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2020年4月30日(木)、京都府南部の井手町の中央部を流れる玉川の木津川合流地点にある玉川堤の山吹を見に行った。<br /><br />井出町は京都府が滋賀県と大阪府の間を奈良県に向かって南に突き出した端に近いところに位置し、私が住んでいる京田辺市の南部と木津川を挟んでいる。昭和2年(1927年)に井出村が町制施行して誕生し、昭和33年(1958年)に北部の多賀村と合併して、現在の井手町となった。この地には古くから人が住んでおり、川の扇状地に堰を設けて灌漑用水に利用したことから「川の水をせき止めたところ」という意味を持つ井堤(もしくは井堰でいずれも読みは「いで」)の地と呼ばれて、それが転じて井出となった。古くは兎手(うで)とも記された。<br /><br />玉川は井手町の東の和束町白栖の山中を源とし、井手町の中央を西流し木津川に注ぐ全長6㎞の川。下流部は天井川となっている。「平成の名水百選」に選ばれており、玉のように美しい水が流れる川と云うことからこう呼ばれるようになったものと思われる。古くは井堤河(井手川)や水無川とも呼ばれていた。多賀城の「野田の玉川」、東京の「調布の玉川」、滋賀県草津の「野路の玉川」、高野山の「高野の玉川」、高槻の「三島の玉川」とともに日本六玉川の一つに数えられる。<br /><br />玉水はこの玉川が木津川に合流する辺りの地区名で、奈良と京都の間にあった清水、また、井出にあった「玉の井(よい水の出る井戸)」を意味する。JR玉水駅の東にある蛙塚(かわずづか)に玉水という湧水があったとも云う。さらに、玉川の清らかな流れを指したものとも云われる。JR玉水駅は井手町を代表する駅で、明治29年(1896年)に京都からの奈良鉄道の終着駅として開業(のちに桜井まで延伸)。明治40年(1907年)に国鉄となり、現在はJR奈良線の全列車が停車している。<br /><br />2003年に開通した玉水橋を渡って玉水地区に入ると、すぐに天井川となっている玉川堤がある。この堤、4月初めにはソメイヨシノが桜色のトンネルを作り、南山城の桜スポットとして有名だが、そもそもは山吹の里として古くから知られているところ。「井出」は「山吹」の歌枕になっており、多くの歌に詠まれている。<br /><br />そもそもは奈良時代前半に朝廷の最高位である左大臣まで上り詰め、井出左大臣と呼ばれた橘諸兄(たちばなのもろえ)がこの地に別邸を構え、山吹を植えたのが始まりと云われる。昭和28年(1953年)、井手町だけで100人以上の死者を出した南山城水害と呼ばれる集中豪雨で玉川堤は決壊したのだが、その後に地元の皆さんの尽力で堤は修復されるとともに山吹が植えられ、同時にソメイヨシノも植えられた。現在では玉川堤1.5kmに渡って、1万2千本の山吹が500本のソメイヨシノの後に咲き誇る。<br /><br />京田辺に引っ越す以前には同じ京都府内でも全然知らなかったが、京田辺に住むようになってから何度か来ており、今回で4回目。最初に来たのが2003年4月の初めで、次がちょっと飛んで2012年の4月中旬。この2回は桜が目当てで、2012年は夜桜がきれいだった(下の写真1)。前回来たのは4年前で、この時も桜でなく山吹が目的だった。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.1100344026702287&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />堤沿いには山吹にまつわる多くの和歌の歌碑がある。下記の今回のアルバムに上げたのは10世紀初め、平安時代前期から中期の貴族・歌人で、古今和歌集の選者の一人で三十六歌仙の一人、土佐日記の作者でもある紀貫之の歌。「有名な井手の山吹は素晴らしかったが、同じように有名な蛙の声はどこでも変わらない」と云うような意味。井出の山吹と並んで玉川に生息していたカジカガエルも井出の蛙として古くから有名だったのだが、貫之は聞かなかったのだろうか。<br /><br />4年前のアルバムに上げている歌碑はクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美人」に数えられる平安初期の女流歌人、小野小町の歌。「蛙が鳴くころになると、山吹の花も散り、花の色香の移ろいに、若かりし日を懐かしく思い出す」と云うような意味。この歌にも山吹と蛙が登場している。<br /><br />その他、8代将軍吉宗の次男で寛政の改革を行った松平定信の父の田安(徳川)宗武の歌は、「玉川の水は清く、山吹の花がきれいに水に映っている」の意(下の写真2)。三十六歌仙の一人である源順(みなもとのしたごう)の歌は「春霞がたなびく玉川の風景、今一度よく山吹の花を眺めてから行くことにしよう」の意(下の写真3)。その他、和泉式部、紫式部、藤原定家、源実朝、橘諸兄、後鳥羽天皇、西行、宗良親王など21の歌碑があるが、井出の山吹を詠んだ歌は76首あるそうだ。<br /><br />またJRが天井川の下をくぐるところに「後醍醐天皇御旧蹟 是東一里半 田村新田」と刻まれた石碑があるが、これは5㎞上流にある松の下露跡を示している。松の下露とは鎌倉時代末期、1331年の元弘の乱で鎌倉幕府に対して笠置山で挙兵した後醍醐天皇が、この時にはまだ幕府側だった足利尊氏(その時点では高氏)や新田義貞らの討伐軍に敗れ、千早赤阪に逃れる途中に休憩したとされるところで、その際にお供の藤原藤房が「いかにせんたのむ蔭とて立ちよれば猶袖ぬらす松の下露」詠んだことからこう呼ばれている。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3945522352184426&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />ちなみに後醍醐天皇のこの逃亡は失敗し、幕府軍に捕らえられ、島流しとなるのだが、その2年後、今度は尊氏や義貞が後醍醐天皇側につき、鎌倉幕府は滅亡する。この辺り、4月からNHK BSプレミアムで再放送されている91年の大河ドラマ「太平記」で、これから描かれるところで、どこまで描かれるか楽しみだ。まあ、松の下露までは出てくることはないとは思うが。<br /><br />JRを越えたところで山吹鑑賞は終了。帰りは、玉水から木津川右岸をそのまま北上し、山城多賀を経て、山城大橋を渡り、京田辺に戻る。そう云えば、漫才コンビ、サバンナの八木君は多賀の出身。中学から大学までは私立の立命館で、大学は学部は違うが私の(遥か)後輩になる。<br /><br /><br />以上

井出の山吹(Japanese Rose, Tamagawa River, Tamamizu, Ide, Kyoto, JP)

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2020/04/30 - 2020/04/30

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旅行記グループ 井出

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年4月30日(木)、京都府南部の井手町の中央部を流れる玉川の木津川合流地点にある玉川堤の山吹を見に行った。

井出町は京都府が滋賀県と大阪府の間を奈良県に向かって南に突き出した端に近いところに位置し、私が住んでいる京田辺市の南部と木津川を挟んでいる。昭和2年(1927年)に井出村が町制施行して誕生し、昭和33年(1958年)に北部の多賀村と合併して、現在の井手町となった。この地には古くから人が住んでおり、川の扇状地に堰を設けて灌漑用水に利用したことから「川の水をせき止めたところ」という意味を持つ井堤(もしくは井堰でいずれも読みは「いで」)の地と呼ばれて、それが転じて井出となった。古くは兎手(うで)とも記された。

玉川は井手町の東の和束町白栖の山中を源とし、井手町の中央を西流し木津川に注ぐ全長6㎞の川。下流部は天井川となっている。「平成の名水百選」に選ばれており、玉のように美しい水が流れる川と云うことからこう呼ばれるようになったものと思われる。古くは井堤河(井手川)や水無川とも呼ばれていた。多賀城の「野田の玉川」、東京の「調布の玉川」、滋賀県草津の「野路の玉川」、高野山の「高野の玉川」、高槻の「三島の玉川」とともに日本六玉川の一つに数えられる。

玉水はこの玉川が木津川に合流する辺りの地区名で、奈良と京都の間にあった清水、また、井出にあった「玉の井(よい水の出る井戸)」を意味する。JR玉水駅の東にある蛙塚(かわずづか)に玉水という湧水があったとも云う。さらに、玉川の清らかな流れを指したものとも云われる。JR玉水駅は井手町を代表する駅で、明治29年(1896年)に京都からの奈良鉄道の終着駅として開業(のちに桜井まで延伸)。明治40年(1907年)に国鉄となり、現在はJR奈良線の全列車が停車している。

2003年に開通した玉水橋を渡って玉水地区に入ると、すぐに天井川となっている玉川堤がある。この堤、4月初めにはソメイヨシノが桜色のトンネルを作り、南山城の桜スポットとして有名だが、そもそもは山吹の里として古くから知られているところ。「井出」は「山吹」の歌枕になっており、多くの歌に詠まれている。

そもそもは奈良時代前半に朝廷の最高位である左大臣まで上り詰め、井出左大臣と呼ばれた橘諸兄(たちばなのもろえ)がこの地に別邸を構え、山吹を植えたのが始まりと云われる。昭和28年(1953年)、井手町だけで100人以上の死者を出した南山城水害と呼ばれる集中豪雨で玉川堤は決壊したのだが、その後に地元の皆さんの尽力で堤は修復されるとともに山吹が植えられ、同時にソメイヨシノも植えられた。現在では玉川堤1.5kmに渡って、1万2千本の山吹が500本のソメイヨシノの後に咲き誇る。

京田辺に引っ越す以前には同じ京都府内でも全然知らなかったが、京田辺に住むようになってから何度か来ており、今回で4回目。最初に来たのが2003年4月の初めで、次がちょっと飛んで2012年の4月中旬。この2回は桜が目当てで、2012年は夜桜がきれいだった(下の写真1)。前回来たのは4年前で、この時も桜でなく山吹が目的だった。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.1100344026702287&type=1&l=223fe1adec

堤沿いには山吹にまつわる多くの和歌の歌碑がある。下記の今回のアルバムに上げたのは10世紀初め、平安時代前期から中期の貴族・歌人で、古今和歌集の選者の一人で三十六歌仙の一人、土佐日記の作者でもある紀貫之の歌。「有名な井手の山吹は素晴らしかったが、同じように有名な蛙の声はどこでも変わらない」と云うような意味。井出の山吹と並んで玉川に生息していたカジカガエルも井出の蛙として古くから有名だったのだが、貫之は聞かなかったのだろうか。

4年前のアルバムに上げている歌碑はクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美人」に数えられる平安初期の女流歌人、小野小町の歌。「蛙が鳴くころになると、山吹の花も散り、花の色香の移ろいに、若かりし日を懐かしく思い出す」と云うような意味。この歌にも山吹と蛙が登場している。

その他、8代将軍吉宗の次男で寛政の改革を行った松平定信の父の田安(徳川)宗武の歌は、「玉川の水は清く、山吹の花がきれいに水に映っている」の意(下の写真2)。三十六歌仙の一人である源順(みなもとのしたごう)の歌は「春霞がたなびく玉川の風景、今一度よく山吹の花を眺めてから行くことにしよう」の意(下の写真3)。その他、和泉式部、紫式部、藤原定家、源実朝、橘諸兄、後鳥羽天皇、西行、宗良親王など21の歌碑があるが、井出の山吹を詠んだ歌は76首あるそうだ。

またJRが天井川の下をくぐるところに「後醍醐天皇御旧蹟 是東一里半 田村新田」と刻まれた石碑があるが、これは5㎞上流にある松の下露跡を示している。松の下露とは鎌倉時代末期、1331年の元弘の乱で鎌倉幕府に対して笠置山で挙兵した後醍醐天皇が、この時にはまだ幕府側だった足利尊氏(その時点では高氏)や新田義貞らの討伐軍に敗れ、千早赤阪に逃れる途中に休憩したとされるところで、その際にお供の藤原藤房が「いかにせんたのむ蔭とて立ちよれば猶袖ぬらす松の下露」詠んだことからこう呼ばれている。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3945522352184426&type=1&l=223fe1adec

ちなみに後醍醐天皇のこの逃亡は失敗し、幕府軍に捕らえられ、島流しとなるのだが、その2年後、今度は尊氏や義貞が後醍醐天皇側につき、鎌倉幕府は滅亡する。この辺り、4月からNHK BSプレミアムで再放送されている91年の大河ドラマ「太平記」で、これから描かれるところで、どこまで描かれるか楽しみだ。まあ、松の下露までは出てくることはないとは思うが。

JRを越えたところで山吹鑑賞は終了。帰りは、玉水から木津川右岸をそのまま北上し、山城多賀を経て、山城大橋を渡り、京田辺に戻る。そう云えば、漫才コンビ、サバンナの八木君は多賀の出身。中学から大学までは私立の立命館で、大学は学部は違うが私の(遥か)後輩になる。


以上

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  • 写真1 井出の夜桜(2012年4月)

    写真1 井出の夜桜(2012年4月)

  • 写真2 田安宗武の歌碑

    写真2 田安宗武の歌碑

  • 写真3 源順の歌碑

    写真3 源順の歌碑

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