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 獅子舞谷と天園で油を売っていたら、永福寺跡の門は閉められ、何年振りかで、戦後のどさくさに紛れて住み着いた住宅の前の道路を通るはめになってしまった。その道の途中に「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板がある。「三堂」を「みどう」と読むものと思い込んでいたのがだ、「さんどう」と読むということが分かった。<br /> 看板には、<br /> 「奥州平泉攻めなどで亡くなった数万の人々の鎮魂のために、源頼朝が平泉の中尊寺大長寿院の二階大堂を模して永福寺を建立したことが、現在の地名「二階堂」の由来となりました。「二階堂」の旧字名の一つである「三堂」は、その永福寺に、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂の三堂があったことに由来します。<br /> 三堂の前面に苑池をたたえる、荘厳な伽藍を誇った永福寺は、このあたりの景観とよく溶け合い、四季を通じて鎌倉の名勝の地となりました。鎌倉時代には歴代の将軍たちが境内で蹴鞠(けまり)や歌会を催したことは記録の伝えるところです。<br /> 「二階堂」には他にも鎌倉の歴史を物語る旧字名が残っていますが、「四ツ石」は総門、「西ヶ谷」「亀ヶ淵」は僧坊があったところといわれています。」<br />とある。<br /> しかし、これだけ長い解説文ではあるが、本質的な問題、何故この場所が永福寺の立地となったのか?あるいは、二階堂は何堂、例えば、釈迦堂、だったのか?はたまた、永福寺の宗派は?またまた、「三堂」、「四ツ石」、「西ヶ谷」、「亀ヶ淵」となる前は何という小字名であったのか?<br /> 歴史的には、頼朝は「鶴岡山」の山号を持つ鶴岡八幡宮寺を「鶴」岡に創建し、続いて、「亀」淵に永福寺を建立したというのが事実ではないか。そうであれば僧坊(塔頭)名だけではなく、「亀淵山」の山号であった可能性も考えられよう。すなわち、頼朝の生前には亀ヶ淵の小字名は有ったと考えるべきであろう。また、「新編鎌倉志」(貞享2年(1685年)に刊行)に記載された「獅子巖(ししがん)」は峰の頂上にあり、その麓の里に「獅子舞」という小字名が付けられているが、江戸時代には既にあったと考えられる。それが鎌倉時代まで遡るのかそこまではとても遡らないのか?<br /> このような本質的なことでさえ、鎌倉市(の文化財課)では20年以上掛けても明確にできなかったことも、誰もが「武家の古都・鎌倉」が世界遺産に落選したことを今更ながら実感し、納得できることである。<br />(表紙写真は「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板)

永福寺跡の看板

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2019/12/04 - 2019/12/04

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 獅子舞谷と天園で油を売っていたら、永福寺跡の門は閉められ、何年振りかで、戦後のどさくさに紛れて住み着いた住宅の前の道路を通るはめになってしまった。その道の途中に「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板がある。「三堂」を「みどう」と読むものと思い込んでいたのがだ、「さんどう」と読むということが分かった。
 看板には、
 「奥州平泉攻めなどで亡くなった数万の人々の鎮魂のために、源頼朝が平泉の中尊寺大長寿院の二階大堂を模して永福寺を建立したことが、現在の地名「二階堂」の由来となりました。「二階堂」の旧字名の一つである「三堂」は、その永福寺に、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂の三堂があったことに由来します。
 三堂の前面に苑池をたたえる、荘厳な伽藍を誇った永福寺は、このあたりの景観とよく溶け合い、四季を通じて鎌倉の名勝の地となりました。鎌倉時代には歴代の将軍たちが境内で蹴鞠(けまり)や歌会を催したことは記録の伝えるところです。
 「二階堂」には他にも鎌倉の歴史を物語る旧字名が残っていますが、「四ツ石」は総門、「西ヶ谷」「亀ヶ淵」は僧坊があったところといわれています。」
とある。
 しかし、これだけ長い解説文ではあるが、本質的な問題、何故この場所が永福寺の立地となったのか?あるいは、二階堂は何堂、例えば、釈迦堂、だったのか?はたまた、永福寺の宗派は?またまた、「三堂」、「四ツ石」、「西ヶ谷」、「亀ヶ淵」となる前は何という小字名であったのか?
 歴史的には、頼朝は「鶴岡山」の山号を持つ鶴岡八幡宮寺を「鶴」岡に創建し、続いて、「亀」淵に永福寺を建立したというのが事実ではないか。そうであれば僧坊(塔頭)名だけではなく、「亀淵山」の山号であった可能性も考えられよう。すなわち、頼朝の生前には亀ヶ淵の小字名は有ったと考えるべきであろう。また、「新編鎌倉志」(貞享2年(1685年)に刊行)に記載された「獅子巖(ししがん)」は峰の頂上にあり、その麓の里に「獅子舞」という小字名が付けられているが、江戸時代には既にあったと考えられる。それが鎌倉時代まで遡るのかそこまではとても遡らないのか?
 このような本質的なことでさえ、鎌倉市(の文化財課)では20年以上掛けても明確にできなかったことも、誰もが「武家の古都・鎌倉」が世界遺産に落選したことを今更ながら実感し、納得できることである。
(表紙写真は「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板)

  • 「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板。<br /> 「奥州平泉攻めなどで亡くなった数万の人々の鎮魂のために、源頼朝が平泉の中尊寺大長寿院の二階大堂を模して永福寺を建立したことが、現在の地名「二階堂」の由来となりました。「二階堂」の旧字名の一つである「三堂」は、その永福寺に、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂の三堂があったことに由来します。<br /> 三堂の前面に苑池をたたえる、荘厳な伽藍を誇った永福寺は、このあたりの景観とよく溶け合い、四季を通じて鎌倉の名勝の地となりました。鎌倉時代には歴代の将軍たちが境内で蹴鞠(けまり)や歌会を催したことは記録の伝えるところです。<br /> 「二階堂」には他にも鎌倉の歴史を物語る旧字名が残っていますが、「四ツ石」は総門、「西ヶ谷」「亀ヶ淵」は僧坊があったところといわれています。」<br />

    「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板。
     「奥州平泉攻めなどで亡くなった数万の人々の鎮魂のために、源頼朝が平泉の中尊寺大長寿院の二階大堂を模して永福寺を建立したことが、現在の地名「二階堂」の由来となりました。「二階堂」の旧字名の一つである「三堂」は、その永福寺に、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂の三堂があったことに由来します。
     三堂の前面に苑池をたたえる、荘厳な伽藍を誇った永福寺は、このあたりの景観とよく溶け合い、四季を通じて鎌倉の名勝の地となりました。鎌倉時代には歴代の将軍たちが境内で蹴鞠(けまり)や歌会を催したことは記録の伝えるところです。
     「二階堂」には他にも鎌倉の歴史を物語る旧字名が残っていますが、「四ツ石」は総門、「西ヶ谷」「亀ヶ淵」は僧坊があったところといわれています。」

  • 「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板。

    「~鎌倉の旧地名~三堂(さんどう)」看板。

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