2018/10/16 - 2018/10/19
2821位(同エリア11698件中)
明石DSさん
上海三日目の朝カーテンを開けたら・・・・
とりあえず雨は降っていなかった
最高!
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3日目:10月18日(木):晴れ
外灘から豫園を歩く
2018.平成30年10月18日(木)
■今日も歩くぞ!
今朝も6時過ぎにカーテンを開けたら空には薄曇が掛かっているが予報通り天気になりそうだった。上海を歩き回るので雨でなければいうことなし最高だ!早速朝食を食べに一階に・・・。
昨日もそうだが、お粥を食う。一年を通して身体の絶好調はなく波がある。今年は例年に比べて不調が多い。「卓球のやり過ぎちゃう?」と家内に言われるが、そうかも知れないけど実際のところは分からない。今も良くないので“お粥”が嬉しい。
今年の4月頃まで一年半くらい週六日四ヶ所の場所で卓球をしていた。そのうち一ヶ所の二歳年上の“Hさん”が、膝の故障で泣く泣く断念することになり二日減って最近は週四日、時間マチマチ、場所マチマチで卓球をしている。より上手、より強くを目指し、一喜一憂の毎日だ。
卓球仲間は「元気やねェ~!」と口々に言ってくれるが、私は胃薬・睡眠導入剤に頼ったりの日々で正直“しんどい”日が多い。お粥は今日も二杯食べた。
- 旅行の満足度
- 5.0
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早速朝食を食べに行く
頼んで良かった朝食バイキング
メニューも変えてくれいる -
お粥は二杯、美味いお粥があれば満足
我が家では朝は豆乳に青汁粉末を溶かして飲む
豆乳ヨーグルトと“みかん”バナナ一本
牛乳、乳製品は60才からあまりとらない
理由は「乳がんと牛乳」ジェイン・プラント(著)に納得 -
やっぱり白人客が多かった 。
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高杉たちが上海に来た頃の城内図
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■外灘から豫園へ
食事を終え部屋に戻って準備完了!午前7時半にはホテルを出た。
今日の上海巡りは江戸時代末(滞在:1862年5月6日~7月5日)、鎖国を貫いていた幕府が、あえて派遣した千歳丸で上海を訪れた武士たちの日々の行動範囲を詳しく解析している資料をネットで見つけたので「どんな距離感なのか適当に歩いて見よう」というのが課題。
彼らが上陸した当時の上海は「太平天国の乱(1851年1月 - 1864年8月)」の渦中。その後の上海同様外国人租界地へ避難民が押し寄せての混乱や砲弾が飛んで来る戦いに遭遇したようだ。「清軍vs太平天国軍」、上海では「清軍+イギリス フランス軍(共闘) vs 太平天国軍」もあった。
高杉の上海での第一印象『航海目録』
1862/文久2年5月6日(到着)
『上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり。』
5月21日
『この日は終日閑座、そこでつらつら上海の情況を観るに、支那人はことごとく外国人の使役である。英・仏人が街を歩くと、清人はみな傍らに道を譲る。実に上海の地は支那に属すというものの、英仏の属領といってもいい。』
高杉晋作が上海行きメンバーになったのは「尊王攘夷思想に傾き、外国人を切りたがるので問題を起こさないように桂小五郎が送り出した」とも言われているようだ。
『幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間』 藤田 佳久(著) によれば
上海来訪時の高杉は主体的に行動せず
『高杉にはそれが見当たらない。少なくとも自主的に行動したことはほとんどなく、もっぱらピストルと時計だけに関心があったのみで、若干数学の本を中牟田に伴われて購入しているが、上海への関心もほとんど見られず、当然上海の空間認識はゼロに近かったと思われる。それは上海へ来る前の来歴に落ち着きがなく、物事を体系的にみることが欠如していたことが予想される。』
藤田の行動分析の結果、評価は惨々だが、「航海目録」に記したように5月6日到着日において上海の現状を正しく把握している。やはり現実に見た上海の様子は衝撃的だった。それが帰国後の高杉の行動を決定づけ「彦島の租借」を断固はねつけ伊藤博文曰く「日本を救った」
私が思うには英雄と実務派の違いだろう。
上海に上陸した高杉たちの宿泊所「宏記館」は、今の「光明金融大厦」の辺りなので康?上海外?酒店を出て向かう。?最海東路から南に盛?路(Sh?・ng z?・ l?・ 盛澤路)を歩く。高層ビル林立の上海の中にも身近に庶民の路地裏通りはあちこちに未だ健在だ。
盛?路から金陵東路を一路外灘へ、光明金融大厦に到着は午前7時49分、キョロキョロ写真を撮りながら歩いてホテルから20分足らずの距離。この辺りに「部屋狭ク居所無キ故」と居心地悪く千歳丸で泊まることの多かった者が書き残している彼らの宿泊所「宏記館」があった。
外灘であり目の前の黄浦江は、当時
『塵芥(じんかい・ごみあくた)だけでなく、動物さらには人の死体も捨てられ、人の糞尿までが捨てられる』『黄浦江の水を飲んだ一行は、半数がコレラや赤痢などで倒れ、上陸さえできなかったし、水夫のうち2 人は到着後数日で亡くなり、その後もう1 人も亡くなっている。』
そんな汚い黄浦江だった。 -
名倉予何人(あなと)の6月3日の徘徊コース
名倉 松窓(なくら しょうそう)1822年-1901/明治34年79没
『幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間』 藤田 佳久(著) -
ホテル前は路上駐車場 高級車が並ぶ
日本車を探して出発、今日は日本車は少ない -
ホテルの南角を左折「?最海東路」
この前を行ったり来たりした -
?最海東路を右折(南)して盛?路を歩く
ビル街より裏街道を歩くのが面白い -
盛?路から金陵東路を一路外灘へ
正面の超高層ビルが「光明大厦」 -
陵東路の蜘蛛の巣配線、何とかしろよ!
世界第二の経済大国の大都市がこれか?
こんな国が世界の覇権を握ろうなんて笑止千万 -
まだまだスコップ,つるはしが健在の工事現場
安い労働力の多さは合理化を阻む -
この付近に上海での高杉たちの宿泊所
「部屋狭ク居所無キ故」と居心地い「宏記館」があった -
100年後の浦東新区の風景はどうなっているのだろう?
-
赤レンガと丸ビルの間が「新永安路」
徘徊コースの地図ではこの辺りから豫園へ
豫園の新北門に向かう -
新永安路を西に彼らが歩いた軌跡を辿る
1862年当時は全長4.5kmの城壁(1553年~1914年撤去)が残っていた
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■豫園から大境閣へ
156年前とは違う朝の外灘の風景を眺めてボチボチ歩き、新永安路を西に彼らが歩いた軌跡を辿って県城内に向かう。まだ当時は全長4.5kmの城壁(1553年~1914年撤去)に囲まれていた。城壁は1914/大正3年撤去されたがその壁の跡地がそのまま現在の人民路と中華路になっている。
そして千歳丸到着の直前に太平天国の乱鎮圧の為にフランスによって開設された新北門から入城した。最初にわずかに残る城壁を見に行こうと「大境閣」に向かうつもりが方向音痴になり福佑路を東西逆方向に歩いて古城公園方向に歩いてしまった。
公園の看板が目に入ってやっと間違いに気づき福佑路を西に歩き「旧?(倉)街(ジュウツァンジィエ・Ji?・ c?・ng ji?・)」→「高?弧街(ガオドゥンジィエ:G?・o d?・n ji?・)を経て大境路に出て「大境閣」に着いた。城壁の撤去時、工事の監督事務所がここに置かれたためにわずかに城壁が残った。
「へぇ~、やっぱりこんなんか・・・」と古さを感じないピカピカ修復でテンション下がる。今まで中国各地で城壁を見ていつもガッカリすることばかり。中国の城壁で一番期待して見に行ったのは『1900年の義和団事件の際、西太后が西安に逃げる道中に一泊した家が残っている』という城壁に囲まれた「鶏鳴驛」
https://4travel.jp/travelogue/10729848
宿場町「鶏鳴驛」は周囲の城壁全部がほぼ残存し保存状態が良かった。それを「何で?ここまで新品城壁にすんるんや!」と、修復への意識の違いを再確認。価値観の違い、文化の違いはどうしようもない。汚いのは平気でピカピカ好み・・・か。
確か5元?で門票を買って入った。内部のレンガ積み壁は古さを残していたがピカピカ壁と対面していたりで今一感慨はない。一応来て、見た、大境閣。
高杉たちから30年後1890年代に上海を訪ねたイザベラ・バードの旅行記には外国人租界は「明るく、広く、衛生的な」で、城内は「暗くて人でごった返し、汚く、狭く、泥だらけで悪臭が立ち込める」とある。
大境閣の隣に道教寺院「白雲観」がある。1966/昭和41年から始まった文革で破壊され多数の経典・書画が燃やされ壊滅的ダメージを受けた。
文革は中国人の伝統文化も破壊した。2005/平成17年この地に新築移転されたもので新しい。チラホラだが参拝者が線香をあげていた。
いつもの能書きだが私の宗教は「八百万の神」と「ご先祖様」、一応我が家は「真言宗」で菩提寺もある。寺との付き合いも本家筋(長兄)がしており毎年兄弟揃っての墓参は欠かさない。
しかし私の長兄:本家筋に子供はいるが未婚で孫ナシ。次代に繋げそうもない。長兄(78才)は未婚の長男に菩提寺との関係持続、墓守を託せず、自分の責任で寺との関係を最後には断つとのこと。私は末弟で息子三人孫七人だが「じゃあ俺が守る」とは言えず。寺との付き合いは金が掛かり大変だから・・・。
よしんば私が継いでも息子に託すには、それなりの遺産を渡さなければならないし将来に渡って重い負担を掛ける。私の長男は子供一人、その孫に託すことを考えれば気が重い。我らが代で寺との縁を切るのは無念だが、ここは長兄に一任している。
そんな自分の甲斐性の無さが甚だ情けないが、将来誰かが金持ちになり寺との関係を復活してくれることを秘かに祈る。
ちなみに私は地元に次兄と姉を誘って兄弟の合同墓を作った。何故兄弟を誘ったのか?費用が三分の一で済むし、血縁配偶者 誰でも入れるから。ここに入っていれば未来長く誰かが参ってくれる可能性は大だし、墓参りは気持ちが休まる。子供の教育にも良い。先祖あっての今だ。後に長兄も入れてくれとのことで四分の一で済んだ。
棹石『感謝 代々の墓』
墓誌
『〇〇家・〇〇家 代々共同墓
〇〇〇〇、〇〇・〇〇〇〇、〇〇・〇〇〇〇、〇〇は〇〇家・〇〇家 代々共同墓を建立し、末代まで右六名の子々孫々血縁者並びに配偶者の共同墓とすることに合意した。関係者は未来永劫、納骨・墓参に関し誰の同意も必要とせず随時可とする。その旨ここに記し置く。文句は無用。各自入るも入らぬも自由 世俗の因縁は不要。平成二十八年十月吉日』
棹石裏面の墓石建立者には兄弟の子供全員(10名)の名を記した。 -
振り返れば超高層林立の浦東新区
外灘から2分も歩かないうちに洗濯竿が
異文化と言うのはこういうことなのだ
片や“当たり前”、片や“おかしいんちゃう”
異文化との交流は良いが共生は互いに不幸を生む
我が家の近所がこうなったら嫌なんじゃ -
1862年千歳丸到着の直前に開設された新北門から入城する
この人民路を渡って新北門へ向かう
壁の跡地が現在の人民路と中華路 -
朝の上海県城内の風景
-
大境閣を目指して福佑路を西へ・・・なのに
E(東)へ歩いて途中で戻って来た -
大境閣を目指す
この辺りは広い範囲で古い家屋を撤去し
再開発真っ只中、塀の向こうは更地 -
まだ入居前の新しい高級住宅が並んでいる
左側の更地にもこういった住宅が並ぶのだろう -
大境閣は城壁の上に築かれた望楼
城壁撤去の際、ここに監督事務所が置かれ残った -
内部の壁は昔のままのレンガ積みが残っているようだった
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「信義千秋」
正殿には関帝を祀る -
古さを感じない修復にはいつもガッカリ
へぇ~ こんなんか -
道教寺院「白雲観」
1966/昭和41年からの文革で破壊される
物の破壊より文化の破壊が致命傷だろう
2005/平成17年この地に新築移転される -
参詣客は少ないなあ
寺の再建費用や維持費は?
今の上海人の宗教心は如何なものか? -
上海にも参拝者で賑わうお寺があるのだろうか?
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露香園路沿いにある上海市実験小学(万竹小学)
1911/明治44年創設の名門小学校
蒋介石の息子、蒋経国・蒋緯国(養子、母は日本人:重松金子)も学ぶ
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■上海県城内の慈修庵
白雲観から出て大境路を右に露香園路を南に歩く。右側広い区画にズラーっとモダンな高級住宅が完成まじかで建ち並んでいた。上海市実験小学の前を通って突き当りを左折。1870/明治3年創建との案内に惹かれて「慈修庵」という尼寺に入った。
高杉上海来訪時はまだない建物だが、その後の日本人はここに来ているかもしれない。境内に入ったところで門票売り場?だと思った女性に声を掛けられて何か言われたが分からず。門票は不要でそのまま入って行く。
参詣客もいなく静かで尼さんの姿も見えず、綺麗な小さな尼寺だった。一巡りして境内に戻って、さっき声を掛けられた意味が分かった。門票売り場ではなく池の鯉に餌をやる餌売り場だった。「魚食功徳金¥18元」也。折角だから餌を買う。
“オバサン”が餌のやり方を教えてくれて池の鯉に餌を蒔く。蒔いた餌に群がって来る。厳しい生存競争は生ある物の宿命なり。でもこの小さな池で沢山の鯉が同居の環境で飢餓で死ぬ鯉がないのであれば、鯉にも鯉なりの心配りがあるのかも?
尼寺を出て豫園に向かう。方浜中路の正面、ビルの間に世界第二632m「上海中心大厦(上海タワー)」が見えた。どこを歩いていても浦東地区の高層ビルが方向の“みきわめ”になる。 -
「慈修庵」1870年黄氏の家庵として創建
庵(いおり)とは?
「僧や尼が世間から離れて静かに暮らすための家のこと」
外見はなかなか洒落た尼寺、昔のガイドには
「周辺には上海の昔ながらの街並が残っている」
今は周辺更地になって、もうすぐ新し街並みが出現するだろう -
内部 えらい斬新やなァ 尼寺もこうなのか?
日本では明治政府が明治5年「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」を布告
「僧侶の妻帯(女犯)・肉食」等を公的に許可した。尼僧も僧侶に同じ
それまでの僧侶、尼僧の戒律は厳しかった
今では世襲化した者が僧侶尼僧となっている
人間は堕落劣化してるのか?昔の人は凄いのかも -
中国では儒教・仏教・道教を「三教」と呼ぶ
仏教の尼僧は「尼姑(にこ)」「比丘尼(びくに)」等と呼ばれ
日本と同様に剃髪する・・・剃髪の尼僧の姿見れず -
入った時に声を掛けられたが意味分からず
戻る時に分かる「魚食功徳金¥18元」也
折角だから餌を買う -
餌を投じれば条件反射の如く集まってくる
鯉のデカイ小さいは、どうやって決まるのか?
大きさに出生順は反映されるのかなァ -
慈修庵を出て方浜中路を豫園に向かって東へ
ビルの間に世界第二632m「上海中心大厦(上海タワー)」が見えた
どこを歩いていてもビルが方向の“みきわめ”になる -
方浜中路から河南南路を横切り上海老街へ
老街の真ん中に巨大煙突、上海タワーが
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■湖心亭と豫園へ
上海老街へ入って行った。道の両側に老街風の土産物店が並び、正面には煙突のように浦東の高層ビルが建ち並ぶ。これが今の上海か。1862/文久2年の上海、1943/昭和17年 日本占領下の上海。それぞれ156年前、75年前だが、一人の人間が生まれて死ぬまでの時の経過で大きく変わる。
孫の世代の風景や如何に?生活様式は如何に?変わらない物は何か?変えてはならないことは何か?保ち続けることが如何に至難であるのか良く分かる。法隆寺は凄い!『創建年(伝)607年 世界最古の木造建築』・・・現:築1411年、奇跡だ!法隆寺よ1000年後も建っていてくれ!
そこらをうろつきながら豫園商城の中心部に入り湖心亭の前に来た。1855年から茶館として創業しているので城内を何度も徘徊した青年武士たちも湖心亭で茶を飲んだかも?156年の時空を超え同じ場所で同じ建物を見る。ここには何度も来ているが今日は意識は違う。
木曜日だが相変わらず観光客でごったがしている。それでこそ豫園の楽しさがある。人がいない豫園なんて拍子抜けだろう。そして今回初めて湖心亭に入って休憩をした。2階の窓際席に座ってメニューを見る。お茶とお菓子¥138元(¥2484)のを適当に頼む。
湖心亭二階から茶を飲みながら窓の外を見ているのは楽しい。雑多な人種が池の周りで写真を撮ったり行き来したり、これぞ人間ウォッチングなり。双眼鏡でズームアップして人の表情がはっきり見れれば尚更面白いだろう。ここからなら遠慮なく見れるから・・・。バードウォッチングより百倍オモロイと思うけど?
和菓子も付いていた。お茶は白湯を補充してくれるので幾らでも飲める。お茶を飲み過ぎ、あとで何度もトイレに行きたくなってホント困った。ここで10時14分~10時57分まで43分間休憩していた。
豫園に入る門票は40元だが60歳以上は半額と表記あり。窓口で「68才:リョウシーパースイ」と言うと何も問われず「20元」にしてくれた。顔見たら即分かる“オジン”になっているようだ。自分では鏡を見てもそんなに分からないけど写真を見たら・・・。
豫園は1559年(永禄2年室町)から個人庭園として着工・・・か。古いのかもだが私には美を感じない。やはり日本人の私の美意識は「わび・さび(侘・寂)」であり、伊勢神宮などの静寂と素朴質素が心に響き落ち着く。とりあえず写真を撮りながら一周廻る。
太平天国の乱の時、上海で呼応した「小刀会」がこの豫園の「点春堂」に本部を置いていたそうだ。 -
表通りは土産物店が並び
裏通りの路地はこんな感じ -
豫園商城
2002年、民営企業の復星グループが筆頭株主となり
豫園商城は、民営企業となった・・・ふ~ん、そうか -
1号門から商城内へ入る
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この賑わいこそ豫園 昔も今も変わりなし
前回ここに来たのは
2006.平成18年5月26日(金)
新疆ウィグルからの帰路だった
https://4travel.jp/travelogue/10073139
12年ぶりの豫園だが以前と何も変わらず -
九曲橋と湖心亭 その向こうに上海タワー
湖心亭は1855年以来茶館となる
1862年幕末に上海を訪れた青年武士もここに立ったはず -
乾隆年間に建てられ1855年から茶館の湖心亭
2018/平成30年に初めてその湖心亭に入る -
ふ~ん、なかはこうなのか
-
?凰??(フォンファンダンツゥオン:F?・nghu?・ng d?・n c?・ng)
贅沢して広東省の有名な烏龍茶:¥138元(¥2484)を頼む -
豫園に来て初めて湖心亭で一人茶を飲む
高杉たちもここで茶を飲んだのだろうか?
白湯のお替りを二度までして茶を飲みすぎ
後からトレイに何度も行きたくなってホンマ困った -
こんな雰囲気の湖心亭二楼内部
白人もそうだが俺も外国人だ -
二楼から茶を飲みお菓子を食べながら
沢山の人々がうごめく様を眺めるのは
何か偉い人になったようで気分が良い
双眼鏡を手に人間ウォッチングなら
一日飽きずに出来そうだ -
湖心亭から出る「10:14分→10:57」滞在43分
私にすれば随分長~い滞在だった
サラバ湖心亭 -
九曲橋から豫園へ
それにしても観光客は多い -
60才以上老人 全日制在校学生(半額)
「68才:リョウシーパースイ」との一言で
40元が20元に、60才以上は老人だ!ハハハ -
ただの木曜日 人多し 並んで歩く
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美的感覚が違う
文化の違いは致し方がない -
豫園の中からも高~い煙突発見
上海タワーは今や上海のシンボルなり!
とりあえず一周廻って出て来た -
豫園商城7号門から出て上海文廟を目指す
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■上海文廟へ
豫園を出て次は青年武士の徘徊コースにあった文廟(ぶんびょう)を目指す。文廟は現在地:湖心亭より南南西にあり。100円方位磁石を取り出し方向を見定める。
この豫園商城でも見かけたが、上海の通りの壁のスローガンがしばしば目についた。
「国家が目標とすべき価値:富強、民主、文明、和諧」「社会面で大事にすべき価値:自由、平等、公正、法治」「一人ひとりが守るべき価値:愛国、敬業、誠信、友善」
私からすればこれは現中国の「ブラックジョーク」でしかない。まあこの中で一つだけ実践を感じるのは「富強」だけど、これも前途は不透明であり、常識良識欠如の中国の富強は世界の脅威・迷惑でしかない。
大通りの「河南南路」を南に歩き「文廟路」を右折し西へと歩く。路地・裏通りのような道を歩くのが旅の楽しさだ。そこに上海一般庶民の暮らしが伺える。湖心亭でお茶を飲みすぎトイレの看板あるごとに入る。公衆トイレも上海はどことも大体綺麗になっていた。
豫園から30分程で到着。廟の周囲を一周廻ってから入る。門票売り場の表記には65才以上免費(無料)とあり。窓口の“おっさん”に「68才」と言ったが、その発音に“おっさん”は怪訝な顔をし「?犠里人?ナーリーレン?どこの人間や?」と聞かれた。
「日本人」と答えると「10元」とぶっきらぼうに言って来た。「65才以上免費」と表記を指さして一応言ったが聞く耳持たず。これはこの“おっさん”の独断だと思う。顔見れば反日“おっさん”の表情だった。10元払って門票をもらう。これも上海だ。
やっと最近になって分かって来た日本人も多いように思うが・・・幕末から明治・大正・昭和と日本人は中国人を4000年の歴史を持ち文化を継承していると勘違いして来た。中国の著名な学者が「中国人の文明は元の時代にすでに途絶えており、日本人だけが真に漢や唐の文明の真髄を継承している」というのが真実だと私は思う。
孔子・孟子の教えを学び、それに加えて日本人としての「武士道」「恥を知る」等々、独特の文化・精神性を育んで来たのが日本人であり、今はその継続が危機的状況だがなんとかまだそれらしき共通の価値観を有する。
中国人に対しての、この勘違いこそが日本の大陸進駐においての紛争交渉ややり方で間違いを重ねて来た。戦後も今もまだそうだ。この中国人に対しての幻想から脱却しないといつまでも国益を損なうばかり。勘違いは日本側だけでなく双方にとって不幸だ。現実を正しく“みきわめ”ることこそが正しい判断に結びつく。
中国人も朝鮮人も根本的に同じで「見栄・面子」の文化。結果が全てであり、結果のみを評価する。嘘捏造は勝利を求め結果求める手段であり、そこに卑怯善悪は存在しない。それに対して「そりゃあ人間として絶対ダメだ」と幾ら言っても平行線に過ぎず。
だからと言って日本人は「それならこっちも同じ手段で行く」とは自らの否定につながり絶対出来ない。ならどうすれば良いのか?「脱亜入欧」と福沢諭吉の言うように多くの日本人が心で思っているように「付き合わない」ことしかない。完全断交は無理なら必要最小限に関わることがベターだ。それしかない。
断交が何故双方に幸福をもたらすのか?近くて遠い存在になれば、互いに想像の中で相手が気になる。そこには敵対感情は交流している時より絶対大きくならないと確信する。同居中は喧嘩絶えない親子でも、家を出て一人で暮らしを始めた子供を心配し、子は親に感謝の気持ちを持つように・・・。関わり程度が上がれば上がるほど日本人は不幸になる。公平なる友好は有り得ない。
文廟(孔子廟)は「太平天国の乱」に呼応した小刀会の大本営が置かれ清軍によって破壊され1855年この地に再建とある。故に高杉たちが上海に来た1862年時はこの場所にあった。名倉予何人(あなと)の6月3日の徘徊コースにこの文廟も入っている。
廟の内部は訪れる人もチラホラで静かだった。やはり文革時代徹底的に破壊され1983/昭和58年から再建に着手した。蔵書楼の柱に「1931/昭和6年、上海第一家(初の)市立図書館」と書かれた銘板が貼ってあった。図書館・講堂・儒学署等々があり教育の場であったというのは良く分かる。
一回りしてたら魁星閣の傍に樹齢約百余年「日本五針松」と表記のある手入れされた松の木があった。静かな文廟の中でしばし佇み気持ちも落ち着いた。 -
社会主義核心価値観
富強、民主、文明、和諧
自由、平等、公正、法治
愛国、敬業、誠信、友善
ブラックジョークとはこのことなり -
河南南路
元県城内の南北メーンストリート -
文廟路に入る
道路で火遊びの男性二人発見
何を? -
文廟路 木曜日の昼前
若者たちは何を?仕事は・・・ -
1862年 今から156年前
丁髷姿の青年武士がこの辺りを徘徊した
私の祖祖父が生まれたのは1844年
祖祖父(ひい爺さん)はすでに18才だった -
習近平の「トイレ革命」
確かに綺麗になっている・・・が -
へぇ~ 昔の公衆トイレとはまったく違う
習近平が主導する「トイレ革命」に
世界が絶望するこれだけの理由
https://www.mag2.com/p/news/335505 -
文廟 上海県城の孔子廟
1855年この地に再建
1931/昭和6年 最初の市立図書館が出来る -
文革で徹底的に破壊され1983/昭和58年再建に着手
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大成殿
ここはひっそりと静かだった -
1907年上海文?大成殿
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尊経閣(蔵書楼)
1931/昭和6年、上海第一家(初の)市立図書館 -
池には龍吟虎嘯の石が鎮座する
「龍吟虎嘯(りょうぎん-こしょう)」
同じ考えや心をもった者は
相手の言動に気持ちが通じ合い
互いに相応じ合うということ
「竜りょう吟ぎんじ虎とら嘯うそぶく」と訓読する。
「竜」は「りゅう」とも読む。 -
魁星閣(奎星? クゥイシンガァ Kuí xīng gé)
魁星(かいせい)
『北斗七星の第一星。文星。文昌星。
昔、中国で科挙に応じようとする者が、
この星をまつって及第を祈念する俗習があった。』
なるほど・・・科挙か -
上海文?奎星? 時代不明
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樹齢約百余年「日本五針松」
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原産「日本」と書いてあるけど
ネットで「日本五針松」と検索しても
良く分からない -
文廟を出て文廟の周囲を歩く
学宮街を北に
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■足つぼマッサージで休憩
外に出てこの文廟の周囲を周る。文廟を囲む道の名前は「学宮街」「夢花街」「老道前街」「文廟街」とそれらしい。
この辺りは昔ながらの中国の街並みがあり散歩には心地よい。歩いていたら「足つぼマッサージ」の店が目に止まった。午後12時半、その瞬間に身体が動き入って行った。昨日から歩き歩きの連続でさすがに足は棒になっている。休憩にも恰度良かった。
怪しげな按摩店ではなくガラス張り外から内部が全部見えるオープンな店。チェアーが5台くらいあって手前の一台が空いていた。“おっさん”“オバサン”がマッサージを受けていた。そして足を延ばした先には“オバチャン”マッサージ師が並んで椅子に座ってそれぞれにマッサージをしている。
まずベッドチェアーに最初は座って熱いお湯に足首までつける。でもお湯が熱すぎて入れれず。「えっ、中国人はこんな熱いのも平気なのか?」と思いながら我慢してと思って挑戦したが足が受け付けず。しばしバケツの淵に足をのせて冷めるのを待つ。
メニューのどれを選ぶのか聞かれて「これっ」と、指さして上から二番目の50元のを選ぶ。25~30元のメニューが多かった。とにかく私が下手な中国語を一言でも発すればその瞬間にみんなの目が私の方に向く。「なんや、この“おっさん”」との表情で。
そして誰かが私に問う。「哪里人?何処の人?」と、「从日本来的・日本から来た」と言うと「そうか」という感じになる。二人隣に座っている“おっさん”が「ありがとう」「さようなら」などと私の方を見て知ってる日本語を使って来る。
マッサージ師の“オバチャン”は、この近所の女性たちのパートのような感じだった。流行っているようで次々客が来て満席なので「20分後に来て!」とか老板らしき女性に言われていた。足の爪やタコ切りなどのメンテナンスもしてくれるようだった。
「ちょうど良い」と、私も卓球でタコになっている部分のカットを頼んだ。「なら75元」と言われて一瞬考えたらみんなの視線が私に注目。「可以、行! いいよ頼む」と返事した。まるで井戸端会議のような感じで話しが飛び交っている。ほとんどわからないけど、雰囲気は感じる。
足のマッサージも入念に、爪もちょっと深爪カットで血が出たけど、こんなの当たり前のように“オバチャン”素知らぬ顔でティッシュで止血。さすがプロのテクニック爪もタコも綺麗にカット、これだけでも値打があった。途中から私担当の“オバチャン”の馴染み客が来て“おっさん”に変わった。
その時「私のマッサージの老師」だからと言っていた。その通りだろうと思わせる“おっさん”のテクニックに感心。痛くなく弱くなく文句なし。満足だった足つぼマッサージ、100元渡したら5元まけてくれて30元のお釣りをくれた。「12時32分~14時2分」と1時間が1時間半、30分延長サービスで気分一新。 -
学宮街から左折(西へ)して
-
夢花街を歩いていて足つぼマッサージの店を見つける
昨日からの歩きで身体が自然に飛び込んでいた
一番入口近くの席しか空きがなくそこに寝る -
私の発音が即座にバレ「どこの人間?」「日本人」
そこで、この赤シャツの“おっちゃん”が
日本語単語で話し掛けて来た
「ありがとう」「さようなら」「すみません」とか -
マッサージだけでなく爪切り 足のタコ切り
綺麗に足のメンテナスをしてくれる
満席だったので常連客が来れば
「20分後に来て」とか言われていた -
ワイワイガヤガヤと井戸端会議のマッサージ
聞き取れないが雰囲気はどことも同じ
痛くなく弱くなく気持ち良かった -
上海文廟に行った際は文廟北通り「夢花街」の
この「足つぼマッサージ店」で是非マッサージを
爪切り、足タコ切りもお勧めです
12:32-14:02 デジカメ時間90分 -
中華路(城壁跡の道)沿いの「山東水餃」の店
午後2時15分遅めの昼食へ
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■昼食、そして老西門から上海站へ
学前街から尚文路を歩いて小西門から城壁撤去後の中華路を北に向かう。朝飯バイキングを腹一杯食べてるので今までそんなに空腹感を感じず。午後2時15分、昼食タイムで「山東餃子」の小吃店に入る。「白菜肉¥11元20個」を注文。辣油を付けて食べる。王将の焼き餃子の方が好きだが、まずくはない。20分で完食。
山東餃子の店を出て地下鉄「老西門」に向かう。少し歩いた所でワンタンのような写真が目に入りまたその店に思わず入った。「老盛昌?包?(中?店)」は上海でもそこそこ名の知れたチェーン店のよう。スープを飲みたかったのでワンタンのようなものを頼む。
「??(フントゥン húntún」やっぱりワンタンだった。婆さんが食べていたのを見て店員にこれと同じ物をと頼んだ。小??で料金は5元、量もほどよく安くて美味かった。餃子とワンタンで腹も満腹。老盛昌から出てすぐの老西門站7号口から地下鉄へ。上海県城の散策は終わった。
幕末高杉たちが訪れた(1862)上海から156年・・・か、高杉(1839年生)は私の高祖父の五歳年上。ぺーリーが浦賀沖に現れたのは1853年。高杉14才、高祖父9歳、我が家のご先祖もその後の幕末の風雲「1864年:禁門の変」を京都で警護の任を担った父と共に目の当たりにしているはずだ。1868年明治維新、高祖父は24才になっていた。
高祖父の息子:私の祖父は四男として1881/明治14年に生まれ、20歳で入営(姫路騎兵第十聯隊)、1904/明治37年5月、23歳で日露戦争に出征。宇品港出帆6月4日 清国南尖に上陸。1905/明治38年3月24歳、鉄嶺でロシア軍の銃弾を三発受けるも帰国を果たす。それ故に今の世に私が存在し、我が息子、孫がいる。貫通した銃弾が少しづれていたら・・・。
たった百数十年の歳月がこれだけ何もかもを変えてしまうのか?人間のエネルギーの凄さに驚嘆しかない。科学技術の進化はとめどもない。たぶん人の頭の中で未来へ向けて想像や空想することはすべていつの日か実現するのだろう。
青年武士の徘徊した上海、当時の城内もまるで想像付かず。ただぶらぶら歩いただけ。路地裏通りの懐かしさを感じる風景もアチコチで少しは残っているが、近代の街並みが多くなって似たような景色が多く面白みも少ない。地方に行けばまだこの限りではないんだろうが。 -
メニュー表示、左の一番上、一番安い
「白菜肉¥11元20個」を注文 -
こういう小吃店でもキャシュレスでの支払い
若者は大概、スマホでQRコードを読み取り支払ってた
日本も近い将来そうなっていくのだろう -
白菜肉¥11元20個
一番少ないこれでも私には量は十分
辣油を付けて食べる
王将の焼き餃子の方が好きだが
まずくはない。20分で完食 -
山東餃子の店を出てすぐにまた老盛昌?包?(中?店)に入る
スープ入りワンタンが目に入り思わず入った -
婆さんが食べていたのと同じ物をと頼んだ
??(フントゥン húntún」やっぱりワンタンだった。
小??で料金は5元(90円)、安くて美味かった。 -
「老盛昌?包?(中?路店)」
上海のチェーン店も質・サービス共に良くなってる -
中華路から上海文廟に通じる
文廟路入口(西の起点)の門 -
復興東路から東方向を見れば
上海タワーの煙突が聳える
あっちが東方向 浦東新区だ! -
上海県城 老西門
10号線 老西門站 7号口
地下鉄に乗って上海站へいざ行かん -
前回私がここ来たのは2006年、12年ぶりの上海站
2006年7月に上海南駅完成とあるけど
上海駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E9%A7%85
しかし2004年に重慶などに行った時
新装なった上海駅を写した写真がある
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■上海站から人民広場へ
地下鉄で次に向かったのは上海站。初めてが20年前、前回が12年前。駅前風景は人間ウォッチングが趣味の私には旅に欠かせない場所でもある。中国の駅前での光景で頭に浮かぶのは農村仕事で日焼けした田舎の“おっさん”連中が集団で大きな荷物を抱え溜まっていること。
春節や黄金周、国慶節等々の休みの前は凄い人だろうけど今日は、多いのは多いがそれほどでもなかった。駅の中に入るには切符がないと入れない。
「駅の中を見るだけ・・・」と玄関で警備員に頼んだが一蹴された。入場券を買うにも遠いのでやめた。果たしてこれが上海駅の見納めになるのか?
早々に降りた地下鉄1号口から乗って人民広場まで行った。この時、どでかい荷物を抱えた農民“おっさん”集団が電車に乗って来た。それでもここは大都会上海、満洲地方の車内の風景とはやはり違う。荷物袋もそれなりに綺麗。どんな人生なんかなァ~、この“おっさん”連中は・・・。
人民公園に到着し地上に出て公園を歩く。もうこの頃は惰性で歩いていた。そうかここに競馬場があったんか。白人共はどんな未開の国に行こうが、自分たちの楽しみを確保する。眺めの良い高台に住み職住分離、香港もそうだった。
神戸でも異人館通りは高台にある。サッカーグランドは三ノ宮の一等地にあり外人倶楽部だった。私が社会人サッカーをしていた時に、この磯上グランドで外人チームと時々試合をした。ジェームス山も風光明媚、そんな斜面にもテニスコートを確保している。
いつから白人がこの地球世界を牛耳りだしたか・・・知らないが、そりゃあどこに暮らそうが自分たちの文化を頑なに守り人生を謳歌する。その逞しさは抜きんでている。
差別なんて言っても仕方がない。これは区別だ。弱肉強食の世界はいつどこでも未来永遠になくなりようがない。
人民公園から西蔵中路→福州路と歩き人民公園站からぶらぶら徒歩40分ほどで午後5時前に康?上海外?酒店に戻った。
7時半にホテルを出てから9時間半、今日も長~い散歩だった。部屋に戻って小休止。 -
撮影日時不明 車で古さが分かる
20前の1998年はこの古い駅舎だった -
中国も20年前と比較すれば豊かになり
大都会上海の人たちの服装も変わった
中国人の富裕層、嘘か真か知らないが?
『年収1000万円以上の人数は日本人の人口程度は居る』 -
駅中に入ろうと切符も持たずに一応試したが
-
ここで警備の“オバチャン”に止められ
「駅内を見るだけだから入れて」
少し粘ったが・・・ダメだった
入場券買うのも邪魔臭いので諦めた -
2018/平成30年10月18日(木)上海駅を写す
今後この駅前広場に立つことはあるのだろうか?
サラバ上海駅 -
地下鉄 1号線 上海火車站
今までここから何度か乗った記憶がある -
やはり地下鉄:上海站乗り場
地方からの農民らしき人たちが
大きな荷物を持って大移動
これぞ中国の風景なり -
服も綺麗になり
袋も綺麗になった
満洲の“ど田舎”ではどうなのか? -
人民公園で降り 歩いてホテルに戻る
疲れた -
宁海東路を東に歩いてホテルに超接近
「えっ、ここから上海タワー煙突が見えてたんや!」
今頃になって気が付いた、どこからでも見える -
1862年の幕末に上海に来た青年武士:名倉予何人(あなと)
その名倉の6月3日の徘徊コースをと思って歩いたが
現実の風景からイメージも湧かず
ただただ適当に歩くだけとなった
疲れた
7:26-16:52 所要:9時間26分なり -
外灘の夜景は一見の価値あり
市場経済導入後の繁栄を示す象徴
今や米中貿易戦争が始まり
中国の未来の予測は難しい
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■外灘の夜景を見に
明日は日本に帰る。ならば外灘の夜景を見るのには今日しかなく午後5時半過ぎには外にいた。
ホテルから30分足らずで外灘へ。黄浦江を挟んで新旧のビル群がライトアップされ外灘を象徴する光景が広がっている。1998/平成10年12月25日(金)、留学した長男を訪ねて二男と来た初めての上海到着当日、長男の案内でこの場に来た。
その時の浦東新区は「東方明珠電子塔」だけが聳え輝いていた。金茂大厦も建っていたが1999年全てが完成で、その時はライトアップはなかった。それから20年で左に電子塔、右に上海タワー、その間にも隙間なく高層ビル群が建ち並び、黒い夜空を背景にし光輝く極彩色のビル擁壁。
外灘側は重厚な歴史建築群が黄金色のライトアップで偉容を誇る。今日も20年前も同じく人が一杯でこの夜景を楽しんでいた。20年前には、ここで身長体重を計る商売があり一回一元で計ってもらった。それは今回見なかった。
その時と比べての違いは、みんなが手に手にスマホを持って写真を撮っていることだろう。まだ携帯電話も今ほど普及はしていなかった。スマホは無論なかった。やはり夜の外灘は上海の象徴であり見る価値はある。
ちなみに都市のビル群のライトアップで一番感動したのは私の経験では、2016/平成28年1月15日(金)の夜のブタペスト、ドナウ川を挟んで黄金色に建物が輝く光景が圧巻だった。新しい物より古くから残っている物の方が歴史あり、感動も大きい。
20分程外灘の遊歩道で夜景を楽しみ、南京路を歩いてホテルへの帰路につく。ビックリするくらい人が多かった。外灘から去る人、外灘に向かう人、どちらも人の群れ。「なんじゃこりゃあ~」と、ただ驚く。歩道一杯に往来の人々が続く、まるで大晦日の神社の参道の行列のように続々と・・・。
「南京路歩行街」に入っても人人人。ただの木曜日がこれなら土日や観光シーズンなら一体この場はどんな光景になるのやら。まあこの異国の風景も一見の価値あり。この場に来てこそ分かる。「百聞は一見に如かず」、疲れてても、しんどくても来て見て良かった。
午後6時半、2時過ぎに餃子とワンタンの遅い昼食だったので空腹感はそれほどなかったが、南京歩行街に吉野家があったので見落とさないように探しながら歩いていた。見落とすことなく見つけ迷わず入る。
牛丼並盛・・・味噌汁・半熟玉子・漬物が付いて¥46元(1元≒18円¥828円也)。牛丼は匂い味も日本と同じでやっぱり美味い。もういつ頃かは忘れたが今は海外旅行に行っても現地の物を食おうとは思わない。日本料理があれば喜んで行く。
午後7時40分部屋に帰着。長~い、今日の一日も終わった。スマホ歩数計によれば「歩数30984歩、22.9キロ」・・・今日も良く歩いた!さあ、明日は帰国日、観光は午前中だけで電子塔に上る予定。疲れた! -
外灘と浦東新区 新旧対面のライトアップ景観
ここには早朝昼夜を問わず人が溢れているようだ -
外国租界の美
小さなデジカメでもこれだけ綺麗に写る -
ふ~ん、こんな趣向があったのか?
-
外灘よサラバ!
南京東路を帰路につく -
木曜日の午後6時26分
戻る人 来る人たえず 外灘への道
これだけの人間が飯を食い空気を吸う
その量たるや半端ではない -
南京東路で探していた吉野家発見
東京ならこの人波も見慣れた光景だろうが
西明石の住人にとっては見慣れない光景だ -
吉野家を見つけてホッとする
夕飯はここで食べようと探していた -
日本と違う店内風景だが
テーブル座席でこっちの方が良い -
牛丼は同じ味 値段は若干高い
牛丼並盛・・・味噌汁・半熟玉子・漬物
¥46元(1元≒18円¥828円也)。 -
屋上に花開くビル
延安東路の陸橋を渡ってホテルに戻る -
スマホ歩数計「歩数30984歩、22.9キロ」
昨日「33348歩:24.6キロ」
疲れた 明日帰国
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