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2019年10月20日(日)、パナマビエホ(Panama Viejo)後半。午後4時45分で閉園まであと15分。大聖堂(Catedral)は中央広場(Plaza Mayor)の東側にあるが、この広場の周りには大聖堂の他にもいろいろな遺跡が残る。なお、この広場、現在は東西60m、南北55mだが、元は正方形で、南側が削られている。その南側には遺跡はないが、東側の大聖堂の南隣、細い路地を挟んで接している建物跡は町議会棟(El Cabildo)。15m四方、ほぼ正方形の中2階を持つ建物で、建物の基礎のみが残っている。<br /><br />反対側、大聖堂の正面入口北側に位置するのが司教館・アラルコン邸跡(Casa del Obispo, Casa Alarcon)。元々は大聖堂で奉仕する司教の木造建物があったが、1640年代後半になってペドロ・デ・アラルコン(Pedro de Alarcon)に土地の所有権が移り、中2階を持つ石造邸宅が建てられた。南北45m、東西20mあり、1階と中2階が石造り、2階は板壁を有していたが、中2階以上は現存していない。1階部分は塀で囲まれた中央の中庭を挟んで南側に居住空間、北側に調理場を有する長方形。未だ全容解明には至ってない。<br /><br />この東側の奥にはジェノバ人の家(Los Genoveses)と呼ばれる、16世紀以降、黒人に特化した人身売買を独占的に行っていたジェノバ人の屋敷跡があるが、壁の一部が残るだけだそうで行ってない。また、その南には統治府(Casas Reales)と云う統治府長官事務所、統治府政庁舎、スペイン王室会計院、裁判所、牢獄などの建物群の跡もあるが、一部の建物礎石が残るのみだそうで、そこも行ってない。<br /><br />司教館・アラルコン邸跡からさらに北側にはサントドミンゴ修道院(Convento de Santo Domingo)がある。入れなかった北側の入口に一番近い遺跡。東西60m、南北55mの建物を有したドミニコ会(Orden de Predicadores)の男子修道院で、設立は16世紀の終わりから17世紀の初頭。建物は他の修道院と同様に中央に中庭があり、それを取り囲むように内庭回廊とその他の建物が立地していた。東側に礼拝堂等の主要建物があって左右非対称のようである。建物の西には王の道が通っていた。ここは結構壁などが残っている。<br /><br />中央広場に戻って、北側、サントドミンゴ修道院との間はテリン邸跡(Casas Terrin)。16世紀末から17世紀初頭の町の有力者フランシスコ・テリン(Francisco Terrin)の邸宅跡。現在は母屋部分(東西45m、南北30m程度)と北に接する2棟の小建物の基礎が若干残っているに過ぎないが、現存建物の内部には当時の個人邸宅としては珍しいアーチ型門が一部現存している。1600年の中央広場拡張と20世紀の大聖堂前のロータリー建設に伴って周辺の土地が改変されており、建物の南側が破壊されている可能性がある。なかなか大きさが想像できない。<br /><br />広場の西側は西の建物群(Casas Oeste)と呼ばれ、壁と思われる基礎部分と丸石を敷き詰めた床面、十字に交差する柱の礎石部分などだけが残る。鍛冶工房があったとする研究者もいるが、未だ定説はない。<br /><br />最後、中央広場から公園入口に戻る西方向へ戻ると、まずはコンパニアデヘスース修道院(Compania de Jesus)。16世紀後半から17世紀初頭にかけて建設された敷地東西85m、南北55mのイエズス会(Compania de Jesus)の修道院。教会建物の大祭壇正面の壁のみが明確に残っている。この壁上部には丸窓が残っており、ステンドグラスがはめ込まれていたものと推定されている。<br /><br />その西隣りは女子修道院(Las Monjas de Concepcion)。町で唯一の修道女のための施設。東西120m、南北60mの敷地の中に多くの建物があったことが当時の地図によって分かっている。1594年に貧しい家に育った少女や、身寄り・収入のない未亡人たち、親がいない農民の子供たちを救済するための女子修道院設立の提案が議会で承認され、1598年にペルー(Peru)のリマ(LIma)から院長と副院長、修道女の教育を担当する教師の総勢3名が呼び寄せられて設立された。<br /><br />17世紀に入り、テリン邸を建てたフランシスコ・テリン夫妻が新しい礼拝堂で結婚式を行うことを条件に私財を寄付し、現存する石造建物に作り変えられたが、1621年の地震によって大部分が崩落した。再建後間もない1671年、モーガン一味による町襲撃時に修道院長は修道女たちを小さな船に乗せてリマへと立ち去った。町の復興後は中心部に近い場所に再建を果たしたが、往時ほどの勢力を保つことはできなかった。現在は、礼拝堂の修復作業がほぼ終了し、床部分を補強して記念式典や演劇・ミニコンサート会場などとして現地に密着した利用が図られている(表紙写真)。これはいい感じだった。<br /><br />中庭に設置された屋根覆いのない半地下構造の施設は貯水タンク(Aljibe)。1594年に建設され、最大12,400リットルの水を溜めることができた。井戸水は海が近かったために飲料に適さず、上水道が敷設される20世紀の初頭まで使用されていた。<br /><br />女子修道院の南にはサン・フアン・デ・ディオス病院(Hospital de San Juan de Dios)。町で唯一の療養施設で、サン・フアン・デ・ディオス修道士によって土地が取得された17世紀には完成をしていたらしい。1620年には病院はまだ小さく、民有地を間借りしていた。付設の教会が当時の地図によって存在していたことが分かっている。現在は西側(45m)と北側(30m)に高い石壁が残っているのみ。<br /><br />閉園時間の5時になる。園内バスが来たので、乗せてもらい海の向こうの高速道路を見ながら入口に戻る。2017年オープンの、発掘された骨の展示や、文化や歴史を紹介する付属博物館(Centro de Visitantes de Panama Viejo)があるが、寄る時間がない。また、外にはコロンブス(Cristobal Colon)やイサベル1世(Isabel I de Castilla)などパナマビエホに関わった人たちの多くの銅像が飾られているが、これもゆっくり見ている時間がない。<br /><br />5時から5時10分前の間で予約したUberがまだ見当たらないので、急いで公園外の西地区へ。まずは10m四方の、現存する唯一の守備施設のクリスマス砦(Fuerte de la Natividad)。建設年代は不詳で、1607年以前の史料に見えないことからそれ以後の建設と推測される。数名の兵士が常時駐留し、若干の大砲が配備されていたが、総合的な守備能力は低かったそうだ。<br /><br />その奥にはマタデーロ橋(Puente del Matadero)。歴史的にも古いこの橋は、16世紀末から17世紀初頭にかけて木の橋から全長12mの石橋に架け替えられた。この橋の架かる川が市内と市外の境となっていた。最近の研究ではモーガン一味が町に入ったのはこの橋からと云われている。橋の先には犠牲の石(Piedra del Sacrificio)と呼ばれる石が飾られているが、本当は石臼らしい。元々この場所にあったが、1970年に園内のサンフランシスコ会修道院(Convento de San Francisco)近くに移されていたのを2008年に元の場所に戻したもの。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3457264597676873&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />5時5分、慌てて入口に戻ると、止まってる車が。聞いてみたら私が呼んだUberだった。良かった、これでスムースに移動できる。<br /><br /><br />と云うことで、カスコビエホへ続く。

パナマ パナマビエホ(続き)(Panama Viejo(Cont.), Ciudad de Panama, Panama)

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2019/10/20 - 2019/10/20

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ちふゆ

ちふゆさん

2019年10月20日(日)、パナマビエホ(Panama Viejo)後半。午後4時45分で閉園まであと15分。大聖堂(Catedral)は中央広場(Plaza Mayor)の東側にあるが、この広場の周りには大聖堂の他にもいろいろな遺跡が残る。なお、この広場、現在は東西60m、南北55mだが、元は正方形で、南側が削られている。その南側には遺跡はないが、東側の大聖堂の南隣、細い路地を挟んで接している建物跡は町議会棟(El Cabildo)。15m四方、ほぼ正方形の中2階を持つ建物で、建物の基礎のみが残っている。

反対側、大聖堂の正面入口北側に位置するのが司教館・アラルコン邸跡(Casa del Obispo, Casa Alarcon)。元々は大聖堂で奉仕する司教の木造建物があったが、1640年代後半になってペドロ・デ・アラルコン(Pedro de Alarcon)に土地の所有権が移り、中2階を持つ石造邸宅が建てられた。南北45m、東西20mあり、1階と中2階が石造り、2階は板壁を有していたが、中2階以上は現存していない。1階部分は塀で囲まれた中央の中庭を挟んで南側に居住空間、北側に調理場を有する長方形。未だ全容解明には至ってない。

この東側の奥にはジェノバ人の家(Los Genoveses)と呼ばれる、16世紀以降、黒人に特化した人身売買を独占的に行っていたジェノバ人の屋敷跡があるが、壁の一部が残るだけだそうで行ってない。また、その南には統治府(Casas Reales)と云う統治府長官事務所、統治府政庁舎、スペイン王室会計院、裁判所、牢獄などの建物群の跡もあるが、一部の建物礎石が残るのみだそうで、そこも行ってない。

司教館・アラルコン邸跡からさらに北側にはサントドミンゴ修道院(Convento de Santo Domingo)がある。入れなかった北側の入口に一番近い遺跡。東西60m、南北55mの建物を有したドミニコ会(Orden de Predicadores)の男子修道院で、設立は16世紀の終わりから17世紀の初頭。建物は他の修道院と同様に中央に中庭があり、それを取り囲むように内庭回廊とその他の建物が立地していた。東側に礼拝堂等の主要建物があって左右非対称のようである。建物の西には王の道が通っていた。ここは結構壁などが残っている。

中央広場に戻って、北側、サントドミンゴ修道院との間はテリン邸跡(Casas Terrin)。16世紀末から17世紀初頭の町の有力者フランシスコ・テリン(Francisco Terrin)の邸宅跡。現在は母屋部分(東西45m、南北30m程度)と北に接する2棟の小建物の基礎が若干残っているに過ぎないが、現存建物の内部には当時の個人邸宅としては珍しいアーチ型門が一部現存している。1600年の中央広場拡張と20世紀の大聖堂前のロータリー建設に伴って周辺の土地が改変されており、建物の南側が破壊されている可能性がある。なかなか大きさが想像できない。

広場の西側は西の建物群(Casas Oeste)と呼ばれ、壁と思われる基礎部分と丸石を敷き詰めた床面、十字に交差する柱の礎石部分などだけが残る。鍛冶工房があったとする研究者もいるが、未だ定説はない。

最後、中央広場から公園入口に戻る西方向へ戻ると、まずはコンパニアデヘスース修道院(Compania de Jesus)。16世紀後半から17世紀初頭にかけて建設された敷地東西85m、南北55mのイエズス会(Compania de Jesus)の修道院。教会建物の大祭壇正面の壁のみが明確に残っている。この壁上部には丸窓が残っており、ステンドグラスがはめ込まれていたものと推定されている。

その西隣りは女子修道院(Las Monjas de Concepcion)。町で唯一の修道女のための施設。東西120m、南北60mの敷地の中に多くの建物があったことが当時の地図によって分かっている。1594年に貧しい家に育った少女や、身寄り・収入のない未亡人たち、親がいない農民の子供たちを救済するための女子修道院設立の提案が議会で承認され、1598年にペルー(Peru)のリマ(LIma)から院長と副院長、修道女の教育を担当する教師の総勢3名が呼び寄せられて設立された。

17世紀に入り、テリン邸を建てたフランシスコ・テリン夫妻が新しい礼拝堂で結婚式を行うことを条件に私財を寄付し、現存する石造建物に作り変えられたが、1621年の地震によって大部分が崩落した。再建後間もない1671年、モーガン一味による町襲撃時に修道院長は修道女たちを小さな船に乗せてリマへと立ち去った。町の復興後は中心部に近い場所に再建を果たしたが、往時ほどの勢力を保つことはできなかった。現在は、礼拝堂の修復作業がほぼ終了し、床部分を補強して記念式典や演劇・ミニコンサート会場などとして現地に密着した利用が図られている(表紙写真)。これはいい感じだった。

中庭に設置された屋根覆いのない半地下構造の施設は貯水タンク(Aljibe)。1594年に建設され、最大12,400リットルの水を溜めることができた。井戸水は海が近かったために飲料に適さず、上水道が敷設される20世紀の初頭まで使用されていた。

女子修道院の南にはサン・フアン・デ・ディオス病院(Hospital de San Juan de Dios)。町で唯一の療養施設で、サン・フアン・デ・ディオス修道士によって土地が取得された17世紀には完成をしていたらしい。1620年には病院はまだ小さく、民有地を間借りしていた。付設の教会が当時の地図によって存在していたことが分かっている。現在は西側(45m)と北側(30m)に高い石壁が残っているのみ。

閉園時間の5時になる。園内バスが来たので、乗せてもらい海の向こうの高速道路を見ながら入口に戻る。2017年オープンの、発掘された骨の展示や、文化や歴史を紹介する付属博物館(Centro de Visitantes de Panama Viejo)があるが、寄る時間がない。また、外にはコロンブス(Cristobal Colon)やイサベル1世(Isabel I de Castilla)などパナマビエホに関わった人たちの多くの銅像が飾られているが、これもゆっくり見ている時間がない。

5時から5時10分前の間で予約したUberがまだ見当たらないので、急いで公園外の西地区へ。まずは10m四方の、現存する唯一の守備施設のクリスマス砦(Fuerte de la Natividad)。建設年代は不詳で、1607年以前の史料に見えないことからそれ以後の建設と推測される。数名の兵士が常時駐留し、若干の大砲が配備されていたが、総合的な守備能力は低かったそうだ。

その奥にはマタデーロ橋(Puente del Matadero)。歴史的にも古いこの橋は、16世紀末から17世紀初頭にかけて木の橋から全長12mの石橋に架け替えられた。この橋の架かる川が市内と市外の境となっていた。最近の研究ではモーガン一味が町に入ったのはこの橋からと云われている。橋の先には犠牲の石(Piedra del Sacrificio)と呼ばれる石が飾られているが、本当は石臼らしい。元々この場所にあったが、1970年に園内のサンフランシスコ会修道院(Convento de San Francisco)近くに移されていたのを2008年に元の場所に戻したもの。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3457264597676873&type=1&l=223fe1adec

5時5分、慌てて入口に戻ると、止まってる車が。聞いてみたら私が呼んだUberだった。良かった、これでスムースに移動できる。


と云うことで、カスコビエホへ続く。

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