2019/02/14 - 2019/02/18
616位(同エリア1037件中)
明石DSさん
1日目:2月14日(木):晴れ
出発・関空からホーチミン・プノンペン経由ビエンチャンへ
大東亜戦争敗戦後ラオスで生き抜いた山根良人
この本によってラオスの今に至る経過がなんとなく分かった
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2019.平成31年2月14日(木)
■未知の国ラオスへ
2年前の2017/平成17年9月出発で「ラオス・ルアンパバーン5日間」の旅を阪急トラピックスで申し込んだが催行ならず。その時はマレーシアに変更した。今回は一人旅専用ツアーがある「旅工房」を見つけてビエンチャンに行くことになった。
1月8日(火)には予約完了。平成時代最後の旅はビエンチャン。2年前に「地球の歩き方」は購入済み、そして旅たち前に関連本を読んで「ラオスって一体どんなとこなのか?日本との関係は?」等々を知ろうとしたが、良く分からないまま出発となる。
「ラオスに捧げたわが青春」山根良人(著)
「世界にもし日本がなかったら」池間哲郎(著)
「残留日本兵」林英一(著)
「潜行三千里」辻正信(著)
「ラオスにいったい何があるというんですか?」村上春樹(著)
上記本の他今ではネットから知り得る情報が頼りだ。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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「ラオスに捧げたわが青春」山根良人(著) の挿入図
山根良人がラオスで戦った当時の地図
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■ラオスって・・・。
ラオスは1880/明治20年~(1945/昭和20年日本軍が一時的に占領を除き)ベトナム・カンボジアと共に「フランス領インドシナ」としてフランスの支配下となる。
1940/昭和15年5月、ドイツがフランスに侵攻。フランスはドイツに敗れドイツとの和平を結んだヴィシー政権が誕生する。そして1941/昭和16年12月日米開戦、日本軍はインドシナ半島に進出。インドシナを支配していたフランスのヴィシー政権は日本軍の進駐を認めインドシナは1945/昭和20年5月まで日仏二重支配となる。
大東亜戦争末期、枢軸国であったイタリア・ドイツが降伏し、インドシナ駐留フランス軍とやがて上陸するだろう米英連合軍との挟撃を警戒した日本軍は駐留フランス軍を武装解除する作戦計画の検討を始め第38軍司令官:土橋勇逸(ゆういつ)中将は、「明号(めいごう)作戦」の発動を命じた。
「明号(めいごう)作戦」:1945/昭和20年3月9日~5月15日
フランス領インドシナ連邦(ベトナム・ラオス・カンボジア)での日本軍とフランス軍の戦い
日本軍は2ヶ月ほどで完全勝利
戦力:日本軍5万名 フランス軍5万~6万5千名
死傷者:日本側1000名以下 フランス側2129名 捕虜1万2千名
3月9日の明号作戦開始直前、日本軍はフランス保護国だったベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、武力行使決意と「独立を宣言することが可能である」旨を連絡する使者を発し、これを受けて、ベトナムが3月11日独立宣言、13日カンボジアが続き、当初はフランスの敗北を信じなかったラオスも日本軍の攻勢を見て4月8日に独立宣言をした。
しかしその独立も日本の敗戦によってインドシナの独立を認めていないフランスが1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきた。そのフランス軍との間でインドシナ各地で戦いが勃発。
『1953年10月22日、フランス・ラオス条約によりラオスは完全独立を達成したが、長期に渡る内戦が勃発、ベトナム戦争にも巻き込まれ1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。』
社会主義共和制、一党独裁体制で現在に至る
ラオスの人口はこんなに少ないのかと驚く。日本列島の本州とほぼ同じ面積で人口約700万人、首都ビエンチャンの人口:約70万人。 -
国道2号線舞子駅付近
明石海峡大橋の橋脚を潜る
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■ビエンチャンへ:いざ出発!
68才になる私にとって未だ未知の国だったラオスに行くことになった。初めて「旅工房」を利用して。
《ひとり旅専用価格》 ◆◇ホテルにこだわるヴィエンチャン◇◆
メコン川沿い!夕日鑑賞も楽しめるお手頃ホテル
『センタワン・リバーサイド(3つ星)』 ガイド送迎&毎朝食付 3泊5日
【ご旅行代金】
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\76,800- ×1(旅工房海外パッケージツアー )
\3,040- ×1(国内空港税 )
\1,000- ×1(国際観光旅客税 )
\1,800- ×1(海外空港税 )
\-76,800- ×1(旅工房海外パッケージツアー )
\80,800- ×1(旅工房海外パッケージツアー 基本代金※3泊5日間料金)
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合計額:\86,640-
関空10:30発「ベトナム航空VN321」なので2時間前に関空へ。今回もマイカーで自宅を出発ポートアイランド午前8時(発)船便ベイシャトルで行く。その為に午前5時過ぎ起床し、私の毎朝のルーティーンが始まる。
まず朝風呂に入り、その後「ハチミツ漬けアーモンド10粒(血流増進)」を食べ、「豆乳に青汁」粉末を溶かして飲み、「豆乳ヨーグルト」を食べ、歯磨き後に仏壇に線香をあげ般若心経を二度唱和、家内安全と旅の無事をご先祖に願う。これにて出発準備完了。
三泊五日のビエンチャンへは前回上海同様トランクではなくリュックを背負って行く。リュックの重さは6.6キロ。そして最後に恒例の旅たち前の写真を家内に写してもらう。「鏡は嘘つかない」「写真も嘘つかない」・・・比較すれば年々老ける。身体が錆びる、顔も錆びる。それは億万長者でも、大統領でも私でも同じ。ハハハ!
午前6時22分いざ出発。去年に比べて暖冬の朝だが、やはり今は冬。でも今日の夕刻にはビエンチャンで夏になる。日が昇る大阪湾を遠目に見て渋滞の無い国道2号線を快調に走り1時間ちょっとで車が一杯のベイシャトル駐車場のず~と奥に駐車完了。
客船ターミナルには今日も関空からどこかに行くであろう旅行者が沢山待っていた。往復3,000円のチケットを購入、船内で駐車券に刻印を印字すれば駐車は何日でも無料になる。船の出発10分くら前になって「アレっ?駐車券は?」と車に置いたままだったことに気づいた。
焦った!その上愚かにも6.6キロのリュックを背負ったまま一番奥に止めている場所まで駆け足、息が切れた。サンバイザーに挟んだままの駐車券を取って何とか間に合った。でも気付いて良かった。そのままだと旅に支障はないけど、ずっと損した気になって面白くない。駐車料金一日24時間上限¥1500円×4+α=6000円+αの損になる。
ベイシャトルは定刻8時出発、穏やかな大阪湾を横切り関空波止場に8時34分到着。第一ターミナルまでバス移動。 -
国道2号線 JR新長田、南側附近
午前7時の日常風景
ラオス・ビエンチャンを目指す者もいる -
ポートアイランド⇔関空 ベイシャトル駐車場
ベイシャトルを使えば何日置いても無料
今日も駐車場は一杯だ -
みんなどこに行くのかなァ~
旅行者らしきはシルバー世代が多い
金あり暇あり、されど残された時間は? -
この船で大阪湾を30分で横切る
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8時出航便、乗船客多し
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関空桟橋到着間近
海の水位があがれば、陸は海に没す -
ベトナム航空 A350ホーチミン行き
隣の町に行くかのように誰もが普通に海外へ
100年前 100年後 想いを巡らせば如何に?
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■関空からホーチミンへ
搭乗手続きカウンターは「G」、8時46分すでに長蛇の列だった。20分以上並んで自分の番が来た。「窓側を」と頼む。「関空→ホーチミンまでは窓側」「ホーチミン→プノンペン→ビエンチャンは通路側」となる。
飛行機に乗ればどんな高い展望台より高所からの景色が見れる。「外が見たい、高所からの景色を見たい」“オジン”になっても俺はガキなのか?私にとって飛行機は年に数度の非日常の世界となる。
手荷物検査を通り抜け、出国審査は「えっ、こうなっているんか?」去年の10月上海行はこうじゃあなかったのに・・・・。「自動化ゲート(顔認証ゲート)」になっていた。パスポートを広げて機械に押し当てれば読み取る。パスポート写真と実際の顔の顔認証精度が上がってこそ出来るのだろう。
41番搭乗口到着は出発の1時間前、10時前から搭乗開始。機体はエアバスA350、座席は「3+3+3」、私の席は「30A」窓側。見た目ほぼ満員で10時47分地上から離脱、一路ホーチミンへ向かう。
離陸からしばらく眼下に陸地等の景色が見れる間は、飽きずに見ていることも多いが、日差しが入り込む側だと周囲にも気兼ねして日除けを下す。しかしこの飛行機の座席窓には日除けがなく窓ガラスがサングラスのように色が付き暗くなる。窓下に押しボタンがあって自分でも明るさを変えれる。機側でも調整出来るようで勝手に暗くもなる。
「ふ~ん、どんどん進化するなァ~」そして座席モニターがあるので映画も見れる。私は酒を飲めないし窮屈な座席で寝ることも叶わず。なので長時間は苦痛だ。でも映画が見れれば時間が潰せて助かる。モニターのない飛行機なら、「ラオスに捧げたわが青春」山根良人(著)をもう一度読もうと手に持って座ったが開くことはなかった。 -
蛇の列に並ぶこと20分 やっと最前列に至る
こんな邪魔臭いこといつまで続く 何か妙案は? -
エアバス機の雄姿
これが空に舞い上がる・・・てか
納得出来ん 理解不能 ホンマかいな? -
いざゆかん ホーチミンへ
昔はサイゴンって言ってた
共産主義は糞くらえ!民は奴隷でしかない
民が無能ゆえに共産主義が跋扈する -
飛んだ!
最大離陸重量 約270頓 と、言われても
こんなんもある↓
最大離陸重量が600tと、世界一重い航空機
https://youtu.be/5klcaWsbNCM -
窓の日差し除けシャッターがない
窓ガラスがサングラスになった -
1961/昭和36年4月
ビエンチャンでの赤坂勝美(左)と僧侶姿の辻正信
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■ラオスで兵士となった日本人の二人
「残留日本兵」林英一(著)
『1945年8月15日、海外にいた軍人は約367万人(陸軍約330万・海軍約37万)、民間邦人・居留民は約221万人で合計約688万人。全体の約9割624万人が1949(昭和24)年までに日本への帰還。残りの64万人は現地に止まっており、「残留日本兵」と呼ばれる人々も含まれた。』
ベトナム独立戦争参加日本人の事跡
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01036/pdf/0001.pdf
ラオスの日本軍残留兵士『赤坂勝美(ベトナムで敗戦→ラオスに残留)』
http://nvkanagawa.blog.fc2.com/blog-entry-599.html
1920年長野県生まれの赤坂勝美(以下抜粋)
ゲアン省ビンで終戦を迎え五人の仲間とともに残留後、一路ラオスを目指した。ベトミン軍に発見され、ベトミン兵や民兵の訓練にあたる。作戦で武勲を立て自由ラオス軍司令官タオ・オー将軍の誘いを受ける。ラオス兵約150人を訓練し中尉に任命され、ラオス名を授けられる。
1948年、大尉に昇進。1953年には、シェンクワン省内の捕虜収容所長、翌年には同省の副知事となる。ところが、ジュネーブ協定が調印されると、一転して協定違反の容疑でラオス王国政府軍に逮捕され、フランス軍少佐の取り調べを受ける。
休戦監視委員会、ラオス王国政府双方の裁判で無罪判決を受け、その際、日本に帰るか、ハノイに行くか、ビエンチャンに残るかの選択を迫られ、ビエンチャン残留を決意した。その後1955年にラオス警察に就職し、さらに首相官邸の護衛長になり、一躍高給取りになった。
パテト・ラオの仲間のところに戻らなくてはと思っていた矢先、日本とラオスの国交が回復したことを受け、日本大使館事務所が開設され、駐ラオス大使の説諭で、日本の実家と連絡をとる。その結果、パテト・ラオのもとに帰らず、日本へ帰ることへと目標が変わり、翌年、東京銀行に入り、東京銀行ビエンチャン支店開設にあたった。
1960年には、かつて右手首を失ったときに看病をしてくれた5歳年下の娘と結婚した。1964年からは、在ラオス日本大使館に勤務し、1976年にはラオス人妻とともに27年ぶりに日本に一時帰国するが、2カ月後に再びラオスに帰国。1978年8月ラオス外務省から国外退去の通告を受け帰国し1985年8月死去享年65歳。
赤坂は1961/昭和36年4月、このラオスで僧に扮し失踪した辻正信を見送っている。赤坂によれば辻は『パテトラオ軍に銃殺され、ジャール平原に埋葬された。処刑理由はスパイ容疑だったとみられる。』
「おまけ 辻政信氏失踪事件」
「辻政信失踪事件(1961)」
「作戦の神様」辻正信大佐はバンコクで終戦を迎え戦犯として捕まることが明白なので潜行する。その途中ビエンチャンでも1週間ほど滞在しメコン川を船でベトナムに向かっている。1950/昭和25年まで潜伏し世に姿を現した。
その後「潜行三千里」「十五対一(ビルマの死闘)」等でベストセラー作家となり、衆議院議員・参議院議員として活躍するも1961/昭和36年ラオスで消息を絶つ。どうも翌春スパイ容疑でパテトラオ軍に殺害されたようだ。
辻正信大佐に対して戦後日本人の評価は悪評を含め様々だが、私は辻正信大佐を「真の立派な軍人・日本人」として評価している。その一番の理由は辻大佐を身近に知る部下のほとんどが彼を尊敬し信頼している。身近な者の評価こそが私にとって身近ではない人物評価での最大のポイントだ。
幾ら世の中で好感を持たれ高い評価を得ても身近な者に信頼されない人間は外面良く演技が上手いだけの偽者だ。遠目では見抜くのは難しいが身近な者の評判を調べるのが一番間違いが少ない。
辻大佐の上司上官は辻大佐に手を焼いている者が多々いるが、保身計る官僚的軍人とは雲泥の差であり最前線での素早い決断行動力には恐れ入る。辻を使いこなせる大首相の下なら官房長官・各種大臣なんでも大いに力を発揮すると思う。辻正信大佐よ、蘇って今の日本を救ってくれ! -
1972/昭和47年
山根良人夫妻
残留日本兵としてラオスで生き延び
ラオス王国政府軍大佐となって爵位を受ける
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■もう一人敗戦後ラオスで活躍した日本人が山根良人
山根は1922/大正11年 山口県生。自動車隊の伍長として終戦をラオスのパクセで迎える(23才)。捕虜としてサイゴンに移動し10月収容所から戦友四人とトラックで脱走ラオス・パクセに向かう。その後一人になりパクセに入る。モンカウの市長に乞われラオス義勇軍の指揮官となる。
その後山根は部下と共にベトナムに入り義勇軍は一旦解散。パテト・ラオに合流、ラオス愛国戦線としてベトナム解放軍と共にフランス軍と戦う。1948年 ベトナム解放軍の参謀部員になるもベトナムの手先となっていることに疑問と不満を抱く。
1949年 フランスは名目上だがラオスを立憲君主国として独立させる。これを機に山根は部下と共にパテトラオを離脱しラオスに戻る。そしてフランス軍指揮下のラオス王国軍に部隊として編入し、ラオスに侵入するベトナム解放軍と戦う。
1952年 山根良人(ラオス名:サワット)はラオス王国軍「少尉」→「中尉」に昇進、南ベトナム軍とも共同作戦をとり「パテト・ラオとベトナム解放軍」と戦い続ける。
1954年2月 北ベトナムのディエンビエンフーが北ベトナム軍によって陥落、フランス軍の敗北が決定的となる。同年7月ジュネーブにおいてインドシナ休戦協定が調印。ベトナム解放軍は自由選挙の実施を条件にフランス軍との休戦に応じた。
この協定によりパテト・ラオ軍はラオスに入りラオス王国政府と支持勢力に接触を図りラオス内戦の始まりとなる。
1955 山根は「大尉」に昇進、33才で結婚する。妻は26才のラオス人。
ジュネーブ協定が結ばれフランス軍が去り、今度はアメリカ軍が入って来た。そしてラオス国内は「右:ラオス王国軍(山根)」「中」「左:パテト・ラオ(共産)」の三派に分かれての内戦となる。
1958年「少佐」、1961年「中佐」、1967年「大佐」となる。
1970年 ラオスの内戦もベトナム戦争の一部となる。数の上ではラオス王国軍はパテト・ラオを上回っていた。 1972年 山根「サワット大佐」は ルアンパバーンの王宮で爵位を授かる。
1973年アメリカがベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立。1975年4月30日南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落。同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。
ラオス王国政府軍は1975年5月パテト・ラオ軍の支配下におかれる。サワット大佐(山根)は敵であったパテト・ラオ軍より寛大な特別扱いを受ける。そして1975年8月、サワット大佐は退役命令を受けて一般市民になる。
退役後ビエンチャンに戻り日本大使館の警備や日本人学校での勤務をしていたが、1982年、生徒数の減少から日本人学校が閉鎖となる。それを機に1982年7月家族と共に日本に帰国する。以後から現在にいたることは不明
今月のメコン川
http://www.mekong-publishing.com/colum.htm
(抜粋)
『1960年代から70年代にかけて、「山根大佐」ラオス名「サワット大佐」といえばラオスでは知らぬもののないヒーローでした。抗仏独立戦争から共産政権樹立までの激動の現代史は、小社の『ラオス概説』第6章「現代の歴史」(菊池陽子)に詳しく書かれていますが、山根さんは軍人として常にそのまっただなかにいたわけです。
今ではもう「伝説の人」となってしましましたが、当時の山根さんを知るラオ人の話では、白い軍服が似合って、めちゃくちゃ格好が良く、ラオ人女性のあこがれの的だったということです。』 -
以前も経験した食事飲み物メニュー表の配布
そうかその時もきっとベトナム航空利用だったのだろう
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■ホーチミン空港に着陸
離陸後30分くらいでおつまみと水が出て、1時間10分くらいで機内食が配られた。和食と洋食が選択でき和食を頼んだ。機内食には期待していなかったが、想定外に美味かった。
最初に配られたメニュー表の「和食」に書かれていたのは「海老のマリネ・たたきごぼう・ゴマ豆腐」「切干大根・いんげんの胡麻和え」「赤魚の揚げあんかけ・俵ごはん」「ソフトロール・和菓子」と、まるで高級レストランや結婚式でのメニュー表かと苦笑いだったが・・・。
確かに配られたのは見掛けは食器を含めていつもの機内食だったが味はいつものとは雲泥の差で本物だった。ベトナム航空恐れ入る。前もってメニュー表を配るのもその自信の表れなのだろう。
ベトナム航空の座席モニターでの映画は残念ながら言語の選択で「日本」が少ない。韓国が多かったので何で?と思っていたが、韓国との直行便の数が多いようだ。やはりラオスでの観光客は韓国人が圧倒的に多かった。
映画を二本見た。一本目は「マディソン郡の橋」クリント・イーストウッド監督主演作。独身フリーカメラマンと田舎の既婚女性との遠い昔のたった四日間の恋愛物語。老齢で亡くなったその女性の遺言で母の秘密を子供二人が知ることになる。
不貞とは縁遠い貞淑な母の姿しか知らなかった娘と息子たち。母の秘密を知った直後は母への怒りだけだったが、先に亡くなった主人には秘密を貫き子供だけには知って欲しかった純粋な母の熱き思いを徐々に理解し母を赦す。「何故?遺言で子供に・・・」と思わないでもないが・・・。
二本目は最後まで見れなかったが恐怖とサスペンスの内容で良くぞこんなストリーを考え付くものだと面白かった。映画が終了するまでにホーチミン空港に到着。関空→ホーチミンの飛行時間は「約5時間50分」とある。私のデジカメ時間は関空離陸10時50分、ホーチミン着陸14時20分、時差-2時間なので5時間半で到着した。 -
座席モニターがあれば映画を見て時間を潰せる
しかし韓国語対応に比較して日本語対応が少ないのに驚く
ここまで日本の影響力は低下したのかと -
豆は美味しい
Q・B・B:「Quality's Best & Beautiful」
社名:六甲バター株式会社 昭和23年設立
ふ~ん戦後まもなく神戸で起業、知らなかった -
メニュー配布に納得の内容と味
こんな美味い機内食は記憶にない
以前乗ったであろうベトナム航空もそうであったかも -
ホーチミンを空から眺める
超高層ビル展望台からでもこの景色は拝めまい
何でみんな機外の風景を眺めないのか? -
着陸間近
ここからなら墜落しても助かるかも?
そんなことが頭をよぎるのは俺だけ? -
無事に着陸 ホッとする
でもトランジットがあるのでまだ緊張感はある -
外国に着いた ここは日本ではない
そして
窓側席なので当然だがすぐには出れない -
12年ぶりのホーチミン空港
ターミナルに直接ではなく バスで移動
大きな空港は何かと不便だ
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■ホーチミンからプノンペン、そしてビエンチャンへ到着
ホーチミン空港は2007/平成19年カンボジア・シェムリアップからの帰路降り立った。この時もホーチミン→関空のトランジットのためだけで外には出ていない。そしてこの時は忘れもしないダブルブッキングでビジネス席になり万歳!だった。
ホーチミン空港も大きい空港ゆえなのかターミナルに飛行機は直付けではなくバスで移動。トランジットでプノンペン行きの飛行機VN920便に乗り換える。やはり一人での乗り換えはいつでも不安、英語が話せないのが不安の最たるもの。早く超小型で便利な同時通訳機が出来て欲しい。
それらしき人の流れについて歩き手荷物検査を受けて無事プノンペン経由ビエンチャン行き「26番」搭乗口に到達は15:01。降りて30分程だった。ほっと一息。間もなく搭乗が始まり機内に座ったのが15:34分。
ホーチミン→プノンペンは西に向かって1時間弱、離陸し水一杯のサービスでもう着陸準備。通路側だったし満席だったので移動も出来ず眼下の景色は見れずだった。プノンペンからは同じ飛行機だが出発まで1時間があったので機外に出ようとしたが「機内で待機」と止められた。
プノンペンからは空席が多くなった。誰も座っていないところに移動して左側窓際に座る。18:09分、VN920便プノンペン国際空港からテイクオフ。今から40年程前に虐殺のあったカンボジア。シェリムアップのアンコールワット遺跡には平成19年、12年前に行ったがプノンペンはまだ未踏。
また来るかもしれないプノンペンの街を眼下に見ながら飛行機はビエンチャンに向けて飛び立った。直ぐにハム・サラダ・果物などの軽食が出た。19時過ぎビエンチャン上空に来たが大都市上空とは雲泥の差で灯りは少なく下界は暗かった。今まで夜間に降りた空港付近の上空から見た下界では断トツ一番の暗さだった。
19時20分着陸、記憶にないくらい簡単に入国審査を通り出口へ。朝は真冬、夜は真夏の外気に身体を晒す。日中は30度超えるらしいが日も陰り猛烈な暑さは感じず。出口で無事に「旅工房」の現地ガイドに出会う。40代日本留学経験のあるラオス人ガイドの“おっちゃん”“Mさん”。
空港で両替をする。日本円3万円、“Mさん”(ガイド)が窓口で適当に記入してくれた。2287700キープ(Kip)を手にする。2百2拾8万7千7百キープ。よう分らんけどラオス¥10000キープが日本円¥130円ほど。¥1000キープが¥13円、キープの最高額紙幣100,000キープ紙幣が日本円¥1,300円也。
札束をポシェットに入れてホテルに向かう。空港には別に送迎車が来て“Mさん”は助手席に座り私は後部座席に一人座る。「へェ~、送りはたった一人なのにわざわざ車が来るのか・・・」、私一人の送りに車一台ラオス人二人。 -
ベトナムを感じる女性店員の赤のアオザイ
プノンペン経由ビエンチャン行き搭乗口へ向かう -
ベトナムは世界のGDPランキング46位
https://ecodb.net/ranking/imf_ngdpd.html
3位の日本の「22分の1」だが空港は立派
因みにカンボジアは109位 ラオスは117位 -
午後3時23分搭乗始まる
プノンペン→ビエンチャン -
今日一日で①離陸②着陸③離陸④着陸⑤離陸⑥着陸
目的地まで二回で良いはずが六回の恐怖を体験することに -
4~50分の飛行時間なのに水のサービス
今や誰でも乗れる飛行機
CAも肉体労働者になり、憧れの職業とは言えない
給料はどうなのだろう?
http://careergarden.jp/cabinattendant/salary/ -
び上がったと思えば 着陸態勢へ
さすがに飛行機は速い 大空をひとっ飛び -
プノンペン空港ターミナルで休憩しようと思ったのに
出口で封鎖 機内で罐詰となる ムムム無念 -
乗客の大半はプノンペンで降りた
ホーチミン→プノンペン→ビエンチャンは
こんだけ -
プノンペン空港は街の西側 郊外
眼下にプノンペンの街を見て
一路ビエンチャンへと飛び立つ -
プノンペン→ビエンチャン 飛行時間1時間20分
こんな軽食が出た 気分転換には有難い -
ビエンチャン空港(ワットタイ 国際空港)は
市街の中心より西側郊外に位置するが
下界の暗さには驚く「え~ ホンマかいな」 -
さあ長旅は終了だ!
ビエンチャンの旅が始まるぞ
ガイドはちゃんと来てくれてるかなァ~
まず両替を・・・と 脳内交錯中 -
初めてのラオス 冬の明石から夏のラオスへ
空港はどことも同じような感じ -
空港内のこの銀行で“Mさん”(ガイド)が両替してくれた
日本円3万円が2百2拾8万7千7百キープなり
228万キープ、俺は金持ち? -
日本語ガイドの“Mさん”
出口で会えればもう大丈夫
ホテルまでの送迎付きはありがたい -
部屋は広々として見た目豪華
移動ナシの三連泊は気が楽だ
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■センタワン・リバーサイドホテル
ホテルはメコン川沿いの「センタワン・リバーサイドホテル」、空港から15分ほどの近距離だった。ホテルのオーナーは日本人、奥さんはラオス人とのこと。午後8時部屋に入る。私の部屋は「444号室」中は広くて豪華。ダブルベッドが一つに見た目豪華そうな椅子も、バスタブもありで満足。
メコン川を眺めれる窓がないのは残念だが仕方がない。プノンペンからの機内で軽食を食べたがまだ腹六分。ホテル前が川沿いに海鮮料理の屋台がずら~と並ぶ賑やかな所なので「何か旨そうな物はないかなァ~」とぶらぶら歩く。
適当に一軒の店の椅子に座るとメニューを持ってきた。見てもよう分らんけど二品とご飯を注文。飲み物はコーラを。インドシナはフランスの支配下だったので今もフランス人なのか観光客らしき白人たちが、アチコチの屋台のオープンテラスで食事をしていた。
ラオス人との初接触での印象は、なんとなく穏やかで人当たりも良かった。短い滞在だったが運が良かったのか帰国までそうだった。きつくて悪い印象や冷たさも感じず、好印象に終始した。中国とは違ってラオス人に対しては気合を入れて構えなくても過ごせた。
まあ~しかし、泥棒や置き引き、かっぱらいも多く「人の物は俺の物」的な感覚も普通にあるようだ。あくる日に世話になった在ラオス在住日本人ガイドによれば、貧しい国でもあり最初の頃は日本とはやはり大いに違う国民性に戸惑うことも多々あったそうだ。
自分が頼んだ料理も運ばれて来た実物を見て「あァこれか」であり、二品とも魚を揚げた料理。不味くはなかったが美味くもない。でも竹で編んだ「ティップ・カオ」に入った餅米「カオ・ニャオ」は美味い!これは日本でもモチが好きな者には喜ばれる。赤飯に似たり。
屋台のオープンテラスで食事代は¥150000キープ(¥1950円)、高くはない。ホテル傍のコンビニで水とペットボトルの紅茶を買う。2本で8,000円キープ(¥104円)激安。
9時過ぎ日本時間11時過ぎ部屋に戻ってバスタブにお湯を溜て一休み。明日に備え金鳥の蚊取り線香を付けて就寝。外での生演奏の音がやかましかったけどいつしか寝れた。
明日は『ビエンチャン市内&郊外1日観光ツアー』を大人1名参加で事前に申し込んでいる。明日の朝9時にホテルでの待ち合わせ。明日の朝からビエンチャンの旅が始まる! -
バスタブもあったけど、なんでこんな形?
バスタブへの出入りは、なんか難儀 -
花は造花だけど・・・埃かぶらず綺麗
宿泊料金知らないが想像以上の部屋に満足 -
ホテルの前がメコン川
その川沿いに海鮮料理屋台が連なっていた -
旅先はどこでも人が多くて賑やかな方が良い
店も人も雰囲気も日本と違う異国を感じれる
あァ~ 俺はビエンチャンに来てるんや・・・と -
食い物がズラーと並んでいるけど
うまいかまずいか食べてみないと分からんし -
写真入りのメニューは有難いけど
見ても良く分からない -
フランス人なのか?白人客が多かった
これがビエンチャンのいつも風景なのだろう
ラオスへの外国人観光客
「東南アジア各国の観光客数の国別ランキング」
1.タイ:2,321,352人(49.6%)
2.ベトナム:1,187,954人(25.4%)
3.中国:511,436人(10.9%)
4.韓国:165,328人(3.5%)
5.アメリカ:63,058人(1.3%)
6.フランス:55,151人(1.2%)
7.日本:43,826人(0.9%)
8.イギリス:41,508人(0.9%)
9.オーストラリア:34,665人(0.7%)
10.ドイツ:31,897人(0.7%)
韓国からの旅行者は日本の4倍
中国人より韓国人が目についた -
酒を飲めない私が
海外で飲み物を頼む時は「コーラ」が多い
ティッシュも一つ固まりでくれた -
一人座って料理の出てくるのを待つ
忙しいのですぐには持ってこない
「忘れてるの?」と不安になる -
骨付き魚の油揚げ
骨だらけで食べにくい
食えたけど次は頼まない -
「ティップ・カオ」に入った餅米「カオ・ニャオ」
ビエンチャン滞在中、これが一番美味かった -
デカイ魚一匹の油揚げ
表面はカリっとだが身は生焼け状態で
美味しくなかった -
三ツ星ホテル「センタワン・リバーサイドホテル」
明日はビエンチャン市内観光
朝「兵庫県明石市」夜「ラオス ビエンチャン」
朝「地球」 夜「火星」・・・こんな日はいつ
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