2019/06/19 - 2019/06/28
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tono202さん
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北海道道東めぐりの2日目です。
帯広を出て高速でスムーズに厚岸を目指します。
行き当たりばったりの旅なのですが、今日はここだけは押さえておきたいと思ったのが厚岸の国泰寺です。
ここは高田屋嘉兵衛の痕跡が残る場所です。その足取りを訊ねて国泰寺へ行ってみました。
禅寺としてのこの寺の境内の雰囲気も良かったのですが、郷土資料館の資料も私にとっては貴重な物でした。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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開通したばかりの(?)釧路別保ICを下りて国道44号に入って行きます。
晴天下の快適なドライブで心がウキウキしてきます。 -
気分転換に立ち寄ったのが花咲線の尾幌駅。
かわいい駅舎出迎えてくれました。
北海道の駅舎は、それぞれのロケーションの中で個性派揃いなので印象に残ります。 -
地元の人たちが大切に見守り管理しているのが伝わって来ます。
今、列車が来たらそのまま乗り込んでしまいそうな「誘惑」を感じます。 -
次に立ち寄ったのが厚岸の玄関口にあたる望洋台です。
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ここからの景色は広い厚岸湾を一望し、晴れた日には、厚岸湾口の尻羽岬や大黒島、愛冠岬をまで見渡せます。。
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この日は少しガスがかかっていましたが赤い厚岸大橋や厚岸市街の全景を眺望することができました。
司馬遼太郎は「菜の花の沖(四)」で、高田屋嘉兵衛のこの湾に北前船で入ってくる際の操船ぶりを次のように描いています
アッ ケシ の 小さな湾の目印は、なんといっても 湾頭にある 三角錐のような大黒島であった。「きたぞ」 沖 で 嘉兵衛 は 船 を 回 頭 させ、 北にむかって進ませ た。 袋のようにまるい湾内を、 左右 から 岬 と 島 が かこん で、 わずか な入口をあけている。 右が 末広 岬と大黒島 で、 左が 尻羽岬 で あっ た。 「なるべく 大黒島 の ほう に 寄せろ。 ただし、 寄せ すぎる な」 嘉兵衛 は、 命じ た。 左 の 尻羽岬 の 東方 への 延長線 が あぶない。 わずか に 海水 を のせ た だけの礁脈がつづい て いて、 干潮 時 に それ へ 乗る と、 船底 を 食い やぶら れ てしまう。」
確かにここから見る厚岸湾は南に向いて袋を開いた形で、その入口に大黒島が陣取っているのが見えます。湾に入った北前船は国泰寺前の会所の沖に碇を下ろしたはずです。それもここからは望むことが出来ます。
それでは、いざ国泰寺に! -
しかし、昼飯抜きでは配偶者が許してくれません。
まずは道の駅で牡蠣焼きを食してからです。 -
食後に道の駅が建つ丘の上から国泰寺のあるバラサン岬方面を見ます。
あの岬に会所はあり、厚岸の街の原点はあすこにあるようです。
周囲を見回すと -
赤い橋が見えます。
湖南地区と湖北地区を結ぶ長さ456.5mの厚岸大橋です。
1972年に開通した橋で、それまではフェリーボートで人や自動車を渡したようです。厚岸は湖南地方から開け、湖北地方が発展するのは鉄道開通後のようです。
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こちらがその奥に広がる厚岸湖。
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厚岸と言えば「牡蠣」、その養殖場所はこの厚岸湖です。牡蠣筏が湖面全体に広がっています。別寒辺牛川が運んでくる森からの栄養分と海の栄養分が適度にまじりあうのが、牡蠣の成長に良いと言います。
配偶者は食後のくつろぎ状態です。 -
そしてやってきたのが国泰寺。
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その前には厚岸高校。そしてその敷地内に「厚岸会所跡」の石碑があります。
ここには根室や国後の物産がアイヌの人たちの手によって運ばれてきて、松前藩に納められ、北前船に積み込まれた交易所跡になります。莫大な富を生み出していた所のようです。高田屋嘉兵衛が幕臣の近藤重蔵から択捉への航路を開くことを依頼されるのもここだったようです。 -
振り返ると国泰寺の境内が奥にはあるのですが、もともとはこの辺りまでが境内だったようです。郷土館も旧境内に建っているようです。
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郷土館は開いていたので入ってみます。
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江戸時代後期に千島列島沿いに南下して厚岸までやってきたロシア人は数多くいました。彼らは、ここに上陸したのです。赤蝦夷と呼ばれたロシア人を描いた絵が残っています。
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エカテリーナ2世の命を受けて、大黒屋光太夫を送り届け通商交渉を求めたラックスマンは厚岸にやってきます。その際に、描いた厚岸湾の絵地図の写しです。
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沖に伸びている2つの島は小島・大島で、付け根には隠れた岩礁があると記されています。
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こちらは松前藩の作成した絵地図です。
下が北になっていますが、ラックスマンの物よりも遙かに正確なようです。 -
松前藩は厚岸から先の根室や国後には直接には会所を設けなかったようです。
アイヌの人たちにラッコの毛皮や昆布類を厚岸までもって来させていたようです。
そこで、幕府が直轄下に置いた際に根室や国後・択捉との小型船による日常的な交易路を開くことが求められるようになります。 -
その際に白羽の矢が立ったのが、当時函館で急速に力を伸ばしつつあった高田屋嘉兵衛でした。彼に、国後と択捉の流れの速い海峡を小型船で渡ることが出来る航海方法を見つけるように求めるのです。
これに高田屋嘉兵衛は見事に応えます。
この厚岸は「蝦夷の辺境」とも言えますが、見方を変えると道東や千島の物産の集積場であると同時に、内地への積み出し港の役割も果たしたのです。 -
そのため、明治になると道東の拠点として、郡役場も設置された時期もあるようです。
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郡役場の位置は、かつての会所跡。
つまり厚岸高校の敷地になります。 -
この地図を見ると改めて厚岸は、会所跡を中心に発展した町であることが分かります。
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そんな面影を探しに、国泰寺に御参りに行くことにします。
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郷土館の横にはこんな碑文もありました。
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山門をくぐて境内へ
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大きな木が参道沿いに並び本堂へと導いてくれます。
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ここは、江戸幕府が蝦夷地を直轄下した際に警備などの目的で将軍徳川家斉の命によって建立されたお寺のようです。「蝦夷三官寺」として格式を備えた寺院で、先ほども述べたように、かつてはいまの何倍もの境内を有したようです。
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境内は大きな木が茂り禅寺らしい落ち着いた雰囲気です。
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気むずかしそうなお地蔵さんに、ここまで来れたことの感謝をします。
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そして、本堂にも一礼します。
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本堂西側のバラサン岬に通じる階段を登ります。
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ここに祀られているのは?
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今は龍王殿と呼ばれているようです。
しかし、国泰寺の西側に建っている厚岸神社は、元々はこの地に「神明社」として建立されたようです。江戸時代後半に幕府の命を受けて千島探検を行った最上徳内によって建立されたのが始まりと説明版にはかかれていました。高田屋嘉兵衛も函館を拠点として、この厚岸に北前船でやってきてさらに北を目指します。その際には、この神社に詣でたことでしょう。 -
厚岸湾をのぞむ高台の上に鎮座していた「神明社(現厚岸神社)」跡に建つ龍王殿です。周囲には大きな桜が植えられています。桜のシーズンには多くの人々が訪れるようです。
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そして、こちらが厚岸神社。
明治の神仏分離で国泰寺境内にあった神明社が、ここに遷され厚岸神社と呼ばれるようになり現在に至っているようです。
厚岸の歴史と高田屋嘉兵衛の痕跡を教えてくれた郷土館に感謝
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