2019/11/27 - 2019/11/29
1813位(同エリア6938件中)
杏仁豆腐さん
3日目、最終日。
ホテルを出て、タクシーで東福寺へ。紅葉の時期は、多くの人出賑わう東福寺。9時ごろには東福寺に到着。すでに多くの人が来ていました。
☆1日目
京都駅→(烏丸線)→北大路→taxi→常照寺→光悦寺→光悦茶屋(昼食)→今宮神社→大徳寺塔頭 総見院、興臨院、黄梅院→taxi→松前屋→taxi→イノダコーヒ本店→ホテル
夕食 京富庵(水炊き)
☆2日目
ホテル→taxi→出町ふたば→出町柳駅→(叡山電鉄本線)→八瀬比叡山口駅→八瀬もみじの小径→蓮華寺→瑠璃光院→赤山禅院→鷺森神社→圓光寺→一乗寺駅→(叡山電鉄本線)→出町柳駅→taxi→大極殿本舗 六角店 「栖園」→ホテル
夕食 京料理 貴与次郎(京会席)
☆3日目
ホテル→taxi→東福寺→即成院→戒光寺→今熊野観音寺→泉湧寺→雲龍院→お好み焼吉野(遅い昼食)→京都駅
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- タクシー 徒歩
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三井ガーデンホテル京都新町 別邸での2日目の朝食は、おかゆとパン。
サラダ、ヨーグルトも美味しかったです。。 -
タクシーに乗り、東福寺へ。東福寺に向かう人々が歩いていました。
東福寺に行く途中に、可愛らしいお地蔵様たちがいました。 -
通天橋・開山堂の拝観料は400円。
朝、9時ごろに着いたので、スムーズに入れました。 -
一面の紅葉はとてもきれいです。
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イチオシ
昨日は、曇りで小雨も降りましたが、今日はいい天気です。
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東福寺は、臨済宗東福寺派大本山の寺院です。
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京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えました。
明治の廃仏毀釈で規模が縮小されましたが、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。 -
東福寺は、京都随一の紅葉の名所です。
イロハモミジやモミジ、トウカエデなど、約2000本の美しい紅葉を見ることができます。 -
イチオシ
一面、モミジで覆われています。
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東福寺での紅葉の見どころは、「臥雲橋」「通天橋」からの眺めと、敷地内の渓谷「洗玉澗」です。
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鎌倉時代の摂政 九条道家が、九条家の菩提寺として、禅僧 円爾弁円(えんにべんえん・聖一国師)を開山に招き1236年から1255年まで19年を費やして造営しました。相次ぐ火災で大部分を焼失しましたが、1347年、前関白の一条経道により仏殿が再建されました。
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洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ「臥雲橋(がうんきょう)」「通天橋」「偃月橋(えんげつきょう)」という3本の木造橋廊が架かり、東福寺三名橋と呼ばれています。
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朝の陽ざしがきれいです。
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東福寺には、桜の木がほとんどありません。その理由として、将軍足利義持が画僧・吉山明兆に絵の褒美として望みを問うたところ、「境内に多くの桜を植えると後世に遊興の場になるため、それを禁じて欲しい」と言ったため、義持が桜の木を切ったとの話が伝えられています。
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朱色柿葺きの八角形をした愛染堂です。
元は、南北朝時代、東福寺の塔頭、三聖寺に建てられましたが、室戸台風で倒壊し、現在の地に、移築再建されました。愛染明王を祀っています。 -
東福寺の木造の橋廊
〇偃月橋(えんげつきょう)
1603年に再建された、東福寺から龍吟院と即宗院に通じる渓谷・洗玉澗に架かる木造橋廊で、重要文化財に指定されています。
〇臥雲橋(がうんきょう)
渓谷・洗玉澗に架かる木造橋廊で、一番西にあります。
〇通天橋
1961年に再建された、渓谷・洗玉澗に架かる木造橋廊で26メートルあります。 -
朝は人がそれほど多くはないです。
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通天橋の先にあるのが、開山堂。
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1819年(文政2年)に焼失した後、1823年(文政6年)に一条忠良によって再建された2階建の楼閣で、開山円爾像を安置します。
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美しい苔。
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まさしく紅葉の名所です。
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土日はすごい人出のようですが、平日の朝は比較的ゆっくり歩けます。
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東福寺の紅葉は、葉先が3つに分かれている「通天モミジ」が見られることで有名です。中国の宋から持ってきたとされる紅葉です。
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方丈唐門です。
明治14年の火事で方丈、庫裏、法堂、仏殿が焼失しました。その翌年、英照皇太后、昭憲皇后から、再興のための賜金が給わされました。 -
方丈(本坊)に入りました。
方丈の庭園は近代の造園家、重森三玲作です。方丈の四方に配されている国指定名勝の庭園です。 -
唐門です。
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東福寺方丈「八相の庭」という名称でしたが、2014年に国指定名勝に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」となりました。
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蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっています。蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現してあります。その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現しています。このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がないようです。
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従来は自然の山の表現であった苔山を、京都五山として表現したそうです。しかもここでは一切石を使用せず、山の大きさや高さによって、造形的な美を追求しました。
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西庭(井田の庭)です。
日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現してあります。 -
すてきなデザインです。
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通天橋が見えます。
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北庭(市松の庭)です。
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南の恩賜門内にあった敷石を利用し、石と苔を幾何学的な市松模様に配しています。
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苔が進出しています。
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どこを見ても素敵な風景です。
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東庭 (北斗七星の庭)です。
東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配しています。 -
方丈を出ました。
境内にはたくさんの出店。 -
龍吟庵に向かいます。
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東福寺の塔頭、龍吟庵(りょうぎんあん).
偃月橋(えんげつきょう)を渡ります。 -
こちらも紅葉の名所です。
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龍吟庵の方丈は国宝に指定されています。
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拝観受付近くの紅葉もいいものです。
龍吟庵は、東福寺塔頭の第一位とされ、毎年秋限定で公開されています。 -
龍吟庵の庭園は、昭和を代表する作庭家の重森三玲によるものです。
龍吟庵には3つの庭園があります。
南庭「無の庭」です。
竹垣は、雷がいくつも光って雷鳴が轟いているようです。 -
通天橋の混み具合からするとひっそりとしています。
雷が鳴り響き、次の庭に続きます。 -
西庭「龍門の庭」です。
景の中心となる石組は龍の頭と角で、そこから渦を巻くように龍を表現しています。 -
白砂は雲を表現し、龍が海中から黒雲に乗って昇天する姿が石組みで見立てられているそうです。
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庭園の奥には竹垣があり稲妻を表現しています。
龍と稲妻。 -
東庭「不離の庭」です。
解説してもらった女性の方の話がとても分かりやすかったです。
赤い砂は、鞍馬の赤石を砕いて敷いているそうです。 -
大明国師(東福寺を開山、龍吟庵を住居として使用)が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、2頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという話を表現したものです。
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中央に長石を臥せ、その両側に4つの石が円を描くように配置されています。
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龍吟庵ヲ出て、また偃月橋を渡ります。
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桃山時代(1603年)の建築で、重要文化財だということ感じながら渡ります。
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1603年の架設であることが天井に貼られた札でわかるそうです。
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橋の天井にも注目です。
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偃月橋を渡り終えました。
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本堂(仏殿)です。
1881年(明治14年)に仏殿と法堂が焼けた後、1917年(大正6年)から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成しました。
高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のものです。 -
内部を外から覗いてみます。
天井に竜の絵が見えます。堂本印象筆です。
本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作です。 -
三門です。
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものです。 -
五間三戸二重門です。五間三戸とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味です。
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11月1日~11月17日に三門特別公開がありました。
東福寺を後にし、泉涌寺方面を目指します。 -
即成院に来ました。
真言宗泉涌寺派の寺院で、泉涌寺の塔頭のひとつです。 -
与一の手洗い場があります。
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与一の手洗い場には興味深い参拝方法があります。
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即成院は、「平家物語」の屋島の合戦で、扇の的を射落としたことで有名な那須与一が、庵を結び没したといわれる、与一ゆかりのお寺です。
木の箱の扉を開けると。 -
ガチャガチャが入っていました。
200円を入れて、回すと、出てきました。 -
中に入っていたのは、おみくじと扇型シールと扇の形の紙石鹸です。
なつかしーい!紙石鹸!! -
願いを込めて、手を洗いました。
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現代的なオブジェも。
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狛犬が犬そのものです。
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即成院は明治時代以降は泉涌寺山内にありましたが、創建当初は伏見桃山にありました。近世の地誌には正暦3年(992年)、恵心僧都源信によって建立された光明院を始まりとするとあるが、定かではありません。
実際の創立者は藤原頼通の子で歌人、風流人として知られる伏見長者橘俊綱と考えられているそうです。
本堂の木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像26躯は、重要文化財です。 -
本尊阿弥陀如来が二十五菩薩を伴って人々を極楽浄土へと導く様子を表した「二十五菩薩お練り供養」。
本堂を来世・極楽浄土に、地蔵堂を現世に見立てて、その間に高さ約2メートル、長さ約60メートルの木製の橋を架け渡し、笙や龍笛などを奏でる楽人や修験者をはじめ、色鮮やかな衣装をまとった稚児らが散華をしながら練り歩きます。 -
金色の菩薩面は自由に手に取って、写真撮影もできます。
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こんなんです。
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笙や龍笛などの楽器も手に取ることができます。
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山崎賢人!
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本堂の裏には那須与一の墓に通じる道があります。
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那須与一のお墓です。
改修工事中のため、「お堂のない、お屋根のない状態」にてお参りが出来るようになっているそうです。
約100年ぶりにお日様のもとにお出ましになったとか。
源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受け京に向かう道中、突然の病に倒れました。伏見で療養していた際、与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰したそうです。そして、その霊験で病も癒え、「屋島の戦い」では、平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという素晴らしい武勲を立てたとされております。
与一はその後、即成院の阿弥陀さまの仏徳を感じ、京都に凱旋して戻り、すぐに出家し、残りの後半の人生を「源平の戦い」で、亡くなった方々の菩提を弔うという人生の選択肢をとり、京の地で平穏に暮らしましたが、最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなりました。そしてその後、境内には与一の遺徳を讃え、巨大な石塔のお墓が立てられました。(HPより)
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