
2018/05/23 - 2018/05/23
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frau.himmelさん
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ウィーン3日目はまだ続きます。
世界一美しい図書館で有意義な時間を過ごした後は、トラムD線でハイリゲンシュタットに出ました。
そこからバスでカーレンベルクの丘に登り、美しいウィーンの街並みを一望した後はベートーベンハウスへ。
その後はお楽しみの「あそこ」です。
I女史曰く「『ホリイケ』に行くのよね?」。
ホイリゲでしょうって言ったら、だって「ホリイケ」の方が日本語らしくて言い易いんだもの。
なるほど、以後「ホリイケ」は3人だけの密語になりました。
ところでハイリゲンシュタットのベートーベンの家、3年前に夫と訪れた時は「ベートーベン遺書の家」って2部屋だけの狭い展示場でしたが、今回行ったら「ベート-ベンムゼウム(博物館)」と変わっていて、展示面積も大幅に拡大してました。
ここで、探し求めていた「ナネッテ・シュトライヒャー」のクラヴィアに出合えました。
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リンク通り王宮前からトラムD線に乗車。
25分かけてハイリゲンシュタットに向かいます。 -
ハイリゲンシュタットの駅前から38Aのバスに乗って、ウィーンの森カーレンベルクへ到着。
-
カーレンベルクまでの途中の山道ってガタゴト道ではありません。
写真でわかるように石畳の道路。
それも結構歴史がありそうな・・・。 -
バスを降りてカーレンベルクに登る途中にこんな碑銘が・・。
「ホーエンシュトラーセの工事は1934年に始まり、1938年に終わった。」
実は、先ほどの石畳の山道のことでした。
オーストリア第一共和国第14代首相であるドルフースが、雇用創出のためにあの山道(ホーエンシュトラーセ)の建設に取り組んだのでした。
しかしドルフースは、首相就任2年後には暗殺されました。 -
その近くには「Entsatzheer,1683」と記名がある石像絵が。
1683年、オスマントルコの大軍がウィーンに攻め入り、城壁(今はリンク通りになっていますが)の周りを2ヶ月に渡って包囲しました。
第二次ウィーン包囲です。
今にもウィーンが陥落するかという9月12日、この丘から様子を窺っていた援軍のポーランド王ソビエフスキーの軍が一気に駆け下りてオスマントルコ軍を急襲、撃退します。
それを記念した石像絵です。 -
丘の上には小さな教会が。カーレンベルク教会です。
-
入り口の上の碑には、
皇帝レオポルト1世の要請により、
1683年9月12日の朝、ポーランド王のヤン3世ソビエスキーがロートリンゲン公カールやザクセン、バイエルン、バーデンや他の援軍と共に、この高台から駆け下りて、ウィーンを救った、
のようなことが書いてあります。 -
これが、ポーランド王ヤン3世ソビエスキーの像。
ウィーンにとっては救世主みたいな存在ですね。
ドイツ語とポーランド語で説明があります。 -
そしてもう一人のプレートは、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世
ヤン3世と同じポーランド人であるパウロ2世は、1983年9月13日に、この礼拝堂を訪れました。
それはソビエスキーがウィーンを救ってから300年目の日でした。
それを記念して、礼拝堂の入り口に碑銘が飾られました。 -
教会の中に入ります。
小さな教会ですが、とても落ち着きます。 -
祭壇。明るい光が射し込んでいます。
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パイプオルガン。
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「顔出し記念撮影用の聖母マリア?!」
そんなわけないですね。黒い顔の聖母マリアでした。
下の紋章は教皇や教区の紋章のようです。 -
教会内の写真を撮っていたら関係者らしい人が、ニコニコしながらそっとこの法衣を指さしました。
ここを訪れられたローマ教皇パウロ2世が、身につけていらっしゃった法衣のようです。 -
こちらにも、パウロ2世のゆかりの品が飾られていました。
-
では展望台の方へ。
ここにも世界的流行の愛の錠前。
凄い数ですね。 -
展望台からみんなのんびりと眼下のウィーンの景色を眺めています。
お天気は良かったけど、ちょっと霞んでいるのが残念。 -
眼下に広がるぶどう畑。
そして2本のドナウ川(アルテドナウとノイドナウ)が見えます。
高い建物はドナウタワー。
豆粒のようなウィーンの街並み。 -
ここからシュテファン寺院やシェーンブルン宮殿も見えるそうですが、霞んでいてはっきり見えませんね。
眼下に広がるウィーンの街並みを見て考えました。
ポーランドのソビエスキー将軍や他の援軍は、ここから一気に馬で駆け下りて、包囲されていたウィーンの住民や街を助けたのです。
もしあの時、援軍がいなくてオスマントルコ軍がウィーンを占領してしまっていたら・・・。 -
ウィーンがオスマントルコ、すなわちイスラム教の世界に占領されていたら、今頃オーストリアはどんな国になっていたでしょうか?
昨今のイスラムの世界の不穏な世界情勢を考えても、一目瞭然ですね。
ソビエスキーはウィーンの救世主、さらには世界の救世主だった・・・。
頭の悪いシニアの、凄く短絡的な考えです(笑)。
こうやって旅をして世界の歴史の場に立つと、いつもそれを考えます。
ソビエスキー将軍のレリーフが飾ってある教会の横を通って、バス停に向かいます。 -
カーレンベルクから下りのバスの中でとても嬉しいことがありました。
課外授業があったのか、大勢の小学生が乗っていてバスは大混雑。シニア3人とも座れなくて立っていました。
後ろの席に居た小学生らしい可愛い女の子たちが、私たちをチラチラ見ながら、頭をそろえて4,5人で何やら相談しています。
そして私たちの近くに座っていた女の子に耳打ちして、
「この子は私たちの方に座りますからどうぞ座ってください」って席を空けてくれました。
I女史と私がお礼を言って座りました。
立った女の子たちは後ろの席に行き、ギューギューなりながらみんなで楽しそうに座っていました。 -
嬉しいですね。
正真正銘のシニアに見えたにしても(笑)、可愛い子供に親切にされると、ぎゅっと抱きしめたくたくなります。
私たちは次の目的地、ベートーベンハウスのある停留所でバスを降ります。
矢印には「ベートーベンハウスはこちら」と。 -
途中でろくろ首のような顔像を見つけました。
Dr.Bruno Kreisky(1991-1990)。
ブルーノ・クライスキー、初のユダヤ人のオーストリア首相です。
13年間首相を務め、首相経験者としては最長だとか。
ユダヤ人となればアンシュルスには無関係ではありません。
1938年にクライスキーはスエーデンに亡命します。
そこで後にドイツの首相となるノーベル賞受賞者のビリー・ブラントと知りあうのです。
ビリー・ブラントのことはいろいろ勉強していました。
私の癖なのですが、路傍の誰の像ともわからないものまで写真に撮ってきます。
帰国してそれを調べて、それが思いがけない人物だったり、歴史的に重大なことが見えてくるとうれしくてなります。 -
紅白の旗はウィーンの史跡のマーク。
ここがベートーベンハウスです。
ところが入り口の案内は「ベートーベンミュージアム」となっています。
2015年に訪れた時は「ベートーベンハウス」だったのに。 -
懐かしい中庭は以前のまんま・・・のようです。
-
でも、前回とどこか違和感を感じます。
-
入場料を払って中に入って違いに気が付きました。
展示面積が広くなったのです。
2017年にリニューアルされて展示室が大幅に拡大されたそうです。
2015年に訪れた時は2室しか見学できませんでしたが、今は中庭から6つの部屋に出はいりできるそうです。
まず最初に入った部屋。
ベートーベンが中庭を散策しているところです。
お断り)
写真は、私が都合がいいように適当に貼り付けていますので、時系列とは関係ありません。悪しからず。 -
この部屋は「ボンからウィーンへ」とありました。
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン(1770-1827)はドイツのボンで生まれました。
祖父も父も宮廷歌手でしたが、父親はアル中でどうしようもない人で、祖父亡き後はベートーヴェンに家族の生活がかかっていたようです。 -
ベートーヴェンは17歳の時、モーツアルトに師事するためにウィーンを訪れましたが、母の危篤の知らせを受け、ボンに戻らざるを得ませんでした。
母は間もなく亡くなり、ベートーベンはアル中の父や、幼い弟たちを養わなければなりませんでした。
1729年の12月、父も没して、ベートーベンは弟二人を連れてウィーンに移住します。
しかしその間に憧れのモーツアルトは既に亡くなっていました。 -
ベートーベンがウィーンに移住するきっかけはハイドンでした。
ハイドンはベートーベンの才能を高く評価し、ベートーベンは22歳の時にハイドンの門をたたきます。
上の写真はハイドン。
下はヨハン・ゲオルク・アルブルヒツベルガー。
ウィーンで活躍した古典派の作曲家で、シュテファン大聖堂の楽長でもありました。
ベートーヴェンはアルブレヒツベルガーにも師事しています。 -
展示方法として、旅行鞄にそれぞれの時代の出来事を詰め込むという方法がとられていました。
ここにはナポレオンやシラー、ゲーテの本が詰まっています。
みんなベートーヴェンに関係がある人です。
交響曲9番の合唱「Freude」はシラーの詩に曲をつけたものですし、
ゲーテはベートーヴェンの憧れの人でした。二人は何度か逢っています。 -
交響曲第3番『英雄」は、当時ベートーヴェンが尊敬していたナポレオン・ポナパルトに捧げるために作曲された、と言うのは有名な話ですね。
しかし実際には、ベートーベンは、皇帝になったナポレオンに失望して「ナポレオン献呈」は取りやめたという逸話があります。 -
ウィーンに移り住んだベートーヴェン。
大作曲家ハイドンが見込んだ通りの素晴らしい才能の持ち主で、瞬く間にウィーンの売れっ子ピアニスト、作曲家として活躍します。
ウィーンでの生活を支えてくれる後援者も現れ、作曲家活動、演奏活動も順調満帆に行くかと思われました。
写真はベートーヴェンの後援者、カール・アロイス・リヒノフスキー侯爵。
リヒノフスキー侯爵はモーツアルトのパトロンでもありましたが、金銭問題でモーツアルトとは裁判沙汰になったそうです。
ベートーヴェンとも大喧嘩をして決別するのです。 -
ベートーヴェンの弟子、カール・ツェルニー。
ピアノをやる方でしたらご存じですね。ピアノの練習局は有名です。
彼は従順なベートーヴェンの弟子でした。
ツェルニーの言葉によると、ベートーヴェンは大変な癇癪もちで、風貌もロビンソークルーソーみたいだったとか。
また、ツェルニーの弟子にはフランツ・リストがいます。 -
この時代の音楽家の相関関係が凄いですね。
ベートーベンはモーツアルトに師事しようとウィーンを訪れる。
ハイドンがベートーベンの才能を見込んで弟子にした。
ベートーベンの弟子にツェルニーがいて、その弟子がリストであった。
リストと言えば娘婿はワーグナー。
リストの娘コジマの前夫がハンス・ビューロー。
ベートーヴェンとハンスビューローの関係も面白い。
ハンス・ビューローは職業指揮者の先駆け。
当時はコンサートなどで作曲家本人がタクトを振っていましたが、ベートーベンのころより分業するようになりました。
ハンス・ビューローはツェルニー、リストの関係から、ベートーベンの演奏法を受け継いでいると自負していたようです。
そんなこんなを考えると、この当時の、中学校の音楽室に飾られていた神様みたいな存在の大音楽家って、みんな「お・と・も・だ・ち」だったのですね。
不思議な気持ちになりました。
写真は2016年ウィーン中央墓地で見つけたツェルニーのお墓。 -
ベートーヴェン直筆の譜面の書きかけ。
-
作曲が思い通りにいかないと、楽譜をくしゃくしゃにして部屋中に丸めて放り投げた。
-
びっくりしました。こんなところに何で卵が・・・?
実はベートーベンの好物は、パンと生卵を入れて煮込んだスープでした。
そのほかにコーヒー豆をきちんと60粒数えて飲んでいました。
ワインは安物のトカイワイン。そういえば、ウィーン最古のカフェ、シュヴァルツェン・カメールでワインを買っていたのでしたね。
癇癪もちのベートーヴェンは気に入らないことがあると、食事の支度をしてくれる家政婦に情け容赦なく卵を投げつけたそうです。 -
この旅行鞄の中にもベートーベン関係者。
ベートーベンは26歳のころより難聴に悩まされます。
音楽家にとって耳が聞こえないことは致命的。
苦悩した彼は悩みを友人のアダム・シュミット医師に打ち明けます。
左から2人目はアダム・シュミット医師。 -
アダムシュミットは、ハイリゲンシュタットでの温泉療法を勧めました。(写真右)。
写真左はハイリゲンシュタットの療養施設の様子。 -
"ハイリゲンシュタットはローマ時代からの温泉地。
温泉療法を受けるために大勢の療養客が訪れていました。
その当時のポスター
「ハイリゲンシュタット鉱泉&ゲストハウス」、1843年
-
この旅行鞄の中はバーデンです。
ベートーヴェンはウィーンにほど近い避暑地バーデンにも定期的に出かけて温泉保養地で療養していました。
後にこの地で「交響曲第9」が作曲されました。
バーデンには、今でもベートーベン・ハウスがあり博物館になっています。 -
温泉療法を続けても日ごとに悪化する難聴。
苦悩に満ちた表情で散歩するベートーベン。
髪の毛はボサボサ、服装には無頓着でいつもヨレヨレの恰好で散歩するベートーベンを見て、村の人は変人と噂していました。 -
絵ですから多少体裁よく描かれていますが、それでもチョッキのボタンはちぎれて、中から何かはみ出している・・・。
あるときは浮浪者と間違われて誤認逮捕されたこともあったそうです。
ベートーベンにとって、村人がどう噂しようが、毎日の散歩は落ち着いて創作に熱中できる時間でした。
散歩によって「交響曲田園」が生まれました。 -
28歳のころにはついに聴覚を失うという、音楽家にとって死にも等しい絶望感から自殺を考えます。
そうして1802年10月6日「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きました。 -
ハイリゲンシュタットの遺書は、ベートーヴェンの甥であるカールと弟のヨハンに宛てて書かれた手紙です。
結局投函されることはなく、ベートーベンの死後1827年3月に遺書は発見されました。 -
ベートーヴェンには2人の弟がいました。
すぐ下の弟カールは早く亡くなり、その子(ベートーヴェンにとっては甥)父と同名のカールの素行が悪くベートーヴェンは苦労します。
ベートヴェンのもう一人の弟ヨハンは、兄に学資を出してもらい薬剤師の大学を卒業して、リンツで薬局を手に入れ成功します。
ベートーベンはリンツに弟ヨハンの元を度々訪れました。素行が悪く自殺未遂を起こした甥カールを伴って長逗留をしたこともありました。
写真:弟ヨハン(リンツ博物館で) -
遺書を書いたことで吹っ切れたのか、その後ベートーベンは次から次へと大作を発表していきます。
ベートーベン手書きの譜面。汚いですね。
ベートーベンは悪筆で有名でした。 -
ケルントナートーア劇場。
1824年5月7日、ベートーベンの交響曲9番が、ベートーベン立ち合いのもと初演されました。
シラーの「歓喜に寄す」合唱付き。
現在はこの場所にホテルザッハーが建っています。 -
絵画の題名は「ベートーベンとラズモフスキー」。
アンドレイ・ラズモフスキー(1752-1836)は、ロシアの貴族の生まれ。
ウィーンでロシアの外交官に任命され、ウィーン会議においては、首席交渉官を務め、きわめて重要な働きをしました。
また音楽にも秀でており、自身で四重奏団を創設し、ベートーベンに3つの弦楽四重奏曲を依頼しました。 -
ここで嬉しいものを見つけました。
ベートーヴェンが弾いていたナネッテ・シュトライヒャー製のピアノ(クラヴィア)。
私は、ナネッテ・シュトライヒャーとは不思議と縁がありました。
アウクスブルク→リンツ→ウィーン中央墓地と行く先々でナネッテの足跡に遭遇しておりました。
そのことを旅行記で取り上げましたら、古楽器にお詳しいOE-343さんからコメントをいただき、ナネッテやシュトライヒャー製のクラヴィアについていろいろ教えていただきました。
私の旅行記「ウィーン中央墓地編」でそのことを取り上げています。コメント欄をご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11180310 -
説明。
ハンマークラヴィア、5本ペダル、ナネッテ・シュトライヒャー、1821年。
何度もナネッテの名前は目にしていたものの、実際に彼女のピアノ(クラヴィア)を目にしたのは今回が初めてです。
ちょっと興奮しました。 -
横からも撮りますね。写真がボケボケ。
結構大きなものなのですね。
そして上に乗っているブルーのカバーは耳が聞こえないベートーヴェンのための増幅器(?)。
これもナネッテがベートーベンの要望に合わせて製作したものです。 -
ナネッテのハンマークラヴィアを弾いているベートーヴェンの絵が壁一面に描かれていました。
壁のポートレートは若いころのベートーベンと、宮廷歌手だった祖父のルートヴィヒのものです。
祖父を尊敬していましたが、父は飲んだくれでベートベンを虐待に近い扱いをしていたので、嫌いでした。
それにしてもなんて汚い部屋なのでしょう。 -
テーブルの上や床の上には書きかけの楽譜や印刷物、それに得体の知れないものが、もうこれ以上置き場所がないと言うくらい雑然と山になっています。
椅子にかけてあるものは耳にあてるもの?補聴器の役目をしてるのでしょうか?
こういう落ち着かない部屋で彼の大作が次々と生まれたのですね。 -
ベートーヴェンは、ナネッテとアンドレアス・シュトライヒャー夫妻とは単にピアノ製作者とクライアントと言うだけでなく、個人的にも大変親しく交流していました。
音楽のこと、日常の生活のこと、資産運用のこと、また素行が悪くベートーヴェンの悩みの種だった甥のカールの育て方なども相談していました。
夫妻とべートーヴェンの間には60通にも及ぶ書簡のやり取りがあったそうです。 -
上のナネッテ像があまりにも不鮮明なので、Wikiよりお借りしました。
-
ナネッテ・シュトライヒャーに宛てたベートーヴェンの手紙。
1817年7月7日。
下は、ドイツのヨハン・ネポムク・メルツェルが作ったメトロノーム。
音楽家で最初にメトロノームを使ったのはベートーヴェンでした。 -
ベートーベンのデスマスクはナネッテの肖像画の隣にありました。
ベートーベンは1827年3月26日に肝硬変のために56歳で亡くなりました。
死の床でベートーベンは、「諸君、喝さいを!、喜劇は終わった」と発したそうです。
彼の葬儀には2万人もの人々が参列しました。
その中には、シューベルトの姿もありました。
ベートヴェンを尊敬していたシューベルトは生前「ベートーヴェンの隣に埋葬してほしい」と望んでいました。
希望通り、ウィーンの中央墓地でベートーベンとシューベルトは隣り合って眠っています。
そうそう、シュトライヒャー夫妻のお墓もベートーベンの隣にありました。 -
さて、「ハイリゲンシュタットの遺書」と言えば、もう一つミステリアスなベートーベンの「不滅の恋人」。
ベートーベンの死後、「不滅の恋人」宛に書かれた手紙が3通発見されました。洋服ダンスの秘密の仕切りの部分に隠されていたそうです。
この「不滅の恋人」が誰であるかについては今だに諸説あるようです。
さて、ここに展示してある二人の美女、もしかして・・・?
不滅の恋人ではないかと思ったのですが残念ながら違うようです。 -
リニューアルされたベートーベン博物館、展示方法も面白かった。
旅行鞄の展示もそうですが。
中には理解に苦しむものもありました。
例えばこれ。
一見ソファーに見えますが、表面に書かれている文字はもしかして・・?
もしかして「遺書」の文字を大きくコピーしたものではないですよね?
椅子の上には耳用ホルン(補聴器?) -
これも頭が固くなった私には何だかさっぱりわからない・・・。
ハイリゲンシュタットの温泉水療法とは思うのですが、あのポンプを押して鼻を洗うの?。
わからない・・・。 -
覗き穴?
-
お庭にも、これは何の仕掛け?と思うもの。
集音器かしら。
文字が書かれています。
「Blicke in die schoene Natur und beruhige dein Gemuet.」
自然の美しさを見つめ、心を落ち着かせましょう。
(ベートーベンの言葉) -
お庭の壁にはヨレヨレの散歩姿のベートベンと、何やら文字が・・・。
「Der bestirnte Himmel ueber mir, und das moralische Gesetz in mir.」
(私の外に広がる星空、そして私の中の道徳律)
ドイツの哲学者カントの文字が書いてありました。 -
ベートーベンハウスを後にして、もう一つのベートーベンハウスへ向かいます。
-
ハイリゲンシュタットのこのあたりは昔からホリイケ(じゃなかった、ホイリゲ)が多いところとして有名です。
そして軒下に束ねた松の枝を吊るしてあるのが目印。 -
私たちがやってきたところも松の枝が吊るしてある・・・。
ベートーベンの家ではないの? -
看板をよご覧ください。
「MAYER」の下にベートーベンの顔とベートベンハウスの文字。
この家にもベートーベンはしばらく住んでいたことがあります。
ここで交響曲「第九」が作曲されたと言われています。 -
中に入ると「ホリイケ」は満員盛況。
席はあるかしら?
せっかく来たのですから意に介さずどんどん中に進みます。 -
奥の方に空いている席があったので、そこに座りました。
そしてワインを注文して・・・。 -
I女史と私は入り口にあるビュッフェで、好きなものをあれこれ選んで盛り付けてもらいます。
この分はここで清算する仕組みです。
お肉の塊は3枚に切ってと言うと切ってくれます。ソーセージは3本ねと。
ジャーマンポテトなども3人分って言うとそれなりに盛り付けてくれます。
ここにはチョコレートヤクッキー、ケーキなども並んでいます。 -
私たちが選んだものはこれ。
シュパーゲルサラダは別途店員さんに注文しました。
では揃ったところで、「ツム・ボール!」 -
周りの皆さんもいい雰囲気。
ぶどう棚の下でいただくワインとお料理、たまりません。 -
もう1杯ずつワインをいただいて、最後に注文したのはこれ、ゲシュプリター。ワインの炭酸割です。
さっぱりしていて美味しい~。 -
結局ここに3時間半も居座りました(笑)。
朝から強行軍でしたし、ワインのほろ酔い気分も相まって、お齢を召したシニア3名さま、のんびりし過ぎました。
周りが暗くなってぶどう棚の電灯が明るく輝き始めました。
そろそろ腰を上げよう。
支払い金額は80ユーロ。、 -
帰るころになってアコーデオンの演奏が始まりました。
音楽を聞きたいけど、もう飲めません!食べられません!
カメラを向けた私にポーズをとってくれたので、1ユーロのチップを渡して、「ホリイケ」を後にしました。
1ユーロでは少なかったのか、顔は笑っていませんね。 -
ホイリゲ・マイヤー。
壁にはベートーベンハウスと言う紅白の旗が立っています。
ベートーベンはどこの部屋に住んでいたのでしょうか?
それにしても、駐車場にビッシリ停まっている車の数。
飲酒運転は大丈夫なのかしら? -
バスでハイリゲンシュタットの駅まで。
駅前に砦のように建っているカールマルクス・ホーフ。
1918年11月、ハプスブルク帝国が崩壊した後、中産階級から没落した貧困層人口の増大、また同時期ロシア革命によりロシア帝国が崩壊し、ウィーンにはロシアからの大量の難民が流入して、住宅問題が深刻に。 -
そこで第一次オーストリア共和国は、安い家賃の労働者向けの市営住宅を数多く造りました。
「赤いウィーン」の代表的な建築で、オットー・ヴァーグナーの弟子、カール・エーンの作です。
この赤い建物が1㎞にわたって続きます。
さて、往きはトラムDでここまできましたが、帰りは地下鉄U4に乗ります。
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