2019/05/02 - 2019/05/02
5位(同エリア394件中)
関連タグ
たびたびさん
- たびたびさんTOP
- 旅行記774冊
- クチコミ37280件
- Q&A回答421件
- 5,946,648アクセス
- フォロワー675人
恵那は、恵那峡が気になったのですが、それよりも気になってきたのが明智鉄道沿線の明智と岩村。明智は日本大正村というテーマパークのような観光地だし、岩村の方も重要伝統的建造物群保存地区に日本三大山城の一つ、岩村城。聞いたことがあるようなないようなの、ほとんど知らない場所でしたが、調べ始めると一日をかけて回るにはちょうどよさそう。時間の効率も考えて、そっちの方にしてみました。
日本大正村は、恵那郡明智町の町ぐるみの取り組みで実現した地域のテーマパーク。
大正ロマンをテーマにして、ほぼ40年。初代村長高峰三枝子から、2代村長司葉子、3代村長竹下景子と大女優の華やかな演出で、ちょっとあいまいなコンセプトが生き生きと動き出す。そうしたイメージ戦略もずばり当たったように思います。
中心施設は、大正浪漫館、日本大正村資料館、大正時代館。膨大なコレクションを見ていると自然と感動がわいてきます。ただ、大正時代って何なのか。明治が先進国に学び、負けまいとして奇跡の西洋化に成功。日清、日露の戦争に勝利し、世界の列強の仲間入りを果たした激動の時代とすれば、大正時代は、その成果からもう一度、日本的な豊かさとは何かを模索した文化の時代かな。しかし、大正が昭和に移ると関東大震災や世界大恐慌から、一気に貧困の時代へ。そして、全てを失う戦争の時代に進んでしまう。まったく、大正はぽっかりと生まれた夢のような時代だったというわけですね。ただ、一方で、大震災も恐慌も、実は、現代もそのリスクは消えていないというか。今でも現実のリアルな問題。そのことが、余計、大正時代へのノスタルジーの強さにもなっているのかもしれません。
-
恵那駅から、朝イチの明智鉄道で、まずは明智駅に到着。
日本大正村を回ります。 -
ただ、大正村の施設はまだ開いていないのでそれ以外から。
明智の街を見下ろす山のてっぺんに旗が翻っていてなんだろうと思ったら、それが千畳敷公園でした。千畳敷の名前からして河原か何かにあると思っていたのですが、山の上だったとは。。 -
しっかり山登りして、てっぺんに上がる感じですね。
途中、ここで生まれた明智光秀が産湯として使ったとされる井戸もありまして。明知城が築城された頃、ここには落合砦という砦が築かれ、光秀はそこで生まれたようです。
光秀といえば、丹波の亀山城とか福知山城。近江の坂本城のイメージが強いのですが、こんなところにルーツがあったんですね。 -
中腹にちょっとした平地がありましたが、頂上はまだ先です。
-
頂上はほどほどの広さに整備されていて明るい雰囲気。
-
明智の街が眼下にきれいに見えました。正面奥の山に見えているのが、本城の明智城です。これから向かう予定なんですけどね。
-
明智の市街に戻って、明智城に向かいます。
-
路地を抜けて、
-
高台に建つ大正ロマン館の脇をさらに奥へ。
-
旧三宅家もとりあえず、この時間はパスですね。
-
さて、明智城跡は、道を進んでもあんまり城のような感じがしてきませんね。
-
どちらかというと、けもの道みたいな細い道が続いているだけ。石垣がない土盛りの城なので、こんな風になるんですね。
-
途中に天神神社というのがあって、明智光秀が幼少期、ここを学問所にしていたという説明もありました。
-
本丸の標識にしたがって、どんどん進みますよ~
-
さて、本丸跡も林を切り開いたちょっとした平地ですか。上ってくる時に予想はしていましたが、遺構はほとんどないんですね。
-
ちなみに、この城は、岩村城の城主、遠山景朝の子である遠山景重の居城として築城されたもの。
-
その後、関ケ原の戦い後は遠山利景が城主に。これが旗本5400石、明知遠山氏の初代です。
そして、 一国一城制で廃城となった後も明智陣屋にあって、明治維新まで遠山氏がこの地を治めることとなりました。
ちなみに、あの有名な遠山の金さんもこの一族の末裔です。 -
明智城から戻って、先ほどの旧三宅家、大正ロマン館を訪ねます。
旧三宅家ですが、説明書によれば、もともとは旗本家遠山家に仕えていた家柄だったところ馬木村に移住し土着。 -
この母屋は1688年に建った鳥居建てという形式だそうです。
-
いずれにしても、土間から座敷は悠々とした空間。
-
ちょっと勿体のある床の間も見どころかなと思います。
-
そして、日本大正村を代表する施設の一つ、大正ロマン館へ。ここは、明智の市街の一番奥で市街を見下ろすような高台です。
-
大正ロマンを感じる外観もいいのですが、館内は入ってすぐから悠々とした空間。
-
日本大正村初代村長だった女優、高峰三枝子に、初代村会議長の春日野清隆の記念室が見どころ。
-
大女優の華やかさがあったことで、日本大正村というたぶん、初めはわけのわからない構想が具体的な説得力をもって実を結ぶ。
-
その経緯が鮮やかにイメージできたような気がしました。女優の力ってすごいものですね。
-
これは正面からの姿ですけど、残念ながら逆光。これが限界です。
-
大正ロマン館から回った龍護寺は、旗本明知遠山氏の初代、遠山利景が一族の菩提寺として建立した寺。
入り口には、立派な明智光秀の供養塔があって、 -
境内には五百羅漢の石像とか奥の本堂辺りは芝生の美しい庭園風。いいじゃないですか。
あちこち工事中でしたが、見ごたえのある境内の雰囲気はしっかり感じられたと思います。 -
市街中心部に戻りつつ、今度は絵画館へ。市街中心部からだと大正村役場を過ぎた大正路地の突き当りの少し高い場所に建っています。
-
一部屋だけの展示室で、中には澤田正春という大正村の構想を提唱した人の関係資料。氏は昭和56年ころから明智を訪れるようになり、大正村の構想を熱心に説くようになる。準備委員会が発足したのは昭和58年のことだそうです。
-
展示は、氏の趣味なんでしょうか。栗きんとんのスケッチ画や絵の装具類なども。
-
展示自体はちょっと地味なんですが、この人の熱い思いがなかったら大正村は実現していない。どこにそんなパワーがあったのか。この展示だけでは、穏やかな人物という感じしか受けないんですけどねえ。
-
そして、すぐ前の日本大正村役場へ。
-
旧明智町役場の建物だったようですが、
-
木造の雰囲気は小学校みたいな感じですね。
-
二階にちょっと大正村の二代目村長を勤めた司葉子さんのパネルとかの資料と
-
それなりに豪華な村長公室。
見るべきはそれくらい。 -
一方で、一階に休憩室があって、セルフサービスで温かいお茶が飲める。街歩きで疲れた後だと本当に助かります。
壁の方に、遠山一族と明智光秀はルーツが一緒といった説明もありましたが、あんまりすっきりとした解説ではないかな。まあ、その辺りは雰囲気でいいでしょう。 -
続いての逓信資料館は、旧明智郵便局。明治8年に開局した郵便局で、大正時代になって、
-
内部に欄間風の彫り物を加えたり、局舎全体を青くペンキ塗りして大正モダン建築とした建物です。
-
戦前に使われていた旧式の受話器や電話交換機などが展示されて、そこそここれも時代を感じるものでしょう。
-
好きな人は好きだと思います。
-
そして、日本大正村資料館。こちらは、結論から言うと、日本大正村の主要施設、大正浪漫館、日本大正村資料館、大正時代館の中でもその資料やコレクションの膨大さで内容の濃さは群を抜いている。ちょっと途方もない充実度ですねえ。
-
入口は入ってすぐの売店を軽くチェックして、
-
ここが展示室の入口。
-
大正時代に発行された新聞は、
-
明治天皇の崩御から始まって、
-
桜島大噴火、第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、米騒動、原首相暗殺、有島武郎の心中、関東大震災、大杉栄の暗殺、ラジオ第一声の十大ニュース。
当時感じられていた深刻度はうかがいしれませんが、そこから社会は進歩してきたんでしょうか。震災の脅威とかは、今も克服できていない重大なリスク。記憶が薄れていることには、もう一度反省が必要かもしれません。 -
全国の郷土玩具
-
のコレクションから、
-
お店の
-
宣伝チラシに
-
なんでもかんでも
-
集めまくって、
-
きれいに整理した感じ。
-
そんな中でも、
-
蓄音機、
-
映画のポスター、
-
レコードのコレクションは、特に圧巻。
-
当時の衣装展示だと
-
大正ロマンの象徴、女性の帽子や
-
ファッション画なども興味を持って拝見しました。
-
大正時代って、15年ばかりと短かった割にはちゃんとはっきりした時代の特徴がある。
-
何を見ても
-
その匂いを感じてしまうって、考えてみればすごいことですよね~
-
そして、主要施設の最後は大正時代館。
喫茶天久という喫茶店が、大正時代館の建物入ってすぐのところにあって。ちょっと年配の女性ですが、昭和レトロをイメージした洋装で給仕をしてくれます。カウンターにはけっこうな人数の人が座っていて、地元の人にも人気のようでした。
で、時代館のチケットはそこで買います。 -
ここは、大正村の施設としては一番東側。建物は新しくて、展示室も明るいです。
-
かつての明智の生活ぶりを伝える展示は当時の音楽を流したりして、地元の資料館という内容にしては華やかな雰囲気。
-
そして、二階の展示室には、大正時代の象徴、大正天皇に関する展示がありまして。
20歳で結婚して32歳で天皇に。側室を初めて置かず、子煩悩だった人柄などが紹介されていました。あまりなじみのない大正天皇でしたが、その人柄を少し身近に感じられたように思います。 -
大正期を代表する建築の模型。これは帝国ホテルです。
日本大正村資料館は、時間がかかりましたが、こちらはざっと見ればOKでしょう。 -
大正村浪漫亭は、もう明知駅の近く。擬洋館造りの大きな建物で、これも迫力ある美しい外観で、大正村のシンボルといった存在感じです。
-
一階はお土産物売り場。
-
私は、一番人気という光秀プリンをいただきました。
-
きな粉に黒蜜をたっぷり掛けていただくプリン。プリンのどっしりした味わいとの組み合わせが独特。確かに、それなりに工夫した名物だと思います。
これで、明智はおしまいにして。 -
後半の岩村に向かいます。
-
岩村駅に到着。
-
重要伝統的建造物群保存地区に向かいますが、これは、伝鴨長明塚。鴨長明は、ここで没したという伝承があるようです。
-
岩村駅から市街中心部に向かう途中。ここにもあまからがありました。串タイプの五平餅の人気店なので、人だかりができるお店です。メリハリの効いた味が特徴です。ただ、ここから中心部まではまだちょっと距離がある。
-
ここでゆっくりしていると後に影響しますよね。先を急ぎます。
-
これは、旧柴田家をリニューアルしたいわむら美術の舘。
-
明治時代の典型的な住宅形態だそうですが、
-
二階の展示は、画家 原田芳洲の絵画。下田歌子の肖像画なども見どころでしょう。
-
さて、賑やかなエリアに入ってきました。
ところで、岩村の名物はカステラ。この松浦軒本舗と松浦軒本店、かめやの三軒で扱っています。 -
こちらの人気はブランデーカステラだそうですが、朝早いうちじゃないと手に入らないようですね。カステラの方はちょこっと試食させてもらって、
-
私はこれも力を入れている様子のシュークリームをいただいてみました。軽い味わいの生クリームがいいですね。老舗のイメージとは違って、新鮮なインパクトがありました。
-
続いての名物は、かんからや。なんともレトロなお茶屋さんですね。
-
かんから餅というのが看板商品で、それをいただきました。きな粉に餡子、ゴマがたっぷりかかったお餅は、本当に今突き立てといったふわふわの食感。このふわふわ感だと三つの中ではきな粉が一番相性がいいかな。見た目も面白いし、まさしく岩村の名物だと思います。
-
ここまででもけっこう歩いてきましたけど、岩村町本通りは、岩村駅から岩村城に至る一本道。朝ドラ「半分、青い」の舞台、ふくろう商店街のモデルとなった街並みでもあります。
街並みはさすが重要伝統的建造物群保存地区。整った町家がかなり続く美しい景観のあちこちに、名物カステラや五平餅のお店などが点在する。ぶらぶら歩きをするのもとっても楽しくて、温かい地元のぬくもりが感じられる街並みです。
重伝建で観光地のにぎわいというと近くだと犬山の街並みが思い出されますが、犬山はすごい混雑ですからねえ。本来はここくらいの方がちょうどいいかなあ。 -
旧家もそこそこ残っていて、これは勝川家。
入り口に説明書があって、江戸時代のはじめ屋号を松屋といい、材木や年貢米を扱う藩内でも有数な商家だったということです。 -
木造二階建て二軒の建物からなっていて、
-
見学は無料。
-
格式を感じる床の間や
-
時代を経た路地庭園。
-
表通りから入るとすぐそこには
-
優雅な邸宅の空間。
-
木曽路でも
-
どうかすると中津川でもこんな優雅な空間は
-
残っていない。
-
そもそも、岩村って何?って感じ。
城下町であることは分かりますが、岩村藩は、譜代とはいえ松平大給家2~3万石の小大名。主要な街道沿いでもないし、特に大きな遺産があったわけでもないと思うんですが。。 -
この豊かさは、ちょっと不思議。破格のような気がします。
-
そして、娘さんの部屋だったという蔵までの敷地を見下ろす二階の部屋とか。まだ十分に住める邸宅なので、住んだ気分がリアルに楽しめるのも面白いところです。
-
続いての土佐屋は、かつて染物屋を営んでいたという商家。
-
こちらも勝川家に次ぐくらいの豪邸。
-
屋根裏の梁から
-
母屋の方も上がって、
-
なるほど、なるほど。
-
そして、母屋を抜けた敷地の奥には作業場があって、
-
藍の甕とか染物を干した部屋とかもリアルに保存されています。
-
染物の糸や
-
織機、
-
染めに使った型紙なども面白く拝見しました。
-
この小屋は
-
藍を発酵させていたかめですね。
独特の匂いがあるので、離れた場所になっています。 -
土蔵も立派です。
-
再び、通りに出て。
-
岩村町町並みふれあいの舘は、岩村の中心部に建つ観光案内所。ただ、この建物自体がかつての十六銀行岩村支店だった歴史的建造物。
-
外観も雰囲気があるし、内部もゆったりした空間。スタッフも充実していて、何かと安心感のある施設だと思います。
-
そして、旧家の最後は木村邸。こちらは、岩村藩の問屋職。
-
藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救ったという豪商です。
邸内に入ると広い土間。 -
そこから
-
帳場を抜けて、
-
中庭を臨む座敷の方に。
この中庭が悠々広くて、奥の蔵や離れの方までつながります。 -
-
蔵の方には
-
お祭りの関係かな。
-
その奥にあるのは、なんでしょう。
-
二階に隠れ家みたいなところがあって、
-
世界を旅して求めたもので作った趣味の空間。
-
まあ、こんなところがあるのも、一つの余裕でしょう。
-
そして、最後は、
-
西郷隆盛にも影響を与えたという佐藤一斎関係の展示も。
一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録「言志四録」は、西郷隆盛の終生の愛読書だったとか。
「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり壮にして学べば、則ち老いて衰えず老いて学べば、則ち死して朽ちず」
つまり、いくつになっても学ぶことは大事。けっして無駄にはならないということですね。確かに、胸に響く言葉です。 -
再び通りに出て、先に向かいます。
-
岩村には名物のカステラのお店が三軒あることは先ほど触れましたが、中ではこの松浦軒本店が一番メジャーでしょう。
-
店内も悠々広いし、お茶をサービスしながら試食をバンバンやっているのもすごいですね。お土産にはここのカステラを買って行こうと思いましたが、
-
試食してみると昔の作り方を守っていますということでしたが、これはもっちり感があって、しっかり重いタイプのカステラですね。とってもいいんですが、ただ逆にこれだと旅の途中に一人でホテルに帰って食べるのは無理。残念ですが買って帰るのは諦めました。
-
岩村醸造は、岩村町本通りに面した酒蔵。仕込みの時期ではなかったのですが、
-
売り場から奥に延びる通路をたどって、
-
作業場や
-
酒のタンクの方まで見学することができました。
-
途中途中には、見学者を意識した美しいディスプレイもあってそれもけっこう楽しめる。
-
サービス精神旺盛な酒蔵です。
-
さて、ここらでさすがに岩村城の方が気になってきましたが、まだ先の方なんですね。街並みだけでこんなに長いとは思いませんでしたよ~
-
そして、岩村城藩主邸太鼓櫓は、岩村の市街から岩村城の登り口にやっとさしかかるあたり。坂の上に姿のよい櫓がそびえていて、すぐにそれと分かりました。
-
櫓の方に登っていく石段もありますが、その石段はその先の門が閉まっていて登れない。
-
さらに先の自動車道から裏側に回りこんでいくことになります。
-
岩村藩藩主邸跡の入り口には、佐藤一斎の像。
岩村では、とにかく佐藤一斎と下田歌子が誇りですからね。 -
さきほど下から見ていた眺めは迫力があったのですが、こうして目線が同じになってしまうと平易な姿。ちょっとギャップを感じました。
この横の方ですが、岩村藩校知新館は、正門の建物が太鼓楼の横に残っています。特段変わった建物ではないのですが、傍らに説明版があり、「元禄15年、藩主、松平乗紀が設立。美濃国では一番古く、全国でも十指に入る藩学。岩村藩は二万石であったにもかかわらずそのような気風があり、江戸末期の昌平黌で学問をリードした林述斎、佐藤一斎を輩出したことは偶然ではない」。誇り高き歴史があることをアピールしていました。 -
岩村歴史資料館も、この広い平地、岩村藩藩主邸跡に建つ施設です。
-
展示は、岩村城、岩村藩、岩村の城下町に関連するものですが、この日はボランティアガイドさんがいて、熱心に解説してくれました。
ただ、印象に残ったのは、企画展の下田歌子と佐藤一斎。有意の人材を輩出した岩村の誇りかと思います。 -
岩村民俗資料館は、岩村歴史資料館の裏手。
-
岩村民俗資料館の方で話をしたら、鍵を開けて内部を見せてくれました。
-
上矢作町木ノ実地区の民家を移築したものだそうですが、正直言えば、かなり古くて傷んでいるし、雑多な生活道具などで雑然とした内部。
-
見ていてあんまり気持ちがいいものではないかな。ちょこっと見て、早々に引き上げました。
-
そして、いよいよここからが岩村城ですね。
-
少し坂が急になって、
-
すぐにあるのは下田歌子勉学所。市街から歩いてくるとこんなところで暮らしていたのかなあというような場所ですけど、岩村城からすれば十分ふもとですか。
-
ちなみに、下田歌子は学者の家系である岩村藩士の娘に生まれ、明治になって、宮中に出仕し才能を認められ、宮廷で和歌を教えるようになる。皇后より歌子の名を賜わったほど。後に、実践女子大の前身、桃夭女塾を開校したという教育者。岩村の誇りというべき女性です。
-
茶室風の小さな建物なんですが、地元の手厚い保護で大事にされてきていることがわかります。
-
ところで、岩村城の本丸は標高717mの山の上。日本三大山城の一つです。
-
始まりは、源頼朝の重臣、加藤景廉の長男、遠山景朝が築いたことから。以降、岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めます。
-
岩村市街からも城山が見えていますが、
-
登り始めてからはしばらく歩くことになる。
-
想像していたほどはなことはありませんが、
-
だらだらと上っていく感じ。
-
見事な石垣を
-
抜けて、
-
最後のがっちりした石段を上がると
-
急に視界が開けてきて、
-
そこが本丸。
それにしても、本丸はけっこう広々とした広さがあるんですね。 -
さっき上ってきた方角の景色もよく見えるし、
-
意外なほど気持ちの良い場所。石垣に座って遠くの山々を眺める人や記念写真を撮る人。皆さん思い思いに楽しんでいました。
ちなみに、遠山氏最後の城主は、遠山景任。妻は織田信長の叔母(おつやの方)であり、子がなかったので、信長の息子を養子にしたという関係。しかし、その後も織田氏と武田氏の間で争奪戦が繰り返される。天正2年、浅井対策で手が空かない信長の間げきをついて、武田勝頼方の武将で、武田二十四将の一人でもある秋山虎繁が城を奪うと虎繁はおつやの方を妻に。しかし、長篠の戦の後、信長は再びこの城を奪還。虎繁、おつやの方を磔にし、城兵のすべても殺されるという悲劇が起きています。
いずれにしても岩村遠山氏は戦国時代まで。遠山氏は明智遠山氏の方で家名を残すことになりました。 -
岩村城から戻って。
うどん処みつばは、町家を改造した気持ちの良い店内です。 -
いただいたのは、一番人気という海老天の入ったつめたいうどん。しっかりコシのあるうどんがキリッとしたつゆにあっています。それに、量もそこそこあってなんかお得感もある。リピーターも多いような気がします。
-
水半名物販売店は、岩村本通りのガキ型のクランクになったところ。皆さん、ちょうど休憩をしたくなるような場所に大きな店構えの店舗です。
-
名物は元祖菊牛蒡味噌漬。中津川の方でもあるんですが、これはご飯に抜群に合う。しゃきっとした歯ごたえも特徴です。
-
もうひとつ外せないjのは、みはら。五平餅のお店。「半分、青い」でも五平餅はお勧めの品だったようで。お店は行列が絶えません。
-
私は、店内でいただきましたが、付け合せでオレンジの輪切り。変わってるなあと思ったら、本来はキャベツの漬物を添えるんだそうですが、それが品切れになったからだとか。忙しい中でもにこやかに対応してもらって、気持ちもなんか軽くなりました。
-
これで岩村は終了。
-
「半分、青い」のロケのスナップ写真も拝見して、また、岩村駅まで帰ります。
-
岩村駅から恵那駅まで帰ってきて。
観光案内所「えなてらす」の併設お土産物売り場で老舗お菓子屋さんという三久を知って訪ねてみました。 -
うーん、しかしちょっと遠いですね。それに正直言えばお店はちょっと粗末。訪ねるほどのことはなかったのですが、いただいた栗饅頭は悪くない。
-
皮が分厚くてその皮自体がふっくら深い味わい。こんな栗饅頭もありましたかというお味です。
さて、岐阜というか、東美濃はこれで終了。ここから今夜の宿、知立に向かいます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
たびたびさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
もっと見る
恵那(岐阜) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
183