2019/08/06 - 2019/08/06
4位(同エリア1553件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2019/08/06
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夕食 Antonio Perez(アントニオ・ペレス)
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バスでの移動
レストラン→アルハンブラ宮殿(チケット売場)
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徒歩での移動
アルハンブラチケット売場→裁きの門近くのDuerta de los Carros(車用の門)
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Duerta del Vino(葡萄酒の門)
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Patio de Machuca(マチューカ庭園)
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Sala de Mexuar(メスアールの門)
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Facade de Comares(コマレスのファサード)
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Cuarto Dorado(黄金の間)
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Patio de Arrayanes(アラヤネスの中庭)
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Sala de la Barca(バルカ(舟)の間)
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Sala de Embajador(大使の間)
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Sala de Washington Irving(ワシントン・アーヴィングの部屋)
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Sala de las Dos Hermanes(二姉妹の間)
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Patio de los Linderaja(リンダラハの中庭)
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Patio de los Liones(ライオンの中庭)
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Sala de Abencerrajs(アベンセラヘスの間)
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Sala de los Reyes(諸王の間)
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Palacio de Carlos Ⅴ(カルロス5世の王宮)
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徒歩での移動
カルロス5世の王宮→チケット売場
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この旅行記スケジュールを元に
「赤い城」と呼ばれたアルハンブラ宮殿。
これには諸説あります。
・アルハンブラの丘が裸山で土質が赤かったから
・最初のナスル朝の王の仇名が「アル・ハマール(赤)」だったから
・城壁の建設は昼夜を問わずに行われ、夜には篝火が赤々と燃やされていてグラナダの平野から見ていた人々には闇の丘に赤く浮かぶ城壁が「アル・ハムラ」・・・「赤」と呼ばれるようになったから
3つ目のはちょっとロマンチックです。
実際にはお城が築かれる以前からあった城塞が、赤い粘土質の壁で築かれていたからのようです。
ただ王宮を建設し始めたのは、1238年からです。
つまりはレコンキスタが進展している時期になってからです。
1236年には近くのコルドバも陥落してしまいました。そしてセビリアの運命も風前の灯という状態でした。
そんな中、Mohamed ben Al-Hamar(ムハンマド・ベン・アルハマール)、Mohamed I(略してムハンマド1世)が、ここにナスル朝グラナダ王国を創始して、そしてアルハンブラを築き始めました。
まずはダーロ川の上流から王室専用の水道をひきました。そして丘の周囲にアルカサバ(城塞都市)を建設し、その後150年間で王宮、ヘネラリフェを含む現在のアルハンブラが建設されました。
【旅程】
8月2日(金)
羽田14時05分発→フランクフルト18時45分着
ルフトハンザ航空LH717便(11時間40分)
↓
フランクフルト21時00分発→バルセロナ23時00分着
ルフトハンザ航空LH1138便(2時間)
8月3日(土)
バルセロナ市内観光
カサ・バトリョ→カサ・ミラ→サンパウ病院→サグラダ・ファミリア→カタルーニャ広場→カテドラル
↓
タラゴナ
ラス・ファレラス水道橋
↓
バレンシア
8月4日(日)
バレンシア観光
ラ・ロンハ
↓
ラ ・マンチャ地方
クエンカ市内観光
↓
ラ・マンチャ地方
カンポ・デ・クリプターナ
↓
マドリッド
8月5日(月)
マドリッド市内観光
プラド美術館
↓
トレド観光
カテドラル→サント・トメ教会
マドリッド
8月6日(火)
コルドバ観光
花の小径→メスキータ
↓
グラナダ
アルハンブラ宮殿●
8月7日(水)
グラナダ市内観光
カテドラル
↓
ミハス
↓
セビリア
フラメンコショー鑑賞
8月8日(木)
セビリア市内観光
スペイン広場→カテドラル→ムリーリョ公園→アルカサル→カテドラル→ヒラルダの塔→黄金の塔
↓
エヴォラ歴史地区観光
ディアナ神殿→ロイオス教会→カテドラル→サン・フランシスコ教会
↓
リスボン
8月9日(金)
ロカ岬
↓
ジェロニモス修道院→ベレンの塔→発見のモニュメント
↓
シントラ観光
シントラ王宮
↓
リスボン
8月10日(土)
リスボン発7時15分→フランクフルト11時15分着
ルフトハンザ航空LH1173便(3時間)
↓
フランクフルト18時10分発→
8月11日(日)
羽田12時15分着
ルフトハンザ航空LH716便(11時間05分)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
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この日は昼頃にコルドバに行き、そしてこのグラナダにやって来ました。
アルハンブラ宮殿が見えてきました。
今回は夜間特別入場をします。
いつもより早目に夕食をとってから向かいます。
「アルハンブラ! アルハンブラ!
魔人が夢のように 黄金で飾り 調和で満たした宮殿よ」
「Les Orientales(東方詩集)」
Victor-Marie-Hugo(ヴィクトル=マリー・ユーゴー)より -
あまり食欲はありませんが・・・。
まずは野菜サラダ -
牛肉の煮込み
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カスタードプリンだったかと思います。
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チケット売場あたりまでバスで向かいます。
このバスは私たちが乗ったバスではありませんが・・・。 -
何だか微妙な写真ですが城壁です。
少し丸みを帯びてますので、城壁の塔の部分のようです。おそらくPuerta de Siete Suelos(7層の塔)の付近ではないかと思います。
伝承ではナスル朝最後の王であるBoabdil(ボアブディル)王がアルハンブラを引き渡す時、この門をくぐったと言われています。
そして王はその後この門を誰もくぐることがないようにと言ったため、それ以来永遠に閉じられたままになりました。
城壁の外側なのでわかりませんが、おそらく内側には塞がれた門の跡があるかと思います。
また門の上部には「神のみぞ 勝者なり」との文字が刻まれています。これは裁きの門と同じです。
そのような理由から2つの門は同時代のものと思われているようです。
ただしカスティーリャ出身のロドリゲス・デ・アルディーラという人物によると、1492年1月2日のグラナダ王国降伏式の折の描写には次のように書かれているそうです。
・・・ボアブディルは約50名の騎兵の先頭に立ち、正門である「裁きの門」から出てきました。そしてフェルナンド王とイザベル女王を筆頭に勢ぞろいしたキリスト教徒軍と対面し、フェルナンド王に近づいて、被り物を脱いで、あぶみから足を外しました。その際にフェルナンド王は、馬から降りなくても良いと言ったそうです。
でもボアブディルはフェルナンド王に近づいて、王の腕に接吻をし、アルハンブラの2つの鍵を王に手渡しました。そしてこう言いました。
「神の覚えめでたい方。これはパラダイスの鍵です。」と。・・・
パラダイスの鍵・・・・これは彼が無血開城した事がわかる言葉かもしれません。
そんな最後の王の思いが詰まった宮殿にこれから向かいます。 -
たしか記憶に間違いなければ、向こう側にある建物付近は、囚人を監禁するために使われた地下牢だったと思います。
それが井戸のような形をしていたので、ムスリムたちは先ほどの写真の塔をBib al-Gudur(井戸の門)と呼んでいたそうです。
ただし現在は塔の向かい側にある建物は結婚式場になっています。
地下牢と結婚式場では雲泥の差です。
ここで挙式される方は、かつて地下牢だったことをご存知なのでしょうか・・・。 -
バスから降りて、ガイドさんと待ち合わせをしました。
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木々に囲まれている坂道を登って行きます。
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下の道から見上げた様子です。
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門は車1台が通れるぐらいの幅です。
もっともここまでは、徒歩で向かいました。 -
Puerta de la Justicia(裁きの門)から入場したかったのですが、すぐそばのPuerta de los Carros(車用の門)からの入場です。
ちなみに裁きの門にはアーチの要石に大きな手が彫り込まれてます。
車寄せの内側にも大きな鍵が彫刻されてます。
手はイスラム教では、預言者ムハンマドの教えのエンブレムだそうで、5本の指は五大戒律を表しているそうです。
そして鍵は信仰、又は信仰の力のエンブレムで預言者ムハンマドに渡されたダヴィデの鍵を表すそうです。
「私は彼の肩にダヴィデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はないだろう。」イザヤ書22章22節を受けたものと思われるそうです。
イスラム教徒はスペインを征服した時に、「十字架」に対抗し、戦旗に「鍵」を紋章として掲げました。これはムハンマドに授けられた制圧の力を表します。
「ダヴィデの鍵を持つ方、この方が開けると、誰も閉じる事がなく、この方が閉じると、誰も開ける事ができない。」ヨハネ黙示録3章7節にあります。
※ イスラムの五大戒律は断食、聖地巡礼、施し、沐浴、異端者に対する戦いと参考文献にはありましたがが、いわゆる六信五行の五行は、一般的には信仰の告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼と言われているようです。 -
門のアーチの先には、Igresia de Santa Maria de la Alhambra(サンタ・マリア教会)がちらりと見えます。
昔はモスクだった場所が、教会に建て替えられたようです。 -
本来はヘネラリーフェ庭園にも行く予定でした。
ところが旅行前にツアー会社から連絡があり、行事の都合で中止になってしまったとのこと。
え~~~~~~っ!!!!!
そんな!!!
でも以前に比べると、最近のツアーではアルハンブラ宮殿の観光が確約できているものがそれほどありません。
そのため夜間特別入場のあるこの日を選んだのです。
今更別の日にしたところで、アルハンブラ宮殿そのものが見られないのは酷です。
いっそツアーをやめて個人で行こうかとも思いましたが、この時点で果たして航空券、ホテル等々抑えられるか?????
しかもポルトガルまで行く気満々でしたので、これを全て手配するのは絶対に無理です。夏休みの日数にも限りがありますし。
そんなわけで、すべてを見尽くすものの住む楽園である「ヘネラリーフェ」は諦めました。
人生は諦めの連続です。(´;ω;`)ウゥゥ -
まずは裁きの門(車用の門)から入場すると、こんな光景が見えます。
サンタ マリア教会 (グラナダ) 寺院・教会
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案内です。
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入場すると大砲がありました。
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Palacio de Carlos Ⅴ(カルロス5世宮殿(博物館))
レコンキスタ終了後34年、神聖ローマ皇帝のカール5世がスペインを訪問しました。
ちなみにスペイン王としてはカルロス1世です。
(ここアルハンブラでは、だいたいにおいてCarlos Ⅴと表記されてました。そのようなわけで、これからはカルロス5世とします。)
当時26歳で、ポルトガルのイザベル王女と結婚したばかりでした。
カルロス5世はナスル朝時代のこの宮殿を取り込んだ新宮殿を作りましたが、この宮殿に入ることはありませんでした。
この当時は中央ヨーロッパやアフリカでの戦争に明け暮れていたからです。
ちなみにこのファサードは、ローマ風の凱旋門を模した入口になっています。外壁は板チョコのようです! by noelさんカルロス5世宮殿 城・宮殿
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近くで見ると結構ゴツゴツした造りになっています。
宮殿は正方形になっています。
そして中央には円形の中庭があります。 -
よく見ると大きな石と小さな石を積み重ねて造られているようです。
上の丸い部分はくり抜いたのでしょうか。
全体的にチョコレートみたいです。
それかカレールーのような・・・。(笑) -
こちらは裁きの門の方向です。
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カルロス5世宮殿の向かいには、ちょっとしたお庭がありました。
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薔薇です。
もう既に見頃は過ぎてますが、それでも少しだけ咲いています。 -
今回は夜間入場が確約されています。
旅行会社が貸し切っているので、ゆっくり見られます。
若干日が暮れかかったようですが、まだこの時間でも明るいので、夜間入場という感じがしません。
ライトがなくてもよく見えます。 -
この先はナスル朝宮殿
右はカルロス5世宮殿
左はアルカサバ方向です。 -
チケットです。
時間には遅れないように! -
Puerta del Vino(葡萄酒の門)
昔ここで無税の葡萄酒がアルハンブラの住人に売られたことに由来しています。 -
Palacios Nazaries(ナスル朝宮殿)
ナスル朝宮殿と一口に言っても、中は様々な部分に分かれています。 -
中に入ってすぐの景色です。
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Patio de Machuca(マチューカ庭園)
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さて、いよいよMexuar(メスアール宮)に入場します。
思っていた以上に狭いです。メスアール宮 城・宮殿
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入口はアラベスク模様で覆われています。
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どの部分を撮ったのか、ちょっと記憶にありません。
おそらくどこかの扉だったと思うのですが。
宮殿内にはいくつかの扉があって、扉の奥には様々な物語がありそうです。 -
Salad de Mexuar(メスアールの間)
宮殿の入口から入って最初にある部屋です。政治の中心として活用されていた場所で、とりわけ「メスアールの間」は、行政や裁判が行われていたと言われています。アルハンブラ宮殿の中で最も古い場所ですが、たびたび改築もされてきました。壁の装飾は古い部分と修復された新しい部分が混在しているので、見比べるのも楽しいかもしれません。 -
Sala de Mexuar(メスアールの間)の天井部分です。
木工象嵌です。 -
このように天井が、途中で切り替わっています。
奥の方は一面に大きな花が咲いているように見えます。
この天井部はキリスト教時代のものです。 -
アスレホの腰壁が美しいです。
何度も破壊され修復されたので、残っているのはこのメスアール宮のムハンマド1世の部屋だけです。
* アスレホとは、スペイン語ではタイルのことを意味します。(azulejo)
ポルトガル語では、アズレージョ、アラビア語ではアス=スラヒと言います。
元来はイスラムのモスクのブルーのタイルを意味していました。
azulと言うのは青を意味してます。
この釉薬のかかった化粧タイルの起源は古代にさかのぼるようです。
古いものはサファイア色と空色が中心だったので、例えば聖書に「その御足の下にはサファイアのような敷石があった」と出エジプト記24章10節にもあります。
ともかく釉薬のかかった陶器のようなタイルは早い時期にイスラム教徒によってスペインに持ち込まれたようです。800年以上も以前のモーロ人の建造物の廃墟に、そのかけらが見出されたそうです。
そしてネーデルランド時代にスペイン人はこのタイルの工法をオランダに持ち込みました。そしてオランダ人もこの工法を採り入れました。このように現在ではオランダ・タイルとしても知れ渡っています。 -
アスレホの上にアラビア文字があります。
アラビア文字を美しく芸術的にカリグラフィで描かれているようです。
こんなイスラム文化を色濃く残したアルハンブラですが、本当に今もこうして見ることができて、ありがたく思います。
破壊されていたら、見ることができませんでした。
この日の昼間に行ったコルドバのメスキータもそうです。
ところで、これとは反対で教会がモスクとなったのが、トルコのイスタンブールにあるアヤソフィアです。
こちらでもかつてのキリスト教時代のキリストのモザイク画などが残されています。
こうした異なる宗教の遺産を受け入れた寛容さに感謝しています。
もちろん実際には、政治的な事などが関係していたとしても。
ついでにアヤソフィアが入った旅行記はこちらです。
興味がありましたら、ご覧ください。
↓
https://4travel.jp/travelogue/10824055 -
タイル部分を拡大してみました。
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左側にはバルコニーのような物があります。
これは16世紀、キリスト教の礼拝堂に改修された際に造られた聖歌隊席の手摺の欄干です。 -
Facade de Comares(コマレスのファサード)
南側はコマレス宮に続きます。
壁は華麗に飾られて、二層になっています。
一層目はアスレホで縁取りされた2つの四角い出入口、二層目はムーア式の馬蹄形の窓があります。
そして壁面は抽象化された繊細な木の葉と植物のアラビア模様でイスラムの美しさを表現してます。
このファサードでスルタンは市民を受け入れていました。そして宮殿の中の行政部分と分けて使いました。コマレス宮 建造物
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水盤です。
この小さな中庭はメスアール宮と黄金の間の間にあります。
そして2つの宮殿をつないでいます。
キリスト教時代には、上の階へ行くため木の柱廊が作られました。
その柱廊は19世紀まではあったのですが、今ここにある水盤は複製です。
ちなみにリンダラハの庭に噴水がありますが、それと同じように複製が1943年に作られました。 -
拡大しました。
ちなみにCuarto Dorado(黄金の間)の中庭です。 -
偶像を崇拝することが禁止されているイスラムでは、植物をモチーフにした連続模様であるアラベスク模様が発達しました。
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よく見るとアラビア文字のようなものもあります。
ここに書かれている文字はわかりませんが、繰り返し刻まれてる文字には次の言葉があります。
「唯一人、神だけが勝利者である」
流石イスラム教です。ただこれ以外の文字ももちろん刻まれています。
判読できないだけで(^^;; -
タイルの花の中にもアラビア文字が刻まれています。
文字自体がとても芸術的です。 -
Patio del Mexuar(メスアールのパティオ)
北側のこの奥はCuarto Dorado(黄金の間)になります。 -
Bano de Comares(コマレスの浴場)でしょうか・・・。
ちょっと自信ありません。ただコマレス宮だとは思います。 -
この部分もよくわからないのですが、とりあえず撮ってしまいました。
ミフラーブのようにも見えるのですが、その割には質素すぎるかもしれません。
この付近は全体的に色味がオフホワイトというか、白っぽい感じになっています。 -
Patio de Arrayanes(アラヤネスの中庭)
コマレスの塔とは反対側の方向です。
左右対称で美しいのですが、後から建設されたカルロス5世の王宮とサンタ・マリア教会の尖塔が見えてしまっています。アラヤネスの中庭 建造物
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コマレスの塔の方向から見て左側部分です。
実はこのPatio de Arrayanes(アラヤネス(天人花)の中庭)ですが、Patio de los Myrtles(ミルトの中庭)とも呼ばれていました。
植物に疎いのでよくわからないのですが、天人花(てんにんか)というのは、フトモモ科の常緑低木で、春から夏に3cmほどの桃色から紫の花が咲きます。果実は食べられるのだそうです。
銀梅花(ぎんばいか)のことを天人花と呼ぶこともあるらしいのですが、銀梅花は地中海地方原産で花は白く耐寒性があるようです。
ただ実際には建物ばかりに注目していたため、お花が咲いていたか気付きませんでした。おそらく咲いてなかったような気がします。 -
Sala de la Barca(バルカ(舟)の間)
窓のように見える部分は埋め込まれて、左右対称に装飾が施されています。 -
Sala de la Barca(バルカ(舟)の間)の天井部分を少しだけ。
侍従や宮廷役人の控えの間として使われていたようです。
このバルカの間を通って、玉座をおく謁見の間、すなわち大使の間に導かれました。 -
アラヤネスの中庭の北柱廊から鍾乳石飾りが施されたアーチを通り、バルカの間へと入ることができます。バルカという名前はアラビア語で祝福を意味するbaraka(バラカ)から来ていると言われています。
また、天井が船を逆さにした形をしているために、こう呼ばれたとの説もあります。 -
この部屋はムハンマド5世によって増築され広くなりました。
この部屋には半円筒の円天井がありましたが、1890年に火事で焼けてしまいました。ただ1964年に修復が終わっています。 -
壁の部分です。
部屋はタイル貼りの腰壁で囲まれていて、両端にもタイル貼りの腰壁が付いたアルコーブがあります。そしてアルコーブの手前には鍾乳石飾りのアーチが施されています。 -
コマレスの塔からアラヤネスの中庭を眺めて
庭の広さは37m×24mです。 -
塔の建物部分は薄暗いのですが、庭には日が当たっていますので、その対比がまたなんとも言えません。
アルハンブラ宮殿の中でヘネラリーフェが夏の離宮として有名ですが、回廊や屋内に入ると日を遮る事が出来るので、この地にあった造りをしてるように思います。
ついでに庭にある噴泉や水盤なども数多く、水がある事で生活のためだけでなく涼も取れるように感じました。 -
アラベスク模様とアラビア文字が混在しています。
見事にマッチしています。
文字は左右対称ではないのですが、美しいです。 -
Sala de Embajador (大使の間(コマレス宮))
ユースフ1世が建てた塔です。内部は大使の間と呼ばれる玉座室です。
こちらは公式の謁見広間で、装飾は少し簡素ではありますが、ナスル朝時代の政治や外交活動の中心となった大広間です。
天井の高さは18mあります。大使の間 建造物
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大使の間のクーポラです。
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大使の間ですが、イスラム最後の王、Boabdil(ボアブディル)がカトリック両王にグラナダを明け渡した部屋としても有名です。
内部はタイルや石工細工、そして「モカラべ」と言われる鍾乳石飾りなどで装飾されています。 -
窓や扉からは光が差し込んできます。
天井が高く感じます。 -
格子の窓も左右同じに均整がとれていて美しです。
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アラビア文字がここにもあります。
本当に草花模様と一体化していて、計算されつくした美しさのようです。 -
結構複雑な図柄です。
しかもよく見ると下の部分が、うっすらと青くなっているのもわかります。
思っている以上に緻密な作業かもしれません。 -
Albaicin(アルバイシン地区)
突然、外界の壮大な眺めに出くわしました。
アルバイシンはアルハンブラ、ヘネラリーフェと共にユネスコの世界遺産に指定されています。
中央の少し下に見える白い建物は、Carrera del Darroでしょうか・・・。
またそこから少し右寄りにあるのは、Palacio de los Cordovaでしょうか・・。
そして手前の下の方にはDaro(ダーロ川)が流れています。
できればこのアルバイシン地区も歩いてみたかったです。アルバイシン 旧市街・古い町並み
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ここよりもっと右の方ですが、 Sacromonte(サクロモンテ地区)があります。Gitano(ヒターノ(ロマ族))の居住地域があります。12のCuevas((クエバス)洞窟住居)がサクラモンテの丘に横穴を掘って作られています。石灰を混ぜているので外側も内側も白くなっています。
ヒターノ(ロマ)は北インドをルーツとした所謂ジプシーです。どちらかというと個人主義であるためルールを守らないので土地に馴染むことができません。当然他のヨーロッパ諸国にもいました。(ただヒターノというのはスペインでの呼び名です。各国によって呼び方は違います。
ただ、自分たちのことを「ロマ」と呼んでいます。「ロマ」とは「人間」という意味です。そして「ロマ語(ロマニー語)」を話します。
レコンキスタ後、ヒターノ迫害令が出されました。
そしてヒターノとは別に主君を亡くしたイスラム教徒たちには17世紀になるとモスリコ(改宗イスラム教徒)追放令が出されました。
モスリコの中にはヒターノのコミュニティの中に入り込んで行った人たちもいます。ヒターノはアウトローではありますが、同じような状況の人には寛容でした。
見た目も割と似ていて、しかも居住空間も近いということもあって、お互い癒合しながら住みついて行くことになりました。
そしてキリスト教徒による迫害は両者の文化を融合させたフラメンコを生みました。18世紀末にはフラメンコの原型ができたようです。
このような迫害や差別から生まれたのがフラメンコです。
様々な悲しみや憤りなどの感情が込められているからでしょうか、物凄いパッションを感じます。
(これについては、また後のセビリアの旅行記にて) -
イチオシ
追記:2021年12月29日
ヒターノとはスペイン語でジプシーのことを言います。
そもそもジプシーは英語です。
このジプシーという言葉ですが、実は現在では差別用語、放送禁止用語になっています。
本来は移動型の民族を表していましたが、物乞いする人、スリなどをする民族という軽蔑的な意味合いを持つようになりました。
そこで彼ら自身が呼ぶ呼び方「ロマ」という言葉に置き換えられるようになったのです。彼らはロマニー語で語ります。
ちなみにジプシーとは、インドを原郷とするヨーロッパーで生活する移動民族です。ジプシーを英語でgypsyと書きますが、この語源はEgyptian(エジプト出身者)であるようです。そのEgyptianのEの響きが薄れて、最終的にジプシーになったそうです。
1427年、フランスのパリにやって来た移動型民族が、自分たちは低地エジプトからやってきた、と話したことから語源になったようです。
ただ、この低地エジプト、あるいは小エジプトが具体的にどこかは不明なままです。そしてエジプト出身である事も疑問視されるようになりました。
では、彼らはいつ頃から、ヨーロッパに移動してきたのか・・・・。
1100年にギリシアのアトスに現れたのが最古の記録のようです。
実は個人的にアトス山は行ってみたい場所の1つです。こちらは聖山として正教の聖地でもあります。世界遺産にも登録されてます。
ただ、女人禁制ですので、私は行くことができません。(-_-;)
この旅を終えて、既に2年半近くになろうとしています。
最近たまたま読んだ本があります。
「アンダルシアの洞窟暮らし 「もたない」「ゆったり」「自由」が満たされる世界
筆者:太田尚樹氏
スペインのグァディスなどの洞窟住居に暮らす人々に接し、体験した様々なことが書かれてました。改めて「もたない」生活について考えさせられました。
本書の中にもありますが、スペインの世界遺産アルタミラ洞窟の壁画も、正に洞窟です。旧石器時代からの痕跡を残した洞窟です。
思えばトルコのカッパドキア、南イタリアのマテーラ・・・洞窟住居がありました。迫害から逃れるために、身を潜めて暮らしました。
洞窟というのは、人間にとって根源的で安全な母胎のような場所なのかもしれません。話が飛躍しすぎてしまいましたが、洞窟を見直すきっかけになりました。 -
ちょっと面白い伝説がありますので、ご紹介します。
これはキリスト磔刑伝説です。
母が私たちにロマの老女の伝説を聞かせてくれたことを覚えています。
その伝説はイエス・キリストの磔刑が行われた時代から語り継がれてきたもので、それによると、ジプシーは7年に1度盗みを働いてもよいのだそうです。
それは、十字架を背負いながら刑場へ向かうイエス・キリストと、それを見守る人々の行列が休憩したとき、あるジプシーの老女が、その集団に加わり、何が起こっているのかと尋ねました。人々は彼女に状況を説明しました。彼女は苦しそうなキリストの顔を見て哀れに思い、キリストの処刑を妨害しようとしました。
「手足に打たれている釘を盗むことさえできれば。」と老女は考えました。彼女は釘を1本盗み、それを遠くへ投げ捨てました。
ただ、2本目の釘を盗もうとしたとき、彼女は兵士たちに取り押さえられ殴られました。老女は「私は7年間何も盗んでいません。」と言って許しを乞いました。その場に居合わせたキリストの使徒の1人が、彼女にこう言いました。
「よろしい、あなたは祝福されました。イエス・キリストは、今も、そして永遠に、あなたが7年ごとに1回盗みを行うことをお許しになりました。」
「ロマニーの生活」より1935年、ロンドン
ペチュレングロ
このペチュレングロとはアンブローズ・スミスの別名です。
イギリスの作家George Borrow(ジョージ・ボロー)の情報提供者です。
それにしても、この話によると、そのルーツは2000年以上前ということになります。
あくまで伝説です。(-_-;)
もしそうなら面白いです。 -
ようやく日が暮れようとしているようです。
中世のムーア人が統治していた時代の建築様式が残っているこの地区ですが、白壁の家と石畳がなんとも趣深い地区です。
こんな時タレガの「アルハンブラの思い出」のメロディが流れてきたらなぁ~! -
こんなオブジェのような物がありました。
夫が撮ったので、私は全然気付きませんでした。
同じ場所で同じ物を見ているようで、実はそうでもない事に気付かされました。 -
「Cuentos de la Alhambra」(アルハンブラ物語)の作者のWashington Irving ワシントン・アーヴィング (1783-1859年)の部屋
1826年にフランスの政治家、小説家のFrancois-Rene de Chateaubriand(フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン)が「Les aventures du dernier Abencerage(アベンセラヘス最後の冒険)」を出版しています。これはアルハンブラを舞台にしています。
そして1829年にはVictor-Marie-Hugo(ヴィクトル・マリー・ユーゴー)が「Les Orientales(東方詩集)」を発表しています。これはアルハンブラを謡った詩が収められている詩集です。
このユーゴーの詩集の刊行した年にアーヴィングはグラナダを訪れています。
そしてドン・フランシスコ・セルナ総督の好意によって、宮殿内のこの部屋を借りて、数か月にわたって滞在することになりました。
ここで「アルハンブラ物語」が執筆されました。
ところでここは、カルロス5世の部屋でもあります。
カルロス5世の部屋は6つあります。
天井と暖炉はペドロ・マチューカの作品であると言われています。
それから、ここはカルロス5世の部屋とも呼ばれているのですが、カルロス5世もその家族もこれらの部屋を使用することはありませんでした。 -
アルハンブラ物語の冒頭でこんな風に書いてます。
アーヴィングは在スペイン米公使館書記官としてマドリッド駐在中に、マドリッド駐在のロシア公使D・ドルゴルーキー公爵とセビリアを出発して(1828年5月1日)、グラナダに向かいました。険しい山道で、治安が良好とはいいがたかったので、ドン・キホーテのように、スペイン人のガイドを雇って旅しました。
そのガイドのことを、サンチョと名付けたようです。(笑)
その後ここに滞在したわけですが、ある夕方、ライオンの中庭に何気なく入って行った時、ターバン姿のモーロ人が噴泉の近くに座っていました。一瞬、中庭の伝承にあるように魔法にかけられたモーロ人かと思ったそうです。
ただその人は普通の人間でした。しかも賢い教養のある人のようでした。
そのモーロ人は、もしあの裏切り者のボアブディルが王都をキリスト教徒に渡さなければ、今もイスラムのスルタンがここに君臨し続けたというのです。
ボアブディルの父であるムレイ・アブール・ハッサン王は残虐非道だったかもしれませんが、何よりも王国を愛していたのだと・・・・。
でもこれに対してアーヴィングは、ボアブディルを擁護しました。
彼の本を読んでると、どうしてもボアブディルに味方してしまいます。
それから面白いのは、昔グラナダには貧しい煉瓦職人がいました。・・・・と続く面白い民間伝承があります。
神父の依頼でその煉瓦職人はある場所まで目隠しされて連れてこられ、庭の噴水の下に地下室を作るように言われました。
そして次に死体を運ぶ手伝いをさせられました。その後目隠しを取ると災いが起きると言われたので、勿論言うとおりにしました。
それからしばらく歳月が経ち、煉瓦職人はある大家の依頼で、今度は古い建物を出来るだけお金をかけずに修理してほしいと言われました。
ただその場所は以前行った場所である事に気付きました。
またかつての依頼人であった神父が亡くなった事も知りました。
話によるとその神父の霊が夜毎チャリンチャリンと音がするとのこと。このせいで家の借り手も見つからずに嘆いていた大家に、自分をただで住まわして欲しいと、修理は住みながらすると提案しました。
この申し出を大家は快く受け入れました。
・・・その後しばらくたって、亡霊の音もしなくなりましたし、何よりも煉瓦職人は大金持ちになったそうです。(笑)
そしてこの一連の出来事を、地下室の事を煉瓦職人は死の床につくまで跡取りの息子にも話はしませんでした。 -
実はアーヴィングは、エジンバラのアヴォッツフォード邸を訪ねて知り合いになったWalter Scott(ウォルター・スコット)と文学的な交流がありました。
そしてこの二人に共通している神話や伝説、そしてそれに関して深い興味や関心があって、この関心から「アルハンブラ物語」が生まれたと言ってよいようなものだそうです。
またアーヴィングは滞在中に、グラナダ大学にあるイエズス会図書館の古い文献などを閲覧させてもらっていました。
ただフランス軍がグラナダを占拠した際に、写本や重要な文献を本国に持ち帰ってしまいました。その中でスペインの伝承関係の小冊子数点、古い羊皮紙綴の年代記などは残されていたようです。
そしてアーヴィングは古文書室の鍵と文書箱の鍵を貸してもらっていました。 -
こちらにはアラビア文字ではなく、アルファベットの文字が書かれているようです。
横にはPLVS
縦にはOVLTREと連続して彫られているようです。
どこかで聞いたことがあるような・・・と思いながらこれを検索すると、
「Plus Ultra」と出てきました。
そしてカール5世のアルハンブラ宮殿に、この木のパネルがあると写真つきでwikipediaにありました。
これには、ラテン語で「さらに彼方へ、さらなる前進」などの意味があるようです。
レコンキスタをジブラルタル海峡を越えてアフリカに持ち込みたい・・・・そんな意味もあったようです・・・。
野望は更に広がりますね。
ちなみにスペインではカール5世の死後も、このモットーは人気があったようです。
そして、どこかで見たことがあるような気がしたのは、実はs〇〇〇〇oさんのセビリアの旅行記でした。(-_-;)
そちらで拝見していたんですね~。私。
ありがとうございます。m(__)m
そして我ながら忘れっぽいと反省しております。
確か以前拝見した際にも、VとUを勘違いしてました。
*カール5世と書きましたが、ここスペインではカルロス1世のことです。
ただアルハンブラ宮殿の表記はカルロス5世となっていました。
ここでは参考にしたWikipediaの表記に従って、通常のカール5世とさせていただきました。
追記(2022年3月1日)
ダン・ブラウン(ダ・ヴィンチ・コードなどの著者)の「オリジン」によると、この「PLUS ULTRA」には、現世の彼方に天国があるという、スペインで長らく信じられている教えを指すとも考えられているようです。 -
これは最初に入ったメスアールの間ですが、ちょうど中央下のあたりにアスレホがありますが、そこにも同様に書いてあったようです。
この写真では「PLU」の文字しか見えませんが、これにも「PLUS ULTRA」があったようです。
なんとも中途半端な写真でお恥ずかしい限りです。 -
Sala de las Dos Hermanes(二姉妹の間)
この宮殿内でもっとも保存状態が良い部屋です。
この「二姉妹」というのは、噴水の横の庭に敷かれた2枚の大きな大理石に由来しているそうです。
タイルやスタッコ細工の技巧はとても見事なものです。
特に鍾乳石飾りは、窪みに赤や青の彩色もされてます。
それが外からの光に乱反射すると、とても芸術的に見えます。二姉妹の間 建造物
-
窓から見えるお庭です。
Patio de Lindaraja(リンダラハの庭)
「リンダラハ」というのは、「皇妃の目」という意味です。リンダラハの中庭 建造物
-
上から眺めるのもいいですが、実際にお散歩したいですね。
-
Sala de los Hermanes(二姉妹の間)ですが、こちらは保存状態もいいのですが、
宮殿の中で最も美しいとされています。
「美しく飾られた庭、その美しさはそれを目にした者のみが理解できるだろう」という詩句が刻まれています。 -
イチオシ
ライオンの中庭の北側にある「二姉妹の姉妹の間」です。
ここには5000個もの鍾乳石状の飾りが丸天井を覆いつくしています。
本当に見事です。神業のような技法です。
ただこれらはスタッコ細工の技法で、石膏を色々な鋳型に流し込み型取り、多種多様な模様の焼き石膏板を巧みに組み合わせ継ぎ合わせられてます。
壁面のアラベスク模様、円天井の鐘乳石状の細工の発祥地はダマスカスです。ただそれを高度に洗練させたのはモロッコのモーロ人でした。 -
この水のシステムには感心します。
砂漠で生活していたモーロ人にとって、水というものは命をつなぐ物であり、同時に贅沢なものでもあったのでしょう。
シエラ・ネバダ山脈の雪解け水を水源として、このすぐ下を流れているダーロ川からの水を利用しています。 -
左はリンダラハの見晴台のアスレホ(セラミックタイル)です。
右は二姉妹の間のプラスター・パネルです。 -
鍾乳石の装飾も見事ですが、アルハンブラ宮殿でステンドグラスが見られるとは思ってもみませんでした。
-
アーチの先に庭が見えます。
中が結構暗いので、逆に庭が映えるように思えます。
しかも暗い事によって、暑い夏日差しを遮り風通しをよくしてるようにも思えます。 -
幾重にもなるアーチ部分がまた計算された美しさを醸し出しています。
しかもそれぞれ違います。 -
Patio de los Leones(ライオンの中庭)
ムハンマド5世が14世紀に造った中庭です。
大理石を用いた124本の柱が周囲を囲んでいます。
そして柱の上に描かれた繊細な装飾がなんとも美しいです。 -
ライオンがいない中庭は、やっぱりちょっと物足りないです。
(ライオンの部分を撮っていないだけです。) -
この噴水はかつては水時計の役目も果たしていました。
ライオンは12頭います。
1時には1頭のライオンの口から水が出て、2時には2頭のライオンの口から水が出る仕掛けになっています。
12頭いるので日時計にもなりそうな気がします。
(でも日時計は昼間しか使えません。水時計とはよく考えたものです。確か水時計の歴史は古く古代エジプトでも使われていたらしいです。)
そしてこの12頭のライオンはアッシリアからお城の守護神として、権威の象徴として、また友好の証として贈られたのだそうです。
アッシリアと言えば確かに勇猛果敢なライオン狩りなどのレリーフがありますが、そのライオンと比べる可愛すぎです。(笑)可愛いライオンたち by noelさんライオンの中庭 建造物
-
お口をすぼめて、そこから水が出ています。
なんとも可愛らしく、百獣の王には見えないライオンです。
ところでギター曲「アルハンブラの思い出」について、ちょっとだけ触れておきます。
Francisco Tarrega(フランシスコ・タレガ)作曲の「 Recuerdos de la Alhambra(アルハンブラの思い出)」ですが、このアルハンブラ宮殿を散策し、このライオンの噴水にインスピレーションを得て作ったと言われてます。
そう思うと水の落ちる音が、あの曲のトレモロと重なり叙情的です。
他の説ではギターのトレモロ奏法の練習曲として作ったものだったのを、あまりに素晴らしい曲だったため、弟子に題名をつけた方がいいのでは、と勧められて、かつてよく訪れていたアルハンブラ宮殿を思ってつけたとも言われています。
いずれにせよタレガ自身、ここを訪れていたのは間違いないようです。
おそらく数々の歴史の舞台になったアルハンブラ、栄枯盛衰を見てきたアルハンブラを思って作ったのでしょう。
昔からこの哀愁を帯びたこの曲が好きでした。ですからアルハンブラに行ったら、この曲を聴きながら散策したいと思っていました。ただし現実はガイドさんの案内を聞き漏らす事がないように、また宮殿内の遺産を見落とす事がないように必死でしたので、そんな余裕は皆無でした。
もしまた訪れる機会があったら、今度こそ曲を聴きながら散策したいです。 -
回廊の床は白い大理石です。
また回廊とそこからせり出した部分から大理石の水路が伸びています。
十字の形をとって中央の噴水に繋がっています。
水路の橋には噴水があり、中央の噴水に水を運ぶシステムになっています。 -
夫が撮ったものです。
こうやって見ると、一瞬ライオンの中庭に見えないかも・・。 -
Sala de Abencerrajes(アベンセラヘスの間)
ライオン中庭に面している部屋の1つに、このアベンセラヘス家の間があります。 -
実はここでアベンセラヘス家に悲劇が起きてしまいました。
それはナスル朝グラナダ王 Abu Abd Allah Muhammad al-thani ashar( アブー・アブドゥッラー・ムハンマド11世(ボアブディル(最後の王))がここで残虐な行為を行ったというものです。
実はボアブディルの王妃が、アベンセラヘス家の騎士と密通したと疑い、王妃を拷問にかけ、妹とその2人の子どもを虐殺し、またアベンセラヘス家の騎士36名をライオンの中庭で次々と斬首したという伝説があります。
その際に噴泉にも血が飛び散ったそうです。 -
Matanza de los Abencerrajes(1870)
アベンセラヘス家の虐殺(1870年)
es.m.wikipedoa.orgより
本当にショッキングな事件だったようです。 -
ちなみにその噴泉とは六角形ですのでこれではありません。
その後ワシントン・アーヴィングが言うには、この虐殺はボアブディルではなく、その父王ではないか・・・とのこと。
なぜなら父王は壮年期になり妃をもう一人迎えました。そして2人の王子が生まれました。
このことから王位継承をめぐって宮廷内で、敵対関係が生じてしまい、第一王妃であるアイシャ(ボアブディルの母)がボアブディルを王位につけようと謀を巡らせているというもの・・・これに父王は激怒し、アイシャとボアブディルをコマレスの塔に監禁しました。
この監禁事件が後になって、父王ではなくボアブディルが監禁したことになってしまったのでは・・・。というものです。
ただある綿密な計画により、夜の10時頃、屈強な男6人が9頭の馬を引いてヘネラリーフェ離宮の茂みに隠れていました。そしてその中の1人が、コマレス塔に近づき合図を送りました。ボアブディルは細い紐(母のアイシャが自分と侍女たちのスカーフを繋いだ物)をそろそろと垂らしました。それを手繰り寄せ、先に太いロープが結び付けられた物を握りしめて、側の大理石にしっかりと結び、自分と弟のユースフ王子がロープを伝って地上に降り立ち、馬の待つ茂みまで闇の中を走りぬけ、後は馬で逃げグアディクスの町に逃げのび「新王ムハンマド11世」として迎えられました。1482年7月、20歳のことです。
確かに父王は非業で残虐な王だったようです。
ただ、ボアブディルが老いた父王に変わって王位について、その後出陣するも惨敗捕し虜になりました。そのため老王ムレイ・アブル・ハッサンが復帰しました。
その後叔父のアル・サガルと「二人王」の時期がありました。
ですがその後は隙をついてボアブディルが最後の王になったという事実もあります。
結局のところは、どうだったんでしょうね。 -
Sala de los Reyes(諸王の間)
こじんまりとした空間です。 -
Sala de los Reyes(諸王の間)の天井部分
ナスル朝の10人の王の姿が描かれています。
それにしてもイスラムは偶像崇拝禁止ですが・・・。
これはナスル朝末期にグラナダに住んでいたジェノバ出身の芸術家によるもののようです。
ところでナスル朝の王は10名だけではありません。
実際には24名いました。
この10名というのは、ナスル朝初期の王らしいです。
(ただしイスマエル1世とムハンマド6世は除外されてます)諸王の間 史跡・遺跡
-
ムハンマド7世の時代かユースフ3世時代の様子だそうです。
狩猟の場面、恋愛場面のようです。
最初の王、Mohamed ben Al-Hamar(ムハンマド・ベン・アルハマール)についてですが、元々はハエン地方の小王でした。
コルドバがキリスト教徒の手に陥落して以来、アル・アンダルスの最後の砦としてグラナダの町からムハンマド・ベン・アルハマールを王として迎えたいと使者が送られてきました。
(彼は統率力があり、また外交手腕に長けていたので)
ハエンからグラナダまでの90kmの道のりを行きました。
1238年5月の日が傾きだしていた頃、夕陽に染まった燃えるような美しいグラナダの町が浮かび上がり、それを見たベン・アルハマールは落日とともにグラナダ入りしたそうです。本来は翌日の予定だったのに・・・。なんともドラマティックです。この時40代半ばでした。
この王にとって最初の試練はキリスト教側の王フェルナンド3世にハエンを完全包囲された時のことです。単身カスティーリャ軍のフェルナンド王の前にひざまずき手に接吻し、グラナダ王国はカスティーリャ王国の朝貢国となる決定がされました。
3つの条件がだされました。
Ⅰ 15万枚の金貨と150本の槍を年貢として納めること
2 カスティーリャ貴族として議会に出席すること
3 第三国とカスティーリャとの間に戦が起きた場合は、相応の兵を送り援助する
この条件を呑むことでアルメリアからマラガ一帯まで領土とする王国を確保できました。
そして恐るべき事態が・・・フェルナンド3世がセビリア攻撃を開始し、援軍の派遣を要請してきたのです。
これに対してどんな行動をとったかと言うと、約束通りカスティーリャ軍に加わったのです。
そしてついにセビリアは陥落してしまいました。つまり同じアル・アンダルスの同胞を裏切ったことになります。
(もっともハエンの王だった頃(フェルナンド王がコルドバ攻撃を開始した頃)、既に内密に取引していたという説もあります。)
良く言えばアル・アンダルスの灯を守った・・・といういい方もありますが、コルドバとセビリアの犠牲の上に築かれたのがナスル朝とも言えます。
こんな人物ですが、ベン・アルハマールは80歳まで生きました。行軍中に落馬して命を落とすまで・・・。
これらの記述は14世紀のグラナダで活躍していたベン・アル・ハティブ(ナスル朝王家とも親交のあった人物)の著書を参照した「イスラム・スペイン千一夜」小西章子氏の著作を参考にさせていただきました。
この著書の中にはボアブディルがマホメッド12世との記述がありますが、従来は11世ではなく12世であったと思われていたので、自分なりに訂正しながら参考にさせていただきました。(それと呼び方も) -
こちらからもアルバイシンが眺められます。
この宮殿には本当に様々な物語があります。 -
宮殿内の装飾は寝転んで見ると、もっとも美しく見えるそうです。
良く見ると壁にはブルーとカーキ色のような彩色が施されているようです。 -
このお庭は案外とこじんまりとしています。
広さは25m×13.5mです。
ところでこのライオンの宮殿はこの庭を中心に、西には鍾乳石飾りの間、東には諸王の間、北には二姉妹の間、二連アーチ窓とリンダラハのバルコニー、南にはアベンセラヘスの間とハーレム、と異なった部屋へ続いていますが、これらを造ったのはユースフ1世とその息子であるムハンマド5世です。
アルハンブラの歴史では常に裏切りだの暗殺だのが行われました。
そんな王たちの歴史をちょっとだけ・・・。
・初代王は、ムハンマド1世で豪気な武人タイプ
・2代目、3代目はムハンマド2世、ムハンマド3世は文人肌のタイプ(2人とも父王の後を継いでの王でした)
・4代目のナスルは地方貴族に担がれてクーデターを起こしたムハンマド3世の弟でした。でも従兄弟(厳密にはまた従兄弟)によって兄と同じ運命を辿ります。
・5代目はイスマイル1世で、血の気の多い粗野なタイプ、カスティーリャ軍に責められるも、大勝利をおさめ、レコンキスタのレコンキスタになったかと・・・でもキリスト教徒の娘(アルヘシーラス市長の娘)をハーレムに力づくで連れてきたのですが、後に市長が表敬訪問を装い、隠し持っていたナイフで王を暗殺しました。
・6代目はムハンマド4世ですが、イスマイル1世の息子で9歳の少年王でした。ところが軍事援助のためモロッコを訪れた帰り道、自国領内で槍の一撃に果てました。
(グラナダとモロッコが手を組むことを嫌ったアビルウラ一族の仕業でした。)
・7代目は、ユースフ1世で、ムハンマド4世の弟でした。他の兄弟も陰謀に巻き込まれたのに上手く立ちまわり、平和主義であったため経済発展を遂げ最盛期を築き上げました。そしてコマレス宮などを精魂こめて造り上げました。ただ断食明けのメスキータ(寺院(コルドバのメスキータではありません))で突然男に刺されて即位後20年の36歳の若さで亡くなりました。暗殺者はその場で刺殺。背後関係など事件は謎のままです。
・8代目はムハンマド5世です。ユースフ1世の息子です。17歳で即位しました。
在りし日のコルドバのような賑わいをもたらしました。父の影響か平和主義で文人を評価しました。好調な滑り出しでしたが、クーデターが起き、非常時用の秘密の通路から女装をして脱出しました。
・9代目はイスマイル2世です。ムハンマド5世の弟です。義理の兄弟の貴族のベルメーホにそそのかされ、クーデターを起こしましたが、たった11か月で暗殺。
・10代目はムハンマド6世です。通称ベルメーホでした。
これが最初の10人の王です。
ちなみに8代目のムハンマド5世ですが、モロッコに逃げのび、フェスで亡命生活に入り、王位奪還の協力も得ることができました。
故ユースフ1世と親交のあったカスティーリャ王ペドロ1世の協力も得られました。そして最終的にベルメーホを打ち負かし、グラナダを奪還しました。
ベルメーホはペドロ王の宮廷のあるセビリアに逃げましたが、37人の貴族とともに広場に連れ出され、全員処刑されました。ベルメーホにはペドロ王自ら槍を投げたそうです。
最後にベルメーホは「たいした騎士道!」と言ったそうです。
↑
ただ実は裏の話があって、ベルメーホと貴族が逃げ込んだ際に、実際には歓待と親睦の夕べが行われたというのです。なぜならグラナダから亡命する際に全て金や宝石に替えて衣の下に隠し持っていたというのです。
宴の後はたちまち捕虜となり、悲惨な最期を遂げました。
アラブの資料の巻頭の文に「人間の強欲は諸悪の根源なり。ペドロ王のこの所業をお聞きあれ。」と綴られているそうです。
・・・・・なるほど「たいした騎士道!」なわけです。
ところでムハンマド5世は25歳で王に復帰して約30年間統治しました。
その間モロッコで亡命中に無二の親友となった思想家のイブン・ハルドゥーンが政変のあおりを受けて訪ねてきました。グラナダに永住を勧めたのですが、2年でグラナダを去ってしまいました。それは二人の関係に嫉妬した文人政治家のアル・ハティブ(宰相)が裏で画策していたからでした。宰相は絞殺され、イブン・ハルドゥーンはグラナダに戻ったものの、10年もの歳月は二人を変えてしまっていました。
ムハンマド5世の心境を思うと、なんとも言えません。
このような事があって人間嫌いになってしまったのかもしれません。
現実逃避の願望が強くなったとしても理解できます。
栄華の頂点にいるはずの王でしたが、人間嫌いで偏執的になっていったと言われています。しかも表面的には繁栄しているグラナダでしたが、崩壊の音がかすかに聞こえてきていました。
1374年、ムハンマド5世はライオンの宮殿の建設に日夜没頭するようになりました。この宮殿は、脆く儚い退廃的な美しさがありますが、まさにムハンマド5世のの胸中を思うと理解できるような気がします。
そして彼の死後、なんとか100年グラナダ王国が継続しますが、これは周囲のキリスト教王国も内政が乱れていたためでしかありませんでした。
この100年の間に、即位式が21回も行われていたそうです。 -
細い柱がたくさんあります。
砂漠のオアシスであるナツメヤシの林を彷彿とします。
コルドバのメスキータでも円柱の森がそうだったのを思い出します。
形は違いますが、故郷を離れてきたイスラム教徒にとって、憩いの場であったのかなぁ~と思います。 -
あちこちにこのモカラべがあります。
-
この壁も単純なようで結構複雑な模様です。
かつて王のハーレムとして使っている際には、家具などはなく床に絨毯を敷き詰めていたようです。
王の浴場には蒸し風呂とマッサージの部屋があり、美女たちのダンスを堪能し、そして2階では楽師たちが演奏をしていました。
酒池肉林の世界が繰り広げられていたことでしょう。 -
このライオンももう見納めかと思うと、しっかり見ておきたいと思います。
-
アラヤネス(ミルト)の中庭のセラミックタイル
これ等のモニュメントの保存にご協力くださいとのこと。 -
ライオンの中庭の石のレリーフ
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二姉妹の間の木製格子
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アラヤネス(ミルト)の中庭のプラスターパネル
-
噴泉は1か所だけではなく、このように2つあります。
そしてこれが中央の噴泉に続きます。 -
コマレス宮 アラヤネス(ミルト)の中庭
建物の上部に小さな小窓がいくつかあります。
この窓からハーレムの女性たちは、外を覗き見ることができました。
ただし姿を晒すことはできませでした。
ちなみにハーレムでは女性たちがを覗かれないように、楽師たちは目を潰されました。目の見えない状態で音楽を奏でさせられるなんて、現代では考えられませんがかつてはこのようなことは当たり前に行われました。 -
水盤も入れたアラヤネスの中庭です。
水鏡に映った姿も美しいです。 -
イチオシ
コマレス塔の方向から見たアラヤネス(ミルト)の中庭です。
建物の中から見ると、より明るく美しく見えます。 -
反対方向にやって来ました。
水面にコマレスの塔が映ります。 -
Torre de Comares(コマレスの塔)とPatio de Arrayanes(アラヤネスの中庭)もしくはPatio de los Myrtles(ミルトの中庭)
中央にある池の両脇を囲こんでいるアラヤネス、そしてミルトの花の名前に因んでいます。ただ先述したとおり花には気付きませんでした。
コマレスの塔の方向を写しました。
反対側からよりも、こちらの方がより美しいです。 -
細い円柱や美しい透彫りのアーケード、多彩な透かしスタッコ細工(化粧しっくい)などで公式の謁見の広間にふさわしい静謐な空間を作っています。
-
両脇の建物も入るように撮ってみました。
-
アーチ部分に焦点をあてました。
どこから見ても美しいです。 -
Patio de Machuca(マチューカ庭園)
またここを通って戻ります。
この名前はペドロ・マチューカから取っていると思います。この人物については、後ほど。 -
レリーフのようですが、これをはカルロス5世の宮殿の前にあったものです。
おそらくカルロス5世側の勝利のレリーフなのでしょう。 -
Palacio de Carlos Ⅴ(カルロス5世の宮殿)
1階にはMuseo de la Alhambra(アルハンブラ博物館)があります。 -
1527年に建設が始められました。
Pedro Machuca(ペドロ・マチューカ)によって始められました。
イタリア国外では最も美しいルネサンス式宮殿と言われています。
ペドロ・マチューカはトレドの出身の建築家ですが、画家でもありました。
長いことイタリア留学をして、ルネサンス様式をスペインに導入しました。
建築についてはブラマンテの影響を、絵画についてはラファエロ、ミケランジェロの影響を受けています。
ところで話は変わりますが、カルロス5世は後に、司教からボアブディル王の事を聞かされた時、ボアブディルの気の弱さ頼りなさを嘲笑したそうです。
「私がボアブディルであったら、逃げ落ちのびてさまようよりも、アルハンブラを死場所としただろう。」と。
・・・・・・・・・・・。
もしボアブディルが彼のような人間であったなら、無血開城はあり得ませんでした。そして宮殿は破壊されてしまったことでしょう。
少なくとも、このようには見ることができなかったかもしれません。
そう思うと、気の毒なボアブディル王に感謝しなければいけません。
ボアブディルは、父王に対して「小王」と呼ばれたり、後には「エル・ソゴイビ(ついてない奴)」などと呼ばれました。
アーヴィングの記述にもありましたが、「裏切り者」呼ばわりもされました。 -
2階から撮った写真です。
ドリス式の列柱が並ぶ円形の中庭です。
こちらでグラナダ国際音楽舞踏祭などの文化的な行事が行われているようです。
2階部分はMuseo de BellasArtes(県立美術館)として利用されています。 -
余韻に浸りながらも、元来た道を戻ります。
帰りは裁きの門を通りたかったのですが、同じ道を通ります。 -
ちょっとだけ建物が見え隠れします。
さようならアルハンブラ! -
アルハンブラは周囲を22の塔と城壁によって固められ、東西に740m、南北に220mを有する難攻不落の要塞でした。またスルタンための宮殿、高楼離宮ヘネラリーフェも擁して、ここだけでもミニチュアの都市のようでした。
-
街灯が夜道を照らします。
-
ようやく本当の夜になりつつあります。
-
真夏の暑いアルハンブラも宵闇に包まれました。
長年憧れていた宮殿を訪れることができて幸せです。
ただし最後にこの城を立ち去った王にとってはどうだったのでしょう。
このようの栄華の夢を誇った宮殿を捨て、行く先も知れない旅に出る王の苦しみや悲しみは計り知れません。
ボアブディルの母アイシャは、自尊心も強く母親らしい優しさもみせませんでした。女王はしじゅう息子に忠告しました。
また何回も息子の危機を救い助けました。そして気弱な息子に対していつも案じていました。
グラナダから10kmほど南にグラナダ市内を見渡せる場所があります。今はその場所を「モーロ人嘆きの峠」と言われています。ここでボアブディルは2度と戻れない道を振り返りアルハンブラ宮殿に最後の別れを告げました。このとき涙が頬を伝ってしまったそうです。このことに対して母のアイシャはこう言いました。
「おまえが男らしく守ることのできなかったもののために、女のように泣くがよい。」と。
ボアブディル王の心中を思うと、心が痛みます。
この世は諸行無常です・・・。
【ボアブディル王のその後】
ボアブディルはシエラ・ネバダ山脈の一隅(フェルナンド王とイザベル女王から許された土地)に落ち延び、そして1年半後、モロッコに亡命者として旅立ちました。そしてフェスに向かい、アルハンブラ宮殿の模造を建てたそうです。
この城に対する思いは強かったのでしょうね。
そしてイスラム歴40年(1533年)亡くなりました。
その子孫はフェスに住み、施しにすがって生きていたり、乞食になった者もいるそうです。
以上がアルハンブラ宮殿の物語です。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- たらよろさん 2020/03/08 16:26:24
- 贅を極めた雄大さ
- こんにちは、noelさん
そっか~、夏のヨーロッパだから、夜間拝観といっても、相当の時間明るく楽しめるんですね。
そういう意味でも、やっぱり夏のヨーロッパは長い時間楽しめるわ~
シンメトリーの美しさを感じつつ、
あまりの雄大さに本当に度肝を抜かれて!!
アズレージョの美しさや、新旧の比較など、
本当に楽しませていただきました。
地下牢で結婚式をされるって、確かに…
結婚=牢屋かな?(笑)
日本でも、以前の牢屋がホテルになっていたりするから、
今の若者には全てひっくるめてノスタルジーなのかな??(笑)
たらよろ
- noelさん からの返信 2020/03/08 18:38:00
- RE: 贅を極めた雄大さ
- こんばんは、たらよろさん。
メッセージをいただき、ありがとうございます。
> そっか?、夏のヨーロッパだから、夜間拝観といっても、相当の時間明るく楽しめるんですね。
> そういう意味でも、やっぱり夏のヨーロッパは長い時間楽しめるわ?
そうなんです。
私も夜間入場と聞いて、日が暮れてライトアップをする時間になってから観光するものだと思っていました。
ですから暗くてよく見えないのではないかと心配してました。
実際には20時入場でしたので、暑さも少し落ち着いてゆっくり観ることができました。
> シンメトリーの美しさを感じつつ、
> あまりの雄大さに本当に度肝を抜かれて!!
> アズレージョの美しさや、新旧の比較など、
> 本当に楽しませていただきました。
ありがとうございます。
>
> 地下牢で結婚式をされるって、確かに…
> 結婚=牢屋かな?(笑)
お上手〜!!!
> 日本でも、以前の牢屋がホテルになっていたりするから、
> 今の若者には全てひっくるめてノスタルジーなのかな??(笑)
そう言われると、そうかもしれませんね。
それから、たらよろさんの旅行記ですが、いつも楽しませていただいてます。
素敵なホテルや美味しそうなお料理、スイーツなどなど羨ましくなります。
今度行ってみたいと思える所もたくさんです。
これからもよろしくお願いします。
noel
-
- sanaboさん 2020/03/07 18:57:04
- アルハンブラ物語
- noelさん、こんばんは
今回も素晴らしい力作でしたね☆彡
旅行記冒頭でボアブディルがカトリック両王に城を明け渡すシーンを綴られ
そのボアブディルの胸中に思いを馳せる読者に
「そんな最後の王の思いが詰まった宮殿にこれから向かいます。」と
ドラマティックな物語へといざなうnoelさんの手腕に拍手喝采です!!
へネラリーフェ庭園への入場が叶わず
noelさんとしてはどんなにか心残りだったことでしょう。
ただ夏場の夜間入場ということで、明るい陽射しの中で
ゆっくりとナスル朝宮殿をご覧になれて良かったですね。
昼間だったら物凄い人混みでゆっくりお写真を撮るのも
難しかったかもしれませんし…。
精緻なアラベスク模様の美しさを改めて堪能することができました。
沈みゆく陽の光の中でアルバイシン地区を眺めているときに
「アルハンブラの思い出」のメロディが流れてきたりしたら
思わず涙してしまいそうな予感…です。
「こんなオブジェのような物がありました。」とコメントされてらした
あのオブジェは、私も旅行前に他の方の旅行記で拝見していたのに
見つけられなかったんです。
あのお写真はご主人様が撮られたもので、noelさんはオブジェには
気づかれなかったそうですね。本当に不思議~(笑)
そういえば、私はワシントン・アーヴィングの部屋も
見過ごしてしまいました。
アーヴィングに関する記載も詳しく調べてらして、興味深く拝読しました。
ボアブディルは母から見ると気弱でも、心優しい人だったのでしょうね。
noelさんの語るアルハンブラ物語、とても魅力溢れるものでした☆彡
sanabo
- noelさん からの返信 2020/03/07 23:11:39
- RE: アルハンブラ物語
- sanaboさん、こんばんは
早々に御覧いただきありがとうございます。
> 今回も素晴らしい力作でしたね☆彡
ありがとうございます。
> 旅行記冒頭でボアブディルがカトリック両王に城を明け渡すシーンを綴られ
> そのボアブディルの胸中に思いを馳せる読者に
> 「そんな最後の王の思いが詰まった宮殿にこれから向かいます。」と
> ドラマティックな物語へといざなうnoelさんの手腕に拍手喝采です!!
ちょっと恥ずかしいとは思いながら、数いる王の中でも1番気の毒な最期の王に対する思いから書いてしまいました。
私としてはsanaboさんの旅行記を拝見して、ずっと思いを募らせてきた所だけに、ちょっと力が入ってしまいました。
でもsanaboさんの旅行記は旅の醍醐味が感じられる旅行記で羨ましく思っていました。しかもパラドールに宿泊されましたし。
> へネラリーフェ庭園への入場が叶わず
> noelさんとしてはどんなにか心残りだったことでしょう。
> ただ夏場の夜間入場ということで、明るい陽射しの中で
> ゆっくりとナスル朝宮殿をご覧になれて良かったですね。
> 昼間だったら物凄い人混みでゆっくりお写真を撮るのも
> 難しかったかもしれませんし…。
はい。ヘネラリーフェに入場できないと連絡を受けた時は、本当にショックでした。
でも夜間入場は思っていた以上に良かったです。
暑さも緩和できましたし、何しろ人がいなくて観やすかったのが1番です。
しかもツアーのグループを半分に分けて見ることができたのです。
それは良かったのですが、1つ残念だったのが私のグループのガイドさんは日本語が少したどたどしかったことでしょうか・・・。
> 沈みゆく陽の光の中でアルバイシン地区を眺めているときに
> 「アルハンブラの思い出」のメロディが流れてきたりしたら
> 思わず涙してしまいそうな予感…です。
本当にセンチメンタルになりました。
> 「こんなオブジェのような物がありました。」とコメントされてらした
> あのオブジェは、私も旅行前に他の方の旅行記で拝見していたのに
> 見つけられなかったんです。
やはりsanaboさんも発見できなかったんですね〜。
> あのお写真はご主人様が撮られたもので、noelさんはオブジェには
> 気づかれなかったそうですね。本当に不思議?(笑)
はい。ブラブラ見ていた夫の方が、余裕をもって鑑賞していたようですので、意外な物にも気づいたのかもしれません。
その場で教えてくれていたら良かったのに、私が色々メモしたりしていたので声をかけにくかったようです。
> そういえば、私はワシントン・アーヴィングの部屋も
> 見過ごしてしまいました。
それは残念でしたね。
でも小さな部屋で装飾も割と質素ですから、私もガイドさんに教えてもらわなければ気づかなかったかもしれません。
表示も小さかったですし。
アーヴィングについては、随分前に読んでいました。
旅行前に思い出して、ちょっと読み直してみましたが、むしろ旅行から戻ってからの方がよく理解できました。
> ボアブディルは母から見ると気弱でも、心優しい人だったのでしょうね。
私にとってはそんな印象が強い王です。
こんな王だったからこそ無血開城できたのかとも思ました。
それから「PLUS ULTRA」というカール5世(スペインではカルロス1世)の部分で、読み方を勘違いして頭を抱えていたのですが、sanaboさんのセビリアの旅行記(グラナダの旅行記も)で以前お見かけして覚えていたのですが、実際に目の当たりにすると、また勘違いしてしまっていました。(-_-;)
そんなわけでこっそりsanaboさんのことをs〇〇〇〇oさん、と暗喩させていただきました。
事後承諾ですみません。m(__)m
ワシントン・アーヴィングの部屋のちょっと後に書かせていただきました。
> noelさんの語るアルハンブラ物語、とても魅力溢れるものでした☆彡
本当にありがとうございます。
本当に昔から行きたかったアルハンブラ宮殿を観ることができて嬉しかったです。
sanaboさんの旅行記も楽しみです。
noel
- sanaboさん からの返信 2020/03/07 23:45:59
- RE: RE: アルハンブラ物語
- noelさん、またまたこんばんは^^
早速のご返信、ありがとうございました。
> > ボアブディルは母から見ると気弱でも、心優しい人だったのでしょうね。
>
> 私にとってはそんな印象が強い王です。
> こんな王だったからこそ無血開城できたのかとも思ました。
そうですよね、私もそう思いました。
負けず嫌いの王だったら流血沙汰になり、多くの家臣の命が失われていたでしょうね。
> それから「PLUS ULTRA」というカール5世(スペインではカルロス1世)の部分で、読み方を勘違いして頭を抱えていたのですが、sanaboさんのセビリアの旅行記(グラナダの旅行記も)で以前お見かけして覚えていたのですが、実際に目の当たりにすると、また勘違いしてしまっていました。(-_-;)
> そんなわけでこっそりsanaboさんのことをs〇〇〇〇oさん、と暗喩させていただきました。
> 事後承諾ですみません。m(__)m
いえいえ、ご丁寧にありがとうございます。
実は私、グラナダ旅行記で「PLUS ULTRA」について書いたのは覚えているのですけど、セビリア旅行記で書いた記憶がなくて…(汗)、あとで時間がある時に自分のセビリア旅行記をチェックしてみますね。時間が経つと自分の旅行記でも書いたことを随分と忘れています(笑)←私、危ないですね^^;
それでは、また〜
sanabo
- noelさん からの返信 2020/03/08 08:52:38
- RE: RE: RE: アルハンブラ物語
- sanaboさん、おはようございます!
またのご返信ありがとうございます。
> 実は私、グラナダ旅行記で「PLUS ULTRA」について書いたのは覚えているのですけど、セビリア旅行記で書いた記憶がなくて…(汗)、あとで時間がある時に自分のセビリア旅行記をチェックしてみますね。時間が経つと自分の旅行記でも書いたことを随分と忘れています(笑)←私、危ないですね^^;
いえいえ、どちらかと言うと私の方が勘違い多いです。
しかも目が悪くなった事をいいことに、見間違いの言い訳をする事も多くて反省してます。
ですから、当然自分で書いた事も忘れています。(笑)
それで、心配になってsanaboさんのセビリア旅行記、もう1度拝見させて頂きました。
そしたらアルカサルの階段脇のアスレホに書かれていました。
小さく描かれていた中でお気づきになられたので、凄いと思いました。
以後見習わせていただこうと思っています。
(なかなかsanaboさんのようにはできてませんが・・)
文字の小ささもさる事ながら、なるほどーと思って見せていただきました。
にも関わらず、実際にあのラテン語を目にすると、「V」がわかりにくく勘違いしてました。(汗)
今回はアルハンブラ宮殿のアスレホの写真が出来損ないで、たまたま撮った別の写真で改めて気づいた次第です。
後でsanaboさんご自身のセビリア旅行記も、ゆっくりご覧になってくださいね。
では早々のお返事ありがとうございました。
noel
- sanaboさん からの返信 2020/03/08 15:40:22
- RE: RE: RE: RE: アルハンブラ物語
- noelさん、こんにちは
> それで、心配になってsanaboさんのセビリア旅行記、もう1度拝見させて頂きました。
私のボケ具合(記憶障害?笑)のためにお手間をとらせてしまってゴメンナサイ!
> そしたらアルカサルの階段脇のアスレホに書かれていました。
↑この一文を読んで思い出しました〜(´艸`*)
> にも関わらず、実際にあのラテン語を目にすると、「V」がわかりにくく勘違いしてました。(汗)
noelさんは書いた本人(=私)も忘れているような記述を覚えていて下さってるのですから、ご心配には及ばないと思います。
それにしてもコロナ感染は拡大するばかりで気がかりですね。
noelさんもお気をつけてお過ごしくださいね。
sanabo
- noelさん からの返信 2020/03/08 18:02:47
- RE: RE: RE: RE: RE: アルハンブラ物語
- sanaboさん、こんばんは!
> 私のボケ具合(記憶障害?笑)のためにお手間をとらせてしまってゴメンナサイ!
そんなことないですよ。
自慢ではありませんが、絶対にボケに関しては私の方が勝っていると自信があります。
どうしようもない自信ですが・・・(笑)
> それにしてもコロナ感染は拡大するばかりで気がかりですね。
> noelさんもお気をつけてお過ごしくださいね。
ありがとうございます。
本当に気がかりですね。
コロナのせいで、早く返信できているという事実も皮肉です。(-_-;)
sanaboさんも、どうぞお気をつけてくださいね!
noel
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