2018/08/23 - 2018/08/23
6074位(同エリア19687件中)
熱帯魚さん
歴史、文化に興味があるので
いつか行ってみようと思っていながら
今まで一度も行ったことがなかった
香港歴史博物館!
博物館の複製や写真を見るよりも
実物(歴史建築とか海とか村とか)を
見に行きたくなってしまうし、
性格的に博物館に行くと端から
端まで見て回りたいタイプなので
行くとなると気合いが必要(笑)
この日はちょうど天候が不安定で
どこにも出かけられないなーと
思っていましたが、よく考えたら
ん?これ博物館日和じゃん!!
ってことで、出かけてみました。
ものすごく広くて、見どころ沢山
だった歴史博物館。
香港の知らなかったことを学ぶことが
できて、有意義な午後を過ごせました。
町歩きがより楽しくなりそうです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 乳幼児連れ家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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朝から雨。お昼ごはんを家で食べて、外を見ると雨が止んでいたのですがまだ不安定なお天気だったので、MTRでお出かけ。向かったのは尖沙咀。
〇 尖沙咀駅
改札を出ると、張家輝のアンメルツの広告が!!張家輝はとても好きな俳優さんなので、写真撮っちゃいました( *´艸`) -
さて、駅を出ると、驚きの青空。あれーーー?荃灣はどんより空だったのに。
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久しぶりに都会に来ました(笑)
チャーリーブラウンカフェが許留山とサテーキングにかわってて驚き!! -
よく出張でここのパークホテルには泊まったなぁ。
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建物が見えてきましたー
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え、ちょっと待って。歴史博物館から赤いジャージを着た団体が…中国人の団体に違いない(^_^;)
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〇 香港歴史博物館
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チケットを買おうとしたら、The Hong Kong Storyという常設展示はチケットが必要ないということだったのでそのまま展示を見に行きました。
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香港の自然形態の展示から。
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大昔の香港…石器時代とかそんな感じ?
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レプリカの銅器。南越国のものだったと思います。
南越国といえば、広州で行った南越王宮博物館。
https://4travel.jp/travelogue/11191773 -
李鄭屋漢墓の構造。
李鄭屋漢墓は李鄭屋漢墓博物館として一部公開されています。
https://4travel.jp/travelogue/11093537 -
おおーーこれは、大廟灣の天后宮じゃないですか!!実は毎年行ってる天后廟です。これは1920年ごろの写真だそうですが、今と全然変わりませんね。
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今は無き、九龍寨城。
今はその跡地に公園ができています。
あの九龍寨城公園へ!:
https://4travel.jp/travelogue/10806772 -
これはすぐにわかっちゃいますね。屏山の聚星樓です。1970年ごろの写真だそうです。
何度も行っていますが初めて行ったときはこんな感じでした↓初めての聚星樓は工事中だったみたいです。
https://4travel.jp/travelogue/10444683 -
上の方は今の深センです。
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錦田の吉慶圍の模型がありました。
今はここまで古い家は残っていません。でも村を囲む壁は残っています。
500年の歴史を持つ城壁が残る城壁村「吉慶圍」を訪ねて:
https://4travel.jp/travelogue/10411854 -
そして九龍寨城の模型。
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こちらは1950年ごろの東涌炮台です。割と草ぼうぼうで放置されたままになってますね。
今の東涌炮台はこんな感じ↓
https://4travel.jp/travelogue/11197867 -
1910年ごろの九龍寨城。奥の海岸が九龍灣。
今と全然違いますねー -
さて、清代までの歴史を見終わった後は、香港の民俗に続きます。
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19世紀中葉前、香港の原住民は主に「本地人」「客家人」「水上人」「福佬人」の4族群で構成されていました。本地人は北宋年間(960~1127年)ごろに香港にやってきて、肥沃な大地に住み、農耕や畑の賃貸、店舗の経営などで生計を立てていました。客家人は同じく農耕に従事していましたが、香港に移住する時期が本地人と比べて遅かったため、多くは比較的辺鄙な、もしくは不毛な大地に住み、村を建設しました。水上人は主に珠江流域、広東、広西沿岸に分布し、船の上に住み、漁業を生業としていました。福佬人は中国東南部沿海の恵州、海豊、陸豊など出身で、香港に移住してからは、その多くが漁業に従事しました。
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イチオシ
それぞれの族群の生活がわかりやすく紹介されています。
まずは水上人から。水上人は広東語を話し、船の上に住む人々で、その活動範囲は広東と広西地区。多くが漁業、カキの養殖、真珠採取、魚の塩干し、水上運輸などに従事していました。昔は、水上人と陸上住民の区別がはっきりとしていて、水上人は漁業で取れた魚の販売や飲茶の時だけ、陸に上がったそうです。 -
蝦醤の作り方。大澳は蝦醤がとても有名で、これを干している風景が見られます。↓こんな感じです。
https://4travel.jp/travelogue/11019721 -
漁業の道具。
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船の中。
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魚の塩干し。
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イチオシ
お次は、福佬人。ミン南語系統の福佬語を話す人々で、その風俗や服飾は広東省のその他族群とは明らかに違いがあります。たとえば衣飾についていえば、福佬女性は髪をお団子にし、かんざしなどで飾ることを重視しています。また、彼女たちが着る伝統的な服飾は、脇を止めるタイプの、ぴったりした長袖のシャツで、鮮やかな色合いをしています。
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また彼女たちが縫い上げる子供服やおんぶひもは、カラフルな糸、スパンコール、鈴や花の刺しゅうで装飾されています。
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水中の不純物を取り除き、製塩する作業。
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そして本地人。北宋(960~1127年)末年、女真族が大挙して中原を侵略したことから、中原に住む人々は宋室とともに争いを逃れて南下し、その一部が香港に移住しました。彼らは現在の新界の肥沃な平原に村を建設しました。その子孫たちを本地人と呼ぶようになりました。本地人は広東語の圍頭語を話し、農業に従事し、それと同時に、畑の賃貸や店舗経営で収入を得ていました。彼らは一族で居を構え、泥棒の侵入を防ぐために、壁で囲まれた村(圍村)を建設し、その中に住んでいました。
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本地人は特に先祖を大切にし、一族のつながりを大切にする人々で、祖先をまつったり、祭事を行ったりするために祠堂を建設しました。
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イチオシ
祭りごとの際には、村では盆菜宴が設けられ、広東オペラの上演などもありました。
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七姐誕の七姐衣。
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天后誕についての紹介も。これは毎年見に行っているので、見慣れていますが…
https://4travel.jp/travelogue/11128091 -
占い。
あのトラさん天后宮で見たことがあります。
https://4travel.jp/travelogue/11112971 -
これは形が特徴的なのでわかりやすいです。大坑の蓮花宮です。
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そして客家人。客家人はもともと黄河以北の中原地区から歴史の変遷とともに大移動をしてきた人々で、華南地区に広く分布しています。清代の康熙23年(1684年)以降、福建、江西、広東の東江、北江、韓江流域から香港に移住してきました。移住した時期が比較的遅かったため、彼らは不毛な山地に村を建設するしかありませんでした。客家人は農業を生業とし、生活は質素で、勤勉で苦労も厭わないといわれてます。男女ともに、青や黒のシンプルなシャツとズボン姿。女性は家事のほかに、畑仕事やレンガ造り、縄作り、染め物などをしていました。食生活もいたってシンプルで、祭りごとの際に、茶粿を作りお祝いしていました。
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畑仕事をする客家人の女性。
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客家人の住居。
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いたってシンプル。
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寝室。
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1910年代に荃灣にあった伝統家屋。
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広東オペラの舞台裏。
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イチオシ
太平清醮の際に設置される神様。紙でできています。本地人は、城隍、白無常、大将、福佬人は、土地と山神をまつることが多いそうです。族群を超えて共通しているのは、大士王で、どの族群でもまつられています。大士王は鬼王ともよばれ、観音の化身の一種とも信じられています。
私はお祭りに行くと設置されているこの神様たちが何か知りたかったので、とても勉強になりました。 -
太平清醮。
このお祭りで有名なのが長洲島です。
https://4travel.jp/travelogue/11132636 -
お祭りに欠かせないのが広東オペラ(潮州人の住むところでは潮州オペラ)
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香港に来て初めて見た麒麟舞。お祭りに行くとついつい麒麟を探してしまう私…
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イチオシ
木の人形劇。これもお祭りの際行われるそうですが、私は見たことがないです。今は新界の一部の圍村でしか行われていないそうです。いつか見てみたいです。
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まだまだ続きます。
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アヘン戦争と香港割譲
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1842年、南京条約で、香港島が清朝からイギリスに永久割譲されました。
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南京条約。
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1860年、南京条約で新たに九龍半島南部が割譲されました。
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割譲後の香港は、瞬く間にイギリスの対中アヘン貿易の中心となりました。しかしアヘンだけでなく、多くの合法貿易も行われていました。商人たちは香港を経由地とし、羊毛、衣類、金属、インド生綿などを中国内地の沿岸に流通させました。逆に中国から香港を経由して輸出されていたのは、茶葉、シルク、磁器、竹蓆、糖、顔料などでした。
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1865年3月3日、香港上海銀行(HSBC)がイギリス植民地下の香港で設立されました。
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昔はこんな感じだったようです。
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当時の街並みを再現した通り。
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乾物、お米、調味料を売るお店。
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お茶屋さん。
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漢方薬のお店。
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当時の香港の社会問題として、人身売買があったそうです。19世紀末、この問題はかなり深刻になり、人身売買を生業とする輩が、華南地区で少女を買ったり、誘拐したりして香港に連れてきて、香港で売ったり、海外に転売したりしていたそうです。当時の香港では、保良局だけが女性の保護をする機関で、少女の誘拐や売買を阻止していましたが、実際にこの行為が違法と制定されたのは1929年になってからでした。保良局の展示を見に行ったことがありますが、そこにはもっと詳しく当時の状況が紹介されていました。
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そしてやってきました、日本統治時代の香港。
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トラムで記念写真を撮る人多数。
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こちらが展示です。
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上は大埔墟の橋を渡る日本軍。
下は尖沙咀駅を攻撃する日本軍。 -
軍事手帳、盃、拳銃。
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青衣島に上陸した日本海軍陸戦隊。
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日の丸の旗の展示もありました。
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香港や大東亜戦争で戦死した日本軍兵のために記念碑を建設中でしたが、日本軍が投降した時にもまだ完成しておらず、のちに爆破されたそうです。
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イチオシ
香港占領地総督部の木の看板。
日本統治時代、日本軍は中環にあるHSBC本店ビルを香港占領地総督部として使用し、正門にこの木の看板を設置していました。 -
ピークトラム乗り場に、チャイナドレスと着物姿の女性が。
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降伏式の様子。
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イチオシ
無条件降伏。
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無条件降伏の文書に調印。
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ふたたびイギリスの統治下に。
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近代都市と香港返還
出た出たー -
このあたりから香港返還までが香港の一番いい時代だったのかも。
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今でも深水ポーとか歩いているとこういう理髪店があったりしますが…
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香港の旅行業の発展。
私の祖父は香港が大好きだったのですが、こういう写真を見ると祖父を思い出します。祖父と祖母とは何度も一緒に香港に遊びに来たのですが、祖父はちょうど香港返還の翌年に亡くなり、返還後の香港を祖父と歩くことはありませんでした。 -
工展會のはじまり。
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イチオシ
そして香港返還へ。
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最後の写真…やっぱりこれになっちゃうのね…
結構じっくり見てしまった博物館の常設展示でした。普段はゆっくり本を読んだりしないので、こうやって改めて自分が歩いた香港を振り返ったり、香港の歴史を学んだりすることで、また香港散歩がより楽しいものになりそうです。
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