2019/02/14 - 2019/02/18
269位(同エリア1037件中)
明石DSさん
「朝食券」
これを三日間使う
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2019.平成31年2月15日(金)
■ビエンチャンの朝
昨日「センタワン・リバーサイドホテル」に着いたのが午後8時。夕食をホテル前の屋台で食べて部屋に戻り風呂に入って就寝。旅先では大概睡眠導入剤を飲まないと寝付けないが去年の12月「味の素」が出した睡眠サポート『商品名:「グリナ」』を知る。
一度試してみようと購入したら気持ちよくバッチリ寝れた。薬である「睡眠導入剤」と違って寝起きでも「ボ~」とかはない。『睡眠アミノ酸「グリシン」が深い眠りをもたらす」とのこと。値段は「30本¥7,128」とやや高い。
しかしネット検索でグリナに関して「グリシンが何でそんな高いの?」という声が沢山あったので調べたら「株式会社・ファイン」の出している「ファイン グリシン・プレミアム」という効能や成分はほぼ同じで価格は「30本¥750円」と安いのがあった。それを買って飲んだら効果はまったく同じ。以後これをほぼ毎日使い続けている。
一応睡眠導入剤も持ってきたがラオスでの三日間導入剤は必要なくグリシンで寝れた。不眠で導入剤に頼っている人は是非お試しを!薬ではなく栄養補助食品で快眠出来る。
ラオスは日本との時差-2時間、日本では毎朝6時頃起床が日課。ラオス時間午前4時、なのでその頃にはやっぱり目覚める。仕方がない。朝は目覚めの温水シャワーで準備。6時半過ぎホテル5階のレストランに朝食を食べに行く。
そこはメコン川を一望できる広々とした展望レストランだった。444とルームナンバーを書いた食券を見せて早速食べ物を物色。チャーハンやら何やら皿に盛り、お粥があったのでそれも入れる。そして屋根のないテラス席に一人陣取る。「あァ~来たぞ、これがメコン川か、対岸がタイだ」対岸はタイ東北部の「ノーンカーイ県(Nong Khai)」
昼間は30度を超える暑さだったが朝晩はエアコンも不要でさわやか。テーブルに一人座って食事をしてたらティッシュを持って来てくれた。さすが日本人オーナーのホテルだからか?滞在中は快適に過ごせた。まあ韓国人の“おっさん”連中がやたら多かったけど。日本人らしき宿泊者(“おっさん”)とも何人かと出会った。
案の定腹一杯の朝食となってしまった。欲張りは死ななきゃ治らず。30分くらい“ゆっくり”とテラスでの景色と朝食を堪能し部屋に戻る。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
4階444号室
廊下の突き当りが部屋だった -
5階のレストラン入口
午前6時半から朝食バイキングOK! -
中華風 洋食 品揃え豊富
デザート・フルーツもあり
満足 満足の朝食バイキング -
メコン川の対岸はタイ東北部の「ノーンカーイ」
「左側:東方向」「右側:西方向」
川沿いに海鮮料理屋台のテーブルが並ぶ
夕方から夜遅くまで賑やかだ -
お粥とチャーハン・その他を食べた
味 まあまあ。お粥は美味しい -
朝食バイキングの時に目玉焼きを作ったり 世話をしていた女性
私の想像では日本人オーナーのラオス人奥様ではないかと?
確かめた訳ではなく、なんとなくそう思った
その理由「堂々として雇われ女性ではないと感じた」
真偽は如何に? -
テーブルに座っていたらティッシュを持って来てくれる
へぇ~サービスいいなあ!気が付くし
やっぱりあの女性は日本人オーナーの奥さんでは? -
食後の果物とサンドイッチ コーヒー
だから朝食バイキングは食べ過ぎる
食べ過ぎない奴はいるのか? -
タイとラオスの国境を流れるメコン川
チベット高原が源→中国の雲南省→ミャンマー→
ラオス→タイ・ラオス国境→カンボジア・ベトナム
およそ4200キロにわたって流れベトナムから南シナ海へ
日本で一番長い川、信濃川(しなのがわ)長さ367キロ -
5階レストラン 結構広い
眺めは最高! -
センタワン・リバーサイドホテルの玄関から
ここから出入り メコン川が目の前に
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■メコン川河川敷を歩く
9時に頼んでいたガイドが来るはずなのでそれまで散歩に出かける。
川沿いを歩き適当な場所から川に降りる。川の真ん中が国境ということなので乾期で水の少ないメコン川の真ん中より向こう。タイ側への国境侵犯を目指してタイに向かって砂洲の砂地を歩く。
横断途中からサラサラ砂が段々と湿り気を帯び靴が沈むようになってきた。靴はすぐに砂まみれ、そしてタイに近づくにつれて徐々に泥まみれに・・・。この辺りのメコン川はラオス側に砂洲がありタイ側に川が流れている。その傍に到達、どう考えても川の真ん中が国境なら国境は越えているはずだ!と、思ったが。
帰国後“Google・Map”で確認したら残念ながら地図上では国境ラインに到達していないようだ。国境侵犯ならずムムム無念。
このビエンチャンには辻正信大佐も昭和20年11月潜行後タイから丸木船でメコン川を横断しタイを脱出。ビエンチャンに辿り着き元日本軍倶楽部の跡らしき旅館に1週間ほど滞在している。そして小型の貧弱な船でメコンを下り「タケクで上陸→サヴァナケット→フエ→ハノイ」 ハノイ到着は1945/昭和20年11月26日。
「そうか、辻正信大佐は43才の時、このメコン川を渡ってタイから脱出し、またこのメコン川を下って行ったのか・・・」その後ハノイ→昆明→重慶→上海経由で1948/昭和23年日本に帰着も国内での潜行は続き1950/昭和25年戦犯指定解除後世に姿を現す。さすが辻正信大佐なり。
辻大佐が1945/昭和20年メコンを渡ってビエンチャンに辿り着いたのは74年前のこと。大東亜戦争は益々遠くなりにけり、何もかもが過去の歴史に埋もれてゆく。誇り高く勇敢だった日本人は跡形もなく消え去り、米国頼りの太鼓持ちとして・・・このまま死ぬのか、ホンマしょうもないなァ~。
メコン川の水無き川を半分以上横断し戻って来た。靴は泥だらけ湿ってしまった。靴を拭いそのまま附近を散策。ビエンチャンの風景を見ながら空気を鼻から吸い込み、匂いを嗅ぎながら未知の国を歩く。これが旅の醍醐味だ。我ビエンチャンの朝を歩く。昨日の朝は西明石なり。
路地駐車の車も日本車多し、トヨタが圧倒的多数だがホンダ・日産・マツダ・スズキ・三菱等々ほぼ全メーカの車を見たと思う。日本車以外は現代・起亜の韓国車が多い。ホテル周辺にも普通に立派な黄金色の寺院あり。
周囲を散歩し8時過ぎに部屋に戻りミニナップサックに資料などを入れて一階ロビーでガイドを待った。 -
ここはビエンチャン メコン川
そしてトゥクトゥクが目の前に
夢ではなく現実であり ここはラオス -
川沿いを東方向に歩きながら
メコン川に降りれるところを探す -
メコン川砂洲横断ルートを発見
行けるところまで行こうと早速降りる -
この辺りはまださらさらとした砂地だったが・・・
段々と湿り気が増して来て 徐々にぬかるんで来た -
タイは目の前だ、もうタイ国領土への侵犯だろう
国境を越えたと思ていたのに・・・。
泥濘に靴は泥だらけ“ヤバイ”と思いながら進む
こんなところでコケてズボンや服が泥まみれにならぬよう
慎重に歩く -
白の棒線が私の歩いた軌跡
地図上では国境侵犯ならずか? -
メコン川砂洲にて タイ国を背にビエンチャン方向を写す
写真では分からないが粘土のように歩きにくい -
戻ろうとしたら一人の叔父さんが犬の散歩
川中の砂洲で出会ったのは一人だけ -
メコン川沿いを歩く少年僧
ここはラオスだ ビエンチャンだ
この少年僧の生涯は如何に?
誰しも国も親も時も選べず
どこの誰に生まれようが道は自ら切り開くしかない -
日産車を写す
ホテル周辺の路地の散歩
日本車が多いので気分が良い -
トヨタは断トツ多かった
緑溢れる路地 アジアの貧国とはいえ・・・。
ラオスのGDPは日本の「22分の1」
ランキングは日本が3位 ラオスは117位
確かに幸福度の比較は難しい
だが経済の低迷には人の資質に原因がある -
マツダ車もその他の日本車もあった
外国ではいつも日本車を探す
多ければ気分良し、少ない時は気になる -
通りを歩けば寺院にあたる
それもそこそこ立派な寺院が
あっちにもこっちにも -
こういった寺院が多いのは
ラオス人の信仰心が強い証なのだろう
こういった寺院の維持はどうやって?
信者のお布施で成り立っているのか?
私が近所の神社やお寺に寄付することはない
「ラオス仏教の現況」
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh05_55L.pdf -
海外旅行で工事現場を見れば
その国のレベルをある程度感じる
日本の工事現場は段違いに整然としている -
便器の左横にあるものは何?
やっぱりお尻洗いだった
噴射威力絶大で使い慣れないと
ビショビショになる -
初めてトラベロコを利用してお世話になった在留邦人“Tさん”
約束の時間に来てくれた
https://traveloco.jp/
これからも利用したい
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■「友好の橋」へ
9時前にそれらしき白い車が玄関前にやってきた。多分あれだろうと思って見ていたら40代くらいの男性が車を降り入って来た。
ロビーの椅子に座っていたのは私一人、互いにすぐにわかり挨拶。ラオス人女性と結婚している“Tさん”(仮名)との出会いだった。メールでは『日本軍、日本人との関係がある所・史跡などが近くにあればご紹介下さい。 』と頼んではいた。
ロビーで今日の予定を打ち合わせをして最初に向かったのはビエンチャン郊外、メコン川に架かるラオスとタイを結ぶ国境の橋「友好の橋」。道中川沿いにラオス初訪問のオバマ大統領が宿泊した「ランドマーク メコン リバーサイド ホテル(Landmark Mekong Riverside Hotel)」があった。
オバマは任期切れ前年の2016/平成28年5月米国大統領として広島の原爆記念公園を訪ね、同年9月にラオスに来ている。ベトナム戦争時の『1964年から73年の9年間、米軍は200万トンの爆弾をラオスに投下した。「第二次世界大戦を通じて日本とドイツに米国が投下した爆弾の合計を上回る量だった。』
ホテルから30分足らずで橋に到着。この橋の真ん中が国境、橋を歩くのにお金がいる。橋の下の掘っ立て小屋が入場券売り場。二人の若い兄貴が券売りの番をしていた。3000キープだから13×3=¥39円ほど。
橋に上がってメコン川の上をタイ方向に歩く。両側の欄干にはラオス側はラオスの国旗、タイ側にはタイ国旗が等間隔に立ててある。橋は車道でもあるが電車が通る軌道でもある。真ん中に単線のレールが敷かれていた。この辺りのメコン川はホテル前と違って端から端まで水量豊かな川の流れがあった。
橋の真ん中が国境だが車道には遮るものなし、車が普通の橋を通るように行き来している。イミグレーション(出入国審査所)は橋の近くにあるらしい。“Tさん”も時々タイへ買い物にこの橋を渡って行くそうだ。橋上の歩道部分の国境には柵あり。しかし越えようと思えば簡単だ。監視する者なし。
海に囲まれた日本に陸続きの国境はない。こうやって見れば日本の県境のようなものだが重みはまったく違う。国というのはやはり凄い。「国がない」「国籍がない」ことを想像すれば分かるはずだ。二重国籍など絶対許されるものではない。国に属してこそ普通の個人の安寧があり家族の幸せがある。
友好の橋からの景色を堪能し戻り掛けた時に、運よく毎日二往復しかないタイに向かう列車が来た。「ターナレーン駅(ビエンチャン)発⇔ノーンカーイ駅(タイ)」6.15キロ15分。列車通過時は車を止める。列車は客車の二両編成。のんびりとガタガタ音を立てながら通過して行った。人も乗っていたようだが満員とはほど遠い。 -
2016/平成28年9月 オバマ大統領が宿泊した
「ランドマーク メコン リバーサイド ホテル」
任期切れ前年の2016/平成28年5月広島を訪ね、同年9月にラオスに来た -
友好橋に向かってビエンチャン市内を走る
“Tさん”はガイド業は専門ではなく
アルバイトのようなもの、別に仕事はある -
タイへと渡る橋脚の下に券販小屋があった
券売係の若者二人が小屋でごろ寝で客待ち -
周囲を海に囲まれた日本は国境といってもピンとこない
すぐ向こうが外国であり、互いの力関係で己が立場は決まる
日本は海に隔たれているとはいえ
支○○鮮から離れハワイ沖に引っ越したい -
これ以上は行けない、行くと捕まる?
監視はいないけど -
ラオスとタイの国旗が居並ぶ
タイはラオスを見下している
差別?差別は悪ではなく当然の感情だ
見下されるのが嫌なら努力するか
仕方ないと諦めるしかない
それを「差別するな」と言っても無駄であり
そんなことを言ってる限り差は無くならない -
友好橋から眺めるメコン川
辻正信大佐43才、メコン川を渡りタイからビエンチャンへ
貧弱な船でメコンを下り
「タケクで上陸→サヴァナケット→フエ→ハノイ」
ハノイ到着は1945/昭和20年11月26日。
さすが辻大佐!戦犯指定解除まで良く逃げ切った
戦犯とは勝者の復讐に過ぎず -
日に二往復しかない電車に運よく遭遇
ビエンチャンからタイへ 国を結ぶ電車
車はこの時通行禁止になる -
タイに向かう電車 乗客は見る限り少なかった
双方とも車移動が大半のようだ
“Tさん”も買い物で良くタイへ行くらしい
タイの方が物の値段が安い
ラオスはタイから輸入しているから高い -
友好の橋からコープ・ビジター・センターに向かう途中
何やら車と人だかりが
“Tさん”曰く
「結婚式で嫁宅に婿が来る祝いの儀式」とのこと
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■「コープ・ビジター・センター(COPE Visitor centre)」へ
友好の橋を見て次に行ったのは「コープ・ビジター・センター(COPE Visitor centre)」。日本の援助で作られた「障害者リハビリセンター」内にある戦争被害の展示館。
ラオスは「人口1人あたり世界で最も爆撃を受けた国」。日本の本州と同じ面積の3割以上が未だ不発弾未処理で危険地域になっており完全撤去には100~200年掛かるとも言われている。
小さな展示館内に不要になった義足が無数に飾られ、大小不発爆弾の数々や、クラスター爆弾の沢山の子爆弾が紐につるされオブジェのように展示されていた。白人観光客の姿も多い。こうやって展示されている義足や爆弾もまるで芸術家の作品かのように見えてしまう。
悲惨・残酷を感じず。ラオス領のホーチミンルートに一人1トンとも言われる爆弾の雨が降り注いだ。その状況を想像はしても実際との乖離は果てしないだろう。所詮自らがその場にいなければ残酷さを真に感じるのは無理だと思う。私は幸い昭和25年日本に生まれた。大正生まれならば、ラオスならば・・・私は時代と国に恵まれた。
人間が人間である限り戦争はなくならない。戦争は悪ではない。国土を守り国民の財産を守り、誇りや名誉を守る為に最後の手段として戦争がある。「戦争を悪」とすれば「家族の命を守る為に戦う」も悪となる。「国を守る為に戦う」も悪となる。
戦争を悪と断ずれば国も家族も自分も守れない。戦争は崇高なことだがしたくはない。戦争を仕掛けられないようにするには相手に勝る経済力・軍事力・精神力等々、ようは総合力で圧倒的に相手に勝り、他国から敬意を持たれ舐められず隙のない国を作るしかない -
ラオスの結婚は婿養子文化?新婦の家で行う。
こういった祝いの儀式は盛大にやるそうだ
普段もパーティーなど賑やかなことが好きなよう -
コープ・ビジター・センター到着
すべての物は不発弾・ミサイル等々で作られている -
クラスター爆弾の子爆弾が吊るされている
米国人はここに来て何思うのか? -
義肢義足は使いまわしならず
これを使っていた人はもう現存しないのだろう
そして今も今後も必要になる人が出て来る
個々に合う物を作り続けなければならず
人間は永遠に愚かであり賢明でもある -
私はこういった場所に来ても感傷に浸ることはない
ただ私自身も家族も子孫も巻き込まれたくない
その為にどこまでも富国強兵を目指せ!
それとも平和の念仏で守れると本気で言うか? -
「GRANT ASSISTANCE OF THE GOVERNMENT AND PEOPLE OF JAPAN」
(日本政府・日本国民の支援)
コープ・ビジター・センターはリハビリテーションセンター内にある -
“Tさん”と周った場所
①ホテル 友好橋は地図圏外 ②コープ・ビジター ③日本大使館
④タート・ルアン ⑤ラ・テラス ⑥ラオス人民軍歴史博物館
⑦カイソーン博物館(実際はもっと北) ⑧喫茶店ジョマ(Joma) -
コープ・ビジターから日本大使館に向かう
この通りのすぐ先に大使館がある
首都ビエンチャンだが高層ビルはないに等しい -
通りに面し塀に囲まれた日本大使館
残留日本兵:赤坂勝美 大佐になった山根良人が勤務した大使館
1961年4月、辻正信はここに来た。そして消息を絶つ
1977年12月25日赴任した杉江清一・妙子夫妻が自宅寝室で惨殺された
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■在ラオス日本国大使館へ
ビジターセンターを出て日本大使館に行った。
10分程で道路沿いに白壁が続く大使館前に到着。残留兵士だった赤坂勝美は1960年代この大使館の補助員として勤務し、1961年4月ビエンチャン来た辻正信と接触し世話をしている。
同じく残留日本兵で「ラオス王国軍」の大佐になって退役した山根良人も赤坂とは時期は違うがこの大使館で勤めている。
『1977年12月25日、8月に赴任したばかりの在ラオス日本代理大使の杉江清一・妙子夫妻が自宅寝室で惨殺された』。杉江氏の父親の手記「波涛 (7組 杉江 清)がネットに公開されている。
この事件直後、山根は大使館からの依頼で現場に駆け付け、めった刺しに刺され血の海になっている現場を目の当たりにしている。この大使館にも多くの物語がある。
大使館入口には「えっ、こんな警備でいいの?」と学校並みの一人警備員。壁の向こうには日の丸が翻っていた。 -
異国の地で翻る日の丸の旗を見て感傷にふける
玄関警備はガードマン一人手薄だった
海外旅行先に大使館や領事館があれば見に行くことが多い
私にとってそこは見たい観光場所でもある -
「ミャンマーの日本大使館」「瀋陽の日本領事館」
の内部に入ったことがある
反日暴動の最中北京の日本大使館に入ろうとしたが
入り口でシャットアウトされた
今は中に入る気力なし
https://goo.gl/maps/7rja3mPssdH2 -
タート・ルアン前にある広大な広場?
毎年11月に「タート・ルアン祭り」があり
その時は30万人もの人出があるそうだ
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■「タート・ルアン」
大使館の次は5分でラオスを代表する仏塔「タート・ルアン」に到着。驚いたのは寺院前の広場の大きさ。毎年、11月このタートルアン広場で祭りがあり30万人もの人出で賑わうそうだ。ラオスの寺院は黄金色がどことも基本のよう。金ピカ文化はどうも有難みは薄れる。
“Tさん”には駐車場で休憩してもらって、一人で「10000キープ(¥130円)」の入場券を買って中に入る。一応「来て・見た」というだけで真剣さも興味もまるでない。 寺院前で功徳を積む「雀の解放」の商売で雀の入った竹籠をいくつもぶら下げている“おっちゃん”“オバチャン”が居た。
この光景に「あっ、こんなん確かミャンマーであったなあ~」と帰国後見たらやはり2006/平成18年10月のミャンマーで雀三羽を逃がしている。あれから13年か、時の経つのはホンマに早い。当時56才、今より遥かに元気だった。
『1000チャット(100円)で三羽のスズメを大空に放してやった。』とある。でもこの日ここでは冷やかしだけで帰ってしまった。何か気になって最後の日にここに来てキープも余っているので三籠の雀を解放した。
「タート・ルアン」で時間も昼になったので昼食を食べに行く。旅前にネットで見た「主婦は見た。ビエンチャン7日間 3日目」の「ラ・テラス(La Terrasse)」での「ビックリするほど美味しかったキッシュ!」を食べてみようと。
店内には白人客。メニューを見て良く似た物を頼んだ。「Quiche(キャッシュ) aux epinards」とレシートに書いてあった。¥45000キープ(¥585円)。ちなみに「Quiche(キャッシュ)」とは『卵と生クリームを使って作るフランス、アルザス=ロレーヌ地方の郷土料理。』・・・私にとっては「食えるけど・・・」だった。
“Tさん”は別なものを頼み二人で¥94000キープ(¥1222円)。チップも不要。12時過ぎに入って1時過ぎまで“ゆっくり”食事休憩しながら“Tさん”にラオスのことをいろいろ聞いた。
『ラオスは牛肉は高く鶏肉が主。メコン川の魚も食べますが養殖が盛んです。もとは1960年代にタイの食料事情難を知った皇太子明仁親王殿下が「ティラピアの養殖」を提案し、これがラオスにも伝わり養殖が盛んになった。養殖池の上に養鶏場を作り鶏の糞を池に落として養殖魚の餌にする。
ラオスもまだ貧しくビエンチャンは地方からの人が半分くらい。私の車はディーゼル車で軽油は1リットル日本円で100円くらい。ラオス人の収入からすれば高いです。日本車は輸入関税100%で日本の倍の値段がする。
月収普通は2万~3万円、地方へ行けば年収4万とか・・・。でも暖かいし、自給自足も出来るので貧しいってう感じはあまりない・・・』とのこと。
この店の向かいが“Tさん”も良く行く日本人オーナーの和食の店「OSAKA 大阪」がある。この翌日夕食を食べに大阪へ一人で行った。
ラオスにはこんな人も
安井清子(やすい・きよこ) モン文化研究・図書館活動家。
突然母親にもなったけど、毎日が楽しい https://doors.nikkei.com/atcl/wol/column/15/100400151/031200010/ -
“Google・Map”で見れば全体像が分かる
ホンマ有難い -
「タート・ルアン祭り」の様子
写真は「ウェブトラベル」引用
https://www.webtravel.jp/abroad/asia/laos/news_1038.html -
タート・ルアン
『ラオスのシンボルであり、国章にもタート・ルアンが描かれている』 -
一応入場券を買って中に入って見たけど
雀の放鳥をケチって出来ず
どうもそれが気になって
最後の日に放した -
タート・ルアンから昼食休憩に「ラ・テラス(La Terrasse)」に向かう
前を「白地に青色ナンバー(政府関係)」のトヨタ車が走る
ラオスの車のナンバー
https://blog.his-j.com/vientiane/2014/10/11939400921.html -
「ラ・テラス(La Terrasse)」
https://4travel.jp/travelogue/10795980
「主婦は見た。ビエンチャン7日間 3日目」
?ビックリするほど美味しかったキッシュ!”
?どんなもん?”と、興味本位で来てみたけど -
やっぱりここにも白人客の姿が多かった
-
「Quiche(キャッシュ) aux epinards」
ブログの主婦が食べたものと同じではないかもだけど
ビックリはしなかった -
ラ・テラスはこんな店
-
斜め向かいに“Tさん”も行きつけの「OSAKA」がある
私もこの翌日に「OSAKA」で夕食を食べた -
ビエンチャンのクリーニングは重量料金制なのか
1キログラム¥8,000キープ(\104円)
私が物心ついた時はまだ洗濯機なく手洗いの時代
冷蔵庫・掃除機・電話・テレビも無論ない
蒔きでご飯を炊いていた
「はじめチョロチョロ中パッパ、赤子泣いてもふた取るな」
私も小学生の時釜戸の前に座って炊いていた -
「世界にもし日本がなかったら」池間哲郎(著)
先人を悪くいう日本人は地獄に落ちろ!
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■「ラオス人民軍歴史博物館(Lao People's Army History Museum)」へ
昼食後に「ラオス人民軍歴史博物館(Lao People's Army History Museum)」へ。車で20分ほど。東西南北アチコチへ、行き先はバラバラでもビエンチャン市内の車移動ならどこでも近い。
大きな軍事博物館だったが工事中で内部に入れず。外には飛行機などの展示があった。「世界にもし日本がなかったら」池間哲郎(著)の中に著者がラオスで調査した時のことも書いてある。「フランス兵は日本兵を見ると逃げ出した」と最初に書かれている。
平成26年著者がラオスのシエンクアン県に滞在中、取材先での聞き取りでは「フランス人はラオス人を家畜のようにこき使った」「全ての物を奪い取る。俺たちは奴隷だった」等々とフランスの差別虐待は尋常ではなかったようだ。
著者が村々を訪ねて「日本兵にも辛い目に合されたり、食料等を奪われたり、女性が酷い目にあったのでは?私が日本人だからと気遣いしないで本当のことを話して下さい」と言っても誰一人日本人を悪く言う者はいなかったそうだ。
そしてラオスのある学校の校長先生が『「日本人がフランス人を追い出してくれた。ラオス人と日本人が力を合わせて白人を追い出した。ありがとう」と私の両手を握り頭を下げた。」』と書かれてる。
「ラオス人民軍歴史博物館」の次は「カイソーン博物館(Kaysone Phomvihane Museum)」へ。
軍事博物館から国道13号線を北進、10分程で到着。スターリン・毛沢東・・金日成等々の個人崇拝像と同じくカイソーン像が立っていた。カイソーン・ポムウィハーンは初代ラオス人民民主共和国首相でラオスの英雄であり崇拝の対象ということだが私にとって初めて聞く名前だ。
ラオスのことはここに来るまでは何も知らなかった。おぼろげながら知っていたのはベトナム戦争時ホーチミンルートがあることによって米軍の爆撃に晒されたということぐらい。日本の本州と同じくらいの国土に人口700万人という少なさにも驚いた。
今もって社会主義一党独裁を続けながら世情不安とかの物騒な話も聞こえてこない。ベトナム人やタイ人に「ラオ」と昔も今も見下されているようだが、首都のビエンチャンでもなんだかのんびりしている雰囲気を感じる。不思議な国ラオス。
この博物館には観光客も来ていた。内部は写真禁止、なので何があって何を見たのかも覚えていない。20分ほどの滞在で次に向かった。
行ったのは「地球の歩き方」に「クロワッサン・ブラウニー・キャッシュなどのベーカリーを取り揃えた人気のカフェ」と紹介されている喫茶店「ジョマ(Joma)」。
大体のビエンチャン市内の様子が分かったのでここでお茶を飲んでガイドツアーは早目のお開きにしてもらった。あとは一人でウロウロする方が私のお気に入り。やはり車で観光場所を巡っても何が何だかわからない。歩くに限る。私には歩いてこその旅だから・・・。
ラオスは『「上座部仏教(小乗仏教):出家や戒律を重んじ、自己鍛錬により、涅槃(煩悩を滅した状態)を達成することを目標とした仏教。』
日本は『「大乗仏教」自己の悟りのみを目的とせずに人々に教えを広めて他者を救済し「利他」の修行を行うことで自分も悟りを開くこと目標とした仏教。』
とのことだが良く分からないし、分かろうともせず。私にとっての宗教はご先祖様供養と八百万の神に尽きる。我が家には神棚と位牌もないのに仏壇を置きご先祖供養をしている。そして日常の中で例えば運転中などでも「あァ良かった、ご先祖様が守ってくれた!」とホントに感じることがある。
私は「ブルーベリーレモンジュースとケーキ」“Tさん”「コールドブリューアイス」を飲み計57000キープ(¥742円)。40分程休憩し午後4時前にホテルに送ってもらった。そして予約はしていなかったが明日もガイドを頼んだ。行き先は「ナムグムダム」、日本政府の支援で建設された発電用ダム。
今日の周遊でビエンチャン市内の残りの観光は最後の一日に歩いてでも可能なので、明日はビエンチャン郊外の様子を見たいと思ってナムグムダムに行くことにした。明日午前9時出発を約束して“Tさん”と別れた。 -
ビエンチャンのメーンストリート
ラーンサーン通り(Lane Xang R.d.)を北進
前方にパトゥーサイ(凱旋門)が見える
後ろ(南)には迎賓館(大統領官邸)がある -
ラオス人民軍歴史博物館(Lao People's Army History Museum)
-
飛行機などの展示はあったが
博物館内部はメンテナンスの工事中で入れず -
もしかしたら山根良人大佐の写真があるかも?
と思っていたが内部に入れず残念だった -
ラオス人民軍歴史博物館からカイソーン博物館に向かう道中
高層ビルらしきがあったが工事中断の模様
“Tさん”いわく「これはラオスでは普通です」
また資金が出来れば再開するようだ -
カイソーン博物館
カイソーンって?ここに来るまで知らなかった
日本人でこの名前を知っている者は何人いる?
毛沢東・スターリン・ホーチミン・金日成なら分かるけど -
カイソーン・ポムウィハーン
新生ラオスの英雄
母:ラオス人 父:ベトナム人
日本にも帰化議員が沢山いて
出自に疑問のある首相も数々いる
日本も議員の出自を明確にしろ!
選択の為の最重要な情報の一つだ -
社会主義・共産主義・一党独裁国家
平等を謳う主義・政党・国ほど階級を作る
平等とは機会の公平・平等以外にはない
その上で厳然たる差が出来てこそ公平・平等と言える -
地球の歩き方」に紹介されている
人気の喫茶店「ジョマ(Joma)」 -
私は「ブルーベリーレモンジュースとケーキ」
“Tさん”「コールドブリューアイス」
計57000キープ(¥742円)。
40分程休憩し話を“Tさん”より聞く -
7時間ほどの周遊で部屋に戻る
ルームメイクも完璧にしてあり気分は良かった
さすがに日本人オーナーのホテルなり -
日本でアロママッサージの料金は幾らかしらないけど
若い女性だけど健全マッサージ
安いので行く、アロママッサージで気分一新
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■一人で市内をウロウロ
4時過ぎにホテル傍のマッサージ店でアロママッサージをしてもらう。日本ではマッサージは高いのでしないが安い海外では行く。1時間10万キープ(¥1300円)アロマオイルを付けてエロはなく健全マッサージで気分一新。
散策目的は市内を歩いて把握することと“Tさん”お勧めの夕食タイムの7時頃から伝統舞踊を見れるレストラン「タムナック・ラーオ」に行くこと。そのレストランの場所は ビエンチャン観光の象徴ともいえる「パトゥーサイ(凱旋門)」の近く。
パトゥーサイには三日目に一人でゆっくり見学しようと今日は前は通ったが行かなかった。でも夜間「迎賓館(Presidential Palace)」と「パトゥーサイ」がライトアップされるというので見学がてらに歩く。
「センタワン・リバーサイドホテル」を5時50分頃出発。「地球の歩き方」から切り取った地図を片手にセーターティラート通り(Setthathirath Road) 東へ一方通行から北側に並行してのサームセンタイ通り(Samsenthai:西行き一方通行)を東に歩く。そして和食レストラン「菊」があるラオ・プラザホテル前を通って適当に北に曲がったら薄暗い中に草生す古めかしい塔が。
その時は「何や、これ?」一応写真を撮ったが「タート・ダム」というのは後で知る。そしてタラートサオショッピングモールのある「パトゥーサイ」へ続くラーンサーン(Lane Xang Avenue)通りに出た。
「パトゥーサイ」がビエンチャンの夜空の下輝いていた。ブタペストで見たドナウ河畔の古建築群のライトアップは圧倒される凄さがあったが、小さな首都の静かな佇まいの中に輝く凱旋門も味がある。写真を撮りレストランに向かった。
民族舞踊のある「タムナック・ラーオ」に7時過ぎ無事に到着。客は二組ほどいたが少ない。民族舞踊の気配なく三人の“おっちゃん”演奏者がラナート(木琴)二人と琴一人での生演奏中だった。
一人の私が案内された席は奥の席。舞台前の席は予約席なのか?これから来るであろう上客用に空けているのかだと思う。それも仕方がない。写真入りのメニューを持って来てくれたので写真を見て「鍋煮込み」のような物を頼んだ。
しかし、しかし、なぜかしばらく待って出て来たのは「ベジタリアン」専門のような野菜の盛り付け。唖然としたが注文を聞きに来た若い男のスタッフが私の指さしたはずの物を勘違いしたのだと思う。そうとしか考えられない。
これも旅の思い出と「ベジタリアン料理」を食った。野菜・野菜ばかり薬味を付けて食べる。食えなくはないが美味しくはない。モチ米(カオ・ニャオ)が一番美味かった。カオニャオのお陰でそれなりに腹が膨れた。
そのうちに男女二人の民族舞踊が始まった。私はもっと本格的な舞台と多くの踊り手の民族舞踊を想像し期待していたが違った。席を外して舞台前に行き写真を撮る。8時前に店を出たが客も少なく盛り上がりはなかった。週末土曜日の午後8時、ビエンチャンの賑わいはこれからなのだろうか・・・。 -
看板に「牛乳 食パン カフェ」の日本語が
セーターティラート通りを東に歩く -
金曜日の午後6時7分のセーターティラート通り
この場所で撮影“Google・Map”↓
https://goo.gl/maps/mtnA9np3jjz
ここからクンブロム通り(Khun Bu Lom Rd)を北に -
西行き一方通行の「サームセンタイ通り(Samsenthai)」を東に歩き
ラオ・プラザホテル前を通る
“Google・Map”では南北平行に走る東西一方通行の道を
南北両方とも「セーターティラート通り」と表記している
正しくはどっちやねん? -
北に曲がったらこんなものが
この時は「えっ、なに?」だったが
「タート・ダム」仏塔だった
詳細は以下で
https://tavitt.jp/spot/that-dam/ -
午後6時48分のランサン(Lane Xang Avenue)通り
パトゥーサイが輝く -
このライトアップを見にここまで歩いて来た
ポツンと輝く凱旋門
首都ビエンチャン
高層ビルもネオンサイン輝く都会もなく
ふ~ん 今時こんな首都もあるのかと -
静かに輝くビエンチャンのパトゥーサイ
ライトアップと言えば
平成28年ブタペスト、ドナウ河畔のライトアップに圧倒された
https://4travel.jp/travelogue/11115261
昨年の上海 外灘の夜景も凄かった
https://4travel.jp/travelogue/11434699
なにもかもが それぞれだ 来て 見て 良かった -
パトゥーサイの北 歩いてすぐのところにある
民族舞踊のショーがあるレストラン
「タムナック・ラーオ」
「地球の歩き方」にも紹介されている -
写真付きの料理メニューを見て指さして頼んだのに
何故間違ったのか?まったく写真と違う野菜料理が
これも旅の思い出だと、苦笑いで食べる
モチ米(カオ・ニャオ)さえあれば満足なり -
伝統舞踊ショーといってもこじんまり
そもそも“Tさん”がショーがあると紹介してくれたのは
「クア・ラーオ」というレストランだった
間違えて来てしまった -
私は最初 前の二人連れが座っている席に座った
でも前のクーラーの風がきつくて寒くて席を替えた
二人は後からその席に座ったが最初風を気にしていたが
諦めたようだ。我慢強いのか寒さに平気なのか? -
伝統舞踊が二人になった
一応ショーを見て帰る
目標達成! -
「タムナック・ラーオ」でベジタリアン料理を食す
こんなはずではなかったけど
人生なにもかも思い通りにはいかない -
都のメーンストリートの歩道の穴
危機回避は幼い時から感覚的に養うべし
本能を鍛えることが幸福に繋がる
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■夜のビエンチャンの散歩 ホテルへ戻る
ランサン通りを南へ、迎賓館に向かって歩いていたら歩道にポッカリ穴が!工事中なのかあるべき蓋がない。日本ではメーンストリートの歩道に穴が空いたままほったらかしは有り得ないが日本の常識は海外では通用しない。基本「自分の身は自分で守れ!油断大敵」
タラ―トサオショッピングモールの反対側に「あれっ あれ何 招き猫?」らしきものが見えたので近づくとカシコン銀行(Kasikorn Thai Bank ?泰?行)前に大きな招き猫が鎮座していた。ネット検索によれば招き猫の由来は日本発祥らしいが今では海外にも人気があるようだ。
午後8時15分レストランから20分ちょっとでライトアップされた迎賓館に到着。迎賓館⇔凱旋門(パトゥーサイ)のランサン通りがビエンチャンの中心なんだろう。そこからすぐのメコン川沿いに賑わうナイトマーケット(夜店街)を歩く。“Tさん”から賑わいを聞いていたがこんな規模が大きいのかと驚いた。
週末だけではなく毎日店が出るようで公務員なんかも副業としてやっているとのこと。アパレルショップが一番多かったが靴屋も小物雑貨も何でもある。歩いても歩いても夜店が続く、二股に別れて道もあり人出も多かった。端から端まで歩いて15分くらい1キロくらいあるのでは?
夜店と言えば昭和20年代後半灘区の水道筋商店街の夏の夜店を思い出す。4歳に兵庫区に引っ越したので4才くらいの記憶だろうけどまるで映画のシーンのように脳裏に蘇る。終戦から10年満たないが活気があり賑やかだった。
このビエンチャンの大規模夜店も終われば日々店仕舞いをし、翌日また夕方頃に屋台セットを単車に牽引した荷車で所定の位置に運び組み立て商品を並べる。夜店専門なら分かるが副業ならしんどいなあ。この夜店を見るだけでビエンチャン観光の値打ちはある。
夜店街が終わって少し西に行くと今度は食べ物屋台ズラーとが並ぶ。昨日の夜はこの屋台のどこかの店で魚料理を食べた。今日も昨日同様賑わっていた。屋台ではない道路沿いのレストランでは生演奏もやっている。賑やかだ。
部屋に戻ったのは午後9時頃、ホッと一息で休憩後バスタブにお湯をため入浴。蚊取り線香を付けエアコンは切って明日に備えて寝る。今日も歌と演奏が遅くまでやっていたがいつの間にか寝れた。
本日のスマホの歩数計は「25370歩 18.7キロ」。明日は「ナムグムダム」へ行く。 -
やっぱり招き猫!
昼間車で北進中に見掛けて、「アレっ」と思ってた
ランサン通り、タラート・サオ ショッピングモール斜め向かい
開泰銀行(KASIKORNTHAI BANK)玄関に鎮座 心が和む
この猫の表情を描いた画家は天才画家だ! -
ここもライトアップされている
「PALAIS PRESIDENTIEL(仏語:大統領官邸)」との表記だが
『2012年度、ASEM国際会議に伴い、迎賓館がリニューアルされた』
「迎賓館」として使われているようだ
首都なのに何もない
https://www.travel.co.jp/guide/article/28734/ -
メコン川沿いに日々賑わう夜店
ビエンチャンの賑わう日常こそ旅の醍醐味なり
ラオス在住だから知っている
https://wakuwork.jp/archives/39701 -
「へぇ~ こんな大規模な夜店が毎日開催とは・・・」
昭和の日本、昭和30年前後の夏の夜店を思い出す
神戸市灘区の水道筋商店街の夜店は賑やかだった。懐かしい!
活気があるっていいなあ それだけでなんか元気も出る -
サムライ・忍者 ここにも日本あり
異国の地で日本に出会えば何でも嬉しい -
この人は何をする人ぞ?
-
私の想像を越える規模の大きな夜店だった
毎日でも見に来よう・・・と、思った -
夜店が途切れた延長には
川沿いレストランと屋台料理の店が続いて賑やかだ -
時間は午後8時45分 今日は金曜日
今宵はまだまだこれから客の入りもあるのだろう -
人間の食欲は凄まじい
『火を手にいれ何でも食えるようになった
何でも食えるようになって人類は世界に拡大した』
納得! -
屋台ステージの生演奏
これが夜遅くまで続いて寝るのに邪魔だったけど -
旅は基本的に歩かないと面白くない
スマホ歩数計25370歩 18.7キロ
金鳥の蚊取り線香を付けて寝る
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