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Part of sightseeing edition,2nd 1day driving to Post Office in AICHI.<br /><br />本日のミッションは16:00を以て終了となりました。これからがフリータイムとなるのですがふと気付いたことがあり、調べてみました。小牧山西郵便局、住所なのかと思いきやそうでもない。じゃあなんだとなりますがズバリ小牧山の西にあるからという理由のようです。ならば~と言うことで立ち寄り地を決めて出発をします。<br /><br />幹線道路に面している小牧山西郵便局からは歩いた方が早いのかも知れない程度の距離しかありません。確かに車だと迂回しなければならないルートではあっても数分のことで小牧山北駐車場に到着します。2時間まで無料の市営駐車場ですが夕方でもそこそこ車が停まっていました。日暮れの時間も考えなければならないため、車を停めるとすぐに行動開始です!<br /><br />小牧山は桜の名所としても知られており先週末には桜祭りが開催されていたようです。ただ訪れた日がちょうど満開だったことから、少し早かったようにも思えます。よくテレビで見かける花見の景色が広がっている様はまさしく桜の名所でした。平日の夕方だったこともあり、数組の親子連れグループがどんちゃんやっていただけでした。<br /><br />そんな麓の広場から山を登って行くことにします。途中界隈では小牧山のみに自生するタブノキやソメイヨシノをはじめとする桜の木々等が茂る登山道を歩いて行きます。標高は85m程しかないものの周りに視界を遮るものがないために小牧の市街地がよく見えました。<br /><br />程なくして山頂に到着すると、頂上部に聳えるお城がありました。小牧市歴史観は戦国時代末期に建てられた小牧山城を模して作られています。残念ながら開館時間を過ぎているために入城は叶いませんでしたが、また改めて訪れたいと思いつつ今回は諦めるとします。山頂付近には往時の遺構も残っており、城好きには涎ものではないかと思いました。<br /><br />そんな遺構と桜の花とのコラボレーションの景色を眺めながら頂上部を散策しつつ、400余年の歴史を頭の中での妄想(笑)で振り返ってみました。美濃攻めのために織田信長の手によって小牧山城は建立されました。美濃攻め終了とともに4年間で役目を終えましたが、本能寺の変で信長が横死した後の後継者争いのひとつである天正小牧合戦(小牧長久手の戦いのひとつ)に於いて徳川家康が羽柴秀吉を迎え撃つために陣城として改修し、戦略的勝利を収めたことで再び歴史上に再登場する事になりました。家康本隊が合戦に間に合わなかったものとして有名なところでは豊臣を滅亡させた大阪冬・夏の陣、それに天下分けめの関ヶ原の戦いは必ず挙げられます。この二つの戦いの結果徳川の世の中に至った理由として語られることが多いものの、実際には家康が陣頭指揮を執った戦いで勝利を収めた戦いがこの小牧・長久手合戦が最後であるがために、江戸時代になり幕府安泰のご時世に於いて頼山陽が〝家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり〟称したことからも間違いではないと理解できます。<br /><br />また江戸幕府開府後は〝家康公御勝利御開運の御陣跡〟として聖地化され、御三家のひとつである尾張徳川家の領地として一般庶民の立ち入りが禁止されていました。明治に入り〝投出しの尾張侯〟こと尾張徳川家第19代当主徳川義親氏によって国に寄贈され史跡に指定されるた後に当時の小牧町の強い要望から町に寄贈され、城跡公園として一般に開放される場所となりました。しかし戦時中には軍の施設が設けられたことにより再び一般の立ち入りは禁じられることとなります。終戦後には再び小牧町が管轄する公園として一般に開放されることにはなったものの、徳川家からの寄付条件として小牧山の〝形状変更をしない〟との項目が盛り込まれていました。<br /><br />その条件に戦後小牧山東側の史跡公園内に設けられた小牧中学校が条件違反だと騒ぎに至った経緯から平成10(1998)年に移転することになるも、昭和42(1967)年には名古屋の実業家平松茂氏によって山頂に復元小牧山城が作られて、完成とともに小牧市に寄付されていますが、それに対して特に問題視された様子もないのはやはり城跡公園としてビジュアル的にも城郭が必要だと解釈されたのかも知れません。そんな歴史ある場所にある中学校も景観を損ねるものでなければ良いようにも思うのは傍観者ならではの考えなのかも知れません。しかしその後新聞沙汰にもなった小牧市による老木の伐採と苗木の植樹の件はどうなんでしょうか?結局は自分たちの解釈は間違っていないという〝役人根性〟が引き起こしたトラブルをあちらこちらに責任転嫁をしてほとぼりを冷まそうとするのは、小牧山城所縁の人々の願いを反故にしているだけのように感じてなりません。<br /><br />陣城として作られたものとしてそれほどの歴史的価値はないと判断されていた小牧山城ですが、その後の発掘調査の結果〝砦〟として織田信長が築城したのではなく、本拠地の清洲城から移り〝居城〟とするために作られていたこともわかっています。そして日本史上短い周期で起こっていた権力争いに伴う戦乱が、江戸時代という260年もの間平穏な時代が続くきっかけとなった〝聖なる場所〟であるならば、やはりそれなりの敬意を示し、その史実の遺構を正しく後世に伝えていかなければならない…そんな考えをふと感じました。確かに倒木の危険性をはらむ老木を除去し、新しく苗木を植えることで〝桜の名所〟としての面子は立つのかも知れません。しかし小牧山はあくまでも国指定の〝史跡〟であり、史跡の定義として遺跡の中でも歴史・学術的価値の高いもので国や自治体によって指定されるものとされており、小牧山も昭和2(1927)10月26日に文化財保護法の前身である〝史蹟名勝天然紀念物保護法〟の元、内務大臣鈴木喜三郎が決定を下したまぎれもない〝国の史跡〟のひとつとなっている史実がありました。<br /><br />そんな重みのことを考えれば史跡(公園)が桜の名所となっている訳であって、桜の名所が史跡となったわけではありません。つまり桜の名所とするために史跡を壊すことは本末転倒の出来事にしかなりません。発掘調査をしたのも小牧市で史跡を壊したのも小牧市である…。史実解明のための発掘調査と桜の名所としての名声を高めるために苗木を植えるために城跡の遺構を破壊した。結果としてその両方に税金が投入されているとなると〝無駄遣い〟以外になにものでもないとしか思えません。小牧市民ではない私がいうことではないのかも知れませんが、どこもかしこも同じようなことをしでかしている事実に多くの納税者が気づかないといけないのでは…そう思ってしまったのは私だけでしょうか?<br /><br />考えても始まらないので現実に視点を戻し、満開の桜の花々が咲き誇る中で隙間から見える小牧の市街地を眺めつつ頂上を歩いていると400年前の遺構が普通に転がっていることに気づきます。かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物ることも小牧山城の良いところなのかも知れません。残念ながら小牧城の小牧市歴史資料館は閉館していましたが、桜の花に囲まれるお城の姿はなかなかのものでした。また史跡公園となった小牧山を寄贈した徳川義親氏の像も建立されており、彼の小牧山の寄贈に端を発し、謎深き小牧城のことが発掘調査をする機会を得て徐々にわかってきた功績を称えているかの如く付近一帯を見守っている姿が印象的でした。そして頂上から下って行くと主郭跡等小牧山城の往時を偲ばせるものがたくさんあり、満開の桜の花の下400年前にもこの場所に於いて花見を開催していたかのような錯覚に陥るような景色が広がっています。城跡散策だけでもまだまだ行きたくなる場所がたくさんありましたが、先に山登りをしてきたオヤジ殿が愚図り始めたので今回はこれ位にしておきます。<br /><br />私は上ってきた道を逆に下りて行きましたが、オヤジ殿は別ルートを辿ったようで見回す限り見当たりません。それをいいことに観音洞へと回り道をすることにしました。小牧山近くに移設された日本で唯一の〝お乳〟のご利益があるとされている間々観音堂が最初に建立された伝承の地とされています。身重の鹿を撃った猟師がその母鹿と子鹿の変化を見て撃ったことを悔やんで供養をしたことに端を発しているとのこと。撃たれた母鹿が観音様に、そして子鹿は7つの岩になった間々乳観音出現霊場とは、出来過ぎた話ではあれど鬱蒼とした木々の背景も加わるとなんとなく霊場らしいと感じるものもありました。時間の関係で間々乳観音堂までは行けないので、その場でしばし気を感じてから、再び上って来た道を下りて行きます。<br /><br />小牧市の木とされているタブノキがここ小牧山にのみ自生していると市の概要にも書かれています。確かに登山道の脇に一本ポツンと立派なタブノキが立っていることを目にすると、なぜか不思議なものを感じずにはいられない気持ちになりました。ただ後から訪れた大手道途中の八幡社に建立された小牧所縁の戦没者を祀る忠魂碑があり、その傍らには閑院宮載仁親王と梨本宮守正王お手植えのタブノキというものも現存します。市の広報が小牧山にのみ自生するとは書いていますか、お手植えのものがどうして含まれるのかはわかりません。わかりづらい説明をするよりもズバリ小牧市小牧山史跡公園に育つタブノキと曖昧に述べてもいいのでは…と私自身は思います。<br /><br />下山途中に桜の木々の隙間から覗く小牧の街並みを見ながら駐車場へと戻った後、車を回すようにして南麓へと向かいます。そして小牧公園の石碑が置かれている大手道を再び上り忠魂碑と愛宕社・八幡神社・白山神社・御嶽神社へと参り、最後に徳川源明(宗睦)公墓碑に向かいます。尾張徳川家第九代藩主徳川宗睦公の墓碑ですが、尾張藩中興の名君と称されるも晩年には行きすぎた改革により藩の財政状況が逼迫し、藩札の乱発を行った結果その後の尾張藩に於ける財政破綻のきっかけをも作り出してしまった名君なのか迷君なのか判断に困るお殿様ですが、元々は尾張徳川家の墓所は名古屋市の建中寺となっており、宗睦公の墓も境内に置かれていました。しかし第二次世界大戦中の名古屋空襲で街は灰燼に帰し、市内にあった寺の墓所も移転されることになりました。その際一家につき一石の墓碑となり、尾張徳川家も例には漏れず第七代藩主徳川宗春公の墓碑のみが対象となり、他の藩主の墓跡は廃棄される運命にありました。そこに現れたのが学者の津田応助氏でした。彼は他の藩主の墓碑が廃棄されることに異議を唱え、当時の当主であった徳川義親氏に頼み込んで一旦はすべての墓碑を移設させることに対し同意を得たものの後に破棄されてしまいます。敗戦後爵位もなくなった徳川家は既に一般住民と同じだとされての判断がされており、特別扱いもしないしされたくないといった考えがそのような結論となったことが日本国憲法下で〝当たり前〟となったことを象徴している出来事でした。<br /><br />しかし移設先としていた当時の小牧町を巻き込んでのやり取りの結果、小牧に代官所を置くなどして発展に貢献した第九代藩主徳川宗睦公の墓碑を貰い受けられることとなり、昭和28(1953)年8月に小牧山南麓の現在地に墓碑を移設させることに成功しました。徳川家の世の中が終わってから僅か1世紀足らずで藩主の墓碑の価値も大きく変わってしまった現実ではあるものの、戦後復興を第一に考える国や自治体としては致し方ない選択肢だったのかも知れません。そんな紆余曲折があった後にこの地に落ち着いた墓碑を見て、さぞかし宗睦公もあの世で冷や汗をかいただろうと推測します。直接小牧山の歴史に描かれていない宗睦公の墓碑の来訪理由にこんな経緯があったことを知り改めて先人の苦労を知ることとなりました。宗睦公の所業も刻まれている石碑にも興味はあったのですが、さすがに陽も暮れ始めてきたので手を合わせて大手道を下りて行くことにしました。<br /><br />南麓がメインであることを知り、桜のシーズン真っ盛りであることも加えればこれからがお花見タイムなのかも知れません。しかし私達には帰宅というミッションがまだ残っています。未練はあれど仕方がないのでキリのいいところでケリをつけて帰宅の途につくことにしました。<br /><br />私が小牧山南麓を散策する間オヤジ殿は近くのV・drug堀の内店をウォッチしていたのでそこからの出発です。愛知県道197号線から国道155号線へと入り、小牧市から岩倉市を経て一宮市に向かいます。途中ローソン一宮緑三丁目店に立ち寄ってコーヒーブレイクと一服タイムをとりますが、ちょうど帰宅時間と被ってしまい9kmの道のりに40分もの時間を費やしました。<br /><br />一息ついて出発し、国道22号線名岐バイパスも渋滞こそしていないもののぶっ飛ばすこともできないレベル・・・。それでも一度利用したことのある出光リテール販売セルフ高田西SSに立ち寄り、まずはイストくんにご飯を食べさせます。満腹になったらお風呂に入れて、ザーッと汚れを洗い流した後に借りたタオルできれいキレイに拭き上げます♪<br /><br />イストくんが満腹&amp;キレイになったら次は人間の番。しか~しいつものメンバーはグルメでない二人ゆえに〝地の物〟ではなく気軽に食べられるものでチョイスをします。オヤジ殿の一声でびっくりドンキーに決めるも、リクエストは大垣南店。でもナビの地図を見る限りバイパスからは離れなければならない場所のように感じた私はとりあえず走ってから考えることを提案します。岐阜六条店は岐大バイパス沿いだけど店舗は右側…。なんて考えているうちに時間が過ぎるので最後に付近を調べると岐南店を発見します。一旦国道156号線へと入るもそのまま岐阜県道77号線若しくは少し戻って岐大バイパスへ入れることがわかり鶴の一声ならぬたかティムの一声で決定し早速向かいます。岐阜や愛知へと向かった後に一般道で帰る際には必ず通っている道だということもあり、初めてのお店とばかり思っていたらまさかの再訪だった様子。2年前に来店済みとの記録はあれど残念ながら記憶にございません(汗)。一度訪れた場所を忘れることはないとの自負心が一瞬で崩れ去った瞬間です…。<br /><br />物忘れが激しくなってもお腹は減るのでまずはお店に入ります。休みの日だと子供連れでやかましいのですが平日は気になりません。敢えて照明を控えめにしていることが落ち着いた雰囲気を醸し出しており、ファミレスの中ではポイント高いびっくりドンキーの店舗には間違いありません。オーダーも私の中の定番であるチーズバーグディッシュ300gですが、明日の朝までお腹がもつように今回はご飯も普通にしました。しか~しここでオヤジ殿からわがままな注文が入ります。ライスくれ~っと。人の食べているものを見ると欲しくなる性分なのでしょうが、自分が食べ〝切れる量〟を注文しろよ~ってのが私の言い分です。別にエサを取られると勘違いしたペットじゃないので差し上げましたが、やはり寝る頃にはお腹が減ってきました…チーン。<br /><br />兎にも角にもお腹も満たされ1時間程の滞在の後出発します。大垣まではバイパスでもその先はただの幹線国道である国道21号線、垂井・関ヶ原と徳川家に関連のある場所を通過し、滋賀県に入ると国道8号線と合流する西円寺交差点まで約一時間で走破します。そのまま大津方面へと進み、いつもの休憩場所となっているメガセンタートライアル彦根店に立ち寄ります。ここではいつもドラッグを仕入れているのですが、今日に至っては到着時刻が22:35とかなり遅い時間だったためにドラッグの販売は休止中となっていました。ディスカウントストアを含め多くの場所で市販薬を購入することができるのは便利にはなりましたが、登録販売者すら居なくなる時間帯はコーナー自体利用ができません。法律のしがらみはありますが、24時間営業と言い切れない部分があることは残念で仕方がありません。早く帰れと煩いオヤジ殿の嫌味もあり、一通り店内を見て回った後に一服して再び出発します。<br /><br />今回の旅そのものが十分な休養を取れないまま出発したため、14時間同じ姿勢で運転を続けていると体が固まってきてしまいます。そんな理由もあり、道の駅かがみの里竜王に立ち寄って一服に加えて体を動かしていたのですが、早く帰れとうるさいうるさい。とはいえB型のマイペース人間に言っても馬の耳に念仏です。適度に体を動かした後キレイに咲いている桜の姿をカメラに収めやっと出発します。起きていたら文句と小言しか言わないオヤジ殿のことゆえしばらく寝とけ~っと言い放った後に出発します。そして約30分で南淡海の自宅に無事に到着します。いつもコース通りの走りだと300kmに少し届かない距離となる旅路ですが、今回は僅かに超え315kmを走り切りました。ふ~っ…疲れた。そんなこんなの〝《2019.April》1day driving of Post Office in AICHI,without sightseeing.〟の旅路でしたが、日付は変わってしまったものの無事に帰ってくることが出来ました。<br /><br />マイペースな私にイライラしっぱなしのオヤジ殿、さあ次回はあるのでしょうか(笑)。<br /><br />《おしまい》

Part of Sightseeing edition,22nd 1day driving to Post Office in AICHI.

36いいね!

2019/04/09 - 2019/04/10

54位(同エリア196件中)

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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Part of sightseeing edition,2nd 1day driving to Post Office in AICHI.

本日のミッションは16:00を以て終了となりました。これからがフリータイムとなるのですがふと気付いたことがあり、調べてみました。小牧山西郵便局、住所なのかと思いきやそうでもない。じゃあなんだとなりますがズバリ小牧山の西にあるからという理由のようです。ならば~と言うことで立ち寄り地を決めて出発をします。

幹線道路に面している小牧山西郵便局からは歩いた方が早いのかも知れない程度の距離しかありません。確かに車だと迂回しなければならないルートではあっても数分のことで小牧山北駐車場に到着します。2時間まで無料の市営駐車場ですが夕方でもそこそこ車が停まっていました。日暮れの時間も考えなければならないため、車を停めるとすぐに行動開始です!

小牧山は桜の名所としても知られており先週末には桜祭りが開催されていたようです。ただ訪れた日がちょうど満開だったことから、少し早かったようにも思えます。よくテレビで見かける花見の景色が広がっている様はまさしく桜の名所でした。平日の夕方だったこともあり、数組の親子連れグループがどんちゃんやっていただけでした。

そんな麓の広場から山を登って行くことにします。途中界隈では小牧山のみに自生するタブノキやソメイヨシノをはじめとする桜の木々等が茂る登山道を歩いて行きます。標高は85m程しかないものの周りに視界を遮るものがないために小牧の市街地がよく見えました。

程なくして山頂に到着すると、頂上部に聳えるお城がありました。小牧市歴史観は戦国時代末期に建てられた小牧山城を模して作られています。残念ながら開館時間を過ぎているために入城は叶いませんでしたが、また改めて訪れたいと思いつつ今回は諦めるとします。山頂付近には往時の遺構も残っており、城好きには涎ものではないかと思いました。

そんな遺構と桜の花とのコラボレーションの景色を眺めながら頂上部を散策しつつ、400余年の歴史を頭の中での妄想(笑)で振り返ってみました。美濃攻めのために織田信長の手によって小牧山城は建立されました。美濃攻め終了とともに4年間で役目を終えましたが、本能寺の変で信長が横死した後の後継者争いのひとつである天正小牧合戦(小牧長久手の戦いのひとつ)に於いて徳川家康が羽柴秀吉を迎え撃つために陣城として改修し、戦略的勝利を収めたことで再び歴史上に再登場する事になりました。家康本隊が合戦に間に合わなかったものとして有名なところでは豊臣を滅亡させた大阪冬・夏の陣、それに天下分けめの関ヶ原の戦いは必ず挙げられます。この二つの戦いの結果徳川の世の中に至った理由として語られることが多いものの、実際には家康が陣頭指揮を執った戦いで勝利を収めた戦いがこの小牧・長久手合戦が最後であるがために、江戸時代になり幕府安泰のご時世に於いて頼山陽が〝家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり〟称したことからも間違いではないと理解できます。

また江戸幕府開府後は〝家康公御勝利御開運の御陣跡〟として聖地化され、御三家のひとつである尾張徳川家の領地として一般庶民の立ち入りが禁止されていました。明治に入り〝投出しの尾張侯〟こと尾張徳川家第19代当主徳川義親氏によって国に寄贈され史跡に指定されるた後に当時の小牧町の強い要望から町に寄贈され、城跡公園として一般に開放される場所となりました。しかし戦時中には軍の施設が設けられたことにより再び一般の立ち入りは禁じられることとなります。終戦後には再び小牧町が管轄する公園として一般に開放されることにはなったものの、徳川家からの寄付条件として小牧山の〝形状変更をしない〟との項目が盛り込まれていました。

その条件に戦後小牧山東側の史跡公園内に設けられた小牧中学校が条件違反だと騒ぎに至った経緯から平成10(1998)年に移転することになるも、昭和42(1967)年には名古屋の実業家平松茂氏によって山頂に復元小牧山城が作られて、完成とともに小牧市に寄付されていますが、それに対して特に問題視された様子もないのはやはり城跡公園としてビジュアル的にも城郭が必要だと解釈されたのかも知れません。そんな歴史ある場所にある中学校も景観を損ねるものでなければ良いようにも思うのは傍観者ならではの考えなのかも知れません。しかしその後新聞沙汰にもなった小牧市による老木の伐採と苗木の植樹の件はどうなんでしょうか?結局は自分たちの解釈は間違っていないという〝役人根性〟が引き起こしたトラブルをあちらこちらに責任転嫁をしてほとぼりを冷まそうとするのは、小牧山城所縁の人々の願いを反故にしているだけのように感じてなりません。

陣城として作られたものとしてそれほどの歴史的価値はないと判断されていた小牧山城ですが、その後の発掘調査の結果〝砦〟として織田信長が築城したのではなく、本拠地の清洲城から移り〝居城〟とするために作られていたこともわかっています。そして日本史上短い周期で起こっていた権力争いに伴う戦乱が、江戸時代という260年もの間平穏な時代が続くきっかけとなった〝聖なる場所〟であるならば、やはりそれなりの敬意を示し、その史実の遺構を正しく後世に伝えていかなければならない…そんな考えをふと感じました。確かに倒木の危険性をはらむ老木を除去し、新しく苗木を植えることで〝桜の名所〟としての面子は立つのかも知れません。しかし小牧山はあくまでも国指定の〝史跡〟であり、史跡の定義として遺跡の中でも歴史・学術的価値の高いもので国や自治体によって指定されるものとされており、小牧山も昭和2(1927)10月26日に文化財保護法の前身である〝史蹟名勝天然紀念物保護法〟の元、内務大臣鈴木喜三郎が決定を下したまぎれもない〝国の史跡〟のひとつとなっている史実がありました。

そんな重みのことを考えれば史跡(公園)が桜の名所となっている訳であって、桜の名所が史跡となったわけではありません。つまり桜の名所とするために史跡を壊すことは本末転倒の出来事にしかなりません。発掘調査をしたのも小牧市で史跡を壊したのも小牧市である…。史実解明のための発掘調査と桜の名所としての名声を高めるために苗木を植えるために城跡の遺構を破壊した。結果としてその両方に税金が投入されているとなると〝無駄遣い〟以外になにものでもないとしか思えません。小牧市民ではない私がいうことではないのかも知れませんが、どこもかしこも同じようなことをしでかしている事実に多くの納税者が気づかないといけないのでは…そう思ってしまったのは私だけでしょうか?

考えても始まらないので現実に視点を戻し、満開の桜の花々が咲き誇る中で隙間から見える小牧の市街地を眺めつつ頂上を歩いていると400年前の遺構が普通に転がっていることに気づきます。かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物ることも小牧山城の良いところなのかも知れません。残念ながら小牧城の小牧市歴史資料館は閉館していましたが、桜の花に囲まれるお城の姿はなかなかのものでした。また史跡公園となった小牧山を寄贈した徳川義親氏の像も建立されており、彼の小牧山の寄贈に端を発し、謎深き小牧城のことが発掘調査をする機会を得て徐々にわかってきた功績を称えているかの如く付近一帯を見守っている姿が印象的でした。そして頂上から下って行くと主郭跡等小牧山城の往時を偲ばせるものがたくさんあり、満開の桜の花の下400年前にもこの場所に於いて花見を開催していたかのような錯覚に陥るような景色が広がっています。城跡散策だけでもまだまだ行きたくなる場所がたくさんありましたが、先に山登りをしてきたオヤジ殿が愚図り始めたので今回はこれ位にしておきます。

私は上ってきた道を逆に下りて行きましたが、オヤジ殿は別ルートを辿ったようで見回す限り見当たりません。それをいいことに観音洞へと回り道をすることにしました。小牧山近くに移設された日本で唯一の〝お乳〟のご利益があるとされている間々観音堂が最初に建立された伝承の地とされています。身重の鹿を撃った猟師がその母鹿と子鹿の変化を見て撃ったことを悔やんで供養をしたことに端を発しているとのこと。撃たれた母鹿が観音様に、そして子鹿は7つの岩になった間々乳観音出現霊場とは、出来過ぎた話ではあれど鬱蒼とした木々の背景も加わるとなんとなく霊場らしいと感じるものもありました。時間の関係で間々乳観音堂までは行けないので、その場でしばし気を感じてから、再び上って来た道を下りて行きます。

小牧市の木とされているタブノキがここ小牧山にのみ自生していると市の概要にも書かれています。確かに登山道の脇に一本ポツンと立派なタブノキが立っていることを目にすると、なぜか不思議なものを感じずにはいられない気持ちになりました。ただ後から訪れた大手道途中の八幡社に建立された小牧所縁の戦没者を祀る忠魂碑があり、その傍らには閑院宮載仁親王と梨本宮守正王お手植えのタブノキというものも現存します。市の広報が小牧山にのみ自生するとは書いていますか、お手植えのものがどうして含まれるのかはわかりません。わかりづらい説明をするよりもズバリ小牧市小牧山史跡公園に育つタブノキと曖昧に述べてもいいのでは…と私自身は思います。

下山途中に桜の木々の隙間から覗く小牧の街並みを見ながら駐車場へと戻った後、車を回すようにして南麓へと向かいます。そして小牧公園の石碑が置かれている大手道を再び上り忠魂碑と愛宕社・八幡神社・白山神社・御嶽神社へと参り、最後に徳川源明(宗睦)公墓碑に向かいます。尾張徳川家第九代藩主徳川宗睦公の墓碑ですが、尾張藩中興の名君と称されるも晩年には行きすぎた改革により藩の財政状況が逼迫し、藩札の乱発を行った結果その後の尾張藩に於ける財政破綻のきっかけをも作り出してしまった名君なのか迷君なのか判断に困るお殿様ですが、元々は尾張徳川家の墓所は名古屋市の建中寺となっており、宗睦公の墓も境内に置かれていました。しかし第二次世界大戦中の名古屋空襲で街は灰燼に帰し、市内にあった寺の墓所も移転されることになりました。その際一家につき一石の墓碑となり、尾張徳川家も例には漏れず第七代藩主徳川宗春公の墓碑のみが対象となり、他の藩主の墓跡は廃棄される運命にありました。そこに現れたのが学者の津田応助氏でした。彼は他の藩主の墓碑が廃棄されることに異議を唱え、当時の当主であった徳川義親氏に頼み込んで一旦はすべての墓碑を移設させることに対し同意を得たものの後に破棄されてしまいます。敗戦後爵位もなくなった徳川家は既に一般住民と同じだとされての判断がされており、特別扱いもしないしされたくないといった考えがそのような結論となったことが日本国憲法下で〝当たり前〟となったことを象徴している出来事でした。

しかし移設先としていた当時の小牧町を巻き込んでのやり取りの結果、小牧に代官所を置くなどして発展に貢献した第九代藩主徳川宗睦公の墓碑を貰い受けられることとなり、昭和28(1953)年8月に小牧山南麓の現在地に墓碑を移設させることに成功しました。徳川家の世の中が終わってから僅か1世紀足らずで藩主の墓碑の価値も大きく変わってしまった現実ではあるものの、戦後復興を第一に考える国や自治体としては致し方ない選択肢だったのかも知れません。そんな紆余曲折があった後にこの地に落ち着いた墓碑を見て、さぞかし宗睦公もあの世で冷や汗をかいただろうと推測します。直接小牧山の歴史に描かれていない宗睦公の墓碑の来訪理由にこんな経緯があったことを知り改めて先人の苦労を知ることとなりました。宗睦公の所業も刻まれている石碑にも興味はあったのですが、さすがに陽も暮れ始めてきたので手を合わせて大手道を下りて行くことにしました。

南麓がメインであることを知り、桜のシーズン真っ盛りであることも加えればこれからがお花見タイムなのかも知れません。しかし私達には帰宅というミッションがまだ残っています。未練はあれど仕方がないのでキリのいいところでケリをつけて帰宅の途につくことにしました。

私が小牧山南麓を散策する間オヤジ殿は近くのV・drug堀の内店をウォッチしていたのでそこからの出発です。愛知県道197号線から国道155号線へと入り、小牧市から岩倉市を経て一宮市に向かいます。途中ローソン一宮緑三丁目店に立ち寄ってコーヒーブレイクと一服タイムをとりますが、ちょうど帰宅時間と被ってしまい9kmの道のりに40分もの時間を費やしました。

一息ついて出発し、国道22号線名岐バイパスも渋滞こそしていないもののぶっ飛ばすこともできないレベル・・・。それでも一度利用したことのある出光リテール販売セルフ高田西SSに立ち寄り、まずはイストくんにご飯を食べさせます。満腹になったらお風呂に入れて、ザーッと汚れを洗い流した後に借りたタオルできれいキレイに拭き上げます♪

イストくんが満腹&キレイになったら次は人間の番。しか~しいつものメンバーはグルメでない二人ゆえに〝地の物〟ではなく気軽に食べられるものでチョイスをします。オヤジ殿の一声でびっくりドンキーに決めるも、リクエストは大垣南店。でもナビの地図を見る限りバイパスからは離れなければならない場所のように感じた私はとりあえず走ってから考えることを提案します。岐阜六条店は岐大バイパス沿いだけど店舗は右側…。なんて考えているうちに時間が過ぎるので最後に付近を調べると岐南店を発見します。一旦国道156号線へと入るもそのまま岐阜県道77号線若しくは少し戻って岐大バイパスへ入れることがわかり鶴の一声ならぬたかティムの一声で決定し早速向かいます。岐阜や愛知へと向かった後に一般道で帰る際には必ず通っている道だということもあり、初めてのお店とばかり思っていたらまさかの再訪だった様子。2年前に来店済みとの記録はあれど残念ながら記憶にございません(汗)。一度訪れた場所を忘れることはないとの自負心が一瞬で崩れ去った瞬間です…。

物忘れが激しくなってもお腹は減るのでまずはお店に入ります。休みの日だと子供連れでやかましいのですが平日は気になりません。敢えて照明を控えめにしていることが落ち着いた雰囲気を醸し出しており、ファミレスの中ではポイント高いびっくりドンキーの店舗には間違いありません。オーダーも私の中の定番であるチーズバーグディッシュ300gですが、明日の朝までお腹がもつように今回はご飯も普通にしました。しか~しここでオヤジ殿からわがままな注文が入ります。ライスくれ~っと。人の食べているものを見ると欲しくなる性分なのでしょうが、自分が食べ〝切れる量〟を注文しろよ~ってのが私の言い分です。別にエサを取られると勘違いしたペットじゃないので差し上げましたが、やはり寝る頃にはお腹が減ってきました…チーン。

兎にも角にもお腹も満たされ1時間程の滞在の後出発します。大垣まではバイパスでもその先はただの幹線国道である国道21号線、垂井・関ヶ原と徳川家に関連のある場所を通過し、滋賀県に入ると国道8号線と合流する西円寺交差点まで約一時間で走破します。そのまま大津方面へと進み、いつもの休憩場所となっているメガセンタートライアル彦根店に立ち寄ります。ここではいつもドラッグを仕入れているのですが、今日に至っては到着時刻が22:35とかなり遅い時間だったためにドラッグの販売は休止中となっていました。ディスカウントストアを含め多くの場所で市販薬を購入することができるのは便利にはなりましたが、登録販売者すら居なくなる時間帯はコーナー自体利用ができません。法律のしがらみはありますが、24時間営業と言い切れない部分があることは残念で仕方がありません。早く帰れと煩いオヤジ殿の嫌味もあり、一通り店内を見て回った後に一服して再び出発します。

今回の旅そのものが十分な休養を取れないまま出発したため、14時間同じ姿勢で運転を続けていると体が固まってきてしまいます。そんな理由もあり、道の駅かがみの里竜王に立ち寄って一服に加えて体を動かしていたのですが、早く帰れとうるさいうるさい。とはいえB型のマイペース人間に言っても馬の耳に念仏です。適度に体を動かした後キレイに咲いている桜の姿をカメラに収めやっと出発します。起きていたら文句と小言しか言わないオヤジ殿のことゆえしばらく寝とけ~っと言い放った後に出発します。そして約30分で南淡海の自宅に無事に到着します。いつもコース通りの走りだと300kmに少し届かない距離となる旅路ですが、今回は僅かに超え315kmを走り切りました。ふ~っ…疲れた。そんなこんなの〝《2019.April》1day driving of Post Office in AICHI,without sightseeing.〟の旅路でしたが、日付は変わってしまったものの無事に帰ってくることが出来ました。

マイペースな私にイライラしっぱなしのオヤジ殿、さあ次回はあるのでしょうか(笑)。

《おしまい》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
家族旅行
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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