2018/09/11 - 2018/09/11
10位(同エリア113件中)
さっくんさん
スロベニアのコトルからイタリア・トリエステに移動しました。
トリエステの街を散策し、今回も旅の終着駅ヴェネツィアに移動しました。
ヴェネツィアでは、前回修復中で見る事が出来なかった、アカデミア橋からの展望を修復が完了していた事で眺める事が叶い、予期せぬやりなおしが実現しました。
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コペルを後にします。
コペルからトリエステへは結構多くのバスが走っていますが、7時半の次は10時とかなり時間があったので、頑張って7時半を選択しました。 -
朝焼けのコペル・バスターミナル。
以前ユーゴスラビア連邦の時代はクロアチアとスロヴェニアの移動にはパスポートチェックの必要は無かった筈です。
勿論現在は別の国なのでチェックされます。
一方、嘗てはスロヴェニアとイタリアの国境は別の国、別の主義と言う壁に阻まれていましたが、スロヴェニアが独立、EUとシュゲン条約に加盟した事により、パスポートチェックさえ必要なく、文字通り素通り出来ます。
思わずボブ・ディラン氏の時代は変わるを口ずさみたくなります。 -
トリエステに到着と共に市バスに乗り換えて、郊外の見所、ミラマーレ城を訪れました。
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ミラマーレ城の周辺は鳥達の天国でした。
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カモメさんが出迎えです。
「ようこそイタリアへ!」
カモメさん、今回の旅では良い味出して頂きました。
ありがとう! -
海鵜さんも登場です。
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純白の城がアドリア海に良く映えます。
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青い海に純白の鳥達が飛び交う。
私だってお金があれば、こんな場所にお家を建てたくなるでしょう。 -
お城のテラスからアドリア海を眺めました。
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下を見下ろすと、大変な事になっていました。
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海では、美しくも残酷な光景が繰りひろげられていました。
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この美しい城に暮らす城主にも、残酷な運命が待ち受けていたのです。
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オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがこの城を建造しました。
しかし築後数年でフランスのナポレオン3世の要請により遥か離れた、メキシコ皇帝の座に就く事になりました。
しかし彼のメキシコ統治は上手く行かず、現地で処刑されてしまったのです。 -
残された婦人シャルロッテは夫の無念と共にこの城に戻りましたが、ナポレオン3世やローマ法皇へ援助を要請するも上手くいかず、心を病んで余生を過ごしたと言われます。
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今回は、ヴェネチアのリド島を訪れる時間が無いので、美しかったアドリア海を眺めるのもこれが最後の機会です。
アドリア海にありがとう!
また逢おうね! -
トリエステ駅前にはオーストリア帝国の皇后エリザベートの銅像が建つ事でも解る通り、オーストリア帝国の影響が色濃く残る街であり、一方一番イタリアらしくない街とも言われます。
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Chiesa Luterana Evangelicaと言う教会です。
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グラン・カナルです。
トリエステはこれまで巡ってきたヴェネツィア色が色濃い街と違い、オーストリア帝国の影響が強く残る街です。
帝国が帝国の外港として威信をかけて築いただけに、まるでウィーンの様な街並みが広がっています。 -
トリエステはカフェの発祥の国、オーストリア帝国が力を注いだ街なので、カフェが有名な街なのだそうです。
と言う訳で、ちょっと奮発して1EUROお高いエスプレッソを頂きました。
どれだけ美味しいのでしょう?
口にした私は松田優作さんばりに
「なんじゃこりゃ~!」
と叫びそうになりました。
口からゴジラみたいに放射能吐きそうです。
ジンでしょうか?
ウォッカでしょうか?
強烈なお酒が入っています。
普段お酒を飲まない私はビックリ仰天です。
1EURO高かったのは、そう言う事だったのですか…。
知らなかった!
でも飲んべえさんには良いかもです。
これなら仕事中でも、誰もお酒飲んでるとは気付きません。 -
近接した街なのに、造る国が違うと街の景観もこれ程変わるものなのかと驚くしかありません。
理路整然とした街並み、帝国らしい威風堂々と威圧感さえ感じる建築。
今までイストラ半島で見てきた風景を裏返しにした様な世界観です。 -
まるでウィーンの何処かを歩いている様な重厚な建築を抜けて…。
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サンタ・マリア・マッジョーレ教会が見える丘を登ってサン・ジュスト城へ向かいます。
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丘の上はイタリアらしさが残る界隈となっていました。
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街角にローマ時代の遺跡が残っています。
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ローマ時代の遺構の先にサン・ジュスト大聖堂が見えます。
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サン・ジュスト大聖堂の正面です。
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教会の絵画です。
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モザイクです。
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彫刻もありました。
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サン・ジュスト城の入口を間違え、裏手の資材搬入口に辿り着いてしまいました。
働いていた係員に道を尋ねたら、此処から登りなよと資材搬入用のエレベーターに乗せて貰いました。
な訳で、私は資材の身になって、資材搬入エレベーターから入城です!
お兄さん、ありがとう! -
サン・ジュスト城からトリエステ中心部を眺めました。
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ミラマーレ城も見えました。
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戦没者記念碑方面の眺めです。
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これまでイストラ半島の小さな街を旅して来たので、これだけ大きな街の展望に思わず眩暈を感じてしまいました。
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サン・ジュスト城からサン・ジュスト大聖堂を見下ろしました。
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後ろから見たサン・シルヴェストロ教会。
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ウニタ・ディタリア広場にやってきました。
トリエステの中心となる広場です。 -
広場の回りは帝国の威信に満ちた威厳のある建物が取り囲んでいます。
写真は政庁舎です。 -
ロイド保険トリエステ館。
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ウニタ・ディタリア広場の全景です。
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前回の旅ではスロベニアからイタリアへの国境はゴリツァを経由しました。
ゴリツァは第二次世界大戦後東西に街が二分されましたが、此処トリエステも東西分断の最前線の街として激動の近代史を辿った街でもあります。
オーストリア帝国からイタリアへ、ユーゴスラビアとイタリアとの領土紛争を経て国連管理、そして最終的にイタリアへと戻り今日に至る。
同じ場所にただ暮らしているだけで、ころころ国籍が変わってしまった人も数多くいた事でしょう。 -
これぞハプスブルグ家って言う建築です。
マリア・テレジア・イエローが施されています。 -
列車に乗り込み、今回の旅の終着駅ヴェネチアへと移動します。
今回ヴェネチアは、やりなおしを想定していませんでしたから、現地発は未訪のミラノ等でも良いかなとも思いました。 -
ですが、海に浮かぶ美しいヴェネチア共和国の街の数々を訪れたのなら、旅のフィナーレはアドリア海の女王ヴェネチアを抜いては成り立ちません。
ヴェネチア・サンタルチア駅到着です。 -
この風景を眺める度にキタァーー!
と言う直情的感情と
還ってきあぁ!と言う
ジンワリと滲む様な感情が入り乱れます。 -
結構素っ気無いデザインのサンタルチア駅。
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とは言ってもヴェネチアに訪れたのは前回が25年ぶり二度目、2ヶ月置いて今回が3度目、決して良く訪れると言う場所ではありません。
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だけど、此処には書ききれない様々な経緯から私にとってヴェネツィアは思い入れの深い特別な街なのです。
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「ヴェネツィアは世界でひとつしかない街だ。」
とヴェネツィアの人は自分の街を誇るとヴェネツィアを書いた本に書かれていました。
大抵なら、そうした自慢は何処の街の人だって自分の街を誇りに思うものだからと流して聞いてしまうものですが、私はヴェネツィアに関してだけは深く頷いてしまうのです。 -
さて、此処から迷宮に突入します。
無事ホテルまで辿り着けるでしょうか?
ワクワク! -
運河の街、水辺の街は世界各国に存在します。
私も路地が多い運河の街に産まれました。
(今は見る影もあありませんが…。)
水辺の街は大好きですし、訪れたいずれの街も素敵な街でしたが、◯◯のヴェネツィアって触れ込みに期待してその街を見てしまうと
「それは違うよ!」
と思えてしまうのです。 -
「そこのお二人さん!
ゴンドラは如何?」 -
運河はあるけど、そこの脇を車がビュンビュン走っていたり、運河を行くのは最早観光の船だけだったり…。
そして大抵が碁盤目状だったり放射状だったり整然とし過ぎているのもヴェネツィアとは言い難い…。
と其処まで考えてふと疑問が生じました。
運河と言えば人が掘った河の事です。
人が掘ったからには意味があると言う事です。
であるならば、運河が整然と掘られているのはある意味当たり前な事で…。
ならばどうしてヴェネツィアの運河はまるで迷宮の様な掘られ方をしたのでしょう?
いったい誰が、何の為にこんな設計にしたのでしょう? -
その答は塩野七生先生の著書「海の都の物語」の冒頭に記されておりました。
なんと運河の設計は人では無いのです。
ヴェネツィアの運河は大自然が設計したのです。
人の意図が含まれていないから、人の意図を探り当てようとしても無駄だったのです。
でもまだ疑問は残ります。
干潟に住むならいっそ埋め立ててしまえば良いのに!
船を通すなら、通り易い様に整然と掘り治せば良いのに!
なんでこんなややこしい運河のまま、ヴェネツィアの人は暮らしてきたのでしょう? -
その答を明かすにはヴェネツィアの歴史を紐解く必要がありました。
ヴェネツィアの祖先は以前は大陸に暮らしていました。
しかし異民族の侵入から逃げる為、彼等は人の暮らすには厳しい干潟(ラグーナ)に逃げ込んだのです。
異民族は奪ってもあまり意味の無い干潟を通り越していきました。
以来、ヴェネツィア人はトルッチェロ島を住み処とし、干し魚や塩の交易で生計を立てて暮らす様になったと言います。
写真はスクオーラ・グランデ・サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタです。
スクオーラとはヴェネツィアでは、聖母や守護聖人の信徒のグループや集会所の事(同信組合)。 -
しかし、そんな細やかな生活もフランク王国の攻撃に晒されヴェネツィアは空前のピンチを迎えます。
その攻撃をヴェネツィアは辛うじて撃退する事に成功したものの、最早陸地に近いトルッチェロ島ではこの先危険と彼等は判断しました。
そんな矢先第二の危機が彼等を襲いました。
干潟は水が滞留し易く、滞留した水は不衛生な環境を作り、そこから蚊が大発生、それが原因でマラリアが流行し多くのヴェネツィア人が命を失ったのです。
こうなったら最早引っ越しするしかありません。
彼等はラグーナの奥深くに引っ越しをしました。
それが今日のヴェネツィア本島です。
あの姿はサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会!
とすれば大分ずれた道を歩いています。
立て直さなくては! -
彼等は本島で暮らし始めるに至って、一番重要視した事がラグーナの水を滞留させない事でした。
だから本島の地形そのままを大切にしたのです。
高い部分を整地し、自然に水路となっている部分を掘り下げて運河としました。
こうしてヴェネツィアが出来上がったのです。
全部埋め立ててしまったり、人の利便性だけで運河の流れを変えてしまう事は、水の滞留を招いてしまう危険性があった為、そうする事が出来なかったのです。
つまり、ヴェネツィアはヴェネツィア人の途方も無い努力の結晶で産まれた人工の街であると共に、それを設計したのは大自然であるとも言えるのです。 -
水路の迷宮こそ大自然が作り上げたものでしたが、地上の島に張り巡らされた道もまた迷宮の様に複雑怪奇に入り組んでいます。
勿論道は人が意図して引いたものです。
ならいったいどうしてこんな迷宮の様な道なのでしょう。
そのまるで迷宮の様に見える道は、どこを彷徨ってもいずれは小さな広場(カンポ)に出ます。
そこには必ず井戸が掘られ(水を汲むのでは無く、雨水を貯め濾過する為の井戸。)大抵教会が建てられています。
迷宮には一定の法則があり、あながち適当ではありません。
私はこんな構造の街を良く旅していました。
まるっきり別世界の旅だと思っていましたが、迷ってしまう感覚も、広場に出てホッとする感触も非常に良く似ています。
それは私が以前好んで旅をした中国の西から、アフリカのサハラ砂漠を越えた国にまで広がる、イスラームの街の構造です。 -
私は見る機会に恵まれませんでしたが、ヴェネツィアの邸宅には中庭を持つ家も多いとの事。
中庭(パティオ)を築くのはイスラーム建築の特色でもあります。
イスラームの街は敵からの防衛の為迷路の様に入り組みますが、一定の感覚で広場が設けられ、そこには必ず水呑場が設けられ、モスクが建ちます。
我々には一見無計画に引かれた様に感じられても、実は巧妙に計算された迷宮なのです。
やっぱり似ています。
偶然でしょうか?
ロヴィニで多く見た、建物と建物を繋ぐ洗濯物の干し方は、本家ヴェネツィアでも同様でした。 -
サン・ジャコモ・リアルト教会が見えてきました。
リアルト橋もすぐ側です。
リアルト界隈はヴェネツィア本島に引っ越してきたヴェネツィアの人々が街を作り始めた、現在のヴェネツィアの発祥地であり中心地です。
その後政治の中心はサンマルコに移りましたが、現在も経済の中心に変わりがありません。 -
ヴェネツィア共和国がオリエントと交易をし、運ばれた品の数々は、リアルトに持ち込まれ品物別の港で陸揚げされました。
そこにはそれぞれの市が建ちました。
現在でも魚市場があり当時の活況ぶりを垣間見れます。
また各国の商館も建てられ、其処で売買された商品が、それぞれの国へと送られました。
現在ドイツ商館跡は改装されDFSとなっており、違った形で商館になったとも言えるでしょう。 -
ヴェネツィアを書いた陣内秀信さんの著書を見て驚きました。
ヴェネツィア地方の方言で商館の事をファンダコと呼ぶのだそうです。
それを知って、次の文章を読む前に私はピンときました。
ファンダコはアラブ世界で言うフンドックから来ていると。
フンドックとは隊商宿と取引場が合わさった商館の様なもので、大抵バザールに併設されています。
フンドックが訛ってファンダコとなり、海洋交易都市であるヴェネツィアでは船が到着するリアルト周辺に建てられる様になったのです。 -
リアルト橋からカナル・グランデを眺めます。
嘗て此処にはオリエントから様々な物資が流れ込み、そこからヨーロッパ各地に品物が売られていきました。
当時のオリエントと言えばそれは東方正教会圏とアラブ圏を指します。
違う世界と言いましたが、彼等はアラブと常に交易を交わしていたわけで、その世界観が紛れ込んでいても何ら不思議では無かったのです。
得るものが乏しい砂漠に暮らし、交易に生きる糧を求めたアラブの民と、此方も同様得るものが乏しいラグーナに追い込まれ、海洋交易に未来を求めたヴェネツィアの人々が地中海で出逢いを遂げた…。
歴史のロマンを感じずにはいられません。 -
逆さま側からカナル・グランデを眺めました。
見渡す風景も、並び建つ教会も、そしてそこに描かれた名画達も、紛れもないヨーロッパの風景です。
それ以上にヨーロッパを代表するものと呼んでも良いかもしれません。
しかし、その中に派手でこそ無いものの濃厚にオリエントが溶け込んでいました。
沢木耕太郎氏は深夜特急で東洋と西洋の交わる場所をイスタンブールと書き表しましたが、ヴェネツィアもまた、西洋と東洋が織り重なる街なのだと私は感じました。 -
私はこうした様々な文化や歴史が重なり合う様な街を歩くのが大好きです。
やりなおしの旅の元となった前回の旅も、バルカン半島と言う三つの宗教が折り重なった地域に魅力を感じての旅立ちでした。 -
運河の向こうに鐘楼が見えました。
此処まで来れば、ホテルもニアピンでしょう! -
前回仮面を購入したお店を覗いてビックリ!
中央に飾られているのは前回手に入れた女性の仮面の御主人に違いありません。
ご婦人独りじゃ可哀想ですし…。 -
無事ホテル・カネヴァを探し当てました。
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なんと、部屋の古めかしい木戸を開けると、部屋の前をゴンドラが横切って行きました。
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どうやら、部屋の前の運河はゴンドラのメインルートの様です。
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運河に面した搬入口の真上が私の部屋です。
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私の部屋の目の前に建つ由緒ありそうな建築は郵便局だそうです。
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ゴンドラが静かに運河を進んでいきます。
ロヴィニ、ピラン、イゾラ…私が今回の旅で訪れたイストラ半島の旧市街、そして此処ヴェネツィアに共通する事のひとつに車が走らないと言う事があります。
信号待ちに苛々する事も無い。
陸橋を登らされる事も無い。
それ以上に背後の車にビクビクしながら道を歩く必要も無い。
そして何より騒音が無い。
車の無い空間は、思っていた以上にリラックス効果がありました。
車の無い生活空間と言うものにとても興味を持ちました。
日本では考えられない事でもありますが。 -
なんと!泉ピン子さん、ヴェネチアに進出!
ブランドなんて知らない私は、マジでそう思ってしまいました(笑)
自分のホテルを探すのに、良い目印になってくれました。 -
カンポ・サント・アンゾロに出ました。
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コンサートホールにも利用されるサン・ヴィダル教会を通り過ぎればアカデミア橋も目の前です。
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思わず声をあげそうになりました。
前回修復中で覆われてしまい、何も見る事が出来なかったアカデミア橋の修復が終わっていました。 -
アカデミア橋から眺めるカナル・グランデの眺めはヴェネチアに無くては成らない風景の一つです。
行き交う船がまるで水澄ましみたいです。 -
あんまりに嬉しくて、渡りきった後振り返れば、橋の下からサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が見えました。
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橋の上から眺めても、橋の下から眺めても、やっぱり美しいものは美しいです。
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写真では何処も変わらなく映るヴェネツィアですが、実際歩くと地域によって雰囲気は変わります。
私はアカデミア美術館がある学生街っぽい雰囲気がある界隈が結構お気に入りです。 -
仮面屋さんがありました。
仮面大好きな私はつい見入ってしまいます。 -
ヴェネツィアには思った以上に、至るところに教会がありました。
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何気無い風景のひとつひとつも捨てがたいのがヴェネツィアの街の良いところです。
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歩き方にも乗っている仮面屋さんカ・マカーナを訪れました。
この仮面屋さんをチェックする為、アカデミア橋を訪れ、橋の修復が終わっている事に気づきました。
来てなかったら私は大きなミスをおかすところでした。 -
夕暮れが近づきました。
アカデミア橋に向かいましょう。 -
アカデミア橋から黄昏るカナル・グランデを眺めます。
いつから修復作業をしていたかは解りませんが、イタリアにしちゃ修復が早いな!
グッドジョブだよと思いもしなかった修復完了を喜びましたが、イタリア?と思ってちょっと首を傾げてしまう私。
私はヴェネツィアにいる事を当然認識しているのですが、イタリアにいる実感が全然しないのです。
何故なら私は今、ヴェネチア共和国にいるのです。
ヴェネチア共和国を旅してきたのです。
其処にイタリアは介在しません。
私は最早歴史の中を旅するモードに浸っていますから。
でもイタリア共和国のヴェネチアの時代より、ヴェネチア共和国だった時代の方が遥かに長いのも事実です。 -
カナル・グランデをゴンドラの隊列が横断しています。
これはトラゲットと呼ばれる渡し船です。
カナル・グランデには4本しか橋が無いので場所によっては非常に便利です。
私は前回サンマルコからサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会へ向かう時に利用しました。
ちょっとしたゴンドラ乗船を味わえます。 -
昔、此処がヴェネツィア共和国と呼ばれていた時代も、今と変わる事無くこの運河を数多くの船が行き来していた事でしょう。
その中にはアドリア海を南を目指し、遥かコンスタンティノープルやアレキサンドリアを目指した船団もあった事でしょう。
その船団の安全を守る為、ヴェネツィアはアドリア海沿岸の街を支配し、高速道路に於ける道の駅の様な役割を与えました。
こうして築かれたアドリア海沿岸の美しい街の数々。
その中でもヴェネツィア共和国のお膝元であるイストラ半島の街を巡りながら私は旅を続けて来ました。 -
そして、そのゴールでありスタートであったヴェネツィアでカナル・グランデを行き交う船を見下ろしています。
歴史好きの私にとって感無量なひとときです。
時の過ぎるのを忘れ、ひとしきりアカデミア橋の欄干を握り締めていました。 -
すっかり夜も更けてまいりました。
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左側は天国、右側は地獄。
ドゥカーレ宮殿と牢獄を繋ぐ溜め息の橋。 -
ヴェネツィア共和国の政治、宗教の中心サンマルコ広場です。
正面に建つサンマルコ寺院はカソリック寺院ながら東方正教会であるビザンティン様式を大幅に取り入れて建てられています。
こうした中庸な姿勢はデザインだけでは無く、宗教と政治にも及びました。
現在でこそ総主教座が置かれる大聖堂でありますが、共和国時代は総主教座はヴェネツィアの隅に置かれていました。
この事はヴェネツィアが敬虔なカソリックではあるものの、政治的にはローマ法皇庁の下には与しないと言う姿勢を表したものと言います。
ヴェネツィアはローマ法皇庁と距離を置いた結果、聖地奪還だとか、魔女狩りを始めとした異端迫害とか、ガリレオ・ガリレイを始めとした宗教裁判だとか、キリスト教の黒歴史と殆ど無縁でいれました。
そればかりか当時発禁処分だったガリレオの書物もヴェネツィアでは自由に読めたそうです。
ヴェネツィア共和国は当時のヨーロッパで一番現実主義であり、一番自由な国であったと言えるでしょう。 -
闇夜にサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会がぼんやりと浮かび上がっています。
ペストの驚異に怯え続けたヴェネツィアが、ペストの猛威の終焉を神に感謝し築かれました。 -
夜のカンポ・サンタ・マリア・フォルモーザとサンタ・マリア・フォルモーザ教会。
此処界隈はヴェネツィアでも下町風情を残す界隈で、前回の宿が此処周辺にあったので思わず立ち寄ってしまいました。 -
誰もいなくなった夜の路地裏の迷宮を歩いていると、ふと自分がいつの時代、何処の街を歩いているか解らなくなります。
ふと曲がり角を曲がったら、ダマスカスに通じていたり、エルサレム等今まで訪れた中東や地中海沿岸の街に繋がっていても不思議では無い様な気がします。 -
スクオーラ・グランデ・サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタの近くで発見した安い食堂で、シーフード・スパゲッティを頂きました。
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Corte dei contiを回り込んだ場所から眺めるリアルト橋が私のお気に入り。
昼にはゴンドラのコースになっているのか、リアルト橋を潜って此方に向かってくるゴンドラは殆どCorte dei contiすれすれを通っていくので、ゴンドラの迫力ある写真が撮れますし、失敗してもまた直ぐ次のがやって来ます。
勿論ゴンドラがいなくても落ち着いてリアルト橋を眺められるので大好きな場所です。 -
リアルト橋の上から夜のカナル・グランデを眺めます。
私は交易に生きた国々を旅するのが好きです。
彼等が交易した旅先が次の目的地になったりもします。
モロッコの砂漠で、サハラ砂漠を旅した商人達がいた事を知り、その旅先であったマリのトンブクトゥが私の目指す先になりました。
さて交易の道は次に私を何処へ導いてくれるのでしょう? -
様々な経緯を経て今はイタリアの国境の街となっているトリエステ。
オーストリア帝国を彷彿させる威風堂々とした街並みは、ヴェネチア一色だった旅に新鮮な薫りとなってくれました。
トリエステの街にありがとう!
バルカン半島の旅を通じて、東方正教会、イスラーム、カソリック、三つの宗教と文化が入り交じる地域を旅してきました。
そんな旅の終点に、その三つの要素が折り重なるヴェネツィアと言う街は相応しい街だったと言えるのではないかと思いました。
ヴェネツィアの初日にありがとう!
そして最後までご覧になってくださりありがとうございました。
明日もヴェネチア散策を続けます。
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