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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。<br />ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。<br /><br />今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。<br />その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会いました。<br />そして、何より歴史を再認識する旅となりました<br />

中欧4都市15日間の美術館巡り(Day5-6)ベルリン ゲメルデガレリー(Gemäldegalerie)

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2023/10/09 - 2023/10/24

181位(同エリア2404件中)

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kawausoimoko

kawausoimokoさん

ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。

今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会いました。
そして、何より歴史を再認識する旅となりました

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 徒歩
航空会社
LOTポーランド航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 2023年10月13日(金)(Day5-6)<br /><br />ゲメルデガレリーの最終回は、17世紀のイタリア、フランス、スペインの絵画です。<br /><br />17世紀にイタリアで始まったバロック様式は、その後のヨーロッパ全体の美術に多大な影響を与えました。<br /><br />15世紀中頃に活版印刷によって聖書が印刷されるようになり、16世紀に宗教改革が進行し、聖書がラテン語から各国語に翻訳されて出版されました。<br />プロテスタント教会は、人々に聖書を読むことを奨励し、教会で聖書を読むための教育を施して識字率の向上に貢献しました。<br />人々が聖書を身近に置いて読むことが可能になったことにより、プロテスタントの宗教改革は大きく広がりました。<br /><br />これに対して、カトリックの反宗教改革運動では、絵画や彫刻を通じて宗教的なメッセージを人々に広く伝えることを重視しました。<br />カトリック文化圏はプロテスタント文化圏に比べて一般庶民の識字率が低い傾向にあり、聖書を読むことが難しい民衆に宗教的な知識を提供する手段として、美術が重要な役割を果たしました。<br />教会の内装や装飾、壁画や彫刻、ステンドグラスは、イエス・キリストの奇跡を始めとし、聖人や聖遺物、煉獄や諸聖人の秘跡を民衆に分かりやすく伝える手段として用いられました。<br /><br />特にバロック期においては、「まるで奇跡が目前で起こっている」ように見える感情豊かで劇的な絵画や壮大な彫刻が制作され、信仰心を高める役割を果たしました。

    2023年10月13日(金)(Day5-6)

    ゲメルデガレリーの最終回は、17世紀のイタリア、フランス、スペインの絵画です。

    17世紀にイタリアで始まったバロック様式は、その後のヨーロッパ全体の美術に多大な影響を与えました。

    15世紀中頃に活版印刷によって聖書が印刷されるようになり、16世紀に宗教改革が進行し、聖書がラテン語から各国語に翻訳されて出版されました。
    プロテスタント教会は、人々に聖書を読むことを奨励し、教会で聖書を読むための教育を施して識字率の向上に貢献しました。
    人々が聖書を身近に置いて読むことが可能になったことにより、プロテスタントの宗教改革は大きく広がりました。

    これに対して、カトリックの反宗教改革運動では、絵画や彫刻を通じて宗教的なメッセージを人々に広く伝えることを重視しました。
    カトリック文化圏はプロテスタント文化圏に比べて一般庶民の識字率が低い傾向にあり、聖書を読むことが難しい民衆に宗教的な知識を提供する手段として、美術が重要な役割を果たしました。
    教会の内装や装飾、壁画や彫刻、ステンドグラスは、イエス・キリストの奇跡を始めとし、聖人や聖遺物、煉獄や諸聖人の秘跡を民衆に分かりやすく伝える手段として用いられました。

    特にバロック期においては、「まるで奇跡が目前で起こっている」ように見える感情豊かで劇的な絵画や壮大な彫刻が制作され、信仰心を高める役割を果たしました。

  • 愛の勝利者:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ,1601-1602年<br /><br />カラヴァッジオは1571年から1573年の間にイタリアのミラノで生まれ、13歳の時に画家シモーネ・ペテルツァーノの弟子となり、17歳まで修行しました。<br />当時のミラノには数点のレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が残っており、また、多くのフランドル絵画が流入していたことから、カラヴァッジオはこれらの作品を観ていたものと推測されています。<br /><br />1594年頃にはローマのジュゼッペ・チェーザリの工房で助手を務め、1595年頃にはフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の庇護を受けて、祭壇画の仕事を始めました。<br />当時、カトリック教会は対抗宗教改革を進めており、絵画を通じて伝えられる宗教的なメッセージは、カトリック教会の権威を再確立するために重要な役割を担っていました。<br />「まるで奇跡が目前で起こっているように見える」カラヴァッジオの劇的な宗教画は、カトリック信者の心を捉えて揺り動かし、信仰の重要性を強調する力を持っていましたが、聖職者達の評価は賛否両論に分かれました。<br /><br />カラヴァッジオは1600年代の最初の10年間に、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の3連作「聖マタイ伝」、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂の「聖パウロの回心」と「聖ペトロの磔刑」などの大作を制作しました。<br />その内の3点は教会から受け取りを拒まれたり、設置後すぐに撤去されたりしましたが、それらはヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵やマントヴァ公爵などの著名な美術収集家によって直ぐに買い取られました。<br />カラヴァッジョの革新性は、当時の芸術家と美術コレクターに衝撃を与え、以後の画家たちに多大な影響を与えました。<br /><br />同時にカラヴァッジオの素行の悪さはローマ中で評判となっていました。<br />1606年に喧嘩で殺人を犯し、ローマを逃れてナポリやマルタ島、シチリア島を渡り歩いた末、1610年に殺人罪の恩赦を求めてローマを目指す途中に38歳で亡くなりました。

    愛の勝利者:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ,1601-1602年

    カラヴァッジオは1571年から1573年の間にイタリアのミラノで生まれ、13歳の時に画家シモーネ・ペテルツァーノの弟子となり、17歳まで修行しました。
    当時のミラノには数点のレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が残っており、また、多くのフランドル絵画が流入していたことから、カラヴァッジオはこれらの作品を観ていたものと推測されています。

    1594年頃にはローマのジュゼッペ・チェーザリの工房で助手を務め、1595年頃にはフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の庇護を受けて、祭壇画の仕事を始めました。
    当時、カトリック教会は対抗宗教改革を進めており、絵画を通じて伝えられる宗教的なメッセージは、カトリック教会の権威を再確立するために重要な役割を担っていました。
    「まるで奇跡が目前で起こっているように見える」カラヴァッジオの劇的な宗教画は、カトリック信者の心を捉えて揺り動かし、信仰の重要性を強調する力を持っていましたが、聖職者達の評価は賛否両論に分かれました。

    カラヴァッジオは1600年代の最初の10年間に、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の3連作「聖マタイ伝」、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂の「聖パウロの回心」と「聖ペトロの磔刑」などの大作を制作しました。
    その内の3点は教会から受け取りを拒まれたり、設置後すぐに撤去されたりしましたが、それらはヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵やマントヴァ公爵などの著名な美術収集家によって直ぐに買い取られました。
    カラヴァッジョの革新性は、当時の芸術家と美術コレクターに衝撃を与え、以後の画家たちに多大な影響を与えました。

    同時にカラヴァッジオの素行の悪さはローマ中で評判となっていました。
    1606年に喧嘩で殺人を犯し、ローマを逃れてナポリやマルタ島、シチリア島を渡り歩いた末、1610年に殺人罪の恩赦を求めてローマを目指す途中に38歳で亡くなりました。

  • 愛の勝利者:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ,1601-1603年<br /><br />この作品は、ローマ時代の詩人ウェルギリウスの「牧歌」に詠われた「愛の神は全てを打ち負かす。われらもまた、愛の神に屈服しよう」を題材にしています。<br />床に置かれた楽譜に大文字の「V」が示されていることから、発注主であり銀行家で裕福な美術コレクターであった、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵への賛辞と解釈されています。<br /><br />かつてキオス島の支配者であったジェノヴァ人のジュスティニアーニ家を象徴する王冠が描かれ、ヴィンチェンツォ自身は、文学、音楽、絵画、建築、天文学に造詣が深く、軍事的才能も兼ね備えた人物であったため、ペン、楽譜、楽器、幾何学の道具、天球、鎧などがそれらを象徴するものとして描かれて「ヴィンチェンツォは全てを征服する」を表しています。<br /><br />ヴィンチェンツォはカラヴァッジオの最初のパトロンであるフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の友人で、カラヴァッジョが最初に描いたサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会の「聖マタイ伝」が教会から受け取りを拒否されると、すぐさまこれを購入しました。<br /><br />ヴィンチェンツォは弟のベネデット枢機卿と共に、カラヴァッジオの作品15点を含む300点以上の絵画と1200点以上の彫刻を収集(ジェスティアーニコレクション)しており、その中でもこの作品が最もお気に入りだったそうです。

    愛の勝利者:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ,1601-1603年

    この作品は、ローマ時代の詩人ウェルギリウスの「牧歌」に詠われた「愛の神は全てを打ち負かす。われらもまた、愛の神に屈服しよう」を題材にしています。
    床に置かれた楽譜に大文字の「V」が示されていることから、発注主であり銀行家で裕福な美術コレクターであった、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵への賛辞と解釈されています。

    かつてキオス島の支配者であったジェノヴァ人のジュスティニアーニ家を象徴する王冠が描かれ、ヴィンチェンツォ自身は、文学、音楽、絵画、建築、天文学に造詣が深く、軍事的才能も兼ね備えた人物であったため、ペン、楽譜、楽器、幾何学の道具、天球、鎧などがそれらを象徴するものとして描かれて「ヴィンチェンツォは全てを征服する」を表しています。

    ヴィンチェンツォはカラヴァッジオの最初のパトロンであるフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の友人で、カラヴァッジョが最初に描いたサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会の「聖マタイ伝」が教会から受け取りを拒否されると、すぐさまこれを購入しました。

    ヴィンチェンツォは弟のベネデット枢機卿と共に、カラヴァッジオの作品15点を含む300点以上の絵画と1200点以上の彫刻を収集(ジェスティアーニコレクション)しており、その中でもこの作品が最もお気に入りだったそうです。

  • 「天上の愛と俗世の愛」:ジョヴァンニ・バリオーネ , 1603年<br /><br />ジョヴァンニ・バリオーネは1566年にローマで生まれ、1600年頃にローマでジュゼッペ・チェーザリの下で修行し、サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の祭壇画「聖母被昇天」を制作して高い評価を得ました。

    「天上の愛と俗世の愛」:ジョヴァンニ・バリオーネ , 1603年

    ジョヴァンニ・バリオーネは1566年にローマで生まれ、1600年頃にローマでジュゼッペ・チェーザリの下で修行し、サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の祭壇画「聖母被昇天」を制作して高い評価を得ました。

  • 「天上の愛と俗世の愛」:ジョヴァンニ・バリオーネ , 1603年<br /><br />カラヴァッジオが「愛の勝利者」を完成させた後、ヴィチェンツォの弟のベネデット・ジュスティニアーニ枢機卿は、カラヴァッジオのライバルであったバリオーネに「聖なる愛と世俗的な愛」を題材した絵画を依頼しました。<br />裕福な好事家たちが、ライバル同士の芸術家に競わせて作品を制作させることは、しばしば行われたそうです。<br /><br />バリオーネの作品では、鎧を着た「天上のアモール」が左端のルシファーから「俗世のアモール」を引き離し、「俗世のアモール」に最後の留めを刺そうとしています。<br />「天上のアモール」はアンテロス(精神的な愛や理性)を表し、「俗世のアモール」はエロス(物質的な欲望や肉体的な結びつき)を表しており、「天上のアモール」が「俗世のアモール」を打ち負かすことによって完全な愛が達成されると解釈されています。<br /><br />地面に投げ出されている「俗世のアモール」は、カラヴァッジオが描いた裸の少年のようなアモールによく似ており、バリオーネがカラヴァッジオを打ち負かそうとしているようにも解釈できます。<br /><br />カラヴァッジオはバリオーネの作品を盗作だと抗議し、カラヴァッジオの友人の一人によってあざけられたバリオーネは、同じ題材でもう一枚の作品を描きました。<br />新たに描かれた作品では、傍らにいるルシファーの顔がカラヴァッジオによく似て描かれているそうです。<br /><br />バリオーネとカラヴァッジオの関係はこの作品を巡る因縁で更に悪化し、1603年にはバリオーネはカラヴァッジオとその仲間を名誉棄損で訴えています。<br />バリオーネはカラヴァッジオが亡くなった後の1608年 に「ローマの画家たちの生涯」という著書を発表し、カラヴァッジオについても記述していますが、その内容については信頼性に欠けると言われています。<br /><br />カラヴァッジオとバリオーネの作品は同じコーナーに展示されており、作品にまつわる有名なストーリーを意識して展示されていることが伺えます。

    「天上の愛と俗世の愛」:ジョヴァンニ・バリオーネ , 1603年

    カラヴァッジオが「愛の勝利者」を完成させた後、ヴィチェンツォの弟のベネデット・ジュスティニアーニ枢機卿は、カラヴァッジオのライバルであったバリオーネに「聖なる愛と世俗的な愛」を題材した絵画を依頼しました。
    裕福な好事家たちが、ライバル同士の芸術家に競わせて作品を制作させることは、しばしば行われたそうです。

    バリオーネの作品では、鎧を着た「天上のアモール」が左端のルシファーから「俗世のアモール」を引き離し、「俗世のアモール」に最後の留めを刺そうとしています。
    「天上のアモール」はアンテロス(精神的な愛や理性)を表し、「俗世のアモール」はエロス(物質的な欲望や肉体的な結びつき)を表しており、「天上のアモール」が「俗世のアモール」を打ち負かすことによって完全な愛が達成されると解釈されています。

    地面に投げ出されている「俗世のアモール」は、カラヴァッジオが描いた裸の少年のようなアモールによく似ており、バリオーネがカラヴァッジオを打ち負かそうとしているようにも解釈できます。

    カラヴァッジオはバリオーネの作品を盗作だと抗議し、カラヴァッジオの友人の一人によってあざけられたバリオーネは、同じ題材でもう一枚の作品を描きました。
    新たに描かれた作品では、傍らにいるルシファーの顔がカラヴァッジオによく似て描かれているそうです。

    バリオーネとカラヴァッジオの関係はこの作品を巡る因縁で更に悪化し、1603年にはバリオーネはカラヴァッジオとその仲間を名誉棄損で訴えています。
    バリオーネはカラヴァッジオが亡くなった後の1608年 に「ローマの画家たちの生涯」という著書を発表し、カラヴァッジオについても記述していますが、その内容については信頼性に欠けると言われています。

    カラヴァッジオとバリオーネの作品は同じコーナーに展示されており、作品にまつわる有名なストーリーを意識して展示されていることが伺えます。

  • エンドウ豆を食べる農民夫婦:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール , 1610-1620年頃<br /><br />ラ・トゥールは1593年、ロレーヌ公国の小さな町で生まれ、1620年代から1630年代にかけてルーアンで活動しました。<br />1639年にはパリに出て、国王ルイ13世から国王付画家の称号を与えられています。<br />その後、生涯の殆どをロレーヌ公国のリュネヴィルで活動し、1652年にペストで亡くなりました。<br /><br />この絵はラ・トゥールの初期のもので、故郷のロレーヌ地方の下層階級の人々や困窮した農民を写実的に描いた「白昼の絵画」の一つです。

    エンドウ豆を食べる農民夫婦:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール , 1610-1620年頃

    ラ・トゥールは1593年、ロレーヌ公国の小さな町で生まれ、1620年代から1630年代にかけてルーアンで活動しました。
    1639年にはパリに出て、国王ルイ13世から国王付画家の称号を与えられています。
    その後、生涯の殆どをロレーヌ公国のリュネヴィルで活動し、1652年にペストで亡くなりました。

    この絵はラ・トゥールの初期のもので、故郷のロレーヌ地方の下層階級の人々や困窮した農民を写実的に描いた「白昼の絵画」の一つです。

  • イレネに介抱される聖セバスティアヌス:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール , 1649年<br /><br />この作品は、ルイ13世の特にお気に入りでした。<br /><br />1630年代頃から、ヨーロッパではロウソクの光に照らされた「夜の情景」を描いた絵画がジャンルとして発達し、画家の腕前が競われるようになりました。<br />ラ・トゥール の「夜の情景」は、カラヴァッジョやルーベンスのような強い明暗のコントラストで描かれたドラマチックな情景ではなく、優しく暖かな光と影に包まれた静謐な世界で、歴史画や宗教画であってもごく普通の人間の生活を描いた風俗画のように表現されているのが特徴です。<br /><br />ラ・トゥールの死後、作品は忘れ去られましたが、20世紀になってドイツの美術史家でヒットラーの美術顧問であったヘルマン・フォスによって紹介され、再び脚光を浴びるようになりました。<br /><br />ゲメルデガレリーに展示されているこの作品は、1997年にパリで行われたラ・トゥール展でルーヴル美術館が所持するオリジナル作品のレプリカと評価されました。<br />現在では、ラ・トゥールの息子であるエティェンヌがオリジナルにもとづいて制作した複製 (ラ・トゥール自身も加筆したかも?) であると見なされているそうです。

    イレネに介抱される聖セバスティアヌス:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール , 1649年

    この作品は、ルイ13世の特にお気に入りでした。

    1630年代頃から、ヨーロッパではロウソクの光に照らされた「夜の情景」を描いた絵画がジャンルとして発達し、画家の腕前が競われるようになりました。
    ラ・トゥール の「夜の情景」は、カラヴァッジョやルーベンスのような強い明暗のコントラストで描かれたドラマチックな情景ではなく、優しく暖かな光と影に包まれた静謐な世界で、歴史画や宗教画であってもごく普通の人間の生活を描いた風俗画のように表現されているのが特徴です。

    ラ・トゥールの死後、作品は忘れ去られましたが、20世紀になってドイツの美術史家でヒットラーの美術顧問であったヘルマン・フォスによって紹介され、再び脚光を浴びるようになりました。

    ゲメルデガレリーに展示されているこの作品は、1997年にパリで行われたラ・トゥール展でルーヴル美術館が所持するオリジナル作品のレプリカと評価されました。
    現在では、ラ・トゥールの息子であるエティェンヌがオリジナルにもとづいて制作した複製 (ラ・トゥール自身も加筆したかも?) であると見なされているそうです。

  • 3人の音楽家:ディエゴ・ベラスケス ,1616 - 1618年<br /><br />ベラスケスは1599年頃にスペイン南部の都市セビーリャで生まれ、11歳の頃にフランシスコ・パチェーコに弟子入りしました。<br />1617年に独立し、翌年には師匠パチェーコの娘であるフアナと結婚しました。<br /><br />1623年に国王フェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年間の生涯にわたって、国王や王女、宮廷人の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描きました。<br />美術愛好家であったフェリペ4世はベラスケスを生涯厚遇し、晩年のベラスケスは宮廷装飾の責任者となり、サンティアゴ騎士団への加入が許されて、貴族に準ずる扱いを受けました。<br /><br />ベラスケスは宮廷画家に任命される前のセビリア時代に「ボデゴーネ」と呼ばれた静物画の要素を取り入れた風俗画を制作しました。<br />セビリア時代に制作された「3人の音楽家」には5つのバージョンが存在しており、この作品が最初期と見なされていますが、ベラスケスの作品として疑問視する向きもあるそうです。

    3人の音楽家:ディエゴ・ベラスケス ,1616 - 1618年

    ベラスケスは1599年頃にスペイン南部の都市セビーリャで生まれ、11歳の頃にフランシスコ・パチェーコに弟子入りしました。
    1617年に独立し、翌年には師匠パチェーコの娘であるフアナと結婚しました。

    1623年に国王フェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年間の生涯にわたって、国王や王女、宮廷人の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描きました。
    美術愛好家であったフェリペ4世はベラスケスを生涯厚遇し、晩年のベラスケスは宮廷装飾の責任者となり、サンティアゴ騎士団への加入が許されて、貴族に準ずる扱いを受けました。

    ベラスケスは宮廷画家に任命される前のセビリア時代に「ボデゴーネ」と呼ばれた静物画の要素を取り入れた風俗画を制作しました。
    セビリア時代に制作された「3人の音楽家」には5つのバージョンが存在しており、この作品が最初期と見なされていますが、ベラスケスの作品として疑問視する向きもあるそうです。

  • 貴婦人の肖像(おそらくコンデサ・デ・モントレー):ディエゴ・ベラスケス , 1635年頃<br /><br />ベラスケスは、1628年にスペイン領ネーデルラント総督から外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと親交を結びました。<br />ルーベンスからイタリア行きを強く勧められたベラスケスは、1629年にフェリペ4世から許されてイタリアで美術品収集や絵画の修業をしました。<br />この作品は、おそらくナポリ総督のコンデサ・デ・モンテレイの妻の肖像で、ベラスケスがローマ滞在中に描いたものとされています。

    貴婦人の肖像(おそらくコンデサ・デ・モントレー):ディエゴ・ベラスケス , 1635年頃

    ベラスケスは、1628年にスペイン領ネーデルラント総督から外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと親交を結びました。
    ルーベンスからイタリア行きを強く勧められたベラスケスは、1629年にフェリペ4世から許されてイタリアで美術品収集や絵画の修業をしました。
    この作品は、おそらくナポリ総督のコンデサ・デ・モンテレイの妻の肖像で、ベラスケスがローマ滞在中に描いたものとされています。

  • キリストのバプテスマ:バルトロメ・エステバン・ムリーリョ , 1655年頃<br /><br />ムリーリョは不明な点が多い画家で、1618年にスペイン南部のセビーリャで生まれ、1645年にはセビーリャのフランシスコ会修道院の装飾事業を手掛け、1659年までフアン・デル・カスティーリョの元で修業を積んだとみられています。<br />生涯の大部分をセビーリャ周辺で過ごし、1682年にセビーリャ南方のカディスの修道院で制作中に転落したことが原因で死去したとされています。<br /><br />この作品は、元々は1655年頃に制作されたセビリアのサン・レアンドロ教会の祭壇画の一部であるとみられ、解体された後に修道院の食堂に飾られていました。

    キリストのバプテスマ:バルトロメ・エステバン・ムリーリョ , 1655年頃

    ムリーリョは不明な点が多い画家で、1618年にスペイン南部のセビーリャで生まれ、1645年にはセビーリャのフランシスコ会修道院の装飾事業を手掛け、1659年までフアン・デル・カスティーリョの元で修業を積んだとみられています。
    生涯の大部分をセビーリャ周辺で過ごし、1682年にセビーリャ南方のカディスの修道院で制作中に転落したことが原因で死去したとされています。

    この作品は、元々は1655年頃に制作されたセビリアのサン・レアンドロ教会の祭壇画の一部であるとみられ、解体された後に修道院の食堂に飾られていました。

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