2016/05/18 - 2016/05/18
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frau.himmelさん
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平均年齢70歳は優に超えているシニア男女三人組、「第三の男」探訪のウィーン街歩きはまだ続きます。
朝から、カフェ・モーツアルトで朝食をいただき、ヨーゼフ広場を訪れ、「第三の男」のロケ現場をあちこち歩きまわりました。
これから71番市電に乗って中央墓地に向かいます。ここを訪れないと第三の男の現場に行ったと言えませんものね。
今回の旅行記は思いのほか時間がかかりました。
墓碑名を見て一人ひとり人物を特定して行くのですが、調べている最中に、思いがけない事実を見つけたり、歴史上の興味ある事柄に出くわしたり。
そのたびに旅行記そっちのけであっち寄り道、こっち寄り道しているものですからなかなか進みませんでした。
でも調べている時はとても楽しかった。
さてさて、旅行記もまだ半分くらいしかできていません。
本当はこんなにのんびりしていられないのです。
さあ、頑張ろう!
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リンク大通りのDr.-Karl-Renner停留所から路面電車に乗ります。
停留所の名前の「カール・レンナー」は、第一次世界大戦後の共和国の初代首相と第二次世界大戦後の初代大統領を務め「祖国の父」と呼ばれています。
こちらの電車は犬を連れて乗車する人が多いです。
どのワンちゃんもとてもしつけがよくて、車内ではお行儀よくしてるのにはいつも感心しています。 -
この市電は71番の中央墓地行。墓地3番ゲートが終点です。
私たちは2番ゲートで降ります。
リンク大通りから30分ほどののんびりとした路面電車の旅。 -
2番ゲートに到着。
市内から中央墓地まで、71番と6番の市電が通っています。
この場所は少々郊外にありますが、中央からの交通の便は全く問題ありません。 -
中央墓地の2番ゲート入口。
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向かって右側の門の裏側にはフランツ・ヨーゼフ1世の名前が。
ウィーン中央墓地が作られたのは1874年、フランツ・ヨーゼフ皇帝の時代でした。
そのころウィーン市は急激に発展し、人口の増加に伴って墓地が足りなくなりました。
そこでフランツ・ヨーゼフは、ウィーン改造計画の一環として広大な墓地を造ることにしました。
街中の5つの墓地を統合し、当時郊外だったこの地に移設するというもの。
ヨーロッパで2番目に大きな墓地だそうです。 -
そして左側にはその当時ウィーン市長だったカール・ルエーガーの名前。
在職時はウィーン市の公共事業の拡充化に努め、都市整備に貢献し、ウィーン市民からは大変人気がある市長でした。 -
墓地入口のお花やさん。
店先には色とりどりのお花が並んでいます。
ここでお花を買ってお墓にお供えするのですね。 -
広い墓地の中をフィアカーで回ることもできるようです。
30分50ユーロ、60分80ユーロ。 -
中央墓地の地図。現在位置赤丸印。
メイン通路の並木道をまっすぐ進みます。 -
途中、アルテアルカデンという煉瓦造りの立派なアーケードがあり、オーストリアやウィーン市に貢献した人の特別な霊廟があります。
この豪華なお墓はどなたの?。
墓守をしているのは小人たち。 -
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メイン通路の両脇に並んでいる立派なお墓。
墓地と言うより、まるで美術作品を展示している野外博物館のようです。 -
これがヨーロッパのお墓です。
日本のお墓って何となくおどろおどろしい感じがしてあまり近づきたくないところですが、こちらのお墓は芸術品。 -
それぞれに趣向を凝らした造りになっています。
これなんか、緑の借景を利用して、まるで森の精のような感じ。
それら美術品を眺めながら散策するのも楽しいものです。
墓地ってことを忘れてしまいます。 -
お墓に頬づえはちょっとどうかと思いますけど(笑)。
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山がお好きだった方のお墓でしょうか?
日本とヨーロッパのお墓の大きな違いは、ヨーロッパは土葬なので墓地の前にこのような棺のスペースが必要なこと。
キリスト教徒では死後の復活が信じられているので、遺体を火葬するなんてとんでもないこと、だそうです。 -
中央墓地を訪れる観光客が必ず立ち寄る墓所は、この32A区。
ここには楽聖たちや他の有名な偉人達が眠っています。 -
どれくらい有名な人たちが眠っているかと言うと、ガイドブックに32A区の墓の地図がありましたので参考にしてください。
すごいですねー。
これだけの巨匠たちが一堂に会しているなんて。
まずはこの地図に名前が載っている12人のお墓を探してみます。 -
まずは地図の中で別格の扱いとなっているモーツアルト(1756-1791)。
実はモーツアルトの遺体は近くのザンクト・マルクス墓地の共同墓穴に葬られたので、ここにはないのです。
これはモニュメントなのです。 -
モーツアルトの横顔が彫られています。
いつ来ても彼の墓碑にはたくさんのお花が手向けられています。 -
モーツアルトの斜め後ろにはベートーベン(1770-1827)のお墓。
クラシック音楽史上最も偉大なドイツの作曲家。 -
モーツアルトを挟んで反対側ナナメにはフランツ・シューベルト(1797-1828)。
ウィーンで生まれ、ウィーンで亡くなった。
ベートヴェンを尊敬していたシューベルトは生前「ベートーヴェンの隣に埋葬してほしい」と望んでいました。
希望通り、ベートーベンとシューベルトは隣り合っています。 -
ちょっと見にくいけど、3人の楽聖たちの位置関係を。
左からベートーベン、モーツアルト、シューベルト。
一列に並んでいるように見えますが実はモーツアルトがちょっと前に出て3角形を成しているのでベートーヴェンとシューベルトは並んでいるのです。
小学校や中学校の音楽室には必ず写真が飾ってある巨匠たち。
豪華ですね。 -
ここにも巨匠が。
上の3人とちょっと離れたところに、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)。
J.S.バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における「三大【B】」と称されています。
頭を抱えているブラームス像は楽友協会前のカールス広場の像と同じ表情です。 -
ウィーンと言ったら何と言ってもヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)。
フランツヨーゼフと並んでもう一人の皇帝と呼ばれています。
毎年元日に行われる「ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート」は彼の曲を中心としたコンサートです。
毎回「美しき青きドナウ」が演奏されることは世界中の音楽ファン周知の通り。
彼のお墓には31歳の年の差がある三番目の妻、アデーレも一緒に入っています。 -
ヨハンシュトラウス2世の弟、ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)。
兄ヨハン2世と共にウィーン工科大学に学び工学技士の道を歩んでいましたが、先に音楽の道で大成した兄の代役として指揮を務めたことを契機に音楽家としてデビューしました。
ワルツやポルカ、マズルカなど多くの曲を残しました。
お墓には母アンナが一緒に入っています。 -
ウィーン工科大学の壁に掲げてあった銘板。
「ヨハン・シュトラウスとヨーゼフ・シュトラウス兄弟がここで学んだ。」
ヨハンとヨーゼフの二人のシュトラウス兄弟がそのまま工学系技師の道に進んだら、ウィーンの音楽、いえウィーンの歴史はどう変わっていたでしょうね。 -
二人の父親ヨハンシュトラウス1世(1804-1849)のお墓。
ウィーンを中心に作曲家、指揮者、ヴァイオリニストとして活躍しました。
ヨーゼフ・ランナーと熾烈な「ワルツ合戦」を繰り広げ、生前は「ワルツ王」と呼ばれた。
しかしその後長男ヨハン・シュトラウス2世にその名を奪われ、「ワルツの父」と呼ばれるようになった。
家庭を顧みなかったため、彼の息子たち(ヨハン2世やヨーゼフ他)とは仲が悪かったようです。
そのうち息子ヨハン2世がメキメキ頭角を現し、息子の方が人気が高くなったので、父親1世は彼の出世を妨害するような行動に出たそうです。
親子なのに凄い確執があるのですね。
彼の代表作「ラデツキー行進曲」は毎年ニューイヤーコンサートで観客を巻き込んで演奏されます。 -
ヨハンシュトラウス1世と「ワルツ合戦」を繰り広げたヨーゼフ・ランナー(1801-1843)の墓。
「ワルツの始祖」と呼ばれています。 -
ヨーゼフ・ランナーとヨハンシュトラウス1世(父)はひところは大変仲が良く、共に同じ楽団で演奏し、ウィーンの音楽界を盛り上げたものでしたが、後に袂を分かつことになるのです。
当時二人の人気は絶大で、お互いが強いライバル意識を持ち、演奏会場では二人の乱闘騒ぎも見られたとか。
この二人のお墓が並んでいるとは皮肉ですね。
お墓の下では今でも激しくやりあっているのでしょうか。 -
フランツ・フォン・スッペ(1819-1895)。
オペレッタで有名な作曲家。
特に「軽騎兵序曲」は世界中で知られています。 -
カール・ミレッカー(1842-1899)。
シュトラウス2世やスッペと並ぶ当時ウィーンのオペレッタを代表する一人。 -
フーゴ・ヴォルフ(1860-1903)は作曲家・音楽評論家。
ヴォルフが自分の作品を持ってブラームスを訪れた際、手厳しい批評だったことから、一転して熱烈なワーグナー支持に転向し、生涯ブラームス拒否へとつながるのでした。 -
地図にあった最後の12人目はクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)。
wikiには「現在のドイツに生まれ、現在のオーストリアとフランスで活躍したオペラの作曲家。〈精霊たちの踊り〉によってとりわけ有名。オペラの改革者として歴史に名を残す。」
とありますが、私はあまりこの人のことは知りませんでした。
これでガイドブックに名前が載っていた12人のお墓はすべてです。 -
まだこの32A区とこの近辺の名誉墓地には気になるお墓がいくつかあります。
ロベルト・シュトルツ(1880-1975)。
オーストリアを代表する作曲家。
ウィンナーワルツやオペレッタなども手掛けました。
プラーター公園に彼が作曲した「プラーター公園は花盛り」という歌曲を記念した碑がありましたね。 -
32A区にあるのは音楽家だけではありません。
入り口付近にあったこの立派なお墓は
カール・フォン・ハゼナウアー(1833-1897)。
彼はゴットフリード・ゼンパーやオットー・ワーグナーと同時代の有名な建築家です。
美術史美術館と自然史博物館は、ゴットフリート・ゼンパーの設計で、弟子のハゼナウアーが内装を手掛けたものだそうです。
また新王宮もこの二人の合作だそうです。 -
カール・フォン・ゲーガ(1802-1860)。
この立派なお墓はどなたのものだろうと前回の訪問時から思っていました。
今回やっと判明しました。
なんとこの方は、世界遺産に指定されたアルプス越えの登山鉄道、あのゼメリング鉄道の設計者なのです。
なんかスッキリ! -
そういえば・・・。
2009年秋に列車でゼメリンク鉄道を旅した時、ゼメリンク駅にゲーガの記念碑がありましたっけ。
2009年写す。 -
トーネット家の墓。
ミヒャエル・トーネット(1796-1871)は、オーストリアの有名な家具デザイナー、工房のトーネット社の創業者。
トーネット社で造られた椅子はあの上野の国立西洋美術館の設計者ル・コルビュジェにも影響を与えました。 -
ニコラス・ドゥンバ Nicolaus Dumba(1830-1900)企業家。
多くの芸術家や音楽家のパトロンだった実業家。
特にシューベルトの作品のコレクションは素晴らしく、ドゥンバの死後、遺言によりウィーン市立図書館にそれらの作品が遺贈されました。
現在ウィーン市立図書館はシューベルトに関する記録や所蔵物は世界最大と言われています。 -
偶然見かけたこのお墓。
私にとってこれが今回の中央墓地での一番の収穫かもしれない。
(第三の男は別格です)。
周りに豪華絢爛なお墓が並ぶなかでごくごく質素なこのお墓、シュトライヒャー家とあります
何気なく写真を撮って、帰国して調べたら何と数年前から気になっていた人のお墓でした。
私が特に興味を持ったのは、ナネッテ・シュトライヒャー(1769-1833)。
19世紀の初めごろ、ウィーンで最も高く評価された女流ピアノ製作家です。 -
実は私が時々参加しているあるグループで、クラヴィア(ピアノ)製作者のナネッテ・シュトライヒャーが話題になりました。
父親はアウクスブルク生まれのヨハン・アンドレアス・シュタイン。ピアノ製作者として大変有名な人なのです。
娘のナネッテも父親の手ほどきを受け優秀なピアノ製作者になりました。
同じピアノ製作者のアンドレアス・シュトライヒャーと結婚してウィーンに移り住んだナネッテはベートーヴェンのピアノを造るようになります。
以来、ナネッテとベートーヴェンは楽器製作者と音楽家という間柄だけではなく、私的にも生涯緊密な関係をつづけたのです。
もしかしてベートーヴェンの『不滅の恋人』ってナネッテのこと?とそのころは思ったこともありました。いろいろ調べてそれが的外れだったことを知りましたが。 -
ベートーヴェンとシュトライヒャー家のお墓が同じ32A区、それもかなり近い場所に、地図の上ではスッペの左隣、ベートーヴェンとは通路を挟んでほとんど隣同士になります。
あの世でもナネッテはいろいろとベートーヴェンの面倒を見ているのでしょうか。
と考えながら、ふと2010年にリンツを訪れた時のことを思い出しました。 -
そういえば、リンツ博物館でベートベンのクラヴィアが展示してあったのを思い出しました。
もしかしてあれはナネッテ・シュトライヒャーあるいはシュトライヒャー家の作ではないかしら?
写真を探してみました。
ベートーヴェンとシュトライヒャー家のつながりが見つかりました。
壁に展示してあったこの書簡は、1796年にベートーヴェンからナネッテの夫、ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーに宛てたものです。
かなり省略してありますし、私のドイツ語力では理解するのは無理ですが。
でもwikiによると、確かにベートーヴェンは1796年にナネッテの夫に送っているのです。
シュトライヒャー社はベートーヴェンのために1台のフォルテピアノを製作しており、それを気に入ったお礼状みたいなものです。
「(その楽器は)私には上等すぎる。(中略)。私が自分自身で音色を生み出す自由を奪ってしまうからだ。」
この手紙がその一部かどうかは判りません。
(2010年写す) -
これがリンツの博物館に展示してあったベートーヴェンのピアノです。
このピアノがはたしてシュトライヒャー社作のものかどうかも判りません。
写真が悪くて説明書も製造社のマークも全然見えないからです。
ただ、他のシュトライヒャ-社のピアノの写真を見ると、ペダルの形が違うので、やっぱり違うのかな~と。詳しいかた教えてください。
(2010年写す)
ここまで書きながら、私って一体何をやっているんだろう。
お墓を調べているはずなのに脱線してしまって・・(笑)。
いつものことですが。 -
この墓地には、もっといろいろ有名な歴史上の人物のお墓があるのでしょうね。
限りある時間しかない旅人の私たちには、これ以上追い求めるのは無理な話。
もっと他のお墓も見たいという思いを振り切って次へ移動します。 -
客をおろしたフィアカーが門の方に向かっています。
-
聖カール・ポロメウス霊園教会と、その手前の円形のPraesidenten-gruft(大統領の墓地)に向かいます。
このコーナーには戦後のオーストリア共和国大統領のお墓が集められています。
オーストリアは1945年の第二次大戦敗戦で、ドイツと同じく米英仏ソの4カ国の分割占領下に置かれます。
1955年にようやく4カ国の占領下から独立を果たし、永世中立国として歩むことになりました。 -
ここには以下のオーストリア連邦大統領が眠っています。
初代大統領 カール・レンナー(1870年-1950年)任期1945年12月20日-1950年12月31日
2代目 テオドール・ケルナー(1873年-1957年)任期1951年6月21日- 1957年1月4日
3代目 アドルフ・シェルフ(1890年-1965年)任期1957年5月22日 1965年2月28日
4代目 フランツ・ヨナス(1899年-1974年)任期1965年6月9日 1974年4月24日
5代目 ルドルフ・キルヒシュレーガー(1915年-2000年)任期1974年7月8日 1986年7月8日
7代目 トーマス・クレスティル(1932年-2004年)任期1992年7月8日 2004年7月6日
6代目 クルト・ヴァルトハイム(1918年-2007年)任期1986年7月8日 1992年7月8日 -
中央には、国民から「祖国の父」と親しまれているカール・レンナー(Karl Renner, 1870年-1950年)の記念碑。
彼は第一次世界大戦直後の共和国の初代首相と、第二次世界大戦終了直後の占領軍(特にソ)に指名された臨時首相と、初代大統領を務めています。
残念なことに彼は1950年になくなっているので、4国占領下から開放され独立したオーストリアのことは知らないのです。 -
クルト・ヴァルトハイム。
この名前をご存知の方も多いでしょう。
10年間国連事務総長を務めた人です(任期1972年1月-1981年12月)。
彼はその後1986年にオーストリア大統領選に出馬します。
ドイツのオーストリア併合時、ナチスの将校だったという暗い過去がある彼を、連合軍だった米英仏は、その過去を嫌い出馬に反対しました。
しかしオーストリア国民はこれを内政干渉と反発し、ヴァルトハイムは大統領に選ばれました。" -
中央墓地の核を成すのは聖カール・ポメロウス教会です。
当時ウィーン市長だったカール・ルエーガー博士を記念して、建設当時は「カール・ルエーガー記念教会」と言われていました。
教会の中を見学しようと思ったら人が大勢でなにかやっているようです。 -
どなたか亡くなられたようで葬儀が執り行われているようです。
教会からイエスキリストの十字架を先頭に、紫色の法衣をつけた司教様?。
思いもかけず、ウィーンでキリスト教の葬儀に遭遇するなんて、滅多にあることではありません。
私たちも遠くから故人を見送らせていただきます。 -
司教様に続いて、教会の係員に担がれた柩が運び出されます。
-
柩の上には草花が被せられています。
その後ろから近しい遺族や親族・友人が続きます。 -
柩は車に乗せられて墓地へ運ばれるようです。
別れを惜しむかのようにノロノロと走り出した霊柩車。 -
霊柩車の後を大勢の参列者が続きます。
ずいぶん大きなお葬式みたいです。
参列者の数300人は下らないわよね、って3人で話し合ったものでした。 -
これから墓地で司教さまの最後のお祈りがあり、土葬に付されるのでしょうね。
日本の葬儀とはちょっと趣が違うヨーロッパの葬儀に接して、私たちも厳粛な気持ちになりました。 -
そんな葬儀の後なので、少々待つことは覚悟していましたが、すんなりと入れてびっくり。
でも中では、まだ教会関係者が葬儀の後片付けの真っ最中でした。 -
白い鮮やかな内部です。
このユーゲントシュティール様式の教会は、建築家マックス・ヘーゲレの設計になるものです。
オットー・ワーグナーの影響も受けているそうです。 -
この教会で何と言っても最も目を引くのは、丸天井。
目の覚めるような鮮やかなブルーの星空模様です。 -
世紀末芸術を思わせる教会の壁。
-
手元に日本語の資料を持っていますので、かなり要約しますが、これに添って中央祭壇の説明を少し・・・。
祭壇の上部、ラテン語で書かれた文字は
「EGO SUM RESURECTIO ET.VITA.: 私は復活であり、命である」。
これがこの教会の主旨なのだそうです。
その上の絵は「天地創造」です。 -
祭壇中央。
キリストの膝の上でひざまずいているのは巡礼者ヤコブ。
帽子にホタテ貝が付いているのでそれとわかります。
アルファとオメガの文字が記された玉座に座り、大きく広げられたキリストの両腕は、巡礼者ヤコブだけに向けられたものではありません。
この教会を訪れる全ての人々に向けられているのです。
背後の天使は棕櫚の枝を授けようとしています。
棕櫚は「勝利」と「永遠の命」のシンボルなのです。 -
左の絵には二人の天使が描かれています。
ひざまずいている天使は砂の時計を持ち、流れゆく「時」のシンボル。
左側の大鎌と骸骨は「死」のシンボル。
立っている天使は消えかかる松明を手にしています。
これは「死」によって終わったかのように見える命が、神の下では消えないことを表しているのだそう。 -
右側の絵は、ひざまずいて新しく建てられた教会(聖カール・ポメロウス教会のこと)を、中央のキリストに差し出しているのはウィンドボナ(ラテン語でウィーン市のこと、この場合は擬人化)。
ウィンドボナの隣にはこの教会を建てたウィーン市長カール・ルエーガー博士が立っています。
後ろの天使はお祈りをささげています。
この絵のタイトルは「ウィーンはこの街の死者に敬意を払う」。 -
パイプオルガン。
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いくつもの見事な聖人たちのモザイク画が目を引きます。
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ユーゲントシュティールらしい羽を広げた天使の連続模様。
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さて教会内部の見学はこれくらいにして、今回の本来の目的、「第三の男の撮影現場」探しをしなければ。
あのラストシーンの並木道は教会の裏側にあることを調べてきました。 -
そちらに出ると・・・。
あっ、ここです!
この長い並木道を、女主人公アンナは、並木の脇で待っている主人公には一瞥もくれず、通り過ぎて行くのです。
アントンカラスのチターの音色だけが響きます。
詳しくは別編にまとめます。 -
前回昨年10月に訪れた時、2番門から教会に続く並木道がてっきりその現場だと思い込んでいました。
でも心の中ではどこか違うのよね~と。
やはり違っていましたね。
フィアカーでこの道を観光している人は、御者さんに「ここが第三の男の・・・」という説明を受けているのでしょうか。 -
70年くらい前に撮られたあの感動の撮影現場に立っているなんて、感無量です。
そういえばこの場所も出てきたのではなかったかしら。
もう一度DVDを見て確認します。 -
そろそろ第2門に引き返して電車で市内に戻りましょう。
途中の14C区も有名な人が葬られている名誉地区です。 -
こんなお墓や・・。
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こんなお墓・・・。
どんな歴史上の人物が眠っているのだろう。
ものすご~~く未練はあるけど、キリがないから、もう振り返りません!キッ! -
第2門に近づきました。
ここでI女史がとんでもないことを言いだしました。
「この近くの0区にサリエリやツェルニーのお墓があるらしいけど、himmelさん足痛そうだからもう止めましょうね。」
「いえいえ、行きた~~い!」(笑)。 -
さっきの決意はどこへやら。
疲れた足を引き摺ってそちらに向かいます。
この塀の向こうは電車通り。
その内側の壁には何やら化石のような紋章が見えます。
期待感が高まります。 -
塀沿いにさらに進むと、こんなお墓。
-
こんなお墓。
-
こんなお墓も!
ここに眠っていらっしゃる方はどういうお方なのだろう。 -
そんな中にありました、サリエリのお墓が。
映画「アマデウス」ではモーツアルトを殺したことになっている人物ですね。
役の上では悪役ですが、本当は大変な経歴の持ち主なのです。
オペラの改革者として有名なグルック(32A区にお墓あり)に影響されて、サリエリ自身も40ものオペラを書きました。
また1788-1824年までホーフカペレの音楽監督を務め、ベートーヴェンやシューベルト、リストなどを教えたこともあるそうです。 -
墓碑の文字。
「1750年8月19日生まれ、1825年5月7日にホーフカペレマイスターとして亡くなる。
・・・・・
このお墓は1846年と1903年に改修された。」 -
ツェルニーのお墓も見つけました。
いたって普通のお墓で、豪華なお墓を見てきた目には拍子抜けするくらい。
カール・ツェルニー(1791-1857)。
ピアノを習ったことがある人なら懐かしい名前ですね。
ピアノ教則本「ツェルニー」に名を残しています。
ベートーヴェンのの弟子であり、またフランツ・リストは彼の弟子のひとりでした。 -
ずらりと並んだ由緒ありげなお墓の数々。
今度こそ振り返らないで、再び71番の電車に乗ってウィーンの中心に戻ります。
後日、I女史が語っていました。
ウィーンはどこも素敵だったけど、私が一番印象に残っているのは中央墓地だったって。
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この旅行記へのコメント (14)
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- OE-343さん 2018/10/14 17:33:17
- ナネッテ・シュタイン
- frau.himmel 様
時々拝見させて頂いております、OE-343でございます。
今回はグーグルポータルで「ナネッテ・シュトライヒャー」の検索から辿り着きました。
中央墓地にお墓があるのですね。。。
ナネッテ・シュタインもそうですし、息子のJ.B.シュトライヒャーも私にとって大事な楽器製作者です。J.B.の楽器でMusikverein の Brahms Saal のオープニングでクララ・シューマンが弾いた楽器、その楽器(のCD、KHM売店で発売中)との出会いがなければ19世紀、シューマン以降の金属補強入りフォルテピアノの世界に誘われることはなかったかもしれないのですから。
ナネッテの楽器は日本に2台あるようですね。
いずみホールの楽器、写真見ると流線形デザインですが、Matthäus Andreas Steinもそんなデザインだったのか、その弟子のライプツィヒのJohannn Nepomuk Tröndlin の楽器も流線形です。
ナネッテの楽器で録音されたシューベルトのCDを聴きましたが、素晴らしい音でした。
- OE-343さん からの返信 2018/10/14 23:52:35
- 追伸: リンツ博物館の楽器
- リンツ博物館のベートーヴェンの楽器とくればこれでしょうか?http://www.landesmuseum.at/de/video-news/videos-detail/hammerfluegel.html
これだとするとパリのせバスティアン・エラール
- OE-343さん からの返信 2018/10/15 00:03:13
- 追伸: リンツ博物館の楽器
- 途中で送信されてしまいました。
リンツ博物館のベートーヴェンの楽器とくればこれでしょうか?http://www.landesmuseum.at/de/video-news/videos-detail/hammerfluegel.html
これだとするとパリのセバスティアン・エラールの楽器でしょう。ただ、ウェブサイトに出ているベートーヴェンのエラールはペダルが4本です。写真のは2本ですよね。。。
エラールはウィーンのアクションとは違うイギリス式アクションの楽器です。ベートーヴェンのエラールとシュタイン=シュトライヒャーの関係は渡邊順生氏の「チェンバロ・フォルテピアノ 」の本に割と詳しく出ています。
この後セバスティアン・エラールはダブルエスケープメントを開発し、現代ピアノのアクションへの道を開くのですが、意外にもその後エラールは20世紀になるまで伝統的な平行弦の構造を守り続けることになります。(他のメーカーは1870年代から、ニューヨークの某社の影響を受け?徐々に交差弦を導入していきます。)
- frau.himmelさん からの返信 2018/10/17 14:42:58
- RE: ナネッテ・シュタイン
- OE-343さん、コメントありがとうございます。
拙い旅行記ですのに、ナネッテ・シュトライヒャーに目を留めてくださるなんて大変うれしいです。
あのウィーンの中央墓地の中では彼女のお墓の発見は私の驚きでした。
ドイツのアウクスブルクで何かで目にしたナネッテの父・アンドレアス・シュタイン。彼のことを調べていたらナネッテに辿りつきました。
そしてその中での、家族ぐるみのベートーヴェンとのお付き合いの中で、そう言えば、リンツにもベートーヴェンの古いピアノがあったのだった,
あれはもしかして・・・シュトライヒャー?
何かに手繰り寄せられるようにナネッテのことが次々に。
そしてもうナネッテのことは忘れかけていたころに、OE-343さんのコメント。
全くピアノのことは門外漢の私でしたが、何か不思議な縁を感じます。
あの時ウィーンでナネッテのお墓参りをして良かった〜(笑)。
OE-3437さん、あのリンツのピアノ(クラヴィアでしたっけ?)の製造元も突き止められたのですか!?製造会社名もなく、たしかマークもなかったはず。
今までご旅行記をいくつか拝見させていただいて専門家でいらっしゃるとは思っていたのですが、さすがですね〜。
リンツのベートヴェンの古いピアノ、私も写真などでいろいろ調べて、シュトライヒャーのものとは違うなーとは思いつつも載せてしまったあのピアノの写真。
こうやって製造元を探していただけるなんて、私も載せた甲斐がありました.
これもナネッテの縁ですね。
返信が遅くなって申し訳ありませんでした。
himmel
- OE-343さん からの返信 2018/10/17 15:56:10
- Re: ナネッテ・シュタイン
- Frau.himmel様
ご返信ありがとうございます。
私も全然専門家等ではありませんので、よくわからないのですが、まず、「リンツの博物館」とは、こちらのOberösterreichisches Landesmuseum
で良いのですよね。
それで、Googleに Linz Museum Beethoven Klavier で入力して出てきたのが、こちらの楽器です
http://www.landesmuseum.at/en/collection/culture/musical-instruments.html
ペダルの本数も、メーカーロゴ周辺の模様も違うので、どうやら違う楽器ではないかと思います。
もしかして別の博物館の楽器でしょうか?
デザインを見た感触では、ヴィーンの楽器より、フランスやイギリスの楽器の可能性が高い気もするのですが、全く判りません。もし、「ベートーヴェンが使った楽器」とはっきりしたものであれば、いくつか書籍も出版されているので調べがつくと思いますが、リンツに2台ベートーヴェンの楽器があると聞いたことはありません。確か、最晩年(ディアベッリ変奏曲などの作曲の頃)のグラーフがボンのベートーヴェンハウスにあり、最後の3つのソナタの作曲の頃使っていた楽器(イギリスのブロードウッド)が確かブタペストの博物館にあり、あとエラールがリンツにあります。ほかはわかりません。ベートーヴェンの楽器に関しては、モダンピアノの人もなぜか調べたりするので、探せば記載がある本が見つかると思います。ナネッテの楽器がなぜかありません。
確か、マルコム・ビンズ(ビルソンじゃなくて)が、ベートーヴェンのピアノソナタ全集を各ソナタの作曲時代に使っていたとされる楽器にできるだけ近い仕様の楽器で演奏したCDが出ていたと思うのですが、それもどこまで正確なのかもわからないし、そこまで楽器を細かく使い分ける必要があるのかもわかりません。https://tower.jp/item/2497463/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%EF%BC%9A-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E5%85%A8%E9%9B%86%EF%BC%9A-%E7%AC%AC1%E7%95%AA-%E7%AC%AC32%E7%95%AA-(3-1978-8-1979)---%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BA(fp)%EF%BC%9C%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E9%99%90%E5%AE%9A%EF%BC%9E
私、8月に1830年代ライプツィヒのトレンドリン(マティアス・シュタインの弟子)製の楽器を弾く機会があったのですが 、1830年代がギリギリシンプルな木製の時代で、1840年代に入ると金属の補強が登場します。その関連で古典派末期から初期ロマン派の楽器を調べていたので、そこら辺ちょっと詳しくなりましたが、モーツァルト時代のアンドレアス・シュタインなどの勉強はこれからです。
ちなみにクラヴィーアはドイツ語で鍵盤楽器全般、特にチェンバロとピアノ系の楽器を指します。「フォルテピアノ 」など用語区別の解説はこちらの渡邊順生氏のウェブサイトをご覧ください。渡邊氏はナネッテのオリジナルを持っているらしく時々演奏会で使用しているようです。http://www.cembalo.com/frame_instruments.htm
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- ハッピーねこさん 2016/10/29 00:20:42
- まさに芸術品!
- himmelさん、こんばんは。
ドイツやオーストリアでは、小さな教会でもその墓地には石造りやアイアンの
美しい墓碑が並び、いつもそれに見入ってしまいますが、でも”きれい!”だなんて
口にするのは不謹慎かしら?といつも躊躇してしまうのですが、このウィーン中央墓地は
まさに芸術!躊躇するのも忘れるほどの美しさですね。
広大な、緑あふれる敷地内に様々な立派なお墓が並ぶさまは、himmelさんのおっしゃるように
さながら野外博物館です。
いつかウィーンを訪ねる機会があれば、必見のスポットとなりました。
教会もとても立派で素晴らしいですね。
ハッピーねこ
- frau.himmelさん からの返信 2016/10/29 10:34:20
- RE: まさに芸術品!
- ハッピーねこさん、おはようございます。
コメントありがとうございます。
まさにウィーン中央墓地は芸術品でした。それに歴史の宝庫でもありますし、美しい野外博物館を散歩している気分になります。
今回一緒に行ったI女史は、ウィーンの中でここが一番良かったと褒めていました。
あんなに毎年ヨーロッパを訪れていらっしゃるハッピーねこさんがウィーンが未踏だなんて信じられない思いですが、ぜひ機会がありましたら中央墓地にも足を延ばしてください。
あの教会もユーゲントシュティール様式の鮮やかな美しい内装です。
教会訪問がお好きなハッピーねこさんもきっとお気に召すと思います。
ハッピーねこさんもお忙しいようですね。
旅行記はハンブルクにずっつ滞在中で旅行していませんね。
次の旅行記楽しみにしています。
himmel
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- sanaboさん 2016/10/20 15:59:09
- ウィーン中央墓地
- frau.himmelさん、こんにちは
私も昔、中央墓地で有名人のお墓を探し回りました。
本当に日本のお墓とイメージもコンセプトもまるっきり異なりますよね。
こういう芸術作品のようなお墓を見ると、死も怖くないって気になります(笑)
映画「第三の男」はストーリーは忘れてしまいましたが
旅行記中の並木道を拝見しながらあの「タラリ〜ラリラリ〜♪♪」という
メロディが頭の中に流れてきました^^
実は大観覧車にまだ乗ったことがないので、次回の宿題になっています。
朝晩寒くなったと思っていたら、今日は暑くなりビックリです。
体調管理にお気をつけ下さいね。
sanabo
- frau.himmelさん からの返信 2016/10/23 10:51:43
- RE: ウィーン中央墓地
- sanaboさん、おはようございます。
ここ数日バタバタしておりまして、返信が遅くなって申し訳ありません。
sanaboさんも中央墓地にいらっしゃいましたか。
本当に芸術品のような豪華なお墓のオンパレード。
あの前に立つと不思議な気がします。
このお墓の中にあの楽聖たちの唯一の物理的な証拠が残っていると思うと。
時空を超えて、あの歴史的な人物たちと対面しているのですから。
第三の男ってやはりあの音楽から入りますよね。
私の場合も音楽の後にあの映画が付いてきたという流れでした。
大観覧車、ええ結構楽しかったですよ。
シニア3人が喜んで乗るものではないと思っていたのですが、とんでもないです。
sanaboさんもぜひどうぞ。
ここのところ、急に爽やかな秋らしい気候になり助かっています。
himmel
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- ベームさん 2016/10/18 20:02:47
- しばらくです。
- himmelさん、
しばらくアップが無いなと思っていたらカフェ・モーツアルト編を見落としていました。
中央墓地のお墓、音楽家に限らず皆立派ですね。土葬なのでスペースは大きいとしても、仰っているように装飾が芸術品みたいですね。最近私も東京にある著名人のお墓巡りをしていますが、軍人、政治家を除いてみな小さくて簡素です。大きくても墓石がどんと立っているだけで装飾などはありません。死生観の違いもあるのかも知れませんね。
「第三の男」かなり忘れてしまったのでDVDを見直そうと思います。himmelさんの探訪が楽しみです。
カール・ベームのプレートは路上にあるのですか。ベームを名乗るものとして喜びに堪えません。ベームとウイーンのつながりはなんと言ってもウイーンフィルとの関係でしょう。なにしろ1933年のウイーンフィル初デヴューから死の1981年まで48年間もの付き合いでした。たしか3回日本に公演に来ていますが全てウイーンフィルの帯同でした。
ベームは「ウイーンフィルと私とは共通の音楽的母国語を持っている」と語ったそうです。
旅行記は約半分ですか。旅行後半年近くですので1年がかりになりそうですね。いつものhimmelさんのペースです。頑張ってください。
ベーム
- frau.himmelさん からの返信 2016/10/23 10:35:44
- RE: しばらくです。
- ベームさん、おはようございます。
返信遅くなってごめんなさい。
> 中央墓地のお墓、音楽家に限らず皆立派ですね。
ほんとに中央墓地のお墓は素晴らしい芸術品でしたね。
お墓と言うのは本人が亡くなった後に遺族なり後援者なりが造るものでしょうから、残った人の財政事情で装飾の豪華さが違ってくるのでしょうね。
もっともモーツアルトの場合は晩年は貧しかったようですから、共同墓地に葬られて、お骨自体も判別できない状況ですから、あの立派なモニュメントはウィーン市が造ったもののようですが。
ベームさんは最近日本の墓地を巡っていらっしゃるのですね。
日本の歴史的な墓地を訪れ、有名人のお墓を探して故人を偲ぶ・・・、ロマンです。
多磨霊園は知り合いがあちらに眠っているものですから、お墓参りのついでに何度か歴史人を探し周りましたが、ベームさんの旅行記を拝見して、他の墓地も訪れてみたいと思いました。
やはりカール・ベームの星型プレートがお目に留まりましたか?
数年前、ベームの碑をグラーツでみつけ、生まれはグラーツだということは知っていましたが、ザルツブルクで亡くなったのですね。
カール・ベームとウィンフィルの深いつながりを教えていただいて、じゃなぜ中央墓地の楽聖たちの栄誉音楽家地区に葬られなかったのか調べましたら、遺族により断られたらしいですね。
ウィーンの有名音楽家の星型プレート、探して歩くのも楽しですよ。
himmel
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- 横浜臨海公園さん 2016/10/18 14:31:58
- 第三の男
- frau.himmelさま、こんにちは。
映画 第三の男と言えば、終戦直後のヴィーンの街でロケが行われ、ヴィーン大空襲の跡も生々しく、国立歌劇場など見るも無残な光景だったと記憶しております。
然し、あの映画は、アントン・カラスの演奏のツェターです。
或る曲では軽快に演奏したり、ラストの、がなりたてる様な演奏だったりと映画の魅力をひきつけたものでした。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2016/10/18 20:20:51
- RE: 第三の男
- 横浜臨海公園さま、こんばんは。
今回もコメントをありがとうございます。
最初、「第三の男」のことはアントンカラスのあの曲から知りました。
しばらくしてテレビの名画劇場か何かで映画を見て、なんだか暗い映画だなという感想しかなかったと思います。
それが最近、ドイツやオーストリアの近・現代史を知るようになって、再びこの映画を見てみますと、なかなかいい映画なのですね。
敗戦により、ドイツと同じく米英仏ソの4か国支配の混沌とした中、おっしゃるように空襲で破壊されたヴィーンの街を背景とした映画でしたが、結構そのまま残っている場所もあるものですね。
私たちが訪れたのはそれらのほんの一部ですが、テーマがあると旅も面白いですね。
なんて、テーマなんておこがましいですね。
横浜臨界公園さまの長年の素晴らしいテーマ、いえ素晴らしい研究のことを思うと穴に入りたいくらい恥ずかしいのですが。
ありがとうございました。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2016/10/20 18:57:28
- 続 第三の男
- frau.himmelさま、こんばんは。
因みに、第三の男の主題曲、某ビールのコマーシャルで耳にする都度、苦笑い!
横浜臨海公園
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