1987/08/09 - 1987/08/15
161位(同エリア2403件中)
tadさん
「古い写真をスキャン3(西ドイツから東ドイツへ列車で移動、1987年)」の続き。今回は東ベルリンに一週間滞在した経験をまとめておく。
東ベルリンでの酷い経験の第一;バカ正直に東ベルリン到着後に公式の両替所で10万円分くらいの西ドイツマルクを東ドイツマルクに交換したのだが、学会の会場で知り合いのアメリカ人の先生から聞いたところ、私の交換法では、10分の1に価値が減じたとのこと!東ドイツ内で、内緒に西ドイツマルクを見せれば、9倍から10倍の額の東ドイツマルクに闇交換するのが、当時の常識だったのだ!そんなことは、地球の歩き方などにはまったく言及がなかった!解説を書いた人は連中とグルだったのか??ともかくも、私は初日に交換所で9万円くらいの損失を被ったのだ!もっとも、恐らく、学会からの案内書では、交換は東ベルリン到着後、正式な、つまり10分の1に価値が減額するところで交換するように案内がきていたのだろうが。。(ただし、最終日にその知り合いのアメリカ人の先生が10倍で交換したが、使い道がなかったから、今から使うのを手伝ってくれというので、一緒に数名の研究仲間を募って、豪華なバーに行き、「この方は、アメリカの皇帝の一族であるからして、全額支払ってくださるそうだ!」などといいながら、輸入シャンペンを飲んで豪勢な時間を過ごしたのだった。)
日本から来ている先生方は、普通はウンター・デン・リンデンの高級ホテルに泊まっていて、一泊うん万円だとか払わされたとのこと!これは、私も事前に学会の推薦するホテルがあまりにも高価なので、私は東ドイツの学会本部に、手紙だったか、メールだったかを送り、安い宿を紹介できないなら、発表には行けなくなるかもなどと激しく書いたはずで、おかげで国民宿舎的な現地の人が普通に利用する宿を紹介してくれた。これはウンター・デン・リンデンの二つくらい裏通りにある宿で、この近辺のレストランも現地の人しかいなくて、値段もすべて数分の一だったと思う。ただし、この宿の部屋のテレビは西ドイツの放送チャンネルボタンは全て壊してあり、東ドイツの放送局しか見れなかった。(表通りのバカ高いホテルに泊まらされた西側の客は全てのチェンネルが見れた。親しい先生の部屋で確認した。)
こういう話は山ほどあり、鮮明に記憶している!長くなりすぎるので、今は控える。どこかでまた書き足すかもしれない。
一枚目は東ベルリン側から見たブランデンブルク門。すぐ向こうにベルリンの壁があった。
なお、追加として、ベルリン滞在中に一日、学会発表の中休みがあり、学会の世話でドレスデンをバスで往復した写真も後につける。このバスがドレスデンからベルリンに帰る途中で故障し、アウトバーンのなかで、6時間以上も放置された最悪の経験がある!!!救援には誰も来ないし、トイレも近くにないし、大変な時間を過ごした記憶が生々しい。エンジン・ベルトが焼け切れているだけの故障なのだが、放置されたままだった。もっとも、車内では、同じ専門の学者同士なので、退屈はしなかったのだが。。ベルリンに戻ったのは深夜を過ぎていたような。。。
- 旅行の満足度
- 4.0
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ウンター・デン・リンデン。
ウンター デン リンデン 散歩・街歩き
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ベルリン国立歌劇場。オトマール・スイトナーが当時の指揮者だったと思う。彼らは1978年頃、どういうわけか、下関の市民会館の開館記念演奏会に出演してくれた。当時、地方の組合系の活動が活発だったようで、共産圏のオーケストラがたびたび日本に出稼ぎに来ていたものだ。ソ連やチェコのオーケストラや音楽家もやはりたびたび来日していた。国内で、同様の地方回りをするオーケストラは日本フィルハーモニー交響楽団だったと思う。組合反対派は分かれて新日本フィルハーモニーと名乗り、小澤征爾がしばらく指揮していた。
そういえば、1970年代ごろは、ドレスデン国立管弦楽団、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団、チェコ・フィルハーモニー、レニングラード・フィルハーモニー、モスクワ放送交響楽団なども、日本でみな聞けた。こういった共産圏のオーケストラメンバーは、当時、海外に出られる特権を持っており、質も高かったのは事実だ。ベルリン国立歌劇場 劇場・ホール・ショー
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ベルリン大聖堂
ベルリン大聖堂 寺院・教会
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ペルガモン美術館
ペルガモン博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ペルガモン神殿
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歴史博物館Deutsches Historisches Museum
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ベルリン大聖堂は今もあるが、右側の共和国宮殿などは今は存在しない。
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今はない共和国宮殿。ここで国際学会のパーティが開催された。
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ベルリンの塔は今もあるようだ。
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学会で私が論文を発表した建物の入口にこのプレートがあった。マルクスとエンゲルスがここで学んだとある。
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私が左で、研究仲間のアメリカ人が右。ベルリン・フンボルト大学の校舎の一つの入口のプレートは、ここでレーニンが学んだとある。今もあるかどうか不明。
後は仕事関係の写真ばかりなので省略。二つの発表を無事終えて、この後、東ベルリン駅から、西ドイツで下車しないで、オランダのユトレヒトまで一気に移動した。
オランダやベルギーを経て、ドーバー海峡をフェリーで渡り、ロンドンに少し滞在して、UAEのドバイ空港経由、さらにクアラルンプール経由で帰国した。重いトランクを引きずっての旅だったが、まだ41才だからできた荒業。フンボルト大学 建造物
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ドレスデン国立歌劇場(ゼンパー・オペラ)。夏だからすべて上演はなし。
ゼンパーオーパー (ザクセン州立歌劇場) 劇場・ホール・ショー
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ドレスデン国立歌劇場。
当時は、ブロムシュテットなどが指揮をしていた。大阪でこのメンバーの演奏を聴いたことがある。 -
ドレスデン国立歌劇場
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ドレスデン美術館。マイセンの陶器コレクションで有名。
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修理中の教会だったと思う。
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エルベ川
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この旅行記へのコメント (5)
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- 骨ヅルさん 2021/01/02 08:20:41
- 懐かしい!
- はじめまして。
私が初めて(西)ドイツに渡ったのが1987年。この旅行記と同じ年で、それ以降統一までに数回西ベルリンに行き、一日査証を取得して東にも入りました。
東への入国の付帯要件となる、強制両替の25マルクは、当然1:1の公式レートで、しかしロクなものがなく、ビール、ソーセージなんかも一口含んだだけで吐き出したくなるような代物で、消費するのに困りました。
かと言って西側に持ち出すことは禁止でしたので、Berlin Friedrichstrase駅から西に戻る前に、Unter den Linden の交差点の角にある外国人用ホテルのバーで、少しはマシなコーヒーやケーキを食べて、東マルクを減らしました。
街を歩いていると、何度も現地人から公定レートの3~5倍出すから西マルク(oder US$)を売ってくれと頼まれましたが、上述のように使い道もなく、囮の役人だったら即拘束なので、もちろん断りましたが。
一度車で行ったときには、「チェックポイントC」から同じ一日査証で東に入り、そのままベルリンを出、不法にツェツィーリエンホーフ宮殿へポツダム会談の現場を見に行きました。水溜りがたくさんあるデコボコ道を、おまわりに止められないよう法定速度をガチに守って走り、我が車を抜き去る多数のトラバントが、さしづめ遊園地のゴーカートのように目に映り、今となっては得難い良い想い出となっています。
今日、たまたまtadさんの旅行記が目に留まり、その懐かしさが蘇ってまいりましたので、コメントさせて頂くことにしました。
新型コロナ禍で、いつまた制限のない旅行ができるようになるか分かりませんが、早くそうなってもらいたいものです。
そうなったら、tadさんもまた素晴らしいご旅行をご再開ください。
なお、宜しければ、拙い旅行記、
「【回顧録】 ベルリン - 壁崩壊30年」
https://4travel.jp/travelogue/11546027
をご覧くださいませ。
- tadさん からの返信 2021/01/02 23:41:49
- RE: 懐かしい!
- 詳しいコメントありがとうございました。
旅行記のほうも読ませていただきました。悪夢の経験だった東ドイツの話をさらに思い出すことになりました。
両替の悪質さは、本当に酷いものでしたね。東と西のマルクの実力差は、10倍だったというのが当時の実情だったのでしょう。私に東ベルリンで話しかけてきた日本人の音楽家は、9倍で交換しても少し儲かると言っていたのを覚えています。3−4倍で交換したら、相手はぼろ儲けだったでしょう。私みたいに国際学会で、公式にベルリン大学で講演する人間は、一対一の公式の交換で、10分の1に減額したという詐欺にあったわけです!!!絶対に許せない気持ちは今でもありますね。
東ドイツ出身の今の首相は、こういう公式に入国した相手を詐欺で騙したことを今ではどう思っているのでしょうか?今の首相は、慰安婦像問題などでも、結局、日本に肩入れするどころか、中国や韓国のほうに、肩入れしていることは明白です。あれ以来、ドイツに対する親しみは殆ど消失しましたね。1970年代に西ドイツに行った時は、まだまだ、好意を持っていたのですが、1987年の経験以来、その後、東西ドイツが統合後も何度か行きましたが、やはり、もうドイツには若い頃のような好感は持てなくなったと感じます。中央ヨーロッパ往復の際の乗り継ぎ場所になってしまった感じが私には強いですね。
この件は率直に書かせていただきました。
-
- toyonakayamadaさん 2020/09/27 00:41:45
- ベルリンとドレスデン 1987年旅行記について
- 東ベルリンでの両替など、あまりいい印象を持たれていないようですね。
1974年ハンブルクから西ベルリンに列車で移動、西ベルリンのユーゲントへルベルゲに宿泊、荷物を預け、チェックポイントチャーリーから歩いて東ベルリンに入国しました。
テレビ塔に上がったり、オペラ座でマダムバタフライ蝶々夫人のオペラを楽しみましたが、貴殿のような悪い思いは全くありませんでした。
東ベルリンは華やかではないが、物価が安く生活がしやすく感じられました。
テレビ塔前のアレキサンダー駅から、電車、地下鉄で市内巡りをしました。
ちなみに電車賃は1マルクでした。
48年前の東ベルリンは治安が良い思いでしか残っていませんでした。
2年前にも、スロバキアでのスキーの帰り道、一人でブラブラ、大好きなベルリンに4日間滞在しました。
もしかして、ボン・ケルン・フランクフルト・ハイデルベルク・他、ライン下りの船
で貴殿にお会いしたかもしれませんね。
- tadさん からの返信 2020/09/27 09:41:04
- RE: ベルリンとドレスデン 1987年旅行記について
- > 東ベルリンでの両替など、あまりいい印象を持たれていないようですね。
>
> 1974年ハンブルクから西ベルリンに列車で移動、西ベルリンのユーゲントへルベルゲに宿泊、荷物を預け、チェックポイントチャーリーから歩いて東ベルリンに入国しました。
> テレビ塔に上がったり、オペラ座でマダムバタフライ蝶々夫人のオペラを楽しみましたが、貴殿のような悪い思いは全くありませんでした。
> 東ベルリンは華やかではないが、物価が安く生活がしやすく感じられました。
> テレビ塔前のアレキサンダー駅から、電車、地下鉄で市内巡りをしました。
> ちなみに電車賃は1マルクでした。
> 48年前の東ベルリンは治安が良い思いでしか残っていませんでした。
コメント有難うございます。
ずばりとお書き頂いたので、私もできるだけそうしたいです。
1974年の東ベルリンに観光客として入国し西ベルリンから日帰りされたとのこと。
それから13年後の私が入国した1987年の東ベルリンはまったく国情が違うでしょう。ご存知のように、その二年後の1989年に「ベルリンの壁は崩壊」しましたよね。完全な末期症状があちこちに感じられました。一つの国が崩壊する直前に一週間滞在するという得難い経験でした。1974年の頃の為替レートが実質どうであったか知りませんが、気持ちよく観光地を日帰りできたのは当然でしょう。東側も外貨稼ぎは必死だったでしょうから。。
私の場合、1987年の東ベルリンでは、国際学会での講演を二度担当しており、その内容はベルリン大学の出版物などに掲載されていますが、学会の内部とのやりとり体験などを通じて、これは酷いという側面をいろいろ見せられました。1987年当時の東ドイツ経済はすでにガタガタだったのです。ホーネッカーという独裁者は、ルーマニアのチャウシェスクと同様に「ベルリンの壁の崩壊」後は、「消滅」しましたが、その兆候は既に明らかでした。醜い裏話は、とてもここで、次々と話す気にもなりません。
中国がこうならなければいいのですが。。。似た雰囲気を感じますね。独裁者の支配する国は怖いです。発言はみんな我慢していますから。。「王様は裸」の話を思い出します。(もっとも西側の民主主義国も、大衆があまりにお馬鹿さんだと、似た状況はできるようですが。。)
共産主義国というところは、日本でA社の新聞などを見ていると、当時は理想郷のように伝えられていましたが、上に立つエリート集団にとっては天国なのでしょう。その集団に所属しないと、東ドイツの場合、シュタージやその仲間から監視されて、お互いに探りあっています。「ベルリンの壁の崩壊後」西側に移動した学者達の中には、(一部私の大学にも来ましたが。。)旧ソ連から逃げてきた人たちと同様、恐ろしい話を聞かせてくれたことがあります。
もう本人は生きていないので、この例は少し話せるでしょうが、1987年に東ベルリンの私の講演内容に質問してきた北京の偉い先生が、帰国後も手紙をくれて、しばらくやりとりしていましたが、それらの手紙は全て、途中で誰かが開封して読まれていたのです。封筒を破いた作業が荒っぽく、これ見よがしでした。。日本に来る機会を狙っていましたね。その分野で中国で中心的な一人でしたよ、その方は。勿論私も講演に彼の大学に招待されましたが、行きませんでした。それに関連する話も山のようにありますが、やめておきます。
日本の「マスゴミ」と私は今では表現しますが、当時、ドイツで出会ったA社の支局長は、ドイツ語はできないといっていました!同社のニューヨーク支局長は英語ができないというのもある時期まで事実だったようです。行ったり、住んでたりすると情報や状況がちゃんと理解できているかどうかは、その人次第ですが、日本の情報摂取や交流の水準は今でも非常にレベルが低いと思います。退職後、家内が一緒なので、結構安いツアーにも参加しましたが、テレビで見る画面以上の理解はあまりできない中味の場合が多いですね。。現地の知識人と議論しない限り、深い内情は得難い場合が多いと思います。大学では私はずばり本気で発言したつもりですが、こういうところでは、それは難しいですね。。
- toyonakayamadaさん からの返信 2020/09/28 12:21:14
- RE: RE: ベルリンとドレスデン 1987年旅行記について
- > > 東ベルリンでの両替など、あまりいい印象を持たれていないようですね。
> >
> > 1974年ハンブルクから西ベルリンに列車で移動、西ベルリンのユーゲントへルベルゲに宿泊、荷物を預け、チェックポイントチャーリーから歩いて東ベルリンに入国しました。
> > テレビ塔に上がったり、オペラ座でマダムバタフライ蝶々夫人のオペラを楽しみましたが、貴殿のような悪い思いは全くありませんでした。
> > 東ベルリンは華やかではないが、物価が安く生活がしやすく感じられました。
> > テレビ塔前のアレキサンダー駅から、電車、地下鉄で市内巡りをしました。
> > ちなみに電車賃は1マルクでした。
> > 48年前の東ベルリンは治安が良い思いでしか残っていませんでした。
>
> コメント有難うございます。
>
> ずばりとお書き頂いたので、私もできるだけそうしたいです。
>
> 1974年の東ベルリンに観光客として入国し西ベルリンから日帰りされたとのこと。
>
> それから13年後の私が入国した1987年の東ベルリンはまったく国情が違うでしょう。ご存知のように、その二年後の1989年に「ベルリンの壁は崩壊」しましたよね。完全な末期症状があちこちに感じられました。一つの国が崩壊する直前に一週間滞在するという得難い経験でした。1974年の頃の為替レートが実質どうであったか知りませんが、気持ちよく観光地を日帰りできたのは当然でしょう。東側も外貨稼ぎは必死だったでしょうから。。
>
> 私の場合、1987年の東ベルリンでは、国際学会での講演を二度担当しており、その内容はベルリン大学の出版物などに掲載されていますが、学会の内部とのやりとり体験などを通じて、これは酷いという側面をいろいろ見せられました。1987年当時の東ドイツ経済はすでにガタガタだったのです。ホーネッカーという独裁者は、ルーマニアのチャウシェスクと同様に「ベルリンの壁の崩壊」後は、「消滅」しましたが、その兆候は既に明らかでした。醜い裏話は、とてもここで、次々と話す気にもなりません。
>
> 中国がこうならなければいいのですが。。。似た雰囲気を感じますね。独裁者の支配する国は怖いです。発言はみんな我慢していますから。。「王様は裸」の話を思い出します。(もっとも西側の民主主義国も、大衆があまりにお馬鹿さんだと、似た状況はできるようですが。。)
>
> 共産主義国というところは、日本でA社の新聞などを見ていると、当時は理想郷のように伝えられていましたが、上に立つエリート集団にとっては天国なのでしょう。その集団に所属しないと、東ドイツの場合、シュタージやその仲間から監視されて、お互いに探りあっています。「ベルリンの壁の崩壊後」西側に移動した学者達の中には、(一部私の大学にも来ましたが。。)旧ソ連から逃げてきた人たちと同様、恐ろしい話を聞かせてくれたことがあります。
>
> もう本人は生きていないので、この例は少し話せるでしょうが、1987年に東ベルリンの私の講演内容に質問してきた北京の偉い先生が、帰国後も手紙をくれて、しばらくやりとりしていましたが、それらの手紙は全て、途中で誰かが開封して読まれていたのです。封筒を破いた作業が荒っぽく、これ見よがしでした。。日本に来る機会を狙っていましたね。その分野で中国で中心的な一人でしたよ、その方は。勿論私も講演に彼の大学に招待されましたが、行きませんでした。それに関連する話も山のようにありますが、やめておきます。
>
> 日本の「マスゴミ」と私は今では表現しますが、当時、ドイツで出会ったA社の支局長は、ドイツ語はできないといっていました!同社のニューヨーク支局長は英語ができないというのもある時期まで事実だったようです。行ったり、住んでたりすると情報や状況がちゃんと理解できているかどうかは、その人次第ですが、日本の情報摂取や交流の水準は今でも非常にレベルが低いと思います。退職後、家内が一緒なので、結構安いツアーにも参加しましたが、テレビで見る画面以上の理解はあまりできない中味の場合が多いですね。。現地の知識人と議論しない限り、深い内情は得難い場合が多いと思います。大学では私はずばり本気で発言したつもりですが、こういうところでは、それは難しいですね。。
2020.09.28 12:19
お返事ありがとうございます。
1974年からベルリンの壁崩壊までの東ベルリン。知りませんでした。
歴史。大変参考勉強になりました。
尚、東ベルリンには観光で行ったのではなく、ドイツ語の勉強に行っていました。
> これからの貴殿の旅行記を楽しみにしております。
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