2019/04/20 - 2019/04/20
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東海道どこ歩こう?第3弾
今回は、東海道五十三次30番目の舞坂宿と31番目の新居宿を訪れます。
明応8年(1498年)8月25日に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われ、浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となりました。そのため、浜名湖の今切口を通過するため舞坂ー新居間を結ぶ渡船である今切の渡しが置かれていました。
今では、車も新幹線ももちろん、人も橋で渡れます。海沿いも通るから暑くなる前に・・とやって来ました。
舞坂から新居方向へ進みます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル 自家用車 徒歩
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舞坂宿から新居宿へと向かいたいので、車をJR新居駅近くのコインパーキングにとめ、新居駅から舞阪駅へJRで移動。そこから散策開始です。
駅から南へ進むとすぐ東海道松並木です。
江戸幕府が慶長9年に街道の両側に松や杉を植えさせたことに始まります。正徳2年には見附石垣から村境まで、道の両側の堤に1420本の松が植えられていました。現在、340本。約700mにわたって松並木が続いています。 -
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とってもいい松林、真ん中を通りたいですが、真ん中は車道でした。歩道ならなおよかったのに・・。昔は道の両側にあった土堤を昭和13年に崩して歩道にしたそうです。
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『東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖はかつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応七年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞阪は交通の要地となった。』
とあります。 -
やはり真ん中を歩きたかった。
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浪小僧。
『むかし 遠州灘の浜では地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします。」と言うので、海に戻してやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。』
遠州七不思議の1つだそうですがほかの不思議・・も知りたくなります。 -
松林が終わると1号線と合流します。
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見附石垣。江戸時代中期に構築。「見附」は見張番所があった所。諸侯の通行の際などには、石垣の横に番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに治安の維持にあたりました。
ここから舞坂宿。 -
新町常夜灯と一里塚跡。
一里塚は道路標識の役目を果たすとともに旅人の休息の場にもなっていました。舞阪の一里塚は江戸日本橋から数えて68里(約267km)。明治の初期までは塚の上にひと抱え半もある大きな松が枝を四方に茂らせていたということです。 -
新町常夜灯。
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仲町 常夜灯。
舞坂宿では文化6年(1809年)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀した。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたそうです。 -
当時の町並みはないけど老舗らしき海苔屋さんがあったり、なんか雰囲気がいい。
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舞坂宿本陣跡。
周りは普通の住宅地。 -
舞坂宿脇本陣。東海道に唯一現存する脇本陣の遺構で、天保9年(1838)建築の茗荷屋脇本陣の書院棟を復元してあります。
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見学無料で、係の方が丁寧に案内してくださいました。まず話を聞いて、後でゆっくり写真を撮ったりしました。
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2階にある籠。とても小さいですが、当時の人は150センチくらいだったらしいのでなんとか乗れたようです。
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脇本陣は普段は旅籠を営みますが、本陣の利用が重なったり、参勤交代などで宿泊客が多いときには本陣の代行もしたそうです。
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お風呂。
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台所。
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上段の間。
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そこからの眺め。
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殿様用のお風呂。
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舞坂宿の浮世絵なども飾られています。
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とても見応えがありました。
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北雁木。
浜名湖渡しの舞坂宿側の渡船場跡。
雁木とは、階段状になっている船着場のこといい、本来は「がんぎ」とよむところを、地元では昔から「がんげ」といっていた。
当時、舞坂宿には3ヶ所の渡船場があった。
一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。
真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれている。
北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還通りから幅十間(約18メートル)の石畳が水際まで敷きつめられている。 -
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この後、すぐ近くの「魚のてっちゃ」さんで昼食。おいしいお魚をいただきました。
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ここから旧東海道は舟で新居宿へと続くのですが、我々は弁天橋を渡って弁天島へ向かいます。
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橋からの眺めは最高。赤鳥居が見えてきました。
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弁天橋。
このあたりは海水浴場になってます。 -
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今はのどか~な感じです。
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・・というのも、潮干狩りの季節なのに昨今の漁獲量減少と、資源保護のため今年は中止のようです。船で干潟まで行っての潮干狩り 楽しそうなのに残念です。
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鳥居の向こうには1号線がはしっています。
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風も日差しも強いですが、気持ちよかった!
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中浜名橋。
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併走するように国道がはしります。
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こちらは自転車、歩行者専用道路。でも、誰もいない。
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橋を2つ渡って、新居側にやって来ました。
今切渡船場はちょっと遠くてパス。ホルト通りという道を西へ進みます。 -
元新居宿(通称大元屋敷)。
慶長5年(1600)に開設された今切(新居)関所と新居宿が元禄12年(1699年)の災害で中屋敷へ移転するまであった場所。
新居は高台と浜名湖、太平洋に接した砂州からなり、津波や高潮には弱い場所で 災害と共にその場所を移動したようです。 -
『旅衣あら井の関を越えかねて 袖によるなみ身をうらみつゝ』
この歌は、江戸でも有名な才女だった通女が丸亀から江戸へ行く途中、手形の不備で新居関所を通してもらえなかった心情を詠んだもので、関所の取締りの厳しさを物語るものとして知られています。 -
中屋敷跡。
ここに移された宿場の一部と今切関所も地震、津波によりまた移転したそうです。 -
ホルト通り。ホルト?・・と気になってたのですが、街路樹の「ホルトノキ」からきてるらしいです。
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新居文化公園でちょっと一休み。
桜が咲いていたり、緑いっぱいの公園でした。 -
新居町奉行所跡。
小学校の前にひっそりありました。 -
東福寺。
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本陣跡。
新居宿には本陣が3軒あったそうです。 -
結構歩いてきました。
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新居関所南側の小道は寺道(てらみち)と呼ばれ、5つのお寺と2つの神社が並ぶ静寂さ漂う情緒たっぷりの散歩道でした。
隣海院。
山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ」と呼ぶ憤怒像の彫刻があり、参詣者の邪心を祓うと言われています。 -
新福寺。
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関所へ向かいます。
今は酒屋さんですが、昔は旅籠だったようです。伊勢屋という看板がありました。 -
紀伊国屋。
徳川御三家の一つ紀州徳川家の御用宿を務めた新居宿最大の旅籠。見学できます。(関所と共通で410円)
江戸時代後期の紀伊国屋は間口5間(約9メートル)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63あったとか。その後明治の大火により焼失、2階建てに立て替えられました。昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けたそうです。 -
当時新居宿には20数軒の旅籠があったそうです。
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内部は資料館となっていて、いろいろな物が展示されています。
担い箱。これに衣類や具足を入れ担いで運んだ。 -
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トイレ。
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お風呂。
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台所。
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「裏からでたすぐの所に小松楼というのがあるので、寄ってみて」と言われ、行ってみます。
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小松楼。
新居関所は、明治に入り関所としての機能が失われた後、小学校や役場として使われ、周辺は警察署・郵便局などが置かれる中枢官庁街となりました。一方、一歩南側に入った俵町より船町界隈は、明治末期~昭和初期には歓楽街として栄えました。
最盛期には芸者置屋が11軒、カフェ・バーなどもあり、新居だけで50人から80人の芸者が居ました。周辺は養鰻、製糸業なども盛んで、漁師町であったため漁師らも利用したと言われています。
小松楼は当時最も栄えた置屋のひとつで、新居町出身の松井米吉氏が浜松で新聞店を営んだ後、大正初め頃置屋兼小料理屋として開業しました。 -
現在は、まちづくり交流館として利用されているようです。
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芸者がお稽古に使った本や、三味線太鼓などの楽器、櫛や黛などの化粧道具などいろいろ展示されています。
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2階の渡り廊下はきしんで底が抜けそうで怖かったです(笑)
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うまく撮れなかったけど、尾之善という方の切り絵が展示されてて、とっても素敵でした。
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そして、最終目的地、新居関所へ。
高札場。 -
大御門。
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新居関所。
今切関所といい、慶長5年(1600)徳川家康により設置。
全国で唯一現存する関所建物だそうです。
現在の建物は安政2年(1855年)から5年にかけて建て替えられたもの。昭和46年に解体修理されています。 -
手前の所は、渡船場を再現してます。
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幕府は江戸を守るため全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まりをしました。特に新居関所は約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていました。鉄砲など武器の通行ではもちろんのこと、当関所に限っては江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、不備が見つかれば通ることはできませんでした。
先ほどの碑があった通女はその不備で足止めをくらったのですね。 -
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荷物石。
関所で取り調べを受けている間に荷物を置いた石。 -
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「あらため女」という通行の女性を調べる女性がいたようです。
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隣接する資料館も見学しました。当時は船で着いてこんな感じだったのですね。
新居宿、舞坂宿ともに本陣や旅籠が残されていて、とても大事にされてるなぁと感じました。たくさん歩いて疲れたので、斜め前のやなぎやさんで草団子とコーヒーをいただいて締めくくりました。楽しかった!
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