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2017年11月24日(金)、ブエノスアイレス(Buenos Aires)での2日目の午後2時過ぎ、午前中のレコレータ地区(Barrio Recoleta)からセントロ(Centro)西部の散策を終え、お昼を食べてからバスでボカ地区(Barrio la Boca)へやって来た。<br /><br />ここはアルゼンチンの最初の港があったところで、ヨーロッパからブエノスアイレスへやってきた移民たちが最初に足を踏み入れた土地だった。労働者や船乗りのたむろする薄暗いバーから、あの官能的なアルゼンチンタンゴ(Tango)が生まれた。1976年のアニメ「母を訪ねて三千里(原作はイタリア人作家のエドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis)の「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで(Dagli Appennini alle Ande)」)でマルコ(Marco Rossi)が1882年に上陸したのもこの港。ボカはスペイン語で「河口」の意味で、この辺りがラプラタ川(Rio de la Plata)に注ぐマタンサ川(Rio de la Matanza)の河口部分と云うことから名付けられた。ちなみに、マタンサ川の下流部分はリアチュエーロ(Riachuelo=「小川」の意味)と呼ばれる。<br /><br />現在は、カラフルに彩られたカミニート(Caminito)に観光客が押し寄せ、パフォーマーが明るい日差しの中でタンゴを踊る一大観光地となっている。ただし、あまり治安はよくない地域なので、メインの道路を外れないように、また周りを気にしながら歩く。<br /><br />バスはマタンサ川の曲がった所、ローチャの曲がり角(Vuelta de Rocha)と呼ばれるところに着く。さっそく派手派手なキンケラ・マルティン美術館(Museo de Bellas Artes Benito Quinquela Martin)が迎えてくれる。1936年オープン。彼は故郷ボカを愛し、自分の絵が売れるとそのお金で病院、小学校、幼稚園、美術館などを建てていったが、この美術館の1階がその幼稚園。2階と3階が美術館として利用されており、彼の絵を始めとして、彼の依頼によって寄贈された絵画など500点ほどが展示されているそうだが、入ってない。川岸には彼の生誕120年を記念して民間の寄付で2010年に建てられた銅像(Escultura de Quinquela Martin en La Boca)も建っている。<br /><br />キンケラ・マルティン(Pintor Benito Quinquela Martin)は1890年にブエノスアイレスの孤児院に置き去りにされたところを発見された。両親や正確な誕生日は分からない。やがて、彼は養子に出され、ボカの夜間美術学校に通う。彼はボカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、荒々しくも優しいタッチでカンバスに移し、世界的に有名な画家となった。1977年に87歳で亡くなった。<br /><br />そのマルティンがこの地区に造り上げたもう一つの傑作がスペイン語で小径と云う意味のカミニートと呼ばれる約100mの通り。鮮やかな原色で塗られた建物が並ぶ華やかな通り。マルティンの友人でボカ生まれの作曲家フアン・デ・ディオス・フィリベルト(Juan de Dios Filiberto)がこの道に触発されて1926年に「カミニート」と云うタンゴの名曲を創ったが、その曲を不滅のものにするためにマルティンが動いたもの。ちなみにこの曲、日本語歌詞もあり、1961年と62年の紅白で歌われている。<br /><br />この道は古くはマタンサ川に注ぐ小川が流れていたが、19世紀後半からは鉄道の線路が引かれていた。その鉄道は1920年にこの線での運行を停止し、その頃この道を通ったフィリベルトが曲を書いた。しかし、それ以降どんどんと道は荒れていった。その状況を見かねたマルティンが54年に鉄道用地をもらい受け、川辺に停泊していた船の塗料の残りを使用して3年ほど掛けてペイントした。カミニートを抜けた先でぶつかる通りには、今も線路が残る。<br /><br />今ではここには毎日画家の卵たちが自分の作品を持って集まる。絵画あり、オブジェありと辺りはまるで野外美術館になっている。アルゼンチンタンゴの店もある(下の写真)。まあ、独特の風景だった。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2138784376191575&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br />カミニートを抜けた後は、300mほど北のボカ・ジュニアーズ・スタジアム(La Bombonera)に移動したのだが、これがちょっとした冒険。なぜかと云うと、ボカ地区、カミニートにこのスタジアムはまあ安全だけど、他の道には入るなってアドバイスが結構多いんだよね。ほんの3ブロックほどなんだけど、気が抜けない。まあ、でも幸いに他の人も歩いてるし、道も明るいし、昔の線路が残る道を一気に移動する。幸いに何の問題もなく3分ほどでスタジアムの正面に到着。<br /><br />1905年、イタリア系移民を中心に結成されたボカ・ジュニアーズ(Club Atletico Boca Juniors)は、国内リーグ(Primera Division)33回、南米クラブカップ戦のリベルタドーレス杯(Copa Libertadores)6回優勝の名門。この地区をホームとし、労働者階級に圧倒的な人気を誇る、アルゼンチンでもっとも成功を収めたサッカークラブのひとつ。「Juniors」の語はクラブ名に英語風の趣を付加するために加えられたものであり、juniorというスペイン語はない。<br /><br />青地に鮮やかな黄色い帯が目を引くユニホームは1906年に採用されたもので、スウェーデン国旗をモチーフにしている。理由は試合に敗れたあと、次に入港する船の旗の色に変更すると決め、実際にやって来たのがスウェーデン国籍の貨物船だったからだそうだ。サッカーだけでなく、バスケットボール、フットサル、武道(柔道・テコンドー・空手)、レスリング、バレーボール、体操(器械体操・新体操・競技エアロビクス)、水泳、重量挙げの競技チームなども所有している。<br /><br />同じブエノスアイレスを本拠地とするリーベルプレート(Club Atletico River Plate)とは激しいライバル関係にあり、両者の対戦はスーペルクラシコ(Superclasico)と呼ばれ、世界で最も熱いダービーマッチのひとつ。<br /><br />81年から82年と95年から97年にあのマラドーナ(Diego Armando Maradona)がプレーしたチーム。その他、リケルメ(Juan Roman Riquelme)、カニーヒア(Claudio Paul Caniggia)、バティストゥータ(Gabriel Omar Batistuta)、テベス(Carlos Alberto Martinez Tevez)などもプレーしている。元日本代表の高原直泰も2001年に所属し、6試合で1得点を挙げている。<br /><br />ユニフォームと同じ青と黄色で派手に塗られたスタジアムは正式名称はエスタディオ・アルベルト・J・アルマンド(Estadio Alberto J. Armando)で、チョコレート箱と云う意味の「ボンボネーラ(La Bombonera)」の愛称で親しまれている。1940年開場。96年に会長に就任したマウリシオ・マクリ(Mauricio Macri=現大統領)のもと、大改修を行い、生まれ変わった。収容人員は4万9千人。<br /><br />86年にスタジアム建設に携わった元会長の名前を取ってエスタディオ・カミーロ・シチェーロ(Estadio Camilo Cichero)が正式名称として採用されたが、2000年末に、1960年代から70年代にかけて会長を務めたアルベルト・J・アルマンド(Alberto J. Armando)の13回忌に現名称に変更された。<br /><br />210ペソ(1400円弱)で、博物館(Museo de la Pasion Boquense)とスタジアムを見学する。スタンドとピッチがムチャクチャ近い。ここに5万人いるとすごい迫力だろうな。メインスタンド以外は屋根なしなんだ。いや、試合見に来るのはちょっと怖い感じ。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2138788272857852&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br />3時半ちょっと前、スタジアム見学終了。<br /><br /><br />次はサンテルモ地区へ向かう。

ブエノスアイレス ボカ地区(Barrio la Boca, Buenos Aires)

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2017/11/24 - 2017/11/24

697位(同エリア742件中)

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ちふゆ

ちふゆさん

2017年11月24日(金)、ブエノスアイレス(Buenos Aires)での2日目の午後2時過ぎ、午前中のレコレータ地区(Barrio Recoleta)からセントロ(Centro)西部の散策を終え、お昼を食べてからバスでボカ地区(Barrio la Boca)へやって来た。

ここはアルゼンチンの最初の港があったところで、ヨーロッパからブエノスアイレスへやってきた移民たちが最初に足を踏み入れた土地だった。労働者や船乗りのたむろする薄暗いバーから、あの官能的なアルゼンチンタンゴ(Tango)が生まれた。1976年のアニメ「母を訪ねて三千里(原作はイタリア人作家のエドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis)の「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで(Dagli Appennini alle Ande)」)でマルコ(Marco Rossi)が1882年に上陸したのもこの港。ボカはスペイン語で「河口」の意味で、この辺りがラプラタ川(Rio de la Plata)に注ぐマタンサ川(Rio de la Matanza)の河口部分と云うことから名付けられた。ちなみに、マタンサ川の下流部分はリアチュエーロ(Riachuelo=「小川」の意味)と呼ばれる。

現在は、カラフルに彩られたカミニート(Caminito)に観光客が押し寄せ、パフォーマーが明るい日差しの中でタンゴを踊る一大観光地となっている。ただし、あまり治安はよくない地域なので、メインの道路を外れないように、また周りを気にしながら歩く。

バスはマタンサ川の曲がった所、ローチャの曲がり角(Vuelta de Rocha)と呼ばれるところに着く。さっそく派手派手なキンケラ・マルティン美術館(Museo de Bellas Artes Benito Quinquela Martin)が迎えてくれる。1936年オープン。彼は故郷ボカを愛し、自分の絵が売れるとそのお金で病院、小学校、幼稚園、美術館などを建てていったが、この美術館の1階がその幼稚園。2階と3階が美術館として利用されており、彼の絵を始めとして、彼の依頼によって寄贈された絵画など500点ほどが展示されているそうだが、入ってない。川岸には彼の生誕120年を記念して民間の寄付で2010年に建てられた銅像(Escultura de Quinquela Martin en La Boca)も建っている。

キンケラ・マルティン(Pintor Benito Quinquela Martin)は1890年にブエノスアイレスの孤児院に置き去りにされたところを発見された。両親や正確な誕生日は分からない。やがて、彼は養子に出され、ボカの夜間美術学校に通う。彼はボカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、荒々しくも優しいタッチでカンバスに移し、世界的に有名な画家となった。1977年に87歳で亡くなった。

そのマルティンがこの地区に造り上げたもう一つの傑作がスペイン語で小径と云う意味のカミニートと呼ばれる約100mの通り。鮮やかな原色で塗られた建物が並ぶ華やかな通り。マルティンの友人でボカ生まれの作曲家フアン・デ・ディオス・フィリベルト(Juan de Dios Filiberto)がこの道に触発されて1926年に「カミニート」と云うタンゴの名曲を創ったが、その曲を不滅のものにするためにマルティンが動いたもの。ちなみにこの曲、日本語歌詞もあり、1961年と62年の紅白で歌われている。

この道は古くはマタンサ川に注ぐ小川が流れていたが、19世紀後半からは鉄道の線路が引かれていた。その鉄道は1920年にこの線での運行を停止し、その頃この道を通ったフィリベルトが曲を書いた。しかし、それ以降どんどんと道は荒れていった。その状況を見かねたマルティンが54年に鉄道用地をもらい受け、川辺に停泊していた船の塗料の残りを使用して3年ほど掛けてペイントした。カミニートを抜けた先でぶつかる通りには、今も線路が残る。

今ではここには毎日画家の卵たちが自分の作品を持って集まる。絵画あり、オブジェありと辺りはまるで野外美術館になっている。アルゼンチンタンゴの店もある(下の写真)。まあ、独特の風景だった。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2138784376191575&type=1&l=8a89379cb0

カミニートを抜けた後は、300mほど北のボカ・ジュニアーズ・スタジアム(La Bombonera)に移動したのだが、これがちょっとした冒険。なぜかと云うと、ボカ地区、カミニートにこのスタジアムはまあ安全だけど、他の道には入るなってアドバイスが結構多いんだよね。ほんの3ブロックほどなんだけど、気が抜けない。まあ、でも幸いに他の人も歩いてるし、道も明るいし、昔の線路が残る道を一気に移動する。幸いに何の問題もなく3分ほどでスタジアムの正面に到着。

1905年、イタリア系移民を中心に結成されたボカ・ジュニアーズ(Club Atletico Boca Juniors)は、国内リーグ(Primera Division)33回、南米クラブカップ戦のリベルタドーレス杯(Copa Libertadores)6回優勝の名門。この地区をホームとし、労働者階級に圧倒的な人気を誇る、アルゼンチンでもっとも成功を収めたサッカークラブのひとつ。「Juniors」の語はクラブ名に英語風の趣を付加するために加えられたものであり、juniorというスペイン語はない。

青地に鮮やかな黄色い帯が目を引くユニホームは1906年に採用されたもので、スウェーデン国旗をモチーフにしている。理由は試合に敗れたあと、次に入港する船の旗の色に変更すると決め、実際にやって来たのがスウェーデン国籍の貨物船だったからだそうだ。サッカーだけでなく、バスケットボール、フットサル、武道(柔道・テコンドー・空手)、レスリング、バレーボール、体操(器械体操・新体操・競技エアロビクス)、水泳、重量挙げの競技チームなども所有している。

同じブエノスアイレスを本拠地とするリーベルプレート(Club Atletico River Plate)とは激しいライバル関係にあり、両者の対戦はスーペルクラシコ(Superclasico)と呼ばれ、世界で最も熱いダービーマッチのひとつ。

81年から82年と95年から97年にあのマラドーナ(Diego Armando Maradona)がプレーしたチーム。その他、リケルメ(Juan Roman Riquelme)、カニーヒア(Claudio Paul Caniggia)、バティストゥータ(Gabriel Omar Batistuta)、テベス(Carlos Alberto Martinez Tevez)などもプレーしている。元日本代表の高原直泰も2001年に所属し、6試合で1得点を挙げている。

ユニフォームと同じ青と黄色で派手に塗られたスタジアムは正式名称はエスタディオ・アルベルト・J・アルマンド(Estadio Alberto J. Armando)で、チョコレート箱と云う意味の「ボンボネーラ(La Bombonera)」の愛称で親しまれている。1940年開場。96年に会長に就任したマウリシオ・マクリ(Mauricio Macri=現大統領)のもと、大改修を行い、生まれ変わった。収容人員は4万9千人。

86年にスタジアム建設に携わった元会長の名前を取ってエスタディオ・カミーロ・シチェーロ(Estadio Camilo Cichero)が正式名称として採用されたが、2000年末に、1960年代から70年代にかけて会長を務めたアルベルト・J・アルマンド(Alberto J. Armando)の13回忌に現名称に変更された。

210ペソ(1400円弱)で、博物館(Museo de la Pasion Boquense)とスタジアムを見学する。スタンドとピッチがムチャクチャ近い。ここに5万人いるとすごい迫力だろうな。メインスタンド以外は屋根なしなんだ。いや、試合見に来るのはちょっと怖い感じ。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2138788272857852&type=1&l=8a89379cb0

3時半ちょっと前、スタジアム見学終了。


次はサンテルモ地区へ向かう。

  • タンゲリア

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