長崎市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
聖コルベ記念室を訪れ、修道会の出版当時にあった暖炉などを拝見し、ちゃんぽん発祥のお店である四海樓に行って長崎ちゃんぽんの昼食。<br />そして長崎孔子廟へ。<br />

長崎へ! 夫婦共に初めての長崎を訪れました。その4 コルベ神父記念館から四海楼、そして長崎孔子廟へ。

42いいね!

2019/04/19 - 2019/04/21

459位(同エリア3721件中)

5

72

nichi

nichiさん

聖コルベ記念室を訪れ、修道会の出版当時にあった暖炉などを拝見し、ちゃんぽん発祥のお店である四海樓に行って長崎ちゃんぽんの昼食。
そして長崎孔子廟へ。

PR

  • グラバー園から坂を下ってると、このような表示が、、、<br /><br />コルベ神父記念館。<br />コルベ神父様のことは私は高校(ミッションスクール)の時に授業で習っていたので知っていました。<br />家内にコルベ神父様のことを説明し、この記念館に寄ってみることにしました。

    グラバー園から坂を下ってると、このような表示が、、、

    コルベ神父記念館。
    コルベ神父様のことは私は高校(ミッションスクール)の時に授業で習っていたので知っていました。
    家内にコルベ神父様のことを説明し、この記念館に寄ってみることにしました。

  • ここが聖コルベ記念室です。

    ここが聖コルベ記念室です。

  • おみやげ屋さんの奥に記念館があり、このボックスに一人100円を入れて入ります。

    おみやげ屋さんの奥に記念館があり、このボックスに一人100円を入れて入ります。

  • ここは、ポーランド人であるマキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が1930年(昭和5年)に来日した際に滞在していた洋館があった場所です。

    ここは、ポーランド人であるマキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が1930年(昭和5年)に来日した際に滞在していた洋館があった場所です。

  • 聖母の騎士信心会と言う修道会の日本支部が開設され、「聖母の騎士」誌の出版作業が行なわれた場所がココです。<br />当時の洋館は火災によって消失してしまいましたが、現在の建物は、焼け残った赤レンガの暖炉を中心として建てられたものです。

    聖母の騎士信心会と言う修道会の日本支部が開設され、「聖母の騎士」誌の出版作業が行なわれた場所がココです。
    当時の洋館は火災によって消失してしまいましたが、現在の建物は、焼け残った赤レンガの暖炉を中心として建てられたものです。

  • これが当時の暖炉です。

    これが当時の暖炉です。

  • この暖炉を囲むように今の建物が建てられました。

    この暖炉を囲むように今の建物が建てられました。

  • 長崎市伝統的建造物に指定されているようです。

    長崎市伝統的建造物に指定されているようです。

  • コルベ神父様が世界的に有名になった話の説明書きが写真と共にありました。<br />コルベ神父様は、日本での布教活動の後、1936年にポーランドに帰国。<br />1941年にゲシュタポに逮捕され、アウシュビッツ強制収容所に収容されました。<br />一人の逃亡者が出たため、10人に餓死の刑が下されました。<br />「私には妻と子供がいる。別れるのは悲しい。」との声を聞いたコルベ神父様は、「では私が身代わりに。」と進み出ました。<br />死を恐れず、悪に負けず、愛を貫いた神父様の顔は輝いていたそうです。<br /><br />すんごいナ~~~~~!<br />1971年に福者に列せられ、1982年に聖人に列せられています。

    コルベ神父様が世界的に有名になった話の説明書きが写真と共にありました。
    コルベ神父様は、日本での布教活動の後、1936年にポーランドに帰国。
    1941年にゲシュタポに逮捕され、アウシュビッツ強制収容所に収容されました。
    一人の逃亡者が出たため、10人に餓死の刑が下されました。
    「私には妻と子供がいる。別れるのは悲しい。」との声を聞いたコルベ神父様は、「では私が身代わりに。」と進み出ました。
    死を恐れず、悪に負けず、愛を貫いた神父様の顔は輝いていたそうです。

    すんごいナ~~~~~!
    1971年に福者に列せられ、1982年に聖人に列せられています。

  • 小さなスペースですが、訪れる価値のある場所だと思います。

    小さなスペースですが、訪れる価値のある場所だと思います。

  • 暖炉が何となく祭壇ぽくなっています。

    暖炉が何となく祭壇ぽくなっています。

  • コルベ神父記念館(聖コルベ館)をあとにします。

    コルベ神父記念館(聖コルベ館)をあとにします。

  • 途中、3つの石碑が、、<br /><br />南山手居留地跡<br />長崎電信操業の地<br />国際電信発祥の地<br /><br />私たちが住む横浜と似ている部分が多くあります。

    途中、3つの石碑が、、

    南山手居留地跡
    長崎電信操業の地
    国際電信発祥の地

    私たちが住む横浜と似ている部分が多くあります。

  • お腹が空きました!

    お腹が空きました!

  • お目当ての長崎ちゃんぽんと皿うどん発祥のレストラン「四海樓」へ。

    お目当ての長崎ちゃんぽんと皿うどん発祥のレストラン「四海樓」へ。

  • レストランの受付で名前を書いたら、凄く混んでいて「約40分待ち」と言われたため、夫婦で違うフロアにあるちゃんぽんミュージアムへ。

    レストランの受付で名前を書いたら、凄く混んでいて「約40分待ち」と言われたため、夫婦で違うフロアにあるちゃんぽんミュージアムへ。

  • ちゃんぽん誕生の歴史です。<br /><br />1899年(明治32年)、福建省から来日した陳平順が長崎市広馬場(籠町)にて現在の名で中華料理店兼旅館として創業しました。<br /><br />ちゃんぽんは、陳が身元引受をしていた清からの留学生らの食生活の悪さを見かねて、安くボリュームと栄養のある食事を取らせようと考案したもので、ほどなく長崎市内の他の中華料理店にも広がっていきました。<br />また、ちゃんぽんのバリエーションである皿うどんも同様にして広まりました。<br /><br />明治時代後期から大正時代にかけてはカフェも経営しており、市民からは「上海クラブ」と呼ばれ、港に入港した外国船の船員や医学生、長崎造船所の技師らが訪れ大いに繁盛した[3]。 1917年(大正6年)より長崎に居を構えた斎藤茂吉は、1918年(大正7年)の東京相撲長崎巡業の際に、当時序の口であった出羽ヶ嶽に四海樓 のちゃんぽんを出前で頼んで食べさせ、その翌年には芥川龍之介、菊池寛らと共に来店するなど、遠来の客人をもてなす際によく利用した[4]。

    ちゃんぽん誕生の歴史です。

    1899年(明治32年)、福建省から来日した陳平順が長崎市広馬場(籠町)にて現在の名で中華料理店兼旅館として創業しました。

    ちゃんぽんは、陳が身元引受をしていた清からの留学生らの食生活の悪さを見かねて、安くボリュームと栄養のある食事を取らせようと考案したもので、ほどなく長崎市内の他の中華料理店にも広がっていきました。
    また、ちゃんぽんのバリエーションである皿うどんも同様にして広まりました。

    明治時代後期から大正時代にかけてはカフェも経営しており、市民からは「上海クラブ」と呼ばれ、港に入港した外国船の船員や医学生、長崎造船所の技師らが訪れ大いに繁盛した[3]。 1917年(大正6年)より長崎に居を構えた斎藤茂吉は、1918年(大正7年)の東京相撲長崎巡業の際に、当時序の口であった出羽ヶ嶽に四海樓 のちゃんぽんを出前で頼んで食べさせ、その翌年には芥川龍之介、菊池寛らと共に来店するなど、遠来の客人をもてなす際によく利用した[4]。

  • これがちゃんぽんの生みの親である陳平順です。

    これがちゃんぽんの生みの親である陳平順です。

  • これはアニメのサザエさんの絵コンテです。<br />サザエさんもアニメの中でちゃんぽんを食べています。

    これはアニメのサザエさんの絵コンテです。
    サザエさんもアニメの中でちゃんぽんを食べています。

  • ちゃんぽんは、当初は支那うどんと呼ばれていました。<br />大正からちゃんぽんと呼ばれるようになりましたが、福建省の言葉で「シャポン」と言う言葉があり、ご飯を食べるという意味だそうです。<br />当時の中国人は、「ご飯は食べましたか?」<br />と言う言葉が挨拶代わりであったようで、<br />「まだです。」<br />と答えると、「うちで食べていきなさい。」<br />と言って四海樓で出していたのかも?<br /><br />シャポン→ちゃんぽん????

    ちゃんぽんは、当初は支那うどんと呼ばれていました。
    大正からちゃんぽんと呼ばれるようになりましたが、福建省の言葉で「シャポン」と言う言葉があり、ご飯を食べるという意味だそうです。
    当時の中国人は、「ご飯は食べましたか?」
    と言う言葉が挨拶代わりであったようで、
    「まだです。」
    と答えると、「うちで食べていきなさい。」
    と言って四海樓で出していたのかも?

    シャポン→ちゃんぽん????

  • 様々なお店の歴史が紹介されています。

    様々なお店の歴史が紹介されています。

  • 昔のちゃんぽんや皿うどんのお皿の展示も。

    昔のちゃんぽんや皿うどんのお皿の展示も。

  • 昭和元年のちゃんぽんの値段は一杯15銭~20銭<br />昭和16年には一杯3円。<br />昭和31年常陸宮殿下がお見えになり、皿うどんを献上しています。<br />昭和38年のちゃんぽんは一杯150円。<br />昭和52年、浩宮様がお見えになり、ちゃんぽんと皿うどんを献上しています。

    昭和元年のちゃんぽんの値段は一杯15銭~20銭
    昭和16年には一杯3円。
    昭和31年常陸宮殿下がお見えになり、皿うどんを献上しています。
    昭和38年のちゃんぽんは一杯150円。
    昭和52年、浩宮様がお見えになり、ちゃんぽんと皿うどんを献上しています。

  • 豪華な家具。<br />VIP対応に部屋にあった家具のようです。

    豪華な家具。
    VIP対応に部屋にあった家具のようです。

  • これが創業時の四海樓の写真です。

    これが創業時の四海樓の写真です。

  • レストランに戻ったら5分も待たずに呼ばれました。<br />「40分待ち」と言われましたが、実質30分以内で席に座ることができました。<br /><br />で、こんな港を臨む素敵な席に2人で座ることになりました。<br />ラッキー!!!

    レストランに戻ったら5分も待たずに呼ばれました。
    「40分待ち」と言われましたが、実質30分以内で席に座ることができました。

    で、こんな港を臨む素敵な席に2人で座ることになりました。
    ラッキー!!!

  • メニュー

    メニュー

  • メニュー

    メニュー

  • 待つこと5~6分。<br />やってきました!

    待つこと5~6分。
    やってきました!

  • これが四海樓のちゃんぽんです。

    これが四海樓のちゃんぽんです。

  • で、焼餃子も。

    で、焼餃子も。

  • 美味しかった~~~<br />ご馳走様でした。

    美味しかった~~~
    ご馳走様でした。

  • 長崎市内にはたくさんの種類のカステラ屋さんがあります。<br />私たち横浜の人間は、文明堂と福砂屋しか知りません。

    長崎市内にはたくさんの種類のカステラ屋さんがあります。
    私たち横浜の人間は、文明堂と福砂屋しか知りません。

  • ここから路面電車に乗ります。

    ここから路面電車に乗ります。

  • ここは「大浦天主堂下」駅です。

    ここは「大浦天主堂下」駅です。

  • 長閑なこの雰囲気が最高です。

    長閑なこの雰囲気が最高です。

  • これが今朝ホテルで購入した路面電車の一日券です。

    これが今朝ホテルで購入した路面電車の一日券です。

  • やってきました。

    やってきました。

  • これに乗ります。

    これに乗ります。

  • 乗車!<br /><br />私が住む横浜にも以前、路面電車がありました。<br />1,972年に廃止になってしまいましたが、小学生の頃はよく乗りました。

    乗車!

    私が住む横浜にも以前、路面電車がありました。
    1,972年に廃止になってしまいましたが、小学生の頃はよく乗りました。

  • 隣の終点駅である「石橋」で下車。

    隣の終点駅である「石橋」で下車。

  • ここは終点駅。

    ここは終点駅。

  • ここは終点駅。

    ここは終点駅。

  • ここは終点駅。

    ここは終点駅。

  • この「三八ラーメン」<br />いい感じのお店ですね~~<br />ちゃんぽんと皿うどんはこういったお店で戴く方が良かったかな?

    この「三八ラーメン」
    いい感じのお店ですね~~
    ちゃんぽんと皿うどんはこういったお店で戴く方が良かったかな?

  • 次に訪れるのは、

    次に訪れるのは、

  • 長崎孔子廟です。

    長崎孔子廟です。

  • 入ってみましょう。

    入ってみましょう。

  • 600円×2枚。

    600円×2枚。

  • 中国の壽岳の祖である孔子を祀っている聖廟です。<br />明治26年、在長崎華僑と中国の清政府が協力して建立しました。<br />ここは中国人が海外で建立した唯一の聖廟です。<br /><br />入っていきなり現れるのは、儀門。<br /><br />

    中国の壽岳の祖である孔子を祀っている聖廟です。
    明治26年、在長崎華僑と中国の清政府が協力して建立しました。
    ここは中国人が海外で建立した唯一の聖廟です。

    入っていきなり現れるのは、儀門。

  • 儀門は聖廟の正式な内正門です。<br />元来中国では、神様と皇帝以外通行できない門です。

    儀門は聖廟の正式な内正門です。
    元来中国では、神様と皇帝以外通行できない門です。

  • 欞星門と欞水橋。<br />石造りです。

    欞星門と欞水橋。
    石造りです。

  • この石門の形状は日本の鳥居の原型と言われています。

    この石門の形状は日本の鳥居の原型と言われています。

  • 儀門をくぐるとこんな景色です。

    儀門をくぐるとこんな景色です。

  • 賢人の像が、、、

    賢人の像が、、、

  • 72もあります。

    72もあります。

  • 72賢人は孔子の弟子の中で特に優れていた72人です。

    72賢人は孔子の弟子の中で特に優れていた72人です。

  • 徳・知・体に秀でた6つの才能「六芸」に通じた賢者たちの像です。<br /><br />六芸とは?<br />ググってみました。<br /><br />徳:礼儀、音楽<br />知:書道、数学<br />体:弓の技術、馬車の運転<br /><br />この6つなんですね~~

    徳・知・体に秀でた6つの才能「六芸」に通じた賢者たちの像です。

    六芸とは?
    ググってみました。

    徳:礼儀、音楽
    知:書道、数学
    体:弓の技術、馬車の運転

    この6つなんですね~~

  • ここは長崎の中の中国です。

    ここは長崎の中の中国です。

  • 横浜には無いな~~

    横浜には無いな~~

  • これは「角端」と言う想像上の動物です。<br /><br />孔子にお供して、話の善悪を聞き分ける獣だと言われています。

    これは「角端」と言う想像上の動物です。

    孔子にお供して、話の善悪を聞き分ける獣だと言われています。

  • 石人である翁仲です。<br />2体で一対の像です。<br /><br />これは剣を持つ翁仲。

    石人である翁仲です。
    2体で一対の像です。

    これは剣を持つ翁仲。

  • 反対側には笏を持つ翁仲。<br /><br />2つで文武両道を兼ね備えた人であることを表しています。

    反対側には笏を持つ翁仲。

    2つで文武両道を兼ね備えた人であることを表しています。

  • 大学全文<br /><br />学問をする人の目的、心得など学問を志す者に適切なことが記されています。

    大学全文

    学問をする人の目的、心得など学問を志す者に適切なことが記されています。

  • 麒麟です!<br /><br />聖人が世に出ると現れるという麒麟。<br />これは中国の想像上の獣です。<br /><br />これは右側の麒麟で雄。

    麒麟です!

    聖人が世に出ると現れるという麒麟。
    これは中国の想像上の獣です。

    これは右側の麒麟で雄。

  • 左側は雌。

    左側は雌。

  • 大成殿の孔子座像です。<br /><br />学問の神様です。

    大成殿の孔子座像です。

    学問の神様です。

  • 大成殿をあとにして博物館へ。<br />

    大成殿をあとにして博物館へ。

  • 博物館内は撮影禁止。<br />様々な中国文化の歴史を伝える中国歴代博物館です。<br />最後のコーナーで夫婦でお習字。

    博物館内は撮影禁止。
    様々な中国文化の歴史を伝える中国歴代博物館です。
    最後のコーナーで夫婦でお習字。

  • 半紙に筆に墨汁を付けて、、、<br />孔子の言葉のお手本が並んでいます。<br /><br />私は「孝」<br />家内は「悌」<br /><br />と書きました。

    半紙に筆に墨汁を付けて、、、
    孔子の言葉のお手本が並んでいます。

    私は「孝」
    家内は「悌」

    と書きました。

  • 最後にもう一度賢人たちのまえを通ります。

    最後にもう一度賢人たちのまえを通ります。

  • 長崎の中の中国、<br />長崎孔子廟をあとにしました。

    長崎の中の中国、
    長崎孔子廟をあとにしました。

42いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (5)

開く

閉じる

  • mistralさん 2020/06/20 19:31:35
    コルベ神父さま。
    nichiさん

    こんばんは。
    先日は、城壁を巡っての、つぎはぎの旅行記にご投票いただきまして
    ありがとうございました。

    nichiさんのたくさんある旅行記の中で、コルベ神父さまの記念館について
    書かれた旅行記を見つけ、拝見致しました。
    遡りますと、私がコルベ神父さまの事を知ったのはアウシュヴィッツ見学の
    おりでした。
    そこでガイドさんから、nichiさんの旅行記の中で記載されているように
    身代わりになって亡くなっていかれた事を伺い、
    更には、帰国後旅行記を書きながら、長崎に赴任されていた事を知ったのです。

    今こうして、神父さまの記念館を訪問されたnichiさんの旅行記から
    当時の色々の想いが蘇り、また日本との接点も具体的なこととして
    ハッキリと焦点が結ばれた思いでした。
    その事をお伝えしたくてコメントさせて頂きました。

    まだまだコロナウィルス禍は先が見えない状況ですが、
    ご健康には充分にお気をつけてお過ごし下さいませ。

    mistral

    nichi

    nichiさん からの返信 2020/06/21 11:22:49
    RE: コルベ神父さま。
    mistralさん こんにちは。
    「いいね」そしてコメントありがとうございます。

    2000年、私がドイツ赴任時の旅行記をアップしたところだったので、mistralさんのローテンブルグの写真が目に留まりました。

    アウシュビッツ、行かれましたか、、、、、
    ポーランドはワルシャワしか訪れたことがありません。
    1999年にウィーンに赴任していたのですが、休日はオーストリア国内を巡るのが精いっぱいで、隣国に行く余裕がありませんでした。
    この度、mistralさんのポーランドの旅行記を拝見しました。
    ポーランド王国の首都であったクラクフは歴史深い素敵な街並ですね。
    アウシュビッツは心が痛みます。

    中谷さんのガイドでご覧になったんですね。
    素晴らしい!
    アウシュビッツで身代わりで餓死刑になったコルベ神父様。コルベ神父様のおかげで生き延びたポーランド軍人の方は、戦後カトリックの司祭になり、生涯コルベ神父に関する講演活動を行っていたようですね。
    mistralさんの旅行記を拝見してて、この部分に、えっ?
    「コルベ神父によって救われたガイオニチェクという方は、神父の行為を世に伝え続け、1982年、ヨハネ・パウロ2世によって神父は聖人の列に加えられた。」
    →そうだったんですね。なんか少しホッとした気分になります。

    餓死刑は辛く、受刑者たちは飢えと渇きから錯乱状態で死ぬのが普通だったようですが、コルベ神父様は毅然としており、他の囚人たちを励まし皆で祈り賛美歌を歌い、地下牢は聖堂のようであったとも。。。

    「最後はフェノール注射で殺害」→そうなんですね??
    これも知りませんでした。
    そうだったんですね。。。。。。。
    コルベ神父が殺された地下牢が残されていることもmistralさんの旅行記で知りました。

    色々教えて頂きありがとうございました。

    ホロコーストとは一体何なんだったんでしょう?
    人間の尊厳とは何なんでしょう?
    二度と同じ過ちを起こしてはいけないことを再認識する為にも、
    一度はアウシュビッツを訪れるべきかな〜?
    なんて思っています。

    mistral

    mistralさん からの返信 2020/06/21 12:49:35
    RE: RE: コルベ神父さま。
    nichiさん

    こちらこそ、
    色々なことを教えていただきました。

    > 中谷さんのガイドでご覧になったんですね。
    > 素晴らしい!
    > アウシュビッツで身代わりで餓死刑になったコルベ神父様。コルベ神父様のおかげで生き延びたポーランド軍人の方は、戦後カトリックの司祭になり、生涯コルベ神父に関する講演活動を行っていたようですね。

    神父さまが身代わりとなって生き延びることができた方のこと、
    元は軍人さんであり、その後は司祭となられ講演活動をされ、と
    知りませんでした。
    生き延びる事ができたことの意味を、生涯にわたって問い続けられたのでしょう。

    > ホロコーストとは一体何なんだったんでしょう?
    > 人間の尊厳とは何なんでしょう?
    > 二度と同じ過ちを起こしてはいけないことを再認識する為にも、
    > 一度はアウシュビッツを訪れるべきかな〜?
    > なんて思っています。

    中谷さんもおっしゃっておられました。
    状況によっては人間は、どんなことでもしてしまう存在であり
    そういう意味で、アウシュヴィッツの見学は世界中の人にして
    欲しいと。
    今や世界中から若者が見学に訪れていることは
    大変な励みとなっておられると思いました。

    mistral

    nichi

    nichiさん からの返信 2020/06/21 18:06:36
    Re: コルベ神父さま。
    mistralさんとやり取りさせていただき、急に興味が湧いてきて、アウシュビッツをネットで色々調べ始めちゃいました。
    すると、驚きの事実がございました。
    mistralさんがすでにご存じでいらしたらごめんなさい。

    アウシュビッツでコルベ神父様が身代わりで刑を受けた際、それを認めたアウシュヴィッツ強制収容所の所長はルドルフ・フェルディナント・ヘスと言うナチスの軍人であったのですが、彼の父はなんと厳格なカトリック信徒で、将来は聖職者になるように望まれていたとのこと。そのような家庭で育ったルドルフ・フェルディナント・ヘスに何があったのでしょうか?
    この事実は私にとって驚きの事実でした。
    ヒムラーから、アウシュヴィッツをユダヤ人抹殺センターに改築せよとの命令を受けたルドルフ・フェルディナント・ヘスは、「この虐殺の措置命令は、私に正しい物と思わせた。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」
    と回顧録で述べています。これから何十万~何百万と言われるユダヤ人の大虐殺が始まるわけです。

    mistralさんが旅行記の中で紹介していらっしゃった、
    新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内 (日本語) 単行本
    先ほどAmazonでポチッと購入しちゃいました。
    届いたら熟読したいと思います。

    mistral

    mistralさん からの返信 2020/06/21 22:31:31
    Re: コルベ神父さま。
    nichiさん

    こんばんは。
    ひょんな事から、どんどん話が進んでいく、
    という感じでしょうか。
    気がついたらクラクフに、なんてことになるやも、ですね。

    ヘスの生育歴、知りませんでした。
    収容所の一角にある家に、子供たち共々一緒に暮らし
    そこから通勤していたそうですから。

    そこに関わっていた全ての人が、
    毒ガスの納入業者とか、、、全てのひとが
    ただ自身の仕事だからと、淡々として業務をこなしていた
    のでしょう。
    真実には目をつぶっていたのでしょう。

    私だったら、どうするか?
    と考えると
    恐ろしくなります。

    mistral


nichiさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

nichiさんの関連旅行記

nichiさんの旅行記一覧

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP