では片言のドイツ語を話すだけで、殆ど英語で業務をこなしていた。紳士用帽子が似合い、カシミアのロングコートを着ても長身で格好が良く、紳士然としていました。我が大学の先輩(理工出)ながら、ちょっと苦手のタイプでした。<br />私は社内の海外要員試験も1年半前に合格していたので、業務上の知識は心配していなかったものの、語学のドイツ語は駄目、とても胸を張ってOKといえない、それに免許なしでは、公私ともにさすがにまずいだろう・・・と)<br />さっそく町の運転教室である自動車学校(先生一人の個人事業)に通いだして、落ち着かない日々をおくっていました。<br /><br />緊急時の救急講習も受けて判をもらい、法規の学習時間もあり、日本と変わらないのですが、何しろ、先生の言葉が何を言っているのかわからないのに、即、路上運転を始めるので、結構怖いものです。<br />まー、先生の方がきっと大変だったのでしょうが・・・。<br /><br />アウトバーン!走行練習にプリーンから30kmの大きな町Rosenheimローゼンハイムに行った日は、市街地でバスから降りた老人と危なく接触しそうになり、先生が急ブレーキを踏んで、事なきを得た事も今でも鮮やかに覚えています。<br />市電が停まっている際は、乗降客優先ですので、車を停止するのが正しいのですが、ドアが閉まってスタートする様子だったので何気なく、車を前進させようとしたのです。冷や汗をかきました。<br /><br />此処で事故の加害者になれば、「darumaのチョンボ」どころの話ではなくなるし、帰国命令も出たかもしれない。そうなったら、家族たちの期待に背く事にもなり、私を駐在員に推薦した本社の上司の顔を潰す事にもなったろう。<br />帰りの車内では先生も少々機嫌が悪く、お互いに必要以上に話さぬままプリーンに戻った。<br /><br />アウトバーンでの走行も教えて頂くなど、いろいろ親切にやってもらったのですが、2ヶ月では結局、免許取得まではいきませんでした。<br /><br /><下宿><br />プリーン・ゲーテ語学校が私に割り当てた下宿先は3階建ての建物で、1階にはお医者さんの診療所がありました。<br />2階北側に私の部屋があり、TVもラジオもなく、ただ清潔なシーツとベッドがある部屋です。勉学に専念?!する、一人部屋としては十分なものでした。<br />朝食は学校にある食堂(学校は給食付きだった)でいつも食べましたので、この下宿では賄いなしです。<br /><br />大家さんは年老いたお婆さんでした。お風呂は週二回か、三回入れたのですが、困ったのはボイラーが時限式で一定の湯が出てしまうと後は水になってしまうものです。冬の二月ですので、最初は知らずに入っていたので、頭を洗おうとしたのに、お湯が出てこなくなった時は往生したものです。シャンプーが付いたままの頭を仕方なく、冷たい水で洗うことになりました。<br /><br />何度もお婆さんに「お金を余分に払うから、何とかしてほしい」と交渉したのですが、うんと言ってもらえませんでした。ぜいたくな日本人は何を言うのか!!とお婆さんは思っていたのか・・・。<br />下宿の思い出はこれに尽きます。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:下宿の小母さんとFahrschuleファーシューレ自動車学校の先生(受講車はオペル車・・・免許取得後に私が初めて購入した車はオペル車です)

    イチオシ

    <Fahrschuleファーシューレ・自動車学校>

    当時の社長は万年赤字の会社再建もあって、「部長級のドイツの経験者を強く本社側に働きかけていた」と後で聞いただけに、30歳の若造には厳しかった。

    社長に強く言われていた自動車免許取得の事もあり、
    (社長曰く;商社マンは業務知識、語学、そして三つ目に自動車免許だ;と赴任早々、机の上に長い足を靴ごと乗せて、パイプを吸いながら言われました。
    社長はあとから知ったのですが、アメリカのニューヨーク駐在(機械出身)経験もある方で、社内では片言のドイツ語を話すだけで、殆ど英語で業務をこなしていた。紳士用帽子が似合い、カシミアのロングコートを着ても長身で格好が良く、紳士然としていました。我が大学の先輩(理工出)ながら、ちょっと苦手のタイプでした。
    私は社内の海外要員試験も1年半前に合格していたので、業務上の知識は心配していなかったものの、語学のドイツ語は駄目、とても胸を張ってOKといえない、それに免許なしでは、公私ともにさすがにまずいだろう・・・と)
    さっそく町の運転教室である自動車学校(先生一人の個人事業)に通いだして、落ち着かない日々をおくっていました。

    緊急時の救急講習も受けて判をもらい、法規の学習時間もあり、日本と変わらないのですが、何しろ、先生の言葉が何を言っているのかわからないのに、即、路上運転を始めるので、結構怖いものです。
    まー、先生の方がきっと大変だったのでしょうが・・・。

    アウトバーン!走行練習にプリーンから30kmの大きな町Rosenheimローゼンハイムに行った日は、市街地でバスから降りた老人と危なく接触しそうになり、先生が急ブレーキを踏んで、事なきを得た事も今でも鮮やかに覚えています。
    市電が停まっている際は、乗降客優先ですので、車を停止するのが正しいのですが、ドアが閉まってスタートする様子だったので何気なく、車を前進させようとしたのです。冷や汗をかきました。

    此処で事故の加害者になれば、「darumaのチョンボ」どころの話ではなくなるし、帰国命令も出たかもしれない。そうなったら、家族たちの期待に背く事にもなり、私を駐在員に推薦した本社の上司の顔を潰す事にもなったろう。
    帰りの車内では先生も少々機嫌が悪く、お互いに必要以上に話さぬままプリーンに戻った。

    アウトバーンでの走行も教えて頂くなど、いろいろ親切にやってもらったのですが、2ヶ月では結局、免許取得まではいきませんでした。

    <下宿>
    プリーン・ゲーテ語学校が私に割り当てた下宿先は3階建ての建物で、1階にはお医者さんの診療所がありました。
    2階北側に私の部屋があり、TVもラジオもなく、ただ清潔なシーツとベッドがある部屋です。勉学に専念?!する、一人部屋としては十分なものでした。
    朝食は学校にある食堂(学校は給食付きだった)でいつも食べましたので、この下宿では賄いなしです。

    大家さんは年老いたお婆さんでした。お風呂は週二回か、三回入れたのですが、困ったのはボイラーが時限式で一定の湯が出てしまうと後は水になってしまうものです。冬の二月ですので、最初は知らずに入っていたので、頭を洗おうとしたのに、お湯が出てこなくなった時は往生したものです。シャンプーが付いたままの頭を仕方なく、冷たい水で洗うことになりました。

    何度もお婆さんに「お金を余分に払うから、何とかしてほしい」と交渉したのですが、うんと言ってもらえませんでした。ぜいたくな日本人は何を言うのか!!とお婆さんは思っていたのか・・・。
    下宿の思い出はこれに尽きます。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:下宿の小母さんとFahrschuleファーシューレ自動車学校の先生(受講車はオペル車・・・免許取得後に私が初めて購入した車はオペル車です)

  • <映画><br />町には小さな映画館が一軒、駅の近くにあって、様々な映画を上映していました。少しはドイツ語の勉強にもなるかと考えて、見に行きました。<br />初めて見た映画は勿論、ドイツ語の吹き替えです。<br /><br />チャールズ・ブロンソンの西部劇で、彼が扮した流れ者が、“Ich heisse・・・俺の名は・・・だ”というシーンがあって、その言葉が私の耳にすっきり聞こえて、意味も理解でき、単純ですけど、妙に感激した覚えがあります。<br />もっとも、西部劇なのでシリアスなセリフのやり取りは少ないはずですが、映画を理解するには程遠いものでした。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:④左から時計回りにFahrschuleファーシューレ自動車学校の先生と下宿の小母さん、教会、到着時に1泊したホテル ワーグナー<br /><br />・・・・・<br /><br />

    <映画>
    町には小さな映画館が一軒、駅の近くにあって、様々な映画を上映していました。少しはドイツ語の勉強にもなるかと考えて、見に行きました。
    初めて見た映画は勿論、ドイツ語の吹き替えです。

    チャールズ・ブロンソンの西部劇で、彼が扮した流れ者が、“Ich heisse・・・俺の名は・・・だ”というシーンがあって、その言葉が私の耳にすっきり聞こえて、意味も理解でき、単純ですけど、妙に感激した覚えがあります。
    もっとも、西部劇なのでシリアスなセリフのやり取りは少ないはずですが、映画を理解するには程遠いものでした。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:④左から時計回りにFahrschuleファーシューレ自動車学校の先生と下宿の小母さん、教会、到着時に1泊したホテル ワーグナー

    ・・・・・

  • ゲーテ語学校は金曜日の午後から週末にかけて休みになる。<br />学校にも徐々に慣れて、某生保(私の会社と同じ企業グループにあった)の派遣生のO氏(私より年輩だった。後に常務取締役・保険計理人)と示し合わせて、週末を利用して各地に出かけるようになっていた。<br />Chiemseeキームゼー湖畔にあるPrienプリーンから電車で1時間と近いミュンヘンやザルツブルクには日帰りで、ウィーン、インスブルックなどにも1泊しながら電車を利用して行きました。<br />勿論、目的地はドイツ語圏で、一応今後の勉強に生かすという建前の旅である。<br />以下がその当時の旅の記録だ。<br /><br />≪Salzburgザルツブルク日帰り観光≫<br />1974年2月16日(土)<br />8時20分プリーン駅を出発<br /><br />オーストリア・ザルツブルクは電車で1時間と近い。<br />ザルツブルクの旧市街・モーツァルトの生家のあるゲトライデ通り、モーツァルト広場の銅像、ホーエンザルツブルク城に登って、市街地を俯瞰する。<br />当時はフィルム写真の為、撮った写真も多くはない。<br />もう皆セピア色となってしまった。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑦ザルツブルクの旧市街・ホーエンザルツブルク城観光

    ゲーテ語学校は金曜日の午後から週末にかけて休みになる。
    学校にも徐々に慣れて、某生保(私の会社と同じ企業グループにあった)の派遣生のO氏(私より年輩だった。後に常務取締役・保険計理人)と示し合わせて、週末を利用して各地に出かけるようになっていた。
    Chiemseeキームゼー湖畔にあるPrienプリーンから電車で1時間と近いミュンヘンやザルツブルクには日帰りで、ウィーン、インスブルックなどにも1泊しながら電車を利用して行きました。
    勿論、目的地はドイツ語圏で、一応今後の勉強に生かすという建前の旅である。
    以下がその当時の旅の記録だ。

    ≪Salzburgザルツブルク日帰り観光≫
    1974年2月16日(土)
    8時20分プリーン駅を出発

    オーストリア・ザルツブルクは電車で1時間と近い。
    ザルツブルクの旧市街・モーツァルトの生家のあるゲトライデ通り、モーツァルト広場の銅像、ホーエンザルツブルク城に登って、市街地を俯瞰する。
    当時はフィルム写真の為、撮った写真も多くはない。
    もう皆セピア色となってしまった。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑦ザルツブルクの旧市街・ホーエンザルツブルク城観光

  • ≪雪景色のインスブルックとリヒテンシュタインの旅≫<br />1974年2月22日(金)~24日(日)<br /><br />2泊3日の予定でRepublik Oesterreichオーストリア共和国チロル州の州都Innsbruckインスブルック、Fuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国の首都Vaduzファドゥーツに出かけた。<br /><br />2月22日(金):小雨<br />今度は少々長い行程を列車に乗って出かけることにした。この旅も某生保の派遣生のO氏と示し合わせての旅だった。<br /><br />午前中の授業終了後、自動車運転の練習をしてから、プリーンを午後2時23分のミュンヘン行きに乗った。<br />そしてRosenheimローゼンハイムで一時間半も乗り継ぎ列車を待ち、Kufsteinクフシュタイン経由インスブルック行きの急行に乗った。<br /><br />途中、ミュンヘンで働いているという土木関係者の小父さんと話す。日本人ということもあって、親切にインスブルックの事などを教えてくれた。<br />そうしているうちに夕刻の18時26分にインスブルック駅に到着した。<br /><br /><Hotel Maria Theresia ホテル マリア テレジア ><br />Maria Theresienstr. 31, Innsbruck 6020, Austria <br />4星・全102室。室料As230+朝食37+夕食124.5=391.5・・換算DM1=As7.2<br /><br />中央駅まで約1km。インスブルックのメインストリートにあたるマリア・テレジア通りにある。<br />1906年開業の歴史あるホテルは凱旋門など市内の主な観光スポットまで徒歩数分の距離にあり、大変便利だった。<br />ホテルのレストランで夕食を食べた。ワイン1本を二人で空けて、十分満足したのだったが・・・。<br /><br />2月23日(土):朝方は小雪、その後小雨の寒い一日。<br />朝から大変だった。<br />というのも、昨夜の夕食はレストランで支払い済みだったが、この朝、レセプションでチェックアウトすると、請求書がいやに高い。中身を調べてみると、昨夜の夕食分が加算されていたのだ。<br /><br />二重取りなので、慌ててクレームする。ホテル側の言い分は夕食代の請求書にサインがされていて、その意味は部屋代と一緒に支払うという意思表示なのだと言う。酔った所為で分からぬままに、不慣れなサインをしてしまったようだ。<br />ここで引き下がるわけにもいかず、手元のドイツマルクからオーストリア通貨に換算した明細、様々な支払いの領収書、手持ちの所持金などを見せて、夕食代を支払ったことを納得してもらった。<br /><br />二人で不自由なドイツ語を使っての交渉だったが、ともあれ良い勉強になった。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑩左から時計回りにインスブルックの中心街マリアテレジア通りの南端にある凱旋門、リヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツのカーニバル、帰宅したプリーンの下宿 (下左右・・・右の2階中央の部屋が私の下宿部屋)<br />

    ≪雪景色のインスブルックとリヒテンシュタインの旅≫
    1974年2月22日(金)~24日(日)

    2泊3日の予定でRepublik Oesterreichオーストリア共和国チロル州の州都Innsbruckインスブルック、Fuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国の首都Vaduzファドゥーツに出かけた。

    2月22日(金):小雨
    今度は少々長い行程を列車に乗って出かけることにした。この旅も某生保の派遣生のO氏と示し合わせての旅だった。

    午前中の授業終了後、自動車運転の練習をしてから、プリーンを午後2時23分のミュンヘン行きに乗った。
    そしてRosenheimローゼンハイムで一時間半も乗り継ぎ列車を待ち、Kufsteinクフシュタイン経由インスブルック行きの急行に乗った。

    途中、ミュンヘンで働いているという土木関係者の小父さんと話す。日本人ということもあって、親切にインスブルックの事などを教えてくれた。
    そうしているうちに夕刻の18時26分にインスブルック駅に到着した。

    <Hotel Maria Theresia ホテル マリア テレジア >
    Maria Theresienstr. 31, Innsbruck 6020, Austria
    4星・全102室。室料As230+朝食37+夕食124.5=391.5・・換算DM1=As7.2

    中央駅まで約1km。インスブルックのメインストリートにあたるマリア・テレジア通りにある。
    1906年開業の歴史あるホテルは凱旋門など市内の主な観光スポットまで徒歩数分の距離にあり、大変便利だった。
    ホテルのレストランで夕食を食べた。ワイン1本を二人で空けて、十分満足したのだったが・・・。

    2月23日(土):朝方は小雪、その後小雨の寒い一日。
    朝から大変だった。
    というのも、昨夜の夕食はレストランで支払い済みだったが、この朝、レセプションでチェックアウトすると、請求書がいやに高い。中身を調べてみると、昨夜の夕食分が加算されていたのだ。

    二重取りなので、慌ててクレームする。ホテル側の言い分は夕食代の請求書にサインがされていて、その意味は部屋代と一緒に支払うという意思表示なのだと言う。酔った所為で分からぬままに、不慣れなサインをしてしまったようだ。
    ここで引き下がるわけにもいかず、手元のドイツマルクからオーストリア通貨に換算した明細、様々な支払いの領収書、手持ちの所持金などを見せて、夕食代を支払ったことを納得してもらった。

    二人で不自由なドイツ語を使っての交渉だったが、ともあれ良い勉強になった。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑩左から時計回りにインスブルックの中心街マリアテレジア通りの南端にある凱旋門、リヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツのカーニバル、帰宅したプリーンの下宿 (下左右・・・右の2階中央の部屋が私の下宿部屋)

  • 夕食代でトラブったホテルを出て、午前中いっぱいインスブルックの旧市街観光をしたが、当時、土曜日はお店も閉めてしまうので、寒い日でもあり、博物館にも入る気分になれず、結局、リヒテンシュタインに向かうことになった。<br /><br />城好きなので、ここは外せない。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑧1974年2月23日リヒテンシュタイン公国の首都のファドゥーツ城

    夕食代でトラブったホテルを出て、午前中いっぱいインスブルックの旧市街観光をしたが、当時、土曜日はお店も閉めてしまうので、寒い日でもあり、博物館にも入る気分になれず、結局、リヒテンシュタインに向かうことになった。

    城好きなので、ここは外せない。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑧1974年2月23日リヒテンシュタイン公国の首都のファドゥーツ城

  • 写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑧ファドゥーツ城、2月23日(土)1泊した古城ホテル<br /><br /><Hotel Schloessleホテル シュレッスル><br />Fuerst-Franz-Josef-Strasse 68 、FL 9490 Vaduz 、<br />Fuerstentum Liechtenstein<br />室料(朝食込み)Sf42.5+夕食39=81.5・・・換算DM1=Sf1.1<br /><br />調べてみると、この名のホテルはなく、かつての建物はSCHLOESSLE MAHAL <br />Indisches Restaurantインド料理のレストラン マハルに変わっていた。<br />

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑧ファドゥーツ城、2月23日(土)1泊した古城ホテル

    <Hotel Schloessleホテル シュレッスル>
    Fuerst-Franz-Josef-Strasse 68 、FL 9490 Vaduz 、
    Fuerstentum Liechtenstein
    室料(朝食込み)Sf42.5+夕食39=81.5・・・換算DM1=Sf1.1

    調べてみると、この名のホテルはなく、かつての建物はSCHLOESSLE MAHAL
    Indisches Restaurantインド料理のレストラン マハルに変わっていた。

  • 2月24日(日):小雪<br />首都ファドゥーツからバスでスイスのBuchsブフスに抜け、そこから列車でシャーン=>フェルトキルヒ=>インスブルック=>クフシュタイン=>ローゼンハイムと、来たルートで夕方プリーンに帰った。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑨左はリヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツ城(1974年2月23日の私)、中央と右の写真は1975年8月14日夏の休暇で家族と再訪した写真<br /><br />

    2月24日(日):小雪
    首都ファドゥーツからバスでスイスのBuchsブフスに抜け、そこから列車でシャーン=>フェルトキルヒ=>インスブルック=>クフシュタイン=>ローゼンハイムと、来たルートで夕方プリーンに帰った。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑨左はリヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツ城(1974年2月23日の私)、中央と右の写真は1975年8月14日夏の休暇で家族と再訪した写真

  • ≪ミュンヘン、ローテンブルク、新白鳥城、チューリッヒ ・カーニバル観光≫<br />1974年3月1日(金)~3月3日(日)<br /><br />プリーンのゲーテ語学学校に居た2ヶ月の間、一度仲間K氏がオンボロのカブトムシVWに私とO氏を乗せて2泊3日の旅に出た。<br />故障もなくよく走ったカブトムシを持っていたのは神戸の貴金属店の息子さんK氏で、長身で豪快な方でした。こっちは免許証が取れていないから、3日間ずっと乗せてもらったわけだ。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑪左から時計回りにミュンヘン、ローテンブルク観光・・・この時、ローテンブルクの市庁舎の塔に登った!

    ≪ミュンヘン、ローテンブルク、新白鳥城、チューリッヒ ・カーニバル観光≫
    1974年3月1日(金)~3月3日(日)

    プリーンのゲーテ語学学校に居た2ヶ月の間、一度仲間K氏がオンボロのカブトムシVWに私とO氏を乗せて2泊3日の旅に出た。
    故障もなくよく走ったカブトムシを持っていたのは神戸の貴金属店の息子さんK氏で、長身で豪快な方でした。こっちは免許証が取れていないから、3日間ずっと乗せてもらったわけだ。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑪左から時計回りにミュンヘン、ローテンブルク観光・・・この時、ローテンブルクの市庁舎の塔に登った!

  • ノイシュヴァンシュタイン城を訪れています。<br />1974年3月3日(日)だったので、門は閉まっていました。この時の写真を見ると雪も残り、前任者に頂いた皮コート姿で雪道を登っています。<br />今は冬季でも開館しているのか?冬の景観も素晴しいでしょう。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑫右上から時計回りに雪の新白鳥城、チューリッヒ観光 ・カーニバル

    イチオシ

    ノイシュヴァンシュタイン城を訪れています。
    1974年3月3日(日)だったので、門は閉まっていました。この時の写真を見ると雪も残り、前任者に頂いた皮コート姿で雪道を登っています。
    今は冬季でも開館しているのか?冬の景観も素晴しいでしょう。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑫右上から時計回りに雪の新白鳥城、チューリッヒ観光 ・カーニバル

  • ≪ウィーン駐在員事務所訪問と観光≫<br />1974年3月22日(金)~24日(日):2泊3日<br /><br />ウィーン西駅に午後8時に到着。<br /><br />ウィーン駐在員事務所に、かつて日本で親しく、世話になった2年先輩(鉄鋼本部出身)のIさんが居られたので、ドイツ赴任時にIさんに挨拶状を出していた。<br />「ゲーテ語学学校にいる間に是非来い」と連絡もあって、語学学校も3月末で終了する、最後のタイミングで訪問した。<br /><br />写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑬左から時計回りにウィーン観光 :シュテファン大聖堂、マリア・テレジア広場と銅像、勇士の広場、シェーンブルン宮殿・庭園とめぼしい場所を見て回った。

    ≪ウィーン駐在員事務所訪問と観光≫
    1974年3月22日(金)~24日(日):2泊3日

    ウィーン西駅に午後8時に到着。

    ウィーン駐在員事務所に、かつて日本で親しく、世話になった2年先輩(鉄鋼本部出身)のIさんが居られたので、ドイツ赴任時にIさんに挨拶状を出していた。
    「ゲーテ語学学校にいる間に是非来い」と連絡もあって、語学学校も3月末で終了する、最後のタイミングで訪問した。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑬左から時計回りにウィーン観光 :シュテファン大聖堂、マリア・テレジア広場と銅像、勇士の広場、シェーンブルン宮殿・庭園とめぼしい場所を見て回った。

  • 写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑭左から時計回りにウィーン観光:ブルク公園、オペラ座、プリーンに戻る列車で(ひげ面とおさらば!)、職場復帰後、前任者たちとイースター休日にオランダ・コイケンコフを見物。<br /><br />1974年3月26日(火)この日、午後6時半から8時半までの2時間、自動車学校の法規を受講した。結局、免許を取るまでに進まず、デュッセルドルフに戻って、再挑戦となる。手荷物3kg会社宛てに郵送。<br />3月27日(水)前任者の家族帰国。<br />3月28日(木)最後の運転実技講習を受講(23回目の終了=>受講証明書を頂き、講習料DM672支払い。<br />3月29日(金)プリーン・ゲーテ語学校終了。<br />3月30日(土)TEE24ミュンヘン発10:41でデュッセルドルフに戻る。<br />デュッセルドルフ駅で前任者の出迎えを受ける。<br />3月31日(日)11時社長宅で会議、前任者と一緒に出席。<br />4月1日(月)前任者と業務引き継ぎを開始。<br />社内の連中から、さて≪ドイツ語がどれだけ上達したか?≫といった目で見られている。困ったことに、外部からの電話に出るも、会社名、人名がドイツ語の単語として頭に浮かばず、理解できない始末だった。<br />テープレコーダーに会話(自分の声)を録音し、下宿に帰って聞くが、何しゃべっているのやらといったもの。<br />4月2日(火)市内のドイツ人宅に引っ越し・下宿開始。<br />(当社グループ企業の駐在員たちが利用していて、他に2人が下宿していた。裏手の庭園が見える2階の比較的広い、気分の良い部屋で、浴室・トイレが共有以外はまずまず満足だった。夕食は遅い帰宅だったから、通常外食をしたが、下宿は朝食つきで頼めば夕食(ドイツ的な)も可能のようだった。掃除・洗濯はオーナー夫人がドイツの家庭婦人の見事さを発揮してやってくれた)<br />4月4日(木)当地の自動車学校に申し込み。仕事の時間とどれだけうまく両立できるか?不安のままスタートした。先生はプリーンの先生よりも年輩の方で、とても親切だったが、仕事がらみで、時に受講を急にキャンセルする私に困った奴だと思っていただろう。<br /><br />ともあれ、2ヶ月のプリーン・ゲーテ語学校という業務猶予期間は過ぎてしまい、4月と共に駐在員として早い独り立ちが望まれていたのだ。

    写真はプリーン・ゲーテ語学校時代:⑭左から時計回りにウィーン観光:ブルク公園、オペラ座、プリーンに戻る列車で(ひげ面とおさらば!)、職場復帰後、前任者たちとイースター休日にオランダ・コイケンコフを見物。

    1974年3月26日(火)この日、午後6時半から8時半までの2時間、自動車学校の法規を受講した。結局、免許を取るまでに進まず、デュッセルドルフに戻って、再挑戦となる。手荷物3kg会社宛てに郵送。
    3月27日(水)前任者の家族帰国。
    3月28日(木)最後の運転実技講習を受講(23回目の終了=>受講証明書を頂き、講習料DM672支払い。
    3月29日(金)プリーン・ゲーテ語学校終了。
    3月30日(土)TEE24ミュンヘン発10:41でデュッセルドルフに戻る。
    デュッセルドルフ駅で前任者の出迎えを受ける。
    3月31日(日)11時社長宅で会議、前任者と一緒に出席。
    4月1日(月)前任者と業務引き継ぎを開始。
    社内の連中から、さて≪ドイツ語がどれだけ上達したか?≫といった目で見られている。困ったことに、外部からの電話に出るも、会社名、人名がドイツ語の単語として頭に浮かばず、理解できない始末だった。
    テープレコーダーに会話(自分の声)を録音し、下宿に帰って聞くが、何しゃべっているのやらといったもの。
    4月2日(火)市内のドイツ人宅に引っ越し・下宿開始。
    (当社グループ企業の駐在員たちが利用していて、他に2人が下宿していた。裏手の庭園が見える2階の比較的広い、気分の良い部屋で、浴室・トイレが共有以外はまずまず満足だった。夕食は遅い帰宅だったから、通常外食をしたが、下宿は朝食つきで頼めば夕食(ドイツ的な)も可能のようだった。掃除・洗濯はオーナー夫人がドイツの家庭婦人の見事さを発揮してやってくれた)
    4月4日(木)当地の自動車学校に申し込み。仕事の時間とどれだけうまく両立できるか?不安のままスタートした。先生はプリーンの先生よりも年輩の方で、とても親切だったが、仕事がらみで、時に受講を急にキャンセルする私に困った奴だと思っていただろう。

    ともあれ、2ヶ月のプリーン・ゲーテ語学校という業務猶予期間は過ぎてしまい、4月と共に駐在員として早い独り立ちが望まれていたのだ。

  • 以降はおまけ、プリーンに再訪した其々です。<br /><br />≪南独、オーストリア、スイス巡り≫<br />1975年8月9日~8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行<br /><br />さて、駐在二年目に入ると、車にも少し自信が出てきて、夏の休暇は初めて大きな旅行をしました。<br />当時、私共は31歳、娘たちは5歳と3歳でした。<br /><br />赴任して、家族を連れて最初に行きたかったのはロマンチック街道であり、更に東に走りバイエルンの州都ミュンヘン、私が学んだゲーテ・ドイツ語学校のあったキームゼー湖畔のプリーンでした。<br /><br />その後、オーストリアに入りザルツブルク、チロルのインスブルックを訪ね、いったんドイツの新白鳥城を見て、リヒテンシュタイン公国、スイスのチューリッヒ、ルツェルン、人気の高い山ユングフラウヨッホに登山列車で登り、氷河を見て、首都ベルン等の地を巡った盛りだくさんの旅でした。<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行:Chiemseeキームゼー湖周辺図<br />中央にキームゼー湖とプリーン、左下にペンションに泊まったフラスドロフ。

    以降はおまけ、プリーンに再訪した其々です。

    ≪南独、オーストリア、スイス巡り≫
    1975年8月9日~8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行

    さて、駐在二年目に入ると、車にも少し自信が出てきて、夏の休暇は初めて大きな旅行をしました。
    当時、私共は31歳、娘たちは5歳と3歳でした。

    赴任して、家族を連れて最初に行きたかったのはロマンチック街道であり、更に東に走りバイエルンの州都ミュンヘン、私が学んだゲーテ・ドイツ語学校のあったキームゼー湖畔のプリーンでした。

    その後、オーストリアに入りザルツブルク、チロルのインスブルックを訪ね、いったんドイツの新白鳥城を見て、リヒテンシュタイン公国、スイスのチューリッヒ、ルツェルン、人気の高い山ユングフラウヨッホに登山列車で登り、氷河を見て、首都ベルン等の地を巡った盛りだくさんの旅でした。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行:Chiemseeキームゼー湖周辺図
    中央にキームゼー湖とプリーン、左下にペンションに泊まったフラスドロフ。

  • この旅で是非訪れたかったプリーンのゲーテ・ドイツ語学校でした。<br />ゲーテ・インスティテュート(ドイツ語学校)は寒い2月(1974年)でしたから、観光のオフシーズンであり、周辺は静かなものでした。<br /><br />だから、プリーン・キームゼーの景観を楽しんだのは1年半経ってからでした。<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行・キームゼー湖の夏景色とAschauアッシャウ近くの1669mのKampenwandカンペンバンド山

    この旅で是非訪れたかったプリーンのゲーテ・ドイツ語学校でした。
    ゲーテ・インスティテュート(ドイツ語学校)は寒い2月(1974年)でしたから、観光のオフシーズンであり、周辺は静かなものでした。

    だから、プリーン・キームゼーの景観を楽しんだのは1年半経ってからでした。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・キームゼー湖の夏景色とAschauアッシャウ近くの1669mのKampenwandカンペンバンド山

  • 8月11日(月)晴れ <br />観光シーズンのプリーン(人口10千人)の町中ではホテルが取れず、離れた場所に移動しながら、ホテルを探し、結局、新しいペンションを漸く見つけて泊った。フラスドロフはプリーンから南に10kmの小村であり、A8のアウトバーンを越えた山中にあった。<br /><br />Frasdorfフラスドロフ 泊;<br /><Pension Kampenwandペンション カンペンバンド>  <br />全9室<br />Familie Anton Bruckner <br />D-83112 Frasdorfフラスドロフ ・Simsseestrasse 18<br /><br />ペンション カンペンバンドの名はAschauアッシャウ近くの1669mのKampenwandカンペンバンドから取ったようだ。<br />バイエルン風のペンションは快適だった。<br />http://www.pension-kampenwand.de/<br />ホテルを予約せずに旅に出るのは、気分でその時良いと思うホテルに泊まることができますが、時には観光シーズンや、見本市や各種の催しで、行くホテル行くホテルで断わられるのは困ります。家内がホテルを探す担当でしたから、私と娘たちは車で待機し、家内は大いに嫌がったものです。<br /><br />8月12日(火)小雨後曇り<br /><br /><Chiemseeキームゼー観光><br />朝から小雨模様で、肌寒し。娘たちはレインコートを着て、船に乗る。<br />8月の観光シーズンだったが、写真を見ると、ヘレンキームゼー城の観光客はまことに少ない。<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行・Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城に向かう。左から時計回りにプリーンの船着き場、ペンション カンペンバンド、森の道を馬車が通る、ヘレンキームゼー(男島)に上る。

    8月11日(月)晴れ 
    観光シーズンのプリーン(人口10千人)の町中ではホテルが取れず、離れた場所に移動しながら、ホテルを探し、結局、新しいペンションを漸く見つけて泊った。フラスドロフはプリーンから南に10kmの小村であり、A8のアウトバーンを越えた山中にあった。

    Frasdorfフラスドロフ 泊;
    <Pension Kampenwandペンション カンペンバンド>  
    全9室
    Familie Anton Bruckner
    D-83112 Frasdorfフラスドロフ ・Simsseestrasse 18

    ペンション カンペンバンドの名はAschauアッシャウ近くの1669mのKampenwandカンペンバンドから取ったようだ。
    バイエルン風のペンションは快適だった。
    http://www.pension-kampenwand.de/
    ホテルを予約せずに旅に出るのは、気分でその時良いと思うホテルに泊まることができますが、時には観光シーズンや、見本市や各種の催しで、行くホテル行くホテルで断わられるのは困ります。家内がホテルを探す担当でしたから、私と娘たちは車で待機し、家内は大いに嫌がったものです。

    8月12日(火)小雨後曇り

    <Chiemseeキームゼー観光>
    朝から小雨模様で、肌寒し。娘たちはレインコートを着て、船に乗る。
    8月の観光シーズンだったが、写真を見ると、ヘレンキームゼー城の観光客はまことに少ない。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城に向かう。左から時計回りにプリーンの船着き場、ペンション カンペンバンド、森の道を馬車が通る、ヘレンキームゼー(男島)に上る。

  • Herreninsel男島にあるヘレンキームゼー宮殿(バイエルン国王ルートヴィヒ2世の建てた三番目の宮殿・未完の部分が残る)を見た。<br /><br />フランス太陽王ルイ14世に心酔していたルートヴィヒ2世が建てた宮殿だが、鏡の大広間・ヴェルサイユ宮殿よりも22mも長く立派な様子に圧倒された。<br />Latonabrunnenラトナ(太陽神Apolloと月の女神Dianaの母)の噴水がある。亀やカエル、海神と思われる像がラトナ神を二重三重に囲み、それらの口から水を噴き上げている。<br /><br />森の中を往きは徒歩20分を歩き、帰途は娘たちが喜んだ観光馬車に乗った<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行・左から時計回りにヘレンキームゼー城の正面、ラトナ(太陽神Apolloと月の女神Dianaの母)の噴水、宮殿内の階段室、雨も上がったヘレンキームゼー城

    Herreninsel男島にあるヘレンキームゼー宮殿(バイエルン国王ルートヴィヒ2世の建てた三番目の宮殿・未完の部分が残る)を見た。

    フランス太陽王ルイ14世に心酔していたルートヴィヒ2世が建てた宮殿だが、鏡の大広間・ヴェルサイユ宮殿よりも22mも長く立派な様子に圧倒された。
    Latonabrunnenラトナ(太陽神Apolloと月の女神Dianaの母)の噴水がある。亀やカエル、海神と思われる像がラトナ神を二重三重に囲み、それらの口から水を噴き上げている。

    森の中を往きは徒歩20分を歩き、帰途は娘たちが喜んだ観光馬車に乗った

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・左から時計回りにヘレンキームゼー城の正面、ラトナ(太陽神Apolloと月の女神Dianaの母)の噴水、宮殿内の階段室、雨も上がったヘレンキームゼー城

    ヘレンキームゼー城 城・宮殿

    懐かしのプリーン:キームゼー湖の男島に見事なルードヴィヒ二世の宮殿がある。 by jijidarumaさん
  • 鏡の大広間:<br />77mの鏡の大広間はベルサイユより22mも長く、32の金メッキの燭台、33のクリスタルのシャンデリア、1000の蝋燭、豪華さはベルサイユを越えるものである。天井を飾る25ものルイ14世の壁画もあり、何時来てもその豪華さに驚く。<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行・Herreninselヘレンインゼル(男島)のヘレンキームゼー城内

    鏡の大広間:
    77mの鏡の大広間はベルサイユより22mも長く、32の金メッキの燭台、33のクリスタルのシャンデリア、1000の蝋燭、豪華さはベルサイユを越えるものである。天井を飾る25ものルイ14世の壁画もあり、何時来てもその豪華さに驚く。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・Herreninselヘレンインゼル(男島)のヘレンキームゼー城内

  • 鏡の大広間の立派な様子に圧倒された。<br />写真を撮るのに邪魔な観光客がいないのが、今思えばすごい。<br /><br />写真は1975年8月夏の休暇旅行・ヘレンキームゼー城:左から時計回りに有名な鏡の間、王の寝間、プリーン駅から船着き場まで汽車が出ている。

    鏡の大広間の立派な様子に圧倒された。
    写真を撮るのに邪魔な観光客がいないのが、今思えばすごい。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・ヘレンキームゼー城:左から時計回りに有名な鏡の間、王の寝間、プリーン駅から船着き場まで汽車が出ている。

  • 写真は1975年8月夏の休暇旅行・南ドイツからオーストリア、スイスを巡る:左から時計回りに:ヘレンキームゼー城・鏡の間、ザルツブルク・パパゲーノの泉、ノイシュヴァンシュタイン新白鳥城:城内の宝物(当時は写真撮影は自由だった)、インスブルック=≫オーストリアとドイツの国境近くの町Lermoosレルモーズで。<br />

    イチオシ

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・南ドイツからオーストリア、スイスを巡る:左から時計回りに:ヘレンキームゼー城・鏡の間、ザルツブルク・パパゲーノの泉、ノイシュヴァンシュタイン新白鳥城:城内の宝物(当時は写真撮影は自由だった)、インスブルック=≫オーストリアとドイツの国境近くの町Lermoosレルモーズで。

  • 写真は1975年8月夏の休暇旅行・ヘレンキームゼー城の俯瞰・・・右上に船着き場、旧城、その間の森を通り、新宮殿に至る。宮殿の正面に“栄誉の庭園“があり、<br />左上に大きな入り江は見えるが、ルートヴィヒ2世は此処から上陸したと云う。

    写真は1975年8月夏の休暇旅行・ヘレンキームゼー城の俯瞰・・・右上に船着き場、旧城、その間の森を通り、新宮殿に至る。宮殿の正面に“栄誉の庭園“があり、
    左上に大きな入り江は見えるが、ルートヴィヒ2世は此処から上陸したと云う。

  • ≪南独、オーストリア巡り≫<br />2004年4月21日~5月4日の2週間<br /><br />南ドイツとオーストリアをドイツ・バイエルン国王ルードヴィヒ2世とオーストリア皇妃エリザベート・・・愛称 “シシー”を巡る旅と称して、レンタカー(メルセデス・ベンツ2000CC)の旅をしたことがある。<br />珍しく、家内の友人親子が御一緒した、4人の旅でした。<br /><br />快晴に恵まれ、男島への20分程の船旅も心地よく、新緑の中をヘレンキムゼー宮殿へ向かう道も弾むような気持ちだ。<br /><br />写真はHerreninselヘレンインゼル(男島)の船着場近くのAltes Schloss旧城を背景に<br /><br />*Altes Schloss旧城は765年、バイエルン公Tassilo三世がベネディクト修道院を建てた事に始まる。その後ザルツブルグ大司教により、1130年頃バロック様式の4つの翼を持った建物・Augutiner-Chorherrenstiftアウグスティノ司教座参事会修道院に変った。<br /><br />1948年にはこの城の食堂の間にてドイツ連邦共和国(1949年設立)の憲法草案会議が持たれたと云う。<br />バロック様式の4つの翼を持った建物のうち、東と南の翼にあたる建物は1998年に博物館となり、バロックの豪華な図書館、壁画のある皇帝の広間、ルードヴィヒ二世の寝室(ここのは他に比して質素なもの)などが見られる。

    ≪南独、オーストリア巡り≫
    2004年4月21日~5月4日の2週間

    南ドイツとオーストリアをドイツ・バイエルン国王ルードヴィヒ2世とオーストリア皇妃エリザベート・・・愛称 “シシー”を巡る旅と称して、レンタカー(メルセデス・ベンツ2000CC)の旅をしたことがある。
    珍しく、家内の友人親子が御一緒した、4人の旅でした。

    快晴に恵まれ、男島への20分程の船旅も心地よく、新緑の中をヘレンキムゼー宮殿へ向かう道も弾むような気持ちだ。

    写真はHerreninselヘレンインゼル(男島)の船着場近くのAltes Schloss旧城を背景に

    *Altes Schloss旧城は765年、バイエルン公Tassilo三世がベネディクト修道院を建てた事に始まる。その後ザルツブルグ大司教により、1130年頃バロック様式の4つの翼を持った建物・Augutiner-Chorherrenstiftアウグスティノ司教座参事会修道院に変った。

    1948年にはこの城の食堂の間にてドイツ連邦共和国(1949年設立)の憲法草案会議が持たれたと云う。
    バロック様式の4つの翼を持った建物のうち、東と南の翼にあたる建物は1998年に博物館となり、バロックの豪華な図書館、壁画のある皇帝の広間、ルードヴィヒ二世の寝室(ここのは他に比して質素なもの)などが見られる。

  • ≪ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊≫<br />:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る: <br />期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅<br /><br />4.23 (水) 曇り時々小雨 12℃、<br /><br />2008年の春、バイエルンのプリーンを久しぶりに訪問した。<br />市内にあった語学学校Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートや、2ヶ月の間、学校に通った時に下宿した家、そしてFahrschuleファーシューレ自動車学校(ドイツはどの町にも先生一人の小さな学校がある)などを見て回ったが、34年前の記憶は不鮮明で、どれ一つ特定できなかった。<br />             <br />XXXXX<br /><br /><お茶:キームゼー湖畔の”Hotel Schillerホテル・シラー”で><br />湖畔のプロムナードに面して、ホテル・シラーのカフェがある。<br />Apfelkuchenアプフェルクーヘン・リンゴのケーキとチョコレートケーキを紅茶と共に楽しんだ。<br />(15~15:30 Euro12 )。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖畔のホテル・シラーのカフェでお茶

    ≪ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊≫
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅

    4.23 (水) 曇り時々小雨 12℃、

    2008年の春、バイエルンのプリーンを久しぶりに訪問した。
    市内にあった語学学校Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートや、2ヶ月の間、学校に通った時に下宿した家、そしてFahrschuleファーシューレ自動車学校(ドイツはどの町にも先生一人の小さな学校がある)などを見て回ったが、34年前の記憶は不鮮明で、どれ一つ特定できなかった。
                 
    XXXXX

    <お茶:キームゼー湖畔の”Hotel Schillerホテル・シラー”で>
    湖畔のプロムナードに面して、ホテル・シラーのカフェがある。
    Apfelkuchenアプフェルクーヘン・リンゴのケーキとチョコレートケーキを紅茶と共に楽しんだ。
    (15~15:30 Euro12 )。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖畔のホテル・シラーのカフェでお茶

  • 観光地は年々、整備されている。Fraueninselフラウエンインゼル(女島)からの定期船がPrien-Stockプリーン・シュトックの港に入ってくるのが見える。その先はアルプスの山並みがかすかに霞んで見えている。日差しも出てきて、嬉しい。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖の観光船

    観光地は年々、整備されている。Fraueninselフラウエンインゼル(女島)からの定期船がPrien-Stockプリーン・シュトックの港に入ってくるのが見える。その先はアルプスの山並みがかすかに霞んで見えている。日差しも出てきて、嬉しい。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖の観光船

  • 写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖の観光船

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖の観光船

  • 4.24  (木)  快晴 15℃、<br />Aschauアッシャウ観光の予定を変更し、今日もPrienに向かった。アッシャウを9:50スタートし、L?17km でPrienプリーンには10:10到着し、船着き場前の大きな駐車場に車を停めた。<br /><br />Prien-Stock10:30発の観光船・Rudorf号でHerreninsel男島に向かう。<br />(Prien -&gt;Herreninsel・15分、往復Euro12.6 )<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・船着き場

    4.24 (木)  快晴 15℃、
    Aschauアッシャウ観光の予定を変更し、今日もPrienに向かった。アッシャウを9:50スタートし、L?17km でPrienプリーンには10:10到着し、船着き場前の大きな駐車場に車を停めた。

    Prien-Stock10:30発の観光船・Rudorf号でHerreninsel男島に向かう。
    (Prien ->Herreninsel・15分、往復Euro12.6 )

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・船着き場

  • 天気も良く2004年の時を思い出す。<br />あの時はもっと、緑も濃い春たけなわでしたが・・・。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・プリーンの町

    天気も良く2004年の時を思い出す。
    あの時はもっと、緑も濃い春たけなわでしたが・・・。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・プリーンの町

  • 写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・プリーンの町

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・プリーンの町

  • 写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・観光船

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖・観光船

  • 男島の北東に位置する桟橋に着くと、大勢の観光客が桟橋そばの切符売場の前に参集している。様々な国の言葉が聞こえてきて、世界的に名高い観光地であることを再認識した。<br /><br />十分時間のある一日となったので、切符売場ではルードヴィヒ二世の宮殿:ガイド付き見学 、併設のルードヴィヒ二世博物館、Altes Schloss博物館の特別展の通し切符を購入した。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿・船着き場

    男島の北東に位置する桟橋に着くと、大勢の観光客が桟橋そばの切符売場の前に参集している。様々な国の言葉が聞こえてきて、世界的に名高い観光地であることを再認識した。

    十分時間のある一日となったので、切符売場ではルードヴィヒ二世の宮殿:ガイド付き見学 、併設のルードヴィヒ二世博物館、Altes Schloss博物館の特別展の通し切符を購入した。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿・船着き場

  • 島は殆どが森におおわれた自然公園になっており、古くはケルト人が居住したことを示すRingwall周壁が南に残る。<br />私どもは森の小道を辿って、宮殿に向かう。<br />切符売場から宮殿にはゆっくり歩いて20分の道だ。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿に向かう。

    島は殆どが森におおわれた自然公園になっており、古くはケルト人が居住したことを示すRingwall周壁が南に残る。
    私どもは森の小道を辿って、宮殿に向かう。
    切符売場から宮殿にはゆっくり歩いて20分の道だ。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿に向かう。

  • <Herrenchiemseeヘレンキムゼー宮殿 ・ルードヴィヒ二世の宮殿><br />ガイド付き見学<br />フランスの太陽王ルイ14世を尊敬したバイエルン王LudwigsⅡ世・ルードヴィヒ二世(1864~86年在位)はChiemseeキムゼー湖上に浮かぶ240haの島を買い取り、フランスの名高いベルサイユ宮殿を模した第三の城(宮殿)の建設を1878年、開始する。<br />金を5kgも使う等、王国の国家財政を傾けるほどの建設費であったために(当時の金で35万Guldenグルデン・今に換算すると3億5千万ユーロ=595億円!と、私にはガイドの説明が聞こえたが?!)、1885年途中で建設をストップされ、未完成部分を残している。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿をバックに。<br /><br />さて、Neues Schlossルードヴィヒ二世の新宮殿は70室の内、50室は未完成なのだと云う。これほど未完成部分が多いのは今まで知らなかった。<br />ドイツ語のガイドであったが、ロシアからの団体も一緒で、団体の添乗員がガイドのドイツ語をロシア語に訳して、説明していた。<br />さて、30分と短めな案内が始まる。<br /><br />南の階段の間:ベルサイユ宮殿の階段を模したもので、豪華絢爛の階段。今はベルサイユ宮殿には階段はないと云う。また、ベルサイユ宮殿の階段にはない、独創的なデザインとして天井をガラス張りにしたことで陽光をとりいれて、ギリシャ風の彫像が立ち、一段と豪華さを増したと云われる。<br />第一謁見の間:大きなシャンデリア、鏡、絵画で飾られた部屋。<br />第二謁見の間:ルイ14世の騎馬像がある。<br />会議の間:孔雀の見事な彫像が見られる。<br />親衛兵の間:護衛の兵の部屋。<br />王の寝室:豪華なものだが実際にはここでは寝なかったそうだ。ここのTapeten壁掛けは25人の職人が7年をかけて織ったものだと云う。<br />執務室:王の執務室。実際に実務を執り行ったかは???ルイ14世の肖像画がある。<br />鏡の大広間:77mの鏡の大広間はベルサイユより22mも長く、32の金メッキの燭台、33のクリスタルのシャンデリア、1000の蝋燭、豪華さはベルサイユを越えるものである。天井を飾る25ものルイ14世の壁画もあり、何時来てもその豪華さに驚く。<br />王の寝室:もう一つの寝室が実際に休んだ王の寝室。金刺繍の豪華さは変わらないもの。<br />食事の間:王一人で食事をする為、人を介在させずに、下の厨房から料理をエレベーターで運んだ(魔法の食卓と言われたそうだ)とは驚きである。<br />マイセンのシャンデリアの下で、立派なマイセンの花瓶に囲まれて、王は孤独な時間を過ごしたようだ。<br />地下台所と温泉プール(王の浴室):たった7日間しか宮殿に滞在しなかったルードヴィヒ二世はプールも2、3日しか利用されなかったそうだが、大理石で作られた2mの深さのプールです。ベルサイユ宮殿にはトイレもなかったそうですが、“バイエルンのベルサイユ”宮殿にはトイレもあり、こうしたプールまで備わっていたのです。<br />衣服の間と階段:シャンデリアと金色に輝く部屋は王の寝室につながる階段がある。<br />北の階段の間:王の死によって、未完成のままで放置されたままである。煉瓦の壁がむき出しのままで、南階段の間との落差は大きい。   <br />その他にも陶磁器の間、小ギャラリーの間、青の間、戦争の間、平和の間などの豪華絢爛な部屋を見て回りました。   (11:35~12:05)<br /><br />ルードヴィヒ二世はこの宮殿にはたった7日しか滞在しなかったと云うが、本日のガイドは10日、他の観光本では9日とあって、良くわからぬ。<br />王らしい7日にした。<br />

    <Herrenchiemseeヘレンキムゼー宮殿 ・ルードヴィヒ二世の宮殿>
    ガイド付き見学
    フランスの太陽王ルイ14世を尊敬したバイエルン王LudwigsⅡ世・ルードヴィヒ二世(1864~86年在位)はChiemseeキムゼー湖上に浮かぶ240haの島を買い取り、フランスの名高いベルサイユ宮殿を模した第三の城(宮殿)の建設を1878年、開始する。
    金を5kgも使う等、王国の国家財政を傾けるほどの建設費であったために(当時の金で35万Guldenグルデン・今に換算すると3億5千万ユーロ=595億円!と、私にはガイドの説明が聞こえたが?!)、1885年途中で建設をストップされ、未完成部分を残している。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿をバックに。

    さて、Neues Schlossルードヴィヒ二世の新宮殿は70室の内、50室は未完成なのだと云う。これほど未完成部分が多いのは今まで知らなかった。
    ドイツ語のガイドであったが、ロシアからの団体も一緒で、団体の添乗員がガイドのドイツ語をロシア語に訳して、説明していた。
    さて、30分と短めな案内が始まる。

    南の階段の間:ベルサイユ宮殿の階段を模したもので、豪華絢爛の階段。今はベルサイユ宮殿には階段はないと云う。また、ベルサイユ宮殿の階段にはない、独創的なデザインとして天井をガラス張りにしたことで陽光をとりいれて、ギリシャ風の彫像が立ち、一段と豪華さを増したと云われる。
    第一謁見の間:大きなシャンデリア、鏡、絵画で飾られた部屋。
    第二謁見の間:ルイ14世の騎馬像がある。
    会議の間:孔雀の見事な彫像が見られる。
    親衛兵の間:護衛の兵の部屋。
    王の寝室:豪華なものだが実際にはここでは寝なかったそうだ。ここのTapeten壁掛けは25人の職人が7年をかけて織ったものだと云う。
    執務室:王の執務室。実際に実務を執り行ったかは???ルイ14世の肖像画がある。
    鏡の大広間:77mの鏡の大広間はベルサイユより22mも長く、32の金メッキの燭台、33のクリスタルのシャンデリア、1000の蝋燭、豪華さはベルサイユを越えるものである。天井を飾る25ものルイ14世の壁画もあり、何時来てもその豪華さに驚く。
    王の寝室:もう一つの寝室が実際に休んだ王の寝室。金刺繍の豪華さは変わらないもの。
    食事の間:王一人で食事をする為、人を介在させずに、下の厨房から料理をエレベーターで運んだ(魔法の食卓と言われたそうだ)とは驚きである。
    マイセンのシャンデリアの下で、立派なマイセンの花瓶に囲まれて、王は孤独な時間を過ごしたようだ。
    地下台所と温泉プール(王の浴室):たった7日間しか宮殿に滞在しなかったルードヴィヒ二世はプールも2、3日しか利用されなかったそうだが、大理石で作られた2mの深さのプールです。ベルサイユ宮殿にはトイレもなかったそうですが、“バイエルンのベルサイユ”宮殿にはトイレもあり、こうしたプールまで備わっていたのです。
    衣服の間と階段:シャンデリアと金色に輝く部屋は王の寝室につながる階段がある。
    北の階段の間:王の死によって、未完成のままで放置されたままである。煉瓦の壁がむき出しのままで、南階段の間との落差は大きい。   
    その他にも陶磁器の間、小ギャラリーの間、青の間、戦争の間、平和の間などの豪華絢爛な部屋を見て回りました。   (11:35~12:05)

    ルードヴィヒ二世はこの宮殿にはたった7日しか滞在しなかったと云うが、本日のガイドは10日、他の観光本では9日とあって、良くわからぬ。
    王らしい7日にした。

  • 宮殿正面に“栄誉の庭園“があり、Kanal(Grand Canal運河)の入江に面している。入江から、王はいつも夜中に上陸し、衛兵達が後向きに整列する中を宮殿に向かったそうです。<br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿の入り江が遠くに見える。

    宮殿正面に“栄誉の庭園“があり、Kanal(Grand Canal運河)の入江に面している。入江から、王はいつも夜中に上陸し、衛兵達が後向きに整列する中を宮殿に向かったそうです。

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿の入り江が遠くに見える。

  • 幸福の女神の噴水を見ていると日本人ご夫婦が近付いて、声をかけてきた。<br />同年齢の日本人と思われたようで、“昔、ミュンヘンに駐在していまして、久しぶりに当時のドイツ人同僚夫婦と共に、観光にやって来たのです。”と言われていた。日本人に向こうから声をかけられたのは大変珍しい。 <br /><br />写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿の栄誉の庭園・右手にFortunabrunnen幸福の女神の噴水は晴れやかな彫像を見せていた。

    幸福の女神の噴水を見ていると日本人ご夫婦が近付いて、声をかけてきた。
    同年齢の日本人と思われたようで、“昔、ミュンヘンに駐在していまして、久しぶりに当時のドイツ人同僚夫婦と共に、観光にやって来たのです。”と言われていた。日本人に向こうから声をかけられたのは大変珍しい。 

    写真は2008年の春プリーンのキームゼー湖:ヘレンキムゼー宮殿の栄誉の庭園・右手にFortunabrunnen幸福の女神の噴水は晴れやかな彫像を見せていた。

  • 併設のルードヴィヒ二世博物館は1986年、王の死後100年を記念し、開館された。従って、私どもの在独時代には無かったものです。<br />2004年に訪れた際もザルツブルグへの道を急いだので、見ていない。ガイドなしの自由見学です。<br />宮殿南翼一階の12室を展示場にして、王の誕生から悲劇的な死に至るまで、王の肖像画、胸像、歴史を語る写真、豪華な王の衣装が整然と、且つ豪華に陳列されていた。<br />展示場の中でも最も目を引く展示はミュンヘンのResidenzレジデンツ宮殿で使用していた王の豪華な家具類と、リンダーホーフ宮殿で最初に使用した豪華な王の寝室だった。<br /><br />この博物館でノイシュヴァンシュタイン新白鳥城・リンダーホーフ宮殿・Herrenchiemseeヘレンキームゼー宮殿の三つの城・宮殿や、<br />新白鳥城近くに第四の城・Burg Falkensteinファルケンシュタイン城を計画していた様々な資料を見ることができる。<br /><br />写真はヘレンキームゼー城の宮殿:Ludwigルートヴィヒ二世の構想だけに終わったBurg Falkensteinファルケンシュタイン城の絵。<br />・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2020年9月14日編集・加筆)

    併設のルードヴィヒ二世博物館は1986年、王の死後100年を記念し、開館された。従って、私どもの在独時代には無かったものです。
    2004年に訪れた際もザルツブルグへの道を急いだので、見ていない。ガイドなしの自由見学です。
    宮殿南翼一階の12室を展示場にして、王の誕生から悲劇的な死に至るまで、王の肖像画、胸像、歴史を語る写真、豪華な王の衣装が整然と、且つ豪華に陳列されていた。
    展示場の中でも最も目を引く展示はミュンヘンのResidenzレジデンツ宮殿で使用していた王の豪華な家具類と、リンダーホーフ宮殿で最初に使用した豪華な王の寝室だった。

    この博物館でノイシュヴァンシュタイン新白鳥城・リンダーホーフ宮殿・Herrenchiemseeヘレンキームゼー宮殿の三つの城・宮殿や、
    新白鳥城近くに第四の城・Burg Falkensteinファルケンシュタイン城を計画していた様々な資料を見ることができる。

    写真はヘレンキームゼー城の宮殿:Ludwigルートヴィヒ二世の構想だけに終わったBurg Falkensteinファルケンシュタイン城の絵。
    ・・・・・・・・・・・・

    (2020年9月14日編集・加筆)

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