1966/11/14 - 1970/11/01
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yamada423さん
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第14回東京モーターショー 1967.11.1(昭和42年)
ホンダN360の説明員
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はじめに
私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。
アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)
https://4travel.jp/travelogue/10583150
最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。
大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)
また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。
モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。
しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。
平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。
現代用語:終活(笑い)
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昭和の記録公開について
令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。
1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。
写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)
公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。
もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。
ここまではシリーズ共通の前文とする。
シリーズ昭和の記録 百選 総集編
https://4travel.jp/travelogue/11651747
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シリーズ昭和の記録No.9 東京モーターショー その2
前回と今回は1966年(昭和41年)の第14回から1970年(昭和45年)の第17回までの東京モーターショーの記録です。(2回に分けて掲載)
今回は1966年11月14日の第8回外車ショー、1969年2月22日の東京レーシングカーショーを含む。
1967年、修士2年の6月には就職先の自動車会社が内定していた。
実は学生国際交流プログラムでフランスへの工業視察旅行から帰国した4月末には大手の大学推薦枠は決まっており、H社が残っていたということ。
したがって就職活動の経験はなく、八重洲の本社で面接を受けただけで事実上の内定状態だったが、就職協定により10月には就職試験を受けた。
試験後の面接で言われたのは「君は文学青年か? 理系にしては試験の回答の文章がしっかりしている」と。否定はしたが、内心うれしかった。
このことは53年間心に秘めていたが、残りが少ないのでここに書いておく。日本語の大切さを教えてくれた友に感謝する。
H社は二輪車(オートバイ)メーカーとしてはマン島のTTレースでの華々しい活躍で有名であったが、4輪車は軽スポーツカーS800、軽自動車などを始めて間もない会社で、1968年(昭和43年)の大卒(高専・修士含む)入社は34名(このうち17名が研究所配属)という規模だった。子会社である研究所の技術部門は、会社が小さかったため個人の担当領域はないに等しく広く、大変ではあったが今思えば好きなことが思う存分できてよかった。
モーターショーの記録(写真)の編集に当たっては、観賞ではなく、資料として残すことが主目的のため、画像の選別は行わずに掲載する。
東京国際見本市会場
1956年(昭和31年) - 社団法人東京国際見本市協会設立。
1958年(昭和33年) - 株式会社東京国際貿易センター設立。
1959年(昭和34年) - 東京国際見本市会場完成。初の東京モーターショー開催。
1971年(昭和46年) - 新館供用開始。
1981年(昭和56年) - 初のコミックマーケットが開催。
1996年(平成8年) - 東京国際展示場(東京ビッグサイト)開場に伴い閉場。
第14回 東京モーターショー 1967
昭和42年10月26日~11月8日(晴海)
交通安全を積極的にPRするなど社会的役割も担う。
第14回ショーは社会問題となっていた交通安全に対するPRを積極的に行う場となった。8号館(乗用車)の2階に「交通安全コーナー」が設けられ、各種のテストコーナーができた。2輪車館ではヘルメットの大切さをPRした。展示車両は655台と前回にくらべやや減ったが、トヨタはV型8気筒3000ccを搭載したセンチュリーを展示。フルモデルチェンジされたクラウンともにトヨタのフラッグシップモデルとして注目された。小型車で注目されたのは日産・ブルーバード510型。三角窓を無くしたデザイン、4輪独立懸架のサスペンションなどは、のちにアメリカでも人気となった。また、東洋工業からはロータリーエンジンのRX87とRX 85が参考出品として展示された。
第15回 東京モーターショー 1968
昭和43年10月26日~11月11日(晴海)
はじめての試みとして「子供の交通安全教室」を設置。
この年は業界再編成の動きがみられた。日産はプリンスとの合併(1966年)に続いて富士重工とも業務提携。トヨタは日野、ダイハツと業務提携を行った。日野はこのとき、コンテッサ(乗用車)の生産を止め、乗用車館から姿を消した。交通安全、公害問題も大きくなり、5号館に安全科学センターが設置され、シートベルトの実験、アイドリングの調整法などをPRした。はじめての試みとして「子供の交通安全教室」も設けられた。展示車としてはトヨタ・クラウンハードトップ(2ドア車)、コロナマークⅡ(1600、1900)が人気を集めていた。ほかにも日産・ローレルや6気筒エンジンを搭載したスカイライン2000GT、いすゞ・117クーペ、トヨタのスプリンタークーペなどが登場した。
第16回 東京モーターショー 1969
昭和44年10月24日~11月6日(晴海)
1970年代へ向けた新しいパワーが感じられた。
1970年代を目前にしたこの年は3月に東名高速道路が開通するなど、本格的な高速化時代を迎えて国産車の高性能化が進捗。第16回ショーはスポーツ車やモータースポーツ車両の出品が花盛りとなった。同時に高速と安全をキーワードにした未来志向のドリームカーとコミューターについてもさまざまな習作が登場。トヨタのEX‐Ⅰ・Ⅱ・Ⅲをはじめとする未来車の競演には、ご来場されたショー総裁・高松宮殿下もことのほかご熱心だったという。その一方では同年6月に発生したリコール問題にも呼応して技術的な展示に力が注がれ、各社が大きな社会問題となっている交通安全と公害防止についての積極的な取り組みをアピールしていた。
第6回日本グランプリの優勝車 日産R382(No.21 車体色:黄色)展示
https://4travel.jp/travelogue/11641993
第17回 東京モーターショー 1970
昭和45年10月30日~11月12日(晴海)
インターナショナルショーへの第一歩を踏み出す。
1970年の東京モーターショーには、はじめて輸入車が本格的に参加。7か国33社が出品。95台の外国車が国産車と一堂に集められ、最新のスタイルと技術を一般に公開するインターナショナルショーとしてデビューすることになった。一方、国産車は高速化時代に備えたスポーティなモデル(軽自動車を含む)にとどまらず、レジャーカーやシティカー、そして安全・低公害を追求した電気自動車を含む参考出品車など多彩な出品で来場者を魅了。この年、トヨタからセリカ/カリーナ、日産からは初の横置きFFチェリーがデビューした。また、安全・公害センターが独立のパビリオンとされ、安全性、公害対応に本格的に乗り出したことを印象づけた。
撮影 CANON FT FL50mm 1:1.4
ネガフィルムをEPSON GT-F740でデジタル化した画像サイズ2999×2102
画像データ提供は可能です。
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編集者自己紹介(シリーズ共通)
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !
シニア写真愛好家のyamada423です。
一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。
<略歴>
大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。
写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。
月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。
1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。
自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職
4トラベル会員登録 2010年5月21日
ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/
おねがい
50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。
写真掲載にあたり、写っている方の承諾は得ておりませんので、不都合があればお知らせください。即対応いたします。
yamada423
シリーズ昭和の記録No.8 東京モーターショー その1
https://4travel.jp/travelogue/11638720
投稿2020.8.17 8:00
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1966.11.14 第8回外車ショー
RENAULT ALPINE ルノー・アルピーヌ ¥2,650,000
1960年代までは外車ショーは東京モーターショーとは別に行われてきたが、1970年の第17回モーターショーからは輸入車(外車)が本格的に出展するようになり、出展された95台の外国車が話題を集めることとなります。華やかさだけではなく、安全や公害に対応する姿勢をアピールする展示も実施されています。
出典:https://car-moby.jp/article/event/motor-show/history-of-tokyo-motor-show/ -
RENAULT CARAVELLE S ルノー・カラヴェルS
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RENAULT 16 ルノー16 ¥1,430,000
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DKW ¥1,390,000
「DKW」ブランドは1960年代まで用いられ、そのモデルは以後のアウディ車の母体となった。 -
BMW ¥3,440,000
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BMW
2011年ヨーロッパ鉄道の旅の中間地点のミュンヘンでBMWミュージアムを見学したときに2輪車、航空機エンジンなどの展示も見ました。
BMWミュージアム2011/ミュンヘン
https://4travel.jp/travelogue/10636518
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/24/27/67/src_24276772.jpg?1327710585
1944 BMW801の前で記念撮影です。私と同年代で親しみを感じます。
オーディオガイドを首から下げています。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/24/27/67/src_24276782.jpg?1327710585
手前のモデルは1966年式で私が就職する2年前です。 -
MERCEDES BENZ ¥5,665,000
ベンツは当時高級車の代表格で、われわれ庶民には縁遠い存在であったが、その後に入社した自動車会社の研究部門では駆動系技術で交流があり、シュットットガルトの本社工場訪問の際は忘れがたい楽しい思い出があります。
ヨーロッパ出張 その2. シュトットガルトのベンツとパリ
https://4travel.jp/travelogue/10467662
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/30/44/src_19304414.jpg?1281578589
夕日に染まるブドウ畑で両社(ベンツ・ホンダ)のメンバーがワインを酌み交わし談笑する。どの顔も夕日とワインでうっすらとピンクに染まっている。 -
MERCEDES BENZ ¥12,545,000
世界で最初に4輪自動車を作ったオットー・ダイムラーとカール・ベンツ。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/30/57/src_19305711.jpg?1327822051
1886年 Benz Patent-Mercedes
最近(2012年)の新聞広告によれは世界初のガソリン・エンジン自動車で、最高時速は16Km/h
写真掲載旅行記はhttps://4travel.jp/travelogue/10467662 -
MERCEDES BENZ (SL250)
メルセデス・ベンツ(独: Mercedes-Benz)は、ドイツのダイムラーが所有する乗用車、商用車のブランドである。 -
フォード TAUNUS
フォード・タウヌス (Ford Taunus) -
オペル
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ALFA ROMEO ¥2,300,000
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ALFA ROMEO
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アルファロメオの運転席
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LANCIA ¥2,840,000
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LANCIA
ランチアを日本の道路で見かけたことはないが、トリノのフィアットへ出張の際に乗ったタクシーはディーゼルエンジン仕様のランチアであったのを覚えている。 -
VAUXHALL ヴォグゾール ¥2,700,000
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SUNBEAM
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SAAB
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PRINCESS ¥8,300,000
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JAGUAR ¥5,700,000
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ROVER ¥3,510,000
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MORGAN
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MORGAN
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MORGAN
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PEUGEOT プジョー ¥1,400,000
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SIMCA ¥1,600,000
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MG MGB
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OLDSMOBILE
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MUSTANG ¥3,530,000
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JAGUAR ¥4,380,000
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FIAT ¥3,700,000
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ASA 2,950,000
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FIAT \1,240,000
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MERCURY COUGAR
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1967年11月1日
トヨタ Century
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第14回 東京モーターショー 1967
https://www.tokyo-motorshow.com/history/17.html
昭和42年10月26日~11月8日(晴海)
交通安全を積極的にPRするなど社会的役割も担う。
第14回ショーは社会問題となっていた交通安全に対するPRを積極的に行う場となった。8号館(乗用車)の2階に「交通安全コーナー」が設けられ、各種のテストコーナーができた。2輪車館ではヘルメットの大切さをPRした。展示車両は655台と前回にくらべやや減ったが、トヨタはV型8気筒3000ccを搭載したセンチュリーを展示。フルモデルチェンジされたクラウンともにトヨタのフラッグシップモデルとして注目された。小型車で注目されたのは日産・ブルーバード510型。三角窓を無くしたデザイン、4輪独立懸架のサスペンションなどは、のちにアメリカでも人気となった。また、東洋工業からはロータリーエンジンのRX87とRX 85が参考出品として展示された。
トヨタはV型8気筒3000ccを搭載したセンチュリーを展示。フルモデルチェンジされたクラウンともにトヨタのフラッグシップモデルとして注目された。
センチュリーと云えば、祝賀御列の儀で天皇皇后両陛下がパレードに使用した車として知られました。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/63/58/53/src_63585375.jpg?1577765291
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/67/32/01/src_67320137.jpg?1600430697 -
ホンダF1 RA300
1967.9.10 イタリアグランプリで優勝したNo.14
ドライバー ジョン・サーティーズ -
1967年イタリアグランプリ 1967年のF1世界選手権第9戦として、1967年9月10日にモンツァ・サーキットで開催
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ホンダF1のエンジン・駆動系 RA300E、排気管
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<参考展示>
F1の排気管の集合部
耐熱合金製の薄肉パイプを曲げ加工と溶接で結合したものです。数百馬力のパワーと高速走行による振動に耐えるために高度な製造技術を要し、内製しかできません。
私が1997年に研究所を退任して特許庁関連(財)へ転勤するときに記念品として同僚のベテラン主任技師が作ってくれた宝物です。
5本(5気筒分)を集合させているのでV10エンジン用がモデルになっていると思います。
<素顔の本田宗一郎と3代社長の3ショット >
http://4travel.jp/traveler/810766/album/10484193/ -
<参考展示>
F1エンジンのチタン製コンロッド
航空機エンジンに多用される耐熱性が高く軽いチタン(Titanium)は高回転のF1エンジンの往復運動部のコンロッド(connecting rod)にはなくてはならない材料です。
鉄とチタンの密度は7.8/4.5g/cm3なので鉄の57%しかありません。
旧型の廃棄品ですが私にとってはこれも宝物です -
ホンダF1のリヤ・サスペンション(後輪懸架装置)
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ホンダN360 軽乗用車
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ニッサンR380
驚異の国際記録7つ樹立! -
R380ーⅡ
国際新記録樹立車
(公認申請中) -
R380ーⅡ
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マツダ COSMO SPORT
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COSMO SPORTのロータリーエンジンとトランスミッション
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MAZDA RX 87
東洋工業からはロータリーエンジンのRX87とRX 85が参考出品として展示された。 -
MAZDA RX 87
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ホンダN360説明員(コンパニオン) 表紙写真
モーターショーのコンパニオンは昔も今も、それを目当てにした来場者が少なくありません。
撮影会とは異なり、比較的制約が少ない環境で撮れるので、人物撮影の練習には向いていますが、視線が合うのを待ってから撮るのは根気が要るものです。スマホやコンデジよりも一眼レフのほうが注目されやすく適しています。
私は旅先で撮りたい人物に出会ったときは声をかけて了解を得て撮ります。
断られることはめったにありません。
昨年10月、プラハのカレル橋で出会ったいい女です。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/65/77/49/src_65774988.jpg?1588218728
写真掲載旅行記https://4travel.jp/travelogue/11615385 -
ミツウロコ柄のサックドレスにフェイスシールド付のキャップ
どの車の説明員かわかりませんが、今年であれば注目されるでしょうね。
ドアと後部の窓の形状からはトヨタ2000GTが推測されます。 -
1968年10月28日(昭和43年)
いすゞ・117クーペ ISUZU 117 COUPE
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第15回 東京モーターショー 1968
昭和43年10月26日~11月11日(晴海)
はじめての試みとして「子供の交通安全教室」を設置。
この年は業界再編成の動きがみられた。日産はプリンスとの合併(1966年)に続いて富士重工とも業務提携。トヨタは日野、ダイハツと業務提携を行った。日野はこのとき、コンテッサ(乗用車)の生産を止め、乗用車館から姿を消した。交通安全、公害問題も大きくなり、5号館に安全科学センターが設置され、シートベルトの実験、アイドリングの調整法などをPRした。はじめての試みとして「子供の交通安全教室」も設けられた。展示車としてはトヨタ・クラウンハードトップ(2ドア車)、コロナマークⅡ(1600、1900)が人気を集めていた。ほかにも日産・ローレルや6気筒エンジンを搭載したスカイライン2000GT、いすゞ・117クーペ、トヨタのスプリンタークーペなどが登場した。 -
いすゞ・117クーペ
117クーペ(117Coupe)は、いすゞ自動車が生産していた乗用車である。
流麗なデザインを備えた4座クーペであり、1970年代の日本車を代表する傑作の一つに数えられる。1968年に発売されて以来、長期にわたり生産され、長くいすゞのフラグシップを務めた。車名の117は開発コードネームである。Wikipedia -
いすゞ・117クーペ
コンセプト、デザイン、パッケージ、スタイリングはカロッツェリア・ギアに委託され、当時のチーフデザイナーであったジョルジェット・ジウジアーロが担当した。その後ジウジアーロはギアを退社して独立、イタルデザインを立ち上げたが関係は続き、量産指導はイタルデザインの初仕事となった。
駆動方式は後輪駆動。エンジンは水冷直列4気筒の1.6L、1.8L、2.0L DOHCおよびSOHCが基本だが、末期に2.2Lディーゼル車が少数生産されている。
サスペンションはフローリアンと共有で、前輪がコイルスプリング + ダブルウィッシュボーン、後輪がリーフスプリング + リジッド(ライブアクスル)であり、ステアリングギアボックスはリサーキュレーテッドボール(ボールナット)式であった。 -
いすゞ・117クーペ
販売期間
1968年12月 - 1981年5月 -
117クーペのエンジン G161(DOHC)ガソリンエンジン
DOHC:Double overhead camshaft -
HONDA F1 RA-302
エンジンは120度V8DOHC 2,987cc
●エンジン形式:空冷縦置きV型DOHC
●排気量:2,987cc
●ボア×ストローク:88.0mm×61.4mm
●最高出力:430ps以上/9,500rpm
●前タイヤ:4.75/10.30-15
●後タイヤ:6.00/13.00-15
●ホイールベース:2,360mm
●重量:500kg
出典:http://www.iom1960.com/origin-of-honda-racing-spirit/ra302.html -
HONDA F1 RA-302
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HONDA F1 RA-302の後輪懸架装置
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ホンダN360T ツイン・キャブ仕様
入社半年後の1943年秋に黄色い車体のN360Tを購入し、翌年の夏休みに能登・北陸を一周しました。東名高速でもそこそこ走れました。
https://ssl.4travel.jp/img/tcs/t/pict/lrg/66/66/67/lrg_66666701.jpg?20200712203857
写真掲載旅行記
シリーズ昭和の記録 No.1 能登・北陸
https://4travel.jp/travelogue/11633550 -
NISSAN
No.20から推測すると1968年第4回日本グランプリ優勝の北野元のR381です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA) -
スズキ
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ホンダ CB750F
排気量750ccの大型バイクで、排気量から通称ナナハンと呼ばれた。 -
CB750F
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RSC レーシングバイク
2気筒 500ccクラス? -
RSCレーシングバイク
単気筒のエンジンの大きさから見て、50ccクラスと思います。
分解展示してあるクランクケースはスーパーカブのものです。 -
ホンダH1300
空冷エンジンのホンダ初の小型乗用車
主力製品が2輪車と軽自動車であった本田技研工業が初めて出した小型乗用車であり、前輪駆動(FF)や空冷エンジン、四輪独立懸架など、独創的な技術が盛り込まれていた。ボディの種類は4ドアセダンと後に追加された2ドアクーペの2種で、型式はそれぞれH1300およびH1300Cである。 Wikipedia -
ホンダ1300の強制空冷エンジンとオイルタンク
最初で最後の採用となった後述するDDACと呼ばれる冷却方式は、通常の空冷エンジンのシリンダーブロックやシリンダーヘッドの中に、水冷エンジンのウォータージャケットにあたる通路を設け、そこへ通風することから「一体式二重空冷」の名を持つ。
空冷エンジンを搭載するF1マシンのRA302からのフィードバックという事と、水冷エンジン並みの冷却効率がセールスポイントであった。開発には、騒音が大きい空冷の弱点の克服も目標とされた。しかし、高出力とDDAC方式、アルミ製オイルタンクを持つドライサンプ機構など構造が複雑で重く、高コストとなり、構造が簡単で軽量、低コストという空冷エンジン本来の長所とは逆の結果となった。
Wikipedia -
ホンダ1300の強制空冷エンジン (クラッチ側)
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産業車両 クレーン車
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大型車両用エンジン
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1968年第5回日本グランプリ 出場車
No.15 GP-I 吉田隆郎 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 70周 10位
優勝はNo.20 北野元 ニッサン・R381 日産自動車 80周
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA)#結果 -
DAIHATSU P-5
上の写真と同じ車 -
トヨタ2000GT
2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)とヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハ発動機への生産委託で1967年から1970年までトヨタブランドで生産された、スポーツカーである。
Wikipedia -
トヨタ2000GT
トヨタ自動車のイメージリーダーとして、国際的に通用するスポーツカーとして開発された。DOHCエンジン、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキ、ラック・アンド・ピニオン式ステアリング、リトラクタブル・ヘッドライトは、トヨタ自動車ではこの車から本格採用された。これらは1980年代以降、量産自動車において珍しくない装備となっているが、1960年代中期においてこれらを全て装備した自動車は、当時としては最上の高性能車といえた。
Wikipedia -
マツダ ルーチェ・ロータリー・クーペ LUCE ROTARY COUPE
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LUCE ROTARY COUPE
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COSMO SPORT
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COSMO SPORT用のロータリーエンジン
-
何のエンジンかわかりませんが、直列6気筒ガソリン直噴エンジンのようです。
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東京国際見本市会場(晴海)
8号館は最大の建物で乗用車の展示に充てられました。 -
乗用車、部品、関連商品
ダイハツ トヨタ 三菱 マツダ -
HONDA F1 RA-302
-
ホンダH1300
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1969年2月22日 東京レーシングカーショー
MANTA
参考サイト
「第2回東京レーシングカー・ショー」
(会期1969年2月22~23日)
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/2ndTokyoRacingCarShow.html -
MANTA
撮影した写真を掲載するのみで、車の資料はありません。 -
MANTA
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M.KANEKO LIZA GTR
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M.KANEKO LIZA GTR
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ARROW BELLETT
いすゞベレットのエンジンを積んだアロー・ベレットF-2 -
ニッサンR380ーⅡ
今回日産は、1968年日本グランプリウィナーであったR-381の展示はなく、従来からある現役マシンR-380-2を展示した。1967年に生沢徹のポルシェカレラ6に完敗したあと、国際スピード記録に挑戦したときのカラーリングであり、さらに、第5回日本グランプリで横山達のドライブで、4位に入ったときもこのカラーリングであった。 (参考資料) -
ロータス47GT
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ロータス47GT
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写真のブラバム・ホンダF-3(直列4気筒DOHC791cc)は、英国のブラバム車のシャーシにホンダS800のエンジンをチューンして搭載したもので、鈴鹿でのフォーミュラ・リブレのレースでは、無敵を誇ったマシンである。
(参考資料) -
写真のホンダRA-302は、1968年度F-1世界選手権用に開発した世界初の空冷エンジン搭載のマシン。
しかし、デビュー戦のフランス・グランプリでは、クラッシュ炎上し、ドライバーのジョー・シュレッサーが絶命するという最悪のデビュー戦となってしまった。その後、レースには、もっぱら水冷エンジン搭載のホンダRA-301(第2回東京レーシングカーショーカタログの表紙に写っている白地に赤のストライプのマシン)で出場し、RA-302は、2度とレースに出ることはなかった。しかし、その技術は、のちの市販車“ホンダ1300”に受け継がれていくのでした。
(参考資料) -
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車名・社名はわかりません。
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アルファロメオ Alfa Romeo
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MAGRANSA TーⅢ
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LOLA T70-MKⅢ
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LOLA T70-MKⅢ
今回最大の注目を浴びていたタキ・レーシングチームは、ウイング付きローラT70MK3をはじめ、生沢のドライブで日本グランプリ2位に入賞したポルシェ910などを出展して観客の視線を釘付けにした。(参考資料) -
PORSCHE 910
今回最大の注目を浴びていたタキ・レーシングチームは、ウイング付きローラT70MK3をはじめ、生沢のドライブで日本グランプリ2位に入賞したポルシェ910などを出展して観客の視線を釘付けにした。(参考資料) -
EVA CARS
このショーにおいて、特筆すべきことは、プライベート・コンストラクターが誕生したことではないでしょうか。
特に、当時盛んに行われたホンダN360のエンジンを使用したレース用のマシンを開発した“エバ・カーズ”は目立っていた。写真のオープン・モデルが“エバ・アンティアンスタイプ2A”であり、当時人気だあったCAN-AMカーを意識したスタイルであった。(参考資料) -
エバ・アンティアンスタイプ1A
そしてもう1つは、マニファクチャラーズ世界選手権用マシンとして開発したクローズド・マシン“エバ・アンティアンスタイプ1A”である。流線型のロングのーズ、ロングテールの美しいマシンであった。結局、“エバ2A”のみが市販され、FLレースにおいては同車の1メイクスレースといわんばかりの売れ行きとなった人気車であった。製作者の三村健治は、のちの“マキF-1”という幻のF-1マシンを作ったデザイナーであり、1971年にエバ・カーズを解散し、1972年からは、“MANA”として活動し始める。(参考資料) -
EVA CARS
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KAMUI 神威
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車名はわかりません。
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車名はわかりません。
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車名はわかりません。
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ダイハツ・P-5(ワークス)
1968.5.3日本グランプリ Wikipedia
10位 No.15 GP-I 吉田隆郎 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 70周 2:38'04.30
他の成績
15 位 No.14 GP-I 久木留博之 ダイハツ・P-5 57周
16 位 No.16 GP-I 武智勇三 ダイハツ・P-5 56周
Retire No.12 GP-I 矢吹圭造 ダイハツ・P-5 30周 エンジントラブル -
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DRAGSTER
スタートの加速を競うレース専用の車
SS1/4:スタートしてから1/4マイル(402.3m)到達までの時間を競う。 -
NISSAN R382 No.21
1969.10.10第6回日本グランプリ(富士スピードウェイ)で黒澤元治・砂子義一組で優勝した車
2位は 北野元・横山達組のNo.20、10位は高橋国光・都平健二組のNo.23
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA)
第6回日本グランプリ
https://4travel.jp/travelogue/11641993
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1969年11月1日
東京モーターショー
第16回 東京モーターショー 1969
昭和44年10月24日~11月6日(晴海)
1970年代へ向けた新しいパワーが感じられた。
1970年代を目前にしたこの年は3月に東名高速道路が開通するなど、本格的な高速化時代を迎えて国産車の高性能化が進捗。第16回ショーはスポーツ車やモータースポーツ車両の出品が花盛りとなった。同時に高速と安全をキーワードにした未来志向のドリームカーとコミューターについてもさまざまな習作が登場。トヨタのEX‐Ⅰ・Ⅱ・Ⅲをはじめとする未来車の競演には、ご来場されたショー総裁・高松宮殿下もことのほかご熱心だったという。その一方では同年6月に発生したリコール問題にも呼応して技術的な展示に力が注がれ、各社が大きな社会問題となっている交通安全と公害防止についての積極的な取り組みをアピールしていた。 -
NISSAN R382 No.21
上の写真と同じ車ですが、モノクロ写真のほうが美しく感じます(個人の見解) -
R382 V型12気筒エンジン
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シリンダーの角度から60度V型エンジンと思います。
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ニッサン フェアレディZ
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NISSAN Fairlady Z
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ニッサン フェアレディZ 432
上の写真と同じ車 -
ISUZU BELLETT MX1600
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いすゞ ベレットMX1600
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ベレットR6
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ベレットR6
No.29は1969.10.10の日本グランプリ決勝においてドライバー大森祥吾・浅岡重輝で出場したが結果はリタイアとなった。 -
三菱自動車 コルト・ギャラン
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MITSUBISHI COLT Galant
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ホンダ1300X
市販されたときはホンダ1300クーペ -
HONDA1300X
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HONDA1300X
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HONDA1300X S
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トヨタのEX‐Ⅰ・Ⅱ・Ⅲをはじめとする未来車の競演には、ご来場されたショー総裁・高松宮殿下もことのほかご熱心だったという。
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TOYOTA EX-Ⅲ
参考サイト
https://blog.goo.ne.jp/koyapop/e/451d3c1872bc1e1a60cf2f3579650a15 -
TOYOTA EX-Ⅲ
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TOYOTA EX-Ⅰ
参考サイト
https://blog.goo.ne.jp/koyapop/e/144935bdefaf53ba97fcbd6165b7d2dc -
TOYOTA EX-Ⅰ
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マツダ ルーチェ・ロータリー・クーペ
LUCE ROTARY COUPE -
トヨタ コンセプトカー TOYOTA EX7
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第17回 東京モーターショー 1970
昭和45年10月30日~11月12日(晴海)
インターナショナルショーへの第一歩を踏み出す。
1970年の東京モーターショーには、はじめて輸入車が本格的に参加。7か国33社が出品。95台の外国車が国産車と一堂に集められ、最新のスタイルと技術を一般に公開するインターナショナルショーとしてデビューすることになった。一方、国産車は高速化時代に備えたスポーティなモデル(軽自動車を含む)にとどまらず、レジャーカーやシティカー、そして安全・低公害を追求した電気自動車を含む参考出品車など多彩な出品で来場者を魅了。この年、トヨタからセリカ/カリーナ、日産からは初の横置きFFチェリーがデビューした。また、安全・公害センターが独立のパビリオンとされ、安全性、公害対応に本格的に乗り出したことを印象づけた。 -
トヨタEX7(コンセプトカー)
参考サイト
https://blog.goo.ne.jp/koyapop/e/788ade1819b201c4b082037be6b749a5 -
Galant GTO MⅡ
この時代は車名にいろいろ付加記号を付けると付加価値が上がったような錯覚があった? -
マツダRX500
1970年の第17回東京モーターショーに展示されたコンセプトカー。
鋼管スペースフレームをFRPとABS・PCアロイのボディーが覆う。
ペリフェラルポートに改造した10Aロータリーエンジンをミッドシップに搭載し、4輪とも4ポッド・ベンチレーテッド・ディスクを搭載している。 -
RX500 基本スペック
全長:4330mm
全幅:1720mm
全高:1065mm
乗員定員:2名
車両重量:850kg
種類:10A 2ローターロータリーエンジン
491cc×2MR
燃料:ガソリン
最高出力:250PS/7000rpm
最高速度:200km/h以上
トランスミッション:4速MT
出典:https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/36f419a54780d9bd0446d6d22e30eb39
ヌマジ交通ミュージアムに展示されているらしいです。
〒731-0143 広島市安佐南区長楽寺2-12-2 -
RX500
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トヨタ カリーナ1600ST
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トヨタ セリカ TOYOTA CELICA
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TOYOTA CELICA
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フェラーリ FERRARI Dino 246 GT
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FERRARI Dino 246 GT GRAN TURISMO
ディーノ246GTは、ディーノ206GTの発展型です。V6エンジンの排気量が拡大され、ホイールベースが60mm延長されています。ただし、ボディの全長こそ長くなりましたが、デザインは変わっていません。外観上の両者の違いは、エンジンカバーが長くなったことと、燃料キャップの位置が移動していること、この2点だけなのです。ディーノ246GTは商業的に大成功作となり、生産を終えるまでに3つのシリーズが作られました。1973年から74年にかけて生産は終了しましたが、生産終了後も根強い人気を誇っています。
出典:https://www.ferrari.com/ja-JP/auto/dino-246-gt -
撮影に使用したカメラ
CANON FT FL50mm 1:1.4
キヤノン FT QL
調べてみたところ1966年発売当時の価格は54,800円(レンズ共)だそうです。
現在の価値では30万円、...或いはもっとするのかもしれません。
1968年に修士で入社した自動車会社の初任給が3万2千円でした。
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