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美術館シリーズ⑥<br /><br />ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)<br /><br />ミラノの貴族であった美術収集家ポルディ・ペッツォーリの私邸を美術館として公開している。建物はジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリが亡くなった1879年に、コレクションとともにミラノ市に寄贈された。<br />絵画、ガラス工芸、陶磁器、日時計、刺繍作品、家具などを展示している。ピエロ・デル・ポッライオーロの『若い貴婦人の肖像』(表紙)がこの美術館で有名。<br /><br />1.Zanobi Strozzi「謙虚のマドンナ」<br />2.ピエロ・デラ・フランチェスカ<br />3.ピエロ・デル・ポッライオーロ「若い貴婦人の肖像」<br />4.サンドロ・ボッティチェッリ「Madonna of the Book」<br />5.サンドロ・ボッティチェッリ「死せるキリストへの哀悼」<br />6.ペルジーノ(工房)<br />7.ジョヴァンニ・ベッリーニ<br />8.ジョルジョーネ(と考えられている)<br />9.カルロ・クリヴェッリ「聖セバチアヌス」<br />10.アンドレア・マンテーニャ「聖母子」<br />11.ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ「聖母子」<br />12.作者不明     ※ダヴィンチ「リッタのマドンナ」<br />13.Cesara da Sesto  ※ダヴィンチ「聖母子と聖アンナ」<br />14.ソラーリオ(ソラーリ)「エジプトへの逃避行途上の休息」<br />15.モレット<br />16.ベルナルド・カヴァッリーノ<br />17.ジョヴァンニ・マルティネッリ<br />18.サッソフェラート<br />19.ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ「聖ヒエロニムス(ジェローム)の死」<br />20.ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ<br />21.カナレット<br />22.カナレット<br />23.フランチェスコ・グアルディ<br />24.フランチェスコ・グアルディ<br />25.フランチェスコ・アイエツ「友人たちに囲まれた肖像」

美術館シリーズ⑥ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)

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2017/10/02 - 2017/10/02

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美術館シリーズ⑥

ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)

ミラノの貴族であった美術収集家ポルディ・ペッツォーリの私邸を美術館として公開している。建物はジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリが亡くなった1879年に、コレクションとともにミラノ市に寄贈された。
絵画、ガラス工芸、陶磁器、日時計、刺繍作品、家具などを展示している。ピエロ・デル・ポッライオーロの『若い貴婦人の肖像』(表紙)がこの美術館で有名。

1.Zanobi Strozzi「謙虚のマドンナ」
2.ピエロ・デラ・フランチェスカ
3.ピエロ・デル・ポッライオーロ「若い貴婦人の肖像」
4.サンドロ・ボッティチェッリ「Madonna of the Book」
5.サンドロ・ボッティチェッリ「死せるキリストへの哀悼」
6.ペルジーノ(工房)
7.ジョヴァンニ・ベッリーニ
8.ジョルジョーネ(と考えられている)
9.カルロ・クリヴェッリ「聖セバチアヌス」
10.アンドレア・マンテーニャ「聖母子」
11.ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ「聖母子」
12.作者不明     ※ダヴィンチ「リッタのマドンナ」
13.Cesara da Sesto  ※ダヴィンチ「聖母子と聖アンナ」
14.ソラーリオ(ソラーリ)「エジプトへの逃避行途上の休息」
15.モレット
16.ベルナルド・カヴァッリーノ
17.ジョヴァンニ・マルティネッリ
18.サッソフェラート
19.ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ「聖ヒエロニムス(ジェローム)の死」
20.ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
21.カナレット
22.カナレット
23.フランチェスコ・グアルディ
24.フランチェスコ・グアルディ
25.フランチェスコ・アイエツ「友人たちに囲まれた肖像」

旅行の満足度
3.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 1.The Madonna of Humility with Musician Angels 1448/50<br />Zanobi Strozzi 1412-1468<br />-----------------<br />「謙虚のマドンナ」。正式な弟子ではなかったとされるが、フラ・アンジェリコの影響を強く受け後継者とみられる。このタイトルの場合、マリアは王座に座らず、地面か、クッションの上に座っている。謙虚なので。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119001_Madonna%20dell%E2%80%99Umilt%C3%A0%20con%20due%20angeli%20musicanti<br />

    1.The Madonna of Humility with Musician Angels 1448/50
    Zanobi Strozzi 1412-1468
    -----------------
    「謙虚のマドンナ」。正式な弟子ではなかったとされるが、フラ・アンジェリコの影響を強く受け後継者とみられる。このタイトルの場合、マリアは王座に座らず、地面か、クッションの上に座っている。謙虚なので。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119001_Madonna%20dell%E2%80%99Umilt%C3%A0%20con%20due%20angeli%20musicanti

  • 2.Saint Nicholas of Tolentino 1454/1469<br />Piero della Francesca 1415/20-1492<br />ピエロ・デラ・フランチェスカ<br />----------------------<br />イタリアルネサンス初期を代表する15世紀ウンブリア派最大の巨匠。ボッティチェッリなどより一世代前の画家。この絵は、もともとある教会にあった、1つの多翼祭壇画にあった4つの絵のひとつ。残りの3つはばらばらに、それぞれの美術館で所蔵されている。描かれているのはトレンティーノの聖ニコラウス(1245-1305 年)は、イタリア中部マルケ地方の街トレンティーノで生きたアウグスチノ隠修士会の修道士で聖人。<br /><br />ちなみにサンタクロースのもとになった聖ニコラウスは3~4世紀に生きていたギリシャ人司教でイタリアのバーリに遺骨は収められている。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/122019_S.Nicola%20da%20Tolentino<br />https://www.wikiart.org/en/piero-della-francesca/st-john-the-evangelist-and-st-nicholas-of-tolentino

    2.Saint Nicholas of Tolentino 1454/1469
    Piero della Francesca 1415/20-1492
    ピエロ・デラ・フランチェスカ
    ----------------------
    イタリアルネサンス初期を代表する15世紀ウンブリア派最大の巨匠。ボッティチェッリなどより一世代前の画家。この絵は、もともとある教会にあった、1つの多翼祭壇画にあった4つの絵のひとつ。残りの3つはばらばらに、それぞれの美術館で所蔵されている。描かれているのはトレンティーノの聖ニコラウス(1245-1305 年)は、イタリア中部マルケ地方の街トレンティーノで生きたアウグスチノ隠修士会の修道士で聖人。

    ちなみにサンタクロースのもとになった聖ニコラウスは3~4世紀に生きていたギリシャ人司教でイタリアのバーリに遺骨は収められている。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/122019_S.Nicola%20da%20Tolentino
    https://www.wikiart.org/en/piero-della-francesca/st-john-the-evangelist-and-st-nicholas-of-tolentino

  • 3.Portrait of a Young Lady c1470<br />Piero del Pollaiolo 1443-1496<br />ピエロ・デル・ポッライオーロ<br />----------------------------<br />「若い貴婦人の肖像」<br /><br />この美術館のシンボルでルネッサンスを代表する女性像。<br /><br />ピエロ・デル・ポッライオーロまたはピエロ・ベンチ(Piero Benci)は、フィレンツェの出身のルネサンス期イタリアの画家。兄は美術家のアントニオ・デル・ポッライオーロで、よく二人で一緒に仕事をした。二人の作品はともに古典主義の影響が見受けられ、また人体解剖学への関心の高さも示している。伝えられるところでは、兄弟は知識の向上のため、実際に解剖を行ったといわれている。1496年にローマで死去。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』には、ピエロ・デル・ポッライオーロのことも記されている。(wikiより)<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119286_Ritratto%20di%20Dama

    3.Portrait of a Young Lady c1470
    Piero del Pollaiolo 1443-1496
    ピエロ・デル・ポッライオーロ
    ----------------------------
    「若い貴婦人の肖像」

    この美術館のシンボルでルネッサンスを代表する女性像。

    ピエロ・デル・ポッライオーロまたはピエロ・ベンチ(Piero Benci)は、フィレンツェの出身のルネサンス期イタリアの画家。兄は美術家のアントニオ・デル・ポッライオーロで、よく二人で一緒に仕事をした。二人の作品はともに古典主義の影響が見受けられ、また人体解剖学への関心の高さも示している。伝えられるところでは、兄弟は知識の向上のため、実際に解剖を行ったといわれている。1496年にローマで死去。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』には、ピエロ・デル・ポッライオーロのことも記されている。(wikiより)

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119286_Ritratto%20di%20Dama

  • 4.The Virgin and Child (Madonna of the Book) 1480/81<br />Sandro Botticelli 1445-1510<br />サンドロ・ボッティチェッリ<br />---------------------<br />「Madonna of the Book」<br /><br />サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi)といい、ボッティチェッリは兄が太っていたことから付いた「小さな樽」という意味のあだ名である。初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家。フィリッポ・リッピの元で学び(師の息子のフィリッピーノ・リッピは彼に師事していた)、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。特にギリシャ文化に純粋に傾倒したと見られる『春』『ヴィーナスの誕生』は教科書に載るぐらい有名。<br />1492年、メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めた。そのためボッティチェッリも神秘主義的な宗教画を描くようになる。ボッティチェッリはサヴォナローラの反対派からの画の注文もよく受けており、こうした事実は彼がヴァザーリの記すよりはずっと自由な立場にいたようである。この時期以降の作品は精彩を欠くとして評価は高くない。1501年頃には制作を止める。その後400年にわたり忘れ去られてしまい、やっと受け入れられるようになったのは19世紀末でイギリスのラファエル前派に注目されたことから名声が広まったという経緯がある。(wikiより)<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/122017_Madonna%20con%20il%20Bambino

    4.The Virgin and Child (Madonna of the Book) 1480/81
    Sandro Botticelli 1445-1510
    サンドロ・ボッティチェッリ
    ---------------------
    「Madonna of the Book」

    サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi)といい、ボッティチェッリは兄が太っていたことから付いた「小さな樽」という意味のあだ名である。初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家。フィリッポ・リッピの元で学び(師の息子のフィリッピーノ・リッピは彼に師事していた)、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。特にギリシャ文化に純粋に傾倒したと見られる『春』『ヴィーナスの誕生』は教科書に載るぐらい有名。
    1492年、メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めた。そのためボッティチェッリも神秘主義的な宗教画を描くようになる。ボッティチェッリはサヴォナローラの反対派からの画の注文もよく受けており、こうした事実は彼がヴァザーリの記すよりはずっと自由な立場にいたようである。この時期以降の作品は精彩を欠くとして評価は高くない。1501年頃には制作を止める。その後400年にわたり忘れ去られてしまい、やっと受け入れられるようになったのは19世紀末でイギリスのラファエル前派に注目されたことから名声が広まったという経緯がある。(wikiより)

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/122017_Madonna%20con%20il%20Bambino

  • 5.The Dead Christ Mourned 1495/1500<br />Sandro Botticelli 1445-1510<br />サンドロ・ボッティチェッリ<br />---------------------<br />「死せるキリストへの哀悼」<br /><br />同じ作者とは思えないほど、『春』『ヴィーナスの誕生』とは趣の異なる絵。<br />ジャン・ジャコモが最後に購入した絵。<br /><br />※参照画像データなし。

    5.The Dead Christ Mourned 1495/1500
    Sandro Botticelli 1445-1510
    サンドロ・ボッティチェッリ
    ---------------------
    「死せるキリストへの哀悼」

    同じ作者とは思えないほど、『春』『ヴィーナスの誕生』とは趣の異なる絵。
    ジャン・ジャコモが最後に購入した絵。

    ※参照画像データなし。

  • 6.The Virgin and Child with Two Angels 1495/1500<br />Pietro Vannucci detto il Perugino /workshop of. 1448c-1523<br />ペルジーノ(工房)<br />---------------<br /><br />ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家。<br />1450年頃、ペルージャ近郊のチッタ・デッラ・ピエーヴェに生まれる。本名はピエトロ・ヴァンヌッチ。「ペルジーノ」は「ペルージャ人」の意味。 フィレンツェのヴェロッキオの工房にて油彩を習得した。 当時極めて人気の高い画家であり、多くの助手や徒弟を抱えて制作活動を展開したが、その注文の多さが原因で同じモチーフを繰り返しつつも質の劣る作品を描いた。<br />ペルジーノの事績のうち重要なことは、ボッティチェリ、ギルランダイオらとともに、バチカン、システィーナ礼拝堂の壁画装飾を担当したことであり、この壁画制作にあたり棟梁的な役目を果たしたとみなされている。若きラファエロの師でもあった。イタリア中から発注を受け「神のごとき画家」と賞賛されるも、宗教改革以降に多くの祭壇画が散逸してしまった。(wikiより)<br /><br />この絵は当初はマリアの独特の柔らかな表情やこの構図から、ペルジーノが描いたと思われていたが、その後、2人の天使がペルジーノらしくなく、どちらかというとラファエロに近いということで、工房作となっている。<br /><br />※参照画像データなし

    6.The Virgin and Child with Two Angels 1495/1500
    Pietro Vannucci detto il Perugino /workshop of. 1448c-1523
    ペルジーノ(工房)
    ---------------

    ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家。
    1450年頃、ペルージャ近郊のチッタ・デッラ・ピエーヴェに生まれる。本名はピエトロ・ヴァンヌッチ。「ペルジーノ」は「ペルージャ人」の意味。 フィレンツェのヴェロッキオの工房にて油彩を習得した。 当時極めて人気の高い画家であり、多くの助手や徒弟を抱えて制作活動を展開したが、その注文の多さが原因で同じモチーフを繰り返しつつも質の劣る作品を描いた。
    ペルジーノの事績のうち重要なことは、ボッティチェリ、ギルランダイオらとともに、バチカン、システィーナ礼拝堂の壁画装飾を担当したことであり、この壁画制作にあたり棟梁的な役目を果たしたとみなされている。若きラファエロの師でもあった。イタリア中から発注を受け「神のごとき画家」と賞賛されるも、宗教改革以降に多くの祭壇画が散逸してしまった。(wikiより)

    この絵は当初はマリアの独特の柔らかな表情やこの構図から、ペルジーノが描いたと思われていたが、その後、2人の天使がペルジーノらしくなく、どちらかというとラファエロに近いということで、工房作となっている。

    ※参照画像データなし

  • 7.Imago Pietatis 1460/1470<br />Giovanni Bellini 1427c-1516<br />ジョヴァンニ・ベッリーニ<br />---------------------<br />ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだルネッサンス期ヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠である。場面的には今から埋葬されるところだと思うのだが、棺の中で立っているし、誰も周りにいないのが気になる。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123127_Imago%20Pietatis

    7.Imago Pietatis 1460/1470
    Giovanni Bellini 1427c-1516
    ジョヴァンニ・ベッリーニ
    ---------------------
    ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだルネッサンス期ヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠である。場面的には今から埋葬されるところだと思うのだが、棺の中で立っているし、誰も周りにいないのが気になる。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123127_Imago%20Pietatis

  • 8.Portrait of a Gentleman 1510/20<br />Giorgione /circle of 1478-1510<br />ジョルジョーネ(と考えられている)<br />-----------------------<br />ジョルジョーネ(伊: Giorgione、1477年/1478年頃 - 1510年)は、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家。本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco) 。形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実にジョルジョーネの絵画であると見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。その人物像と作品の記録がほとんど残っておらず、ジョルジョーネは西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人となっている。ジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行し、ティッツァーノとは兄弟弟子と考えられている。多くの美術史家から間違いなくジョルジョーネの作品であると認定された5点の絵画とは『テンペスタ』、『三人の哲学者』、『眠れるヴィーナス』、『矢を持つ少年』、そして異論も出ているが『フルートを持つ歌手』である。『テンペスタ』(ヴェネチア・アカデミア美術館9はジョルジョーネだけの手で完成させたと広く認められている唯一の絵画である。その他にジョルジョーネの生まれ故郷カステルフランコの聖堂にある『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』と呼ばれることもある『カステルフランコ祭壇画』もジョルジョーネの真作であるという評価が高い絵画だが、ドイツの倉庫に描かれていた祭壇画の一部だったとする説もある。ウィーンの美術史美術館所蔵の『ラウラ』には絵画裏面ではあるが、唯一ジョルジョーネ自身の署名と制作日付が残されている。<br />33歳という若さで亡くなったジョルジョーネだが、その死後もティツィアーノや17世紀の画家たちに大きな影響を与え続けた。ジョルジョーネは下絵をせずに絵画を描き、感傷的な表現をその作品に持ち込むことはなかった。風景と人物が一体となった絵画を描いた最初の画家で、宗教、寓意、歴史などの意味を持たない小作品という新しい絵画ジャンルの創始者となった。鮮やかにきらめき、そして溶け合うような色彩感覚を身につけた画家であり、その作品は全てのヴェネツィア絵画を代表する絵画となっていった。(Wikiより)<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121647_Ritratto%20di%20gentiluomo

    8.Portrait of a Gentleman 1510/20
    Giorgione /circle of 1478-1510
    ジョルジョーネ(と考えられている)
    -----------------------
    ジョルジョーネ(伊: Giorgione、1477年/1478年頃 - 1510年)は、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家。本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco) 。形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実にジョルジョーネの絵画であると見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。その人物像と作品の記録がほとんど残っておらず、ジョルジョーネは西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人となっている。ジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行し、ティッツァーノとは兄弟弟子と考えられている。多くの美術史家から間違いなくジョルジョーネの作品であると認定された5点の絵画とは『テンペスタ』、『三人の哲学者』、『眠れるヴィーナス』、『矢を持つ少年』、そして異論も出ているが『フルートを持つ歌手』である。『テンペスタ』(ヴェネチア・アカデミア美術館9はジョルジョーネだけの手で完成させたと広く認められている唯一の絵画である。その他にジョルジョーネの生まれ故郷カステルフランコの聖堂にある『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』と呼ばれることもある『カステルフランコ祭壇画』もジョルジョーネの真作であるという評価が高い絵画だが、ドイツの倉庫に描かれていた祭壇画の一部だったとする説もある。ウィーンの美術史美術館所蔵の『ラウラ』には絵画裏面ではあるが、唯一ジョルジョーネ自身の署名と制作日付が残されている。
    33歳という若さで亡くなったジョルジョーネだが、その死後もティツィアーノや17世紀の画家たちに大きな影響を与え続けた。ジョルジョーネは下絵をせずに絵画を描き、感傷的な表現をその作品に持ち込むことはなかった。風景と人物が一体となった絵画を描いた最初の画家で、宗教、寓意、歴史などの意味を持たない小作品という新しい絵画ジャンルの創始者となった。鮮やかにきらめき、そして溶け合うような色彩感覚を身につけた画家であり、その作品は全てのヴェネツィア絵画を代表する絵画となっていった。(Wikiより)

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121647_Ritratto%20di%20gentiluomo

  • 9.Saint Sebastian 1490/1500<br />Carlo Crivelli 1430c-1495c<br />カルロ・クリヴェッリ<br />------------------------<br />「聖セバチアヌス」<br />イタリアのルネサンス初期のヴェネツィア生まれ画家。パドヴァ派の工房の系統の画家と推測されている。15世紀に流行した、金箔を施した黄金地のパネルに明澄な色彩で描かれた祭壇画は、ビザンティン美術風の流れを汲む豪奢さにあふれている。古典主義的だが気品のあるフォルムは精緻を極め、聖人画ではあるが高貴なエロティシズムが画面に満ちている。 この時代、人物ごとに個別のパネルに描く祭壇画(多翼祭壇画)は主流では無くなっていたが、後年までこの伝統的なヴェネツィアパドヴァ・タイプの構成や装飾手法で描き続けた。画業への評価は高く、1490年にナポリ公から騎士の称号を得たとの記述が残る。19世紀初頭までは殆どの祭壇画は元の場所にあったと考えられているが、ナポレオンの侵攻とイタリア統一の混乱により取り外され、世界中に散逸した。現在では、運よく残された僅かな作品が一部の礼拝堂に存在するのみである。(Wikiより)<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123126_S.%20Sebastiano

    9.Saint Sebastian 1490/1500
    Carlo Crivelli 1430c-1495c
    カルロ・クリヴェッリ
    ------------------------
    「聖セバチアヌス」
    イタリアのルネサンス初期のヴェネツィア生まれ画家。パドヴァ派の工房の系統の画家と推測されている。15世紀に流行した、金箔を施した黄金地のパネルに明澄な色彩で描かれた祭壇画は、ビザンティン美術風の流れを汲む豪奢さにあふれている。古典主義的だが気品のあるフォルムは精緻を極め、聖人画ではあるが高貴なエロティシズムが画面に満ちている。 この時代、人物ごとに個別のパネルに描く祭壇画(多翼祭壇画)は主流では無くなっていたが、後年までこの伝統的なヴェネツィアパドヴァ・タイプの構成や装飾手法で描き続けた。画業への評価は高く、1490年にナポリ公から騎士の称号を得たとの記述が残る。19世紀初頭までは殆どの祭壇画は元の場所にあったと考えられているが、ナポレオンの侵攻とイタリア統一の混乱により取り外され、世界中に散逸した。現在では、運よく残された僅かな作品が一部の礼拝堂に存在するのみである。(Wikiより)

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123126_S.%20Sebastiano

  • この絵も散財した部分の一部。<br />ガラスで保護されて展示されていました。

    この絵も散財した部分の一部。
    ガラスで保護されて展示されていました。

  • 10.The Virgin and Child 1490/1500<br />Andrea Mantegna 1431-1506<br />アンドレア・マンテーニャ<br />--------------------<br />「聖母子」<br /><br />ルネッサンス期パドヴァ派の代表格。⑤ブレラ美術館で紹介した短縮法で描かれた「死せるキリスト」の画家。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123131_Madonna%20con%20Bambino

    10.The Virgin and Child 1490/1500
    Andrea Mantegna 1431-1506
    アンドレア・マンテーニャ
    --------------------
    「聖母子」

    ルネッサンス期パドヴァ派の代表格。⑤ブレラ美術館で紹介した短縮法で描かれた「死せるキリスト」の画家。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/123131_Madonna%20con%20Bambino

  • 11.The Virgin and Child c1490<br />Giovanni Antonio Boltraffio 1467-1516<br />ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ<br />-------------<br />「聖母子」<br />ロンバルディア、ミラノの貴族の出で盛ルネッサンス期のイタリア画家。レオナルドダヴィンチの工房で仕事をし、このボルトラッフィオとベルナルディーノ・ルイーニ(Bernardino Luini) はそこから頭角を現した。この絵はレオナルドの絵の構図をベースに描かれたと思われる。<br /><br />※参照画像データなし。

    11.The Virgin and Child c1490
    Giovanni Antonio Boltraffio 1467-1516
    ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ
    -------------
    「聖母子」
    ロンバルディア、ミラノの貴族の出で盛ルネッサンス期のイタリア画家。レオナルドダヴィンチの工房で仕事をし、このボルトラッフィオとベルナルディーノ・ルイーニ(Bernardino Luini) はそこから頭角を現した。この絵はレオナルドの絵の構図をベースに描かれたと思われる。

    ※参照画像データなし。

  • 12.The Virgin Nursing the Child c1500/1510<br />Lombard painter of the 16th century<br />作者不明(ロンバルディア地方の画家)<br />-------------------<br />ダヴィンチの「リッタのマドンナ」(エルミタージュ美術館)の構成をベースにした絵。幼子イエスは、左手に小鳥を握り、授乳を受けつつ、こちらを見つめているところが、ダヴィンチの絵と同じ。違いは後ろにカーテンと風景を描いたところ。マリアのヴェールは後から描きたしたものと思われる。<br /><br />※参照画像データなし<br /><br />ダヴィンチの「リッタのマドンナ」(エルミタージュ美術館)↓<br />https://www.wikiart.org/en/leonardo-da-vinci/madonna-litta-madonna-and-the-child

    12.The Virgin Nursing the Child c1500/1510
    Lombard painter of the 16th century
    作者不明(ロンバルディア地方の画家)
    -------------------
    ダヴィンチの「リッタのマドンナ」(エルミタージュ美術館)の構成をベースにした絵。幼子イエスは、左手に小鳥を握り、授乳を受けつつ、こちらを見つめているところが、ダヴィンチの絵と同じ。違いは後ろにカーテンと風景を描いたところ。マリアのヴェールは後から描きたしたものと思われる。

    ※参照画像データなし

    ダヴィンチの「リッタのマドンナ」(エルミタージュ美術館)↓
    https://www.wikiart.org/en/leonardo-da-vinci/madonna-litta-madonna-and-the-child

  • 13.The Virgin and Child with the Lamb c1515<br />Cesara da Sesto 1477-1523<br />------------------<br />こちらも、どこかで似た絵をみたような。ルーブル美術館にあるダヴィンチの「聖母子と聖アンナ」をベースにした絵((旅行記①ルーブル美術館でも6番目の絵で紹介)。大きな違いは、元絵にある聖アンナがいないこと。右後方の町もヨーロッパの街並みでダヴィンチの幽遠な感じはない。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119309_Madonna%20con%20Bambino%20e%20agnello<br /><br />レオナルドダヴィンチの「聖母子と聖アンナ」↓<br />https://www.wikiart.org/en/leonardo-da-vinci/the-virgin-and-child-with-st-anne-1510

    13.The Virgin and Child with the Lamb c1515
    Cesara da Sesto 1477-1523
    ------------------
    こちらも、どこかで似た絵をみたような。ルーブル美術館にあるダヴィンチの「聖母子と聖アンナ」をベースにした絵((旅行記①ルーブル美術館でも6番目の絵で紹介)。大きな違いは、元絵にある聖アンナがいないこと。右後方の町もヨーロッパの街並みでダヴィンチの幽遠な感じはない。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119309_Madonna%20con%20Bambino%20e%20agnello

    レオナルドダヴィンチの「聖母子と聖アンナ」↓
    https://www.wikiart.org/en/leonardo-da-vinci/the-virgin-and-child-with-st-anne-1510

  • 14.Rest during the Flight into Egypt 1515<br />Andrea Solario 1465c-1524<br />ソラーリオ(ソラーリ)<br />--------------<br />「エジプトへの逃避行途上の休息」<br /><br />ミラノ生まれ。ダヴィンチの重要な後継者のひとり。この絵は彼の絵の中でも傑作のひとつ(最も有名なものは、ルーブル美術館にある)。「エジプトへの逃避行途上の休息」はマタイの福音書にある、新約聖書の物語の1つから展開した主題のひとつです(それほど、多くの描写がないのでそれぞれの画家が、ある程度、場面を想像して描いている)<br /><br />ある日、ヘロデ王はユダヤの新王がベツレヘムにて誕生したことを予言で知ります。玉座を死守したいヘロデ王は、新王となる者を殺そうと、町に住む二歳以下の全ての幼児を殺すよう命じました。罪も無き赤子たちは母親の手から奪われ、無惨にも殺されたのです(幼児虐殺)。それより前、ベツレヘムに滞在していたキリストの養父ヨセフは夢で天使に「ヘロデ王が息子を殺そうとしています。2人を連れてエジプトへと逃げなさい。」と告げられた。ヨセフは慌てて二人を起こし、急いで夜中にエジプトへと出発しました。異国への道筋は険しく、荒野の中をひたすら進み続け、とうとうエジプトに着き、ヘロデ王が死去するまで滞在しました。ヘロデ王が病で死んだあと、家族三人はユダヤの土地へ向けて進み、ベツレヘムではなく元居た場所のナザレへと帰ったのです。<br />この絵はエジプトへの道中で休憩している様子。いろんな風景の中が描かれるがこの絵では、まだ、荒野という感じはしない。<br /><br />https://www.wikiart.org/en/andrea-solario/rest-during-the-flight-to-egypt-1515

    14.Rest during the Flight into Egypt 1515
    Andrea Solario 1465c-1524
    ソラーリオ(ソラーリ)
    --------------
    「エジプトへの逃避行途上の休息」

    ミラノ生まれ。ダヴィンチの重要な後継者のひとり。この絵は彼の絵の中でも傑作のひとつ(最も有名なものは、ルーブル美術館にある)。「エジプトへの逃避行途上の休息」はマタイの福音書にある、新約聖書の物語の1つから展開した主題のひとつです(それほど、多くの描写がないのでそれぞれの画家が、ある程度、場面を想像して描いている)

    ある日、ヘロデ王はユダヤの新王がベツレヘムにて誕生したことを予言で知ります。玉座を死守したいヘロデ王は、新王となる者を殺そうと、町に住む二歳以下の全ての幼児を殺すよう命じました。罪も無き赤子たちは母親の手から奪われ、無惨にも殺されたのです(幼児虐殺)。それより前、ベツレヘムに滞在していたキリストの養父ヨセフは夢で天使に「ヘロデ王が息子を殺そうとしています。2人を連れてエジプトへと逃げなさい。」と告げられた。ヨセフは慌てて二人を起こし、急いで夜中にエジプトへと出発しました。異国への道筋は険しく、荒野の中をひたすら進み続け、とうとうエジプトに着き、ヘロデ王が死去するまで滞在しました。ヘロデ王が病で死んだあと、家族三人はユダヤの土地へ向けて進み、ベツレヘムではなく元居た場所のナザレへと帰ったのです。
    この絵はエジプトへの道中で休憩している様子。いろんな風景の中が描かれるがこの絵では、まだ、荒野という感じはしない。

    https://www.wikiart.org/en/andrea-solario/rest-during-the-flight-to-egypt-1515

  • 15.The Holy Family with Saint John the Baptist c1535<br />Alessandro Bonvicino detto Il Moretto da Brescia 1498-1554<br />モレット<br />---------------------<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119198_Sacra%20Famiglia%20con%20San%20Giovanni%20Battista

    15.The Holy Family with Saint John the Baptist c1535
    Alessandro Bonvicino detto Il Moretto da Brescia 1498-1554
    モレット
    ---------------------

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/119198_Sacra%20Famiglia%20con%20San%20Giovanni%20Battista

  • 16.A saint in ecstasy c1640<br />Bernardo Cavallino 1616-1656<br />ベルナルド・カヴァッリーノ<br />--------------------<br />17世紀初頭のナポリ出身のバロック画家。ペスト大流行で画業半ばで生涯を終えた。その画風は、カラバッジョとムリーリョの中間とみなされる。<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121627_Santa%20in%20estasi<br />

    16.A saint in ecstasy c1640
    Bernardo Cavallino 1616-1656
    ベルナルド・カヴァッリーノ
    --------------------
    17世紀初頭のナポリ出身のバロック画家。ペスト大流行で画業半ばで生涯を終えた。その画風は、カラバッジョとムリーリョの中間とみなされる。

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121627_Santa%20in%20estasi

  • 17.Portrait of a Woman 1640/1650<br />Giovanni Martinelli 1600c-1659<br />ジョヴァンニ・マルティネッリ<br />---------------------<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121955_Ritratto%20di%20donna<br /><br />

    17.Portrait of a Woman 1640/1650
    Giovanni Martinelli 1600c-1659
    ジョヴァンニ・マルティネッリ
    ---------------------

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121955_Ritratto%20di%20donna

  • 18.Saint Cecilia 1635-1650<br />Giovanni battista Salvi detto Ii Sassoferrato 1609-1665<br />サッソフェラート<br />-----------------------<br />「聖セシリア」<br />セシリア(2世紀頃、生没年不詳)あるいは聖チェチリアは、キリスト教(カトリック教会・聖公会・正教会)の聖人。特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされる。記念日は11月22日。<br />英語ではシシーリア、スペイン語ではセシーリア、イタリア語および中世ラテン語ではチェチーリア、ドイツ語ではツェツィーリア (Cäcilia)、フランス語ではセシルないしはセシール (Cécile)、古典ラテン語(再建音)ではカエキリア (Caecilia) と呼ばれる。<br />ローマ生まれ。ローマ帝国の貴族であり、彼女が改宗させた夫や友人たちとともに、230年頃の皇帝アレクサンデル・セウェルスの時代に殉教した、と長らく伝えられていた。しかし、デ・ロッシの調査によると、ポワティエ司教フォルトゥナートゥス(没年600年)が、彼女は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代に176年から180年の間にシチリア島で非業の死を遂げたと記しているという。伝説によれば、セシリアは斬首刀の3打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたという。セシリアは、伝説によると神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと言い伝えられており、これが様々な芸術分野において霊感の出所となってきた。(wikiより)<br /><br />https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121598_Santa%20Cecilia<br />https://www.wikiart.org/en/giovanni-battista-salvi-da-sassoferrato/saint-cecilia-1650

    18.Saint Cecilia 1635-1650
    Giovanni battista Salvi detto Ii Sassoferrato 1609-1665
    サッソフェラート
    -----------------------
    「聖セシリア」
    セシリア(2世紀頃、生没年不詳)あるいは聖チェチリアは、キリスト教(カトリック教会・聖公会・正教会)の聖人。特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされる。記念日は11月22日。
    英語ではシシーリア、スペイン語ではセシーリア、イタリア語および中世ラテン語ではチェチーリア、ドイツ語ではツェツィーリア (Cäcilia)、フランス語ではセシルないしはセシール (Cécile)、古典ラテン語(再建音)ではカエキリア (Caecilia) と呼ばれる。
    ローマ生まれ。ローマ帝国の貴族であり、彼女が改宗させた夫や友人たちとともに、230年頃の皇帝アレクサンデル・セウェルスの時代に殉教した、と長らく伝えられていた。しかし、デ・ロッシの調査によると、ポワティエ司教フォルトゥナートゥス(没年600年)が、彼女は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代に176年から180年の間にシチリア島で非業の死を遂げたと記しているという。伝説によれば、セシリアは斬首刀の3打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたという。セシリアは、伝説によると神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと言い伝えられており、これが様々な芸術分野において霊感の出所となってきた。(wikiより)

    https://museopoldipezzoli.it/en/paintings/#/dettaglio/121598_Santa%20Cecilia
    https://www.wikiart.org/en/giovanni-battista-salvi-da-sassoferrato/saint-cecilia-1650

  • 19.Death of Saint Jerome c1732/33<br />Giovanni Battista Tiepolo 1696-1770<br />ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ<br />-------------------<br />「聖ヒエロニムス(ジェローム)の死」<br /><br />本名エウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420年9月30日)は、キリスト教の聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られる。四大ラテン教父のひとりであり、正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされる(カトリックでは教会博士)。<br />ヒエロニムスはダルマティア(現在のクロアチア)で生まれた。両親はキリスト教徒だったが、彼自身はキリスト教に興味がなく、ローマに留学したのも修辞学と哲学の勉強のためであった。ギリシア語を習得し、ガリアやアナトリア半島をめぐって古典の研究に没頭したが、373年ごろアンティオキアで重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意、シリアの砂漠で隠遁生活を送ってヘブライ語を学んだ。<br />378年に叙階されたあとはコンスタンティノポリスでナジアンゾスのグレゴリオスと知り合い、さらに382年、ローマへ行ってローマ教皇ダマスス1世に重用されるようになる。ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。彼は、旧約聖書はヘブライ語並びにアラム語原典から翻訳した。384年にダマスス1世が世を去ると、庇護を失ったヒエロニムスはローマを去って聖地エルサレムへ向かった。ベツレヘム、エルサレムだけでなくエジプトへも赴いて、自らの神学研究の幅を広げた。ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着くと、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年ごろ完成させた。この聖書こそが中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書であった。ウルガータ(Vulgata)はラテン語で「公布されたもの」という意味である。420年にベツレヘムで没するまでに、多くの神学的著作、書簡を残した。ギリシア語、ヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典知識を備えたヒエロニムスは、神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡をしるしている。(Wikiより)<br /><br />ライオンの足に刺さったトゲを抜いて治療してあげた逸話があることから、荒野にライオンとともに描かれることが多いが、荒野で天使に囲まれて死んでいる場面は珍しい。<br />※参照画像データなし<br />

    19.Death of Saint Jerome c1732/33
    Giovanni Battista Tiepolo 1696-1770
    ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
    -------------------
    「聖ヒエロニムス(ジェローム)の死」

    本名エウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420年9月30日)は、キリスト教の聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られる。四大ラテン教父のひとりであり、正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされる(カトリックでは教会博士)。
    ヒエロニムスはダルマティア(現在のクロアチア)で生まれた。両親はキリスト教徒だったが、彼自身はキリスト教に興味がなく、ローマに留学したのも修辞学と哲学の勉強のためであった。ギリシア語を習得し、ガリアやアナトリア半島をめぐって古典の研究に没頭したが、373年ごろアンティオキアで重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意、シリアの砂漠で隠遁生活を送ってヘブライ語を学んだ。
    378年に叙階されたあとはコンスタンティノポリスでナジアンゾスのグレゴリオスと知り合い、さらに382年、ローマへ行ってローマ教皇ダマスス1世に重用されるようになる。ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。彼は、旧約聖書はヘブライ語並びにアラム語原典から翻訳した。384年にダマスス1世が世を去ると、庇護を失ったヒエロニムスはローマを去って聖地エルサレムへ向かった。ベツレヘム、エルサレムだけでなくエジプトへも赴いて、自らの神学研究の幅を広げた。ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着くと、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年ごろ完成させた。この聖書こそが中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書であった。ウルガータ(Vulgata)はラテン語で「公布されたもの」という意味である。420年にベツレヘムで没するまでに、多くの神学的著作、書簡を残した。ギリシア語、ヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典知識を備えたヒエロニムスは、神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡をしるしている。(Wikiより)

    ライオンの足に刺さったトゲを抜いて治療してあげた逸話があることから、荒野にライオンとともに描かれることが多いが、荒野で天使に囲まれて死んでいる場面は珍しい。
    ※参照画像データなし

  • 20.Glory of All Saints 1733/34<br />Giovanni Battista Tiepolo 1696-1770<br />ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ<br />-------------------<br />Rovettaの祭壇画のスケッチ。<br /><br />※参照画像データなし

    20.Glory of All Saints 1733/34
    Giovanni Battista Tiepolo 1696-1770
    ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
    -------------------
    Rovettaの祭壇画のスケッチ。

    ※参照画像データなし

  • 21.Architectural Caprice with Classical Ruins and Buildings c1756<br />Giovanni Antonio Canal detto Canaletto 1697-1768<br />カナレット<br />-------------------------------<br />イタリア語のCapriccio(奇想画)の英訳はCaprice(気まぐれ)で合っているのだろうか。いずれにしても、ローマ遺跡を含めたこの景色はそれらしい奇想画。<br /><br />https://www.wikiart.org/en/canaletto/capriccio-with-classical-ruins-and-buildings

    21.Architectural Caprice with Classical Ruins and Buildings c1756
    Giovanni Antonio Canal detto Canaletto 1697-1768
    カナレット
    -------------------------------
    イタリア語のCapriccio(奇想画)の英訳はCaprice(気まぐれ)で合っているのだろうか。いずれにしても、ローマ遺跡を含めたこの景色はそれらしい奇想画。

    https://www.wikiart.org/en/canaletto/capriccio-with-classical-ruins-and-buildings

  • 22.Prato della Valle in Padua 1742-1746c<br />Antonio Canal detto Il Canaletto 1697-1768<br />カナレット<br />-------------------------------<br /><br />※参照画像データなし

    22.Prato della Valle in Padua 1742-1746c
    Antonio Canal detto Il Canaletto 1697-1768
    カナレット
    -------------------------------

    ※参照画像データなし

  • 23.View of San Marco square towards San Giorgio Maggiore 1745/60<br />Francesco Guardi 1712-1793<br />フランチェスコ・グアルディ<br />--------------------<br />ヴェネツィアで生まれのイタリアの都市景観画(Vedute)や奇想画(Capriccio)や風俗画を描いた画家。<br />兄弟のジョヴァンニ・アントニオ(Giovanni Antonio Guardi:1699-1760)と、ニコロ(Nicolò Guardi : 1715-1786)は画家になり、姉のマリア・セシリア(Maria Cecilia:1703-1779)は画家、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロと1719年に結婚している。<br />1735年から1741年まで、都市景観画の描き手でもあるミケーレ・マリエスキ(1710?1744)の工房で学んだ。兄のジョヴァンニ・アントニオが1760年が死去するまでは弟のニコロとともに、兄弟で経営する工房で働き、祭壇画などを描いていた。兄の没後、マリエスキやカナレットに学んだ都市景観画や、「奇想画」と呼ばれる実在する風景と空想上のものとを組み合わせた都市景観画を主に描き、カナレットも多く描いたヴェネツィアの街を描いて成功した。初めカナレットのような正確な風景描写から、より自由な独自の作風に移り、晩年は風俗画なども描いた。(Wikiより)<br />ヴェネチア、サンマルコ広場の眺め。現代もほぼ同じ。<br />※参照画像データなし

    23.View of San Marco square towards San Giorgio Maggiore 1745/60
    Francesco Guardi 1712-1793
    フランチェスコ・グアルディ
    --------------------
    ヴェネツィアで生まれのイタリアの都市景観画(Vedute)や奇想画(Capriccio)や風俗画を描いた画家。
    兄弟のジョヴァンニ・アントニオ(Giovanni Antonio Guardi:1699-1760)と、ニコロ(Nicolò Guardi : 1715-1786)は画家になり、姉のマリア・セシリア(Maria Cecilia:1703-1779)は画家、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロと1719年に結婚している。
    1735年から1741年まで、都市景観画の描き手でもあるミケーレ・マリエスキ(1710?1744)の工房で学んだ。兄のジョヴァンニ・アントニオが1760年が死去するまでは弟のニコロとともに、兄弟で経営する工房で働き、祭壇画などを描いていた。兄の没後、マリエスキやカナレットに学んだ都市景観画や、「奇想画」と呼ばれる実在する風景と空想上のものとを組み合わせた都市景観画を主に描き、カナレットも多く描いたヴェネツィアの街を描いて成功した。初めカナレットのような正確な風景描写から、より自由な独自の作風に移り、晩年は風俗画なども描いた。(Wikiより)
    ヴェネチア、サンマルコ広場の眺め。現代もほぼ同じ。
    ※参照画像データなし

  • 24.Architectual Caprice with Roman Ruins 1780/1785<br />Francesco Guardi 1712-1793<br />フランチェスコ・グアルディ<br />--------------------<br />ローマ遺跡が3つ前のカナレットが描いたものと似ている。そもそも、どこにもこんな遺跡は存在していない。その周りも全く異なり、こちらの絵は漁師が働く海岸沿いという設定になっている。実際の風景ではなく、それらしく見せている奇想画。<br /><br />※参照画像データなし

    24.Architectual Caprice with Roman Ruins 1780/1785
    Francesco Guardi 1712-1793
    フランチェスコ・グアルディ
    --------------------
    ローマ遺跡が3つ前のカナレットが描いたものと似ている。そもそも、どこにもこんな遺跡は存在していない。その周りも全く異なり、こちらの絵は漁師が働く海岸沿いという設定になっている。実際の風景ではなく、それらしく見せている奇想画。

    ※参照画像データなし

  • 25.Self-Portrait in a Group of Friends c1824<br />Francesco Hayez 1791-1882<br />フランチェスコ・アイエツ「キス」<br />--------------------<br />「友人たちに囲まれた肖像」<br /><br />アイエツの自画像。同じミラノにあるブレラ美術館にある「キス」(⑤ブレラ美術館38番目)の作者。<br /><br />https://www.wikiart.org/en/francesco-hayez/self-portrait-in-a-group-of-friends

    25.Self-Portrait in a Group of Friends c1824
    Francesco Hayez 1791-1882
    フランチェスコ・アイエツ「キス」
    --------------------
    「友人たちに囲まれた肖像」

    アイエツの自画像。同じミラノにあるブレラ美術館にある「キス」(⑤ブレラ美術館38番目)の作者。

    https://www.wikiart.org/en/francesco-hayez/self-portrait-in-a-group-of-friends

  • この邸宅美術館にある書斎。礼拝堂のよう。一番、奥にある。<br />第二次世界大戦時の爆撃により建物は損傷したが、ジャンが息をひきとった母の彫像が飾られたこの書斎は近年復元された。<br />

    この邸宅美術館にある書斎。礼拝堂のよう。一番、奥にある。
    第二次世界大戦時の爆撃により建物は損傷したが、ジャンが息をひきとった母の彫像が飾られたこの書斎は近年復元された。

  • Bust of Rosa Trivulzio Poldi Pezzoli 1828<br />Lorenzo Bartolini 1777-1850<br />ロレンツォ・バルトリーニ<br />-----------------<br />母の彫像。<br />

    Bust of Rosa Trivulzio Poldi Pezzoli 1828
    Lorenzo Bartolini 1777-1850
    ロレンツォ・バルトリーニ
    -----------------
    母の彫像。

  • ステンドグラスが美しい。

    ステンドグラスが美しい。

  • ステンドグラスが美しい。

    ステンドグラスが美しい。

  • ステンドグラスが美しい。

    ステンドグラスが美しい。

  • 拡大。

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  • 装飾が豪華。

    装飾が豪華。

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