2018/08/07 - 2018/08/15
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worldspanさん
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この旅行記のスケジュール
2018/08/10
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ウラジカフカスホテル
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ムフタロフモスク
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プロスペクト ミール大通り
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ウラジカフカス駅
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カフェ バルセロナ
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旧プラネタリウム
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イロンシアター
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ツム百貨店
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アリエフ像
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青の教会
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アルメニア教会
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ウラジカフカスホテル
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北コーカサスの旅行でどうしても行きたい場所があった。それは北オセチア第三の町、ベスランで起こったチェチェン人などによるベスラン学校占拠事件の慰霊碑。
1999年にチェチェンの過激派がダゲスタン共和国に侵攻することで始まった第二次チェチェン戦争は、第一次チェチェン戦争で事実上敗北したロシアが入念に準備をし、制空権を利用して圧倒する。指導者がエリツィンからプーチンに代わったロシアは独立を目論む過激派を追い込んでいく一方で、チェチェンからマスメディアを一切遮断し、徹底的なロシアの無差別による攻撃により多くのチェチェン人が犠牲になった。
激しい戦争により、疲弊したチェチェン人の中にはロシアとの講和を求めるものもいれば、激しい憎悪にかかれる者もおり、第二次チェチェン戦争の頃からチェチェン国内は顕著に分裂しはじめた。
前者は現在のチェチェン共和国の首長カディロフの父親、故アフマド・カディロフ元大統領であり、ロシアの力を借りて反対派を一掃した。
後者はバサエフを筆頭とする過激派で、テロという形で示したが、様々なテロを起こし、2004年5月にはカディロフ元大統領を爆殺した。そして、2004年9月1日にベスランの学校を狙ったテロ活動もその一つだった。因みにバサエフは2006年にイングーシ共和国内に潜伏中にロシア連邦軍の急襲を受け殺された。
2004年9月1日は小中学校が一緒になったベスラン学校の入学式の日だった。この日、約30名ものチェチェン人や中東などからの外人傭兵部隊がイングーシ共和国からトラックに乗って学校を襲撃し、1100名以上の子供や入学式に参加していた両親が人質になった。人質は爆弾が設置された体育館に押し込められ、風通しの悪い暑さのなかで水や食料も殆ど与えられず悲惨な状況であったといわれる。
武装勢力の中には非人道的な行為に批判したチェチェン人もいたが、彼らは仲間に殺されてしまう。学校の体育館に押し込められた暑さで疲労がピークになっているなか、9月3日に体育館での爆発音をきっかけに連邦軍は突入し、外で待っていた銃等を持っていた親たちもテロリストに襲い掛かった。親たちの怒りはすさまじく、テロリストは四肢を裂かれて殺された。
この突入による被害は甚大で、人質1100名のうち386名が犠牲になった。
今回の旅では学校の建物にも行きたかったが、運転手への説明の仕方が悪かったせいか、慰霊碑と集団墓地しか行くことができなかった。小学生の子供たちがこうして犠牲になったことに、とても胸が詰まった。
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8/7 KIX JL220 6:35 -HND 7:40
羽田空港からリムジンバス 7:55- 成田空港第2ターミナル9:00
NRT JL421 10:40 - DME15:00
ドモジェドヴォ国際空港からアエロエクスプレス→地下鉄5号線→アエロエクスプレスでヴヌコヴォ国際空港へ
8/8 VKO UT559 0:45 - MCX3:15
朝方は首都のマハチカラ市内を周遊
10:00車をチャーターし、アヴァール人の村、カヒブへ。
マハチカラに19:30着
8/9 7:00車をチャーターし、世界遺産の町、デルベントへ。デルベントを12:30に出発しチェチェン共和国の首都、グロズヌイへ17:00着
8/10 10:30車をチャーターし、イングーシ共和国を通って北オセチアーアラニア共和国の首都、ウラジカフカスへ12:30着
その後ウラジカフカスを散策。
8/11 10:00車をチャーターし、イングーシ共和国の山岳部をリクエストしていたが、結局北オセチアとイングーシの紛争等による感情的な問題からイングーシに行くことを拒否され、北オセチアの以下のルートに変更
ウラジカフカス→カルダガヴァンスキー渓谷→ドジフギスのスカリナヤクレポスチ遺跡→ヴェルフニー・フィアグドン→ダルガフスの「死者の町」→ギゼリのパーミャトニク・ペトル・バルバショヴ→ウラジカフカス17:00着
8/12 車をチャーターし、ベスランのメモリアリノエ・クラドビシェへ。
OGZ S7 882 13:55-DME16:20
モスクワ市内を散策
8/13 モスクワ市内を散策
0814DME JL422 17:10-
0815-NRT8:35
HND12:30-13:30
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今回訪れている北コーカサス諸国の場所をおさらい。コーカサスは黒海とカスピ海の間に位置するエリアで、ヨーロッパで最も標高の高い5000メートル級の山がそびえるコーカサス山脈がコーカサスを南北に分断している。
南コーカサスにはソ連から独立したアルメニア共和国、グルジア共和国、アゼルバイジャン共和国の他、グルジアから独立宣言したアブハジア共和国、南オセチア共和国、アゼルバイジャンから独立宣言したナゴルノカラバフ共和国がある。
一方北コーカサスにはロシアから独立宣言し、長い間北コーカサスの政情を揺るがせたチェチェン共和国、ダゲスタン共和国、イングーシ共和国、北オセチア-アラニア共和国等が位置し、何れもロシア連邦を形成する。
今回の旅では北コーカサスの上記4か国を旅した。 -
ルートはブルーのルートで旅をした。ダゲスタン共和国の首都マハチカラからスタートし、ダゲスタンの山岳部や世界遺産のある町、デルベントに訪れた後、北上してチェチェン共和国、イングーシ共和国を経て、北オセチア-アラニア共和国の首都ウラジカフカスに達した。北オセチア-アラニア共和国は名前が長いので一般的に「北オセチア共和国」とも言われている。
北コーカサスはチェチェン戦争の影響によるテロが多発し治安も悪かったが、現在は治安も良好となり、安定している。
北コーカサスには数十もの北コーカサス系民族やイラン系、トュルク系民族が居住し、ダゲスタンだけでも35の民族にも及び、その殆どが独自の言語をもつ。
宗教はイスラム教が非常に多いがコーカサスには世界で最初にキリスト教を受け入れたアルメニアや2番目に受け入れたグルジアがあり、正教会の影響も大きい。北オセチア共和国はイラン系民族が多く、大半がロシア正教を信仰する。ロシアとの関係が微妙な北コーカサス諸国ではあるが、北オセチア共和国はロシアとの関係も良好だ。しかしこうしたことが周辺諸国から疎まれる原因ともなっている。
北オセチア共和国とグルジアから独立宣言した南オセチア共和国は同じイラン系のオセット人で、両国は合併し、南オセチア共和国はロシアへ併合されることを望んでいる。
なお、南オセチア共和国へのアクセスは北オセチア共和国からでも可能 -
北オセチア-アラニア共和国共和国では前編で紹介したようにジフキスの洞窟要塞、ヴェルフニー フィアグドンの遺跡、ダルガフスの「死者の町」を巡った。
今回は首都のウラジカフカスと北オセチア第3の町、ベスランを取り上げる。 -
チェチェン共和国の首都、グロズヌイで車をチャーターして北オセチア-アラニア共和国の首都、ウラジカフカスへ。ドライバーは翁だ。途中で大雨が降り、ずぶ濡れで歩いていたオセット人を拾い、ホテルまでの水先案内人としてお願いした。
きっと翁はチェチェン戦争で大変だったんだろうな。。。 -
ウラジカフカスで2泊したウラジカフカスホテル。見た感じソ連時代はインツーリスト系のホテルだったのだろうか。一泊3000円程度で朝食つきは非常にリーズナブルだ。
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古いホテルなので部屋は狭いが、別に不便もない。これで3000円は安いでしょ?
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朝食はバイキング形式で、カーシャも蕎麦のものもあった(写真は麦のもの)。。
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ホテルの斜め横に位置するムフタロフモスク。1908年に建設された。天気が良いときはバックにコーカサス山脈が見え、とても景観が素晴らしい。
北オセチア共和国のムフタロフモスク by worldspanさんムフタロフモスク 寺院・教会
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ホテルの前の様子。ウラジカフカスは緑が多く、コーカサスで最も美しい町だと言っても過言ではない。ただ残念なから雨だとその美しさをお伝えするのがとても難しい。
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ウラジカフカスは、バクーからロストフまで走るフェデレーションロードから外れており、コーカサス山脈の麓に位置しているが、ロシアの政策上、非常に重要な役割を演じた町でもある。
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ウラジカフカスはロシアがコーカサスへ南下政策を進めていた1784年、ロシア皇帝パーヴェル一世の時代に帝政ロシアにより築かれた要塞が町の起源だという。
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ウラジカフカスとは、時の陛下の「コーカサスを占領せよ」といった勅命からその名がついた。カスカスとは、ロシア語でコーカサスをさす。
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北オセチアは1774年に帝政ロシアに組み込まれ、ロシア化が進められ、他のコーカサス地方と比べると、帝政ロシアが最もロシア化に成功した地域といえる。
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オセット人たち。確かに濃い。。。
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オセット人はアラン人を祖先とするイラン系民族と言われ、コーカサス系民族が多いコーカサスでは異色といえる。こうしたこともオセット人がコーカサスで生き抜くためにロシア化を受け入れた一因になっているのかもしれない。
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北オセチアのオセット人とグルジアから独立を宣言した南オセチアのオセット人は民族的に同一といわれ、ソ連の政策によりオセット人は南北に分断された。
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南北オセチアはコーカサス山脈を隔てているが、民族的には同族である。南オセチアはソ連時代にグルジアに組み込まれたが、それでも「ソ連」という同一国家なので、通行に、支障がなかったが、ソ連が崩壊すると南オセチアは激変した。元々グルジア人とは異なる民族で、ロシア正教を信仰する人が多く、グルジアよりもロシアに親近感をもっていたので、ロシアへの編入を目論むも失敗し、グルジア政府は南オセチアの「自治」を剥奪したことから独立を宣言し、 グルジアと南オセチアは戦争となった。
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南オセチア共和国の独立戦争では北オセチアからも多くの義勇兵が加わったと言われている。
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話は北オセチアに戻り、オセット人の祖先、アラン人は8世紀に東方正教会を受け入れたので、オセット人は帝政ロシアの支配に他のコーカサス民族と異なり大きな違和感を持っていなかったのかもしれない。
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そのためか、ウラジカフカスの町並みはまるでロシアの地方都市にいるように感じるほど、ロシアの町並みと瓜二つで美しい。
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出窓がある建物って素敵だ。とはいえ、強度がとても気になる。
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帝政ロシアが北コーカサスに南下したのは18世紀以後だったが、チェチェン人やアヴァール人などコーカサス系の民族はロシア支配にたいして激しく抵抗した。
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特にイングーシ人やチェチェン人は激しく抵抗した。
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北オセチアは帝政ロシアにとってコーカサス征服の重要な足ががりの要所でもあった。
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北オセチアの南には5000メートル級の山が連なるコーカサス山脈が横断しているが、ウラジカフカスからコーカサス山脈を越え、グルジアへと達する道路は古来からあり、グルジアをはじめとする南コーカサスの支配のために峠道は整備され、軍用道路として活用された。
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帝政ロシア時代にはウラジカフカスから南コーカサスに侵攻し、グルジア王国をロシアの治世下に治めた。北コーカサスも手中に入れた。
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その当時からオセット人は北コーカサスの中でもロシアに友好的であり、異色だったので疎まれることもあった。オセット人と周囲のコーカサス系、特にイングーシ人の感情が悪化したのは第二次世界大戦以後だ。
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ウラジカフカス近郊のギゼリという町に大祖国戦争でオセット人がドイツ軍と戦い、ドイツ軍を撤退せしめた勇者達を讃える場所がある。
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ドイツ軍はソ連の生命線でもあるバクー油田を目指し南下し、ウラジカフカス付近にまで達した。そして、油田のあるチェチェン共和国のグロズヌイ近郊まで迫った。
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ドイツ軍は補給がままなっていないことに加えオセット人達の激しい抵抗を受け、ドイツ軍はコーカサスから撤退することになった。ドイツ軍の最遠進地点はこの北コーカサスまでとなった。
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一方チェチェン人やイングーシ人は、帝政ロシアの侵攻に激しく抵抗し、ソ連時代になっても独立の野心をもっていた。そのため、ドイツ軍と連携し、ソ連軍に対してパルチザン活動をしていた者も少なくなかったと言われている。とはいえ、3万人のチェチェンやイングーシ人は赤軍としてドイツと戦った。
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しかしグルジア人の当時のソ連の指導者、スターリンはチェチェン人やイングーシ人に対しての猜疑心が強く、ドイツ軍が撤退後の1944年にチェチェン人やイングーシ人をシベリアや中央アジアに強制移住させ、多くの者が命を落とした。
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そしてチェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国は廃止され、北オセチア等により三分割された。
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1957年フルシチョフの時代になり、ようやくチェチェン人やイングーシ人はコーカサスへの帰国が許され、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国は再興した。
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しかしイングーシ領だった一部の地域はそのまま北オセチアには帰属したままとなり、今日に至るまで北オセチアとイングーシが領土を巡り険悪な状況になっている。
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そしてソ連が崩壊した1992年、北オセチアとイングーシで武力衝突が発生した。
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結果的にロシアの仲裁により紛争は終息したが、イングーシと北オセチアは休戦状態にある。
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北オセチアは南コーカサスを抑える意味でも重要な役割をもっており、北コーカサス随一のロシアへの友好国故に優遇的な措置を受けていることもあったので周辺諸国から疎まれていた。
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こうした妬みややっかみ、イングーシとの対立がチェチェン人達等により構成されたテロリスト集団が北オセチア共和国の第3の町、ベスラン学校をターゲットにしたといわれている。
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因みにウラジカフカス初日の夕食はロシアのカニ煎餅とビールだ。
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2004年9月1日、チェチェン人を中心とするテロリスト集団が北オセチアの町、ベスランの学校占拠事件を引き起こし、多くの子供たちが犠牲となった。
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ロシアに友好的な北オセチアだが、経済は苦しい。
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タクシーの運転手の話では、平均的な月収は日本円換算で3万にもたりないという。
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立派な駅舎のウラジカフカス駅。ウラジカフカスは北コーカサスを横断する路線からコーカサス山脈方面の奥ばった場所に位置するのでターミナル式の駅になっている。
ウラジカフカス駅 by worldspanさんウラジカフカス駅 駅
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ウラジカフカスにはトラムの路線がいくつかある。
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ウラジカフカス駅横にはマルシュルートカの駐車場がある。周辺にはカフェやお土産店もあり、列車に乗るまでにくつろぐこともできる。因みにウラジカフカスからモスクワまでの寝台列車は二泊三日のようだ。
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駅前にはマルシュルートカ乗り場があるが、何処に何処行きのマルシュが止まっているのか今一つ良くわからない。
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駅前付近にはレンガ造りのレトロな建物が多い。
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駅前を歩いているとカフェバルセロナというお店を見つけたので、ランチをとることにした。
北オセチア共和国のカフェバルセロナ by worldspanさんカフェバルセロナ カフェ
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メニューを見ると、なんと和食のメニューが!
エエーッ!名前がバルセロナでしかもカフェで和食メニューって!北オセチア共和国のカフェバルセロナ by worldspanさんカフェバルセロナ カフェ
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良く見ると、その他にも中央アジア料理のラグマンも取り揃えている。要は何でもござレのお店のようだ。
試しに和食を頼もうとも迷いはしたが・・・北オセチア共和国のカフェバルセロナ by worldspanさんカフェバルセロナ カフェ
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絶対に日本人の口に合わないと思い、なんの変哲もない料理を頼んだ。ウェイトレスにはオススメの北オセチア料理を頼んだつもりでいたが、、、
ここでは日本料理を頼まなかったものの、「日本食レストラン」の看板を掲げたお店を三店も見つけたので、結局翌日の夕方に物は試しと、食べに行くことにした。北オセチア共和国のカフェバルセロナ by worldspanさんカフェバルセロナ カフェ
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ウラジカフカスを一望できる丘がある。そこには青色の美しい教会がある。
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教会はオセチンスカヤ ツェルコフ教会осетинская церковь。元々は1815年に建設された。
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丘の上にあるので市内を眺めることができる。
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観光客がいないのでとても静かだ。
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教会の近くをトラムが走る。
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テレク川のほとりにはアルメニア教会もある。
北オセチア共和国のアルメニア教会 by worldspanさんアルメニア教会 (ブラジカフカス) 寺院・教会
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残念ながら入口は固く閉ざされていたので入ることができなかった。
北オセチア共和国のアルメニア教会 by worldspanさんアルメニア教会 (ブラジカフカス) 寺院・教会
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二日目の夕方、市内の中心部に出てみると、ミール大通りは歩行者天国になっていた。
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市民が散歩を楽しんでいる。
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ウラジカフカスには何と日本料理店が市内中心部を歩いているだけで三店舗もあった。それにしても「トーキョーパブ」って言うネーミングは。。。。。
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こちらは別な日本料理店。
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チェチェンといい、ここ北オセチアといいこれだけ日本料理店を見つけるといったいどんなものなんか食べてみたくなった。とりあえず「焼き鳥屋」と書かれた日本料理店に行ってみることにした。
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これまでリトアニアなどの日本料理店で食べたことがあるが、不幸なことパチもんが多かった。例えばカツ丼を頼むと、刻んだ玉ねぎの上にカツが置かれ、更にスクランブルエッグをのせた後ケチャップがかけられてるものとか、寿司は米がパサパサとか。。。
ここのお寿司はどうじゃろうか??? -
海のない北オセチアで海鮮串があるとは。とりあえずたのんでみた。
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トータル2,000円くらいだったのはお得感があった。
しかしやはり口に合わない(笑)。寿司はシャリが硬い(最後にジャーに残ったご飯でカピカピになる手前のようなかんじ?)。
寿司を口の中に入れると何かムニュッとした。実は寿司にマヨネーズが挟まっていることに気づかず食べたものだから、食感がメチャクチャ気持ち悪かった。マヨネーズとわかって食べればそうでもないけど。。。オセット人には是非全うな日本食を味わってほしい。。。 -
普通に食べることができたのは海鮮串。とはいえ、半生なのが非常に怖い。幸い当たることは無かったが。
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極めつけに不味かったのがこの酉飯。
こういう日本料理店って、中国人が作ってることが多いので、中国人ならご飯ものの料理はきっと美味しいだろうと見込んで注文した。
現に店内には中国人のようなコックもいたし。。
ところがこの酉飯、油が回りまくってベトベト。見てからにテカテカしてる。。。自分が作った方が、よっぽど美味いわ。。。 -
中心部のミーラ大通り
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翌日の朝食。前日と変わらないが、ここのカーシャは美味しくてお代わりをするほど。
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ウラジカフカスを発つこの日、ダゲスタンで晴れ間を見て以来日、雲の隙間から太陽の光が差し込んできた。四日ぶりのことだ。
ウラジカフカスを発つ前、どうしてもいきたかった場所があった。それはベスランの慰霊碑だ。 -
ベスラン学校占拠事件の慰霊碑。
自分は子を持つ親としては、この占拠事件をどうしても忘れることができない。つい最近のことのように覚えており、テロリストが襲撃したベスラン第一学校は襲撃されたその日、入学式でおめかしした小学生と両親がかなりいたときく。 -
三日間に及ぶ拉致の中、人質の1100名は体育館に押し込められ、暑さで危険な状態だった。体育館には天井から爆弾がいたるところにつるされた状態だった。 -
危険な状況下、教員のアリコワ先生は生徒を励まし、尿で水分補給をさせるなどギリギリのところで子供たちの命を繋いでいたと言われている。
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9月3日、爆発と同時に特殊部隊や、学校に押し寄せていた父親たちは自宅にあるカラシニコフ銃を持って突入するなど大混乱だった。
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アリコワ先生は混乱の中、子供たちを体育館から逃がしていたそうだが、体育館でテロリストがその後に起爆させ、この爆発でアリコワ先生や近くにいた子供たちも犠牲になった。
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突撃時、特殊部隊が11名、警察も8名犠牲になった。特殊部隊の中にはテロリストが子供たちに向けて投げた手榴弾に覆いかぶさり、身を挺して救おうとして殉職した隊員や、傷ついた人質を解放しているときに急襲され命を落とした隊員、人質への発砲にたいして自ら盾になって犠牲になった隊員、人質の脱出を誘導しているときに銃撃されなくなったものなどいた。 -
殉職した隊員の中には結婚を目の前に控えている隊員や、結婚したばかりの隊員、小さな子供のいる隊員もいた。しかし彼らは自分のおかれた私情を省みず、全力で人質になった子供たちを救おうとした。
このテロが 生み出したものは一体なんだったんだろうか? -
慰霊碑に行ったあとは、ベスランにあるウラジカフカス国際空港からS7航空のグループ会社でモスクワへ。
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この旅行記へのコメント (2)
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- Salaamさん 2019/02/05 03:56:17
- カスカスの安定に驚きました。
- worldspanさん、こんばんは。
コーカサス地方と言うとやはりチェチェン紛争や南オセチア紛争など血生臭いニュースが印象深く、そして今でも火種となりかねない民族間対立や感情が燻っているイメージが強いですが、対イングーシ感情を除けば今回の旅行記を見る限りだいぶ旅行がしやすい地域になってきたようですね。
しかしながら、やはり紛争の爪痕が色濃い旅になられたように伺え、とりわけ今回のベスラン学校襲撃は最たるものと拝読しました。
ロシアのような広大な国で、それを纏めるには幾分強権的な支配が必要であることは想像に難くないですが、毎度この地域(とクリミア)の事になるとなんとかもう少しうまく事を運ぶことが出来ないものか(双方共に)、と考えさせられてしまいます。
拝読しているだけで心が痛む、なんとも痛ましい事件でしたが、今となっては着実に平和が訪れているようで今後平安が続く事を願うばかりですね。
ところで現地レストランの日本語メニュー、「キムチ」やら「北京風」やらの文字がちらほら見えますが、彼らの日本に対するイメージや如何に…。
説明文を拝読しただけでもイングーシが興味深そうだったがばかりに、実際通過だけとなってしまったworldspanさんとしては無念だった事でしょう。
そしてロシア語のウェブや文献を駆使して情報収集する語学力と行動力に常々脱帽する次第です。
Salaam
- worldspanさん からの返信 2019/02/05 08:22:41
- Re: カスカスの安定に驚きました。
- Salaamさん
こんにちは。
全く同感です。最も単純な解決策は分離独立することなのでしょうが、ロシアは絶対に許すはずもないので、北カスカスが安定するにはお互いの意見を尊重仕合ながら融和の道を歩むしかないとおもうのですが、なかなかうまくいかないものです。
日本料理はロシアでブームになっており、モスクワなどの大都市ではそれなりに洗練されているようです。しかし北カスカスにもなると、日本人が作っているわけでもないので、「なんちゃって日本料理」になり、韓国料理も中華も日本料理と混同しているのかも知れません。彼らからすると日本人がロシア料理とポーランド料理も、ダゲスタン料理も一緒でしょ?と、同じ感覚かもしれませんね。料理と一緒にするのもなんですが、北カスカスの政治もこれぐらい融和すればいいのでしょうが。。。
worldspan
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