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1108 養翠園駐車場に さすが紀州の殿様 借景もうまく使って海辺にすごい庭園を建てた 日本式と中国式を合わせ,船で御成りになる.養翠亭という茶室を備えたところからこの庭園を眺めるなんて,なんて贅沢な風流なんだろうねえ.外様大名じゃ絶対許されないと思う たいした庭園だった 入場料600円は高いが,個人が所有しているとの事,維持に大変だねえ.<br />隣りに移設されたのは湊御殿.これは市が所有している.立派なものだ.特に鳥の子紙で天井をふいたり,<br />(唐紙)には胡粉(ごふん)による「綾菱地(あやびしじ)」の地文様に、縹藍(はなだあい)で「若松」を配していたっり,なかなかの杉戸絵があったり素晴らしかったが撮影禁止.残念.http://wakayamacity-bunkazai.jp/minatogoten/kenchiku/に一端が示される.単独では100円だが,養翠園の入場券で無料で入ることができる.<br />最後に水軒堤防をみたあと,1202 もう一度和歌の浦に戻る

2019.5和歌山・和歌の浦ドライブ旅行4-養翠園,湊御殿,水軒堤防 御三家じゃなければ無理な素晴らしい庭園

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2019/05/12 - 2019/05/12

51位(同エリア90件中)

SUOMITA

SUOMITAさん

1108 養翠園駐車場に さすが紀州の殿様 借景もうまく使って海辺にすごい庭園を建てた 日本式と中国式を合わせ,船で御成りになる.養翠亭という茶室を備えたところからこの庭園を眺めるなんて,なんて贅沢な風流なんだろうねえ.外様大名じゃ絶対許されないと思う たいした庭園だった 入場料600円は高いが,個人が所有しているとの事,維持に大変だねえ.
隣りに移設されたのは湊御殿.これは市が所有している.立派なものだ.特に鳥の子紙で天井をふいたり,
(唐紙)には胡粉(ごふん)による「綾菱地(あやびしじ)」の地文様に、縹藍(はなだあい)で「若松」を配していたっり,なかなかの杉戸絵があったり素晴らしかったが撮影禁止.残念.http://wakayamacity-bunkazai.jp/minatogoten/kenchiku/に一端が示される.単独では100円だが,養翠園の入場券で無料で入ることができる.
最後に水軒堤防をみたあと,1202 もう一度和歌の浦に戻る

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
レンタカー ANAグループ

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  • 1108 養翠園駐車場に

    1108 養翠園駐車場に

    養翠園 公園・植物園

    御三家じゃなければ無理な素晴らしい庭園 by SUOMITAさん
  • 養翠園」は紀州徳川家第十代藩主 徳川 治寶 が隠居所であった西浜御殿からの清遊の場、外来者の接待の場、として1818年(文政元年)より8年ほどかけて造営した 大名庭園で、敷地面積約7,000坪あり、池が3,500坪あります。<br />「養翠園」の命名は 三条 公修 公で「マツ」の「ミドリ」を「ヤシナウ」「ソノ」と言う意味です。ちなみに 三条 公修 公は明治の元勲 三条 実美 公の祖父にあたる方です。徳川 治寶 公が養翠園に来遊されるおりは、西浜御殿より船で出て大浦湾を経て、園内御船倉へ入り、庭園内へ直接上陸されます。<br />御客様は駕籠にて、正門より来園されます。園内には殿様の休憩所を兼ねた築後190年たった御茶屋「養翠亭」があります。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub1.htm

    養翠園」は紀州徳川家第十代藩主 徳川 治寶 が隠居所であった西浜御殿からの清遊の場、外来者の接待の場、として1818年(文政元年)より8年ほどかけて造営した 大名庭園で、敷地面積約7,000坪あり、池が3,500坪あります。
    「養翠園」の命名は 三条 公修 公で「マツ」の「ミドリ」を「ヤシナウ」「ソノ」と言う意味です。ちなみに 三条 公修 公は明治の元勲 三条 実美 公の祖父にあたる方です。徳川 治寶 公が養翠園に来遊されるおりは、西浜御殿より船で出て大浦湾を経て、園内御船倉へ入り、庭園内へ直接上陸されます。
    御客様は駕籠にて、正門より来園されます。園内には殿様の休憩所を兼ねた築後190年たった御茶屋「養翠亭」があります。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub1.htm

  • ここはいまでも個人の持ち物 入場料600円 ボランティアガイドさんが説明してくれた しかしこれを維持していくのは大変だねえ  財政援助があったとしても600円では割が合わないだろう

    イチオシ

    ここはいまでも個人の持ち物 入場料600円 ボランティアガイドさんが説明してくれた しかしこれを維持していくのは大変だねえ  財政援助があったとしても600円では割が合わないだろう

  • かきつはたがきれい

    かきつはたがきれい

  • イチオシ

  • 手前が来客の控えの間「御次座敷」で左奥が殿様の居られる「御座の間」となりその間を結ぶ渡り廊下が「左斜め登り廊下」となる。<br />http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm<br />確かに少しづつ登っている

    手前が来客の控えの間「御次座敷」で左奥が殿様の居られる「御座の間」となりその間を結ぶ渡り廊下が「左斜め登り廊下」となる。
    http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm
    確かに少しづつ登っている

  • 御次座敷

    御次座敷

  • 御座の間

    御座の間

  • 左斜め登り廊下の瓦の向きと

    左斜め登り廊下の瓦の向きと

  • 御座の間の瓦の向きが反対だ

    御座の間の瓦の向きが反対だ

  • 池に向かう ここには海水が入っている

    池に向かう ここには海水が入っている

  • 正面の山(天神山)を借景としている

    正面の山(天神山)を借景としている

  • 太鼓橋

    太鼓橋

  • 守護神島の社が見える

    守護神島の社が見える

  • 船着場かな

    船着場かな

  • 三ツ橋 中国の西湖を模したと言われる景観で、この堤より左が直線的な護岸をもった中国式の庭園、右が曲線的な護岸をもった日本式庭園となっている。 正面は借景となっている高積山。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

    三ツ橋 中国の西湖を模したと言われる景観で、この堤より左が直線的な護岸をもった中国式の庭園、右が曲線的な護岸をもった日本式庭園となっている。 正面は借景となっている高積山。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

  • 中国式庭園

    中国式庭園

  • 三ツ橋を渡る

    三ツ橋を渡る

  • 後ろを振り返る

    後ろを振り返る

  • イチオシ

  • 守護神島へ

    イチオシ

    守護神島へ

  • 右弁財天,左稲荷神を祀る 二礼二拍手一礼

    右弁財天,左稲荷神を祀る 二礼二拍手一礼

  • 太鼓橋

    太鼓橋

  • イチオシ

  • 南側は水軒川に面している

    南側は水軒川に面している

  • もう河口でこの先は和歌山南港

    もう河口でこの先は和歌山南港

  • 戻る

    戻る

  • 養翠亭 庭園には「御座の間」(殿様の御座所)のみ面しており小さな建物に見えるが、建坪94坪もあり、奥が深く客間から供周りまで残っている別荘建築として貴重な建物。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

    イチオシ

    養翠亭 庭園には「御座の間」(殿様の御座所)のみ面しており小さな建物に見えるが、建坪94坪もあり、奥が深く客間から供周りまで残っている別荘建築として貴重な建物。http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

  • ここには水軒川への水門がある 海の満ち引きにはどう対応したんだろうねえ

    ここには水軒川への水門がある 海の満ち引きにはどう対応したんだろうねえ

  • 金カン畑のみごとな盆栽のような松

    金カン畑のみごとな盆栽のような松

  • 御馬場といっても馬場ではない 船で来た藩主をここで供が待ち,供ぞろえをしたのちに御座の間に行ったり船で帰られた

    御馬場といっても馬場ではない 船で来た藩主をここで供が待ち,供ぞろえをしたのちに御座の間に行ったり船で帰られた

  • 一定のスペースがある

    一定のスペースがある

  • 養翠亭に向かう ここは左右に池

    養翠亭に向かう ここは左右に池

  • 養翠亭の軒先

    養翠亭の軒先

  • ここから藩主は見た

    ここから藩主は見た

  • ほぼ藩主が見た風景

    イチオシ

    ほぼ藩主が見た風景

  • 借景の天神山,守護神島,太鼓橋

    借景の天神山,守護神島,太鼓橋

  • 池西北隅の池中立石

    池西北隅の池中立石

  • 隣りに2畳ほどの茶席 実際庵

    隣りに2畳ほどの茶席 実際庵

  • 和歌山県下で現存する最古の茶室。<br />中央に刀懸け、左ににじり口が見える http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

    和歌山県下で現存する最古の茶室。
    中央に刀懸け、左ににじり口が見える http://www2.odn.ne.jp/cap99810/sub4.htm

  • 御船蔵

    御船蔵

  • こちらにも水門がある

    こちらにも水門がある

  • この付近からの養翠亭

    この付近からの養翠亭

  • そのまま地続きで「湊御殿」に

    イチオシ

    そのまま地続きで「湊御殿」に

  • 湊御殿は、紀州藩二代藩主徳川光貞(みつさだ・1626年~1705年)の隠居所として元禄11年(1698)に造営されました。隠居した藩主が生活するために、湊御殿の敷地内にはたくさんの建物が建てられ、その中の一つに平成18年(2006)に移築された湊御殿(奥御殿)がありました。湊御殿があった場所は、和歌山城より南西方向、現在の和歌山市湊御殿1丁目から3丁目にあたります。「湊御殿」という地名は、この建物があったことに由来しています。移築された湊御殿(奥御殿)の建築年代については、移築工事中に小屋束(こやづか)から「天保四年四月十三日 改」と墨書された部材が発見されたことから、十一代藩主徳川斉順(なりゆき・1801年~1846年)が、焼失した湊御殿の再建を天保3年(1832)に命じ、同5年(1834)に完成させたものと考えられています。

    湊御殿は、紀州藩二代藩主徳川光貞(みつさだ・1626年~1705年)の隠居所として元禄11年(1698)に造営されました。隠居した藩主が生活するために、湊御殿の敷地内にはたくさんの建物が建てられ、その中の一つに平成18年(2006)に移築された湊御殿(奥御殿)がありました。湊御殿があった場所は、和歌山城より南西方向、現在の和歌山市湊御殿1丁目から3丁目にあたります。「湊御殿」という地名は、この建物があったことに由来しています。移築された湊御殿(奥御殿)の建築年代については、移築工事中に小屋束(こやづか)から「天保四年四月十三日 改」と墨書された部材が発見されたことから、十一代藩主徳川斉順(なりゆき・1801年~1846年)が、焼失した湊御殿の再建を天保3年(1832)に命じ、同5年(1834)に完成させたものと考えられています。

  • 中は撮影禁止<br />この建物は明治初年に湊御殿から和歌浦東へ移築された後、現在の地に移築されました。建物は書院造りで、上の間(床の間のある部屋)・次の間・入側(いりがわ)廊下などがあり、数奇屋(すきや)風に土庇(つちびさし)や濡れ縁(ぬれえん)を付け、外界との調和を考えたものと思われます。柱(4寸7分角)は上質の栂柾材(とがまさざい)を使用し、太く武骨な感じで、武家住宅としての力強さを感じさせます。また、長押(なげし)をめぐらし、欄間がつけられていることにより、格式ある建物であることがわかります。さらに、開口部を広くとり、当時は上の間からの景色を借景として取り込んだと思われる演出がなされています。天井には鳥の子紙が貼られ、入側廊下の奥にある杉戸には、紀州藩御用絵師による杉戸絵が残されています。また、床の間の棚まわりには葵紋の金具が取り付けられ、紀州徳川家の建物であったことを今に伝えています。http://wakayamacity-bunkazai.jp/minatogoten/

    中は撮影禁止
    この建物は明治初年に湊御殿から和歌浦東へ移築された後、現在の地に移築されました。建物は書院造りで、上の間(床の間のある部屋)・次の間・入側(いりがわ)廊下などがあり、数奇屋(すきや)風に土庇(つちびさし)や濡れ縁(ぬれえん)を付け、外界との調和を考えたものと思われます。柱(4寸7分角)は上質の栂柾材(とがまさざい)を使用し、太く武骨な感じで、武家住宅としての力強さを感じさせます。また、長押(なげし)をめぐらし、欄間がつけられていることにより、格式ある建物であることがわかります。さらに、開口部を広くとり、当時は上の間からの景色を借景として取り込んだと思われる演出がなされています。天井には鳥の子紙が貼られ、入側廊下の奥にある杉戸には、紀州藩御用絵師による杉戸絵が残されています。また、床の間の棚まわりには葵紋の金具が取り付けられ、紀州徳川家の建物であったことを今に伝えています。http://wakayamacity-bunkazai.jp/minatogoten/

  • 1151見学終了 さて和歌の浦に戻ろう

    1151見学終了 さて和歌の浦に戻ろう

  • 1157水軒堤防に立ち寄る

    1157水軒堤防に立ち寄る

  •  紀ノ川の南岸の西浜に築かれた南北約1.0kmに及ぶ江戸時代の堤防跡です。明治及び昭和の文献資料により、紀州藩初代藩主徳川頼宣の命を受け、寛永年間(1624~1644)に朝比奈段右衛門が工事を担当し、13年の歳月をかけ完成したものとされていましたが、その後の道路拡張に伴う発掘調査により、18世紀後半の築造であったことが判明しました。また、堤の北端部・南端部の確認調査により、堤防は海側に石堤、陸側に土堤を併せもつ非常に強固な構造体であり、高さは石堤が約4m、土堤が約5mで、基底部の幅は推定で24m以上にも及ぶことが考えられます。<br /> 築造の背景として、堤防東部の地域が、古代以来の名勝である和歌の浦と一体となった「吹上」の地であり、藩主が遊覧したり別邸を築いたりした西浜の地であることから、防潮とともに景観保持の目的であった可能性も想定されています。http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/778/

     紀ノ川の南岸の西浜に築かれた南北約1.0kmに及ぶ江戸時代の堤防跡です。明治及び昭和の文献資料により、紀州藩初代藩主徳川頼宣の命を受け、寛永年間(1624~1644)に朝比奈段右衛門が工事を担当し、13年の歳月をかけ完成したものとされていましたが、その後の道路拡張に伴う発掘調査により、18世紀後半の築造であったことが判明しました。また、堤の北端部・南端部の確認調査により、堤防は海側に石堤、陸側に土堤を併せもつ非常に強固な構造体であり、高さは石堤が約4m、土堤が約5mで、基底部の幅は推定で24m以上にも及ぶことが考えられます。
     築造の背景として、堤防東部の地域が、古代以来の名勝である和歌の浦と一体となった「吹上」の地であり、藩主が遊覧したり別邸を築いたりした西浜の地であることから、防潮とともに景観保持の目的であった可能性も想定されています。http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/778/

  • 水軒大橋

    水軒大橋

  • 県道15号線

    県道15号線

  • 大浦街道に左折

    大浦街道に左折

  • 1202 和歌の浦トンネルをこえて新和歌の浦へ

    1202 和歌の浦トンネルをこえて新和歌の浦へ

  • 養翠園のパンフ

    養翠園のパンフ

  • レシート

    レシート

  • 湊御殿のパンフ

    湊御殿のパンフ

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