2018/07/28 - 2018/07/28
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frau.himmelさん
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ヘレンキームゼーと言うと、ルートヴィヒ2世が国の財政を顧みず造らせた豪華絢爛なヘレンキームゼー城(新城)が思い浮かびます.が、古い修道院を改装した(旧城)のことはあまり知られていません。
ルートヴィヒ2世は旧城に滞在して、新しい豪華なお城の建設を望遠鏡で眺めて楽しんでいたそうです。
そのルートヴィヒのダイニングルームでドイツ憲法が生まれたと聞けば驚きますよね。
1948年8月10日から25日の間、この部屋で、西側占領政府の命令を受け西ドイツ各州の専門家が集まり、西ドイツ憲法の草案が創られました。そして後に「基本法」として公布され、西ドイツの憲法となりました。
1990年10月に東西ドイツが統一された際には、旧西ドイツの基本法が適用されたのですから、キームゼー会議で草案された基本法は、現在のドイツの憲法なのですね。従って、ドイツ憲法は、旧宮殿のルートヴィッヒ2世の居間で生まれたと言っても過言ではありませんよね。
プリーンからミュンヘンに帰ったらマリエン広場へ直行。新市庁舎の5時の仕掛け時計に間に合いました。
その後ラーツケラーで食事をして、ヴィクトアーリエンマルクで、木陰の下のビアガーデンでミュンヘンっ子のパワーに圧倒され、お馴染みのマイバウムを見て、ホテルに帰りました。
なかなか実りある一日だったと思います。
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絢爛豪華なヘレンキームゼー城とルートヴィヒ2世博物館を見学したあとは、再び馬車に乗ります。
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美しく手入れされた花壇、続々やってくる観光客、森の中でピクニックしている人々、対向馬車とのすれ違い。
馬車は楽ちん楽ちん。 -
馬着き場に到着した私たちは、丘の上に建つあの赤い屋根のお城に向かいます。
ここは今回私がどうしても訪れたかったところです。 -
出発前に、ここに、ドイツ現代史の重要な博物館があることを知りました。
ヘレンキームゼー城は何度も訪れていたのに、今まで全くそのことは知らずに通り過ぎていた場所でした。
木立の中を抜けて入り口に向かいます。 -
Augustiner-Chorherrenstift。アウグスティナー・カノン修道院(と訳してありましたのでこれを使います)博物館、旧宮殿。
アルプス北部で最も古い修道院でしたが、現在は博物館になっています。ヘレンキムーゼー城のチケットで入場できます。 -
チケットを見せて、中に入ります。廊下には大きな鐘がデーンと置かれています。
そうだ、ここは修道院だったんだ。 -
バロック様式の図書館ホール、豪華ですね~。
ヨハン・バプテスト・ツィンマーマンの作だそうです。 -
漆喰の白い壁には磔刑のキリスト像、左は聖ネポムクでしょうか。
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別の壁には宗教画が何枚も飾られてます。
右は十字架を背負ってゴルゴダの丘に引き立てられるキリスト。
左は十字架にかけられたキリスト。 -
天井のフレスコ画も素晴らしい。
キリストの復活でしょうか? -
この図書館ホールはコンサート会場などにも使われているようです。
時間があればゆっくりバロックを鑑賞したいけど、気が急く私は息子たちに「ゆっくり見てきて!」と言い残して一人部屋を出る。 -
係員に日本でプリントしてきた写真を見せて、この会議場はどこにあるのか?と聞くと、ビックリしたような顔をした。この日本のおばちゃんがドイツのそんな歴史に興味を持っているとは思わなかったのでしょう。
そして私をこっちにおいでと手招きして、まずここを見て、次に1階と2階に会議関係の部屋があるから、ゆっくり見てね、と大変親切に教えてくれた。 -
私が行きたかった場所は「憲法博物館」、ここキームゼーの旧宮殿にその部屋はあるのです。
そしてここで、戦後のドイツ連邦共和国の憲法の草案が作られたのです。
廊下のテレビでは終戦当時の映像を流していました。
フロッセンビュルク強制収容所がアメリカ軍によって1945年4月に解放されたことを写しています。 -
壁には戦後のドイツの出来事の説明が写真と共に展示してあります。
1945年5月8日、ドイツは連合軍に無条件降伏をしました。
そして米英仏ソの4カ国により分割統治されることになりました。 -
写真は、廃墟となったミュンヘンのニュンフェンブルク通りのライオン像。
戦争から帰ってきた兵士。
廃墟の壁に戦勝国である米英仏ソの国旗が掲げられた。
ニュルンベルク裁判、1945年11月。
私にとっては一つ一つ興味がある事がらなので、ついつい見入ってしまいます。 -
戦勝国4か国の占領地。
赤はソ連、水色はアメリカ、左側薄い黄色は英国、下の黄色はフランスの各占領地。 -
連合軍軍政期時代の旗。
ドイツ降伏(1945.5.8)から東西ドイツの成立(1949年)までの間の4か国による占領統治時代に使われた旗。 -
しかし主義主張が異なる4か国の統治はスムーズではありませんでした。
社会主義のソ連占領による東ドイツと、資本主義の米英仏の占領による西ドイツに分断してしまいました。
決定的だったのは1948年、アメリカ主導による西側地区で通貨改革が行われ、新通貨ドイツマルクが発行されたこと。 -
これにソ連が猛反発し、ベルリンを封鎖。東西対立は一層深刻化していきました。
写真は、孤立した西ベルリン市民に対し、アメリカは大空輸作戦で物資を輸送し、危機を救いました。 -
そのような中、西側占領政府は、西ドイツ側の12州に対し、憲法の制定を命じました。
敗戦国日本も、1946年に公布された日本国憲法は連合軍の占領下で創られていますね。
写真:鉄のカーテンと冷戦時代。
広島に落とされた原子爆弾、チャーチル、「マーシャルプラン」のジョージ・マーシャルの姿も見える。 -
ここは2階の7号室。
この部屋で、1948年8月10日から25日の2週間、憲法問題に関する専門家委員会が行われました。戦後ドイツの統一的な憲法の草案を創るための話し合いがなされたのです。
今年(2018年8月)はちょうど70年の記念の年になります。
この部屋はルートヴィッヒ2世のダイニングルームだったところだそうです。意外と狭い部屋で驚きました。
この狭い部屋でそんな重要な会議が開かれたのですね。 -
出席者は西側の12州の首相(ドイツは州ごとに首相が置かれている)とそれに次ぐ人物。
地図の白い部分が12州です。
その他に憲法学者など3名と、議長はバイエルン州国務大臣アントン・プファイファー。 -
席次表。
傍線は12州の名前。
議長ほか憲法学者は○印。議長は赤矢印。 -
会議中の写真。
歴史的に重要な会議なのに、この狭い部屋にギュウギュウと詰め込まれて、今で言えば明らかに「密」状態ですね。
立ちあがって議事進行をしているのは議長のアントン・プファイアー。 -
本会議や専門部会。それに出席者の交流の様子など。
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テーブルの下には会議の議事録が展示してありました。
キームゼー会議は13日間続き、8月25日に基本法の原案を作成して終了しました。 -
1948年9月1日、西ドイツの首都ボンで、コンラート・アデナウアーを議長とする議会評議会が開催され、キムゼー会議で作成された草案を叩き台として話し合われた。
写真中央はコンラート・アデナウアー。会議とは関係ありません。 -
その8か月後、1949年5月23日、ドイツ連邦共和国基本法は公布されました。
写真は基本法に署名するエルンスト・ロイターベルリン市長。
でも、日本の場合は日本国憲法でしたよね。なぜドイツは「憲法」ではなく「基本法」なのか?
それは将来のドイツ統一を見据えてのことでした。
西側だけの憲法を制定すると、東ドイツとの分断が決定的なものとなり、ドイツ統一が困難になるから、という理由でした。 -
そういえば、西ドイツの首都が、フランクフルトやハンブルク、ミュンヘンなどの大都市ではなく、地方の小都市ボンに決まったのも、将来のドイツ統一を見据えてのことだと聞いたことがあります。
写真は、ヘレンキームゼーでの憲法会議を記念した美しく装飾された小冊子みたいなもの。出席した各代表に贈られたそうです。 -
この部屋はルートヴィヒ2世がキームゼー滞在中に使用したリビングルーム。
豪華絢爛なヘレンキームゼー城を建設する目的で、1873年に島を購入したルートヴィヒ2世は、古くからあったこの男子修道院を改装して旧宮殿としました。 -
そしてここは彼の寝室?
ルートヴィヒ2世は190㎝超えの巨漢でしたからこのベッドはちょっと小さいように思いますが・・・。
ともかく何度かルートヴィヒ2世はここに滞在したことがあったようです。 -
ルートヴィヒ2世はこの旧宮殿のリビングルームから望遠鏡で、ヘーレンキームゼー城の建設の様子を眺めていたそうです。
残念ながら彼の生存中に、豪華な新城は完成しませんでした。 -
台所。
当時としては大変使い勝手がよさそうな台所です。 -
「憲法博物館」の壁にはこんなものも展示してあります。
ドイツの政党の歴史年表、変遷。
1933~1945年の間はナチス一色で塗りつぶされています。 -
踊り場の壁に掲げてあるのは政党のスローガン?
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その中で面白いと思ったのはこれ。
バイエルン州のスローガンでしょうか。
「スェーデン・ノルウェー・デンマーク・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・アイスランド・スイスはバイエルン州より小さな国土なのに独立している。
バイエルンはそれらの国々より大きいのだから独立して幸せになろう!」というもの。 -
さあ、息子たちとも合流して外に出ます。
私にとっては大変見ごたえがあった「憲法博物館」でしたが、彼らは退屈したことと思います。
しかし私にはもう一か所見たいところがあります。 -
ありました!。
あの日時計のあるところが2階の7号室。あの中でドイツ連邦共和国の基本法の草案が創られたのです。 -
壁の碑文には、
「この建物で、1948年8月10日から23日まで、ドイツ連邦共和国基本法の準備のための憲法会議が開かれた」とあります。
あと半月弱で70周年の記念日がやってきます。記念式典みたいなものも計画されているようです。
今日は見学する人は少なかったけど、きっとこれから大勢の人が訪れるでしょうね。 -
観たいものも見ることができたし、それでは木立の中を歩いて船着き場へ。
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丘の上から、湖に大きな船が停泊しているのが見えます。
船体には「RUDWIG FESSLER」と。「ルートヴィッヒフェスラー号」です。
珍しい船を見ることができました。
1926年に建造された古い蒸気船です。 -
客待ちの馬も暑そう~~!
ほんとに今日は暑いです。 -
船着き場では子供も大人も水の中に入って水遊びをしています。
真っ裸になっている男の子もいます。
涼しそ~~!
さて、間違わないでちゃんとプリーンシュトック行きの船に乗りました。 -
対岸に見えるのはフラウエン島の女子修道院。
そして水鳥とカモを大写しで。 -
すれ違う船は1991年製のヨーゼフ号。
大勢の人が乗っています。 -
あれあれ、さっきの青空はどこへ行った?
真っ黒な雲が空を覆っています。 -
無事にプリーン・シュトックに到着。
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ここに展示してある乗り物は?
向こうの赤い乗り物はカンペンヴァンドのケーブルカー(私は乗ったことがあります)、こちらはベルヒテスガーデンのトロッコ。
どちらもバイエルンの観光地の乗り物。 -
それにレトロな車両に、レトロな街灯。
今日はいろんな乗り物にふれた一日だったなー、と悦にいる私。 -
キムゼーバーンが出発するころには、バケツをひっくり返したような大雨!!
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ラッキー!
プリン・キムゼー駅に着いたらミュンヘン行が10分遅れているとの表示。これに乗れば、5時の市庁舎の仕掛け時計に間に合うわよ!。 -
向こうのホームに停まっている2両編成の列車はアッシャウ行き。
昔々、プリーンの語学学校に滞在していたころ、これに乗ってカンペンヴァンドに行ったな~。
船着き場の近くにあったケーブルカーには、その時乗ったのでした。
懐かしく思い出されます。 -
思いを遮るように間にザルツブルク方面行のICが停まり、遅れていたミュンヘン行メリディアンが到着しました。
これに乗ってミュンヘンまで。 -
ミュンヘン中央駅に着いたら、Sバーンでマリエン広場へ直行しました。
まだ仕掛け時計が動きだす5時まで少し時間があります。 -
後ろ向きのマリエンゾイレ(聖マリア像柱)。
台座の四隅にはそれぞれ子供の像が。これには意味があるのです。
写真のライオンと戦っている子供は戦争を、コカトリスと言う伝説上の動物と戦っているこどもはペストを、ドラゴンと戦っている子供は飢餓を、ヘビと戦っている子供は異端を、それぞれ退治している姿だそう。 -
新市庁舎の中庭。
ここ「ラーツケラー」のテラス席では大勢の人がお食事を楽しんでいます。
私たちも後で行きましょう。 -
ネオゴシック様式の重厚な建物。ミュンヘン小僧、おっかない顔をしたガーゴイル、それに壁から出ている頭の表情が面白い。
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さて、そろそろ5時になります。
広場にも既に大勢の人だかり。 -
息子たちもそれぞれにベストショットを撮りたいとスタンバイ。
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新市庁舎の塔の時計が5時を指し、さあ、グロッケンシュピールが始まりました。新市庁舎の塔で人形たちが動き始めました。
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1568年に行われたバイエルン大公ヴィルヘルム5世とロートリンゲン侯爵令嬢との結婚式の様子を、等身大の人形が演じます。
華麗なダンスや馬上槍試合が行われます。
下ではビールの樽職人たちがクルクルと回りながら踊っています。 -
その様子が約10分ほど続きます。
ドイツ最大の仕掛け時計、グロッケンシュピールです。 -
お食事はその新市庁舎の地下にあるラーツケラーでいただきます。
中庭のテラス席にはあんなに大勢の客がいたけど、地下はまだガラガラです。 -
飲み物はフランケンワインです。
グラスで3人分頼んだらウェイターさんがボトルの方がお得だよ!と。
そしてユリウスシュピタールのバックスを持ってきてくれました。 -
お腹が空きました~。
お嫁さんが、いろんな料理を試しましょうということで、ザウアーブラーテン・シュバイネブラーテン、カモ肉のグリル、それにソーセージの盛り合わせなどを注文。
ウェイターさんが気を利かせて、真ん中にプレートを置いて、その上に一つ一つお皿を並べ、小皿を各人の前に置いてくれた。
ブレブレの写真ですみません。 -
食事が終わって、母娘の記念写真を。
後ろの席で給仕をしていた先ほどのウェイターさん、それを見てニコニコしている(○印)。うれしいですね。
私、だからここラーツケラーって好きなのよね。 -
拡大しますね。
ミュンヘンを訪れるたびに毎回ラーツケラーでお食事をしているけど、一度としていやな思いをしたことがない。
また早く行きたいと思う。いつになるのかな。(2021年現在) -
ラーツケラーを出て、一行をヴィクトアーリエンマルクトに案内します。
入り口近くに佇んでいるジュリエットさまにご挨拶をして。
ミュンヘンの姉妹都市イタリアのベローナ市から寄贈された「ロミオとジュリエット」のジュリエット様です。
彼女の右胸はピカピカに光っています。 -
ジュリエットの右胸に触ると幸せになるという言い伝えがあります。
恥ずかしそうに胸に触る孫娘。
みんなみんな幸せになって欲しい!。 -
人気のお肉屋さんはまだ開いています。
でも、午前中だけしか置いていないという白ソーセージはもうとっくに売り切れね。 -
そして、そうそう!この光景を見せたかった。
木陰の下で楽しむミュンヘンのビアガーデン。風物詩。
ミュンヘンっ子のパワーを見せたかった。
それにしても今日は土曜日だからか、もの凄い人ですね。 -
ヴィクトアーリエンマルクトといえば、「マイバウム」。
ドイツ語で「5月の木」という意味。
5月になると南バイエルンではこの木が広場などに立てられますが、ここでは1年中かざってあります。
孫娘に、この木にはその街を象徴する職業やお店などの絵が飾られるのよ、と教える。
ほらあそこにさっき仕掛け時計で見た樽職人の踊りも見えるでしょう、と。(矢印) -
この絵を見て今気が付きました。
「REINHEITSGEBOT」と言うのはビール純粋令のことですね。
1516年にバイエルン公ヴィルヘルム4世によって制定されましたが、その前にミュンヘンでは1487年11月30日、アルブレヒト4世がミュンヘンのビール醸造業者に、ビールの原料は大麦、ホップ、水だけを使い、混ぜ物はしてはならぬと命じているのですね。
その上にはビール醸造メーカーの樽が積まれています。
ホーフブロイ、アウクスティナー、レーヴェンブロイ、パウラナー・・。 -
野菜や果物、チーズ、それにお土産などを売る野外市場はもう既に閉まっています。
私たちもそろそろホテルに帰りましょう。 -
え、ミュンヘンのど真ん中にこんなカスケードみたいなものがあった?
今日はともかく暑い日なのです。
水辺の近くには人が集まってきます。
裸足で涼んでいる人も・・・。 -
マリエンプラッツはさっきより大勢の人々で賑わっています。
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広場の真ん中では真っ白いパフォーマーを囲んで人の波。
私には気味が悪いとしか思えませんが・・・。 -
さあ、ここからSバーンでホテルに戻ります。
明日はミュンヘンを移動する日です。
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